
今回は、宇都宮市長岡町に所在する「瓦塚古墳群」の第3回。
四つの支群のうちの「B支群」に属する古墳を紹介しようと思います。
最初の画像は、瓦塚古墳群28号墳の所在地周辺の様子です。
この28号墳は、墳丘はすでに消滅しているとされている古墳ですが、このあたりかな?と思われるあたりに若干の地膨れのような高まりが見られたので、そこを狙って撮影しました。
近年に、地中に残存する石室が調査されていて埋め戻されているはずです。
しかし、図書館でコピーしておいた資料が見当たらなくなってしまったので、詳細はわかりません。。。↓´・ω・`↓ショボーン
後日、所領が出てきて詳細がわかったらこっそり書き加えることにしますが、とりあえずこの高まりが28号墳と関係があるのかどうかは自信なし。。。(関係ないかもしれない、、、)

続いてこちらは瓦塚29号墳。
直径20m、高さ3mの円墳です。
点在する円墳の中では比較的大きな印象です。。。

29号墳の墳丘上には、石材かと思われる石が露出しているのが印象的。

こちらは瓦塚42号墳。
直径12m、高さ1.5mと、比較的小さな円墳です。

こちらは瓦塚16号墳です。
直径10m、高さ1mという小形の円墳です。
42号墳とこの16号墳までは農道に沿って存在しますので見学は容易ですが、ここから17号墳→18号墳→19号墳と番号が増えるにしたがって尾根の先端へと向かっていき、藪の中に突入します。。。

こちらは17号墳です。
直径20m、高さ2.5mの円墳です。

こちらは18号墳。
直径23m、高さ2mの円墳です。
発掘された跡なのか盗掘の跡なのかよくわかりませんが、石室に沿うような形状でザックリとえぐられています。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真中央から右に向かって削られているのがおわかりでしょうか。。。

同じく18号墳を多分西から見たところ。
写真の奥に向かってベッコリ凹んでいますね。。。

こちらは19号墳です。
直径20m、高さ2mの円墳です。
尾根の先端に向かっているので、このあたりまで来るとかなり傾斜がキツくなってきます。

同じく19号墳を南西から見たところです(多分)。
墳丘の南東側に鳥居があり、墳頂部に祠があります。
瓦塚古墳群は、お知り合いになったY崎さんに声をかけて見学しましたが、ここは少なくともY崎さんのお宅の氏神様ではないと思われますし、お参りして写真を撮ってから早々に退散しました。。。

墳丘上の様子です。
帰宅後に調べたところでは、鎮座しているのは星の宮神社ということです。
30基前後が残存しているという、宇都宮市内ではもっとも大きな古墳群ということでかなり見どころがあります。
さらに次回に続きます。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『瓦塚古墳』
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- 2023/10/01(日) 21:22:06|
- 宇都宮市の古墳・塚
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今回は、宇都宮市長岡町に所在する「瓦塚古墳群」の第2回。
最初の画像は、24号墳である「瓦塚古墳」を北から見たところです。
この古墳群は、宇都宮市の中心部から北方に約4kmほどの、長岡町内の丘陵上に所在します。
円墳を主体とした40基以上の古墳のうち、約30基以上が現存する、宇都宮市内最大規模の古墳群です。
このうち、瓦塚古墳は丘陵頂部にある、古墳群中唯一の前方後円墳です。
この瓦塚古墳は、平成13年度から15年度の3次にわたっての発掘調査が実施されており、周溝を持つ二段築成の前方後円墳で、墳丘上段には葺石が施され、中断の平坦面には埴輪列が囲続していることがわかっています。(ちなみに、この埴輪の存在が「瓦塚」の名称の由来となっているようです。)
規模は全長48m、前方部前端幅38m、後円部径28mで、3.3m〜9.6mの幅の周溝を持つことが確認されています。
写真は右が前方部、左が後円部で、古墳を北から見たところです。

前方部の南側に宇都宮市教育委員会による説明板が設置されています。

後円部から前方部を見たところ。
宇都宮丘陵に所在する古墳のほとんどは、凝灰岩を使った石室であるそうですが、その中でも、瓦塚古墳の石室の構造は、「北山古墳群」に属する「権現山古墳」に類似するそうです。
さらには円筒埴輪も類似することがわかっており、またいずれの古墳群も田川流域に位置することから、この2つの古墳群には関連があったと考えられています。

前方部から後円部を見たところ。

現状の墳丘はなだらかで、前方後円墳らしき形状ははっきりとはわかりにくいのですが、説明版に築造時の古墳の形状が描かれていました。
円筒埴輪は、墳丘中段のテラス面に墳丘の周りを囲饒して並べられていたことがわかっています。
これらの円筒埴輪は間隔が狭く、口縁部はほぼ接触して並べられていたようです。
また、円筒埴輪とともに朝顔形埴輪も墳丘を囲続するように並べられていたと推測され、円筒埴輪と朝顔形埴輪の墳丘上に並べられた個数の比率は不明であるものの、円筒埴輪数本の間に朝顔形埴輪が1本並べられていたと考えられています。
そして、人物埴輪は最低でも7個体であったと推測されています。
ちなみに、墳丘に並べられていた埴輪も、北山古墳群に属する権現山古墳から出土した円筒埴輪と類似しているようです。

瓦塚古墳の北に接する円墳が「瓦塚25号墳」です。
墳丘はかなり破壊が激しく、わずかな地膨れという状況です。
墳丘の原形は、直径18m、高さ1.4m前後に復元され、中心に横穴式石室の奥壁が位置します。

北西から見たところ。
この角度が一番古墳らしく見えるようです。
奥に瓦塚古墳が見えていますが、25号墳と瓦塚古墳の周浬との距離は約4mと、かなり近接しています。

石室の位置が窪みになっていて、石材らしき河原石が散らばっています。

瓦塚古墳は古くは明治31年(1898)、地元の人たちによって発掘されており、翌年に八木奨三郎氏により『東京人類学会雑誌』に「下野國河内郡長岡の古墳」として発表されています。このため、瓦塚古墳の名は中央学会に知れ渡りました。
この発掘の際、直刀・鉄鏃・刀子・などの武器のほか、金環・管玉・切子玉・小玉などの装身具、轡・雲珠などの馬具、ほかに土師器・須恵器などが出土しました。
このうちの主な出土品は東京帝国博物館に収蔵されたようですが、それ以外の出土品は写真の場所に埋納され、供養されているそうです。
これは、少なくとも私がこれまでに目を通した郷土史本には書かれていませんでしたし、私もその存在をまったく知らなかったのですが、地元のY崎さんとの出会いにより、幸運にもこの塚の存在を知ることとなりました。

以前も取り上げましたが、この瓦塚古墳群の近隣に小さな塚が1基存在しており、この塚は『宇都宮の遺跡』や『宇都宮市遺跡分布地図』に掲載されていないうえに郷土史本などにも記述が見つからず、なんの塚なのかずっとわからないままでした。
真相を知るには地元の人に聞き取りをするしかないかな?と思っていたのですが、昨年にたまたま塚の横を通りかかった際に、田んぼを耕運機で耕している地元の方らしき姿が目に入り、これは今しかないなと思い、車を近くに停めて話しかけてみました。
その時は、塚の性格まではわからなかったのですが、塚の土地の所有者のお宅をお教えいただき、また「なんの塚なのかきっとわかるから尋ねてみて聞いてごらん?」と、古くからこの地域で暮らす地元の名士である某氏のお宅もお教えいただきました。
そしてなんと!「その某氏の敷地に瓦塚の出土品を埋めた塚があるから、それも見せてもらうといいよ。。。」という信じられないお言葉。
私はもうびっくりして、「え?え?なんすか?か、かわらづか?」とかいって2度聞きしちゃいましたよ。笑。
Y崎さんとは、その後に何度も再会することになるのですが、かなり色々なことをお教えいただいて感謝です。。。
こうして知ることとなった、瓦塚古墳の出土品を埋納した供養塚が写真の場所です。
わずかながら塚状に高くなっているように感じられますし、石碑も建てられています。

供養塚の石碑の様子です。
赤とんぼがとまっていますが、季節は秋だったんですね。。。
せっかく教えていただいたのに、場所を書いて誰かが尋ねて迷惑がかかったり、イタズラされたりしたらいけないので場所は書きません。ただ、色々な古墳をもっと深追いすれば、こうした事例は知られていないだけでもっとたくさんあるかもしれないなあと、しみじみ感じます。
次回も「瓦塚古墳群」の続きです。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
塙静夫『探訪 とちぎの古墳』
宇都宮市教育委員会『瓦塚古墳』
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- 2023/09/29(金) 21:41:17|
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今回から何回かに分けて、宇都宮市長岡町に所在する「瓦塚古墳群」を紹介しようと思います。
この古墳群は、宇都宮市の中心部から北方に約4kmほどの、長岡町内の丘陵上に所在します。
円墳を主体とした40基以上の古墳のうち、約30基が現存する、宇都宮市内最大規模の古墳群です。
このうち、前方後円墳である24号墳は宇都宮市の文化財として指定されています。
分布状況を分析すると、主墳である前方後円墳 (24号墳)を中心にみると、南南西に伸びる尾根上のA支群 (20〜23・25号墳)、南に伸びる尾根上のB支群 (16〜19・27〜30・42号墳)、その東に平行して伸びる尾根上のC支群 (10〜15・41号墳)、そして少し離れて南東に伸びる尾根上のD支群 (1〜6・31〜40号墳)となります。
また、北西尾根上の26号墳のように単独で支群を形成しないものや、C支群と D支群に挟まれた谷間部の一群 (7〜9号墳)のように尾根筋からはずれたやや異質なものも存在します。
今回はまず、調査保全ゾーンとして公開されているA支群を取り上げようと思います。

最初の古墳は20号墳を南から見たところです。
尾根の先端の最も低い位置にある古墳です。

ちょっと角度を変えて、北東から見た20号墳です。
規模は、直径15m、高さ1.5mの円墳で、横穴式石室の石材の一部が露出しているということでしたが、私が見学した時はどこなのかよくわからず、写真に収めることはできませんでした。

こちらは21号墳。
20号墳のすぐ東にある古墳です。
こちらは直径29m、高さ4mとかなりデカくて、急勾配な感じ。

同じく21号墳。
やっぱり古墳は下から見上げないとね。笑。

こちらは22号墳。
直径16m、高さ1.4mの円墳です。

同じく22号墳。
ちなみに私が最初に訪れた日は真夏で、その時はもっと下草が多い感じで樹木の葉も生い茂っていました。
何よりも保全ゾーン以外の古墳がかなりの藪の中であることが想定できたので、「こりゃダメだ、、、」と心折れて、その日はあまり深追いせずに出直すことにしてしまいました。
それでも一応、20号墳から前方後円墳である瓦塚古墳までの保全ゾーンは見学したのですが、それだけでもう汗びっしょり。
この10年ほどでかなり暑さが増しているように感じますし、その間に私自身もどんどん歳をとって体力が落ちていくわけで、最近はもう無理をしないように気をつけていますが、出直すことにすると、再訪するまでに何年も経過してしまったりするので、私のよくないところです。。。。
ただ、後回しにしたおかげで色々素敵な出会いもあったりもしたので、それは良かったかな。。。
とりあえず見学は冬がお勧めです。

23号墳です。
直径22m、高さは2mの円墳です。

同じく23号墳。

遠景。
左が21号墳で、右が22号墳かな。多分。。。

ここからさらに遊歩道を登った丘陵頂部に、24号墳である「瓦塚古墳」があります。
続きはまた次回。。。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『瓦塚古墳』
現地説明版
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- 2023/09/28(木) 19:22:59|
- 宇都宮市の古墳・塚
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先日、東京の狛江にちょっとした用事があり、最近お知り合いになったY氏と同行しました。
どこまで情報を公開していいのかわからないのでアレですが、私が属している某歴史と文化の会で来年2月、地域の古墳を取り上げる企画展を計画しており、そのための調査に参加しています。
その調査に関連して狛江を訪れた、というわけなのですが、予定よりも早く着いたこともあり小一時間ほど時間があったので、せっかくだから狛江の古墳を見ておきましょうということで、土屋塚古墳→猪方小川塚古墳→前原塚古墳、と3ヶ所を見学しました。
写真はそのうちの1ヶ所、「猪方小川塚古墳」です。

猪方小川塚古墳は東京都の史跡として指定されており、古墳の横穴式石室が保存、公開されていて無料で見学することができます。
所在地が、開発の進んだ住宅地の一角ということで駐車場はありませんが、小田急線和泉多摩川駅から徒歩10分ほどと、比較的見学しやすい場所かなと思います。
東京都内で石室を見学できる古墳は限られていますし、貴重な場所です。

今回は、新しい説明版が設置されていましたので取り上げておきました。
令和5年3月ですから、わりと最近ですね。
以前の説明板も十分に立派なものだったと思いますが、さすが東京、対応が早いですよね。
猪方小川塚古墳
所在地 狛江市猪方三丁目二一番二九号
指 定 令和三年三月十九日
猪方小川塚古墳は、多摩川中流域左岸の武蔵野台地縁
辺部に築造された横穴式石室を伴う円墳です。覆屋内に
は全長4・9メートル、軟質泥岩(凝灰質砂岩)の切石
切組積みの石室(玄室・前室)が保存されています。天
井石は発見当時から失われていましたが、石室は奥壁部
分で四段現存しています。
覆屋周辺の高まりは墳丘の一部で、その周囲には周溝
と陸橋が地中保存されています。 円墳の直径は最大二
九・二メートルと推定されています。
玄室床面からは金銅製耳環、鉄鏃、棒状鉄製品、刀子
が発見されています。鉄鏃の形式から、横穴式石室への
最終埋葬は七世紀中葉と考えられます。
また、墳丘覆土内から出土した須恵器長頸瓶と大甕
(八世紀前半以降)、周溝から出土した灰陶器長頸瓶
(九世紀後半以降)、墳丘覆土上面から出土した北宋銭
(中世)により、古墳が使われなくなって以降も、墳丘
や周溝が利用されていたことがわかっています。
猪方小川塚古墳を含む狛江古墳群の造営時期は、これ
まで五世紀後半から六世紀中葉までと考えられてきまし
た。本古墳の発見により、その終焉が古墳時代終末期に
まで下ることが明らかとなりました。六世紀以降の多摩
川流域における切石積横穴式石室の導入や展開、首長墓
の系譜を考える上で学術的価値の高い古墳です。
令和五年三月 建設
東京都教育委員会
<参考文献>
名古屋市教育委員会 文化財保護室『志段味古墳群ガイドブック』
現地説明版
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- 2023/09/27(水) 17:59:32|
- 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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昨日は用事があって、群馬県の太田市方面に出掛けました。
私の大好きな群馬まで来て古墳を1基もみないで帰るのもなんだよな〜と思い、用事が済んでから帰り道に古墳がないかどうか(絶対ある!)ググってみたところ、ちょっと遠回りすれば見られるぜ!という古墳をみつけました。
古墳公園として整備されているようなので薮になっている可能性もなさそうだし、いいかも。
というわけで立ち寄ったのが、群馬県邑楽郡大泉町に所在する「古海原前1号墳」です。

古墳は利根川左岸の洪積台地上に位置しており、現在は円形の墳丘が保存されていますが、かつては帆立貝の形をした全長約54mの帆立貝式古墳であったと考えられています。
なんかさ。佇まいが府中市の「高倉塚古墳」に似てるね。
復元した墳丘の一部が建物の角に切られているところなんかさ。

説明版を読んで初めて知ったのですが、この古墳の埋葬施設は主体部が縦に4基、重なった状態で発見されたそうです。
同じような事例はあまり聞いたことがないですが、どういう意図があってそうなったのか、とても興味深いです。。。

墳丘裾部には埴輪列が復元されていました。

古墳の墳頂部からは、西暦500年頃に噴火したという榛名山の火山灰が確認されていて、出土した須恵器の年代を参考して、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられています。

整備されているんだし、墳頂部には何もないかな?と思ったら、何かある?

芝の中に埋もれるように説明板が埋め込まれていました。
危うく見落とすところだったぜ、と。
4基重なっていたという埋葬施設は、もっとも下層のものは棺を粘土で覆った粘土槨、その上の3基は棺を河原石で覆う礫槨で、棺の構造は竹を縦に2つに割ったような形の割竹形棺と考えられています。
ここは、古墳のすぐ北に古海東公民館があってそこに車を停められます(多分)。
見学しやすい古墳かも。。。
ちなみに周辺にはぼこぼことかなり多くの古墳が残っているようなのですが、これはまたいずれゆっくり見学しようと考えています。。。
<参考文献>
現地説明版
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- 2023/09/25(月) 23:24:21|
- 群馬県の古墳・塚
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昨日は、大田原市湯津上に所在する「上侍塚古墳」の現地説明会に行ってきました。
これまでも、調査のたびに行われた現地説明会に足繁く通ってきましたが、今回はSNSはOK!ということをお聞きして、見学の様子を掲載しておくことにしました。
この上侍塚古墳は、下侍塚古墳とともに国の史跡に指定されている前方後方墳で、全長114メートルと、栃木県内の前方後方墳では足利市の「藤本観音山古墳」に次ぐ2番目に大きな古墳で、この地域に集中する6基の前方後方墳の中ではもっとも大きな古墳です。
最初の写真は発掘調査が始まる前の上侍塚古墳で、西から見たところです。
右が前方部、左が後方部という状況ですが、噂に違わぬ美しき墳丘ですね。。。

後方部の北西角のあたり。
説明版と石碑が建てられています。
この古墳はなんと!元禄5年(1692)に日本で最初の学術的発掘調査が行われた古墳として知られています。
儒学者の佐々介三郎宗淳(この人が助さんらしい)と小口村名主の大金重貞が、徳川光圀の命により上侍塚、下侍塚両古墳を調査しており、この記録は『湯津神村車塚御修理』に掲載されています。
この調査は、笠石神社に祀られている「那須国造碑」の碑主が誰であるかを確認するための調査でしたが、残念ながらこれが明らかになる遺物は出土しませんでした。
しかし、このときに出土した鏡や管玉、壺といった多くの遺物は記録に治められ、松板の箱に収められて再び墓中に埋め戻されたといわれています。
日本初の発掘調査、ということは当然ながら前例がないわけなので、当時の調査に関わった方々の苦労が偲ばれますが、あの水戸黄門さまが発掘調査を命じたというあたりからしてワクワクするような経緯ですし、埋め戻されたという松の箱がどんな状態でどこから出土するのか、興味は尽きませんよね。。。

墳丘上で、前方部から後方部を見たところです。
この上侍塚古墳の北800メートルほどにある「下侍塚古墳」は、日本一美しい前方後方墳だといわれています。
これは、森浩一氏が著書の中で、「下侍塚古墳が日本で一番美しい古墳」として紹介したことによると思われます。
実際に見学してみてもほとんど崩れのない墳丘の曲線は確かに美しく、これは上侍塚古墳も同様で、地元の人に大切に保存されてきたことがわかります。
つまり、現状の墳丘は段差のないなだらかな斜面となっているわけですが、近年の地中レーダー調査の結果、なんと前方部は2段に、後方部は3段に作られていることがわかりました。
私は長い間、なだらかな曲線が築造当時の姿であると思い込んでいましたが、実際にはかなりエモい形状だったわけですよね!!!
黄門さまが墳丘を保護する意図で土を盛ったのか、江戸時代には墳丘上に土が堆積してすでになだらかになっていたのか真相はわかりませんが、これには一番びっくりしたかも。。。

後方部から前方部を見たところ。
光圀は、墳丘の盛土が崩れるのを防ぐため松を植えたといわれています。
この保存対策の姿勢は今日の文化財保護のお手本とされ、地元の保存会の活動につながっています。
これには、初めて見学に来たときに「なるほど〜」と思いましたが、文献では松の木は墳丘上ではなく墳丘の周囲に植えたことが書かれているそうです。
つまり、現在墳丘上にある松は、その後に松ぼっくりが墳丘上に落ちて育ったものではないか?ということになります。
これまで私は、墳丘上のすべての松が、江戸時代の調査後に植えられたものとばかり思い込んでいたので、ちょっとびっくり。

「こも巻き」は、冬ごもりする害虫をわらでできた「こも」に誘い込んで駆除する目的で、毎年、霜降の日に行われています。
ネットのニュースではいつも「下侍塚」のこも巻きの様子が取り上げられているようですが、この「上侍塚」でもこも巻きは行われているようです。
写真は2011年10月24日のものです。
こも巻きやっていないかな?と思って行ってみたのですが、終わってしまったあとだったのかも。。。

これは今日の現説の様子です。
古墳が造られた当時のまま残っていた葺石や転落した葺石が確認されており、また墳丘の盛土も確認されています。

古墳の基底部は地山を削って造られてい絵うことがわかったそうです。
「古墳時代の地表面」という札から下は地面を削って整形されていて、札より上は土を盛って造られています。
また、墳丘の傾斜は下っていくにつれて緩やかになっていくこともわかっています。

後方部西側、くびれ部付近の葺石の様子です。

このへんは葺石がよく残っていますよね。

これは、前回の発掘の様子です。
後方部の3段築成の様子がわかりますよね。

かなり特徴的な土器片ですよね。
タコの足みたい?笑。
2列に並んだ「円形浮文(えんけいふもん)」と呼ばれるもので、壺の口の縁に付けられた装飾です。
1列のものは下野市の烏ケ森遺跡や芳賀町の谷近台遺跡で出土しているそうですが、2列のものは県内初だそうです。
奈良県桜井市の3世紀の築造とされる「ホケノ山古墳」で2列の出土があるそうなのですが、それが100年ほど経過した4世紀築造の「上侍塚古墳」で出土したことはとても興味深いですよね。。。

こちらもかなり特徴的な土師器片です。

こちらは今回公開された土器片です。
発掘はまだまだ続くようなので、次回の現地説明会も楽しみにしようと思います。
<参考文献>
公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター 現地説明会資料『上・下侍塚古墳』
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- 2023/09/24(日) 00:26:38|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、大田原市のお蕎麦屋さんのお話。
この「やすらぎの里 柚」というお店のお蕎麦が好きで、何度も食べに行きました。
自宅からは遠いのでそれほど頻繁には行けませんでしたが、湯津上周辺の古墳や資料館を訪れたり、上侍塚の現地説明会に訪れたりしたときに、わりと高い確率で食べに行ってました。
とにかくお蕎麦が美味しくて好きだった!です。

今日は「上侍塚古墳」の現地説明会だったので、昼食に合わせて食べに行ったのですが、、、
なんと「9月30日をもって閉店いたします。」の張り紙が!
ショック。。。

今日は奮発してソバは大盛り。
かき揚げも一緒に頼みました。

お蕎麦、美味しそうでしょ?
口の中で蕎麦の風味がふわっと広がる感じが好きです。

小鉢もたくさんついてきます。

食後のデザートは梨でした。

蕎麦湯はこんな感じ。
「下侍塚古墳」や「大田原市なす風土記の丘湯津上資料館」から西に向かった段丘延辺部にお店はあります(古墳かよ)。
あと一週間あるし、お蕎麦が好きな方は行ってみては?と思います。
お店は金土日しかやっていないかもですが、お昼の早い時間にいかないと、お蕎麦がなくなったら閉店です。
純粋にお蕎麦が好きで食べに行ってました。
女将さんがいつも忙しそうでした。
いつも美味しいお蕎麦をありがとうございました!
- 2023/09/23(土) 23:43:01|
- 神社巡りと蕎麦屋探訪
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今回は久しぶりに東京の古墳の話題です。
品川区荏原7丁目にある「小山八幡神社」の境内にはかつて古墳ではないかといわれる小丘があり、この小丘が「小山」の地名の由来となったといわれています。
私は以前に2度ほどこの神社に参拝に訪れており、『古墳なう』でも取り上げたことがあるのですが、すでに古墳らしき高まりは存在せず、また学術的な調査も行われていない(と思われる)ことから、古墳の詳細はわかりませんでした。
社務所で宮司様にもお聞きしてみましたが、やはり詳細はわからず、遺物や、古墳にまつわる伝承も残されていないようです。。。
実は今回再訪したのは、リンクをいただいているmichikusa520氏から、境内にマンションが建設されることになったという情報をいただいたのはきっかけでした。
東京新聞のWEBによると、マンション計画が明らかになったのは今春で、築85年と老朽化した社殿などの改修費用(約2億3000万円)を賄うために、敷地の約半分を70年の定期借地で東急不動産に貸し、地上3階地下1階の30戸入居の低層マンション(高さ10メートル)を建てるという計画だそうで、広々とした空間はなくなるものの、資金を調達する方法は他にはないそうです。
これに対して、地元の有志は見直しを求める署名運動に乗り出した、ということなのだそうですが、本年度中にはマンションの建設工事が開始され、3年後には完成予定なのだということで、さっそく早起きして仕事の前に立ち寄ってみました。

鳥居の横には看板が建てられています。
特にマンションの建設についてはふれらず、「境内の整備」としか書かれていないようですが、美しき鎮守の森は風前の灯なのかな?
いったいどうなるのでしょうか。。。
発掘調査が行われるのか否かも気になるところですが。。。

社殿もまだ健在です。
この社殿の乗る高まりが古墳の名残なのかな?とも思われるのですが、周辺の古墳事情を調べてみた印象としては、この地域の古墳の存在は立地的に考えにくく、境内に存在したという古墳といわれる高まりは古墳ではなく、後世に築造された塚なのではないか?とも思えます。
いや、あくまで素人考えで、発掘調査が行われてみないことにはなんとも言えませんけどね。
てかさ。
そりゃもう暑くて暑くて、神社に立ち寄っただけで汗びっしょりでまいったよ。
いや、今でも毎日暑いんだけどさ。。。

境内にあるシイの大木は健在でした。
品川区の天然記念物に指定されている大木です。
シイの木自体は伐採はされないようですが、マンションが建設されればこの景観も失われてしまうことになります。

御朱印をいただきました。
多少なりとも貢献できれば、ね。。。
今後どうなるのか、しばらく様子を見てみようと思っています。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1075.html(2000/03/05「小山八幡神社」)
- 2023/09/18(月) 23:49:14|
- 品川区/その他の塚
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今回は、岐阜県加茂郡富加町に所在する「池下1号古墳」の探訪の記録です。
急遽訪れることになった岐阜の古墳のうち、最後に見学した古墳です。
なんの下調べもせず、郷土資料館でいただいた「富加町観光ウォーキングマップ」だけを頼りに訪れましたので、詳細はまったくわからないのですが、、、

墳丘裾に建てられている標柱に「前方後円墳」と書かれていてびっくり。
古墳はかなり崩れているのか、パッと見は前方後円墳には見えません。。。

もっとも高さのある場所。
ここが後円部の墳頂部に当たる場所かな?とは感じますが、よくわかりません。。。

リンクしていただいているmichikusa520さんの『滋味コフン』にこの古墳の記事を見つけてびっくり。
そうかー、、、michikusa520さんもこの古墳を訪れていたかー。。。
古墳の詳細はわからずで、ちゃんと地元の図書館で調べてくればよかったのですが、時間ギリギリだったし仕方がないよね。
この古墳の見学中、すでに南の方から分厚い雨雲が近づいていました。
真っ黒で分厚い雨雲の雲間にはビカビカと稲妻が光っている状況。
急いで出発しましたが、遠くでは、雨のカーテンみたいに晴れている場所と雨が降っている場所の境目がハッキリと見えていて、それがすごいスピードでこちらに近づいてきます。
「まずい」と感じて車を飛ばしましたが時すでに遅し。
高速の入り口に一番近いガソリンスタンドで給油中、嵐となりました。涙。
雨のカーテンの境目がすごい勢いで通り過ぎると、その瞬間、横殴りの雨で一瞬でびしょ濡れ。
スタンドの看板は風で舞い上がり、ヒョウがバリバリと車を打ち付ける中、スタンドのスタッフの飛び交う怒号。
給油を終えて道路に出たものの10メートル前も見えません。
正直、こんな雨の中にいたら命が危ない!と、雨で身の危険を感じたのは生まれて初めての経験でした。。。
旅先の土地勘のない場所でこの嵐の中、車を走らせる度胸は無いな、、、と判断。
嵐が収まるまで、コンビニで待ちました。
ホットコーヒーが美味かったー。涙。
なかなかの経験でしたが、やっぱり温暖化が原因なのか異常気象は止まりませんよね。
これから日本はどうなっちゃうのか本気で心配。。。
- 2023/09/15(金) 23:26:04|
- 岐阜県の古墳
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今回は、岐阜県加茂郡富加町に所在する「井高1号古墳」です。
国指定史跡である「茶臼山古墳」を見学した後、16時40分頃だったでしょうか。。。
まだちょっとだけ時間があるし、可能な限り周辺の古墳を散策しようということで、この古墳に立ち寄りました。
古墳の前方には川浦川が流れ、水田地帯に位置する古墳ということで、遠方から確認することができます。
古墳は、一辺の長さが20m以上ある大型の方墳で、高さは約5mを計ります。
開口する石室が見えますね。。。

言い伝えによると、昔空から陽が降ってきた時、古墳に人々が隠れたことから「火塚」とも呼ばれているそうです。
こ、古代に空から火が降ってきたとは、隕石かな???
それとも彗星かな???
ままままさかUFOかな?

石室の様子です。
立ち入り禁止っぽいし、真夏だったこともあり、石室に入るようなことはしませんでした。
羨道、前室、後室とあり、後期横穴式石室の代表的形態を残した数少ない貴重な古墳です。

真冬に来たとしても、やっぱりちょっと中に入るのは危険だよね。。。
富加町はとても古墳の多い地域で、現在約50基が確認されているそうです。
今回は、「茶臼山古墳」→「井高1号古墳」→「「池下1号古墳」」と3基のみの弾丸ツアーとなりましたが、岐阜はほかにも行きたいところがたくさんあるし、古墳もまたゆっくりと見てまわれたらいいなあと考えています。
<参考文献>
富加町教育委員会『とみかの文化財』
現地説明版
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- 2023/09/11(月) 21:19:26|
- 岐阜県の古墳
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