
画像は、府中市武蔵台1丁目、府中エンジニアリングセンター内に所在する「横海道北1号塚」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には「府中市№10遺跡」の名称で登録されており、塚の名称は記載されていないようなのですが、発掘調査が行われた際に、この地域のかつての小字名から「横海道北1号塚」と命名されています。
この塚の発掘調査は平成19年(2007)に行われています。塚の規模は、東西約18.5m、南北約21m、高さ約2.2mで、地表面下には深さ約1mの埋没部分が存在することから、本来の高さは約3.2m以上表面規模もさらに大きなものであるようです。黒褐色土のみで構築された塚は方形の形状を呈する可能性が考えられており、これは国分寺市の「尼寺跡北方の塚」や、世田谷区の「砧大塚」といった中世の修法壇と考えられている遺構と類似しているようです。
構築土は5期にわたって積まれています。1~4期にかけての中央部付近には敷石面が存在しており、また掘り込みには火を焚いた痕跡が存在します。塚の性格としては確定は出来ないものの、修法が行われた壇として15世紀から16世紀に(修正の後半に)築造された塚ではないかと考えられているようです。
(当日は府中エンジニアリングセンターにて許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。)

塚上の雑草が円形に萎れていて、まるでUFOの着陸痕のようです。
政府の陰謀かな。笑。

この横海道北1号塚の周辺には、他にも複数の塚が存在したといわれています。
南東側には「お鷹塚」と呼ばれる塚があり、さらにこのお鷹塚と横海道北1号塚の間にも、もう1基の大きな塚が存在したといわれています。合計3基の塚が密集して存在していたということになります。
「お鷹塚」は昭和30年代にはまだ存在しており、昭和32年(1957)作成の地図にはこの塚は記されています。この当時は、江戸時代の尾張候の鷹場の西端を示した塚であるとも古墳であるとも考えられており、昭和34年(1959)に東京史談会長の菊池山哉氏の指導により発掘調査が行われています。
この発掘のようすは、昭和35年(1960)に発行された甲野勇著『武蔵野を掘る』に記されていますが、同書によると「(前略)丘の上から見ると、府中市東芝の大工場の少し手前、道路の西側に古墳らしい盛り土がある。もとは三つあったが今は二つしかない。このなくなった一つを先年発掘して見たが、結局は骨折り損のくたびれもうけ、掘れども掘れども土ばかりで古墳かどうかもわからなかった。近年のこりの大きな一つの発掘されたが、これも前同様からっぽだったそうである。」と記されています。
この記述からすると、このお鷹塚は少なくとも古墳ではなかったのかもしれません。
実は最近、素晴らしき出会いがあり、尾張藩の御鷹場に詳しい方に、多摩地域に存在した尾張藩(尾洲)の御鷹場境界杭についてお教えいただくチャンスに恵まれました。
江戸時代の江戸周辺の村々は全て幕府の鷹場として指定されており、尾張家の鷹場は北多摩から埼玉県南部まで広大な地域に及んだそうで、明和7年(1770)頃には鷹場の区域を示す石杭が建てられました。
この石杭は、土で盛られた塚の上に建てられていたようですが、私は不覚にもこの「御鷹場塚」の存在はまったく見落としていました。
人見村に建てられた杭の位置は人見街道沿いの若松町4丁目あたり。次の府中本町の杭は浅間町1丁目。そして番場の杭は宮西町1丁目、現在の京王線府中駅の西側あたりです。つまり、尾張藩の御鷹場の境界は、横海道北1号塚のある東芝府中の事業所のはるか南側であり、「お鷹塚」が御鷹場境界杭の建てられた「御鷹場塚」ではないのかもしれません。
ただし、『武蔵府中の民族』296ページに、この地域のお鷹場についての記述が見られ、「(前略)三鷹から国立までを結ぶ、甲州街道の北側に、尾州家のお鷹場があり、四境に杙が打たれていた。府中刑務所の西北、横街道と川越街道の交叉する地点の北側、雑木林の中で、南堺に当たるお鷹場の堺杙が、伏せ倒れていた。国分寺市の本田町の本多龍雄さん(明25生)が見つけた。いま府中郷土館に納まっている。瓦キチと呼ばれ、国分寺文字入り瓦の蒐集ではこの人に及ぶ者がなかったという、多摩史談会の古参の一人である。「従是東西北、尾張殿鷹場」と刻んである。三尺くらいの塚であったという。文政年中までのものは木標だったらしい。幕末の頃は、本田村あたりは、雉子や野兎もたくさんいたそうである。」と書かれています。
「お鷹塚」の堺杙が発見されているということからすると、ひょっとしたらやはり「お鷹塚」は「御鷹場塚」だったのかもしれませんが、もちろん、どこかの杭を移動してきたものという可能性もあるかもしれませんし、今のところ真相はわかりません。
というわけで、画像は「お鷹塚」の跡地かもしれないあたり。
わずかな塚状の盛り上がりがみられるのですが、塚が残存するはずの昭和20年代の空中写真と見比べると位置にズレがあるようですので、塚の痕跡というわけではないのかもしれません。
空中写真では、この画像の地点から西側にも大きな円形の塚らしき形状が見られるのですが、痕跡はまったく見られません。。。
思うのですが、この時代に行われた発掘調査の記録を読むと、古墳ではないかと期待されて発掘が行われたものの、内部に遺構が存在しない「塚」であることが判明して関係者ががっかりする、というパターンが少なくないようです。この時代における研究者の関心はやはり埋葬施設などの遺構を有する古墳であり、掘ってみて古墳ではなかった場合は「ハズレ」的な受け止め方で、当時は塚の重要性はあまり理解されていなかったのかもしれませんね。いや、わかりませんが、あくまで素人の印象としてです。笑。。。
<参考文献>
北野晃『武蔵府中の民族』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『府中市横海道北1号塚の調査』
現地説明版
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- 2020/04/05(日) 20:22:59|
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画像は、府中市武蔵台2丁目に所在する「せんげん山」を西から見たところです。
『東京都遺跡地図』には、府中市の遺跡番号31番の”時代不明の塚”として登録されています。
この塚については、古くは江戸時代の地誌に記述が見られ、『江戸名所図会』には国分寺の西方に富士見塚があることが記載されています。その地の小名がせんげん山であることから、武蔵台2丁目に所在するこの塚が「せんげん山」であると考えられているようです。
塚は昭和23年(1948)に甲野勇氏らにより調査が行われており、この塚を古墳ではないかと考えていた甲野氏らは石室の探査のために本邦初の試みとなる電気探査を行っています。この調査のようすは『武蔵野』第31巻に「国分寺せんげん山古墳の記」として報告されていますが、同書には「電流を地下に通じてその抵抗を計り、これに基いて地下の状態を検索推知する方法で、従来もっぱら鑛床の探知に用いられてものである。」とあり、この結果、地下4mから6mのあたりから感知された微弱な抵抗を確認するため、発掘調査が行われたようです。
当時の発掘の記録によると、規模は高さ約5m、底辺の長さ約24mの方形の塚で、盛土は踏み固めたように堅い黒土に古瓦を含まれており、これを掘り進めると粘土質の赤土の面が現れ、これをさらに掘り進めると南北約2m、東西約1mの楕円形の塚が検出されています。更にこの塚の内部には南北約1m、東西約50cmの小形の塚が造られており、この中からは錆びた鉄片と骨粉らしきものが発見され、一部には腐食した板らしき平らな面の痕跡と繊維の塊が掘り出されているそうです。そして、この塚は「国分寺の建立と相去ること余り遠くない時期に」築造された古代人の墳墓であると推測されたようです。
そしてその後、平成25年(2013)1月に塚の保存を目的とした確認調査が行われており、塚の表面から1メートルに満たない深さで黒土に類似した積み土が現れたことから人為的に築かれた塚であることが確かめられています。また、その黒土の中には武蔵国分寺の瓦が混じっていたことから、奈良・平安時代以降に築造されたことも判明しているようですが、具体的にいつ築造されたかは明確にはならなかったようです。
この塚の南には「横海道北1号塚」があり、東方の、市境の国分寺市側には「国分寺尼寺跡北方の塚」が残存しており、どちらも方形の塚で「修法壇跡」であると推測されているようです。
やはり国分寺崖線上に古墳は存在せず、確認できるのは塚ばかりという状況ではありますが、むしろこの地域に宗教的な塚が密集することはとても興味深いです。。。

塚の近くの住宅街の一角にひっそりと武蔵台遺跡公園が存在します。
近くにある国分寺跡が有名すぎるからか、この遺跡公園はあまり目立たない印象がりますが、心落ち着くなかなか良き公園です。。。

公園内の覆屋の中に、武蔵台東遺跡で発掘された「柄鏡形敷石住居跡」と呼ばれる縄文時代中期の住居跡が移されて公開されています。

かなりリアルにいい感じ。。。
<参考文献>
甲野勇「國分寺せんげん山古墳發掘の記」『武蔵野』第31巻 第1号
府中市郷土の森『あるむぜお』
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- 2020/04/04(土) 21:15:18|
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画像は、府中市西原町2丁目の、「神おくり塚」と呼ばれる塚が所在したとされる地点です。
この塚に関する詳細は不明ですが、せっかく巡った塚の跡地をしっかりと書き留めておこうという企画です。
横街道から道が二股に分かれる三角地となっている場所で、例えば悪病が流行った際に、悪病を村外に送り出すような、何かしらの儀式が行われたのかな?と妄想してしまいますが、宅地化が進んだこの場所に、塚の痕跡は見られないようです。
東八道路を杉並区内から西に向かうと、東八道路自体は、新府中街道と交差する「西原町一丁目」交差点までで終わっていて、そこから先は未だ開通していないという状況です。ただし、今後が建設工事は進み、いずれは甲州街道の「国立インター入口交差点」で日野バイパスとつながるようですので、この地域の景観もかなり変わるかもしれません。。。
発掘調査が行われて何か新しい発見があるならば、それが一番楽しみですヾ(o´∀`o)ノ
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2020/04/03(金) 21:03:17|
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「神明塚」は、府中市押立町に存在したとされる塚です。
道路の改修工事によりほとんどが破壊されており、学術的な調査が行われなかったとこから性格のわからない塚なのですが、畑の三角地にわずかに痕跡が残されているようです。
この塚について、府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には、
昭和6年頃、疫病神のたたりがあるといわれ、調べてみると、もとここにあった神明山竜光寺を現在地へ移した後、神明様とり残したせいだろうということになった。そこで昭和6年2月に神明様の石を竜光寺境内へ移した。その後も塚と松の木はあったが、第二次大戦後、台風で倒れたので切倒した。さらにのち、都で道幅を拡げる時、塚の真中を通すのでならした。現在は3坪程の塚跡が認められる。
と書かれています。

画像が、「3坪程の塚跡」とされる、神明塚の残存部分と思われる高まりです。
塚の真ん中が道路になったということからして、かつてはかなり大きな塚だったのではないかとも考えられますが、残念ながら現在はわずかな塚の痕跡が残るのみです。

画像の鳥居のところが木村神社で、その奥が竜光寺です。
『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には、「神明様の石を竜光寺境内へ移した」とあるのですが、神明様の「石」がどんな石なのか、また竜光寺境内のどこに移されたのかわからず、見学することはできませんでした。
思えば、木村神社の小さな石の祠がそうだったのかな…?
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2020/04/02(木) 23:46:35|
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府中市内には、立川段丘上の府中崖線沿いに白糸台古墳群、高倉古墳群、御嶽塚古墳群という3つの古墳群が存在しています。現在までに60基以上の古墳が確認されており、その多くはこの『古墳なう』でも取り上げてきました。
また、古墳以外にも、かつては数多くの塚が存在したといわれています。府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には36基もの塚が取り上げられています。このうちでは、墳墓として造られたものが最も多く、他に民間信仰に関係したものも多くみられるようです。
この調査報告書では、名称のないものや名称のわからない塚は残存する塚も含めて未掲載としていますので、実際にどのくらいの数の塚が存在したかを把握することは困難なのですが、私は府中市内の塚についてはこの報告書を元に探訪しました。この『古墳なう』でまだ紹介していない塚も、さらに全て取り上げていこうと思います。
というわけで、画像は、府中市押立町に所在する「亀井塚」です。
塚の敷地内には正一位稲荷大明神が鎮座しており、画像のお稲荷さんのお堂の左奥が亀井塚です。
『東京都遺跡地図』には未登録であるようですが、現在も墳丘が残される貴重な塚です。

この塚は古くからその存在が知られており、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「右村内、百姓屋敷にあり。亀井と号する謂われは不知。塚上に板石の石碑あり。「文明十七乙巳年七月廿八日、妙徳禅尼」長二尺余。「東鑑」云「建長三年押立左近大夫資能」この人は当所に住して鎌倉将軍上に奉仕せし由、古記に出たり。住居の跡は不知。」と書かれています。ただし、塚上に立てられていたという「文明十七乙巳年七月廿八日、妙徳禅尼」と刻まれた石碑については現在は所在不明となっているようです。
地元にはこの塚は亀井六郎の墓であるという伝承があり、塚には手を触れぬよう伝えられているそうですが、昔の人が塚を掘り起こし、神体を見たという言い伝えも残されているようです。
この亀井塚の調査は行われていないようなので、どんな性格の塚であるのか、また残された伝承が史実であるのか詳細はわかりません。塚上に河原石が散在する状況を見ると、亀井塚が古墳である可能性はないのかな?と考えてしまいますが、今のところ、多摩川の沖積低地に古墳は存在しないようです。
現在のこの地域は開発が進み、宅地化された住宅街の中に「亀井塚」がひっそりと残されています。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
府中史談会「府中市内屋敷神調査報告」『府中市立郷土館紀要 ―第八号―』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/04/01(水) 23:13:28|
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出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1177179&isDetail=true) 府中市是政6丁目、現在の多摩川通りとふるさと通りが交差する「郷土の森入口」交差点周辺に存在したといわれる塚が「金塚」です。
『東京都遺跡地図』にも未登録であり、すでに消滅してしまっていることから正確な所在地も不明で、おおよその位置しかわからなくなっている塚です。
私が最初に府中市内の古墳を巡ったのは8〜9年ほど前になりますが、この時期には、金塚に関しては詳細も正確な所在地もわからないし、だいたい古墳じゃないんだし、ここは潔くパス!という感じでスルーしてしまっていました。
それが、何年か経ってこの塚の周辺の戦後の空中写真を眺めていたときに、一体この形状はなんだろう?という興味深い地形を見つけました。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された、カネヅカの所在地周辺と推定される地域の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
昭和60年に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図には、往時のカネヅカのおおよその所在地が記されているのですが、この付図と見比べて、位置的にかなり近いのではないかと想定される場所に塚のようにも見える円形の地形を見つけたのでびっくりしました。
そして、興味深いのは、塚から西に向かって土手のような直線的な地形がまっすぐに伸びています。
見つけた当初は「どういう地形だろう?」と不思議に思いましたが、しばらくして、この地形に心当たりがあることを思い出しました。
この場所が金塚の正確な所在地かどうかは置いといて!とりあえずこの地形が金塚だと仮定して散策してみよう!ということで、よく晴れた日曜日に出かけました。

府中市南町に所在する「府中市郷土の森博物館」を訪ねました。
この博物館は、広大な敷地が公園として整備されていて、歴史的な建物なども数多く保存されています。
実はこの博物館の敷地内に、直線的な地形について心当たる場所が存在します。

画像は、府中市郷土の森園内に保存された、多摩川の旧堤防です。
多摩川は水防困難な川といわれ、洪水と氾濫を繰り返していましたが、明治43年(1910)の洪水以降は治水三法の制定、河川土木技術の導入により連続堤防が建設されてきています。
府中市を流れる多摩川では昭和15年(1940)前後に新堤防の建設が始まっており、それ以前の旧堤防は連続した堤防ではなく、「ナミヨケ」とも呼ばれる洪水の流れと勢いを弱めるための不連続堤防だったそうです。
私はこの時、郷土の森博物館を訪れるのは3回目でしたが、それまで不覚にも多摩川の旧堤防の存在は流してました。
やはりどうやら、空中写真の直線的な地形はこれですね(にやり)。。。

保存された旧堤防の最も東側、先端の部分です。
あの、空中写真の先端の円形の地形が塚であれば、この先に存在するはずです。
ちょうど、堤防の先端が博物館の敷地の端になっていて、フェンスで仕切られています。
たまたま円形に草が茂っていただけで、塚じゃなかったのかな?
それともやはり、削平されてしまったのでしょうか。。。

旧堤防の先端からさらに東側、郷土の森の敷地の外は駐車場となっています。
塚が存在したとすればこのあたりではないかと思われますが、痕跡はみられません。

さて、残念ながら塚は開発により削平され、消滅してしているようです。
それ以前に、空中写真の円形の地形が「金塚」であったのかどうかについても不明で、真相はわかりません。
ただし、周辺には様々な形で金塚の名称が残されているようです。
府中用水の一流路である「新田川」にはかつて「金塚橋」と呼ばれる橋が架けられてており、この橋の由来碑が、是政6丁目の路傍に設置されています。
この由来碑によると(『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』にも記されていますが)、橋の名称は小字の「庚塚(かのえづか)に由来しており、塚は「かのえづか」が訛って「かねづか」になったものといわれています。つまり、この塚は庚申塚だったのではないかと推測されているようです。塚が庚申塚であれば、当然ながら庚申塔が存在したのではないかと思われますが、この庚申塔の所在も残念ながら不明です。。。

金塚は、公園の名称にも残されているようです。
画像は「金塚桜公園」です。
小川が流れる、牧歌的で素敵な公園です。。。

なんと!公園内には塚状の築山が造られています。
往時の金塚を意識したものなのでしょうか。

金塚の周辺は、昭和30年代までは牧場だったそうです。
そこには、多摩川から取水した農業用水路が崖線の湧水を含みながら流れており、この水路は生活用水としても利用されたそうです。
公園内には、この用水を分水するイメージでつくられたという円筒分水が見られます。
もはや私には前方後円墳にしか見えません。(ああ〜!あるはずのない造り出しが見える。。。)
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
現地説明板
現地由来碑
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- 2020/03/31(火) 23:00:54|
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画像は、府中市矢崎町2丁目に所在する「三千人塚」を南西から見たところです。
多くの伝承が残されているこの三千人塚は、府中市の遺跡番号11番に登録されており、昭和25年には東京都の旧跡に指定。その後、平成17年には東京都の史跡に指定されています。

「三千人塚」は、元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬した墳墓であるという伝承が残されており、江戸時代の地誌類にも取り上げられるなど古くから知られていたようです。
『武蔵名勝図会』には「分倍古戦場」の項に「分倍野は府中駅より南にて、地は府中に属して小名とす。古え数度の合戦ありし処ゆえ、田の中に塚多し」とあり、「読史余論には、廿一日には立川原合戦とあり廿二日は分倍合戦と記す。按ずるにいまの立川柴崎あたりに古戦場もなく、古塚などもなし。又、河原も戦場とする地形ならず。いま本宿村の南裏に古塚あり。かの地を立川原と記されたるべし。」とも書かれています。
また、この場所は国府時代からの古い刑場のあったところで牢場とも呼ばれていました。この周囲を耕すことはもちろん、塚上にある榎の枝一本でも切ると必ず祟られると言い伝えられており、明治末年頃までは誰も周辺を耕作する者もなく、かなり荒廃していたようです。(ちなみに昭和20年代にも、道路工事のために塚の西側の地ならしを始めた際にその場に居合わせた関係者が卒倒したという話が残されているようです。)
しかしその後、昭和30年(1955)に地元の郷土史家らが中心となって塚の西側を中心に発掘調査を行い、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(火葬骨を納めた骨壺)4個が発見されています。また平成17年(2005)に行われた学術調査により、塚の東側から石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土しています。これらの、3cmから10cmほどの大きさの礫に書き写された文字は非常に上手な字もあればただ字を真似て書き写したようなものもあり、たくさんの人がお経を書き写したことがわかっています。一緒に出土した陶磁器の破片から、これらの礫石経の年代は江戸時代末期頃と考えられています。

画像は北東から見た「三千人塚」です。
過去の2度の発掘調査により、三千人塚はこれまでいわれてきた分倍河原の合戦の戦死者を祀った塚であるという伝承とは関係がなく、鎌倉時代から室町時代の地元の有力者一族による小さな石積みのお墓が点在していたところが江戸時代に信仰の対象となり、礫石経を用いた石を積んで新たな塚を築いて、今日まで地元の文化財として保存されてきたものであることがわかっています。
では、真の三千人塚はどこにあったのかということになりますが、猿渡盛厚氏が著書『武蔵府中物語』の中で興味深い地元の古老の証言を紹介しています。同書には「去る明治33、4年頃、馬場大門欅並木の中間の府道工事の際、道路面が凹くて盛土をする必要があって、その土砂を採取するため、此の辺に塚を破壊して土砂を搬んでいって地均ししたのであるが、其の時一つの塚からは、多数の人骨が出て始末に困つたことを覚えていると語られたが、其の咄氏によつて思ふに、それが眞の三千人塚であつたのだろふ。されば田村永年が描いた松並木中にあつたのが眞の三千人塚であつたことが判る。」と書かれています。
田村永年が描いたという松並木中の塚の正確な所在地はわからなかったのですが、分倍河原の合戦ほどの大きな合戦であれば、1基のみならず数多くの塚が存在したのかもしれませんし、今後の調査により真相が判明してくるのかどうか、とても興味深いところです。。。

『東京都遺跡地図』には、径15m、高さ1.5mの規模とされているのですが、それよりは若干小さく感じられるようにも思います。
敷地内には東京都教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。
東京都指定史跡
三 千 人 塚
所在地 府中市矢崎町二丁目二十一番二号
指 定 平成十七年二月二十二日
三千人塚は、江戸時代の地誌「武蔵名勝図絵」などにも
紹介されている由緒ある塚です。塚の上には、多摩地区最
古となる康元元年(一二五六)の板碑が建ててあり、「板
碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
昭和三十年に地元の郷土史家により、この塚の西側が発
掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(四個)が
出土しています。
平成十七年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、
石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土しました。
この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(一三三
三)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬
したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたもの
であることがわかりました。
三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一族
による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信
仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされ
てきたといえます
平成十八年三月一日
東京都教育委員会

塚上の、多摩地区最古という康元元年(1256)の板碑です。
宮町3丁目の「ふるさと府中歴史館」には、三千人塚から出土したという礫石経が展示されています。
江戸時代後期のもので、「佛」「法」「濁」「是」「却」など法華経の文字が石に角が記されています。

三千人塚から西に800mほどでしょうか。分梅町2丁目の新田川緑道には「分倍河原古戦場碑」が建てられており、「分倍河原古戦場」は東京都の旧跡に指定されています。
東京都教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
東京都指定旧跡
分倍河原古戦場
所在地 府中市分梅町二ー五九
指 定 大正八年十月
文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験
した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救
済の方法として徳政令を発布したが、これがか
えって政権破滅の速度を速めた。元弘三年(一三
三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻
めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国
新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で
北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十
一日)、さらに久米川の戦で優位に立った。北条
方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田
勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れた
が、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失さ
せられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に
三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六
日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って
一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。
平成十年三月 建設
東京都教育委員会

JR南武線と京王線が交わる分倍河原駅南東側のロータリーには「新田義貞公之像」が。
国府が置かれたというこの地域の歴史上最も大きな出来事は、やっぱり分倍河原の合戦なのかなあと、つくづく感じてしまいます。
「新田義貞公之像」南側の歩道には石碑が建てられており、次のように刻まれています。
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らし
た分倍河原合戦 を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉
討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には
利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指
して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、
両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しない
まま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急
ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原に
おいて大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、掘兼(狭
山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰
してしまったといわれている。その夜、掘兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相
模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模
の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒涛の如く分倍河原を
急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れ
となり、鎌倉の最後の防御線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍
の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市
街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に
伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメン
トを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、
題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつ
づけることを願うものである。
昭和六十三年五月
府中市
分倍河原合戦に関連する塚は府中市内に数多く存在しますが、この「三千人塚」が経石塚で、「耳塚」や「首塚」は古墳、「胴塚」の所在はわからなくなっているようですし、真の三千人塚がどこかに存在するとなれば、とても気になります。(もちろん、宅地化によって消滅している可能性も高いわけですが。。。)
まだ未発掘らしき押立町の「亀井塚」や、谷保の「御岳塚」あたりが発掘されると、何が出てくるんだろう。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
府中市郷土の森博物館『あるむぜお 74号』
現地説明版
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- 2019/09/30(月) 23:59:37|
- 府中市/その他の古墳・塚
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府中市若松町には、古くから「浅間山」と呼ばれる丘陵が存在します。
この浅間山は、前山・中山・堂山という三つの小さな峰からなり、現在は「浅間山公園」として整備されています。海抜80mと、周囲との標高差は30mほどしかない小さな丘陵ですが、多摩川対岸の多摩丘陵と同様に、古多摩川やその他の河川により周囲が削り取られ、ここだけが独立丘として残ったものと考えられています。
古くは、近くに人見村があったことから「人見山」と呼ばれており、『新編武蔵風土記稿』によると、平地に突出して塚のような形状であったことから「人見塚」とも呼ばれていたようです。また、堂山と呼ばれる丘の頂上に浅間神社が祀られたことから、「浅間山」と呼ばれるようになっなったともいわれています。
画像は「堂山」と呼ばれる丘陵を南東から見たところです。

実は、この場所を訪れてから5年近く経ってしまいました(『古墳”なう”』というタイトルどうなのよと)。
府中市内の古墳や史跡をめぐって散々自転車で走り回った後の夕方、「浅間」の文字が心に引っかかって、なんとな〜く立ち寄りました。もはや足がパンパンで、「くわー!これからこの石段を登るのかョ!」と少々怯みましたが、「いや、浅間神社だし何かあるかもしれないし、写真を撮るなら今がギリギリだし!」と考えて、必死で登りました。笑。
画像が、石段を登りきった丘陵の頂部で見た光景です。
「げ。古墳みたいな塚がある。。。」と疲れが吹っ飛びました。

南から見た塚の様子です。
富士塚というよりも「浅間塚」ということになるでしょうか。
この浅間神社の祭神は、木花開耶姫命が祀られています。
毎年4月には、この神社のお祭りが行われているそうです。

この丘の南西方面は分倍河原、北西方面は人見ヶ原と呼ばれる、南北朝時代に足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の軍が両朝の命運をかけて戦った古戦場で、周辺地域には、「首塚」や「胴塚」といった合戦の戦死者を祀った塚も数多く存在したようです。深読みすると、ひょっとしたらこの浅間塚も、元々は何か別の由来のある塚を流用した可能性も考えられるかも知れません(古墳を流用した可能性はあまり感じられませんが)。
当然ながらこの後はどんどん日が暮れて、真っ暗な中を中央線方面まで自転車で帰りました。冬は、暗くなると急に体感温度が落ちるので、自転車はなかなか厳しいのですが、最近はあまり無理はしていません。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/09/14(土) 23:29:59|
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「小人見塚」は、府中市浅間町1丁目に所在したとされる塚です。現在すでに消滅して存在しない塚で『東京都遺跡地図』には未登録となっています。
府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』によると、この塚は旧なかみちと旧こみとめ道の間にあり、だらだらした塚で、面積は1町歩ほどもあったといわれています。古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「神領八幡宿。八幡宮の大門口、鳥居際より甲州街道をへだて北東の方にあり。廻り凡そ百歩許。高さ6尺程なり。謂われ不知。小人見塚と号するは、この塚より人見村へ接し、また人見村の堂山、中山などと同じ土にて、ここの土にあらず。人見村の土と同じければ人見山と号する由なり。他所の土を以て築きたる塚也。」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「(前略)街道の北に当れる陸田の内に、小人見村と唱るあり、周廻三十間許、高五尺程、其來由はしれず。」と書かれています。
画像は、東京都立府中の森公園内の「小人見塚」の跡地周辺のようすです。塚はすでに消滅しているはずで、画像の塚は公園の整備の際に造られた築山であると思われますが、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図に記された小人見塚の跡地にぴったりと重なる感じで築山が存在したので、塚の面影というイメージで掲載してみました。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/01/14(土) 13:12:07|
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府中市若松町1丁目に所在したといわれるのが「関谷塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、すでに開発により消滅した、言い伝えにのみ残る塚です。
この周辺は、古くは廣野原と呼ばれる人里離れた場所で、関谷塚は密林の中の御仕置場(刑場)に存在した塚であったようです。この関谷塚には築造の際の言い伝えが残されているようです。承應の頃、この御仕置場を支配していた是政村の関谷戈次郎の息子で佐吉という無頓漢がいましたが、この佐吉は女郎に熱をあげて困窮し、恋敵でもある八王子の絹屋某を殺害して金銭を奪い、その首を切り落として御仕置場へ晒しておいたそうです。これは恐らく、成敗された罪人の首に見せかけるためではないかといわれていますが、やがて罪は発覚し、佐吉は皮肉にも親の戈次郎の手により成敗され、佐吉の首は同じ御仕置場に晒されることとなります。
その後、関谷の家では病人が出たり不幸が重なり、主人の善吉までもが気が狂ってしまいます。これは、殺された八王子の絹屋の祟りではないかということになり、占師を呼んで占ってもらったところ、やはりこれは絹屋の祟りで、両人の霊を鎮魂するために高い塚を築いて祭ると祟りが止むといわれたことにより、高さ約8、9尺といわれる「関谷塚」を築いたところ、物の怪は止み、善吉も回復したといわれています。
この伝説は古くから知られており、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「高さ八、九尺。甲州街道端にあり。これは先年村内の百姓関谷才次郎というもの、明暦年中御仕置の刑になりし地なり。」と書かれています。
訪れた当日は『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図を参考に関谷塚の跡地を目指しました。付図に記されたあたりにこの「是政共同墓地」が存在したので、少なくともこの場所がかつての御仕置場(刑場)であろうと考えましたが、塚の正確な跡地がこの墓地であるかどうかはわかりません。これは訪れた後でわかったことですが、かつての関谷塚には「関谷霊神塔」と刻まれた石碑が立てられていたといわれています。訪れた日に墓地内を見渡したところではこの石碑は見当らなかったように思うのですが、これはあまり自信がありません。隣接する宅地内にも赤い鳥居と祠が祀られていたと記憶しているので、こちらに関谷霊神塔が保存されている可能性もあったかもしれないのですが、これは見逃してしまいました。
開発が進み、宅地化された周辺には少なくとも恐ろしい刑場の記憶は残されていません。また、塚とともに祟りの言い伝えも残されていないようです。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/01/11(水) 00:24:54|
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