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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「富士塚」と「富士塚西方のツカ」

「富士塚(首塚)」

 さて、前回紹介した青山地区の2基の塚を見学した後は、根小屋地区に向かいました。
 画像は、相模原市緑区根小屋に所在する「富士塚」です。
 塚の周囲は農地として使用されていることから、長径20m、短径17m、高さ4mという大きな塚はひときわ目立つ存在です。電車の駅からは多少距離がありますが、JR横浜線橋本駅から三ヶ木行きのバスで30分ほど走った「富士塚前」というバス停の目の前が塚の所在地ですので、比較的見学しやすい塚です。

 この富士塚には多くの伝承が残されており、旧津久井町教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。

富  士  塚
    津久井町根小屋富士塚一九一八番地

 この塚は土地の人は富士の森とも呼ぶ、新
編相模国風土記稿に「首塚」として「寺領(
功雲寺)南金原ニアリ、天正十八年(一五九
〇)平岩主税(徳川軍の武将)津久井城ヲ攻
落シ、城兵ノ首級ヲ獲テ埋葬セシ所ナリト云
フ、塚ノ上ニ松ト桜ヲ栽ユ」とある。
 天保六年(一八三五)三月八王子千人隊十
人頭、塩野適斎が幕府の命により地誌編纂の
ため、この塚を訪れた時に「首塚」と題し作
詩し筑井県紀行詩集に収められている。

首塚はいづれの年 いづれの世の人と 言うこれ津久井城の臣なりと
首塚何年何世人 言斬新斯津久井城臣
只今ただ桜花のひらくあり せきせきりようりよう春にたえず
只今唯有桜花発 寂々廖々不耐春

 塚上に浅間大神(明治二十三年九月建立、
越後国、浜島勝)、富士浅間大神(明治二十
三年寅六月一日開眼師、岩崎泰健、根小屋卿
中)、妙法金人水神(年代不明)の三基の石
仏がある。江戸期から明治にかけ富士山を神
格化した富士信仰が盛んになり、各地に富士
講がつくられ江戸八百八講と呼ばれる程にな
ったといわれ、富士山に登山できない者のた
めに富士山をまねた富士塚が各地につくられ
た、この塚も浅間大神の石仏があることから
古くは「首塚」と呼ばれていたが、後に富士
塚と呼ばれるようになったと考えられる。
 塚の面積約二八〇平方米、昭和三七年六月
二七日より大蔵省(財務省)の管轄地となる。
  平成三年十二月一日
           津久井町教育委員会


 説明板に書かれている言い伝えからすると、塚の元々の性格は、津久井城落城の際の戦死者を埋葬した「首塚」ということになるようですが、発掘調査が行われたのかどうか調査報告書が見つからなかったので、このあたりの真相はわかりませんでした。。。


「富士塚(首塚)」

 この2枚目の画像は、南から見た富士塚です。塚上に登るための道でマウンドが削られていて、ちょっと変な形に見えますね。(お尻?)


「富士塚(首塚)」

 塚上に登ってみました。
 一番左が近年に建てられたと思われる「富士塚を守る会記念碑」、2番目が明治23年9月建立の「浅間大神」の碑、3番目が明治23年寅6月1日建立の「富士浅間大神」、右が年代不明の「妙法金人水神」です。


「富士塚西方のツカ」

 根小屋地区には、もう一基、小さな塚状のマウンドが存在します。
 遺跡としては登録されていないようですが、『津久井町史』に「富士塚西方のツカ」として掲載されている塚で、同書には「直径3メートル、短径2.5メートルの範囲に、10~30センチの円礫が積まれており、高さは90センチほどである。以前はもう少し大きなものであったようである。」とのみ書かれています。

 この塚はなかなか見つからなくて苦労したのですが、ご近所のご主人にお尋ねしたところ、「あそこかもしれない!」ということで、わざわざ現地まで道案内していただきました。
 ご主人は縄文時代がお好きだそうで、農作業中に畑から出てくる土器片を集めていたそうです。所有する畑から土器片や埴輪片がザクザクと出てくることを想像するとワクワクしますよね。
 楽しい時間をありがとうございました!

<参考文献>
相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館『津久井町史 通史編 原始・古代・中世』
現地説明板


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  1. 2019/03/22(金) 22:52:49|
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「千部塚ともう1基」

「千部塚」

 画像は、相模原市緑区青山に所在の「千部塚」です。
 この塚には、後醍醐天皇の第六皇子である大塔宮護良親王の後遺具を埋めたもので、その三十三回忌の御忌に僧蓮明が法華経千部を修し、供養塔を建立したという伝承が伝えられています。
 千部塚は、相模原市のNo.319遺跡として登録されており、平成21年7月27日には相模原市の文化財として登録されています。
 塚の場所には、相模原市教育委員会による説明板が設置されており、千部塚の由来について次のように書かれています。

千 部 塚

 建武の中興なって、世は一応の落ちつきをみたが、足利尊氏
の野心を看破した大塔宮護良親王は、新田義貞、名和長年と共
に尊氏討伐を企てたが、反対に尊氏の奸計(謀略)により、囚
われ鎌倉に送られて尊氏の弟、直義の命により家臣、淵辺義博
に弑(殺害)せられた。時に宮二十八歳、建武二年七月二十三
日夜のことである。
 親王の妃を雛鶴姫という。凶変を知った側近、松木宗忠は、
親王の首級を携さえ甲州富士浅間社に隠すこととなった。一方
雛鶴姫は菊池武光、馬場正国に護られて遺骨を棒持し、鎌倉を
あとに京都に向ったが、東海道は足利勢の兵馬に危険を感じ、
道を変えて大山に向いそれよりこの津久井の青山村に辿りつい
た。時に姫は長い道中と、親王の子を懐妊していたので、病に
かかりここに滞在の止むなきに至った。そのうち親王の三十五
日忌を向えたので、この地に親王の供養塔を建て霊を慰め、そ
してその年十二月なかば、甲州秋山村へ向って出発したのである。
 この千部塚は、大塔宮三十三回忌に、僧蓮明が法華経千部を
修めた塚で、塚上の宝篋印塔はその供養塔、台石に応安四年二
月願主蓮明敬白と刻されている。
 なお明治三年親王の五百回忌に当り、金徳山光明寺において
法要が営なまれた時の「千部塚養塔銘」が同寺に蔵されている。
                   相模原市教育委員会



「千部塚」

 塚は、2次にわたる発掘調査が行われています。
 塚の主体部からは、明治時代の中頃に流行したとされる印判手磁器が検出されており、また塚の盛土は全く締まりのないごわごわした状態だったそうです。
 ひょっとしたら元々築造された塚はすでに湮滅しており、明治期に新しく造り直した塚なのかもしれませんが、その場合、元々の塚もこの場所に存在したのか、それとも別の場所から移されてきたのか、真相はわかりません。
 現存する塚も、昭和のはじめ頃にはさらに大きかったといわれているようですし、2つの塚が隣接して存在していたという土地の人の証言もあるようなので、いろいろな歴史を経ての現在の塚なのかもしれませんね。。。


「千部塚」

 塚上には宝篋印塔の一部が残されています。
 当日、土地の所有者の方とお話ができたのですが、50年ほども前にはもっと大きな塔が建てられていたようですが、時間の経過とともに崩れてしまったそうです。
 確かに、宝篋印塔や五輪塔は崩れやすそうですもんね。日本は地震も多いし。。。


「千部塚」

 「塚の上に崩れた宝篋印塔の石が残っているよ」と、塚上まで案内していただきました。(色々お話を聞かせていただいて嬉しかったです。ありがとうございました。)
 基礎部分には、応安四年・願主蓮明敬白の銘が刻まれており、護良親王が弑せられた建武2年(1335)から37年後に、沙耶蓮明が法華経千部を修して建立した供養塔ということになるようです。
 

「相模原市No.333遺跡」

 千部塚の周辺は、地名が「塚場」と呼ばれており、『つくい町の地名』によると「昔は数か所に塚があり、信仰の地であったと思われる代表的には千部塚であり、(青山)神社の真北にあたる地」と、かつては幾つかの塚が存在したようです。
 これを証明するかのように、千部塚の西方300メートルほどの地点にはもう一基、塚が残されています。相模原市のNo.333遺跡として登録されている塚です。
 こちらでも、運よく土地の所有者の方にお話をお聞きすることができたのですが、千部塚よりもひと回り小さいこの塚に名称はなく、由来等も特に伝えられていないようです。発掘調査も行われていないようなので塚の性格はわかりませんが、古墳であるとは考えにくいので、やはり信仰に関係する塚なのかもしれません。。。


「相模原市No.333遺跡」

 南西から見たところ。


最後のサイクリング

 この何年か、すっかりお世話になったブロンプトンです。
 折りたたむとかなり小さくなってしまうので、電車や車の移動でサイクリングしたい時にはいつも使っていました。元々は友人から譲り受けたものなのですが、デザインも色も良いし、持ち運べて便利だし、かなり気に入っていたんですよね。
 それが最近、新しい折りたためる自転車を購入してしまいました。それで、新車が届く直前のよく晴れた週末に、最後かもしれないサイクリングに出かけよう!と思い立って、相模原の塚巡りに出かけました。
 山の中のケモノ道みたいな場所でもバンバン走って行ったりしていましたしね。「乗るならもう少し痩せろよ!」とブツブツ言っていたかもしれませんが、お世話になったのです。。。

<参考文献>
千部塚学術調査団『千部塚』
相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館『津久井町史 通史編 原始・古代・中世』
現地説明板


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  1. 2019/03/18(月) 02:56:49|
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避難塚その2 「諏訪天神塚古墳ともう1基」

「諏訪天神塚古墳」

 前回の「諏訪浅間塚古墳」に引き続き、今回は同じ川崎市高津区諏訪3丁目に所在する「諏訪天神塚古墳」です。

 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、
 今一モ同シ邊ニアリ四五十坪許ニテサマテ高カラサル塚ナリ上ニ天神社アルユヘ土人天神塚トヨヘリ
 (中略)カレカ家ニ祖先ヨリ傳ヘシ武器寳物モアリシカカゝル農民トナリシカハ今ハ用なきモノナリトテコトゴトク前ナル塚ヘ埋メタリト云。

 と書かれている古墳です。
 昭和63年(1988)、川崎市内の古墳の所在調査が行われた際に、東高津小学校と地主さんの元に、出土した埴輪片が保管されていることが確認されたことにより、この諏訪天神塚は古墳として認識されました。
 その後、測量調査と3次に渡る発掘調査が行われたことにより、詳細がわかってきているようです。墳形は現段階では円墳と推定されており、残存する長さ16.4メートルよりも大きな古墳であることは間違いなく、高さも築造時には6メートルほどはあったのではないかと考えられているようです。
 埋葬施設は、泥岩を利用した切石つの無袖式横穴式石室で、出土した土器や埴輪から、古墳は6世紀後半の築造と考えられているようです。


「諏訪天神塚古墳」

 画像は、西から見た諏訪天神塚古墳です。
 土地の所有者である小黒家によると、前回の「諏訪浅間塚古墳」と同様に、二ヶ領用水工事の際に掘り上げによる残土を、洪水時の避難用の塚として盛り上げたものであると伝えられているそうです。
 こちらの天神塚は、耕作により高さは失われているようですので、今、避難塚として使用するには、ちょっと厳しいかもしれません。。。


「諏訪天神塚古墳」

 天神塚の墳丘上には、梅を持った管公の像があり、渡唐天神と彫られているそうです。これは、唐の国に渡った姿を示しているといわれ、元々は塚の上に安置されていたものの、明治35年4月25日が管公の一千年祭にあたることから、現在のように台座が設けられたそうです。


「馬頭観世音」

 付近を散策していて気になったのが、画像の「馬頭観世音」と刻まれた石碑の立つ地点です。南から伸びた道路が、この石碑の場所で西に折れ曲がっていて、その後、北に向かって弧を描いています。
 この場所が古墳の跡地とは考えられないのでしょうか。。。


「馬頭観世音」

 石碑の背面には「縁起 凡そ二百余年前小黒彦兵衛なる者徳川御三家紀州候の愛馬を預かり余命つき此処に埋葬し馬頭観世音を奉祀した 十三代 小黒彦司」と刻まれています。
 愛馬を埋葬した、というあたりからしても、この周辺に何らかの塚が存在したのではないかと妄想してしまいます。。。


「小黒恵子童謡記念館の築山」

 案外、小黒恵子童謡記念館のお庭の築山あたりが古墳の痕跡だったりして…

<参考文献>
川崎郷土研究会「川崎諏訪の避難塚」『川崎研究 第17号』
川崎市教育委員会『川崎市文化財調査集録 第24集』
川崎市市民ミュージアム『諏訪天神塚古墳』
現地説明版


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  1. 2019/03/16(土) 23:26:45|
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避難塚その1 「諏訪浅間塚古墳」

「諏訪浅間塚古墳」

 今回は、川崎市高津区の諏訪地区の古墳の探訪の記録です。
 この高津区諏訪3丁目周辺には、今も「諏訪浅間塚古墳」、「諏訪天神塚古墳」という2基の古墳が現存します。これらの古墳はかなり古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られます。同書の「諏訪河原村」の項には「塚三」と3基の古墳について記されており、浅間塚と天神塚以外にもう1基の未知なる古墳が存在したようです。

 最初の画像は、「諏訪浅間塚古墳」を南西から見たところです。
 『新編武蔵風土記稿』には
 一ハ字塚田通ニアリ、百姓傳八ト云モノゝ住居ノ後ニテ高サ三四丈ハカリノ塚ナリ上ニ富士淺間ヲ勧誘シ石ノ祠ヲ立裏ニ諏訪左近七世ノ孫小黒傳八ト鐫レリ寳暦ノ頃造立セシモノナリ故ニ土人淺間塚ト云
 と書かれています。
 この古墳は、多摩川の広い沖積地に築造された古墳で、平成元年(1989)に発行された『川崎市文化財調査集録』によると、当時の規模は径19.5m、高さ3.8mで、この規模は現在も大きな変化はなさそうです。墳丘の東側が削られていることから楕円形に近い形状となっており、墳頂部には富士浅間社が祀られているそうです。訪れた当日に土地の所有者に声をかけてみましたが、残念ながら公開はしていないということで、この祠を見ることはできませんでした。


「諏訪浅間塚古墳」

 北から見た諏訪浅間塚古墳です。

 土地の所有者である小黒家によると、浅間塚、天神塚と消滅したもう一基を含む3基の塚は、二ヶ領用水工事の際に掘り上げによる残土を、洪水時の避難用の塚として盛り上げたものであると伝えられているそうです。
 この一帯は多摩川右岸の広い沖積地で、しばしば多摩川の洪水に見舞われていたようですが、明治40年代の大洪水の際は、水は床下浸水くらいで、非難塚として使われることはなかったそうです。ただし、古くは実際に洪水時に塚の上に避難したこともあったと伝えられているようです。
 この浅間塚は相応の高さが残されているようですし、浸水をしのぐことができたのかもしれません。古墳が築造されて以降、長い年月の間に度重なる洪水に見舞われたことと思われますが、こうして古墳が崩れずに残されていることからして、当時の土木技術が優れていたということかもしれませんね。。。

 以下、次回の「避難塚その2」に続く。。。

<参考文献>
川崎郷土研究会「川崎諏訪の避難塚」『川崎研究 第17号』
川崎市教育委員会『川崎市文化財調査集録 第24集』
現地説明版


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  1. 2019/03/13(水) 23:58:18|
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「北見方古墳」

「北見方古墳」

 さて、前回の「二子塚古墳」に続き、今回も川崎市の低地の古墳のシリーズ2ということで、「北見方古墳」の探訪の記録です。
 この古墳は、残念ながら開発により消滅している古墳です。現在の高津区北見方周辺にあったとされ、旧北見方村北宮前耕地352番地の西側、諏訪河原村境近くの水田の中に突出して存在したといわれています。昭和12年(1937)に日本通信工場建設のために付近一帯が買収され、この頃に塚は削平されてしまったようです。

 『川崎の遺跡』には、「高津区№145遺跡」として画像のあたりに登録されており、現在はかなり大きなマンションとその駐車場、駐輪場となっているようです。


「北見方古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=720247&isDetail=true)

 昭和12年に削平されてしまったという北見方古墳ですが、空中写真を確認することによりわずかながらの痕跡を見ることができるようです。
 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)8月14日に陸軍により撮影された北見方古墳古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 画像の中央に、うっすらと円形の影が見えるがお分かりでしょうか。残存する古墳の形状なのか、周溝が影となって見えているのかよくわかりませんが、この円形の影が古墳であれば、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』に登録されている古墳の位置と、ピタリと一致します。
 やはり北見方古墳は、この場所に存在したのかもしれません。。。


「北見方古墳」

 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、この古墳についての記述が見られ、
 古塚 村ノ村ノ北ノ方ニアリ田間ニ突出セリ高七尺餘敷ノ徑六間許何塚ト云コトモ傳ヘズ中古里正掘リテ平田ヲ發ントセシニ古陶器幷ニ壺ナト出シカサマテ證トナスヘキ物ナシ古へユヘアル人ノ葬地ナトニテモアルカ今ハ上ニ石ノ地藏ヲ建
 と書かれています。
 この地誌に記述が見られることからして、江戸時代には地元では知られた存在であったと考えられますが、塚の名称については「古塚」とされており、由来についても特に伝えられていなかったようです。古陶器や壺の出土が伝えられており、「古へユヘアル人ノ葬地」としていることから、この塚が古墳である可能性は高そうです。
 塚上に安置されていたという地蔵尊は2基あり、現在はマンションの南東側、白髭神社の道路を挟んだ向かい側に安置されています。


「北見方古墳」

 北見方古墳の地蔵尊です。
 真新しいお花が生けられていました。


「北見方古墳」

 明治39年の陸軍陸地測量部による古地図によると、北見方1丁目の画像の周辺にも何らかの塚が存在したようです。『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』では「地形図には北見方に塚の表現があるが、これは新編武蔵風土記稿にいう陶磁器・壺等を出した北見方古墳とみられる。」と、この場所が北見方古墳であるとしているようです。こちらは開発により宅地化が進み、古墳の痕跡は何も残されていないようです。
 跡地近くに地蔵尊が祀られていることからして、最初に取り上げた地点が北見方古墳で、こちらの塚はまた別の古墳(塚?)なのではないかとも考えられますが、真相はわかりません。
 少なくとも、多摩川右岸の低地にかなり多くの古墳が存在したことは間違いなく、今後の発掘調査の進展が楽しみな地域ですね。。。

<参考文献>
上田恒三『高津村風土記稿』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』


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  1. 2019/03/06(水) 22:22:35|
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