
画像は、日光市土沢に所在する「正体不明の謎の塚」です。
ここ、最初に通った時には「あ、塚がある」と存在に気が付きながらも、その時は夕方暗かったこともあって、Googleマップに位置を記したのみで素通りしました。
その後、旧今市市の図書館で調べてみたりもしたのですが、塚の性格についてはよくわからないままでした。
最近になってこの塚の横を通った際に土地の所有者の奥様?らしき人影を発見!
もはや直接お聞きしてみるしかない!ということで、近くに車を停めてお伺いしました。
実は塚は2基あったのですが、画像は路上から最初に確認した1基です。
小円墳、という規模の高まりで、直径は10m弱、高さは約1.5mというところでしょうか。
塚上には祠や石碑などは存在せず、表面観察のみではいったいなんの塚なのかさっぱりわかりません。。。

東側の林の中に残存する1基です。
西側の塚よりは若干小さな印象で、直径は5〜6m、高さは1mといったところでしょうか。。。
この2基の塚について、土地の所有者の奥様にお話をお伺いしましたが、奥様もこの塚がなんなのかずっと気になっていて自分なりに調べてみたのだそうです(奥様以外の家族は塚にまったく興味がないと嘆いておられました。笑。。。ま、それが普通かもしれませんよね。。。( _ _ )..........o
しかし、塚の由来については何もわからず、周辺にお住まいの古老の方に聞いてみても誰も知らなかったそうです。

というわけで、塚については何もわかっていないに等しい状況ではありますが、アップしておかないと何年も放置しかねないし、なるべくタイムリーに掲載したいし、何かわかった際にはこっそり書き換えることにして掲載しておきます。
奥様には近くの石塔の場所にも案内していただきまして、画像はその様子です。
奥様の腕が写っています。笑。
ホント、楽しい時間をありがとうございました。
ちなみに奥様には、旧今市市内に所在したという古墳ではないかという塚の情報もお聞きしておりまして、次回はその探訪の記録をお届けします。。。
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- 2023/05/27(土) 19:38:55|
- 日光市の塚
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今回は、日光市猪倉に所在する正体不明の謎の塚です。
前回紹介した「犬塚」を探しているときに、車で駆けつけてまで場所をお教えいただいた地元の方が、「こういう古墳みたいな塚はもう一箇所知ってるけど、案内しようか?」とおっしゃっていただきまして、、、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきました。(お教えいただかなければ塚の存在に気が付かなかったと思うし、ホントに感謝です。涙)
画像の道路左側の雑木林の中に塚は所在します。。。

「犬塚」と同じ日光市猪倉地内にあり、犬塚から車でほんの2〜3分ほとの近距離にある塚です。
塚は新里街道沿いにあるのですが、ちょうど旧道と新道とが枝分かれした旧道沿いにあるのでこれまで気がつかなかったのですね。。。
自然地形ではなく、明らかに人工的に盛土された塚である印象ですが、はっきりと方形を呈する形状からすると、古墳ではなくもっと後世に造られた宗教的な塚なのかな?とも感じます。
前々回に取り上げた9基の塚群ともかなり近い位置にありますが、塚の性格的にはまったく別ではないかと感じさせます。。。

塚上には特に祠や石碑などもなく、表面観察だけでは何の塚かはわかりません。
地元の図書館で調べた限りではまだ塚の性格までは判明せず、今のところ詳細はわからないのですが、なるべくタイムリーに掲載したいし、何かわかった際にはこっそり書き換えるつもりで掲載しました。
ちなみに右側の人は私ではなく、案内していただいたという地元の方なのですが、人が写っている方が塚の規模もわかりやすいし、ということで掲載しちゃいました。

塚上から見下ろしたところ。
かなり高さが残されていますし、ほとんど崩れていないんじゃないかな。。。
微妙に角張っているのがわかるでしょうか。。。

「塚は昔は2箇所にあって、向こうの墓地の手前にも1基あったんだけど、気がついたらいつの間にか無くなっちゃったんだよなあ、、、」とおっしゃっていたあたりに微妙な高まりがあったので、撮影しておいたという1枚。
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- 2023/05/26(金) 18:20:19|
- 日光市の塚
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画像は、日光市猪倉に所在する「犬塚」を西から見たところです。
この塚は、通り掛かりに偶然見つけたのではなく、前回取り上げた塚群について図書館で調べていてその存在を知りました。
正確な塚の所在地がわからず、近隣にて地元の人に場所をお聞きして、塚を探してウロウロしていたのですが、なんと道をお聞きした方が心配して軽トラで駆けつけてくれて、場所まで案件していただきました!(しかもその後、未発見の塚の場所までも案内していただいたりして、ホントになんとお礼を言っていいのかわからないのですが、心の底から感謝です。)
撮影した日が、ちょうど田んぼに水を入れて始めた時期で、逆さ富士ならぬ「逆さ犬塚」という感じで、いい写真が撮れました。笑。

戦国時代、この地方では日光山勢、宇都宮氏、鹿沼の壬生氏などの勢力争いが繰り広げられていたそうです。
ときに天正年間、徳雪斎は鹿沼城の支配権を手中に収めるため、鹿沼坂田山の城主である甥の壬生上総介綱雄を暗殺してしまいます。
壬生氏を攻略して我がものにしようという企みでしたが、逆に綱雄の?男上総介義雄に討ち滅ぼされてしまいます。
この時、猪倉城主の鹿沼右衛門は徳雪斎のほうに味方をして鹿沼城を乗っ取り、宇都宮氏と連合して勢力を拡大しようとします。
義雄は、徳雪斎を倒した勢いをかって猪倉城を攻めようと、壬生氏と同盟を結ぶ板倉城主板倉将監親棟に頼み、板倉城を攻めます。
板倉勢に囲まれて危機に瀕した鹿沼右衛門は、宇都宮の出城田気城の芳賀氏の助けを求めようとしますが、幾重にも囲まれた城から抜け出す手段がありません。
そこで、自分の愛犬の首に密書を結び、田気城に走らせますが、愛犬は敵の手中に落ちて殺され、城は落ちてしまったそうです。
村人は勇敢な犬を憐み、戦いが終わった後に小さな塚を築いて手厚く葬ったといいます。

塚の土地の所有者の方には、色々とお話をお聞かせいただいた上で塚を見学させていただきました。
伝承については、親から伝え聞いてはいるものの詳しい内容までは知らない、ということでした。
所有していた、伝説について書かれた書籍のコピーをお渡しできたのですが、すごく喜んでいただいたのが嬉しかったです。
多くの塚を廻り歩く中、こうした伝説が若い世代に伝わり難くなっているのではないかな?とも感じられますし、この『古墳なう』にて少しでも記録を残せればいいかなと思います。
あちこちで、色々な方にお世話になりながら古墳廻りを続けていますが、楽しい時間がずっと続けばいいですね。。。
。
次回も、旧今市市の塚を続けます。
<参考文献>
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
渡辺武雄『聞き覚え いまいちの伝統と昔話』
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- 2023/05/25(木) 20:46:29|
- 日光市の塚
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今回は、日光市猪倉にて見かけた「謎の塚群」を取り上げたいと思います。
日光市は、旧今市市も含めて古墳は存在しないと理解していましたので、これまでほとんど深追いしていませんでした。
ただし、日光方面に出かけた際に、街道沿いに明らかに人工的に盛られたと思われる塚が存在するのを何度も目にしており、塚の横を通り過ぎるたびに気になって、Googleマップに位置を記したりしていました。
だんだんと記した塚の数が増えてきたこともあり、また塚の由来を知りたくなってきたこともあり、今年になって日光市内の図書館で調べてみました。
古墳に関しては、やはり現状は存在しないということではありますが、塚に関しては多少わかってきたこともあるので、ここで一度、見に行った塚を整理しておこうと思いました。(アップしておかないと、何年も放置しちゃうしね。笑。)
というわけで、まず最初は日光市猪倉で見つけた正体不明の塚群です。
この塚群は、車で移動中に偶然に発見しました。
最初にここを通過したのが真冬で下草が枯れていたこともあり、南基もの塚が密集してボコボコと盛り上がっているのを見かけた時は「まさか古墳群?」とびっくりしました。
あらためて写真を撮りに行ったのはわりと最近です。(真冬に撮っておけばよかったとちょっと後悔。。。)
図書館で、この塚に関する記述のある文献を探しましたが、この周辺にある塚の記録は色々と見つかったのですが、この塚群の記述はなかなか見当たりません。
仕方がないので、写真を撮りに再訪した際に、地元の人に聞き取り調査を敢行しました。(´д`)┌
画像の林の中に、8基もの塚がはっきりと残されています。
旧今市市や現在の日光市の遺跡分布地図は実はまだ見たことがなくて(あるかないかわからないのが実情ですが)、名称や「××号塚」みたいな番号はわかりません。
なので、当日撮影した順に紹介します。

1基目。
もっとも道路沿いにあり、最初に視界に入った塚です。
この、道路沿いにある最初の塚だけは東西に細長い感じで、たとえば道路の敷設工事により崩されてしまったのか、それとも単なる残土の山なのかよくわかりません。

1基目を南から見たところ。

2基目。
1基目より奥(東)にあるかなり小さな塚で、古墳という感じはしないかも。。。

さらに奥の3基目。
中くらいの塚です。
塚の大きさはまちまちな感じで、やはり古墳群ではなく塚群なのかなあと感じます。
左奥に一番大きな塚が見えています。かなり密集した様子がわかると思います。


さらに奥の4基目。
中くらいの塚です。
右奥に、1基目の塚が見えています。

もっとも東にある5基目。
中くらいの塚です。
この塚は、塚上にあった木が根こそぎ倒れていて、頂部に穴が空いています。
内部になにか見当たらないかと期待しましたが、雑草でよくわかリませんでした。。。

6基目。
これも現状径6~7mほどの中くらいの塚です。

この7番目の塚がもっとも大きくて高さもあり、まるで古墳のようです。
路上からも最も目を引く塚ですね。。。
現状の直径は8~10mほどでしょうか。

8基目は最も北にある塚で、中くらいの大きさ。
雑草が多くて、全体像のわからない状況でした。
さて、この塚群について、道路を挟んだ西側のお宅のおばあちゃんに話をお聞きできました。
おばあちゃんが若い頃、歳の近い友人がいて、その友人の叔父さんが地元の名士という感じの人で、教師をしていたそうですが(イメージ的には明治後半か大正生まれ、という感じじゃないかな。。。)、その叔父さんから当時に聞いた話ということで、戊辰戦争の兵士が福島方面に向かう途中で力尽き、亡くなった人たちを埋葬するために地元の人が築いた塚だと伝わっているそうです。
この周辺地域では、戊辰戦争にまつわる塚が数多く残されているようですし、史実である可能性は高そうですよね。
また東側の民家のご主人にお聞きしたところでは、近くにあった猪倉城に関係する合戦の際に亡くなった兵士が埋葬されているという伝承があるそうです。
ちなみに、『故里百話 今市の懐旧』という書籍の「首塚」という項に「下猪倉に笹の丸という猪倉城の出城があり、近くの犬塚橋の辺りに二つの土盛りの塚がある。里民は首塚と云い伝えている。」とあり、また『郷土史 猪倉町・木和田島町・大沢町』にも同様の記述が見られます。
犬塚橋の南東という記述からして、この塚群のことを指しているのではないか?とも感じるのですが、塚は8基あり、「二つの土盛り」という記述には合いません。
このあたりの真相解明は今後の宿題ですね。。。

ここまでの8基は道路の東側に密集していましたが、最後の1基は道路を挟んだ西側にあります。
塚上には祠が祀られています。
これはすごく古墳ぽいよね。笑。
この塚群、今のところ学術的な調査の記録は見つかっていませんが、少なくとも塚の名称ぐらいはあるんじゃないかな?と思うのですが、黒れは詳細がわかったら追記しようと思っています。
伝承の通り、少なくとも古墳ではなく、後世に築造された塚なのかな?と感じますね。。。
それにしても。。。
風呂に入ろうとして扉を開けたら窓に何かくっついていて、よくみたら巨大なスズメバチでした。
ぶうううんと大きな音で飛び始めたので、慌てて扉を閉めました。
素っ裸じゃスズメバチとは戦えないよね。
風呂場には毎年何かが侵入してくるのですが(昨年はムカデとなめくじ)、いまだに慣れない毎日。。。
<参考文献>
福田分次『郷土史 猪倉町・木和田島町・大沢町』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/05/22(月) 19:37:35|
- 日光市の塚
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今回は、以前にも一度取り上げた、中野区江古田4丁目に所在したとされる「金塚」の石碑のその後です。
金塚は、豊島塚のうちの1基ではないかと伝わる塚です。
室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた「江古田・沼袋原の合戦」とは、現在の中野区江古田・沼袋地域で行われた戦いで、この地域では、その戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。
「金塚」とは、やはり豊島塚のうちの1基ではないかと伝わる塚で、須藤亮作著『物語 豊島氏』によると、大正の頃には直径3m、高さ1.5mほどの円形の塚が残されており、土地の所有者は雑木林を開墾して芝生にしたものの塚には触れず、彼岸やうら盆に花や線香を供えて供養したといわれています。
残念ながら塚自体は、昭和10年(1935)頃に中新井土地整理組合により行われた道路整備により塚は削平されてしまいましたが、付近からは多量の人骨が出土したともいわれています。
跡地周辺には、当時の土地の所有者により供養のために建てられた「金塚」と刻まれた石碑が残されていたのですが、撤去されてしまったのではないかという情報を受けて、久しぶりに現地を訪れてみました。
が、やはり石碑はすでに存在しません。
所有者のお宅にてお伺いしたところでは、自宅の新築に伴い、神社の神主さんを呼んでお祓いをしたうえで撤去したということでした。。。

石碑は、業者によって中野区歴史民俗資料館に運ばれた、ということなので、さっそく見学に訪れました。
う〜ん。ここに来るのは5〜6年ぶりだぜ。笑。

金塚の石碑は、資料館の建物の東側、山崎家茶室との間の敷地に設置されていました。
「とうご」という漬物用の大樽の横で、資料館が開館していればいつでも見学できると思います。
もう2〜3年も前に移設されたそうですが、不覚にも全然知らなかったぜ、と。。。

金塚の石碑の現在の様子。
今も健在でした。

石碑の背面の様子。
破棄せずに、業者によって持ち込まれているというあたりも、東京都いう街の文化的意識の高さを感じますよね。
なんにせよ、石碑が保存されてよかったです。
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- 2023/05/19(金) 23:55:50|
- 中野区の古墳・塚
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今回は、久しぶりに現地説明会の見学の記録です。
先日、14日の日曜日に、山梨県中央市の二子塚古墳の現地説明会が行われました。
前日も当日も雨予報という中、説明会が行われると信じて前乗りしたのですが、当日はなんとか土砂降りにはならず、無事に説明会が行われました。

じゃん!
これが発掘された二子塚古墳の全貌です。
右手前が前方部、左奥が後方部といういう状況です。。。
曽根丘陵上にあるこの古墳は山梨県内二例目となる「前方後方墳」で、全長は約50mと県内で最大規模の古墳です。
令和二年度の試掘調査では古墳ではなく住居の存在が確認され、令和四年から調査が行われましたが、その結果古墳の周溝の一部が検出。翌令和五年に調査範囲が拡大されて古墳全体が発掘されたそうです。

これまで山梨県内では、4世紀前半の築造とされる「小平沢古墳」が唯一の前方後方墳であるとされてきましたが、今回の発見により、甲府周辺とはまた別の有力者が当時のこの地を支配していた可能性が推測されます。
墳丘の現状は1mほどの高さが残るのみであったそうですが、直線距離で2kmほどの隣の丘陵上にある「小平沢古墳(全長45m)」の高さが7mほどであり、この二子塚古墳も同じ程度の高さがあったと想定されているそうです。

旧豊富村の村誌にはこの二子塚古墳の記述が見られ、「地元では「小玉塚」や「二玉塚」という名称で呼ばれているが、これは王塚古墳のことを「玉塚」と呼んでいた時に呼応してつけられた名称らしい。宇山平古墳群の中の一つで、形態は不明。墳丘は削平されて、現状は畑地である。」とあるようです。
今回発見された古墳は厳密には二子塚古墳とされていた位置とは若干のズレはあるようですが、古墳の形態が前方後方墳で、高まりが二つであることを示す名称から、この古墳が二子塚古墳であると考えられています。
ちなみに説明会当日に地元の女性が話しておられたのですが、子供の頃(50年ほど前?昭和の後期)にはまだ若干の墳丘が残っており、さらには二子塚古墳と王塚古墳の間にも1基の高まりが残っていて、大きな穴の中に入ることができたそうです!!!
これは、消滅した「No.66古墳」のことなのか、はたまた未確認の古墳なのか不明ですが、興味深いお話です。。。

説明会には中央市の市長も挨拶に訪れていました。
やはりこの古墳の発見は注目されているようです。
古墳がどういう形で残されるかはまだ不明ということでしたが、良い形で残るといいなと思います。

古墳は「超」がつく見晴らしの良い場所に築造されていて、墳丘の上からは甲府盆地を見下ろすことができます。
いったいどんな権力者が埋葬されているのでしょうか。。。

古墳の下からは、弥生時代の住居跡が3軒、土坑1基、古墳時代の住居跡が7軒、時期不明の土坑19基が発見されています。
古墳時代の住居跡が4世紀中頃であることから、古墳はそれ以降に築造されたと推定されています。

説明会終了後、集合場所である中央市の豊富庁舎豊富支所に戻ると、出土品が公開されていました。
私は素人ですので土器の破片を見ても何が何だかわからないのですが、埴輪片だけは多少見分けがつくようになってきたかも。
真ん中が埴輪ですよね。。。

同じく出土品です。

お昼はほうとうを食べてきました。
量多すぎてもう必死です。笑。
アレですね。
甲州街道の高尾からさらに先へ一般道で走りたいを思っていたのですが、今回ようやく実現しました。
あいにくの雨であまり散策はできませんでしたが、いずれ一里塚散策をしたいと思っています。
もちろん山梨の古墳散策もしたいのですが、なかなか時間の余裕がなく、今後の宿題ですね。。。
<参考文献>
中央市教育委員会生涯教育課『二子塚古墳見学会資料』
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- 2023/05/15(月) 18:18:23|
- 山梨県の古墳・塚
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画像は、栃木市西方町金崎に所在する「山伏塚」です。
この塚は、周辺地域を散策中に偶然に見つけた塚なのですが、その後に図書館で調べても記述のある文献は見つからず、何もわかりませんでした。
そこで現地取材を敢行!
その結果、ようやく塚の由来や名称がわかってきました。

この塚は、その昔にこの地で亡くなった山伏を埋葬した場所であるという言い伝えが残されており、地元では「山伏塚」と呼ばれているそうです。
ちなみに『栃木市遺跡分布地図』によると、栃木市木野地町に同じく「山伏塚」という名称の塚があり、こちらは栃木市の遺跡として登録されていますが、この金崎の山伏塚は登録はされていないようです。
見た目が残土の山に見えちゃうのかな?。。。

近寄ってみました。
塚上には石の祠が祀られており、土地の所有者によって祀られているそうです。
この土地で農耕を営んでおられる地元の方によると、やはり過去には祟りの言い伝えなどもあり、塚には手をつけないようにしているとおっしゃっていました。
最近、祠が倒れていたこともあって直したそう。。。
地元の人によって大切に祀られている様子がわかりますが、長い間、地元で伝えられてきた伝承が若い世代に伝わらなくなってきているのかな?とも感じます。
おそらくは、現在の栃木市内でもかつては多くの修験者 (山伏) が厳しい山岳仏教の修行に励み、中には命を落とした山伏も少なくなかったのではないかと思われます。
人知れず存在する小さな塚ではありますが、当時を語る歴史遺産としてとても興味深いです。。。

塚上の祠の様子。
とりあえずは、古墳を流用したようなことはないのかな、と感じます。。。

塚のある田んぼの区画の隅には馬頭観世音の石塔が建てられています。
なので、最初は馬捨て場だった場所かな?とも思いましたが、山伏塚だったのですよね。
今回は突撃取材でわかったことのみで、参考文献はありません。
これからさらに何かが判明すればこっそり書き足すことにして、とりあえず今回はこの辺で。。。
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- 2023/05/12(金) 19:53:50|
- 栃木市の古墳・塚
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前回に引き続き旧西方町の塚、ということで、今回は西方町金崎に所在する庚申塚を取り上げます。
この塚は、東武日光線の車窓から見ることができるので、もう何年も前から存在には気がついていました。
が、図書館で調べてから見に行こう!と考えていたものの、記述のある文献も見つからないし、『栃木市遺跡分布地図』にも記載されていないしで、塚の性格もわからないままなんとなく放置になっていました。
私のよくあるパターンですね。。。
それが、最近になってひょんなことからこの塚が「庚申塚」であることがわかったので、詳細がわかった際にはこっそりと書き足すとして、とりあえずわかったことだけ書いておくことにしました。(とはいえ、これが庚申塚である以外は何もわかっていないのですが。。。)

前回取り上げた金崎所在の庚申塚と比べるとこちらの塚は盛り土が残っているので、より塚らしき景観という感じです。
立地的に古墳である可能性は感じませんが、個人的に好きな感じ。。。

塚の様子。
う〜ん、冬に来るべきだったな。
東武線の窓から見た時は雑草はなかったのでね。。。

塚上の石祠の様子。
この祠は更新様ということになりますかね。。。
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- 2023/05/10(水) 22:58:57|
- 栃木市の古墳・塚
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ここ最近は、栃木市内の、旧西方町の古墳を取り上げてきましたが、実は古墳を散策する中で、偶然に出会った塚も数多く存在します。
今回は、西方町金井に所在する「庚申塚」を紹介しようと思います。
この塚は『栃木市遺跡分布地図』には掲載されていないのですが、旧西方村の『文化財調査票』には「庚申塚」として記載されています。
現在の塚は平らに整地され、また塚の周囲も方形に成形されていますが、『文化財調査票』に掲載されている写真は円形を呈する塚が土で盛られており、さながら古墳を思わせる風貌です。(キレイに整備されたほうがいいに決まっているのですが、整備されていない土盛りの塚がいいと思ってしまう私の感覚はいったいなんなんでしょう。。。)

正面から見たところ。
まだ若干の高さは残されています。

これが、整備前の庚申塚の姿です。
古墳みたいでしょ。
うん、こっちが好きだな。。。笑。

塚上には今もかわらず、多くの石造物が建てられています。
左は庚申塔で、標準六手の青面金剛像です。
周辺地域の5戸で庚申の日に祀っていたそうです。
真ん中は馬頭観世音の石塔、右は正体不明の石祠です。
それにしても、周辺にはこの庚申塚以外にも多くの塚が存在するのですが、この庚申塚だけが『文化財調査票』に掲載されているのはどうしてなんだろう。。。

塚の整備後に建てられた「柴南 庚申塔」の石碑です。
平成25年建立と刻まれていますので、塚もこの時期に整備されたものと思われます。

同じく塚上にある石祠です。

奥にある墓地の方が大きくて、こちらの方が古墳っぽく見えてしまいます。笑。
<参考文献>
西方町教育委員会『西方村 文化財調査票 金井・本郷・金崎編』
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- 2023/05/09(火) 23:26:08|
- 栃木市の古墳・塚
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今回は、栃木市西方町真名子に所在する「北峰古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群も、稲荷山古墳群同等に以前に一度、偵察には訪れていたものの、季節が夏の真っ只中であったこともあり藪が深く、また蜘蛛の巣やスズメバチ等の虫の恐怖にも負けて、あっさりと断念していました。
それが、前々回に取り上げた「稲荷山古墳群」の散策中、8号墳の横で何気なく振り返って南側をみた際に北峰古墳群の1基が視界に入ってびっくり!
稲荷山古墳群と同じように丘陵上の樹木が伐採されたのか、饅頭型の墳丘が丸見えになっています。
「こりゃもう行くしかないでしょ!」ということで、北峰古墳群にも突撃です!

至近距離から見た4号墳です。
当日見学した順番に、4号墳→3号墳→2号墳→1号墳の順に紹介しますが、とりあえず4号墳はこれで間違いはないかな、と。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模は径11m、高さ1.4mで、円墳とされています。

これが、私にとって疑惑の「3号墳」です。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の分布図上の位置関係からすると3号墳は4号墳の北西方向にあるはずなのですが、この高まりは4号墳の西方にあり、またほかの3基に比べて墳丘が小際こともあり、ひょっとしたら古墳ではないのかも?とも思えます。
ただし、3号墳は『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模も「径6m、高さ1.7m」と小さいので、これが3号墳なのかもしれないな?とも思えますし、今のところ真相は不明です。

塚上の大木の根の形状からすると、まず最初に塚があって、その塚を覆うように根が生えているように感じられます。
少なくとも残土の山ではなさそうかな?とは感じます。
まあ、古墳であったとしても、この根の張り方からすると埋葬施設はかなりやられてしまっている予感がしますよね。
発掘調査が行われてみないとよくわかりません。。。

暫定「北峰2号墳」です。
先ほどの小さな塚が3号墳でなければ、これが3号墳である可能性も考えられます。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の2号墳の規模は「径13m、高さ1.6m」ということなので、規模的にはこれが3号墳で間違っていないようにも感じますが、分布図に記されている位置関係からすると、ちょっと微妙かも。。。

同じく暫定北峰2号墳を南西から見たところ。

墳丘上から見下ろしたところ。
大きな崩れはなく、かなり良好に残されているように感じます。。。

暫定「北峰1号墳」です。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の1号墳の規模は「径7.5m、高さ1.5m」ということですが、実際に見学した印象としてはもう少し大きいかな?とも感じます。
暫定3号墳が古墳でなければ、これは2号墳ということになりますので、当然ながらこの西側にもう1基、古墳が存在するということになりますが、、、

角度を変えて暫定1号墳の様子です。
もしこの古墳が1号墳ではなく2号墳である場合、このさらに奥にもう1基あるということになります。
もう少し歩いて確認しておこうということで、一度は西に向かって歩き始めたのですが、その道すがら、「きゅうっ」という何かの動物らしき鳴き声が。。。
そしてその直後、バカラッバカラッバカラッ、、、という音を立てて、かなりデカい図体をした鹿が3頭、私の目の前を駆け抜けていきました。(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
もうさ、こんなに至近距離で野生の鹿を見たのなんて初めてかもしれないんだけど、さすがに「ヤ バ イ、、、」と感じてダッシュで逃げました。
とはいっても、いい歳こいて若い頃みたいな全力疾走は不可能だし、転んで怪我でもしたら終了だし、慎重に早足に逃げたわけですが。。。
これまでも栃木市内のいろいろな場所で地元の人に、「イノシシやタヌキなどの野生動物には気をつけろよ?」と忠告されてきましたが、これまでは運よく一度も遭遇しませんでしたし、藪の中もガシガシ攻め込んできちゃったわけなのですが、暖かくなってきたこともあるのか、もう少し慎重にならないと危険ですな、こりゃ。。。
ちなみに、この山を降りた後に、目の前の畑の中を野ウサギがテテテテッと走り抜けていくのも見ました。
野生のウサギってのも今回初めて見ましたが、もう栃木県恐るべし、という感じです。。。
ちなみに鹿も野ウサギも写真はありません。
首にカメラをかけているんだから咄嗟に撮影しなきゃね、と後になって、思いましたが、
かなりビビってたしなぁ。。。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
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- 2023/05/08(月) 19:09:21|
- 栃木市の古墳・塚
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