古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「金子塚」

「金子塚」

 画像は、千代田区平河町1丁目に所在する「平川天満宮」を東から見たところです。
 
 この神社の御祭神は菅原朝臣道真公で、境内の由緒畧記によると、江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)、江戸の守護神として創祀されたとされています。
 この「平川天満宮」の周辺には「金子塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この塚は、享保17年に刊行された江戸時代の地誌『江戸砂子』(江戸市中の地名や寺社、名所などが図解入りで説明されている)に記述が見られ、人類学・民族学者の鳥居龍蔵氏は、昭和2年(1927)に刊行した著書『上代の東京と其周囲』の中でこの金子塚を紹介しています。鳥居氏は、『江戸砂子』に掲載された史跡の中のいくつかの塚を、古代に築造された古墳ではないかと推測しており、同書の「江戸砂子に見えたる古墳」の項で麹町の「金子塚」について次のように記述しています。

次に麹町の所では「金子塚」と題し 金子十郎家忠の墳、古鹿子曰、麹町門外、越後守光長卿のやしきの内にあり、今は知れず。と記せり然らば平河天神前の邊か
 と書いて居る。此の當時にもう既に金子塚といふものが無くなつて、何處にあるか分らないが、兎に角此のあたりに金子塚といふものがあつたことは、是れに依つて知ることが出来る。」(『上代の東京と其周囲』36~37ページ)



「金子塚」

 平川天満宮境内のようすです。少なくとも境内には古墳らしきマウンドは残されていないようです。
 この平川天満宮は、徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあったそうです。画像の銅鳥居は天保15年に周辺の人びとにより奉納されたもので、千代田区の有形文化財に指定されています。ほかに、千代田区の有形民俗文化財に指定されている常夜燈や狛犬、百度石などを見ることが出来ます。


「金子塚」

 画像は、平川天満宮境内に所在する「筆塚」で、左に見えるのが、千代田区の有形民俗文化財に指定されている「力石」です。多くの神社で、保存されている力石をみかけますが、この力石はかなり大きなもので、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
 どうも、こういった場所で「塚」の文字を見ると過剰に反応してしまうのですが、筆塚に関しては古墳とは無関係であるようです。


「金子塚」

 『江戸砂子』の記述からすると、「金子塚」の所在地は千代田区平河町1丁目から隼町のあたりではないかと推測できるのですが、江戸時代にはすでに消滅していたとされるこの「金子塚」の痕跡を現代に見ることは残念ながら出来ないようです。
 画像は門前のようすで、左側が平川天満宮です。塚が古墳だったとすれば、坂を上がり切った頂部のあたりに存在したのではないかと妄想してしまいますが、金子塚の正確な所在地を突き止めることはできませんでした。

<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周囲』
現地説明版


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  1. 2017/08/13(日) 04:24:34|
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「日比谷公園内埴輪像」

「日比谷公園内埴輪像」

 さて、今回は番外編です。

 前回紹介した「平河町二丁目遺跡」を調べてみたものの真相はわからず、がっかりしながら日比谷図書文化館を後にしたわけですが、久しぶりに日比谷公園をぶらぶらしてから帰ろうと歩いていて見つけたのが、画像の二体の人物埴輪と家形埴輪です。全く存在を知らなかったので、なぜここに埴輪が?とビックリしました。

 この埴輪の前に設置されている石碑には
 贈 東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園として結ばれたことを記念し その喜びをこめて この「はにわ」像二体を東京都のみなさまに贈ります 宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ たくさんの古墳がありますが その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で 第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園の中にあります 昭和40年8月21日 宮崎県知事 黒木 博
 とあり、別の説明板には
 昭和40年(1965年)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体が東京都に送られました。
 と書かれています。
 なるほど、という感じですが、果たしてこれが発掘調査により採集された実物なのか、それともレプリカなのかは何も書かれていないため不明ですが、はにわ”像”というからにはレプリカなのでしょうね、多分。そもそも貴重な完形の人物埴輪が雨ざらしになっているはずはないし。。。


「日比谷公園内埴輪像」

 ネットで調べたところでは、2014年冬の大雪の際に雪の重みで折れた枝が埴輪に直撃して、家形埴輪は粉々に、また右側の人物埴輪も一部が破壊されているようです。左側の年月を感じる埴輪に比べて右側の2体がキレイなのは、修理されたか、それとも新しいものと交換されたか、というところでしょうか。

 公園内には見どころはたくさんあるのですけどね。私にはここが最大のスポットです。。。


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  1. 2017/08/12(土) 00:16:09|
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「千代田区平河町二丁目遺跡?」

「千代田区平河町二丁目遺跡?」

 千代田区の郷土資料館といえば「日比谷図書文化館」です。ミュージアムのみならず図書館も併設されていて、千代田区の情報を調べるには重宝する場所です。実は、以前にこの図書文化館を訪れた際に、展示されている説明板の中に「古墳があった可能性あり」とする遺跡の中に『平河町二丁目遺跡』を発見しました。画像がその説明板ですが、(館内は撮影禁止とされていますが、スタッフの方に許可をえたうえで撮影しました)千代田区の範囲とする赤い枠内の左下に「平河町二丁目遺跡」が記載されています。

 千代田区内で発見された古墳は、富士見二丁目遺跡内で検出された「富士見二丁目1号墳」の1基のみで、ほかに「一ッ橋二丁目遺跡」、「東京国立近代美術館遺跡」、「九段坂上貝塚」といった複数の遺跡内から埴輪片が出土しており、古墳の存在が想定されていますが、平河町二丁目遺跡は知らなかったな!ということで早速図書館で調べてみました。結果、「平河町遺跡」という報告書は刊行されているものの、平河町二丁目遺跡という名称の報告書は存在せず、そもそも『東京都遺跡地図』にもこの名称の遺跡は存在しません。
 もちろん、発掘調査が行われながらも報告書が刊行されないパターンも存在しますので、もう一度ミュージアムに戻って学芸員の先生にお尋ねしてみました。色々と調べていただいたりもしたのですが、やはりこの遺跡は存在しないようで、しかもこの説明板を造ったのが前任者で確認が取れない、ということで、残念ながら真相はわかりませんでした。


「千代田区平河町二丁目遺跡?」

 画像は、赤坂見附交差点から平河町二町目周辺を見上げてみたところです。
 麹町台地縁辺部にあたるこの周辺では、南に数百メートルの地点に、鳥居龍蔵氏が著書『上代の東京と其周囲』の中で前方後円墳が所在するとした日枝神社があり、北東には、やはり鳥居龍蔵氏が古墳であるとして紹介した「金子塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。
 果たしてこの平河町二丁目に古墳が存在したのかどうか、とても気になるところですが、東側に最高裁判所、更に奥が皇居、南側には国会議事堂と首相官邸と、日本の中心地として都市化が進んだこの地に古墳の痕跡は残されていないようです。


赤坂見附跡

 実はこのあたりは私の仕事場から徒歩で行ける場所なのですが、やはりこの周辺を歩くなら古墳よりも赤坂見附でしょう!ということで、画像は江戸城外堀の赤坂御門の跡地です。この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されており、多くの文化財が残されています。

     史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸
城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設
であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっ
ています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門
や桜田門には同じ形式の門を見ることが出来ます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、
同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時
代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成
3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。
現在、右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
                               千代田区教育委員会



赤坂見附跡

 青山通り沿いには、赤坂御門の石が期の一部が残されています。
 江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であることから「見附」と呼ばれ、2つの門が直角に配置された「枡形門」という形式をとっているそうです。


赤坂見附跡

 画像は、赤坂門の石垣復元と紀州藩徳川家麹町邸の石組遺構を復元したものです。
 仕事場から近いからいつでも行けると思いがちですが、いずれゆっくり見て回らなければいけませんね、これは。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
日比谷図書文化館内説明版


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  1. 2017/08/11(金) 01:57:24|
  2. 千代田区
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「丸山1号墳+2号墳」

「丸山1号墳+2号墳」

 「丸山1号墳」と「同2号墳」は、平成15年3月の試掘調査を経て行われた同年4月から5月にかけての丸山遺跡B地点の発掘調査により検出された古墳です。

 1号墳は墳丘はすでに削平されており、また主体部も遺存しないものの周溝の約1/4が検出されており、内径は推定約20~21mほどで、周溝を含めると30mほどの円墳であると推定されています。この周溝の覆土中からは土師器坏や甕、須恵器が出土しており、古墳の築造は5世紀後半から末葉と考えられているようです。出土遺物が出現期の特徴を示していることから、この丸山古墳は首長墓域が田園調布地域に移動してくる直前時期に該当する古墳であるようです。
 2号墳は遺構のほとんどが調査区外に及ぶことから墳形や規模不明であるものの、1号墳の調査により古墳の周溝であると考えられているようです。

 画像の中央あたりが1号墳、その右側が2号墳の跡地となるようですが、当然ながら古墳の痕跡は何も見ることは出来ません。

<参考文献>
玉川文化財研究所『丸山遺跡B地点発掘調査報告書』


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  1. 2017/08/09(水) 09:13:14|
  2. 田園調布古墳群
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「扇塚古墳」

「扇塚古墳」

 「扇塚古墳」は、多摩川下流域左岸の武蔵野台地縁辺部にあたる、大田区田園調布1丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号145番に登録されています。

 この古墳の「扇塚」の名称は、かつて墳丘上に建てられていた稲荷祠に扇を収めたことに由来するといわれ、扇の供養塚ではないかとも考えられていたようです。西岡秀雄氏により1930年代に行われた荏原台古墳群の分布調査の際には、確認された54基の中に扇塚の名は入っていないようです。その後の、後藤守一氏による「東京府下の古墳」『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第十三冊』の15ページには「本古墳は、現在著しく形が頽されて居り、其れに接して稲荷祠があるので、古墳としての概念には遠いものとなつてゐる。」と書かれていることから、西岡秀雄氏は古墳であると認識しなかったのかもしれません。同書には、当時まだ農地の一角に残されていた扇塚と稲荷祠の写真が掲載されています。

 その後、平成8年(1996)に共同住宅建設に伴う発掘調査が行われますが、調査区が限定されていたことや、後世の地形改変や社殿建築による撹乱により、墳形を確定するまでには至らなかったようです。測量調査により辛うじて確認された円丘部分の規模は、直径約20m、墳頂部直径約8mで、3基の埋葬施設が確認されています。このうち1号主体部からは鉄剣2鉄鉋1、鉄鏃4、ガラス小玉10、内行花文鏡1が出土しています。2号、3号主体部からは副葬品はなく、3基ともに木棺が納められていたようです。この木棺の腐朽による墳丘の陥没が50cmと想定して、古墳の築造当時の高さは約3mほどであると想定されています。
 墳形については、円丘をそのまま円墳と解釈する説もあり、また円丘を後円部と想定すると、全長40mほどの規模が想定されているようです。ただし、確認された周溝残存部分が直線的であることから、主丘を後方部とする前方後方墳または方墳の可能性も想定されているようです。
 このように、扇塚古墳は墳形が確定されないものの低墳丘の出現期古墳で、埋葬施設や副葬品、出土した土器などにより、大型前方後円墳である「宝莱山古墳」に先行する4世紀前半の築造と考えられています。


「扇塚古墳」

 この古墳については、近隣の住民により碧と歴史を守ってほしいという運動がされていたそうです。また、発掘方法や調査後の処理をめぐっての文化財保存全国協議会による意義申し立てや、地元の人びとや関心を寄せる有志による抗議や交渉も行われたそうです。
 残念ながら、東京最古の古墳かもしれない出現期の古墳とされる扇塚は、短期間の限られた調査が終了したのち、集合住宅建設により消滅しています。現在マンションとなった坂道の途中に「扇塚碑」と「拍子木塚碑」の2基の石碑が移設されており、1枚目の画像がこの石碑のようすです。
 また、2枚目の画像は、この並びに移設されている、かつて扇塚の墳丘上に祀られていた稲荷社の石碑です。

 わずかに残された古墳の痕跡です。。。

<参考文献>
扇塚古墳発掘調査『扇塚古墳発掘調査報告書』
大田区立郷土博物館『博物館ノートNo.133』
大田区郷土の会『多摩川 44』


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  1. 2017/08/08(火) 00:22:39|
  2. 田園調布古墳群
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