
多摩市の関戸周辺は、元弘3年(1333)に新田義貞軍が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を打ち破ったとされる合戦が行われた場所として知られています。分倍河原の合戦において敗走する鎌倉軍を関戸の地で追走した激しい戦いは「関戸合戦」とも呼ばれ、このようすは『太平記』という軍記物語に詳しく記されています。
同書によると、分倍河原の合戦で新田軍に打ち破られた幕府軍は鎌倉を目指して退却しますが、多くの人々が討死しました。大将である北条泰家も関戸付近で討たれそうになりますが、横溝八郎が奮闘して敵を次々と射落とし、討死します。安保入道父子ら多くの家臣が討死を遂げる中、北条泰家は無事に鎌倉に逃れることができたと言われています。
『太平記』は物語であることから脚色もあり、全てが史実とは言えないようですが、関戸合戦で討死したという横溝八郎は『御的日記』という現実の幕府の記録に登場しており、実在した人物であるようです。
画像は、多摩市関戸5丁目に現存する、横溝八郎の墓であるとされる古塚、「八郎塚」です。

塚は、個人の邸宅内に今も残されています。塚の裾には、「武将塚 横溝八郎之墓」と刻まれた石碑が建てられています。
『関戸旧記』や『郊遊漫録』には、大小ある塚の1基が横溝八郎の墓であるとあり、関戸旧記では大きな塚を「山伏塚」と呼び、小さな塚を横溝八郎の墓であるとしているものの、郊遊漫録では逆であると記されています。この八郎塚が果たして大きなほうの塚なのか、それとも小さなほうの塚なのか、片方の塚が失われてしまった今となっては真相を知ることはできません。発掘調査も行われていないようです。

塚の上にはお堂が建てられており、今も供養が行われているようです。

通り沿いにある、「下の地蔵」と呼ばれる地蔵堂です。この地蔵堂の裏手が横溝八郎の墓です。地蔵は、寛文3年(1663)に建てられた盟約地蔵で、敷地の角に「関戸古戦場跡」の標柱が立てられています。
当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
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- 2018/08/18(土) 01:22:06|
- 多摩市/その他の古墳・塚
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こんばんは。いつも楽しく拝見させて頂いてをります。
あー、こゝ!
新田義貞公の足跡を辿る旅で、当地にも行きました。このお地蔵様の裏手だつたのですね(涙
解らなくて小一時間うろ/\して、断念しました。
あー、さうだつたのか(涙
- 2018/08/20(月) 21:57:49 |
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- 橘右近大夫 #-
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橘右近大夫さま、いつもご訪問ありがとうございます!
お地蔵様の横の道を右を見ながら歩くと、十メートルほどですぐに見えてくると思います。路上からでも十分見学できますが、ピンポンして塚に登らせていただきました。
ちなみに写真は3年半前くらいのものです。
私も、実はもう1基の「入道塚」の場所がわからずに小一時間うろうろしました。ここしか考えられない、という広いお屋敷を訪ねて、見学させていただきました。
個人宅に残されている史跡は、難しいですよね。
- 2018/08/20(月) 23:59:46 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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