古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「塚(三基)」

「塚(三基)」

 『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号107番に「塚(三基)」という名称の中世の塚が登録されています。そのままじゃないか!というネーミングもさることながら、まだ開発の手の及んでいない青梅市内の山林に存在する塚ということで、かなり良い状態で残されているのではないかという期待感もあり、見学に訪れてみたのですが。。。

 というわけで、画像は、青梅市塩船にある「塩船神明社」です。『東京都遺跡地図』の分布図を参考にすると、鳥居をくぐって参道を登った山の中腹に社殿があり、更にその奥の裏山の頂部か尾根のあたりに塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 この場所を訪れるにあたって、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』からプリントアウトした地図を参考にしました。ネット上の遺跡分布地図に記された塚の位置が、必ずしも正確なのもではないことは理解していましたが、3基の塚が山林に存在しているなら、すぐに見つかるだろうと思っていました。
 画像は、塩船神明社の社殿のようすです。背後に見える裏山を100メートルほど登れば、3基の塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 画像は、塩船神明社裏山の山頂に行き着く直前の丘陵斜面のようすです。
 神明社の境内社の裏から塚の所在地と思われる山の頂部を目指して登って行ったのですが、なんと!山頂に辿り着く直前にカメラの電池の残量を使い切ってしまって、塚を発見できたとしても写真に収めることが不可能な状況になってしまいました。掲載した画像は、山頂にたどり着く直前の、この日の最後の一枚です。しかもこの日は、転倒して肩を痛めてしまっていたので、心も折れてしまっていたかもしれません。。。
 その後、丘陵頂部の平坦な場所までは登って行ったのですが、塚を見つけることはできずに、深追いせずに諦めて山を降りてしまいました。

 その後に調べてみたところでは、青梅市郷土資料館より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺南方、吹上との境をなす尾根上」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「山地斜面 3基、部分消滅、径5m」とも書かれています。ひょっとしたら山頂の平らな地点ではなく、周辺のどこかに塚が残されていたかもしれないのですが、今となっては後の祭りですね。。。
 いつかリベンジのチャンスがあればもう一度チャレンジしようかとも思っていますが、今のところその機会はありません。
 うーん。見逃していたかもしれないなあ。。。

<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』


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  1. 2018/05/25(金) 01:39:39|
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「白井塚古墳」

「白井塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉3丁目に所在する「白井塚古墳」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号58番に登録されている古墳です。

 この周辺は〈狛江百塚〉と呼ばれ、江戸期にはすでに人々の関心を集めていました。江戸時代の地誌類にも多くの記述が見られ、『武蔵名勝図会』の和泉村の項には「この地并に近村に古き塚多し。謂われあることならんに、絶えて土人の言伝えも聞かず。」とあり、また古塚の項には「大なるは六ケ所、小なるは三ケ所」とも記されています。おそらくは「大なるは六ケ所」という古墳の中にこの白井塚古墳が含まれているのかもしれません。「江戸時代後期の『世田谷領二十ヶ村絵図(嘉永年間頃)』や『和泉村彩色絵図(年代不詳)』にもにもこの白井塚が描かれているようです。
 
 昭和51年(1976)2月には、述べ10日間にわたる調査が行われており、古墳全景の測量や周溝の位置が記録されています。墳丘の規模は、円墳であるとするなら直径36m内外、高さ3.5mで、墳丘の周囲を幅2mのテラスと幅約10mの周溝が取り巻いていることが判明しています。
 白井塚古墳の形状は、1961年に西側が2/5ほど、またそれ以前に南側が1/4ほど削平されているようですが、北東部は良好に残されていて埋葬施設の破壊は免れているのではないかと考えられています。造り出し付きの円墳や前方後円墳など、円墳ではない可能性も残されているようです。


「白井塚古墳」

 墳頂部には、鳥居が建てられており、その奥には稲荷大明神の祠が祀られています。
 白井塚古墳は、狛江古墳群の中では比較的大型の古墳です。兜塚古墳や絹山塚古墳と類似する規模で、帆立貝式古墳である亀塚古墳の後円部ともほぼ等しいとこから、古墳群の造営にあたって何らかの統一的企画が存在していた可能性も考えられているようです。
 白井塚古墳の埋葬施設は竪穴系であると推定されており、これも亀塚古墳や絹山塚古墳、亀塚古墳などと年代的に近似していると考えられています。白井塚古墳の築造は5世紀後半から6世紀前半と推定されています。


「白井塚古墳」

 墳頂部から見下ろして見たところ。
 周囲はかなり削平されてしまっているようですが、高さはまだ残されているようすがわかります。


「白井塚古墳」

 画像は、墳頂部に建てられている「稲荷大明神」と刻まれた石碑です。
 稲荷祠に祭られている棟札の1枚に「文化十年寅年二月初牛」と記されていることから、この祠が少なくとも江戸時代後期には建てられていることが判っており、またその以前から稲荷大明神が祀られていると推定されているそうです。。。


「白井塚古墳」

 墳丘には、散在する河原石が見られることから、葺石の存在が考えられているようです。


「白井塚古墳」

 西側の路上から見た白井塚古墳のようすです。建物の間から、墳頂部の祠を見ることが出来ます。
 古墳を削平した際の断面には、ロームの赤土がいくつもの層にわかれた古墳の築造当時のもようがはっきりと残っていたそうですが、古墳の周囲は宅地化が進んでいて見学は困難な状況でした。

 当日は、土地の所有者の方に許可を頂いて古墳を見学させていただきました。ありがとうございました。
 白井塚古墳は、狛江古墳群の解明にあたって重要な位置を占める、貴重な文化遺産であると思います。
 今後も良い形で保存が行われるとよいですね。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』


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  1. 2018/05/15(火) 23:25:28|
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「東塚古墳」

「東塚古墳」

 「東塚古墳」は、狛江市中和泉1丁目に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号46番の古墳として登録されています。画像は、この東塚古墳を東から見たところです。

 この古墳は、昭和62年(1987)に墳丘の測量と発掘調査が行われており、古墳周溝の北東部分が検出されています。現存する墳丘は、南東側の墳端から墳丘中腹にかけてと、西側墳裾部が削平されており、また南側中腹も局地的に大きく削られています。発掘調査と並行して行われた墳丘測量の結果、本来の墳丘径は径35m、高さ5m、墳頂平坦部径8mの円墳で、従来考えられていたよりも若干大きいことがわかっています。また、墳頂部近くにテラス状の部分が認められることから、墳丘が二段築成である可能性も考えられるようです。


「東塚古墳」

 画像は、南から見た東塚古墳のようすです。
 大きな石が何段にも積まれており、見た目は庭園の築山という印象です。
 この古墳の埋葬施設については、墳丘の発掘が行われていないことから未確認であるようです。また、以前より葺石の可能性が考えられていましたが、これも調査の結果、確認されなかったようです。周溝内からは、土師器片のほかに、2種類の円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が検出されています。


「東塚古墳」

 古墳の南側から、墳丘に登れる石段が造られています。早速、登らせていただきました。


「東塚古墳」

 石段の途中のようすです。さらに登っていきます。


「東塚古墳」

 墳頂部が見えてきました。
 石段は登っていくに従って段々小さくなっていくのですが、ひょっとして古墳が大きく見えるように計算して造ったのでしょうか?


「東塚古墳」

 墳頂部のようすです。竹林となっている中に鳥居が立てられており、その奥には祠が祀られています。


「東塚古墳」

 かつては「百塚」とも称せられた狛江の大古墳群も、その後の開発による削平が続き、残存する古墳はわずか十数基です。今、残された古墳だけでもなんとか保存されないものかと願うところですが、狛江の街も少しずつ開発が進んでいるようです。
 いっそのこと「古墳の街」とか言って大々的に町おこししちゃえばいいのに、と思うんですが、なかなか難しいでしょうかね。徒歩数分の場所にこれだけ多くの古墳が残されているのは東京都内でも狛江だけですし、良き開発が行われることを願いたいものです。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/13(日) 22:07:46|
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「松原東稲荷塚古墳 その2」

「松原東稲荷塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉1丁目にある「松原東稲荷塚古墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号48番に登録されている古墳です。

 狛江古墳群は和泉、猪方、岩戸と、大きく3つの支群に分けられており、この「松原東稲荷塚古墳」は和泉の支群に属しています。東方100mには「東塚古墳」が現存しており、北方100m程の地点にはかつて「絹山塚古墳」があったとされています。
 松原東稲荷塚古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、10番に「稲荷塚」という名称で取り上げられています。
 同書に掲載されている当時の記録によると、墳丘は西側の約3分の1が大きく削り取られており、また東と北の墳丘裾部も削平されて民家が位置していました。墳頂部には稲荷祠が祀られて、樫などの繁る屋敷森となっていたようです。これは、近年まであまり変わらない状況であったように思いますが、最近になって墳丘西側の2階建ての集合住宅が取り壊されており、また墳丘上に繁っていた竹などが伐採されて、古墳の全体が見やすくなっているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 昭和35年当時の規模は、東西径約30m、南北径約28mで、高さは、東側裾部で3.35m、南側で3.8mで、本来の規模は、径約33m、高さ約4mの円墳と推定されています。墳形は円墳とされていますが、帆立貝形の可能性も想定されているようです。
 画像は、西側から見た松原東稲荷塚古墳です。墳丘が大きく削られているようすを見ることが出来ます。
 墳丘には葺石が存在しており、10~20cm大の河原石が使用されています。また円筒埴輪の破片も確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 この大きく削平された墳丘断面には、巾3m、厚さ0.8mの主体部の礫部がのぞいています。上段墳丘の頂部から掘った舟底形土墳に5cm~15cmの河原石を充塡するように構築するとされています。画像が、内部主体ではないかと思われる現在の礫部のようすですが、調査から50年以上が経過していますので、墳丘の崩壊が若干進んでいるように見えます。
 その後の、昭和51年(1976)に行われた調査の際には、この礫部の断面から鉄鏃と刀子片が採集されており、礫部内からは直刀片が確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘の東側のようすです。こちらも、西側ほどではありませんが、若干削られています。
 民家の存在により土留めが行われているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 古墳の南側から墳頂部に登るための石段が造られています。
 土地の所有者の方にお断りしてお参りさせていただきました。早速登ってみます。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘上には、稲荷祠が祀られています。
 数年前までは鬱蒼とした屋敷森となっていたので、路上からこの稲荷祠を確認することは出来ませんでした。。。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳頂部から、削られている西側を見下ろしてみました。かなり高さが残されていることがわかります。
 「百塚」と呼ばれる程多くの古墳が存在した狛江市内も、そのほとんどの古墳が破壊されて消滅しています。それでも十数基の古墳が残存するという中、残された古墳だけでもしっかりと保存されると良いですよね。また、風化や崩壊が進まないうちにしっかりと調査が行われると良いと思います。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/11(金) 00:08:36|
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「将軍塚」

 前回は、所沢市に所在する「白旗塚」を紹介しました。この塚の周辺は古来よりよりしばしば合戦が展開されたといわれる地域で、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの小手指ヶ原に陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てた場所であるという伝承が残されています。
 開発によりほとんどが消滅してしまった首都圏の古墳や塚において、「塚に触れると祟られる」等の伝承が言い伝えられたことにより塚も崩されずに残された、という事例はかなり多く見られるところですが、白旗塚については、この新田義貞が白旗を立てたという伝承の存在と、後世に浅間神社として墳丘上に祠が祀られたことが、塚が崩されずに残された大きな要因であったと思われます。
 そして、所沢市内にはもう1基、古墳の可能性が考えられている塚が残存します。


東村山市「久米川古戦場」

 というわけで、画像は東京都東村山市諏訪町2丁目の西宿公園内に立てられている「久米川古戦場跡記念碑」です。
 この一帯も、小手指ヶ原と同様に新田義貞と鎌倉幕府軍との激しい戦闘が行われたとされる伝承地で、「久米川古戦場」の名称で東京都の旧跡に指定されています。
 記念碑の横に立てられている東京都教育委員会による説明板には、次のような解説が書かれています。

東京都指定旧跡
久米川古戦場
所在地 東村山市諏訪町二丁目付近
指 定 大正八年十月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓
一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永八年(一二七一年)
の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬
県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街
道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘三年(一三三三)五月八日、群馬県新田
町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵し
た新田義貞の軍勢は、十一日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉
軍を破り、翌十二日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行
われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』
によると、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわ
れる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約一九〇メートルの八国
山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根•大山)、甲斐(多波
山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国
の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武二年(一三三五)
の中先代の乱や応永二十三年(一四一六)と同二十四年(一四一七)
の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が
進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は、八国山山麓にあったものを文化
年間(一八〇四~一八)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町一
の二六)に移したものである。
 平成十年三月 建設
                       東京都教育委員会


 なんと、この説明板によると、八国山の所沢市側には「将軍塚」と呼ばれる塚があり、「白旗塚」と全く同じ、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承が残されていることが書かれています。
 これは見逃せない!ということで、早速この「将軍塚」の見学に訪れて見ました。


所沢市「将軍塚」

 画像は、所沢市松が丘1丁目に所在する「将軍塚」を南から見たところです。白旗塚と比べるとかなり小さな塚ですが、しっかりとマウンドが残されています。(真冬に訪れれば塚の形状がはっきり見えたかもしれないのですが、画像は2年前の5月のもので、残念ながらすでに草がぼうぼうに生い茂っていました。。。)
 塚の前には説明板歯が立てられており、次のように書かれています。

 将軍塚

 狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて
駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・
信濃の八か国の山々が望めたとこから八国山と
呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉
街道上道が南北に通っていた。
 元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒そうと上
州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指
ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分
倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝
利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるよう
になったと伝えられる。江戸時代に編纂された
「新編武蔵国風土記稿」には「此ニ一ツノ塚ア
リ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、こ
の塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚では
ないかとも記されている。


 所沢市内で古墳の可能性が想定されるという2基の塚が、ともに、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承の存在により崩されずに残されているというのは、なんという偶然かとびっくりします。
 ちなみに、小手指ヶ原や久米川で戦闘を繰り広げた新田軍はその後、分倍河原でようやく勝利となるわけですが、府中市内の「高倉古墳群」には、分倍河原の合戦で亡くなった戦死者を葬った塚であるとされる「首塚」や「胴塚」などの伝承が残されており、「首塚」や「耳塚」は現存します。また、府中市矢崎町2丁目には、東京都指定史跡である「三千人塚」も現存しています。


所沢市「将軍塚」

 画像のように、墳頂部には「将軍塚」の石碑が建てられています。


所沢市「将軍塚」

 将軍塚には、戦死した新田義貞方の武将たちを供養するための「元弘の板碑」と呼ばれる板碑が立てられていたそうです。現在この板碑は、東村山市の徳蔵寺の板碑記念館に移されて保管されています。
 将軍塚の場所には現在は「元弘青石塔婆所在趾」の石碑が建てられています。石碑の左奥に見えるのが将軍塚です。
 果たしてこの将軍塚が史実の通りに中世に築造された塚なのか、それとも古代に築造された古墳なのか、とても興味深いところです。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2018/05/08(火) 00:04:01|
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