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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「鈴木九郎長者塚」

中野区「鈴木九郎長者塚」1

 画像は、中野区本町2丁目に所在する「成願寺」です。
 山号を多宝山と称す曹洞宗の寺院で、開基は正蓮居士、俗名中野九郎(中野長者)で、開山は応永年間といわれています。

 このお寺には、中野長者正蓮、つまりは成願寺の開基鈴木九郎の墳墓であるといわれる円形の塚が所在したとされています。
 塚は成願寺の背後の丘陵上の台地縁辺部にあり、周囲には壕のあとがあったともいわれています。
 Googleマップ等で確認したところでは、すでに塚は開発により消滅しているようなのですが、この塚が古墳ではなかったという妄想の真偽を確かめるべく、成願寺を訪れました。


中野区「鈴木九郎長者塚」2

 さて、「鈴木九郎長者塚」の由来を知るためには、このお寺が建立されたいきさつについて理解しなければなりません。
 成願寺HPの「成願寺の歴史」にこのお寺にまつわる伝承について書かれていますので、転載させていただきました。

成願寺の歴史
 およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。

 そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。
 食べもののない日が何日も続くような、たいへんまずしい暮らしでした。九郎の馬もやせていて、あまり高くは売れません。

 ある日九郎はやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。
 「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」

 大観通宝というのは中国のお金です。そのころは日本でも、中国のお金が使われていたのです。
 さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったより、ずいぶん高く売れました。
  (これは観音さまのおかげじゃ)
 九郎は大喜び。ところが受け取ったお金をよく見てみると、みんな大観通宝だったのです。

 (これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・)
 九郎は迷いました。約束どおり、観音さまにお金をあげてしまうと一銭も残りません。せっかく千葉まで馬を売りにきたのに、それではあんまりです。
 でも九郎はこう思いました。
 (やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
 こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
 
 しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
 九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。

 それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。(後略)



中野区「鈴木九郎長者塚」3

 江戸時代から昭和初期にかけての地誌類には、この成願寺の塚について記されている文献も少なくないようです。

 江戸時代の地誌『江戸名所図会』には

「中野長者正蓮墳墓 同じ境内叢林の中にあり、開基鈴木九郎の墓なり。其石塔今崩れて半土中に埋れてあり。紫一本といへる冊子に、武州多摩郡中野の中、正観寺といふ薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記してありと云云。昌正同音なり。同巻高田百八塚の条下と応照せてみるべし。」

 とあり、また『江都近郊名勝一覧』には

「中野長者の墓 成願寺の境内に在り。長者は名を正蓮といふ、武州多摩郡中野正観寺薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記したり、則この人也といふ」
 とあり、さらに『嘉陵紀行』には

「其うしろ乾に小高き塚あり、周りにから壕のあとあり、墳につゝぢ二三株生ず、其下に小さき五輪のかさニツ、半土に埋れてみゆ、伝ていふ、性蓮長者といふものゝ墳也と、又この山も、其人のすみし跡也と、又この山も、其人のすみし跡也と云…」

 とあり、成願寺の裏山に存在する塚とから壕のようすが描かれています。

 また、昭和6年に発行された『東京淀橋誌考』には

 「開基、中野長者正蓮の墓は、寺背の丘陵松樹の傍らに在り、五輪の塔にて高さ五尺許、正面に梵字を刻するのみ他に文字を見す。前に一尺許の板碑に「明徳三年七月二十八日」と鐫れるがありたるも、正蓮が成願寺を創立せしは、應永年間にして其の死は永享十二年にあり、而して明徳は其の以前の年號なるは疑ふべし、惟ふに此の板碑は長者の墓に関係なきものならんか、墓は大正十四年五月、東京府史蹟bに定められ左の標示を建つ。
   史 蹟   中野開拓 鈴木九郎長者塚
     大正十四年五月         東   京   府


 ちなみに、神田川左岸の同じ台地上縁辺部となる、この成願寺の北方数百メートルの地点には「塔山古墳群」が存在します。
 多くの郷土史本の記述やこの鈴木九郎長者塚が築造された立地からすると、やはりこの鈴木九郎長者塚は実は古墳だったのではないか、と妄想したくなってしまいます。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」4

 お寺の墓地内で塚の跡地と想定される裏山を見上げてみると、塚状に盛り上がったようにも見える一角が視界に入りました。

 江戸時代の地誌類に描写からすると、成願寺の本殿の背後の裏山を北方に登りきった台地の縁辺部が塚の跡地ではないかと想定されます。斜面の中腹であるこの場所が塚の跡地とは考えにくいところですが、それでもやはりこの目で確かめなくてはなりませんね。笑。


中野区「鈴木九郎長者塚」5

 近寄ってみました。

 塚状に盛り上がって見えるものの、特別何かが祀られているというような状況でもないようです。
 墓地内の築山なのか、単なる自然地形なのでしょうか。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」6

 南東から見た塚状地形。

 怪しい地形であるようにも思えますが、お寺でお聞きしたところでは、少なくとも鈴木九郎長者塚とはなんの関係もないようです。





中野区「鈴木九郎長者塚」7
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194185&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月3日に米軍により撮影された鈴木九郎長者塚跡地の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 この塚の学術的な調査は行われていませんので、塚の性格や正確な所在地については知る由もないのですが、塚の跡地ではないか、と想定したあたりに円形の影を見つけました。
 画像の中央に大きな円形の影、その左にも小さな円形の影が見えるように思えます。。。

 第二次世界大戦後、空襲により焼け野原となった後の写真です。
 これが鈴木九郎長者塚の周囲に巡っていたという「から壕のあと」なのでしょうか。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」8

 塚の跡地と想定した周辺の様子です。

 空中写真の影を塚の跡と推定するならば、道路が突き当たったあたりが塚の跡地となります。
 残念ながらすでに開発が進み、塚の痕跡は何も見られません。


中野区「鈴木九郎長者塚」9

 画像右側あたりが塚の跡地でしょうか。

 やはり塚の痕跡は何も見られません。。。

 
中野区「鈴木九郎長者塚」10

 ここが、成願寺境内に所在する、現在の「鈴木九郎長者塚」です。

 中野長者である鈴木九郎の伝承については、昭和の時代になって、ある驚愕の事実が判明します。

 成願寺の開山、川庵宗鼎像の開山像の解体修理が昭和55年に行われますが、この際に像の胎内から人骨が発見されます。開山像は江戸時代初期に造られた70センチほどのお像で、胎内に収められていた骨は、粉々といってもいい状態の数百個に及ぶ細片であったそうです。これを鈴木尚東大名誉教授による約10ヶ月の鑑定の結果、熟年男性と若い女性の二体の人骨に、犬の骨が混ざっていることがわかりました。

 男性の骨は、頭骨の縫合の具合やその状態からして筋骨たくましい熟年男性であると想定され、また女性の骨は、その形状から室町時代の女性と推定され、元来小柄である室町時代の女性の中でもさらに小柄であったようです。

 これらの骨が大切な開山像に内蔵されていたということは、この成願寺において重要な人物の遺骨であることは間違いなく、また愛娘である小笹は結婚する前に亡くなったとも伝えらており、この伝説と人骨の鑑定結果はピタリと一致しています。
 鑑定された骨片が中野長者と小笹の遺骨である可能性は、かなり高いのではないかと考えられます。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」11

 中野長者である鈴木九郎のお墓です。

 お寺でお聞きしたところでは、第二次世界大戦中の空襲によりこの一帯は焼け野原となり、裏山にあったという長者塚も灰塵と化したそうです。


中野区「鈴木九郎長者塚」12

 画像中央は、かつて丘陵上に所在した「鈴木九郎長者塚」に建てられていたという石碑です。
 『史蹟 中野開拓 鈴木九郎長者塚 東京府』、背面には『大正十四年 五月』と刻まれています。
 かつては塚が東京府の史跡として指定されていたことがわかります。

 戦後になって、この石碑のみが現在地に移されたようです。

 唯一の塚の痕跡ですね。。。





中野区「鈴木九郎長者塚」13

 さて、ここからはわりとタイムリーな画像で、最近再訪した時の画像です。笑。

 この成願寺の裏山には、第二次世界大戦中に使用されたという防空壕が残されています。
 事前に申し込みをして、この日は防空壕の内部を見学させていただきました。

 画像が防空壕の入り口で、ここから内部に入ることができます。


中野区「鈴木九郎長者塚」14

 防空壕内部のようです。

 防空壕の内部は、総延長30数m、総面積は約80平方メートルです。
 内部は堀きりで中が剥がれだし、また上の木は大きく崩落の危険があったことから平成12年(2000)に補強工事が行われており、画像に見えるように壁面が全て鉄板によって保護されています。

 戦争当時は、アメリカ空軍の空襲のたびに近隣から多くの人が逃げ込んだそうです。
 また、空襲により堂宇や仏像は全焼しましたが、かろうじてご本尊様、ご開山さまと古文書の一部が防空壕によって守られたそうです。

 東京都内で、現代まで残されていて、しかも内部を見学できるという防空壕はなかなか稀有で、貴重な存在です。

 壁にくり抜かれている空間には、仏像を安置しようとしたそうですが、実際には水漏れが激しく、また木の根が突き出してきたりと、計画通りにはいかなかったそうです。


中野区「鈴木九郎長者塚」15

 内部はかなり広くてびっくりです。
 中に本堂もあり、風呂や雪隠も備えています。

 5月25日夜の空襲の際には、南からの火の手をおそれて北へ転進したところ、逆から火が襲い犠牲になったという悲しい話もあるそうです。境内では、焼かれて骨だけになったしゃがみこんだ遺体が三柱もあったそうです。
 以前、5月14日の『古墳なう』の「塔山古墳群」の回でも、焼かれて変形した庚申塔の写真を紹介しましたが、この周辺はかなり激しい空襲が行われたといわれています。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」16

 防空壕内部の一室には、謎の像と温度計が置かれていました。
 内部の気温は22度です。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」17

 空襲の際には大勢でここに逃げ込んで、皆でガタガタと震えていたのかもしれませんよね。
 内部に電気がついていたかどうか微妙だし、想像すると恐ろしいです。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」20

 再訪した日に御朱印をいただきました。.゚+.(・∀・)゚+.





中野区「鈴木九郎長者塚」21

 周辺を歩くと、「長者」の名称がそこかしこに残されています。
 画像は「長者橋」。
 下を流れているのは神田川です。

中野区「鈴木九郎長者塚」22

 「中野区立長者橋公園」。


中野区「鈴木九郎長者塚」18

 成願寺の周辺は、中野区の遺跡番号72番の「成願寺遺跡」として登録されており、古墳時代から奈良時代にかけての横穴墓が数多く存在したようです。

 画像の周辺にも横穴墓が存在したはずですが、痕跡は全くみられません。
 むしろ、成願寺の境内にこそ残されているかもしれませんね。。。


中野区「鈴木九郎長者塚」19

 画像は「象小屋の跡」です。

 江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。
 当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また、象にちなんだ調度品、双六や玩具類
もさかんに作られました。
 中野に来た象は、享保十三年(1728)中国人貿易商鄭大威が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち、中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが、寛保二年(1742)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。(中野区教育委員会説明板より)


 というわけで、「鈴木九郎長者塚」が古墳であったか否かの真相はわかりませんでした。

 今、両国にある江戸東京博物館で「東京府史蹟」という地域展を開催しています。
 ひょっとしたら、「鈴木九郎長者塚」の往時の姿を写真で見られるのではないかという期待があって見学に行きましたが、残念ながら取り上げられていなかったようです。
 展示は「館蔵及び寄託資料で「史蹟名勝天然紀念物保存法」成立当時における東京府史蹟の一部を紹介する」ということでしたので、大正14年5月に指定されたという「鈴木九郎長者塚」は含まれていなかったのかもしれません。(ちなみに「発掘された日本列島2020」なる企画展も開催されています。この時期とっても空いていますので、ゆっくり見て回るチャンスかも)

 昭和初期までは存在した塚ですので、もう少し深追いをすれば当時の塚の写真が見つかったかもしれませんが、これは今後の宿題ということで。。。

<参考文献>
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
小林貢『中野長者の寺・成願寺』
中野区教育委員会『中野を読むⅠ 江戸文献史料集』
曹洞禅 多宝山 成願寺『「戦争体験」「成願寺界隈の大正・昭和」について』


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  1. 2020/07/07(火) 23:39:19|
  2. 中野区の古墳・塚
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「西東京市内の庚申塔」その5

 西東京市内の庚申塔シリーズ、いよいよ今回が最終回です!


「柳沢2-19の青面金剛庚申塔」1

 まずは、柳沢2丁目19番地に所在する青面金剛庚申塔です。

 元々は、青梅街道に面した旧上保谷100番地に立っていたそうですが、青梅街道の拡張により昭和45年(1970)2月に現在地の小祠に安置され、柳沢睦会(商店街)の管理のもと初牛祭りが盛大に行われているそうです。


「柳沢2-19の青面金剛庚申塔」2

 お堂の扉は施錠されていたため、隙間から必死で中を覗きました。笑。

 当日は見落としてしまったのですが、祠の中にはもう1基、小青面金剛像が付置されていたそうです。。。


「柳沢1-5の文字庚申供養塔」1

 画像は、柳沢1丁目5番地に所在する庚申塔です。


「柳沢1-5の文字庚申供養塔」2

 庚申塔は、現在の伏見稲荷通り沿いの小さなお堂の中に安置されています。

 この場所はあまり目立たないので、通りを歩いていると気が付かずに通り過ぎてしまいそうです。
 (実際に私は一度通り過ぎて周囲を一周。裏側からお堂を見つけました。笑。)


「柳沢1-5の文字庚申供養塔」3

 庚申塔は、現在の伏見稲荷通り沿いの小さなお堂の中に安置されています。
 上柳沢一帯で庚申信仰が盛んであった江戸時代に、個人「頓覚清心信士」を供養したという、類例の少ない塔碑です。


「保谷町3-8の青面金剛庚申塔」1

 画像は、保谷町3丁目8番地に所在の青面金剛庚申塔です。
 市道353号線に拡張した旧道と富士街道(道者街道)との交差点の西北隅に安置されています。

 ちなみに個人的には、やっぱり庚申塔はこうした分かれ道にあって欲しいですよね。
 恋愛で二股はいかんですが、庚申塔は二股に限ります(おやじ)。。。


「保谷町3-8の青面金剛庚申塔」2

 お堂の内部の様子。
 右側が庚申塔で、左側は大乗妙典供養塔です。
 庚申塔の造立は宝永六年七月吉日で、邪鬼と三猿を踏む三面の青面金剛立像です。






「中町3-1の青面金剛庚申塔」1

 中町3丁目1番地に所在する面金剛庚申塔です。
 開発が進み、閑静な住宅街となった地域の一角に、静かに祀られています。


「中町3-1の青面金剛庚申塔」2

 旧保谷市域では、上柳沢の庚申塔と並び立つ秀逸な庚申塔であるとされています。
 下手に弓と矢を持つ像容が特色です。。。


「泉町2-3の青面金剛庚申像」1

 西東京市の庚申塔シリーズ、最後は、泉町2丁目3番地に所在する青面金剛庚申像です。

 現在の「榎ノ木通り」と「関道」が交差する北方、如意輪寺の旧山門から南下する道と、上宿から東南に向かう旧道が鋭角に交差する北側に、小祠の中に安置されています。
 ここは江戸時代には高札場とされていた場所であり、上保谷村の中心であったそうです。


「泉町2-3の青面金剛庚申像」2

 二鶏三猿を刻んだ台石の上にうずくまる邪鬼を踏まえたという青面金剛の全身像で、造立年次と作者が伴っている数少ない例であるそうです。


 この日の探訪は「路傍の庚申塔」をテーマに行いました。
 古墳が存在しない西東京市をじっくり巡ることができたのは、私にとっては大きな楽しみでしたが、例えば向台町6丁目の持宝院など、お寺に移されたような庚申塔を廻らなかったのは今後の課題かも。。。

 色々な場所の庚申塔を散策しましたので、いずれまた機会を見て、紹介できればと思っています。。。

<参考文献>
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 一』
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 二』


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  1. 2020/07/05(日) 23:10:56|
  2. 東京の庚申塔
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「西東京市内の庚申塔」その4

「西原町5-1の青面金剛庚申塔」1

 画像は、西原町5丁目1番地の庚申塔です。

 庚申塔の様子。講中35人による造塔で、寛延2年(1749)に造立の笠付型の青面金剛像です。

 所沢街道が拡張され、庚申塔が道端にかかることから近所に住む並木氏の浄財をもって塔を少し移動して、祠を建てて改修されたそうです。


「西原町5-1の青面金剛庚申塔」2

 ここは、六角地蔵尊の建つ六道の分かれ道で、所沢街道と前沢道の分岐点に建立されました。

 庚申塔の左右側面にそれぞれ、ところざわ・ちちぶ道、まえざわみちと道標が刻まれています。


「石幢六角地蔵尊」1

 画像は、西原町2丁目5番地に所在の「石幢六角地蔵尊」です。

 この地蔵は、江戸時代の安永八年(1779)に田無村地蔵信仰講中43名によって建立されたもので、当時すでにこの場所が六本の分かれ道であったことから、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の苦界)を救済するといわれる地蔵を路傍に建立し、道の各方面に地蔵一体ずつ彫刻して、その脚部に保谷、南沢、前沢、所沢、小川、江戸みちの道しるべが刻まれています。


「石幢六角地蔵尊」2

 この地蔵については、西東京市の郷土資料室で存在をお聞きして見学に立ち寄りました。

 当初は、所沢街道をはさんだ向い側に当初建立されたそうですが、移動されたことにより正面の向きを180度変えたため、今では道しるべとして刻まれている地名が全て逆向きになってしまっているという状況であるそうです。笑。

 庚申塔ではありませんが、面白いエピソードなので取り上げてみました。


「石幢六角地蔵尊」3

 綺麗なお花がたくさん生けられています。


「柳沢庚申塔」1

 画像は、田無町2丁目22番に所在する柳沢庚申塔です。

 西東京市の文化財第28号に指定されている庚申塔で、青梅街道と所沢街道の追分に建立された庚申塔です。
 追分は江戸時代の早い時期に開けた所で、柳沢宿と呼ばれ、人家が比較的多く街並みを形成していたそうです。

 『西東京市Web』によると、この庚申塔は昭和40年(1965)頃に所沢街道拡幅のため移設され、その後さらに平成18年(2006)に現所在地に移設されています。建立当時に比較的近い場所となっているようです。


「柳沢庚申塔」2

 西東京市教育委員会による説明板には次のように書かれています。

西東京市指定文化財第二十八号
 柳沢庚申塔
                享保八年(一七二三)建立
 慶長十一年(一六〇六)の江戸城の大改修以来、城の壁材で
ある石炭を運ぶ道として青梅街道がひらかれました。青梅街道
の成立とともにその人馬継立てを行う宿として、田無村柳沢宿
は発展しました。
 享保八年(一七二三)この付近の住民二十三人によって庚申
講が組織され、来世安楽を祈願してこの庚申塔が建立されまし
た。
 庚申塔の型式は、梵字をはじめニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼
が揃えられた代表的な角柱塔で、この宿の経済的な繁栄を誇示
するかのように大形です。
 当時の田無村は交通の要路にあり、青梅道と所沢道などの分
岐点(現田丸屋商店の角)は田丸屋旅館もあり、田無を印象づ
ける著名地点でした。ここに庚申塔を建て、道しるべの役目を
持たせたもので、この地域ではとても古いものです。
  昭和六十三年九月
                   西東京市教育委員会







「弘法大師標柱」1

 画像は「柳沢庚申塔」の東方、所沢街道と富士街道の分かれ道にある「弘法大師標柱」です。

 庚申塔ではありませんが、この景観が私はたまらなく好きだったりしますので、おまけです。。。


「弘法大師標柱」2

 原位置から移動されてお寺や神社、郷土資料館等に集められた石造物も少なくありませんが、こうして舗装された歩道の一角にボコッと残されているような庚申塔やお地蔵様もたくさん目にしました。その度にむしろ、東京という街の懐の深さを感じさせられます。。。

 私は海外に行ったことはありませんが、海外はどうなんだろう。。。

「弘法大師標柱」3

<参考文献>
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』


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  1. 2020/07/02(木) 19:52:33|
  2. 東京の庚申塔
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「西東京市内の庚申塔」その3

 前回から引き続き「西東京市内の庚申塔」、今回はその3です。

「田無町4-19の青面金剛庚申塔」1

 画像は、田無町4丁目19番に所在する庚申塔です。
 青梅街道と府中道が交差する、現在の「田無町5丁目交差点」の南東角に所在します。


「田無町4-19の青面金剛庚申塔」2

 ビルの一角に庚申塔を祀るための空間が造られており、お堂の中に安置されています。


「田無町4-19の青面金剛庚申塔」3

 お堂の内部の様子です。
 かなり風化と破損が激しく、銘文は読めないようですが、青面金剛が邪鬼を踏まえた、六臂(腕)の合掌型忿怒像で、田無の講中によって建立されたものと考えられているようです。

 道しるべも兼ねた庚申塔で、右側面に「ふちうみち」と刻まれているそうです。


「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」1

 8ヶ所目。

 画像は、田無町4丁目1番に所在する庚申塔です。

 青梅街道に東京街道が交差する「橋場」の交差点に造塔されている笠付庚申塔で、人の背丈ほどもあるかなり大きな庚申塔です。


「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」2

 お堂の内部の様子です。
 左が庚申塔で、右側にはお地蔵様と思われる石造物が祀られています。
 お洋服を着せられていて、地元の人に大切に祀られている様子がうかがえますが、肝心の庚申塔の様子がよくわかりませんでした。笑。


「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」3

 青面金剛は一面六臂、合掌型で邪鬼を踏まえています。三猿を刻む庚申塔は田無周辺でも非常に多く、この庚申塔も下部には三猿を浮き彫りにしているそうです。


「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」1

 右側のお地蔵様です。
 ダウンジャケットを着せられていて、その下にはシャツも着用しているようです。
 訪れたのは2月で、季節的に真冬でしたし、仕方がないですかね。。。






「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」2

 9ヶ所目は、芝久保町4丁目12番に所在する「北芝久保庚申塔」です。
 青梅街道沿いの「中国ラーメン揚州商人」というラーメン屋さんの西側に所在します。

 ちなみに、ここが青梅街道であるという認識が今までなかったのですが、自転車で走ってみて初めて知りました。。。

 西東京市の文化財第6号に指定されている庚申塔で、延宝2年(1674)北芝久保地区に入植した農民18人の庚申講中によって建立されたものです。


「芝久保町4-1の青面金剛庚申塔」3

 庚申塔の様子です。
 お堂の前に西東京市教育委員会に取る説明板が設置されており、次のように書かれています。

西東京市指定文化財第六号
  北芝久保庚申塔
延享二年(一六七四)建立
 この庚申塔は、延享二年(一六七四)に北芝久保に入植した
出百姓十八名によって建立されました。この庚申塔は、新田の
はずれの標識でもあり、開拓のモニュメントでもありました。
多摩地域全体を見わたしても、とくに初期に建立されたものに
あたります。
 碑面は、中央に「為奉造立菩薩也」の文字が刻まれ、その下
に三猿の浮彫りがあるだけで、青面金剛のない古い作風を伝え
ており、日天・月天・剣先形など神道の信仰が残されています。
 また三猿は、庚申の申(さる)から発展したもので、そのレ
リーフは、他の庚申塔と比較し、とくに大きく美しいものです。
三猿の上方に陰刻されている雄・雌の鶏は、古くは「暁を告げ、
悪魔を退散させる鳥」という民間信仰でしたが、次第に「庚申
の暁は、鶏が鳴くまで語り明かす」という意味のものとなりま
した。
  昭和四十二年二月
                   西東京市教育委員会


 次回に続く。。。

<参考文献>
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第2集』


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  1. 2020/07/01(水) 19:47:15|
  2. 東京の庚申塔
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「西東京市内の庚申塔」その2


 前回に引き続き、今回も「西東京市内の庚申塔」、その2です。

「向台町4-13の青面金剛庚申塔」1

 画像は、向台町4丁目13番地に所在する庚申塔です。

 一応、当日自転車で巡った順番通りに紹介していますが、この日はかなり朝早く出発したので、この場所でまだ午前10時頃と順調です。しかも、折りたたみ式でなく口径の大きな自転車で来ていますので、スピードが出ることもあって絶好調です。笑。


「向台町4-13の青面金剛庚申塔」2

 この庚申塔は、現在の向台中央通りと市役所通りが交差する「市民公園前」交差点のやや北東寄りに安置されています。

 旧田無市内には13基の庚申塔があり、年代不明のものを除くと元禄までの江戸前期のものが4基、中期が8基で、後期のものはないそうです。
 この庚申塔は寛保3年ですので、江戸中期の造塔ということになるようです。


「向台町4-13の青面金剛庚申塔」3

 庚申塔は、笠付型(85×38×24)の青面金剛像です。






「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」1

 5ヶ所目。
 芝久保町1丁目13番に所在する庚申塔です。

 なんと!この庚申塔は銭湯の敷地内に所在するのですが、銭湯の名称はなんと「庚申湯」!
 庚申塔が名称の由来となっているのです!
 これまで「庚申荘」等、アパートの名称では見たことがありますが、「庚申湯」はちょっと感動ですよね。笑。

 しかも!すでに画像の右端にちらりと見えていますが、この庚申塔は塚の上に祀られています。

 この塚に出会えたことで、この日は勝ったも同然!

「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」2

 塚の様子です。

 あとで調べてみたところでは、この場所は南側からなだらかなスロープが石神井川まで続く丘であったそうで、路面の高さまで切り崩して更地にしたために庚申塔だけがそのまま残ったということのようです。

 まあ経緯はどうあれ、西東京市内では数少ない「庚申塚」ということになります。


「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」3

 庚申塔の様子です。
 地元の人に大切に祀られている様子がうかがえます。
 笠付型の青面金剛像で「宝永三丙戌歳九月吉日」と刻まれています。

 私が上京した頃の東京にはまだお風呂のないアパートがたくさんあり、銭湯にはとってもお世話になりました。
 ひとっ風呂浴びていきたい気持ちもありましたが、まだ午前中。
 あきめて、次の場所へ向かいます。






「南芝久保庚申塔」1

 田無町6丁目1番に所在する「南芝久保庚申塔」です。
 旧田無市の府中道沿い、現在のシチズン時計本社ビルの南側に所在する庚申塔でで、昭和57年には西東京市の文化財第十七号として指定されています。


「南芝久保庚申塔」2

 庚申塔の様子です。
 お堂の横には西東京市による説明板が設置されており、次のように書かれています。
 
西東京市指定文化財第十七号
  南芝久保庚申塔
延亨二年(一七四五)建立
 この庚申塔は、延享二年(一七四五)に田無村南芝久保の三
十八人講中によって建立されました。
 破風形笠の上に宝珠を戴き、正面には六臂(六本の腕)の青
面金剛像が両脚下に二匹の邪鬼を踏まえ、瑞雲、日輪、月輪、
雌雄の鶏などを配し、六臂には、弓、矢、宝剣、矛、輪宝を持
っています。
 この庚申塔の特徴は、左の第一手で俗に「ショケラ」と呼ば
れる女人の髪の毛を握っていることですが、これが何者である
のか、定説はありません。また、このような像がある庚申塔は、
この地域ではほかに例がありません。
 功臣信仰は、中国の道教にある「庚申(かのえさる)の夜、
眠っていると三尸(三匹)の虫が人の体から抜け出して昇天し、
天帝にその人の行いを報告し、天帝は罪過を判定してその人の
寿命を縮める」という話が、仏教や神道と結びついたものです。
 青面金剛が本尊になったのは、仏教の陀羅尼経大青面金剛呪
法に虫除けの法があるということと結びついたものと言われて
います。また「かのえさる」のサルと神道の猿田彦神が結びつ
き、三猿に発展し、庚申塔に描かれるようになりました。
 猿田彦は、道案内の神で、道を守り、旅人の安全を守るとい
う信仰があります。
  昭和五十七年四月
                 西東京市教育委員会掲示


以下、次号に続く。。。

<参考文献>
多田治昭『田無市の庚申塔』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』


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  1. 2020/06/29(月) 19:32:12|
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