FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「狛江百塚コンプリート2020」その4

13 兜塚古墳1

 前回に引き続き「狛江百塚コンプリート2020」、今回は「その4」です。

 最初の古墳は、「狛江古墳群地名表」13番に掲載されている「兜塚古墳」です。
 現存する古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号55番に登録されています。

 この古墳は昨年の9月9日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいところですが、東京都の史跡として指定されている古墳で、おそらく狛江市内では最もいい状態で残されている古墳です。
 古墳公園として整備、公開されていていつでも見学できる環境にありますので、古墳が好きな人には是非とも訪れて欲しい古墳です。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1020.html(「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー)


13 兜塚古墳2

 兜塚古墳の墳丘の様子です。

 私は、こうした古墳公園はとても好きな場所で、どうしてなのか心が落ち着くのですが(都内では他に、世田谷の野毛大塚古墳が保存されている玉川野毛町公園なんて最高ですよね。。。)、平らな敷地ではなく、公園内の小山のように盛り上がった墳丘の存在が心を落ち着かせるのかなあと感じていますが、ではなぜ小山があると心が落ち着くのか理由はわかりません。。。


14 無名古墳1

 画像は、「狛江古墳群地名表」14番に掲載されている「無名古墳」の跡地の様子です。
 地名表には所在地について旧番地で「和泉787」と記されており、伊豆美神社の前から歩いてくると、分かれ道になった間の三角地となっている場所です。
 今も道しるべをかねた馬頭観音の石塔が建てられており、かつての古墳の存在を思わせるような場所ですが、残念ながら古墳らしき痕跡は全く残されていないようです。。。

 ちなみに画像は、一昨年の東京文化財ウィークの関連事業にて、学芸員の先生の解説を聞きながら狛江市内の古墳を歩いたときのものです。
 残念ながら今年の文化財ウィークはほとんど行われませんでしたが、来年は復活するといいですね。。。


14 無名古墳3

 文政十年(1827)の道標を兼ねた馬頭観音です。
 現地ではゆっくり見る時間がなかったのですが、「西府中道、右当村地蔵尊・玉川渡し場道、左江戸青山・六ごう道」との刻銘があるそうです。


14 無名古墳2

 こちらは現代に建てられた丸石の道しるべ。
 「西 府中道 右 地蔵尊、渡し場道 左 江戸青山、六郷道」と記されています。
 右へ向かうと泉龍寺へと続く地蔵道。左へ向かうと品川道に合流する分かれ道です。。。


15 無名古墳

  画像は、「狛江古墳群地名表」15番に掲載されている「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
 所在地は、旧番地で「和泉791番地」とされている古墳ですが、すでに痕跡はなく、正確な所在地まではわかりませんでした。


16 白井塚古墳

 画像は、狛江市中和泉3丁目に現存する「白井塚古墳」です。
 「狛江古墳群地名表」には16番に記載されている古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号58番に登録されています。

 この古墳は2018年5月15日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいところですが、今後この古墳の整備も行われていくのではないかと思われますので、調査の進展が楽しみな古墳です。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-118.html


17 飯田塚古墳1

 画像は狛江市中和泉3丁目に現存する「飯田塚古墳」です。
 「狛江古墳群地名表」には17番に記載されている古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号57番に登録されています。

 この古墳は昨年の9月5日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいところですが、近年、古墳の周辺地域の宅地化が急速に進む中、この飯田塚古墳は破壊されずに残されました。
 宅地と宅地の間の細い参道を抜けると、削られて小さくなった墳丘を見ることができます。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1017.html(「飯田塚古墳」)


17 飯田塚古墳2

 墳丘上には「飯田稲荷」が鎮座します。


18 松原塚

 画像は、狛江古墳群地名表の18番に掲載されている「松原塚」の跡地周辺の様子です。旧番地で「和泉890〜888番地」に存在したとされる古墳で、古墳の痕跡はすでになく、正確な所在地はわかりませんでした。


19 長者塚古墳

 画像は、狛江古墳群地名表の19番に掲載されている「長者塚」の跡地周辺の様子です。旧番地で「和泉902番地」に存在したとされる古墳で、この古墳も痕跡はすでになく、正確な所在地はわかりません。


20 原塚古墳

 画像は、狛江古墳群地名表の20番に掲載されている「原塚」の跡地周辺の様子です。旧番地で「和泉930番地」に存在したとされる古墳で、この古墳も痕跡はなく、正確な所在地は不明です。


古墳?

 原塚の跡地近辺で見かけた、個人の邸宅内の築山。
 まさか、破壊された古墳の残骸ではあるまいなと考えましたが、真相はわかりません。

 というわけで今日はここまで。さらに次回に続きます。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/11/27(金) 21:34:40|
  2. 狛江市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「狛江百塚コンプリート2020」その3

「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社

 「狛江百塚コンプリート2020」その3。

 まず最初の画像は、狛江市中和泉3丁目に所在する「伊豆美神社」です。
 狛江(和泉)の総鎮守社であり、祭神は大國魂大神となっています。

 この神社の創建は寛平元年(889)九月二十日、府中の六所宮(現在の大國魂神社)の分霊を北谷村字大塚山(現在の水神社付近)に祀り、大國魂大神もしくは六所宮と称して鎮座したものです。
 その後、天文十九年(1550)の多摩川の大洪水により境内地が流失したことから同二十一年、現在地に遷座することとなり、明治元年(1868)に社号が伊豆美神社と改称されています。

 「狛江古墳群地名表」10番に記載されている「腰掛塚古墳」は、この神社の境内社である「御霊神社」の周辺に存在したとされています。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社2

 伊豆美神社の二の鳥居。

 注目すべきは、この神社の創建の地とされる字大塚山とは、大塚山と呼ばれる古墳の墳丘上であったといわれています。そして、天文二十一年(1552)に多摩川の大洪水により現在地に遷座した際、仮宮を奉安したのは現在の御霊神社の境内地である「腰掛塚」の墳丘上であったといわれています。
 つまりは、六所宮は古墳から古墳へ渡り歩いたといえるわけで、とても興味深い神社でもあります。。。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社3

 「腰掛塚古墳」の跡地が、現在の御霊神社の場所で本当にで間違いないのか、以前より少々疑問に感じていて、御霊神社の周囲をもう一度見ておきたいとい思っていました。また、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言も解除され、伊豆美神社の御朱印が再開されているということをネットで確認していましたので、伊豆美神社を参拝をして御朱印をいただきに行こうとも考えていました。
 それで、一ヶ月ほど前に思い立って狛江市内を散策しました。

 木の葉が散り始める秋頃からが、古墳の見学には最適な時期になりますからね。
 まして、近年の狛江は急速に開発が進み、残存する古墳の景観も日々変貌を遂げています。
 よく晴れた青空の映える日に、ゆっくりと狛江市内を散策することができました。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社4

 境内の立て札には「御霊神社は、当御祭神が腰を掛けた御腰掛塚です。神社改築の際一時奉安した由緒ある場所です。境内にある二十一個の御石をなで、体の痛い処をさすると、病が治るとされて居る有名な場所です。」と書かれています。
 さっそく、御霊神社に向かいます。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社5

 御霊神社横に建てられている「御霊神社碑」です。
 この碑文にも腰掛塚について記されています。

 御 霊 神 社 碑
 此の地は、古くから腰掛塚と称し、伊豆美神社の御祭神を多摩川の洪水により旧社地である大塚山(現在の水神社付近)から現社地に遷宮した際、仮宮を奉安した所とされる意義深い所である。
 1960年頃までに残存した形は、径15メートル程の起状があり塚の形態を残していた。又、此の地は往古御霊大神を鎮斎した、御霊神社跡地とも記されている。此の由緒に基づきここに御霊神社を再建する事にした。
 尚、参道の両端に配置した二十一個の石は、山王二十一社(山王一実神道)を祭った事から始まり、毎年七月二十一日は「御石祭り」と称し古式に則り祭典が行われていたと言う。この日は大変賑わったと伝えられている。
 参詣の人々等はこれらの御石をなで、その手で病におかされた所を撫で癒したと伝えられている。此の様に様々な歴史を辿り今に至っている。
今ここに其の形態は変わったが往古を甦らせ神霊を奉斎し鎮座す。
   平成九年七月二十一日    伊豆美神社




「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社6

 ここが御霊神社です。
 この場所が周囲よりもわずかに一段高くなっているので、この高まりがかつて存在した古墳の名残で、やはりここが腰掛塚の跡地なのかなあと考えていました。
 しかしその後、戦後の空中写真などで確認したところでは、現在の御霊神社の境内よりも少々東側にずれたあたりが古墳の跡地ではないかなと感じていました。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193395&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年3月29日に米軍により撮影された腰掛塚古墳跡地の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 画像の右下に見えるのが兜塚古墳で、左上の木立は伊豆美神社です。
 兜塚と伊豆美神社の間に小さな円形の影が確認できるのですが、おそらくこれが腰掛塚古墳であると考えられます。(ちなみに『狛江市農業協同組合史』の64ページには、昭和42年に撮影されたという腰掛塚古墳の写真が掲載されていますが、おそらくは高さ1m程度の、人が腰掛けるのにちょうど良いのではないかと思われる腰掛塚古墳の墳丘が、伊豆美神社の老松を背景に写っています。)

 この空中写真を参考にすると、現在の御霊神社の東側か南東側あたりが腰掛塚古墳の所在地なのではないかと想定されますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりませんね。。。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社

 画像の左側、フェンスに囲まれて高くなった場所が御霊神社です。

 おそらく、腰掛塚古墳は右隅の脚立のあたりか、その周辺に所在したものと思われますが、残念ながらその痕跡は残されていないようです。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社7

 御霊神社境内の様子です。

 最近刊行された『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』によると、腰掛塚の地所は伊豆美神社の所有地の飛び地となっていましたが、隣接する農地所有者との間で土地の交換分合がなされ、11坪ほどの土地が伊豆美神社の新たな地続きの境内地となり、そこに社伝に基づいて御霊神社が祀られることになった、ということであるようです。

 現在の御霊神社の境内地と実際の腰掛塚古墳の跡地がズレていると感じていたのは、そういうことであったようですね。。。

 御霊神社の参道両側には21個の御石(自然石)が並べて置かれていますが、これはかつて腰掛塚古墳の墳丘上に散らばっていた石を模したものであるそうです。
 21個の石は、天台密教にゆかりの深い山王一実神道にもとづく山王二十一社をあらわしており、古くは毎年七月二十一日に古式にのっとって祭典もなされていて「御石祭り」と呼ばれていたそうです。祭典は大変賑い、参拝者らはその際に御石を手で撫でて、その手で身体の悪い部位をさすると病が平癒するといわれていたと伝えられています。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社8

 御霊神社の祠です。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社

 伊豆美神社の鳥居の西側に「中和泉樹林地」という保存された一角があるのですが、この敷地内にも「まさか古墳の残骸ではなかろうな?」と思える地形がみられます。

 狛江市内を歩いていると、こうした高まりがすべて古墳に見えてしまって困りものなのですが、でもそれで何基もの忘れられた古墳を再発見することができたわけだし、何かの役には立っているということで自分を納得させています。笑。


「狛江百塚コンプリート2020」12 腰掛塚古墳と伊豆美神社9


 ついにいただきました。伊豆美神社の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.
 
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/11/26(木) 23:57:11|
  2. 狛江市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

「狛江百塚コンプリート2020」その2

10「狛江百塚コンプリート2020」7 本橋塚1

 引き続き「狛江百塚コンプリート2020」、今回はその2です。

 まず最初の画像は、「狛江古墳群地名表」7番の「本橋塚古墳」の跡地周辺の様子です。

 この古墳は、墳丘自体はすでに消滅しているのですが、狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』の51ページの分布図にこの本橋塚の所在地が記されており、これと照らし合わせると正確な跡地を特定することがきます。
 画像の道路の突き当たりのあたりが本橋塚の跡地であるようです。

 すでに周辺は宅地化が進み、痕跡はまったく見られません。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-313.html


11「狛江百塚コンプリート2020」7 本橋塚2
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1610227&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年7月26日に米軍により撮影された「本橋塚古墳」の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 画像中央の影が本橋塚古墳で、当時まだなんらかの痕跡は残されていたように見えますが、どういう状況で墳丘が残存していたかは不明です。


12「狛江百塚コンプリート2020」8 荒井塚

 画像は、8番の「荒井塚古墳」の跡地周辺の様子です。

 「狛江古墳群地名表」には所在地について「和泉545~547番地」と記されており、ピンポイントに位置を特定するのは困難な状況です。

 周辺を散策しましたが、やはり痕跡はまったく残されていません。


13「狛江百塚コンプリート2020」9 峡塚1

 画像は、「狛江古墳群地名表」9番の「峡塚古墳」の跡地周辺の様子です。

 この古墳に関しては以前に詳細を掲載していますので、そちらを参照していただきたいところですが、古墳の存在を想定して発掘調査が行われたにも関わらず、周溝が検出されなかったという古墳です。

 出土品の伝承などから古墳が存在した可能性は高いように感じられますが、現在は宅地化が進み、痕跡はまったく残されていないようです。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-311.html


15「狛江百塚コンプリート2020」10 石塚古墳1

 「狛江古墳群地名表」10番に記載されている「石塚古墳」の跡地周辺の様子です。

 旧番地で宮附696番地が所在地とされ、これは現在の狛江市立和泉小学校の敷地内であり、すでに整地されて古墳の痕跡を見ることはできないようなのですが、戦後の空中写真でその痕跡を確認することができるようです。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-297.html


16「狛江百塚コンプリート2020」10 石塚古墳2
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=432352&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年に国土地理院により撮影された石塚古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 画像の中央の上の方に見える木立が伊豆美神社で、右に見えるのが「兜塚古墳」です。そして、右上あたりに見える小さな点が、当時残されていた石塚古墳の痕跡であると思われます。
 弁天さまが祀られていて弁天塚だったようですが、この弁天様の移転先も含めて詳細は不明です。

 また、空中写真の左下にも方形に区画された敷地が見られ、これがずっと気になっていたのですが、『狛江市農業協同組合史』の64ページに「学校の南小町新一さんの畑の一角にも石が積まれた場所が囲われています。塚跡とも多摩川洪水の際押し流された石を集めた場所とも伝えられているそうです。」という記事を見つけました。
 この石が積まれて囲われていたという場所が、空中写真で方形に区画された地点ではないかと推測していますが、古墳であったか否かも含めて詳細は不明です。。。


17「狛江百塚コンプリート2020」11 小町塚古墳

 画像は、11番の「小町塚古墳」の跡地周辺の様子です。
 「狛江古墳群地名表」には所在地について「和泉704番地」と記されており、画像の地点が古墳の跡地であると思われますが、すでにマンションが建設されており、古墳の痕跡を見つけることはできませんでした。。。

 以下、次回の「その3」に続く。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/11/24(火) 23:22:50|
  2. 狛江市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「狛江百塚コンプリート2020」その1

 狛江市は、全国でも2番目に小さな市ということですが、かつては「狛江百塚」と呼ばれるほどの古墳の密集地域で、現在も都内屈指の残存数を誇ります。

 わたし自身、これまでに狛江市内の古墳の探訪を繰り返す中で、散策するとまた新たな疑問が湧き、そしてその疑問を解消するために調べてみてまた散策する、という状況で何度も狛江市に足を運ぶこととなり、結果、多くの未確認の古墳を掘り起こすことにもつながりました。
 逆に、正体不明のまま調べ中という疑惑の場所も少なからず存在したのですが、近年の狛江市内は開発が進んで景観が大きく変わっている状況もあり、一度あらためてここで狛江古墳群をまとめておこうと思い立ちました。
 名付けて「狛江百塚コンプリート2020」o(*^▽^*)o~♪


 昭和10年(1935)に狛江村発刊の『狛江村誌』の著者であり、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという地元狛江市の郷土史家、石井正義氏は、昭和初年度に「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」として『狛江百塚の記』という手書きの草稿をまとめています。そしてさらに子息である石井千城氏が昭和33年に補訂して、『狛江百塚』としてまとめられています。
 その後、昭和35年にこの石井千城氏の協力のもと、当時の狛江町教育委員会により狛江古墳群の分布調査が行われ、この際に作成された「狛江古墳群地名表」には137基の古墳が記されています。
 当時、学術的な調査が行われた古墳の存在はほとんどなく、この地名表には後世の塚や自然地形が誤認されたというものも含まれているようなのです。また所在地の記載がなく、今となっては確認が不可能な古墳も少なくないのですが、私はこの「狛江古墳群地名表」に所在地が記載されている120箇所については『狛江村土地宝典』や当時の空中写真により所在地を推定しました。

 今回は、この120箇所の古墳のすべてを網羅しつつ、その後の発掘調査により存在が確認された古墳などもまじえながら、進行しようと思います。(過去に取り上げた古墳も含まれますが、その後に判明したこともありますので、それは今回で修正していこうと思います。)


1「狛江百塚コンプリート2020」1〜2 長者塚と宗超庵

 最初の写真は、通し番号1番の「長者塚古墳」と2番の「宗超庵古墳」の所在地と想定される周辺の様子です。「狛江古墳群地名表」には2基ともに「和泉19番地」と記載されていいる古墳で、調査当時にはすでに削平されていたとされており、ピンポイントに正確な所在地は不明です。

 私が最初に入手した古地図では19番地が未掲載で、山谷庚申塔の並びの北西側が20番地、南東側が18番地となっていました。したがって、以前、2018年1月15日の回で取り上げた際は、山谷庚申塔の境内地周辺が19番地である可能性が高いと想定してこの場所を掲載しました。しかし、その後『狛江村土地宝典』で確認することにより、庚申塔に隣接する北西側が19番地であることを確認しました。


2「狛江百塚コンプリート2020」1〜2 長者塚と宗超庵

 「山谷庚申塔」の様子です。
 かつての千町耕地を見下ろす崖沿いで、根川のハケの清水が涌く場所でもあり、なんらかの塚が存在した可能性は十分に考えられるのですが、この2基の塚が古墳であったか否か、塚の性格はわからないままです。また、中和泉4丁目には「宝超庵」という寺院の跡があり、塚となにか関連があるのではないかとも考えられているようですが、これも真相は不明です。
 ちなみに画像手前の道路は品川道で、この道路の拡張により境内地が削られており、少々狭くなったそうです。
 想像するに、庚申塔の背後である北西側に2基の古墳(塚?)が並ぶように存在しており、庚申塔はその裾に建てられている、というような景観を想像してしまいますが、周辺は宅地化が進み、痕跡はまったく見られません。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-840.html


3「狛江百塚コンプリート2020」1〜2 長者塚と宗超庵

 平成五年(1993)に講中により銅板葺きのお堂が建てられており、庚申塔は右側の大型のものが宝永元年(1704)に、左側のものが文化元年(1804)に建立されたいずれも青面金剛像です。
 かなり保存状態の良い庚申塔です。。。


4「狛江百塚コンプリート2020」栁久保稲荷神社

 山谷庚申塔から北に200メートルほど。
 「栁久保稲荷神社」をお参りしました。

 京都の伏見稲荷を勧請して創建された神社で、祭神は稲田姫大神、商売繁盛、五穀豊穣を司る大神です。度重なる多摩川の大洪水により諸記録とともに社殿流失し、台地である現在地に遷座、社名も「栁久保」と改められたそうです。
 おそらくは「稲荷前」という小字名はこの神社が由来でしょうか。。。

 山谷に住む旧家筋のほぼすべてがこの氏子家で、山谷の鎮守神のような存在として信心されてきたそうです。またこの稲荷の氏子集団(稲荷講中)は山谷の庚申講中と重なっているそうで、とても興味深いところです。


5「狛江百塚コンプリート2020」栁久保稲荷神社

 境内の様子です。
 古墳や塚とは特に関係はなかったかも。。。


6「狛江百塚コンプリート2020」3 無名古墳

 「狛江古墳群地名表」3番の「無名古墳」の所在地周辺の様子。
 旧番地で「和泉127番地」に所在したとされる古墳です。

 慈恵医大の敷地内で、このあたりかなと”あたり”をつけて行った場所がちょうど建物と建物の間を区切る木立となっていて、ひょっとしたら何か痕跡が残っているのではないかとドキドキしました。笑。
 敷地の外から観察した限りでは、古墳らしき高まりは見られないようです。。。


7「狛江百塚コンプリート2020」4 丸塚古墳

 画像は、「狛江古墳群地名表」4番の「丸塚古墳」の所在地周辺の様子です。
 旧番地で「和泉157番地」に所在したとされる古墳です。
 現在の都営狛江団地の22号棟あたりが跡地と想定されますがー、痕跡はまったくみられません。
 「狛江古墳群地名表」では円墳とされていますが、発掘調査が行われることなく消滅しており、真相はわかりません。


8「狛江百塚コンプリート2020」5 金堀塚

 画像は、「狛江古墳群地名表」5番の「金堀塚古墳」の所在地周辺の様子です。
 旧番地で「和泉177番地」に所在したとされる古墳です。

 この古墳は、2015年1月5日の回で一度取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいですが、周辺地域の「藤塚」の地名の由来となった塚で、元々は古墳であったといわれています。「富士塚」もしくは「藤塚」と呼ばれていたようですが、富士信仰との関係については明らかになっていないようです。

 存在はかなり古くから知られていたと考えられ、江戸時代の地誌類にも多くの記述が見られます。
 『武蔵名勝図会』には
 「富士塚 古名は金堀塚といふ。其謂れしれねど、思ふに此塚の辺より金など掘出したることなともあるべし。同村内小名原といふ所にあり、廻り四拾間余、高さ1丈余李なり。近来浅間を祀るゆへに富士塚と唱ふ。此外は是より形小き塚三四あり。」
 とあり、また『新編武蔵風土記稿』には
「金堀塚 小名原ニアリ、一ニ富士塚ト云ハ、近キ頃浅間ヲ祭レルユヘナリト、周径十間許高サ一丈余、金堀ノ明義ハシラス」
 と記されています。

 塚は学術的な調査は行われることなく破壊されており、塚の性格などについては詳細はわからないようです。
 
 昭和7~8年頃に取り壊されて国際電気通信の敷地となり、その後は都営狛江団地の敷地となり、現在の47号棟あたりが跡地であるといわれています。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-285.htm


9「狛江百塚コンプリート2020」6 丸塚古墳

 画像は、「狛江古墳群地名表」6番の「丸塚古墳」の跡地周辺の様子です。
 旧番地の「和泉235番地」に所在したとされる古墳で、現在の狛江市立緑野小学校(当時の狛江第二小学校)にあたりますが、発掘調査が行われることなく消滅しており、塚の性格など詳細は不明です。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-269.html

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/11/23(月) 19:20:36|
  2. 狛江市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「田子山富士塚」ー国指定重要有形民俗文化財ー その2

志木市「田子山富士塚」2-1
 今回はタイムリーな探訪記録ということで、志木市本町2丁目所在の「田子山富士塚」、その2です。

 私が最初にこの敷島神社を訪れた日は仏滅で、富士塚は閉山日で富士塚の登拝もできず、御朱印もいただくことができませんでした。
 その直後には新型コロナウイルスによる緊急事態宣言も発令され、富士塚の再訪はしばらくは無理かなと諦めていました。この『古墳なう』でも地上から収めた写真のみで更新したのですが、最近になって登山が再開されていることをネットで知ってからいてもたってもいられなくなり、よく晴れた大安の日に「今日がチャンスだ!」と思い立ち、再訪しました。

 今年3月には、国の重要有形民俗文化財に指定されたばかりの富士塚です。

 無事に再開されてよかったです。。。


志木市「田子山富士塚」2-2

 田子山富士の雄姿。
 秋晴れの空が映える、素晴らしき光景です。。。

 高さは約9m、麓の円周は約125mと、とにかくデカイです!


志木市「田子山富士塚」2-3

 敷島神社でお参りをすませてから、いよいよ田子山富士に登拝します。

 「本日は開山日です。」の立て札が立てられています。
 前回は「本日は閉山日です。」の立て札が睨みをきかせていましたからね。


志木市「田子山富士塚」2-4

 右は琴比羅神社で、富士塚築造以前から存在したといわれる神社です。
 左は浅間下社で、「逆修の板碑」を御神体として明治2年の田子山富士着工時に建てられた神社です。

 この間を抜けて登山道に向かいます。


志木市「田子山富士塚」2-5

 浅間下社の御神体である「逆修の板碑」です。

 田子山富士塚は、もともと「田子山塚」と呼ばれる古墳を流用して造られたといわれています。この古墳の上には、南北朝時代初めの暦応3年(1340)に旅の僧である十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)が富士山入定に先立ち、逆修の板碑を建立したといわれています。

 江戸時代の地誌類を確認すると「田子山塚」と表記された塚の上に石碑が建てられている様子を確認することができますが、この石碑が逆修の板碑であった可能性は十分に考えられるところです。。。


志木市「田子山富士塚」2-6

 その後、引又宿で醤油醸造業を営んでいたという熱心な富士信仰の信者であった高須庄吉が、あるときに「田子山に行きなさい」という夢のお告げにしたがい、富士信仰の先輩である宮岡卯八と田子山に向かってみると、そこで1枚の板碑を発見します。
 この板碑こそが、十瀧房承海が建立したという逆修の板碑であり、泥にまみれた板碑を洗って刻まれた文字を読んでみると、富士山に関わることが書かれていることがわかり、感激した庄吉はここに富士塚を築くことを決意したといわれています。

 日本中が混乱していた明治維新の時期である明治2年10月、高須庄吉は天下太平を祈願して富士塚築造に着工します。全て人力による作業を経て明治5年6月、ついに富士塚は完成します。


志木市「田子山富士塚」2-7

 ようやく登山路の入口です。


志木市「田子山富士塚」2-8

 登山口の右側には屋根棟と門扉が展示されています。
 もとは経ケ嶽門付玉垣の入口部分にあった屋根棟と門扉で、麓に落下していたものだそうです。


志木市「田子山富士塚」2-9

 さらに進みます。

 「田子山」の名称の由来について、日本武尊が東征の帰路にここに立ち寄って富士山を遥拝し、田子の浦に似た景色だと言ったことから「田子山」と呼ばれるようになったという説。古墳の墳丘上から見た新河岸川を通る船の風景が駿河の田子の浦に似ていたからという説。田畑で働く農夫(田子)に、この塚の上から法螺貝や板を叩いて合図をしたことから田子山と呼ばれるようになったという説等、諸説あるようですが、定説はないようです。


志木市「田子山富士塚」2-10

 ここが一合目です。
 この一合目には合目石が見られますが、残念ながら失われた合目石もあるということでした。。。


志木市「田子山富士塚」2-11

 二合目。

 実際の富士山は、江戸時代まで女人禁制で頂上までの登山は許されず、二合目の御室浅間神社までしか登れなかったそうです。明治5年(1872)の政令により女人禁制は廃止されました。

 中央の奥に見えるのが「御室浅間神社」の碑です。


志木市「田子山富士塚」2-12

 三合目。

 この田子山富士塚の所在する「敷島神社」は明治41年5月、もともとあった浅間神社と、志木地区にあった村山稲荷、星野稲荷、水神社が合祀されてできました。つまり、田子山富士塚が造られた当時には敷島神社はなかったということになります。
 あ、そうなんだ?とちょとびっくりしますね。笑。


志木市「田子山富士塚」2-13

 四合目。

 富士塚は田子山富士保存会により整備されているそうです。
 開山日には、保存会の方の詳しい解説を聞くことができます。

 塚の表面には、暖かくなると当然ながら雑草が生えるわけですが、これを根っこごと引き抜いてしまうと盛り土が流出してしまうことから、すべて刈り取っているのだそうです。

 保存会の方々のご苦労が偲ばれます。。。


志木市「田子山富士塚」2-14

 五合目。

 この田子山富士の体積は、約2400立法メートルあるそうです。

 元々の古墳に積み増した盛り土がどこから運ばれたのかは謎であったようですが、東に隣接するマンションの建設の際に行われた発掘調査により土を削り取ったと考えられる鋤や鍬の跡が見つかり、ここから取った土で塚が盛られたと考えられています。

 すぐお隣だったんですね。


志木市「田子山富士塚」2-15

 六合目。

 大正12年(1923)の関東大震災では被害が発生して、修復工事が行われたそうです。
 また、平成23年3月11日の東日本大震災でもやはり石造物の転倒や登山道の崩落が進み、平成27年、28年の2年度にわたって修復工事が行われ、平成28年7月の山開きから入山が可能になりました。

 かなり急勾配の大きな富士塚ですからね。
 無理もないかもしれません。。。


志木市「田子山富士塚」2-16

 七合目。
 以前登拝したことのある、練馬区の「大泉富士」にビジュアルが似ているなあと感じていましたが、同じ「丸吉講」による築造なのだそうです。。。


志木市「田子山富士塚」2-17

 八合目。

 頂上に近づくにつれ、急勾配になってきます。

 足元に気を付けないと。。。


志木市「田子山富士塚」2-18

 九合目。

 ようやく山頂が見えてきました!


志木市「田子山富士塚」2-19

 山頂に祀られている浅間社石祠(奥宮)です。

 祠の中には「木花開耶姫命」と彫られており、台石には「丸吉講」のマークが彫られています。


志木市「田子山富士塚」2-20

 山頂の様子。
 意外と広さはない印象です。

 私は少々腰の調子が良くなかったので、真剣な感じでした。笑。


志木市「田子山富士塚」2-21

 御朱印は、敷島神社のものと田子山富士塚のものと二種類いただきました。.゚+.(・∀・)゚+.
 画像は敷島神社のものです。


志木市「田子山富士塚」2-22

 画像が田子山富士の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.


 私は、この富士塚の元となった「田子山塚」は高い確率で古墳であると睨んでいますが、真相は調査の進展を待たなければなりません。

 入山可能日などの情報は、田子山富士保存会のホームページで確認できます。
 せっかく訪れるなら是非とも登拝したいところですし、入山可能日には志木市商工会が田子山富士塚の麓に
『田子山富士 観光案内所』を出店しており、御朱印のほか富士山グッズやガイドブックなども販売しています。

 また、保存会の方の解説を聞くことができるのも入山可能日に限られています。
 ちなみに私は、近隣の田子山御嶽神社の塚で周溝が検出されて古墳であることが確認されている!という情報を保存会の方にお聞きして知ることができました。(ありがとうございました。感謝です。)

 大安の、できれば晴天の日がお薦めですね。

<参考文献>
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【歴史編】』
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【お宝編】』
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【パワースポット編】』


人気ブログランキングへ
  1. 2020/11/21(土) 23:53:17|
  2. 埼玉県の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
次のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (10)
足立区/その他の古墳・塚 (19)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (9)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (13)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (21)
豊島区の古墳・塚 (4)
文京区の古墳・塚 (10)
杉並区の古墳・塚 (17)
中野区の古墳・塚 (19)
新宿区の古墳・塚 (18)
千代田区の古墳・塚 (8)
目黒区の古墳・塚 (11)
渋谷区の古墳・塚 (22)
港区の古墳・塚 (10)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (16)
大田区/田園調布古墳群 (40)
大田区/鵜の木久が原古墳群 (11)
大田区/その他の古墳・塚 (54)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (10)
世田谷区/大蔵古墳群 (1)
世田谷区/砧中学校古墳群 (3)
世田谷区/喜多見古墳群 (16)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (17)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (8)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (5)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (15)
府中市/高倉古墳群 (33)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (17)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (10)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (7)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (11)
町田市の古墳・塚 (25)
八王子市の古墳・塚 (37)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (7)
小金井市•国分寺市の塚 (7)
東村山市•東大和市の塚 (10)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (52)
横浜市の古墳・塚 (11)
相模原市の古墳・塚 (14)
宇都宮市の古墳・塚 (21)
上三川町の古墳・塚 (0)
壬生町の古墳・塚 (5)
下野市の古墳・塚 (0)
小山市の古墳・塚 (0)
栃木市の古墳・塚 (0)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
埼玉県の古墳・塚 (13)
千葉県の古墳・塚 (1)
群馬県の古墳・塚 (8)
ぐんま古墳カード (12)
茨城県の古墳・塚 (5)
長野県の古墳・塚 (6)
福島県の古墳・塚 (3)
東京の一里塚 (22)
東京の庚申塔 (5)
未分類 (12)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR