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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「小金井市№23遺跡(法印塚)」

小金井市「神明社」

 今回の『古墳なう』は、小金井市前原町4丁目に所在したとされる「法印塚」です。東京都教育委員会よりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には小金井市の遺跡番号23番に登録されており、築造された時代不明の「塚」とされています。

 さて、この法印塚を語るには、前原町3丁目の神明社に隣接してあったという光明院に触れなければなりません。画像は現在の神明社です。
 光明院は現存していませんが、中世から近世にかけて大きな力を振るった修験道場であったといわれています。明治5年()に修験道は政府によって廃止され、神明社は光明院から分離して独立した神社となり、光明院の当主である良純は名を梶大学と改め、神明社の神官に任命されたそうです。
 地元の人たちは光明院の修行僧のことを「前原の法印様」と呼び、病気の平癒や揉め事の解決を願うときにはその祈祷にすがっていました。また、冬至には火渡りの業を行い、真っ赤に焼けた炭火の上を信者に裸足で渡らせて、身の安全を祈ったそうです。
 この法印様が亡くなると、信者たちが抱きかかえて運び、高さ3メートルほどの塚を築き、遺骸を埋葬したといわれています。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 画像は、前原町4丁目の「いちょう公園」です。『東京都遺跡地図』に「小金井市№23遺跡」として記載されている地点、つまりは、法印様の遺骸が埋葬されたという「法印塚」の推定地とされる場所です。
 この一帯はかつては茅原で、雑木や赤松の森がところどころに黒ずんで見えるその間に、法印塚がありました。文化6年(1809)に、太田蜀山人が小金井に花見に来て帰りにこの道を通り、府中の鍵屋に泊まって、この法印塚について書き記しているそうです。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 いちょう公園内部には土塁のような盛り土が見られます。「公園」と名付けられているものの、ちょっと不思議な空間が広がっています。これが何かの遺構なのか、ひょっとして法印塚が崩された際の残土なのか、ずっと疑問でした。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」にこの塚が取り上げられており、「消滅」とされていますが、昭和34年(1959)には調査が行われているとあり、「径17〜18m、高2m」という規模まで記されています。ただし、「文献」の欄が空欄であることから報告書は刊行されなかったと考えられ、図書館で調べてみても詳細はわかりません。そこで、小金井市文化財センターを訪ねて学芸員の先生にお尋ねしてみたところ、ようやく詳細がわかってきました。
 現在の「イチョウ公園」と南側のエルフォレストマンションの敷地には戦時中から横河電気小金井工場が存在しており、戦後~昭和40年代末まではその建物を利用して慶應大学工学部の武蔵小金井キャンパスとなっていました。
 昭和40年代末のこの地域に詳しい学芸員の話として、当時すでに塚の痕跡は無く平らな土地だったということで、現在確認できる土地の起伏などは、遺跡とは関係のないものであるということです。
 ちなみに、『東京都遺跡地図』に塚の記号が記されている場所はこの「イチョウ公園」で間違いないようですが、正確な所在地はわからなくなっており、あくまで推定地とされています。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 エルフォレストマンションの建物と建物の間に、塚状に盛り上がった地形が確認できます。居住者以外は立ち入り禁止であるため、敷地の外から見学するほかないのですが、ひょっとしたら何らかの事情でこの場所に残された法印塚の痕跡なのでは?と妄想していました。が、やはりこの高まりも塚とは無関係であるようです。
 昭和34年(1959)に行われたという調査の内容がわからないので塚の性格は不明ですが、立地から考えて古墳であった可能性は考え難いかもしれません。。。
 
<参考文献>
小金井市誌編さん委員会『小金井今昔ばなし』
芳須緑『小金井風土記』
皆木繁宏『小金井小次郎伝』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2019/12/12(木) 23:04:14|
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「小金井市内の庚申塚」

寛政六年庚申塔

 小金井市貫井南町の「庚申塚通り」を東から西に歩くと、貫井南町4丁目11番の分かれ道のところで、この寛政六年庚申塔に突き当たります。この分かれ道を左に向かうと、国分寺薬師堂に通じる旧道です。
 庚申塔は、正面に「絶三尸罪」と刻まれた、庚申信仰を伝える希少なもので、左右の側面に道しるべが刻まれています。昭和48年2月には、小金井市の有形民俗文化財に指定されています。


寛政六年庚申塔

 塚の前には、小金井市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

 寛政六年庚申塔
              高さ七十七cm
   市郷土資料
   指   定 昭和四十八年二月
 この庚申塔は、江戸時代後期寛政六年(一七
九四)に建てられました。正面に「絶三尸罪」
と刻まれ、中国の道教に由来する三尸説をあら
わしており、都内でも珍しく、貴重なものです。
三尸説とは、庚申の日の夜に人が眠ってしまう
と三尸という虫が体から抜け出し、天帝に罪を
告げ、その人が死ぬというものです。そこで、
更新の日の夜は、講中の仲間の人々が飲食を共
にし、眠らずに一夜を明かしたと伝えられてい
ます。
 側面に「右小川・すな川道、左こくぶんじ道」
という道しるべがあり、台座には「貫井村講中」
と刻まれています。
 平成九年二月二十八日
            小金井市教育委員会




寛政六年庚申塔

 庚申塔のようすです。
 石質が良くないためか、銘文はほとんど読めない状況です。
 塔の前にはいつもお供え物があり、地元の人に大切に祀られているようです。


庚申塚通り

 貫井南町4丁目16番の道路沿いには、「庚申塚通り」のプレートが設置されています。ここは、池の上通りと庚申塚通りの分岐点で、池の上通りは南へ向かうと府中に通じ、北に向かうと清戸(現在の清瀬市)に通じる古道です。
 この付近にも、かつては庚申塔が建てられていたようですが、残念ながら現在は撤去されており、この庚申塔が、小金井市文化財センターで12月25日まで行われている企画展「小金井の石造物」で公開されています。


庚申塔

 貫井南町4丁目16番の庚申塔です。
 「庚申塚通り」の名称が、どちらの庚申塔が由来となっているのかは不明ですが、ひょっとしたら両方なのかもしれません。
 最近、分かれ道に建てられた道しるべを兼ねた庚申塚にたまらない魅力を感じてしまっています。。。

<参考文献>
現地説明板


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  1. 2019/12/11(水) 04:35:33|
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「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 画像は、昭島市田中町2丁目と昭島市田中町2丁目の境となる、通称「浄土坂」と呼ばれる道です。多摩川の沖積面から、比高差約5メートルほどの拝島段丘の台地上へと通じる切り通しとなっている道路です。
 この周辺からは、計5基の古墳が発掘調査により確認されており、「浄土古墳群」と呼称されています。

 最初に発見された1号墳は、昭和50年10月の開発に伴う事前調査により確認されたものです。この古墳は、石室の遺存状況が極めて良かったことから昭島市により周辺294㎡が買収され、遺跡公園として整備されて、石室は原位置に保存されています。
 その後、昭和56年(1981)12月に行われた第二次調査により2号墳が、翌57年(1982)に行われた第三次調査により3号墳から5号墳の3基が確認されています。

 画像の「浄土坂」を登り切った西側に、「浄土古墳群1号墳」が保存されている史跡公園の所在地です。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 この地は古くから「浄土」という字名で呼ばれており、浄土寺という寺院の跡地であると推定されていました。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の項には
浄土 田中村と犬牙せし地にあり、この所に古碑数十基あり、大抵断折して全形のもの少し、文字も??してさだかならず、其中永和四年・貞治元年、或は永享・延文等の文字みゆるものあり、土人の話に古こゝに浄土寺といへる台宗の古刹在しが、其廃跡ゆへに此名ありと云 
と書かれています。
 昭和50年に行われた最初の調査は、その浄土寺があったと推定される一角の宅地化に伴う寺院址存否の確認調査であ理、古墳は、すでに墳丘が削平されて平坦であったことから存在が予測されず、その試掘の際に予期せぬ古墳の発見となったようです。

 画像が、1号墳が保存されている遺跡公園です。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 この古墳の主体部は、地表面下に玉石を積んでつくった、「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれるこの地域特有の終末期古墳です。主体部は、全長約6メートル、幅2メートルの長方形で、奥壁は凝灰岩砂岩の一枚岩です。
 石室の天井石の存在が疑問視されており、石材以外のものを使用した可能性があるようで、八王子市の船田古墳などに同様の可能性が指摘されていますが、あきる野市の瀬戸岡古墳群の中には蓋石をのせたものも存在しています。墳丘は低い封土の存在が考えられているものの、周溝等は確認されていないようです。築造は7世紀後半と推定されています。

 細長い河原石が積み上げられた側壁は5〜7段が残存していたそうです。
 石室は、石積みの上部が露出するような形で保存されたそうですが、現状は形状もよくわからない状況で、石材が散乱しています。これは、公園内の清掃が行われる際に、石材が公園の隅に打ち捨てられてしまったのだそうです。状況を知らない人が良かれと思ってしたこととは思いますが、なんとか復元して良い公開の方法がないものかと思います。。。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 これが取り除かれてしまった石材ですね。多分。。。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 公園内には「郷土古墳発掘時のようす」という説明板が設置されており、1号墳、4号墳、5号墳の主体部の形状を見ることができます。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 昭島市指定史跡 浄土古墳(1号墳)
 浄土1号墳は、「浄土寺址」と伝承されるこの地から、昭和50年(一九五七)に発見され、市史跡として埋蔵保存されている。石室は地表下につくられた、横穴式石室。
 規模は、長さ5m、床面の幅65〜100cm、胴張する平面形。奥壁は一枚石を用い、側壁は河原石が5〜6段、せりだし状に小口積され、入口も石でふさがれている。
 天井や周溝は不明であるが、低い盛り土があったと思われる。内部からは金銅製耳飾り一対が発見された。
 また、昭和56年(一九八一)には、周辺から4基の小石室が発見され、浄土古墳群と呼ばれている。この古墳群は、7世紀後半の築造とされ、類例はあきる野市瀬戸岡古墳群などにみられ、多摩地域の特徴的な終末期古墳である。
 平成18年3月 昭島市教育委員会


 石室の全長は、報告書では6メートル、説明板では5メートルになっているのですが、どちらかが間違いなのでしょうか。。。


昭島市「経塚下古墳」

 画像は、同じ公園内に移築された「経塚下古墳」が保存されている地点です。これは、昭島市教育委員会発行の『東京都昭島市田中町浄土古墳』という報告書の5ページに掲載の「遺跡測量図」に「経塚下古墳移築地」とはっきり書かれていますので、この場所で間違いないと思われます。
 ちなみにこの日は草ボウボウで、よくわかりませんでした。
 そしてもう1基、浄土古墳群4号墳もこの公園内のどこかに移築されているはずで、『昭島市浄土古墳群』には「4号墳を1号墳の東の空き地に移築した」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「公園に移築して保存」という記述が見られます。
 実は今年、東京都文化財ウィークの文化財講演会、「考古学からみた多摩川 中流域と昭島の歴史」に参加して、和田哲先生のお話を聞くことができました。和田先生もやはり、1号墳ともう1基、小石室を移築した、とおっしゃっておられました。それで、講演会終了後にこの場所を再訪してみたわけなのですが、やはりこの小石室の保存場所はよくわかりませんでした。。。

<参考文献>
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳』
昭島市教育委員会『昭島市浄土古墳群』
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明板


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  1. 2019/12/09(月) 23:46:12|
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「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

 昭島市内には、前回の直刀出土地点とは別にもう1ヶ所、直刀の出土が伝えられる地点が存在します。『東京都遺跡地図』には昭島市の遺跡番号21番に登録されている古墳で、昭和53年に発行された『昭島市史』には「広福寺台古墳」の名称で紹介されています。

 『昭島市史』によると、ゴボウの収穫中に地下1.2~1.3mの位置に河原石を敷いた穴4個が発見され、その穴の一つに大石の置かれたものがあり、その大石の下に直刀一口を素焼きの茶碗2~3個があったそうです。茶碗は残念ながら捨てられてしまったそうですが、直刀は今も広福寺に保管されているそうです。出土地点は多摩川低地に突出する広福寺台のほぼ中央で、付近には縄文式土器、土師器、須恵器が散乱していたようです。
 『昭島市史』では、古墳であるという決め手には欠けるものの、経塚下古墳と比較したときに河原石積の小規模石室が想定できることから、墳丘の存在しない石室のみの古墳だったのではないかと推定しています。


「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

 古墳が存在する広福寺台を低地から見上げたところです。かなり段差があることがわかります。
 見学の際の表面観察では、古墳らしき高まりはやはり存在しないようでしたが、石室が発見された位置が地下1.2~1.3mという報告からすると、現在も地中に石室が残されている可能性は高そうです。また、古墳は1基のみでなく複数基存在する可能性も想定されますし、今後の調査の進展が楽しみな地域ですね。


「廣福寺」

 広福寺台古墳所在地の南東、昭島市福島町2丁目に所在する廣福寺です。
 最初にこの地域を散策した際に、このお寺に富士講碑が存在するということで、見学しました。


「富士講碑」

 富士講碑です。
 何かの本を読んで存在を知って、見学に立ち寄ったように記憶していますが、何の本だったか忘れてしまいました。。。

<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島図書館「ふるさと散歩道」『広報あきしま 48年7月号』


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  1. 2019/12/07(土) 21:51:02|
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「経塚下古墳」

「経塚下古墳」

 「経塚下古墳」は、昭島市宮沢町の拝島段丘上縁辺部に位置する古墳で、昭和51年(1976)7月~8月にかけて行われた「経塚下遺跡」の調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には、昭島市の遺跡番号46番に登録されている古墳です。

 この古墳は、墳丘はすでに削平されていたものの、築造当時には封土があったのではないかと考えられているようです。周溝が検出されなかったことから、規模については不明とされています。
 長径2.1m、幅40~60cmとかなり小形の竪穴式石室が検出されており、河原石積みで胴張りの形状は周辺の浄土古墳などと同様の終末期古墳でされています。側壁近くからは鉄鏃や刀子などが発見されており、この出土した五角形の鉄鏃から、古墳は7世紀後半に築造されたと推定されているようです。

 画像は、経塚下古墳の跡地周辺の様子です。残念ながら古墳の痕跡は何も見当たらないようです。


「経塚下古墳」

 古墳が所在する拝島段丘から、多摩川の沖積低地を見下ろしたところ。
 新奥多摩街道が切り通しとなっていて、かなり高低差があるのがわかります。

 多摩川中流域左岸の、昭島から調布あたりにかけての古墳の分布は、まるで崖から何十メートル以内というふうに、取り決めでもあったかのように段丘縁辺部に集中しています。そして、狛江市内に入ると、このルールの適用外であるかのように広域に古墳が分布するわけですが、これはとても興味深いです。。。


「経塚下古墳」

 昭島市郷土資料室で公開されていた、発掘当時の経塚下古墳の石室の様子です。


「経塚下古墳」

 道路工事によって消滅する運命にあったこの古墳の石室は、「浄土古墳」の史跡公園内に移築・保存されています。画像が、経塚下古墳の石室が保存されている場所です。つまりは、この史跡公園内に「浄土1号墳」、「同4号墳」、「経塚下古墳」の3基の古墳の石室が保存されているということになります。


「経塚下古墳」

 おそらくは、この経塚下古墳の説明板が設置されていたのではないかと推測されますが、残されているのは骨組みのみで、説明板自体は崩壊してしまったようです。
 
<参考文献>
東京都昭島市経塚下遺跡調査会『経塚下遺跡』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』


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  1. 2019/12/06(金) 23:14:41|
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