古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「御殿町古墳」

「御殿町古墳」

 「御殿町古墳」は、文京区白山2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には文京区の遺跡番号20番に登録されています。画像は、御殿町古墳の跡地とされる現在の東洋大学京北高等学校を北西から見たところです。

 この御殿町古墳は、人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏により大正5年(1916)に巡回調査が行われており、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で次のように紹介しています。

 此處を見終つて、更に小石川の戸崎町に赴き、細川家の別邸 (盲唖院の隣り)内にある古墳を見た。これも瓢形の小さなものであるが、築山に用ひられて、其の形が大いに變化して居るけれども、後の方から見れば、それの古墳であることが考へられる。位置は斷崖に臨んで、四方には椎の木が繁茂して居る。此處から盲唖院・植物園等に通じて一帶の高臺は野生の椿や常緑樹の巨木・老木が多い。此の古墳の所在地にも、今擧げた椎の木の外に、樫・欅等の巨木が茂つて居るが、これは武藏野時代の名殘を留めて居るものである。それから此の丘陵の出つ鼻の所に、戸崎町といふ名前のあるのは、其處の地形に副さはしい。此の丘陵の出つ鼻の所は、即ち一つの岬であって、原史時代より大昔の先史時代に掛けて、此の下の低地には東京灣の海水が入込んで居つて、此のあたりは波打際であつたのであらう。戸崎といふ名は此の點に於て副さはしいのである。
 それから前に述べた如く、この戸崎町の細川男爵別邸内の築山と稱するものは、これも矢張り古墳の變形したものである。さうして見ると、此の戸崎町に存在する古墳は、大昔海水の波に洗はれて居る丘陵の出つ張りに設けられたものであつて、當時の習慣として所謂旭日の輝る所に奥津城の鎮まりましたものといふべく、相當に宜い位置の所にあつたやうに思はれるのである。(『上代の東京と其周囲』67~69ページ)



「御殿町古墳」

 その後、東京都教育委員会が昭和57年度から59年度にかけて実施した東京都心部遺跡分布調査では、古地図を検討することにより、当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、明治16年の5千分の1東京図の、当時の最高裁司法研修所分室の敷地内に2つの墳丘が確認されています。この2基のうちのどちらかが御殿町古墳であると考えられているようです。鳥居龍蔵氏の記述からすると、この2基のうちのどちらかは小規模な前方後円墳であった可能性も考えられるようですが、『都心部の遺跡』、『東京都遺跡地図』ではともに「円墳?」と書かれています。古墳は学術的な調査が行われることなく消滅してしまったことから、墳形のほか、埋葬施設や周溝等の詳細がわからないのは残念なところです。

 前回紹介した文京区千石2丁目の「簸川神社」は、小石川植物園の御殿坂周辺にあった貝塚の中の古墳上に創立されたと伝えられています。小石川植物園は、御殿山古墳の所在地とは隣接する場所ですので、かなり近い距離の中に3基の古墳が存在した可能性が考えられます。また、簸川神社の土台となった古墳が御殿町古墳だったという可能性も考えられるところですが、このあたりの真相を突き止めるのはなかなか難しいようです。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/07(土) 21:17:05|
  2. 文京区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「簸川神社」

「簸川神社」

 画像は、文京区千石2丁目の「簸川神社」を南から見たところです。
 この神社の祭神は素盞嗚尊で、第五代孝昭天皇の頃に、小石川植物園の御殿坂周辺にあった貝塚の中の古墳の上に創立されたと伝えられています。承応元年(1652)に白山御殿造営のため原町に移され、さらに元禄12年(1699)に景勝の地を選び、この地へ遷座したといわれています。八幡太郎源義家が参籠した古社で、中世に伝通院等を創建した了誉上人が当社を再興、江戸名所の一つでした。


「簸川神社」

 簸川神社社殿です。社殿を含めた境内建物は戦災により立ち木にいたるまで焼失して瓦礫の山となり、昭和33年(1958)に再建されたそうです。
 現在の簸川神社境内とその周辺には、古墳を思わせる痕跡は見当らないようです。


「簸川神社」

 画像が現在の「御殿坂」のようすです。
 簸川神社が創建された当時の古墳の所在地である「植物園の御殿坂辺り」とは、おそらくはこの坂を登り切った左側あたりかなという程度で、正確な跡地は全くわからなかったのですが、この坂の右側の、現在の東洋大学京北高等学校の敷地は「御殿町古墳」の所在地でもあるようです。ひょっとしてこの周辺には複数の古墳が存在したのか、それとも簸川神社の土台となった古墳が御殿町古墳と同一のものである可能性もあるのか、とても興味深い地域です。

<参考文献>
文京区神社総代会・東京都神社庁文京区支部『文京区神社誌』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/06(金) 23:58:31|
  2. 文京区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

 画像は、追分一里塚の跡地とされる文京区向丘1丁目1番地周辺を南東から見たところです。

 この場所は、旧中山道(現本郷通り)と日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があったといわれています。但し、この一里塚は明和三年(1766)に焼け、その後文化五年(1808)に庚申塔を建てたものの、これも文政七年(1824)の大火で石に刻んだ文字も消え、その後、地元の人が一里塚跡地に寒大神を祀り、『東京名所図会』には当時の高崎屋に隣接して建てられている寒大神が描かれているようですが、道路の拡張工事によってこれも取り除かれ、当時の面影をとどめるものはすでに残されていないようです。

 江戸時代の地誌『江戸砂子』にはこの一里塚について「黒塚」の名称での記述が見られ、
 追分ひがしの角に一里塚の榎あり、此つかなるか。昔の江戸の絵図に有。来歴しれず。日本橋よりの一里塚也。
 と記されています。
 そして、人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏が、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の「江戸砂子に見えたる古墳」の中で、この黒塚を取り上げており、
 更に追分の所に來ると、黒塚と稱するのがある。これには
 追分東の方に一里塚の榎あり、是れ塚なるか、實とすべき程の來歴知れず。日本橋よりの一里塚なり
 と書いて居る。これで見ると、一里塚に築いた塚であるか、其の以前からあつた所の塚であるか、これははつきり分らない。けれども黒塚といふ名前があるとすると、何等か古墳に關係があるやうに思はれる。

 と、この一里塚が黒塚という名称で呼ばれているのは古墳と関係があるからではないかと推測しています。

 果たして、古墳を転用して造られた一里塚が存在したのかどうかわかりませんが、(一里塚であれば対になるもう1基が存在したはずだし)塚は未調査のまま消滅しており、この一里塚が古墳だったかどうかの詳細はわかりません。


「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

 一里塚の跡地には、文京区教育委員会による説明板が設置されています。
 説明板には次のように書かれています。

追分一里塚跡(区指定史跡)
文京区向丘1-1
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として街道筋に1里
(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の
目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山
道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植え
られていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影
をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚
とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商
も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会            平成7年3月


 この角にある「高崎屋」は宝暦年間(1751〜1764)創業という、江戸時代から代々続く老舗なのだそうです。訪れた日曜日が定休日だったので買い物に入ることは出来なかったのですが、自販機の缶ジュースで一息つきました。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京堂出版『江戸砂子』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/10/04(水) 23:55:45|
  2. 文京区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「富士神社古墳」

富士神社古墳

 富士神社古墳は、文京区本駒込五丁目の富士神社の境内にある、全長45m、高さ5.5mの前方後円墳です。画像は、南東から見たところで、恐らく右奥が前方部、左手前が後円部だと思われます。富士塚に改造されたため、墳丘上には溶岩や石碑が置かれています。文京区内では「駒込のお富士さん」と呼ばれて親しまれてきたそうです。


富士神社古墳

 南から後円部をみたところ。かなり広い感じで、富士神社社殿が鎮座しています。地上から後円部を見上げると、なるほど前方後円墳かなと思いますが、墳丘上に上がってみると墳形も向きもあまり良く分からない感じです。


富士神社古墳

 後円部から前方部をみたところ。前方部の方が低くなっているのが分かります。見たところ、かなり改変されているようです。




  1. 2012/07/26(木) 02:05:24|
  2. 文京区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「白山神社古墳」


白山神社古墳


 画像は、白山神社古墳を北西から見たところです。文京区白山五丁目にある、白山神社の境内にあります。

 ふだんは施錠されていて墳丘に立ち入る事は出来ませんが、毎年6月に開催される文京あじさいまつりの期間中は、鑑賞のため解放されるそうです。約3,000株の多様なあじさいが、白山神社の境内から白山神社公園にかけて咲き誇るそうです。





  1. 2012/07/26(木) 01:46:52|
  2. 文京区
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

カテゴリ

足立区 (4)
伊興古墳群 (4)
その他の古墳・塚 (0)
葛飾区 (6)
立石古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (3)
板橋区 (46)
志村古墳群 (10)
その他の古墳・塚 (36)
北区 (26)
赤羽台古墳群 (2)
十条台古墳群 (2)
飛鳥山古墳群 (8)
田端西台通古墳群 (1)
その他の古墳・塚 (13)
荒川区 (28)
尾久の微高地 (4)
町屋-三河島の微高地 (19)
南千住の微高地 (3)
日暮里の台地上 (2)
台東区 (11)
上野台古墳群 (5)
その他の古墳・塚 (6)
墨田区 (3)
江戸川区 (0)
練馬区 (7)
豊島区 (2)
文京区 (6)
杉並区 (17)
中野区 (17)
新宿区 (17)
千代田区 (7)
目黒区 (8)
渋谷区 (17)
港区 (4)
品川区 (22)
品川大井古墳群 (7)
その他の塚 (15)
大田区 (94)
田園調布古墳群 (34)
鵜の木・久が原古墳群 (8)
その他の古墳・塚 (52)
世田谷区 (54)
都指定史跡 野毛大塚古墳 (0)
野毛古墳群 (13)
砧古墳群-殿山古墳群 (9)
砧古墳群-大蔵古墳群 (0)
砧古墳群-砧中学校古墳群 (2)
砧古墳群-喜多見古墳群 (13)
砧古墳群-その他 (6)
その他の古墳・塚 (11)
三鷹市 (4)
狛江市 (43)
狛江古墳群-和泉支群 (17)
狛江古墳群-岩戸支群 (3)
狛江古墳群-猪方支群 (23)
その他の古墳・塚 (0)
調布市 (55)
国領南古墳群 (2)
下布田古墳群 (16)
上布田古墳群 (7)
下石原古墳群 (2)
飛田給古墳群 (17)
その他の古墳・塚 (11)
府中市 (77)
史跡 武蔵府中熊野神社古墳 (2)
白糸台古墳群 (14)
高倉古墳群 (32)
御嶽塚古墳群 (19)
府中市内の塚 (10)
国立市 (24)
下谷保古墳群 (12)
青柳古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (9)
立川市 (14)
稲城市 (0)
多摩市 (4)
和田古墳群 (4)
多摩市内の塚 (0)
日野市 (33)
平山古墳群 (7)
西平山古墳群 (5)
七ッ塚古墳群 (8)
万蔵院台古墳群 (4)
その他の古墳・塚 (9)
町田市 (5)
能ケ谷香山古墳群 (0)
その他の古墳・塚 (5)
八王子市 (10)
昭島市 (3)
浄土古墳群 (1)
その他の古墳・塚 (2)
あきる野市 (47)
森山古墳群 (3)
草花古墳群 (14)
御堂上古墳群 (4)
瀬戸岡古墳群 (7)
牛沼古墳群 (3)
その他の古墳・塚 (16)
日の出町 (2)
青梅市 (11)
古墳空白地域 (19)
西東京•清瀬•東久留米市 (0)
小金井•小平•国分寺市 (0)
東村山•東大和•武蔵村山市 (7)
福生市•羽村市•瑞穂町 (12)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
宇都宮市•鹿沼市 (0)
壬生町•上三川町 (5)
群馬県の古墳 (0)
茨城県の古墳 (5)
神奈川県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
長野県の古墳 (6)
未分類 (2)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR