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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「曙町古墳(鶏声塚)」

「曙町古墳(鶏声塚)」

 「曙町古墳」は、文京区本駒込1丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、文京区の遺跡番号13番の古墳(円墳)として登録されています。

 この場所はかつては土井大炊頭利勝の下屋敷だったところで、この地域の地名の由来ともなったある伝説が残されているようです。江戸時代の地誌『江戸砂子』にはこの伝説の詳細が記されており、
 「鶏声ヶ窪 駒込竹町の先。むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、夜ごとに鶏の声あり、あやしみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御やしきの内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のにはとり掘出せり、よつてかく名に成りたるといふ。」
 と書かれています。
 この言い伝えが、一帯のかつての地名である「鶏声ヶ窪」の名称の由来ともなっており、そしてこの土井屋敷には「鶏声塚」と呼ばれる塚があったといわれています。
 その後、明治2年のこの地域の町名はこの「鶏声」の意味からとって「曙町」とされており、「曙町古墳」の名称はおそらくこの町名からつけられたもので、鶏声塚と曙町古墳は同一の塚を指しているものと考えられます。(鶏声塚古墳でいいじゃないかよ、と思うのですが。)

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、昭和3年(1927)に発刊した、著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中でこの鶏声塚を取り上げられており、
 此處の巡視を済まし、それから駒込曙町の土井子爵の邸内に稲荷を祀つて居る小丘の所に行つたが、此の丘も無論古墳であつて、丸塚である。
 と、鶏声塚は古墳であると断定しています。

 画像の、道路が左に折れ曲がった右側あたりが曙町古墳の跡地とされる場所です。学術的な調査は行われないまま古墳は消滅していますので、埋葬施設や周溝等の詳細はわかりません。
 こうした、名の知られた存在だったであろう古墳の前で道が折れ曲がっているという光景はかなり多く見られるように思うのですが、古墳を道標にしてまっすぐに歩いてきた後、古墳の前で次の目標に向かって少し方角を変えて歩いていくような、そんな場所だったのかもしれませんね。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2017/10/27(金) 09:04:13|
  2. 文京区
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「実盛塚」

「実盛塚」

 画像は、文京区湯島3丁目にある「実盛坂」を東から見たところです。
 この坂は、湯島天満宮の青銅の鳥居からお茶の水方面にまっすぐ向かった、中坂と三組坂の中間を東に下る石段坂です。この坂下方面には首洗いの井戸とともに「実盛塚」と呼ばれる塚があったと伝えられています。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、江戸時代の地誌『江戸砂子』の中に、原始時代及びそれ以後の古墳と考えられる遺構が掲載されているとして、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』において、「江戸砂子に見えたる古墳」という論文を発表しています。この中で、この実盛塚も取り上げられており、
 更に本郷の方へ來てはどうであるかといふと、本郷では不忍池の上、丁度今日の岩崎家の邸内あたりに、實盛の墳といふのがある。これには
 湯島の下、藤枝帶刀殿やしきの内にあり
 と書いて居る。これは果して齋藤實盛の墓であるか、固より分らないけれども、古墳が湯島の下にあつたことは、是に依つて考へることが出來る。

 と記されています。

 「湯島の下、藤枝帶刀殿やしき」を追いかけると、実盛塚の所在地を特定することが出来たかもしれませんが、塚が残されている可能性がほとんどなく、また段丘を下った低地という古墳の可能性をあまり感じさせない所在地ということもあり、あまり深追いをしませんでした。
 鳥居博士が主張するように実盛塚は古墳だったのでしょうか。。。


「実盛塚」

 この坂を上りきった歩道に文京区教育委員会による説明板が設置されています。
 この説明板には「実盛塚」についての記述も見られ、次のように書かれています。

           実 盛 坂
                               湯島三丁目20と21の間
 『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当
実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸が
あったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれ
から、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、
平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)
の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎三盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く
染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の "実盛塚" や "首洗いの井戸" の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、
実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
                       文京区教育委員会    平成14年3月


<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周圍』
現地説明版


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  1. 2017/10/25(水) 01:15:36|
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「御殿町古墳」

「御殿町古墳」

 「御殿町古墳」は、文京区白山2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には文京区の遺跡番号20番に登録されています。画像は、御殿町古墳の跡地とされる現在の東洋大学京北高等学校を北西から見たところです。

 この御殿町古墳は、人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏により大正5年(1916)に巡回調査が行われており、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で次のように紹介しています。

 此處を見終つて、更に小石川の戸崎町に赴き、細川家の別邸 (盲唖院の隣り)内にある古墳を見た。これも瓢形の小さなものであるが、築山に用ひられて、其の形が大いに變化して居るけれども、後の方から見れば、それの古墳であることが考へられる。位置は斷崖に臨んで、四方には椎の木が繁茂して居る。此處から盲唖院・植物園等に通じて一帶の高臺は野生の椿や常緑樹の巨木・老木が多い。此の古墳の所在地にも、今擧げた椎の木の外に、樫・欅等の巨木が茂つて居るが、これは武藏野時代の名殘を留めて居るものである。それから此の丘陵の出つ鼻の所に、戸崎町といふ名前のあるのは、其處の地形に副さはしい。此の丘陵の出つ鼻の所は、即ち一つの岬であって、原史時代より大昔の先史時代に掛けて、此の下の低地には東京灣の海水が入込んで居つて、此のあたりは波打際であつたのであらう。戸崎といふ名は此の點に於て副さはしいのである。
 それから前に述べた如く、この戸崎町の細川男爵別邸内の築山と稱するものは、これも矢張り古墳の變形したものである。さうして見ると、此の戸崎町に存在する古墳は、大昔海水の波に洗はれて居る丘陵の出つ張りに設けられたものであつて、當時の習慣として所謂旭日の輝る所に奥津城の鎮まりましたものといふべく、相當に宜い位置の所にあつたやうに思はれるのである。(『上代の東京と其周囲』67~69ページ)



「御殿町古墳」

 その後、東京都教育委員会が昭和57年度から59年度にかけて実施した東京都心部遺跡分布調査では、古地図を検討することにより、当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、明治16年の5千分の1東京図の、当時の最高裁司法研修所分室の敷地内に2つの墳丘が確認されています。この2基のうちのどちらかが御殿町古墳であると考えられているようです。鳥居龍蔵氏の記述からすると、この2基のうちのどちらかは小規模な前方後円墳であった可能性も考えられるようですが、『都心部の遺跡』、『東京都遺跡地図』ではともに「円墳?」と書かれています。古墳は学術的な調査が行われることなく消滅してしまったことから、墳形のほか、埋葬施設や周溝等の詳細がわからないのは残念なところです。

 前回紹介した文京区千石2丁目の「簸川神社」は、小石川植物園の御殿坂周辺にあった貝塚の中の古墳上に創立されたと伝えられています。小石川植物園は、御殿山古墳の所在地とは隣接する場所ですので、かなり近い距離の中に3基の古墳が存在した可能性が考えられます。また、簸川神社の土台となった古墳が御殿町古墳だったという可能性も考えられるところですが、このあたりの真相を突き止めるのはなかなか難しいようです。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/10/07(土) 21:17:05|
  2. 文京区
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「簸川神社」

「簸川神社」

 画像は、文京区千石2丁目の「簸川神社」を南から見たところです。
 この神社の祭神は素盞嗚尊で、第五代孝昭天皇の頃に、小石川植物園の御殿坂周辺にあった貝塚の中の古墳の上に創立されたと伝えられています。承応元年(1652)に白山御殿造営のため原町に移され、さらに元禄12年(1699)に景勝の地を選び、この地へ遷座したといわれています。八幡太郎源義家が参籠した古社で、中世に伝通院等を創建した了誉上人が当社を再興、江戸名所の一つでした。


「簸川神社」

 簸川神社社殿です。社殿を含めた境内建物は戦災により立ち木にいたるまで焼失して瓦礫の山となり、昭和33年(1958)に再建されたそうです。
 現在の簸川神社境内とその周辺には、古墳を思わせる痕跡は見当らないようです。


「簸川神社」

 画像が現在の「御殿坂」のようすです。
 簸川神社が創建された当時の古墳の所在地である「植物園の御殿坂辺り」とは、おそらくはこの坂を登り切った左側あたりかなという程度で、正確な跡地は全くわからなかったのですが、この坂の右側の、現在の東洋大学京北高等学校の敷地は「御殿町古墳」の所在地でもあるようです。ひょっとしてこの周辺には複数の古墳が存在したのか、それとも簸川神社の土台となった古墳が御殿町古墳と同一のものである可能性もあるのか、とても興味深い地域です。

<参考文献>
文京区神社総代会・東京都神社庁文京区支部『文京区神社誌』
現地説明版


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  1. 2017/10/06(金) 23:58:31|
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「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

 画像は、追分一里塚の跡地とされる文京区向丘1丁目1番地周辺を南東から見たところです。

 この場所は、旧中山道(現本郷通り)と日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があったといわれています。但し、この一里塚は明和三年(1766)に焼け、その後文化五年(1808)に庚申塔を建てたものの、これも文政七年(1824)の大火で石に刻んだ文字も消え、その後、地元の人が一里塚跡地に寒大神を祀り、『東京名所図会』には当時の高崎屋に隣接して建てられている寒大神が描かれているようですが、道路の拡張工事によってこれも取り除かれ、当時の面影をとどめるものはすでに残されていないようです。

 江戸時代の地誌『江戸砂子』にはこの一里塚について「黒塚」の名称での記述が見られ、
 追分ひがしの角に一里塚の榎あり、此つかなるか。昔の江戸の絵図に有。来歴しれず。日本橋よりの一里塚也。
 と記されています。
 そして、人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏が、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の「江戸砂子に見えたる古墳」の中で、この黒塚を取り上げており、
 更に追分の所に來ると、黒塚と稱するのがある。これには
 追分東の方に一里塚の榎あり、是れ塚なるか、實とすべき程の來歴知れず。日本橋よりの一里塚なり
 と書いて居る。これで見ると、一里塚に築いた塚であるか、其の以前からあつた所の塚であるか、これははつきり分らない。けれども黒塚といふ名前があるとすると、何等か古墳に關係があるやうに思はれる。

 と、この一里塚が黒塚という名称で呼ばれているのは古墳と関係があるからではないかと推測しています。

 果たして、古墳を転用して造られた一里塚が存在したのかどうかわかりませんが、(一里塚であれば対になるもう1基が存在したはずだし)塚は未調査のまま消滅しており、この一里塚が古墳だったかどうかの詳細はわかりません。


「追分一里塚跡」―文京区指定史跡―

 一里塚の跡地には、文京区教育委員会による説明板が設置されています。
 説明板には次のように書かれています。

追分一里塚跡(区指定史跡)
文京区向丘1-1
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として街道筋に1里
(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の
目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山
道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植え
られていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影
をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚
とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商
も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
―郷土愛をはぐくむ文化財―
文京区教育委員会            平成7年3月


 この角にある「高崎屋」は宝暦年間(1751〜1764)創業という、江戸時代から代々続く老舗なのだそうです。訪れた日曜日が定休日だったので買い物に入ることは出来なかったのですが、自販機の缶ジュースで一息つきました。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京堂出版『江戸砂子』
現地説明版


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  1. 2017/10/04(水) 23:55:45|
  2. 文京区
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