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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「入定塚」

「入定塚」

 練馬区貫井5丁目に所在するのが「入定塚」です。
 『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、路上から見学したところでは「塚」らしきマウンドは存在しないようですが、個人の民家の敷地内には入定塚の石碑が残されています。

 伝承によると、ある旅僧が止宿した際に自ら石を刻み、それが完成すると「これで全ては終わった」と村人に頼んで自分の身体を土中に埋めてもらったそうです。それから七日目、それまで聞こえていた鉦の音がぱったりと止まり、大往生を遂げました。なんとその日は、旅僧が石碑に刻んだ延享五年(1748)四月二十三日であったといわれています。
 入定塚の伝説は東京都内でも各地に残されているようですが、僧が自ら石碑に刻んだ日に大往生を遂げるとは、とても興味深いお話ですよね。。。

 この塚を見学に訪れた日に、土地の所有者のお宅をピンポンしてみたのですが、残念ながらご在宅である様子がなく、石碑の撮影の許可を得ることができませんでした。石碑の写真は、いつかまた近くを訪れるときまでの宿題ということで、乞うご期待。。。

<参考文献>
練馬郷土史研究会『練馬区の歴史』


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  1. 2018/11/14(水) 00:58:58|
  2. 練馬区
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「お松塚」

「お松塚」

 「お松塚」は、練馬区南大泉5丁目にかつて所在したといわれる塚です。すでに塚自体は開発により消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、昭和50年代頃まで塚は残されており、地元の古い人たちは「お松どん」と呼んでいたそうです。
 画像はこのお松塚の跡地周辺の、現在のようすです。正確な所在地まではわかりませんでしたが、塚はかつての土支田村と小榑村の村境にあり、一本松の下には小さな祠が祀られていたそうです。
 このお松塚にまつわる言い伝えについて、『練馬区史』には次のように記されています。

 大泉学園駅から保谷駅へいく西武電車沿いの道が、白子川の谷を渡つて、東大泉町から西大泉町へ入つた所に、形ばかりの小さな塚がある。塚の上には、小さな石の祠があつて、これを土地の人は、お松様と呼んでいる。むかしから、嫁入の行列は、決してこの前を通らないことにしている。それは、ちようど中山道板橋宿にある縁切榎と同じように、この前を通つていつた嫁は、必ず不縁になると信じられているからである。
 それはなぜか。村の娘は、村の若者が管理している時代があつた。結婚は村人同志で行われるのが原則で、娘が他の村へ出ることを非常に嫌つたので、そうする場合には、事前に、若者たちに何程かの償いをして、その了解を得なければならなかつた。もしその了解を得ないままに、娘が他村へ出るようなことがあれば、若者たちは、ただでは置かなかつた。何等かの手段で報復しなければ止まない。祝言の席に暴れ込んで、酒肴を強要したり、石の地蔵様を担ぎ込んだりしたという話は、至る所に聞かれた。このお松様の塚のある所は、むかし土支田村と小榑村との村境で、ものさびしい場所で、村から出ようとする、嫁入の行列を、若者たちが襲うには、屈強の場所だつた。そこにたまたま松の大木があつ たので、お松様の前を通ると、不縁になるというような話だけが、そうした事実の行われなくなつた後までも、伝わつたものと思われる。
 そして、また、江戸時代の半頃には、そこに、どこから流れて来たとも知れぬお松という老婆が、小屋掛して住んでいた。ある時、嫁入の行列が、そこを通ると、お松は何を思つたか、物に狂つたように、花嫁におどりかかつた。あまり不意だつたのでお伴の人々も、あわてて、なすところを知らなかつたが、やつと泣叫ぶ花嫁を救い出した時には、もう、一生に一度の晴と着飾つた衣裳は、ずたずたに裂切られていた。嫁の災難は、これだけでなかつた。このことから、ついに破談となつてしまつたのである。こんな事が、その後も、度々重つたので、村人は嫁入の時には、遠廻りしても、ここを通らないことにした。
 そのお松婆の死んだ後、葬つたのが、この塚であるというような話が生れた。


 よくある祟りの伝説とは違って、ちょっと史実に近いと思われるような江戸時代のお話ですが、果たしてお松塚がお松婆を葬った墳墓なのか、それとも供養塚の類なのか、またはさらに古い時代に造られた塚であるのか、塚が学術的な調査を経ないまま消滅してしまった今となっては、塚の性格を推測することはできないようです。。。


「お松塚」

 塚上に祀られていたという祠は、南大泉5丁目の「南大泉五丁目児童遊園」の南の一角に移されて現在も供養されています。児童遊園と民家の間の隙間のような場所ですが、祠の横には小さいながらも練馬区教育委員会による説明板が設置されています。

 お松塚の祠
 この石造の祠は、八〇mほど東、現在
鉄道線路と道路になっている場所にあっ
た塚に建てられていました。その後、道
路拡張などにより白子川に泉橋の架かる
道沿いに移された後、現在地に移設され
ました。
 かつての塚には大きな一本松があり、
「お松様」とか「お松どん」と呼ばれて
いました。
 祠の側面には、明治二十年(一八八七)
四月十三日に小美野玉次郎が建てたこと
が刻まれています。
平成二十四年三月  練馬区教育委員会



「力持ち惣兵衛の馬頭観音」

 画像は、「力持ち惣兵衛の馬頭観音」です。お松塚から北東に徒歩15分ほどの、大泉学園町2丁目3番11号の三叉路の角地に残されている馬頭観音の塚で、練馬区の登録有形民俗文化財に指定されています。
 この馬頭観音は、天保十一年(1840)九月に加藤惣兵衛により建てられたもので、河原石で造られています。正面中央には「馬頭観世音」、両脇には「当知是処」「即是道場」、背面には「七十六秤目」と刻まれています。つまり、この碑はかつて力試しに使われた力石で、力石と馬頭観音を兼ねたものは珍しいものであるそうです。
 この石には、力持ち惣兵衛とその愛馬にまつわる、なかなか興味深いいつかの伝承が残されており、現地の説明板には

 江戸の屋敷の主人に力を試された惣兵衛が、持ち上げた大きな石を褒美にもらい、馬の背にのせ帰る途中、馬が力尽き石に押しつぶされ息絶えてしまいます。惣兵衛はかわいがっていた馬の死をなげき悲しみ、供養のためにこの馬頭観音を造ったとのことです。

 と書かれています。


「力持ち惣兵衛の馬頭観音」

 電車もバスもない江戸時代に偉い人に呼びつけられて大きな石を持ち上げさせられたあげく、ご褒美と称してそれを持って帰れとは、それって罰ゲームというか、もしやパワハラ?
 良い話なんだろうか、これは。。。
 愛馬を亡くした惣兵衛の悔しい気持ちが俺にはわかる。。。。。気がする!

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史』
練馬郷土史研究会『練馬区の歴史』
現地説明板


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  1. 2018/11/13(火) 00:33:39|
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「練馬区内の庚申塚」

 さて、前回の一里塚に引き続き、今回は練馬区内に存在したといわれる庚申塚の跡地を巡ってみようと思います。以前紹介した「小関庚申塚」には塚の痕跡が残されていましたが、「庚申塚」の名称で呼ばれながらも、すでに塚の存在しない庚申塚を集めてみました。

石神井台5丁目23番地の庚申塚

 まずは、石神井台5丁目23番地の、旧早稲田通り沿いにある庚申塚です。この場所は交差点名にそのまま「庚申塚」の名称がつけられており、交差点の北西の角地に建てられた小さな覆屋に4基の石造物が並んでいます。


石神井台5丁目23番地の庚申塚

 庚申塔は板状駒型の青面金剛像で、向かって左側に「元禄五壬申天十一月十五日」と刻まれていることから、元禄5年(1692)に立てられた庚申塔であることがわかります。

 旧早稲田通りは杉並区から練馬区に入り、禅定院門前の「豊島橋」交差点で西に向きを変え、南大泉を経て保谷(現在の西東京市)から所沢市へと通じており、かつては「所沢道」と呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』ではこの道は単に「所沢ヘノ道」と記しているしているようですが、『石神井村誌』には「所沢道」と記されており、大正時代には所沢道と呼ばれていたようです。


石神井台5丁目23番地の庚申塚

 私は、若い頃から何度もこの道を車で通っていて「庚申塚交差点」の存在は知っていたのですが、庚申塔や塚の存在など気に留めたこともありませんでした。古墳巡りをするようになってからこの交差点名が気になっていて、お休みの日に自転車で見に行ってみたのですが、今では交差点の角に石造物が残されているのを見ると、ホッとするような暖かいような気分になります。
 所沢道は、大泉や石神井から江戸方面への産業の道であったとともに、江戸からの参拝、行楽の道でもあったといわれています。この庚申塚が道しるべでもあり、休息の場であったのかもしれませんね。。。


川越街道の庚申塚

 画像は、練馬区北町8丁目に所在する、川越街道の庚申塚です。旧川越街道が国道254号と交差する南東側に庚申塚の碑が建てられています。

 現在の練馬区内には、江戸時代に入って富士大山道、清戸道、所沢道、青梅街道、川越街道といった東西南北に通じる道が造られており、この川越街道は、川越藩主の江戸参勤と将軍家が川越で行った鷹狩の道筋であり、また川越から運ばれる農産物の量も多く、重要な役割を果していた街道であったといわれています。
 下練馬宿といわれたこの地域の旧川越街道沿いには、旅人たちの道中の無事と安全を祈った道標、観音像、庚申塔、地蔵尊などの多くの石造物が、今も昔のまま残されています。


川越街道の庚申塚

 この庚申塚を最初に見かけたのは、板橋区内の古墳巡りをしていた時ですが、川越街道の歩道のこの一角にのみ、まるで中央分離帯のような植え込みが作られていて、そこに庚申塔が建てられているのを偶然見つけて、これは果たして塚と呼んで良いものなのか?と考えてしまいました。笑。
 「庚申塚」と彫られているんだし、塚なんですよね、きっと。


江古田庚申塚

 画像は、練馬区栄町に所在する「江古田庚申塚」です。
 この庚申塚には説明板が設置されており、次のように書かれていました。

庚申塚の謂れ
 平安時代の初めに、人間の豊かで、
長生きをしたい、その気持ちが庚申信仰
に成った。
 人間の体の中の三戸の虫が、庚申の夜
寝ている間に天に昇り、天命に告げ口
をして寿命を奪われない様にする為に
庚申の日に、皆んなで夜通し楽しく過
ごして、三戸の虫に昇天の機会を与え
ない様にする。
 この庚申塚は一七六五年の明和二年
十月八日に建立されました。

 もともとあった古墳を流用して造られたとされる「江古田の富士塚」や、古墳だったのではないかといわれている「瓢箪塚」の「武蔵野稲荷神社」から直線距離にして2~300mほどに位置しているので、この庚申塚がかつて古墳を流用した可能性はないものかと妄想してしまいます。。。
 立地的にも、あ、やっぱり道路が交差する、Y字路の間の三角地なんだ?という場所ですが、かつてこの一帯が畑地か田園として利用されていた頃には、マウンドが存在したのかもしれませんが、このあたりの真相はわかりません。
 古墳とは無関係かとは思うのですが、「××塚」と塚の名称を見るとやはり気になってしまって、ついつい足を止めてしまいます。。。笑。


江古田庚申塚

 お堂に祀られている庚申塔は、明和二乙酉歳十月十八日(1765)の駒形の青面金剛像です。


「東本村庚申塚」

 最後は、平和台1丁目に所在する「東本村庚申塚」です。
 あ、やっぱりY字路の角にあるんだー?と思いましたが、後で調べてみると、画像の左側は田柄川という用水で、現在は暗渠となっているようですが、庚申塚は渡戸橋という橋のたもとにあったようです。


「東本村庚申塚」

 以前紹介した「小関庚申塚」も含めて、練馬区内の庚申塚には一箇所も教育委員会による説明板が設置されていなかったのですが、ちゃんと解説文を読むことができるといいですよね。。。

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
東京都練馬区『練馬区公式ホームページ』


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  1. 2018/11/12(月) 10:18:51|
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「練馬区内の一里塚」

「一里塚子育地蔵尊」

 さて、今回は、練馬区内に存在したといわれる一里塚の跡地を巡ってみようと思います。まずは、練馬区春日町2丁目の富士街道北側に所在する「一里塚子育地蔵尊」です。
 私は、古墳めぐりを始めるまでは、一里塚は東海道、中山道や日光街道といった五街道のみに造られたものかと思っていたのですが、実際には古街道にかなり多くの一里塚が存在したようなのですね。練馬区内では、石神井町にも一里塚と呼ばれる場所があり、この春日町の一里塚からこの石神井町の記念碑の場所まで約一里(4km)の距離であるようです。さらには、一里先、二里先の保谷にも一里塚の地名や跡地とされる場所が存在しており、当時、街道に沿って一里ごとに何らかの目印が置かれていたのかもしれません。。。
 富士街道に一里塚が造られたという記録は文献上には存在しないようなのですが、この場所には古くからこの地名があり、古老の言い伝えによると、道路を挟んだ南側に何らかの塚が存在したともいわれています。


「一里塚子育地蔵尊」

 お堂の横には、練馬区教育委員会による「ふじ大山道」についての説明板が設置されており、次のように書かれています。

 ふじ大山道
 ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街
道ともよばれています。それは阿夫利山ともい
われた大山(神奈川県)へ、また大山から富士山
への道者たちが通ったからです。
 この街道は、北町一丁目で旧川越街道から分
かれて、石神井、田無を経て神奈川県伊勢崎市
に達していました。練馬の中央部をほぼ東から
西南に横断し、区内では約八キロメートルに及
んでいます。旧川越街道との分岐点には「従是
(これより)大山道」と刻んだ道しるべ(道標)
が建てられました。
 旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているよう
に、江戸や関東の各地では、祭礼が盛んに行わ
れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山
は開き」とあるように、六月二十八日は初山で、
それから七月十四日まで、連日、関東の村々か
ら集まった大山講や富士講の人々でにぎわいま
した。その道者たちが通ったのがこの街道です。
 平成二十一年三月
             練馬区教育委員会



「一里塚子育地蔵尊」

 かつてのこの一帯はくぬぎの並木が続き、一里塚と呼ばれた塚には大きながらぎっちょの木が植えてあったといわれています。付近には追い剥ぎや強盗が出没して旅人や農民が非常に苦しんだことから、安永年間の頃に災難除けのために地蔵尊が建てられました。お地蔵様は台座も高く、見上げるほどであったといわれています。
 その後、地蔵尊は倒れたままになっていたようですが、昭和31年に一里塚子育地蔵尊として再建され、現在に至っています。がらぎっちょの塚はその後、宅地化により削平されて消滅してしまったようです。


「一里塚」

 続いては、練馬区石神井町7丁目の、西武池袋線石神井公園駅近くの十字路の角の、「一里塚」が所在したとされる場所です。最近では、Googleマップにもこの地点が「一里塚」と記されているようです。


「一里塚」

 ふじ大山道は川越街道の下練馬宿(現北町)を分岐点としており、春日町の一里塚を経てここがちょうど二里目にあたります。古くは一里塚の槙を田柄用水が北の方向に流れており、この奥に塚が残っていたともいわれているようですが、現在は塚の痕跡は全く見られないようです。
 敷地内には、延享3年(1746)の錆がある庚申塔が建てられており、その背後に「一里塚改築記念碑」が建てられています。


「一里塚」

 画像が、庚申塔の背後に立つ「一里塚改築記念碑」です。大正14年4月3日建立とされる石碑です。
 ここから西に200mほどの「子育て地蔵」には、練馬区教育委員会による「大山街道」の説明板が建てられており、次のように書かれていました。

 大 山 街 道
 大山街道は道者街道、富士街道ともよばれて
います。それは、阿夫利山ともいわれた大山へ、
また大山から富士山への道者達が通ったからで
す。北町1丁目で川越街道から分かれて、石神
井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していま
した。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断し
て区内では約八キロメートルに及んでいます。
そしてその分岐点には「従より大山道」と刻ん
だ道しるべが建てられたのです。
 旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているよう
に、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行
なわれました。阿夫利山も「水の無い月に雨降
る山は開き」とあるように、六月二十八日が初
山で、それから七月十四日まで、連日、関東の
村々から集った人々でにぎわいました。その白
衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
  昭和六十三年三月
                 練馬区教育委員会


「稲荷神社」

 練馬区内では、脇街道である青梅街道にも一里塚がつくられ、関町周辺に三番目の塚があったといわれています。この一里塚に関しては、詳しい記述のある文献が見つからず、正確な所在地はわからなくなっているようですが、当時の「出店」付近に第三の塚があったともいわれています。
 画像は、当時の「出店」近辺で青梅街道と千川通りが交差している、「関町一丁目交差点」で見かけた稲荷神社神社です。一里塚が存在したとすればこのあたりではないか、と推定した場所に鳥居と祠を見かけたことから、パチリとシャッターを切りました。実際に一里塚と何か関係があるのかどうかはわかりません。が、うん、この辺りに一里塚があった気がしてきた!(根拠なし)


「稲荷神社」

 敷地内には、庚申塔をはじめとする多くの石造物が残されています。

<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
練馬区教育委員会『練馬の記念碑』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第17号』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第23号』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第29号』


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  1. 2018/11/07(水) 23:03:55|
  2. 練馬区
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「山王塚」

多摩市 未登録「山王塚」

 前回紹介した「六部塚」から多摩よこやまの道を歩いて5分ほど。多摩市の西端にあたる、多摩市唐木田3丁目に所在したといわれる塚が「山王塚」です。『東京都遺跡地図』には「多摩ニュータウン№275遺跡」の名称で、多摩市の遺跡番号152番の「近世の塚」として登録されています。

 塚の場所は、町田市と八王子市、多摩市が接するところで、明治初年までは落合村領出会ったが忠生村小山田分隣、ニュータウンの行政界変更により再び多摩市分となっています。江戸時代の地誌類にも記述がみられ、『落合旧記』や『武蔵風土記』には「唐木田山王塚は由来知れず。隣村小山田村の界の山上にあり、鎮守山王の古祠なり」と書かれています。
 町田市の標高では最も高いところにあったことから戦時中は高射砲陣地となり、B29を迎え撃ったそうです。その後、周囲の森林が伐採され、昭和40年にニュータウン用地となった後は、塚と椎の木の大樹が2本残された荒れ地となっていたようです。

 画像が山王塚跡地の現在のようすです。
 ちょっとした休憩所のようになっていて、ベンチが設置されています。


多摩市 未登録「山王塚」

 ベンチの向かい側には『鶴見川流域 最高度三角点「山王塚」』という案内板が設置されており、「この山王塚跡には、鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は、流域面積235平方kmで、多摩丘陵から下末吉台地を刻み、横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流は、ここから南に0.5km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。」と書かれています。


多摩市 未登録「山王塚」

 ベンチの奥に、盛り上がった塚状のマウンドが造成されており、塚の頂部には三角点が設置されています。


多摩市 未登録「山王塚」

 北側から見た、現在の山王塚です。こちらから見ると、かなり大きな塚に見えます。案内板にも「山王塚跡」と書かれていますので、やはり元々存在した塚はすでに消滅してしまったようですが、モニュメントとして往時の山王塚を偲ぶことはできるようです。ちなみにこの塚の北側は南多摩尾根幹線道路が開通しており、丘陵は切り開かれています。

<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承第一集』
多摩書店『落合 名所図絵』
現地説明板


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  1. 2018/11/04(日) 02:20:26|
  2. 多摩市内の塚
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