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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

真岡市「石室の奥壁を残す古墳 (森ノ木古墳群) 」

真岡市354「無名古墳 (森ノ木古墳群) 」1

 今回は、真岡市根本に所在する「森ノ木古墳群」の最終回です。

 昭和59年に真岡市より発行された『真岡市史 第一巻 考古資料編』には「現在確認できるのは神宮寺塚古墳(円墳)・兜塚古墳(円墳)・石室の奥壁を残す古墳・無名墳(円墳)である。」と、4基の古墳の存在について記されているのですが、私が散策した際には「無名墳(円墳)」の所在は不明で、3基を確認したのみでした。
 真岡市史が発行された昭和59年当時は、無名墳(円墳)の残骸がどこかに残っていたようなのですが、現在は跡形もなく、跡地もどこなのかよくわかりません。

 今回確認できたのは、前回までに紹介した「神宮寺塚古墳」・「兜塚古墳」と「石室の奥壁を残す古墳」の3箇所のみでしたが、兜塚古墳の北方約100mほどの地点に御堂が建てられており、その境内に古墳の石材と思しき巨石が建てられれています。


真岡市354「無名古墳 (森ノ木古墳群) 」2

 このお堂の場所をよく見ると、北側が若干高くなったような形状となっており、ひょっとしたら古墳の墳丘の痕跡なのではないか?とも妄想したくなってしまいます。


真岡市354「無名古墳 (森ノ木古墳群) 」3

 古墳の奥壁であるとされる巨石。
 幅1.1m、高さ1.3mという大きなもので、壁面には「寛延(1748〜1750)」の年号と、「念仏供養塔」の文字が陰刻されており、江戸時代の前半期にはすでに奥壁は露出していたものと考えられます。


真岡市354「無名古墳 (森ノ木古墳群) 」4

 『真岡市史 第一巻 考古資料編』の記述からすると、奥壁はどこかから移設されたものではなく、原位置にそのまま建てられているということになるようですが、その周辺にも古墳に由来する石材ではないか?とも思しき石碑が建てられていて、なかなか興味をそそります。

<参考文献>
真岡市『真岡市史 第一巻 考古資料編』
真岡市教育委員会『真岡市遺跡分布調査報告書』


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  1. 2024/02/24(土) 22:54:16|
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真岡市「兜塚古墳 (森ノ木古墳群) 」

真岡市354「兜塚古墳 (森ノ木古墳群) 」1

 今回は前回に引き続き、真岡市根本に所在する「森ノ木古墳群」の第二回目。
 画像は、「兜塚古墳」を西から見たところです。


 明治36年に墳丘が削平された際に巨石切石の一枚岩を組み合わせた横穴式石室が確認されており、石室内からは直刀や頭椎大刀把頭、鞘飾り金具、鉄鏃、勾玉、管玉、水晶切り子玉、ガラス製小玉といったかなり多くの副葬品が出土しています。


真岡市354「兜塚古墳 (森ノ木古墳群) 」2

 残存する墳丘は、北側の約5分の1であるそうで、本来は直径約20m、高さ約3mほどであったようです。
 お隣の旦那様にお聞きしましたが、やはりかつてはもっと大きな古墳であったそうで、周囲は畑地に、西側は道路により削られて少しずつ小さくなっているそう。

 古墳の周囲で耕作が行われると、どうしても少しずつ削られて小さくなってしまいますね。。。


真岡市354「兜塚古墳 (森ノ木古墳群) 」3

 いつの間にか無くなってしまいそうな予感もあるし、うまく保存されるといいなと思います。。。


岡市354「兜塚古墳 (森ノ木古墳群) 」4

 西側の遠方から撮影した1枚。
 右の大きな墳丘が「神宮寺塚古墳」で、左の小さな墳丘が兜塚古墳です。

 周辺には他にも多くの古墳が存在したようですが、地上に墳丘が確認できる古墳はこの2基のみでした。

<参考文献>
真岡市『真岡市史 第一巻 考古資料編』
真岡市教育委員会『真岡市遺跡分布調査報告書』


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  1. 2024/02/23(金) 23:30:25|
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真岡市「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」ー真岡市指定史跡ー

真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」1

 今回は、真岡市根本に所在する「森ノ木古墳群」の第一回。
 最初の画像は、「神宮寺塚古墳 」を南西から見たところです。

 この古墳群は、小貝川右岸の低河岸段丘上に位置しています。
 昭和59年に真岡市より発行された『真岡市史 第一巻 考古資料編』には「現在確認できるのは神宮寺塚古墳(円墳)・兜塚古墳(円墳)・石室の奥壁を残す古墳・無名墳(円墳)である。」と、4基の古墳の存在を記しているのですが、私が散策した際には「無名墳(円墳)」の所在は不明で、3基を確認したのみでした。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」2

 神宮寺塚古墳は真岡市の史跡として指定されており、真岡市教育委員会による説明板が設置されています。

 墳丘南側に公民館が建てられていて、そのために墳丘は削平されて直線的になっています。
 この南側に横穴式石室が開口していますが、フェンスで覆われて施錠されています。
 このフェンスの横から石室内部に入ることは可能ですが、無理はしませんでした。

 現状の墳丘の規模は、東西24.4m、高さ4.2mほどですが、築造当時は直径30mほどの円墳であったと想定されています。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」3

 石室入り口の様子。
 この石室からは「塼(せん)」と呼ばれるレンガが出土しているそうです。
 この塼は今から約2000年ほど前の、中国が「漢」の時代に墓をつくるときに使われたレンガで、日本で出土している例は少なく、貴重なものだそうです。

 どんな人物が埋葬されていたのか、とても興味深いですよね。。。

 
真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」4

 石室内部の様子です。
 羨道部は破壊されているものの、比較的良好な状態で残されています。
 胴張りをもつ無袖型横穴式石室で、現存長6.31m、最大幅2.25m、高さ2mです。

 側壁が若干膨らんでいるようなので、大きな地震に見舞われたら崩れてしまう可能性があるかも。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」5

 この古墳には、少なくとも3回の追葬が行われているそうです。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」6

 墳丘の中服に祠が祀られています。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」7

 見上げた位置に、もう一ヶ所開講する石室があるのかな?と思ってびっくりしました。

 石碑を祀るためのお堂のようなものなのかな。
 古墳の石材である可能性は高そうだけど。。。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」8

 南東から見たところ。
 墳丘に石段が設けられて、中腹には八坂神社が祀られています。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」9

 八坂神社の祠。
 この祠の建立の際にも墳丘は削られているようです。。。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」10

 八坂神社の祠の横に見られる石。
 これも古墳に由来する石室材なのではないかと感じますが、真相は不明。


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」11

 墳頂部にはなんと、くつろぎの場所が造られていました。
 石製のテーブルと6人分の椅子が!!!


真岡市354「神宮寺塚古墳 (森ノ木古墳群) 」12

 古墳へ続く道の入り口には、標柱が建てられています。

<参考文献>
真岡市『真岡市史 第一巻 考古資料編』
真岡市教育委員会『真岡市遺跡分布調査報告書』


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  1. 2024/02/21(水) 23:15:50|
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益子町「星の宮浅間塚古墳」ー栃木県指定史跡ー

益子町032「星の宮浅間塚古墳」1

 画像は、益子町塙に所在する「星の宮浅間塚古墳」を南から見たところです。
 栃木県の史跡として指定されている前方後方墳で、小貝川右岸の丘陵上に位置しており、栃木県立益子芳星高等学校の敷地内に所在します。


 今回は学校の許可を得ることはなく、フェンスの網目の隙間から撮影した写真しかないので、2枚だけ。笑。

 古墳時代前期 (4世紀) に築造されたとされる前方後方墳で、画像は右が前方部、左が後方部という状況です。

 墳丘は前方部をほぼ東に向けており、全長約52m、後方部長約28m、同幅約28m、同高約4m、前方部長約24m、同幅約20m、同高約3.5mの規模を測ります。
 葺石や埴輪といった外表施設は確認されず、埋葬施設についても未確認ですが、敷地外から見学した印象は墳丘はかなり良好に保存されているようです。


益子町032「星の宮浅間塚古墳」2

 こちらは後方部を西から見たところです。

 本当はちゃんと学校を訪ねてたくさん写真を撮りたかったのですが、残念ながら日曜日に訪れてしまったので、墳丘上の写真はまた今度。。。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/20(火) 23:14:08|
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益子町「入定塚古墳」ー栃木県指定史跡ー

益子町066「入定塚古墳」1

 今回は、益子町大沢に所在する「入定塚古墳」の探訪の記録です。
 
 古墳は、小貝川東岸の、八溝山地の一部を成す鶏足山塊の西端に位置しています。

 舌状に伸びた丘陵の南北方向の尾根上に築造されており、昭和33年(1958)に栃木県の史跡に指定された際には前方後円墳と考えられていたようですが、その後の『栃木県史』では前方後方墳ではないかとの記載があります。
 ただし、『益子町史 第一巻 考古資料編』では「現況から判断するならば、古墳であるかどうか疑問が残る。むしろ、円通寺に付随する可能性が大きい。」とも書かれており、現状では学術的な調査も行われていないことから、この入定塚が古墳であると断定はされていないようです。


 画像は、左が前方部、右が後方部という状況です。
 確かに、同書に掲載されている墳丘測量図を見ると、素人目にも「本当に古墳かな?」と感じられる部分はあります。

 前方部は不自然に平坦だし、くびれ部も明確ではないのですが、これはひょっとしたらお寺に関係するなんらかの施設が造られて、その際に墳丘が崩されているという可能性もあるかもしれません。
 しかし、前方部が北を向く前方後方墳というのはほとんど見たことがありませんし、南北に伸びる丘陵の尾根上にわざわざ前方部を北に向けて古墳を築造するのは少々不自然な気がします。

 ホントに古墳なのかな。。。


益子町066「入定塚古墳」2

 この古墳へは、偶然出会った土地の所有者の方に道をお聞きして、前回紹介した「大沢寺前古墳」から同じ丘陵上の山道を歩いて到達しましたが、その際にその方が古墳を「いりさだづか」と呼んでいたのが印象的でした。

 古墳の名称については「入定塚 (にゅうじょうづか) 」と理解していましたので、

 「”いりさだづか”と呼ぶのですね?」
 とお尋ねしたら、

 「”にゅうじょうづか”でも間違いないと思うよ?」
 ということでした。

 『益子町史』にも「にゅうじょうづか」と書かれていましたし、ちなみにその後まだ”いりさだづか”と書かれている文献には出会っていません。

 にゅうじょうの漢字表記は「入定」ですから、断食や生き埋めなどの苦行の果てに絶命してそのまま即身仏となるような言い伝えがあるのかな?と妄想してしまいますが、今のところこの塚と入定にまつわる伝説には出会っていません。
 このあたりはもう少し調べてみようと思っています。。。


益子町066「入定塚古墳」3

 平坦な前方部上には「史跡 入定塚古墳」と刻まれた石碑が建てられています。

 後方部上とその周囲は冬でもかなり笹が茂っていて、全貌を捉えるような写真を撮ることは難しかったのですが、実際に見学してみても、果たしてこれが前方後方墳なのか、それとも古墳ではないのかよくわかりませんでした。


益子町066「入定塚古墳」4

 前方部から後方部を見たところ。

 東側の円通寺のほうからも、古墳へ通じる道があるのではないかと思っているのですが、それはまたいずれ。。。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/19(月) 19:36:06|
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益子町「大沢寺前古墳」

益子町270「大沢寺前古墳」1

 画像は、益子町大沢に所在する「大沢寺前古墳」を南東から見たところです。
 益子町の遺跡番号270番に登録されている古墳です。


益子町270「大沢寺前古墳」2

 この古墳は、詳細な情報がないまま、遺跡地図の位置情報のみを頼りに訪れました。
 山林内で偶然土地の所有者の方に出会い、そこで古墳の位置をお教えいただいて辿り着くことができましたが、すみません、怪しかったですよね。

 見学させていただいて、ありがとうございました。


益子町270「大沢寺前古墳」3

 墳丘頂部の様子。
 祠が祀られているようなこともないのですが、墳丘は盗掘跡もなくかなり良好に残されている様子です。

 所有者の方曰く、同一丘陵上には他にも古墳跡ではないかと思われる痕跡が存在するそうなのですが、遺跡地図に記されている古墳はなく、所在を確かめることはできませんでした。


 それにしても、こういう墳丘上に大木があると根こそぎ倒れてしまわないものかと心配になりますが、倒れないんですよね。
 やっぱり古墳は築造時に、しっかりと突き固めて造ってあるんだなあと思ったりします。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/18(日) 19:42:13|
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益子町「バッカン塚古墳群」後編

益子町「バッカン塚古墳群 遠景」1

 今回も前回に引き続き、益子町塙に所在する「バッカン塚古墳群」の探訪の記録です。
 前回は1号墳を紹介しましたが、今回は南方に並んで存在する2号墳から4号墳までの3基を紹介します。

 最初の画像は、この3基を西から見たところです。

 久しぶりに画像に文字を入れてみようとしましたが、やり方をすっかり忘れていて大変でした。。。


益子町「バッカン塚古墳群 遠景」2

 こちらは3基を南から見たところです。
 北東から南西に3基がキレイに並んで存在します。


益子町「バッカン塚古墳群2号墳」1

 「バッカン塚古墳群2号墳」に近寄ってみました。

 墳丘はかなり改変されている印象ですが、表面は冬でも草ボウボウでよくわかりません。
 古墳のすぐ横は駐車場として使用されていて、いずれは消滅してしまいそうかも。。。


益子町「バッカン塚古墳群2号墳」2

 同じく2号墳。

 墳丘上はひっつき虫だらけで、登ってみようとかは無理。笑。
 3基ともに墳丘上は草ボウボウだったので、露出する石材とか葺石などは確認することはできませんでした。

 服にくっついてしまう植物の種は、このひっつき虫に限らず何種類かあって、古墳巡りでは悩まされることが多いです。
 真夏に藪に突入するにはそもそも草ボウボウで古墳が見えないし、蜘蛛の巣やスズメバチや蛇も怖いから、基本的に古墳巡りは冬が望ましいと思っていますが、このひっつき虫は冬に現れるので(笑)、古墳巡りを終えると必ず身体中がひっつき虫だらけになっているという体たらくです。。。


益子町「バッカン塚古墳群2号墳」3

 同じく2号墳を南東から見たところ。


益子町「バッカン塚古墳群3号墳」1

 こちらは3号墳を北西から見たところ。
 一辺6.5mほどの方形を呈する古墳ですが、これは耕作により変形しているのであって、径約10m、高さ2mほどの円墳であるとされています。

 私が見学した日はかなり草ボウボウだったので確認できませんでしたが、墳丘には石材らしき石はまったく見られないそうで、埋葬施設は半地下ないしは地下式の、地山を深く掘り込んで構築されるの横穴式石室の存在が想定されているそうです。


益子町「バッカン塚古墳群3号墳」2

 3号墳を西から見たところ。
 埴輪は伴わないようです。


益子町「バッカン塚古墳群4号墳」1

 こちらは「バッカン塚古墳群4号墳」です。

 3号墳と同様に方形状に変形していますが、築造当時は径10m前後、高さ2mほどの円墳であったと推定されています。


益子町「バッカン塚古墳群4号墳」2

 同じく4号墳。

 畑中にある古墳は、耕作により周囲が削られて、次第に小さくなっていく運命にあります。
 歴史あるこの古墳群が残されることを願いたいです。。。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/17(土) 19:20:52|
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益子町「バッカン塚古墳群」前編

益子町「バッカン塚古墳群1号墳」1

 今回は、益子町塙に所在する「バッカン塚古墳群」の探訪の記録です。

 この古墳群は、小貝川右岸の丘陵上に立地する古墳群で、益子町の遺跡番号111番に登録されています。
 周辺にはかなり多くの古墳が存在したと伝えられているようですが、現存するのは4基です。
 古墳群中、南方の畑中に3基が並んで存在しており、そこから少々北に離れた病院の敷地内に1基が残存します。

 最初の画像は、北に離れて存在する「バッカン塚古墳群1号墳」を北西から見たところです。


益子町「バッカン塚古墳群1号墳」2

 この古墳の名称である「バッカン」とはいったいどんな意味があるのか、気になったので調べてみました。

 「バッカン」とは、「バ」と「カン」の間に促音(小さなツ)が入って「バッカン」という言葉が作られており、これを漢字に当てると「馬韓」の二語で表すことができ、この馬韓は古代朝鮮の種族名、または居住地域を指しているそうです。

 「馬韓」は「三韓」の一つで、他に「弁韓(べんかん)」、「辰韓(しんかん)」に分かれていきましたが、この3つの種族、あるいは小国家群を「三韓」と言い、現在の韓国の南部、東南部、西南部に拠っていたそうです。
 馬韓の居住地は「全羅南北道」、「忠清南北道」および「京畿道の漢江異性の地域」とみられ、「弁韓」はほぼ「慶尚南北道の洛東江以西」に、「辰韓」はほぼ同江以東に比定できるそうです。

 いずれにせよ、この「バッカン (馬韓) 」は「馬韓一族」あるいは一国にとどまらず、古朝鮮民族を総称した名称と考えられるようです。


 歴史に見られる帰化朝鮮人の東国移住は、666年に百済の男女2000余人が東国に移住しており、天武十三年665年に百済の僧尼および一般人男女23人が武蔵国に移住。687年には新羅の僧尼と百姓男女22人が武蔵国に移住。689年には新羅人が下野に移住し、690年にも新羅人12人が武蔵に移住、その8月には別の新羅人を下野に住まわせているそうです。

 1400年前の人々の移住の記録が残されているというのもびっくりですが、この塙の地域におけるバッカンは馬韓の人、いわゆる古朝鮮の新羅人が下野国に移住したものがあったと推定されるようです。


益子町「バッカン塚古墳群1号墳」4

 墳丘上には、石室の石材かな?と思しき巨石が置かれています。


益子町「バッカン塚古墳群1号墳」5

 もう一ヶ所、こちらも古墳由来の巨石ではないかと思われますが、真相不明。

 バッカン塚古墳群、次回の後編に続きます。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/16(金) 20:25:54|
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益子町「田中古墳群5号墳 (きつね塚) 」と「同8号墳」

益子町「田中古墳群5号墳」1

 今回は、益子町七井に所在する「田中古墳群」の第三回目。
 最初の画像は「田中古墳群5号墳」を南西から見たところです。

 畑地の中にポツリと存在していて、すぐに見つけることができました。
 地元では「きつね塚」とも呼ばれている古墳で、径約14m、高さ約2.5mの円墳とされています。


益子町「田中古墳群5号墳」2

 北西から見た5号墳です。

 墳丘の東側や北側は削られていて、かなり変形している様子。
 元々はかなり大きな古墳だったのかな、、、と想定されます。


益子町「田中古墳群5号墳」3

 墳頂部の様子です。


益子町017「田中古墳群8号墳」1

 6号墳と7号墳は消滅しているので、今回は写真はありません。
 画像は「田中古墳群8号墳」を南から見たところです。

 これは、2022年とわりと最近になって確認された古墳で、言われなかったら古墳跡だとは絶対に気がつかないよ!という感じ。
 私は、最初に向かいのコンビニに車を停めて買い物をしたのですが、スルーしました。笑。

 本当に古墳なのかな。。。


益子町017「田中古墳群8号墳」2

 同じく8号墳を南西から見たところ。。。
 絶対に古墳だと気がつかないけど、言われてみると古墳らしく見えてくるから不思議です(そんなことねーよ)。笑。


益子町017「田中古墳群8号墳」3

 南東から見た8号墳。

 今回で田中古墳群は終了。
 益子町の古墳はまだまだ続きます!

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/15(木) 21:31:02|
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益子町「田中古墳群3号墳」と「同4号墳」

益子町「田中古墳群3号墳」1

 今回は、益子町七井に所在する「田中古墳群」の第二回目。

 最初の画像は「田中古墳群3号墳」を南から見たところです。

 1号墳の南南西約200mに位置している古墳で、規模は径約13m、高さ約2mの円墳とされています。
 鳥居が建てられており、墳丘上には八雲神社が祀られています。


益子町「田中古墳群3号墳」2

 南東から見たところ。
 神社古墳はあまり道に迷うことなくすぐに見つかります。\(^o^)/


益子町「田中古墳群3号墳」3

 3号墳を南西から見たところ。


益子町「田中古墳群3号墳」4

 鳥居をくぐったところ。

 この神社の社殿は、平成4年5月23日に発生した竜巻が直撃して壊滅。
 翌平成5年に再建されているそうです。

 確かに、この頃に大きな竜巻のニュースを見た記憶がありますが、ほんとに日本は災害が尽きないですよね。。。


益子町「田中古墳群3号墳」5

 3号墳を北西から見たところ。


益子町「田中古墳群4号墳」1

 こちらは、疑惑の「田中古墳群4号墳」です。

 『益子町史 第一巻 考古資料編』389ページの「田中古墳群位置図」ではこの4号墳の位置が若干ズレていて、古墳の位置がわからずに少々迷いました。
 盗掘が激しく原型を留めていない上に雑草も茂っているので、うっかりしていると見落としてしまいそうです。

 最新の『益子町遺跡地図』の地図上では消滅扱いになっているようなのですが、分布調査の際に見落とされてしまったのか、それとも私がこのマウンドを古墳だと誤認しているだけなのか、不明。。。

 これが4号墳だと思うけどなあ。。。


益子町「田中古墳群4号墳」2

 墳頂部の様子。
 ベッコリと凹みができていて、激しく盗掘を受けている様子です。

 田中古墳群、さらに次回に続きます。。。

<参考文献>
益子町『益子町史 第一巻 考古資料編』
益子町教育委員会『益子町遺跡地図』


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  1. 2024/02/14(水) 20:22:32|
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