
昨日は、大田原市湯津上に所在する「上侍塚古墳」の現地説明会に行ってきました。
これまでも、調査のたびに行われた現地説明会に足繁く通ってきましたが、今回はSNSはOK!ということをお聞きして、見学の様子を掲載しておくことにしました。
この上侍塚古墳は、下侍塚古墳とともに国の史跡に指定されている前方後方墳で、全長114メートルと、栃木県内の前方後方墳では足利市の「藤本観音山古墳」に次ぐ2番目に大きな古墳で、この地域に集中する6基の前方後方墳の中ではもっとも大きな古墳です。
最初の写真は発掘調査が始まる前の上侍塚古墳で、西から見たところです。
右が前方部、左が後方部という状況ですが、噂に違わぬ美しき墳丘ですね。。。

後方部の北西角のあたり。
説明版と石碑が建てられています。
この古墳はなんと!元禄5年(1692)に日本で最初の学術的発掘調査が行われた古墳として知られています。
儒学者の佐々介三郎宗淳(この人が助さんらしい)と小口村名主の大金重貞が、徳川光圀の命により上侍塚、下侍塚両古墳を調査しており、この記録は『湯津神村車塚御修理』に掲載されています。
この調査は、笠石神社に祀られている「那須国造碑」の碑主が誰であるかを確認するための調査でしたが、残念ながらこれが明らかになる遺物は出土しませんでした。
しかし、このときに出土した鏡や管玉、壺といった多くの遺物は記録に治められ、松板の箱に収められて再び墓中に埋め戻されたといわれています。
日本初の発掘調査、ということは当然ながら前例がないわけなので、当時の調査に関わった方々の苦労が偲ばれますが、あの水戸黄門さまが発掘調査を命じたというあたりからしてワクワクするような経緯ですし、埋め戻されたという松の箱がどんな状態でどこから出土するのか、興味は尽きませんよね。。。

墳丘上で、前方部から後方部を見たところです。
この上侍塚古墳の北800メートルほどにある「下侍塚古墳」は、日本一美しい前方後方墳だといわれています。
これは、森浩一氏が著書の中で、「下侍塚古墳が日本で一番美しい古墳」として紹介したことによると思われます。
実際に見学してみてもほとんど崩れのない墳丘の曲線は確かに美しく、これは上侍塚古墳も同様で、地元の人に大切に保存されてきたことがわかります。
つまり、現状の墳丘は段差のないなだらかな斜面となっているわけですが、近年の地中レーダー調査の結果、なんと前方部は2段に、後方部は3段に作られていることがわかりました。
私は長い間、なだらかな曲線が築造当時の姿であると思い込んでいましたが、実際にはかなりエモい形状だったわけですよね!!!
黄門さまが墳丘を保護する意図で土を盛ったのか、江戸時代には墳丘上に土が堆積してすでになだらかになっていたのか真相はわかりませんが、これには一番びっくりしたかも。。。

後方部から前方部を見たところ。
光圀は、墳丘の盛土が崩れるのを防ぐため松を植えたといわれています。
この保存対策の姿勢は今日の文化財保護のお手本とされ、地元の保存会の活動につながっています。
これには、初めて見学に来たときに「なるほど〜」と思いましたが、文献では松の木は墳丘上ではなく墳丘の周囲に植えたことが書かれているそうです。
つまり、現在墳丘上にある松は、その後に松ぼっくりが墳丘上に落ちて育ったものではないか?ということになります。
これまで私は、墳丘上のすべての松が、江戸時代の調査後に植えられたものとばかり思い込んでいたので、ちょっとびっくり。

「こも巻き」は、冬ごもりする害虫をわらでできた「こも」に誘い込んで駆除する目的で、毎年、霜降の日に行われています。
ネットのニュースではいつも「下侍塚」のこも巻きの様子が取り上げられているようですが、この「上侍塚」でもこも巻きは行われているようです。
写真は2011年10月24日のものです。
こも巻きやっていないかな?と思って行ってみたのですが、終わってしまったあとだったのかも。。。

これは今日の現説の様子です。
古墳が造られた当時のまま残っていた葺石や転落した葺石が確認されており、また墳丘の盛土も確認されています。

古墳の基底部は地山を削って造られてい絵うことがわかったそうです。
「古墳時代の地表面」という札から下は地面を削って整形されていて、札より上は土を盛って造られています。
また、墳丘の傾斜は下っていくにつれて緩やかになっていくこともわかっています。

後方部西側、くびれ部付近の葺石の様子です。

このへんは葺石がよく残っていますよね。

これは、前回の発掘の様子です。
後方部の3段築成の様子がわかりますよね。

かなり特徴的な土器片ですよね。
タコの足みたい?笑。
2列に並んだ「円形浮文(えんけいふもん)」と呼ばれるもので、壺の口の縁に付けられた装飾です。
1列のものは下野市の烏ケ森遺跡や芳賀町の谷近台遺跡で出土しているそうですが、2列のものは県内初だそうです。
奈良県桜井市の3世紀の築造とされる「ホケノ山古墳」で2列の出土があるそうなのですが、それが100年ほど経過した4世紀築造の「上侍塚古墳」で出土したことはとても興味深いですよね。。。

こちらもかなり特徴的な土師器片です。

こちらは今回公開された土器片です。
発掘はまだまだ続くようなので、次回の現地説明会も楽しみにしようと思います。
<参考文献>
公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター 現地説明会資料『上・下侍塚古墳』
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- 2023/09/24(日) 00:26:38|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、大田原市のお蕎麦屋さんのお話。
この「やすらぎの里 柚」というお店のお蕎麦が好きで、何度も食べに行きました。
自宅からは遠いのでそれほど頻繁には行けませんでしたが、湯津上周辺の古墳や資料館を訪れたり、上侍塚の現地説明会に訪れたりしたときに、わりと高い確率で食べに行ってました。
とにかくお蕎麦が美味しくて好きだった!です。

今日は「上侍塚古墳」の現地説明会だったので、昼食に合わせて食べに行ったのですが、、、
なんと「9月30日をもって閉店いたします。」の張り紙が!
ショック。。。

今日は奮発してソバは大盛り。
かき揚げも一緒に頼みました。

お蕎麦、美味しそうでしょ?
口の中で蕎麦の風味がふわっと広がる感じが好きです。

小鉢もたくさんついてきます。

食後のデザートは梨でした。

蕎麦湯はこんな感じ。
「下侍塚古墳」や「大田原市なす風土記の丘湯津上資料館」から西に向かった段丘延辺部にお店はあります(古墳かよ)。
あと一週間あるし、お蕎麦が好きな方は行ってみては?と思います。
お店は金土日しかやっていないかもですが、お昼の早い時間にいかないと、お蕎麦がなくなったら閉店です。
純粋にお蕎麦が好きで食べに行ってました。
女将さんがいつも忙しそうでした。
いつも美味しいお蕎麦をありがとうございました!
- 2023/09/23(土) 23:43:01|
- 神社巡りと蕎麦屋探訪
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今回は久しぶりに東京の古墳の話題です。
品川区荏原7丁目にある「小山八幡神社」の境内にはかつて古墳ではないかといわれる小丘があり、この小丘が「小山」の地名の由来となったといわれています。
私は以前に2度ほどこの神社に参拝に訪れており、『古墳なう』でも取り上げたことがあるのですが、すでに古墳らしき高まりは存在せず、また学術的な調査も行われていない(と思われる)ことから、古墳の詳細はわかりませんでした。
社務所で宮司様にもお聞きしてみましたが、やはり詳細はわからず、遺物や、古墳にまつわる伝承も残されていないようです。。。
実は今回再訪したのは、リンクをいただいているmichikusa520氏から、境内にマンションが建設されることになったという情報をいただいたのはきっかけでした。
東京新聞のWEBによると、マンション計画が明らかになったのは今春で、築85年と老朽化した社殿などの改修費用(約2億3000万円)を賄うために、敷地の約半分を70年の定期借地で東急不動産に貸し、地上3階地下1階の30戸入居の低層マンション(高さ10メートル)を建てるという計画だそうで、広々とした空間はなくなるものの、資金を調達する方法は他にはないそうです。
これに対して、地元の有志は見直しを求める署名運動に乗り出した、ということなのだそうですが、本年度中にはマンションの建設工事が開始され、3年後には完成予定なのだということで、さっそく早起きして仕事の前に立ち寄ってみました。

鳥居の横には看板が建てられています。
特にマンションの建設についてはふれらず、「境内の整備」としか書かれていないようですが、美しき鎮守の森は風前の灯なのかな?
いったいどうなるのでしょうか。。。
発掘調査が行われるのか否かも気になるところですが。。。

社殿もまだ健在です。
この社殿の乗る高まりが古墳の名残なのかな?とも思われるのですが、周辺の古墳事情を調べてみた印象としては、この地域の古墳の存在は立地的に考えにくく、境内に存在したという古墳といわれる高まりは古墳ではなく、後世に築造された塚なのではないか?とも思えます。
いや、あくまで素人考えで、発掘調査が行われてみないことにはなんとも言えませんけどね。
てかさ。
そりゃもう暑くて暑くて、神社に立ち寄っただけで汗びっしょりでまいったよ。
いや、今でも毎日暑いんだけどさ。。。

境内にあるシイの大木は健在でした。
品川区の天然記念物に指定されている大木です。
シイの木自体は伐採はされないようですが、マンションが建設されればこの景観も失われてしまうことになります。

御朱印をいただきました。
多少なりとも貢献できれば、ね。。。
今後どうなるのか、しばらく様子を見てみようと思っています。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1075.html(2000/03/05「小山八幡神社」)
- 2023/09/18(月) 23:49:14|
- 品川区/その他の塚
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今回は、岐阜県加茂郡富加町に所在する「池下1号古墳」の探訪の記録です。
急遽訪れることになった岐阜の古墳のうち、最後に見学した古墳です。
なんの下調べもせず、郷土資料館でいただいた「富加町観光ウォーキングマップ」だけを頼りに訪れましたので、詳細はまったくわからないのですが、、、

墳丘裾に建てられている標柱に「前方後円墳」と書かれていてびっくり。
古墳はかなり崩れているのか、パッと見は前方後円墳には見えません。。。

もっとも高さのある場所。
ここが後円部の墳頂部に当たる場所かな?とは感じますが、よくわかりません。。。

リンクしていただいているmichikusa520さんの『滋味コフン』にこの古墳の記事を見つけてびっくり。
そうかー、、、michikusa520さんもこの古墳を訪れていたかー。。。
古墳の詳細はわからずで、ちゃんと地元の図書館で調べてくればよかったのですが、時間ギリギリだったし仕方がないよね。
この古墳の見学中、すでに南の方から分厚い雨雲が近づいていました。
真っ黒で分厚い雨雲の雲間にはビカビカと稲妻が光っている状況。
急いで出発しましたが、遠くでは、雨のカーテンみたいに晴れている場所と雨が降っている場所の境目がハッキリと見えていて、それがすごいスピードでこちらに近づいてきます。
「まずい」と感じて車を飛ばしましたが時すでに遅し。
高速の入り口に一番近いガソリンスタンドで給油中、嵐となりました。涙。
雨のカーテンの境目がすごい勢いで通り過ぎると、その瞬間、横殴りの雨で一瞬でびしょ濡れ。
スタンドの看板は風で舞い上がり、ヒョウがバリバリと車を打ち付ける中、スタンドのスタッフの飛び交う怒号。
給油を終えて道路に出たものの10メートル前も見えません。
正直、こんな雨の中にいたら命が危ない!と、雨で身の危険を感じたのは生まれて初めての経験でした。。。
旅先の土地勘のない場所でこの嵐の中、車を走らせる度胸は無いな、、、と判断。
嵐が収まるまで、コンビニで待ちました。
ホットコーヒーが美味かったー。涙。
なかなかの経験でしたが、やっぱり温暖化が原因なのか異常気象は止まりませんよね。
これから日本はどうなっちゃうのか本気で心配。。。
- 2023/09/15(金) 23:26:04|
- 岐阜県の古墳
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今回は、岐阜県加茂郡富加町に所在する「井高1号古墳」です。
国指定史跡である「茶臼山古墳」を見学した後、16時40分頃だったでしょうか。。。
まだちょっとだけ時間があるし、可能な限り周辺の古墳を散策しようということで、この古墳に立ち寄りました。
古墳の前方には川浦川が流れ、水田地帯に位置する古墳ということで、遠方から確認することができます。
古墳は、一辺の長さが20m以上ある大型の方墳で、高さは約5mを計ります。
開口する石室が見えますね。。。

言い伝えによると、昔空から陽が降ってきた時、古墳に人々が隠れたことから「火塚」とも呼ばれているそうです。
こ、古代に空から火が降ってきたとは、隕石かな???
それとも彗星かな???
ままままさかUFOかな?

石室の様子です。
立ち入り禁止っぽいし、真夏だったこともあり、石室に入るようなことはしませんでした。
羨道、前室、後室とあり、後期横穴式石室の代表的形態を残した数少ない貴重な古墳です。

真冬に来たとしても、やっぱりちょっと中に入るのは危険だよね。。。
富加町はとても古墳の多い地域で、現在約50基が確認されているそうです。
今回は、「茶臼山古墳」→「井高1号古墳」→「「池下1号古墳」」と3基のみの弾丸ツアーとなりましたが、岐阜はほかにも行きたいところがたくさんあるし、古墳もまたゆっくりと見てまわれたらいいなあと考えています。
<参考文献>
富加町教育委員会『とみかの文化財』
現地説明版
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- 2023/09/11(月) 21:19:26|
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今年の夏は、御墳印をいただくべく、愛知三大古墳といわれる熱田区の「断夫山古墳」、犬山市の「青塚古墳」、守山区の「白鳥塚古墳」を巡ってきたわけですが、白鳥塚古墳のある「しだみ古墳群ミュージアム」でなんと!お隣の岐阜県富加町の夕田というところに国指定の前方後円墳があり、そこでも御墳印を配布している、という新情報が入ってしまいました。。。
とりあえず、予定していた古墳はひと通り見て回った段階で時間は午後2時過ぎ。
気温は37〜38℃という猛暑の中での古墳散策で多少へばってはいたものの、御墳印を配布している富加町の郷土資料館の営業は午後4時までらしく、ぶっ飛んで行けばギリギリ間に合いそうだし、ここで帰る手はないよね、、、ということで急遽、岐阜に向かいました。
古墳を先に見に行ったら間に合わずに資料館が閉まっちゃう可能性が高いし、古墳を見ていないのに御墳印をいただいちゃおう!ということで、富加町郷土資料館にやってきました。

というわけで、ジャン!
これが国指定史跡の「茶臼山古墳」の御墳印です。。。.゚+.(・∀・)゚+.
日付けは自分で入れるんだそうですが、筆ペンで書くわけなかったという体たらくです。。。
ちなみに御墳印と古墳の資料をいただいて、『とみかの文化財』という冊子を購入して、館内も一応見学したのだけれど、時間がギリギリすぎて全然覚えてない。
写真も撮っていないし、、、↓↓↓ショボ─(o´・ェ・`o)─ン↓↓↓
職員の方に資料館から古墳までの案内図をいただいて、茶臼山古墳に向かいました!

これが茶臼山古墳です。
丘陵の尾根に築造された古墳で、横浜の「稲荷16号墳」を思い出しました。なんとなく。。。
古墳は、全長は約36m、後円部の直径は約21mという前方後円墳です。
平成21年度に行われた発掘調査により非常に古い土器が出土しており、美濃地方の中でも最も古い部類の、3世紀から4世紀代の築造である可能性が考えられています。

南西から見たところ。
右が前方部、左が後円部です。
ちなみに富加町は大宝2年(702)の戸籍「御野国加毛郡半布里戸籍」後として知られているそうですが、この戸籍の中で注目されているのが「県主(あがたぬし)」を名乗る一族で、半布里の人口の約四割近くがこの一族で占められており、非常に力を持った豪族の末裔であると考えられています。
茶臼山古墳の被葬者との関係が興味深いところです。。。

前方部側から後円部を見たところ。

茶臼山古墳が所在する台地の裾に説明板が設置されていました。
この古墳は駐車場が完備されているので、車を停めてゆっくりと山に登ることができます。。。
<参考文献>
富加町教育委員会『とみかの文化財』
現地説明版
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- 2023/09/09(土) 23:26:20|
- 岐阜県の古墳
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今回はまたもや脱線。
私のようなオッサンからすると、カキ氷ってのはさ。
氷の上にピンクとか黄色とか青いシロップがかかっててさ。
盆踊りとか縁日なんかで食べるやつ、っていう印象だったんですよね。
ここ何年かはコロナでお祭りもやってなかったし。
ずいぶん長いことカキ氷も食べていなかったのですが。。。
2、3年前にカンセキスタジアムが完成して、ここが栃木SCっていうJリーグのチームの本拠地になってさ。
それで、ちょくちょくサッカーの試合を観に行くようになったのですよ。
そんな中、スタジアムのすぐ東側に「果ん露」っていうカキ氷屋さんがあってさ。
いや、もう今年なんてほんと試合を観に行くたびに暑いでしょ?
カキ氷なんて子供の頃以来食べていなかったような気がするんだけどさ。
「いいね!」と思って食べてみたわけ。
画像が、メロンのカキ氷。
惜しげもなくメロンの果肉を使って、カップすら瀬戸物とかじゃなくて本物のメロンでさ。
もうこれ、どう思うよ???

写真は途中まで食べたところ。
この後、「追い氷」とか言って氷のおかわりができるシステムがあって、おかわりしました。笑。
とんこつラーメンの替え玉みたいに、氷を足してもらって食べるわけなんだけどさ。
いや〜。。。
カキ氷がこんなに進化しているなんて全然知らなかったよ。。。

食べ終わったところ。
ストローを何に使うんだヨ、と思ってたらさ、最後に汁を飲むんですって。
いやもう、汁だけでも飲んでほしいよ。笑。
美味いから。

試合が始まる前のカンセキスタジアムの様子。
まだ完成して数年だし、ピカピカです。。。

隣県の水戸ホーリーホックとの試合は「北関東ダービー」というんですよね。
試合終了間際に、新加入のペレイラがPKを決めて、なんとか引き分けに持ち込みました。
過酷な降格争いが続きますが、続報はまたいずれ。
- 2023/08/27(日) 20:05:45|
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今回は、愛知県名古屋市熱田区に所在する「断夫山古墳」です!
今回の名古屋散策で最初に見学した古墳がこの断夫山古墳だったのですが、デカすぎて全貌を捉えることができず、写真は駐車場から捉えた一枚です。
左が前方部、右が後円部で、中央の低くなったあたりがくびれ部になります、多分。。。
この古墳については『古事記』や『日本書紀』に記述があり、ヤマトタケルが東征の際、この尾張の地で豪族の娘ミヤズヒメと結婚の約束を交わしたと書かれているそうです。
その後、東征」」の帰途に病気で亡くなってしまったヤマトタケルは白鳥になって飛び立ったとあり、この白鳥となったヤマトタケルの墓が白鳥古墳であり、ヤマトタケルへの想いを抱いて亡くなったミヤズヒメの墓が断夫山古墳であると伝えられています。
どこまでが史実なのか、昔のことですからなんとも言えませんが、少なくとも断夫山古墳と尾張氏とが深い関わりがあったことを暗示している、と考えられているそうです。

後円部の一角に「断夫山古墳 入山入口」という箇所があって、公園の管理事務所に断れば見学できる、ということなので、さっそく管理事務所に顔を出して見学させていただきました。

墳頂部まで、後円部を登って行くことができます。
この断夫山古墳は、永く熱田神宮の所有地として管理されてきましたが、第二次大戦後に名古屋市の戦災復興事業として仮換地され、昭和55年に愛知県の所有となったそうです。
名古屋の市街地にある古墳ですし、壊されずに保存されて良かったですよね。。。

途中に葺石かな?と思える光景が。。。
古墳は全長150mという、東海地方最大の前方後円墳です。
後円部径約80m、高さ13m、前方部幅約120m、高さ16.3mと、かなりデカいです。
後円部に比べて前方部が3mほど高くなっているのは特徴的です。。。

後円部上の様子です。

後円部から前方部を見たところ。
やっぱりさ。真冬に訪れていれば樹木の葉が落ちてもう少し形状を見ることができたんじゃないかな、とちょっと後悔。
この日は気温がいきなり38度を超えてクラクラするくらい暑かったし、セミもわしゃわしゃ鳴いていたし。
まあ、はあはあ言いながら古墳を登ることでその大きさを体感できるわけだし、墳丘に登れることに感謝ですね。。。

前方部方後円部を見たところ。

途中で、くびれ部のあたりに、モリッとした高まりがあって、見に行きました。
もう1基の円墳でもあるのかな?とも思いましたが、これ、造り出しでした。
さすがに古墳がでかいと造り出しもデカいです!

造り出しの様子です。
この造り出しには円筒埴輪が周囲に沿って建てられ、須恵器も採集されているそうです。
この造り出しで、祭壇として墓前祭が行われていたと考えられているそうです。

墳丘裾は石垣で覆われていることが、前方後円墳としての形状が見やすい状況でした。
左奥が前方部、右手前が後円部です。

公園の管理事務所の前に、古墳の1/27スケールのミニチュアがありました。
実際の古墳はデカすぎて全貌が見られないし、いいですね、これは。。。

御墳印は公園の管理事務所でいただけます。

じゃ〜ん。
これが断夫山古墳の御墳印です。。。.゚+.(・∀・)゚+.

しだみ古墳群ミュージアムに展示されていた、断夫山古墳から出土した埴輪です。
灰黒色の色が特徴的ですが、これは名古屋市東部の東山丘陵の古窯で焼かれたものだそうです。
断夫山古墳には、1000個を超える埴輪が並べられていたと考えられています。
<参考文献>
名古屋市教育委員会『断夫山古墳発掘調査成果(速報)現地説明会資料』
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- 2023/08/26(土) 23:04:31|
- 愛知県の古墳
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今回は久しぶりに都内の古墳の話題。
北区中十条2丁目に所在する「富士塚古墳」の最新の探訪記録です。
見に行きたいと思いつつ、すっかり腰が重くなってしまって、前回の見学から1年近く経ってしまいました。。。
この場所は、古墳の前を走る旧岩槻街道(補助第83号線)の拡張工事が行われており、十条富士塚も再整備が行われてきました。
かつては、画像手前のアスファルトの部分まで塚がありましたが、塚は大きく削られ、アスファルトの部分はこれから道路となります。
現状は富士塚の整備も社務所の新築工事も終わっているようではあるのですが、道路の拡張と整備はまだこれからで、いまだ参拝はできないようです。。。

正面から見たところ。
まだ柵に覆われていて、立ち入りは許されていません。
一応、わずかに残存する古墳の墳丘部分が塚の中に隠れているんだなあとしみじみ思いますが、かなり小さくなってしまいましたね。

かつて富士塚の頂上にあった石祠が、仮宮ということでこの場所に移設されていたのですが、跡形もなくなくなっていました。

北西から見た十条富士塚です。
富士塚(古墳)というよりは、建物みたいになっちゃいましたね。
これも時間の流れということなんでしょうかね〜。

塚の斜面には多くの石碑類が黒ボクとともに移されていました。

敷地全体はこ〜んな感じ。
ね。かなり小さくなってしまいましたよね。

コロナ禍もなんとか過ぎ去ったわけですし、来年に行われる(であろう)6月30日と7月1日のお山開きと「十条富士大祭」には、参加したいなあと考えていますが、ま、とりあえずお祭りができるぐらい平和だといいなあ。。。

また何ヶ月かしたら様子を見にこようかなと思います。
参拝できるといいね。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-67.html(2012/10/16「富士塚古墳」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1287.html(2021/03/22「富士塚古墳 その2」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1288.html(2021/03/23「富士塚古墳 その3」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1289.html(2021/03/25「富士塚古墳 その4」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1290.html(2021/03/26「富士塚古墳 その5」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1291.html(2021/03/28「富士塚古墳 その6」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1292.html(2021/03/30「富士塚古墳 その7」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1373.html(2021/11/07「富士塚古墳 その8」)http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1527.html(2022/08/23「富士塚古墳 その9」)
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- 2023/08/23(水) 23:53:47|
- 北区/十条台古墳群
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今回は、愛知県犬山市に所在する国指定史跡「青塚古墳」を紹介します。
愛知三大古墳といわれる3基のうちの1基で、全長123m、後円部径約78m、後円部の高さ12m、前方部の長さ45m、前方部の高さ7mという前方後円墳です。
前方部は二段、後円部は三段に築かれており、訪れた日は真夏であったこともあり雑草が青々と茂っていましたが、かつての墳丘の表面には葺石が厚く葺かれていたそうです。
この日は天気も良かったしさ。
映える古墳ですわ。。。

この古墳は墳丘に登れないし、似たような角度からの写真しか撮れなかったのですよ。。。
しかも日陰がなくて、めっちゃ暑かったし。。。。゚(゚´Д`゚)゚。(ノ゚ω゚)ノ*.オオォォォォォォォー

古墳の周囲には通常の埴輪ではなく、「壺」を形どった大きな焼き物が並べられていたことがわかっています。
「壺形埴輪」と呼ばれているこの埴輪は各段に2m間隔で並べられていたそうで、綺麗に復元されていました。

これ、説明版に掲載されていた、整備前(1965年頃)の青塚古墳の写真です。
え!全然崩れてないじゃん、、、とびっくりしますが、古墳は「大縣神社」が鎮座したことにより、地元の人々によって守られ、残されてきたそうです。
古墳の名称は「青塚」、「茶臼山」、「王塚」など様々な名称が伝えられているようですが、現在は「青塚古墳」の名称で国史跡に指定されています。

じゃ〜ん。
これが青塚古墳の御墳印です。。。.゚+.(・∀・)゚+.
御墳印は、青塚古墳史跡公園内のガイダンス施設で頂くことができます。
他に、古墳カードもいただいちゃったしね。
マニアにはたまらんっすわ。。。(((o(*゚▽゚*)o)))
<参考文献>
特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク『愛知県犬山市 青塚古墳』
現地説明版
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- 2023/08/18(金) 19:44:57|
- 愛知県の古墳
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