
「綾女塚古墳」は、宇都宮市雀の宮1丁目に所在したとされる古墳です。
別名、「菖蒲塚」とも呼ばれたこの古墳は現在のJR宇都宮線雀宮駅の約200〜300m北方にあり、古墳は明治17年の鉄道敷設により一部が削平。その後、明治28年に雀宮駅の開設にあたり墳丘の約2/3が削平。そして、大正元年の複線化に際して墳丘のすべてが削平、消滅しました。
南面する、帆立貝型の前方後円墳であったといわれていますが詳細は不明です。
明治17年の削平の際に女子人物埴輪が2体出土していますが所在は不明、また明治28年の削平の際には石室が検出されていますが、これも詳細は不明です。
画像は、綾女塚古墳の跡地周辺の様子です。
残念ながら古墳の痕跡は見ることができません。。。

画像は、雀の宮1丁目の「雀宮神社」です。
実は、往時の綾女塚古墳の墳頂部には、綾女稲荷の祠が祀られていましたが、この祠は分解せず、そのままこの雀宮神社境内に納められているそうです。
せっかくですので、雀宮神社とともに綾女稲荷の参拝をしましょう!

この神社は、日光から約10里の字十里木に鎮座します。
『栃木県神社誌』にとると、祭神は素盞嗚命、配神は藤原実方・倉稲魂命・大山祇命で、境内社は琴平神社・稲荷神社・厳島神社・雷電神社・天満宮・綾女神社・湯殿神社があり、長徳三年(997)に創建されたという古社です。
以前、「古屋敷」と伝わる奥州古道沿いの小字道ノ木付近にあったものを、日光道中の開設に伴い、現在地に移転したものといわれており、社殿が西向きに建っている珍しい神社です。

昭和45年発行の徳田浩淳氏著『宇都宮の歴史』には、「ここは豊城入彦命の御東征に従った豪族の古墳(大人塚)といわれている。」と書かれています。
現在の雀宮神社境内に古墳らしき痕跡は残されていないようですが、「大人塚」の鎮座地であるという記述は興味深いものがあります。
JR宇都宮線が走る田川右岸の台地縁辺部は、この綾女塚古墳の他にも「十里木古墳」や「牛塚古墳」といった著名な古墳が集中する古墳密集地帯であり、「御田神社古墳」は今も残存、十里木古墳も石室が残されています。
この雀宮神社が古墳の跡地であるという可能性も、否定しきれないものを感じます。。。

これが綾女稲荷です。
移築は大正2年ということですので、大正元年の古墳の消滅まで2度の古墳の削平に耐えて、残存部分にずっと祀られていたのだろうなあと妄想すると、ちょっと切なくなります。。。
ちなみに、境内社として祀られていた綾女神社は明治42年5月、湯殿神社とともに合祀されたという記録があり、これが現在境内社として祀られている綾女稲荷神社と同一のものかはわからないようですが、綾女姫の伝承から祀られたものと考えられています。。。
お正月に参拝して御朱印をいただきました .゚+.(・∀・)゚+.
<参考文献>
吉野益太郎『今昔雀宮』
徳田浩淳氏著『宇都宮の歴史』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/07/02(土) 23:44:59|
- 宇都宮市の古墳・塚
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今回は、宇都宮市の塚の話題。
西刑部町に所在する「大関高塚群」の探訪の記録です。
瑞穂野団地の台地の南端に所在する塚群で、2基の塚が近接して存在しています。
学術的な調査が行われていないために塚の詳細は不明ですが、封土の様子から古墳の可能性は少なく、近世の供養塚ではないかと考えられています。

南側の1基。
田園の中にポッカリと浮かぶ塚の写真を撮ろう!と考えて夏に訪れましたが、大したことなかった感じ。
規模は直径約9m、高さ2mで、2基とも頂部に凹みがあるそうですが、よくわかりません。。。

南側の塚の冬の写真。
2基ともに小さな塚ですが、そのわりに高さがあるのが盗聴でしょうか。。。

北側の1基。
規模は直径約6m、高さは1,5mで、南側の塚よりも若干小さな塚です。。。

北側の塚の冬の様子。
冬に訪れましたので塚に近づくことはできましたが、やはり塚の頂部は藪となっており、頂部の凹みは確認できませんでした。
古墳や塚は、やっぱり単独で存在するよりも群衆する景観が絵になるなあと感じる、そんな塚でした。
なにか、言い伝えのようなものも残されているのかもしれませんが、詳細がわかったらこっそりと書き加えようと思います。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/07/01(金) 17:48:51|
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「飯塚古墳」は、宇都宮市下桑島町に所在する前方後円墳です。
宇都宮市の遺跡番号273番、栃木県の遺跡番号3322番に登録されており、瑞穂野中学校南方の、南北に伸びる丘陵の東端に位置しています。
画像の山林内に古墳は残存します。。。

画像が飯塚古墳です。
左手前が前方部、右奥が後円部という状況です。
全長約33m、後円部径22m、後円部高さ4m、前方部幅24m、高さ4mの南向きの前方後円墳で、前方部西側が一部削平されているようです。
以前、くびれ部付近に横穴式石室が開口していたそうですが、私が見学した日には確認できず、というか周囲が竹林でかなり深い藪となっており、古墳の全貌を写真で捉えるのがかなり困難で、わりと早々に気持ちが折れました。。。笑。
古墳時代後期の築造と考えられています。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/06/30(木) 21:32:12|
- 宇都宮市の古墳・塚
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画像は、宇都宮市上桑島町にある高龗神社です。
この神社の境内には「小原高尾神社古墳」と称する古墳が所在します。
さっそくまずは参拝しましょう!

高龗神社二の鳥居です。
なんだかマジンガーZみたいでちょっと格好イイですよね。笑。
ちなみにこの神社、社殿の扁額には「高尾」大明神とあって、古墳の名称も「高尾」神社古墳となっているようですが、この神社の主祭神は「高龗大神 (たかおかみのおおかみ) 」であり、神社の名称も「高龗神社」が正解なんだそうです。
「龗」なんて漢字、パソコンで変換して出てくるからコピペして使えばイイけど、文字として書いたことは一度もないかも。。。

高龗神社社殿です。
この背後、北側に古墳が残存します。

ジャーン!これが小原高尾神社古墳です。
と言われても全然わからないですよね。笑。
墳丘全体を雑草が覆っているので墳形が非常にわかりにくいのですが、画像の右側が後円部、左側が前方部という状況です。
目を細めてぼんやり見るとうっすらと感じられるかも。。。笑。
古墳は2段築成の前方後円墳で、墳丘下段は地山を広く削り出して造られており、盛土や葺石はありません。これに対して墳丘上段は、旧表土を削り残した上に盛土をして、斜面には葺石が葺かれています。
墳丘規模は、下段で推定墳長36m、後円部径29m、前方部推定幅29mで、上段は全長24m前後、後円部径16~18m、前方部幅11~12mという比較的小型の前方後円墳で、埴輪は存在しないようです。

前方部上の様子です。
埋葬施設についての詳細はわからないようですが、南側のくびれ部付近に主体部がある可能性が考えれているそうです。
古墳は6世紀末から7世紀初めの築造と考えられています。

こちらは後円部上の様子。
やはり祠が祀られています。

後円部裾部に石塔が2基。
左は文政十一年の二十三夜供養塔、右は庚申供養塔ですな。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
栃木県教育委員会『栃木県埋蔵文化財保護行政年報 22』
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- 2022/06/29(水) 21:57:23|
- 宇都宮市の古墳・塚
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今回は、宇都宮市上桑島町に所在する「柿木坂古墳群」の探訪の記録です。
柿木坂古墳群は残存する2基の古墳で構成されており、鬼怒川右岸の南北に延びる台地上縁辺部に所在します。
この古墳群はなかなか謎が多いというか、詳細な情報を入手しきれていない状況もあるのですが、せっかく見学したのに写真を寝かせておくのもアレだし、どんどん更新して詳細が判明した際にはどんどん書き直しちゃおうという方向です。ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪
画像は、2基のうちの南東側に所在する古墳を西から見たところです。
しかし、昭和58年に発刊された『宇都宮の遺跡』には「古墳の1基は径15m、高さ2.5mの円墳状を呈する前方後円墳であったらしく一部その痕跡をとどめる。他の1基は約29.5m、高さ1mの円墳で現在、畑中の地膨となっており、この古墳を中心とした畑中に縄文中期の所産と思われる土岐編が多量に散財している。」と書かれています。
この「円墳状を呈する前方後円墳であったらしい」という表現がイマイチわかりにくいのですが、昭和の時代には、なにか前方部らしき痕跡が残されていたのかもしれません。
しかし、平成29年に発刊された『宇都宮市遺跡分布地図』にはこの古墳群は「2基の円墳」であると書かれています。
この昭和58年から平成29年の間に発掘調査が行われ、墳形が確認されたのかな?とも考えられますが、今のところ調査報告書は見当たらず、このあたりの真相はわかりません。。。
この前方後円墳ではないか?とする古墳は、この南西側の1基ではないかと思われるのですが、平成29年に発刊された『宇都宮市遺跡分布地図』ではこの古墳群は「2基の円墳」であると書かれています。
この間に発掘調査が行われて、墳形が確認されたのかな?とも考えられるのですが、今のところ調査報告書は未見なのでこのあたりの真相はわかりません。。。
最初の写真は西側の路上から撮影したものですが、この角度からだと円墳ではないか?という印象ですよね。前方後円墳ではないか?とする古墳は、この南西側の1基ではないかと思われます。
前方部がちょうど背後に隠れている、という可能性もあるし、近寄って確認してみましょう。

接写!
南西から見た状況です。
この角度から見ると、古墳は良好に残されている印象ですよね。
背後に回り込んでみます。

衝撃の光景 ( ´゚д゚`)エー
前方部どころか、墳丘の東側1/3ほどがざっくりと削られています。
これでは前方後円墳であったかどうかは確認できませんね。。。

さらに角度を変えて。
この姿は、なかなか心が痛いです。。。
結論として、ここが前方後円墳だったのかどうか、謎のままです。
ひょっとしたら『宇都宮の遺跡』が発行された昭和58年には、なにか前方部らしき痕跡が残されていたのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。。。

もう1基の古墳ですが、『宇都宮の遺跡』にある「畑中の地膨となっている」という記述からして、このあたりかな?というところ。
こちらは、ここが古墳か否か確信は持てません。
いつもだったら、周辺で出会った地元の人に聞いてみたりもするのですが、この日はここで電話がかかってきてしまって、ちょっと長めに20分ぐらい話してしまいました。それで、電話を切ったら「はい、終わり!」みたいな気持ちになってしまって、たいして深追いもせずにここから移動してしまいました。
不覚。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/06/27(月) 21:17:57|
- 宇都宮市の古墳・塚
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画像は、宇都宮市上桑島町に所在する「上桑島西原庚申塚」を南から見たところです。
『宇都宮市遺跡分布地図』には「近世の塚」として登録されており、古墳とは無関係であるようですが、訪れた日の天気が良かったせいもあるかもしれませんが、2基の塚が並んで存在する景観がとても絵になる状況でした。。。

東側の塚です。
規模は直径約5m、高さ1mほどで、塚の頂部には石塔が3基建てられています。

石塔の様子。

西側の塚の様子です。
すぐ東方には柿木坂古墳群が所在するのですが、やっぱりここは古墳ではないのですね。。。

塚の頂部には、真新しい庚申塔が祀られています。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
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- 2022/06/26(日) 23:22:27|
- 宇都宮市の古墳・塚
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今回は、宇都宮市戸祭2丁目に所在する「和尚塚」と、その周辺の探訪の記録です。
和尚塚は、栃木県の遺跡番号5839番、宇都宮市の遺跡番号126番に登録されている塚です。
現在の塚は一部が削られているようですが、かつては直径約30m、高さ約2.5mほどの方形を呈していたとされています。
一時は遠歓寺の境内地となっていましたが、現在は市の所有地となっており、塚の北側に宇都宮市による標柱が建てられています。
塚は昔から有名な和尚の墓であろうといわれていたようですが、昭和8年(1933)、この塚の上に遠歓寺の納骨堂が建立されることになり、塚の一部を掘ったところ、中央に生えていた大樫の根の下から経文のような文字が彫ってある石版石碑が2基と、経文の1字が墨書きされた玉石が多量に発掘されたそうです。
作業員たちは、ほかに埋蔵品がないか、塚のあちこちに長い棒を突き刺して探したそうですが、他に出土したものはなく、どうやらこの塚は古墳ではなかったようです。。。
この石碑の1枚には和尚塚の由来が刻まれており、この石碑により、和尚塚は八幡山の祥雲寺を開いた良訓和尚の墳墓か、供養塚ではないかと考えられているようです。
この良訓和尚は大永四年(1524)に亡くなっています。。。

塚は、明治初年頃には馬場町の小倉屋で所有しており、当主が塚を掘ってみたものの、何も出ないばかりか本人も間もなく亡くなってしまったそうです。
その後、小林氏の父が買い取ったものの不幸が続いたことから手放し、黒磯の富豪人見千秋が付近の畑地と共に購入。さらに大田原の細小路由吉の手に渡ったもののいずれも不幸が続いたそうです。
大正十年に本門法華宗佛立教会宇都宮親会場の手に渡り、毎月4回ずつ供養するようになると何事も起こらなくなったそうです。
こうした祟りの言い伝えは、古墳や塚を追いかけていると枚挙に遑がないわけですが、果たして本当に祟りは存在するのか、それともただの偶然なのか、とてもとても興味深いです。。。

宇都宮市により設置された標柱には次のように書かれています。
和尚塚
この塚は、享保九年(1724)、良訓和尚の二百年忌の供養のために築かれました。
和尚は、宇都宮十六代城主正綱の弟、戸祭備中守高定のことですが、のちに出家して雪江良訓と名乗り、八幡山の西側に祥雲寺を開きました。
塚は、昭和八年(1933)、納骨堂を建てるため上面をかなり削りましたが、基礎の部分はほぼ元の形を残しています。

本塚である現在の和尚塚の周辺には、かつてはほかに5基の塚があったといわれており、これを地元の人は、本塚である和尚塚に対して「家来塚」と呼んでいました。
これらの塚は、子供たちにとってはお山の大将や陣取り合戦に格好の遊び場で、2丁目8番地付近にあった中型の塚の西下の芝原は闘犬場に利用され、大勢の人が集まりました。
子供たちもこの塚の上から闘犬を見下ろして、「土佐犬が買った」「ブルドッグは強い」などと騒いだそうです。
塚の跡地付近には「和尚塚児童公園」という、和尚塚の名称がつけられた児童公園があり、おそらくこの付近に中型の塚が存在したと思われます。ひょっとしたら闘犬が行われたいう芝原がこの公園のあたりなのかもしれませんが、すでに塚の痕跡はまったく残されていないようです。
周辺にはこの児童公園のみならず「和尚塚市営住宅」や「和尚塚通り」、バス停の名称等々、あらゆるところに和尚塚の名称が使われており、かなり知られた存在であることがうかがえます。

和尚塚児童公園の道路を挟んで南側。
このあたりにも2基の塚があったはず。。。

現在の戸祭2丁目3番地のあたりには馬蹄型の塚があり、「馬塚」と呼ばれていたそうです。
正確な跡地は不明ですが、だいたいこのあたりかな。。。

残る1基はこのあたりか?
「家来塚」はやはり痕跡は残されていないようです。。。

和尚塚近くで紙パック牛乳の自販機が視界に入り、ゲット。
栃木のレモン牛乳は栃木乳業のが有名ですが、この針谷乳業のもなかなかのお味。
ぜひ飲み比べたい逸品ですな。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
宇都宮市教育委員会『宇都宮の旧跡』
郷間愛智『戸祭と和尚塚』
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- 2022/06/24(金) 21:10:57|
- 宇都宮市の古墳・塚
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画像は、宇都宮市氷室町に所在する「大杉神社古墳」です。
この古墳は大杉神社境内に所在するということで、分布図を頼りに訪れたのですが、神社の跡地っぽい風情ではあるもののなぜか社殿がなく、少々戸惑いました。
改築中だったのかな。。。
古墳は径約6m、高さ約1mの円墳とされており、墳丘上には小さな祠が3社ほど鎮座します。
1基のみが単独で存在しており、塚である可能性も感じますが、詳細はわかりません。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/06/23(木) 21:46:48|
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画像は、宇都宮市氷室町に所在する「千波稲荷神社」です。
主祭神は倉稲魂命というこの神社は、古墳の墳丘上に鎮座します。
さっそく見学しましょう!

これが「千波稲荷神社古墳」です。
宝積寺段丘の東に立地しており、円墳であるとされています。
昭和58年(1983)に宇都宮市教育委員会より発行された『宇都宮の遺跡』には、規模は径約15m、高さ0.5mと記されていますが、現地で見学した印象はもう少し大きいのではないか?という印象です。。。

神社の社殿が鎮座することにより、また周囲の耕地化により墳丘はかなり改変されているようです。
発掘調査は行われていないようですし、詳細のわからない古墳です。。。
それにしても。
天皇杯3回戦。栃木SCが、J1首位のマリノスに2ー0で勝っちまった!
番狂わせは起こる!
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2022/06/22(水) 21:15:56|
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画像は、宇都宮市清原工業団地に所在する 「どどつか高塚」です 。
鬼怒川左岸の段丘上に存在する塚で、栃木県の遺跡番号3345番、宇都宮市の遺跡番号355番に登録されています。
現在は、清原工業団地3号緑地内に保存されており、塚の周囲はフェンスで囲まれています。
この塚はなかなかに正体不明な塚で、かつては「大塚古墳」の名称で古墳ではないかと考えられていましたが、昭和58年(1983)発行の『宇都宮の遺跡』では「どどつか高塚」と改称され、江戸時代に築造された塚であるとされました。
現在発行されている『宇都宮市遺跡分布地図』でも「近世の塚」として登録されており、塚の前に設置された説明板にも「どどづか高塚 この円丘は、高さ約3mで、以前「大塚古墳」とよばれたこともありましたが、その形状から江戸時代頃に造られた供養塚ではないかと考えられます。」と書かれています。
しかしその後、近年になってあらためてこの塚は古墳なのではないかとする説もあり、『板戸愛宕塚古墳群』ではこの塚を「大塚古墳」として、「大塚古墳は、板戸愛宕塚古墳から南に3,400mに位置する高塚である。『宇都宮の遺跡』には、「どどづか高塚」とし、高さ約3mのまんじゅう形の塚で江戸時代の所産、付記に県登録大塚古墳を改称したものであると記す。『刈沼東原遺跡』では、大塚古墳を復活させ古墳とする。現地の状況から古墳の可能性が高いと思われる。」と書かれています。

学術的な調査が行われていないようなので、古墳であるのか塚であるのかの真相は謎です。
墳丘がほとんど崩れた様子もなく、見事にきれいな円形を呈しているのが素敵です。。。
ひょっとしたら公園化の際に盛り土されているのかもしれませんが。。。
訪れたのは秋だったので、紅葉の色彩が映えますよね。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
宇都宮市教育委員会・公益財団法人とちぎ未来づくり財団『板戸愛宕塚古墳群』
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- 2022/06/21(火) 20:17:29|
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