すみません。
都合により2〜3週間ほど休止します。
再開後は引き続き、さいたま市内の塚を掲載予定です!
- 2021/12/04(土) 04:09:21|
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『東京都遺跡地図』、『都心部の遺跡』とともに、東京の古墳を調べるうえで押さえておきたいもう一冊が、この『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』です。
この書籍には、東京都教育委員会が多摩地区所在古墳確認調査団に委託して、平成4年度から平成6年度まで3年間の事業として行われた多摩地区所在古墳の確認調査の結果が掲載されています。古墳の分布調査はもちろんのこと、主要古墳の測量調査や地下レーダー探査、発掘調査等も行われており、また江戸時代の文献等に記された古墳や塚の確認調査も行われており、この調査結果は、消滅古墳をめぐるうえでとても参考になりました。
最初に『都心部の遺跡』を入手したことにより、古地図や古い空中写真と現代のGoogleマップと比較することにより消滅古墳の位置を特定するという知恵がつきましたが(笑)、この『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』を入手したことにより、江戸時代から昭和初期あたりの地誌類を調査することにより消滅古墳の位置や名称を確認するという、新たな知恵がつきました。
私は、東京都内の古墳巡りを始めて比較的早い段階でこの『東京都遺跡地図』、『都心部の遺跡』、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』を入手しました。どれもそれほど新しい本ではありませんが、この3冊があればとりあえず東京の古墳の全貌は把握できるのではないかと思います。
私が古墳巡りを始めた理由のひとつとして「交通費以外にあまりお金がかからない」というのがあったのですが、この3冊の購入をきっかけに、内容の濃い書籍は図書館で複写するのではなく購入してしまおう、という方向に向かい、結果としてかなりの出費をすることとなってしまったのは残念なことでした。笑。
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- 2020/08/10(月) 22:07:39|
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東京の古墳を調べるならば、『東京都遺跡地図』とともに押さえておきたいのがこの『都心部の遺跡』です。
昭和57年度から昭和59年度の3年次にわたり実施された、東京都心部遺跡分布調査の記録が掲載されており、「貝塚」、「古墳」、「江戸」の三部構成となっています。
古墳に関しては、57年度は港区、新宿区、目黒区、渋谷区中野区、58年度は品川区、世田谷区、大田区、59年度は文京区、台東区、豊島区、北区、板橋区、足立区、葛飾区の古墳、横穴墓の調査記録が掲載されており、23区すべてを網羅しているわけではないのが残念なところではありますが、現在は消滅して見られなくなってしまった古墳の情報のみならず、残存当時の写真なども多数掲載されていて、なかなか興味深いです。
この本も、『東京都遺跡地図』を購入したと同時期に、「ポチッ」と1クリックで買ってしまいました。笑。

この東京都心部遺跡分布調査においては、明治から昭和初年にかけての古地図を利用して隠滅した古墳の位置の復元が行われています。本書籍の中でも、塚のマークが記されている古地図と現代の地図とを見比べられる形で掲載されていて、この調査結果は、私にとっては大いに参考になりました。
その後、塚のマークが記されている古地図をさらに戦後の空中写真と照らし合わせて、伝承のみが残るような所在地不明の塚の位置を何度も特定することができましたし、これは私の性格に合っていてとても楽しい作業でした。
古い本ですが、東京の古墳を追いかけるならば、持っていたい一冊ですね。。。
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- 2020/08/05(水) 19:52:16|
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東京の古墳を調べるならば、真っ先に目を通したいのがこの『東京都遺跡地図』です。
古墳に限らず、都内の遺跡を細かくチェックできますし、何よりも遺跡について書かれている文献の名前まで教えてくれるので、いろいろと助かりました。
ネットでも『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』が公開されていますので、わざわざ買わなくてもいいじゃないか?というところなのですが、当初の私はネットの分布図をプリントアウトして古墳巡りに出かけていたのですが、記されている古墳の位置の精度があまり良くなく、現地で古墳の所在地がわからずに迷うこともありました。
それが、図書館で閲覧する『東京都遺跡地図』の古墳の位置は正確で見やすかったことから、だんだんと事前に図書館で書籍版の付図をコピーするようになり、最終的にはネットで購入してしまいました。
ワンクリックで買えますからね。ポチッと。。。笑。
ただし、私がいつも図書館で見ていた『東京都遺跡地図』は実は1996年版だったようで、バインダーのような形状で取り外しができて、しかも分布図も大きくて見やすかったのですが、購入の際に深く考えずにポチッとしたところ、この1988年版が届きました 。゚(゚´Д`゚)゚。
この1988年版の分布図は1996年版と比べて分布図が小さくて見にくく、しかも日々老眼が進行するという中、結果的にこの本を開くのは参考文献を知りたい時に限られてしまいました。。。

というわけで、これから『東京都遺跡地図』を入手しようと考えている方には、1996年版がオススメかも。
ただし、1996年版は古書店でも見かけたことがないので、入手は困難かもしれません。
ちなみに、私が今からでも1996年版を安く見かけたら、やっぱり買っちゃうかも。笑。
そろそろ『東京都遺跡地図』の最新版が刊行されても良いのかもしれませんけどね。。。
書籍紹介みたいになってきたけど、これでいいのかな。。。
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- 2020/07/27(月) 22:00:04|
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今回はちょっと脱線して、とある古墳の書籍のお話です。
私が古墳巡りを始めたばかりの頃は、どこかに旅行に出かけたついでに、よく知られた古墳公園を見学するという程度でした。
「保渡田古墳群」や「さきたま古墳群」などで、綺麗に復元された巨大古墳の姿を見て、感動したものです。
それが、少しずつ古墳についての知識が増えてくると、あまり知られていないような無名の古墳も見に行ってみたいと思うようになりました。
当時、『埼群古墳館』というホームページがあり、そこには関東各地の膨大な数の古墳が掲載されていました。
こんなにたくさんの古墳が存在するものかと心底驚きましたし、古墳を題材にいろいろな土地を訪ね歩くのは楽しそうだと感じて、私も同じように古墳を見て歩きたいと思うようになりました。
ただし、当時の私の仕事の休みは極端に少なく、例えば関西や九州といった遠方の古墳の見学に泊まりで出かけるのはほとんど不可能という状況です。
そこで、見て廻る範囲は基本的に日帰りで帰ってこられる場所、まずは東京都内の古墳に絞って、1、2年かけてゆっくりと散策しようという企画でスタートしました。笑。
最初は、ネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』の分布図をプリントアウトして、この地図を頼りに散策を始めました。しかし、これだけでは古墳の詳細はなにもわかりません。
実際に現地を巡ってみると、史跡公園として整備されている古墳もあれば、草ぼうぼうになって放置されている古墳、個人の敷地内に残されている古墳など、様々です。
しかも、地図に記されている古墳の位置も、必ずしも正確とは限らないようです。
何か東京の古墳に特化した、良い書籍がないものだろうかと探し始めたときに、ちょうど良いタイミングで発売されたのが、『東京の古墳を歩く<ヴィジュアル版>』という書籍でした。
この本、東京の古墳にスポットを当てているほとんど唯一と言っていい書籍でしたし、内容も充実していて、とってもとってもお世話になりました。
最初に買ったやつはずっと持ち歩いてバラバラになってしまって、実は今持っているのは2冊目なのです。笑。

ただし、この本を頼りに散策を進めるうちに少々の問題に気がつきました。
古墳の解説とともに写真も多数掲載されているのですが、正体のわからない写真が掲載されていることです。
画像は、184ページに掲載されている写真です。
これは、多摩市の「塚原古墳群」が紹介された項で、「墳丘と思われる公園内の盛土」と解説されているのですが、私が実際に現地を訪ねたときは、いくら歩き回ってもどこにあるのかまったくわからず、後日図書館で発掘調査報告書の分布図を調べてもまったくわからず、正体不明でした。。。

そして、画像が、多摩市和田の「中和田橋公園」のマウンドです。
何年か経って、偶然に通りかかって発見したときは「ああっ!」と声が出てしまいました。笑。
古墳の墳丘ではないのではないか?と思われるのですが(もちろん、私が知らないだけで、ひょっとしたらモニュメント的に古墳を模したような経緯があったのかもしれませんが)、どうしてこの築山が古墳の墳丘になってしまったのか、よくわかりません。
『東京都遺跡地図』にも、この場所は登録されていません。。。

画像は、177ページに掲載されている写真です。
これは、日野市の「七ツ塚古墳群」が紹介された項で、「建築資材置き場にある墳丘」と解説されています。
この写真には、築山の背後に日野自動車の建物と給水塔が写っているので、撮影したおおよその位置を推定できるのですが、おそらくは現在の「七ッ塚公園」の造成中に、東側から西に向けて撮影したものと思われます。
Googleマップのストリートビューで2010年3月の場所を表示すると、書籍内の写真とそっくりなマウンドを見ることができますが、やはりこのマウンドは工事現場の残土の山で、古墳とは無関係であることがわかります。
しかも、このすぐ横に1号墳が所在するはずなのですが(この1号墳も古墳ではなかったことがわかっているようですが)、なぜこの1号墳をスルーして残土の山を古墳と誤認してしまったのかは、謎です。。。

画像が「七ツ塚古墳群1号墳」です。2012年の年末頃の写真です。
私が訪れた頃にはすでに残土の山は取り払われていたわけですね。
写真の左隅に、日野自動車の建物と給水塔がかなり近い角度で写っています。
多摩市の塚原古墳群と同様に、このマウンドの場所がわからずにかなり歩き回ることとなったのですが、この体験は、『古墳なう』を続ける大きな動機になりました。
私と同じように、古墳の場所がわからずに探し回る人がいるかもしれないし、それならば、見て回った古墳や塚の写真を公開して、ネット上の『東京の古墳ガイドブック』を私が造ればいい、と思ったのです。
どうして私が古墳ガイドブックを造るのか、今考えてもまったく意味がわかりません。
ちょっと疲れていたのかも。いや、今も疲れているのかも。。。
でも、最初に想像した通り、古墳を題材にいろいろな土地を訪ね歩くのはとても楽しかったのです。
そして、これからもきっと古墳を訪ね歩くのだと思います。
とりあえず東京の古墳のストックは尽きてしまいそうなのですが、これからどうしようかな。。。


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- 2020/07/24(金) 03:53:11|
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ある地方都市の、眼科の病院の建物です。
建物の壁に描いてあるやつ、あれですよね。
視力を測るときに片目をふさいで「したー」とか「みぎななめうえー」とか、あのマークですよね。
私ね。「あ、古墳群が描かれているんだー?」と本気で思っちゃいました。
一瞬ですけどね。
「あ、ぜーんぶブリッジ付きの円墳なんだー?」と一瞬思って、
「いや、そんなわけねーだろ!眼科の病院か!」と気づきましたけど。
2秒ぐら本気で「あーー。古墳群が描いてあるーー.゚+.(・∀・)゚+.」とか思っちゃってました。笑。
いや、もうホントにね。
明日からどうやって生きていけばいいのかすらわからんのです。。。


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- 2020/07/09(木) 23:26:17|
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新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
- 2020/01/01(水) 00:00:00|
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前回に引き続き、今回も東京都内の掩体壕ということで、府中市内に現存する「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」の探訪の記録です。
この掩体壕は、甲州街道と西武多摩川線が交差する、甲州街道の南側に史跡公園として整備されて保存、公開されています。平成20年(2008)11月27日には府中市の文化財として指定されています。
画像は、北西から見た白糸台掩体壕です。

南西から見た白糸台掩体壕です。
敷地内に設置された説明板には、当時の様子がかなり詳細に書かれています。
以下は、説明板に書かれている「調布飛行場」についての解説です。
調布飛行場
調布飛行場は、昭和13(1938年)に東京府によって、東京府北多摩郡多磨村(府中市)・調布町(調布市)・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められました。昭和16(1941年)4月に官民共同の飛行場として設置されましたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されることになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備されました。戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われました。
終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設されました。その後、昭和39(1964年)の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれました。関東村は、昭和49年(1974年)12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設されました。
平成13年(2001年)には、「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運航されています。
三鷹市の掩体壕は内部が塞がれていましたが、この白糸台掩体壕は内部も見学することができます。画像は、柵の外から撮影した掩体壕内部の様子です。
現代の感覚からすると、あまり良い材料が使われていないなという印象ですが、やはり物資が不足した戦争末期の築造ということもあり、粗悪な資材が用いられていたようです。
以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。
掩体壕
アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作られました。この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいます。コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋掩体壕」、周囲を土堤で囲ったのみで屋根がなく、上は木や草で作った覆いをかけたものを「無蓋掩体壕」と呼び、区別しています。
調布飛行場周辺では、昭和19年(1944年)6月から9月にかけて、有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員されました。
有蓋掩体壕は、①饅頭のように土を盛り、よく固める ②その上に紙やムシロ、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる ③鉄筋を置いてコンクリートを流し込む ④コンクリートが固まったら、内部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する といいう手順で構築されたと考えられます。労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いて、きわめて短期間のうちに造られたものである、といえます。また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山や多磨霊園、下石原八幡神社、調布市飛田給方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区」まで運ばれました。
かつて全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などによって、消滅の危機にあるもが少なくありません。
背後から見た白糸台掩体壕。

画像は、説明板に掲載されていた、昭和20年3月撮影という無蓋掩体壕の写真です。
格納されている戦闘機が「飛燕」でしょうか?
まだまだカメラやフィルムが高価だった時代でしょうし、貴重な写真ですね。
以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。
戦闘機「飛燕(ひえん)」
「飛燕」は、旧陸軍の「キ61 三式戦闘機」の愛称です。川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に、国産化した液冷エンジンを搭載した、スリムなデザインが特徴の戦闘機です。エンジン出力は、1,100馬力、最高時速590㎞/hで、旧陸軍の戦闘機の中では、速度性能と高空能力に優れており、昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、迎撃が可能な数少ない戦闘機のひとつであり、時には敵機に体当たり攻撃を仕掛けることもありました。
説明板に掲載されていた、昭和20年10月撮影という有蓋掩体壕の写真です。
こちらは終戦後ということになりますね。
奥に見えるのが「キ-100(五式戦闘機)」、手前が「剣」です。
プロペラを外された姿が痛々しいです。。。
以下は、説明板に書かれている「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」についての解説です。
旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基が、この旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。
白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では、平成18年(2006年)の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を格納していたことを示す、タイヤの痕跡などが発見され、平成20年(2008年)に市の史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24年(2012年)3月より一般公開を開始しました。
終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願い致します。
平成24年3月 府中市教育委員会
白糸台掩体壕を見下ろしてみたところ。
まずいなー。何度目をこすっても巨大な円筒埴輪片にしか見えなくなってきた。
いよいよなんとかしないと。。。

残るもう1基は、朝日町の住宅地にひっそりと残されています。
私有地内に所在するため遠方からの撮影です。
この1基は以前訪れた時は草ボウボウの薮で、掩体壕自体はよく見えない、という状況だったのですが、「古墳なうで記事にして公開しよう!」と思い立って、最近あらためて見に行ってみたところ、綺麗に草が刈られていました。
工場なのか民家なのか、掩体壕と建物が一体化しているように見えますが、いったい内部がどうなっているのかとても興味深いです。。。
<参考文献>
府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課『旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕』
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- 2019/09/17(火) 01:06:43|
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今回は久しぶりにちょっと脱線!
東京都内に残る、掩体壕を紹介します。
第二次世界大戦の戦況が悪化の一途をたどる昭和19年(1945)、アメリカ軍の本土空襲の本格化により、調布飛行場周辺にはコンクリート製の有蓋掩体壕約30基と、土塁と竹でコの字型に造った無蓋掩体壕約30基の合計60基が短期間に造られました。
掩体壕とは、残り少ない戦闘機を米軍の空襲から守るためのもので、この掩体壕の中に戦闘機を隠しました。都内では三鷹市内に2基、府中市内に2基、練馬区内に1基が残るのみです。(ちなみに日本全国には約100基の有蓋掩体壕が残されているそうです。)
三鷹市の2基は武蔵野の森公園内に整備、公開されています。
画像は南側の1基、「掩体壕 大沢1号」です。

正面から見た大沢1号。
入り口は塞がれていて、表面には当時掩体壕に格納された「飛燕」のイラストが描かれています。慎重に格納しないと翼の先っちょをぶつけてしまいそうですね。
周辺には、当時の調布飛行場の門柱や高射砲陣地跡も残されているようですので、戦争遺跡巡りをしてみるのも良いかもしれません。。。

背後から見た掩体壕の様子。

敷地内に設置された説明板と、左側は「掩体壕に格納されていた戦闘機 飛燕」と称する、掩体壕に格納された状態の掩体壕と飛燕の、縮尺1/10のモニュメントが設置されています。
以下、説明板に書かれている「調布飛行場」についてのついての解説です。
調布飛行場
調布飛行場は、昭和13年(1938年)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多磨村(現在の府中市)にまがたる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939年)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年の4月には、南北方向に1,000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成しました。初め、予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945年)頃には日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には、「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設されました。
現在では伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布飛行場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが市民団体の努力で残されています。
掩体壕と飛燕のモニュメント。
以下は、説明板に書かれている「飛燕」についての解説です。
掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
エンジン出力は1,100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、航空能力に優れ昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は、「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
また鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。
画像は北側の1基、「掩体壕 大沢2号」です。
こちらにも説明板が設置されていますが、内容は大沢1号の説明板と同様のものであるようです。
以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。
掩体壕
「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944年)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土嚢で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園の掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和への語り部」として保存しています。
西側の路上から見た「掩体壕 大沢2号」です。
ふと、1号とは向きが逆なんだなあと思います。
滑走路に向けて整然と並べてしまうと上空からバレてしまうから?なのかもしれませんが、当時の分布図を見ると掩体壕の向きはまちまちで、特に滑走路に向かって造られているわけではなさそうです。

府中市側にある、武蔵野の森公園サービスセンターには、飛燕のプロペラの実物が展示されています。
このプロレラ、現在の三鷹市大沢総合グラウンドでなんと、平成21年に発見されたものなのだそうです。平成21年ってたったの10年前ですからね。びっくりしてしまいます。
そういえば以前、足立区内の古墳巡りの際に、大戦中に撃墜されて墜落したB-29のものであるというタイヤが、農地の片隅にポツリと置かれているのを見学したことがあるのですが、この武蔵野の森公園周辺には草っ原みたいな敷地が残されているし、まだ何か出てくるかも知れませんよね。出てこないかな。。。

公園内にちょっとした築山があって、遠方には味の素スタジアム が見えていて、お、「これは滑走路とスタジアム」の良さげな写真が撮れるかな?とパタパタと登ってみたのです。
ふと、隣の男性は、反対方向にカメラを構えているんだなあと思ったその瞬間。背後から、ぶうううううんと飛行機が飛んできました。

戦時中もね。きっと生還した飛燕がこんな風に飛行場に帰ってきたんじゃないかと思うんです。国を守るために命を懸けて戦った人たちが、今の日本を取り巻く状況を見たら、どう思うんだろう。。。

スタジアムと飛行機。

もうすぐ地面だ。
無事に着陸!
ここは、出山横穴墓群からは目と鼻の先ですしね。
龍源寺の近藤勇の墓や、近藤勇生家跡、古民家や水車などもあって、見所は満載だと思います!
次回、「白糸台掩体壕」に続く。。。
<参考文献>
武蔵野の森 公園サービスセンター『掩体壕』
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- 2019/09/16(月) 03:41:49|
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さて、今回はちょっと脱線。
前回紹介した「めいめい塚」にまつわる伝承として、「めいめい井戸」の話題が出てきましたが、この井戸について取り上げてみようと思います。この井戸は「まいまいず井戸」とも呼ばれており、武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種です。特に東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、これまで東京都内の古墳巡りを行う中で、たびたび見学の機会に恵まれました。
今回はそのいくつかを紹介しようと思います。

まずは、羽村市五ノ神に所在するまいまいず井戸です。
JR青梅線羽村駅から徒歩1分という駅近物件です。
「まいまいず」とはその名の通り、カタツムリのことで、井戸に向かって降りる通路の形状から名付けられたといわれ、さく井技術が未発達の時代に、筒状井戸を掘り難い砂礫層地帯に井戸を設ける必要から、このような形態になったようです。
地元の伝説では、大同年間(806~810)に創始されたと伝えられているようですが、形態や板碑等の出土からみて、鎌倉時代の創建と推定されています。
う~ん、なかなかたまらないですよね、この形状。。。

井戸の底まで降りてみました。
地表面での直径16メートル、底面の直径約5メートル、深さは約4.3メートルです。
掘り井戸の深さは5.9メートルあるそうです。
昭和35年(1960)の町営水道開設まで現役で使われていたそうなので、驚きですね。

画像は、青梅市新町2丁目に所在する「青梅新町の大井戸」です。
規模は、東西約22メートル、南北約33メートル、深さ7メートルで、少なくとも私が実際に見学した中では最大規模の大井戸です。
武蔵野の原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道が交差する位置にあることから、江戸時代の開発以前から,道行く人馬の飲み水を供給する場所となっていたものと考えられているようです。18世紀途中頃まで使用されていたようですが、何らかの理由で埋没、平成3年(1991)から行われた発掘調査ののち、復元整備が行われて、現在は「大井戸公園」内にて公開されています。

井戸の底まで降りてみました。
これだけ大きいと、水を汲みに行くのもなかなか大変そうですね。。。

画像は、あきる野市渕上に所在の「渕上の石積井戸」です。
平成4年の発掘調査により、東西5.5メートル、南北7.5メートル、深さは3.2メートルであることがわかっています。北と南に階段状の入り口が設けられ、幅60センチの道が左回りで、平坦な底まで続いています。
青梅や羽村の井戸と比べると小振りな井戸ですが、石積みをともなう点で大変希少で、保存状態も良いようです。

最後は、府中市南町6丁目の郷土の森博物館に復元されている、まいまいず井戸です。府中市内では、寿町でまいまい井戸の発掘調査が行われているようですが、復元にあたっては羽村市のものを参考として、螺旋状の道を敷設されているようです。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/03/28(木) 00:24:46|
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