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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「富士神社古墳」

文京区「富士神社古墳」0

 前回は、文京区本郷7丁目に所在したとされる「椿山古墳」を取り上げましたが、寛永5年(1628)にこの椿山の富士浅間神社から勧請したと伝えられる神社が、今回紹介する「駒込富士神社」です。
 この神社の社殿が鎮座する土台の高まりは古くから前方後円墳ではないかと考えられており、『東京都遺跡地図』には「富士神社古墳」の名称で、文京区の遺跡番号15番の古墳として登録されています。

 今回はこの、「富士神社古墳」の探訪の記録です。


文京区「富士神社古墳」01

 画像は、文京区本駒込5丁目にある「駒込富士神社」を南から見たところです。
 この神社の御祭神は木花咲耶姫命です。旧加賀前田候の邸内(現東京大学構内)に、駿河の富士浅間を勧誘して祀られてあったものを、寛永5年(1628)にこの駒込の地に遷座したものといわれています。
 元々氏子を有せず、山嶽崇拝の各種富士講信徒の信仰の中心であったが、時代の返還とともに昭和7年、駒込天祖神社氏子の地元有志を中心として神苑講を結成。戦後に至って富士講を新たに組織して維持団体となして、江戸七富士の一つとして富士社特有の祭礼や植樹など山上・山下の神苑の整備や社務所他、付属建物の改築に努め、天祖・富士二社一体の努力を重ね今日に至っています。
 古墳といわれる高まりが、一帯どんな状況になっているのか、早速まずは神社を参拝しましょう。


文京区「富士神社古墳」02

 画像が、南から見た「富士神社古墳」です。
 鳥居をくぐって参道をまっすぐに北に歩いてきたところです。
 はっきりとした高まりが見られますが、このマウンドが果たして古墳なのでしょうか。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵博士は、昭和2年(1927)発刊の著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で、富士神社古墳の調査のようすを記しています。
 同書の70ページには
 それから駒込の富士前町にある富士神社に行つたが、神殿の鎮座して居る高地はこれも明らかに古墳である。此處の古墳を能く注意して見ると、寧ろ前方後圓式の瓢形を呈して居る。今境内にはこの古墳だけしか無いけれども、昔は此の周圍に陪塚として丸塚が存在して居つたものと見るべきである。恐らく後世之を取崩して仕まつたのであらう。兎に角殘つて居る古墳を見ると、相當に大きな古墳であつて、どうしてもさういふ丸塚が伴つて居つたものと見なければならぬ。
 と記されています。
 鳥居龍蔵博士は、富士神社が鎮座するマウンドは瓢形の前方後円墳であり、また周辺には円墳も存在するのではないかと推測していたようです。


文京区「富士神社古墳」03

 ちょっと角度を変えて、南西から見た富士神社古墳です。
 富士塚らしく、富士講に関係する石碑が多く見られます。
 この角度から見ると、円墳風にも見えます。


「富士神社古墳」04

 さらに角度を変えて、南東から見た富士神社古墳です。
 この角度から見ると、画像の右奥に、わずかに前方部らしき高まりが伸びているのが見えます。
 かなり後世の改変を受けてはいるようですが、前方後円墳の名残なのでしょうか。。。
 
 ちなみに、富士神社古墳から北に300メートルほどの文京区と豊島区の区境のあたりには、「駒込古墳」なる古墳が登録されています。鳥居博士も、この周辺に陪塚として丸塚(円墳)の存在を想定していたようですが、かつては多くの古墳が造られて、古墳群を形成していたという可能性もあるのかもしれません。
 ただし、学術的な調査により古墳が発見されたという事例は今のところ存在しないようです。


文京区「富士神社古墳」05

 全体像が見えるのはこの角度かなと思われます。
 おそらく画像の左側が後円部、右側が前方部ではないかと思われますが、真相はわかりません。草木が茂ってしまう前の、冬に行けばよかったと後悔。。。

 昭和42年(1967)に文京区役所より発行された『文京区史』には「これを古墳と断ずる積極的な手がかりはないと考えている」と書かれているのですが、『文京区の文化史と史跡』には「土の状態から見て盛り土らしく、しかも注意すると埴輪や土師器の小破片がその表面に見られることから、もと古墳であったことはほぼ間違いないであろう」とも書かれています。また、『古墳横穴及同時代遺跡探訪記』では「本郷台古墳」という名称で取り上げており、後円部上の社殿の裏側において、赤茶色の邰土の中に小石等が混じった焼物の破片が落ちており、平らな部分にはハケ目のようなスジが僅かに見てとれ、埴輪の破片なのかも知れないと推理しているようです。


文京区「富士神社古墳」06

 ちなみに『本郷區史』には、昭和12年以前の富士神社古墳の写真が掲載されています。
 現在の富士神社古墳の墳丘はかなりの急斜面で高さがあるように感じますが、昭和初期はまだ墳丘の斜面がなだらかで、前方後円墳らしき形状が残されていたようです。
 おそらくは、古墳の周囲で区画整理が行われるたびに削られて小さくなり、また社殿の改築のたびに改変されて現在のような形状になった、ということではないかと思われます。


文京区「富士神社古墳」07

 画像が埴輪の破片かどうかはわかりません(違うと思います)が、埴輪片の存在が事実であれば、当然ながら富士神社古墳は埴輪を伴うことになりますので、古墳で間違いないということになります。
 本郷の台地にも前方後円墳が存在したのですね。。。


文京区「富士神社古墳」08

 境内には、文京区教育委員会により説明板が設置されています。

 富士神社 本駒込五ー七ー二〇
 富士神社はもと、旧本郷町にあった。天正元年(一
五七三)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二
人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士
浅間社を勧請した。
 寛永六年(一六二九)加賀藩前田候が上屋敷(現東
京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間
社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示
改正まで本富士町といっていた。
 社伝によれば、延文年間(一三五六~六一)には既
に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったとい
われる。この塚は一説によると、前方後円の古墳とい
われる。
 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず
富士講組織で成り立っていた。
 山岳信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、
富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲
間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために
当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開
きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣
でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士
さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士
さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、
白山神社の「白山の富士」があった。
ー郷土愛をはぐくむ文化財ー
                文京区教育委員会

               昭和五十六年三月月


文京区「富士神社古墳」09

 石段を登った墳頂部の様子です。
 現在の拝殿、本殿、奥殿は戦災により焼失しており、昭和36年に再建されています。この再建に伴い昭和35年に発掘された軒丸瓦を調査したところ、寛永期から寛文期(1624〜1673)のものであったそうです。この調査結果は、富士神社が寛永5年(1628)に椿山から勧請したとされる傍証となるようです。


文京区「富士神社古墳」10

 南西からの画像です。
 境内の奥が低くなっていますが、この奥の部分が前方部ということになるかもしれません。


文京区「富士神社古墳」11

 後円部上から前方部を見たところかもしれません。


文京区「富士神社古墳」12

 墳丘斜面には、富士山麓にある溶岩洞を模したとされる「胎内洞穴」が見えます。横にあるのは庚申塔かな?


「富士神社古墳」16

 南西から見た富士神社古墳。
 後円部(かもしれない)一角が倉庫により大きく削られています。


文京区「富士神社古墳」13

 南東から見たところ。
 前方部ということになるかもしれません。


文京区「富士神社古墳」14
 
 北東から見た富士神社古墳。
 左手前が前方部、右奥が後円部ということになるかもしれません。。。


文京区「富士神社古墳」15

 富士神社は元来氏子を有せず、各種富士講信徒の信仰の中心でしたが、時代の変換により、駒込天祖神社氏子の地元有志を中心にして、昭和7年に神苑講を結成。戦後に新たに富士講を組織して維持団体として、江戸七富士の一つとして富士社特有の祭礼や植樹、山上、山下の神苑の整備や社務所等の改築が行われています。

 富士神社の御朱印は、本駒込3丁目40−1の駒込天祖神社でいただきました。

<参考文献>
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周圍』
文京区教育委員会『文京区の文化史と史跡』
文京区役所『文京区史』
文京区神社総代会『文京区神社誌』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
竹谷靭負『富士塚考 続』
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  1. 2020/04/24(金) 20:43:08|
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「椿山古墳」

「椿山古墳」1

 「椿山古墳」は、文京区本郷7丁目の東大赤門内に存在したといわれる塚です。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、大正5年(1916)に当時の東京市内に残存する古墳の巡回調査を行い、この椿山古墳も訪れています。
 昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の67ページ、「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で、
 先づ第一に帝國大學の赤門内、史料編纂所の後ろにある所の椿山を見ることにした。これは丸塚であつて、大きさは日ヶ窪の古墳に似て居る。この古墳の上には椿の木が非常に繁茂して居る、如何にも椿山という名前に副はしい。其の中に古木も混ざつて居る。
 と記しています。
 鳥居博士は「椿山」は古墳であり、しかも墳形は丸塚、つまり円墳であると断定しています。
 しかし、埋葬施設などの遺構や出土遺物についての記載はなく、椿山が古墳であると断定できる

 その後、明治19年に発行された『東京人類学雑誌』には、この椿山の発掘の様子が記されており、
 次に古墳の事を述べて見ます。十八年の夏と私は記憶して居ります。丁度大學の夏休暇の事で福家梅太郎君は大學の赤門内にある椿山はどうしても古墳であるらしいと云はれ、終には豊城入彦命に関係の墓ではあるまいかと云はれました。兎に角掘つて見やうと云ふことになり總理に願つて掘る事に成りました。發掘中或日私は遺物發見の監督を仰せつかり、一日山の上に椅子を持ち出して見てゐました。がつひこゝからは何も出ませんでした。下の方から切石が二三個出ましたがこれは宮などの壇石と思はれるものでした。
 と書かれています。


「椿山古墳」2

 画像が、「椿山古墳」の跡地周辺の様子です。
 古墳らしき痕跡は全く残されていないようです。

 最新の『東京都遺跡地図インターネット提供サービス』では、この椿山は文京区の遺跡番号37番の「古墳」として登録されていますが、特に古墳に関係するような遺物の出土はなく、「宮などの壇石と思われるような切石が2、3個出た」という記述からすると、どうやらこの椿山は残念ながら古墳ではなく、何か宗教歴な目的で築造された塚だったのではないかとも感じさせます。。。


「椿山古墳」3

 椿山にはかつて駿河の富士浅間神社を勧誘して祀られていました。江戸時代には「富士山」、「富士塚」などと呼ばれていたそうです。駒込富士神社(富士神社古墳)は、寛永5年(1628)にこの椿山の富士浅間神社から勧請したという伝承が残されており、これがこの地域の「元富士町」という町名の由来ともなっているようです。
 その後、明治4年に本郷の富士山やその一帯は国に接収され、椿山の富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西の一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転しました。
 前田家が昭和3年に駒場へ移転したのちは、この富士浅間神社は元富士会という地元の町会の管理下に移されており、東大構内に残された椿山(富士塚)も、第二次世界大戦後の昭和49年(1974)には取り壊されてしまいます。
 というわけで、画像が現在の富士浅間神社です。


「椿山古墳」4

 富士浅間神社の祠です。
 唯一残された「椿山」の痕跡と言えるかもしれません。


「椿山古墳」5

 祠の東隣には「富士浅間大神」と刻まれた石碑が建てられています。


「椿山古墳」6

 画像は、東大キャンパス南にある竜岡門です。名称は門周辺の旧地名である「龍岡町」に由来するそうです。
 この竜岡門の周辺にもかつて古墳らしき塚が存在したという言い伝えがあるようですが、詳細は不明。正確な所在地や由来等まったくわかりませんでした。
 文京区内で学術的な調査により古墳であると断定された遺構は存在しないようですが、この地域には多くの塚の存在もあったようですし、とても興味深いです。

 次回、「富士神社古墳」に続く。。。

<参考文献>
有坂鉊藏「日本考古學懐舊談」『東京人類学雑誌』第38巻 第5号
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周圍』
中里竜瑛『東大周辺むかしがたり』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京大学埋蔵文化財調査室『経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告』


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  1. 2020/04/23(木) 23:55:31|
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「白山神社古墳」

文京区「白山神社古墳」1

 画像は、文京区白山五丁目の「白山神社」を東から見たところです。

 通称「はくさんさま」とも呼ばれるこの神社の祭神は菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冊命です。
 縁起は古く、大化の改新後(645)中央における神社制度の整備の気運の動きにより、延長6年
(928)の延喜式内社、武蔵国四四社の名につづき建立された四社の一つに天歴2年(948)、加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元岡本と号して現在の本郷元町に勧請されたといわれています。
 建武4年(1338)年に足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜられ、永百貫文の御判物を賜わっています。
 元和2年(1616)年に徳川秀忠公により巣鴨原の小石川白山御殿(現在の小石川植物園内)へ遷座、その後慶安4年(1651)に四代将軍徳川家綱公の用地となり、明暦元年(1655)に現在地に移奉しています。


文京区「白山神社古墳」2

 白山神社社殿です。

 この神社の敷地内には「白山神社古墳」と呼ばれる古墳が所在します。
 本殿の右側、社務所の奥に富士塚があり、この塚は古墳であるといわれています。
 『東京都遺跡地図』には、文京区の遺跡番号23番の古墳(円墳)として登録されています。


文京区「白山神社古墳」3

 画像が「白山神社古墳」です。
 この「白山富士」を古墳であるとする先駆けとなったのは、鳥居龍蔵氏です。
 大正五年(1916)、2台の自動車に分乗して東京市内にある古墳の巡回調査を行なった鳥居氏は、昭和二年に発刊の著書『上代の東京と其周圍』の中で、この白山神社古墳について次のように記しています。

 細川男爵邸内の巡視を終り、去つて小石川の白山神社の境内に行つた。此處にはお富士山と稱する小高い所があつて、これも正しく古墳である。此の古墳は今度崩されたのであるが、當時はまだ壊されながらも形は残つて居つた。白山神社の所謂お富士山と稱するものは、即ち古墳であつて、多少形は變化して居るけれども、古墳であることは疑ひない。


文京区「白山神社古墳」4

 気になるのは「此の古墳は今度崩されたのであるが、當時はまだ壊されながらも形は残つて居つた」という記述です。
 この富士塚の麓には富士講の石碑が2基あり、このうちの1基には「文政五壬牛歳五月吉祥日造立」と刻まれており、この富士塚が文政期に築造された根拠となっているようです。また、『丙戊書上』の「白山権現社」の条の「末社」の項に「古来は小祠ニ御座候処、文化三年(後略)」とあり、少なくとも富士塚は文化3年(1816)以前には存在していたと想定されます。
 しかし、岩波小一郎氏は、昭和50年発行の『あしなか』第148号の「東京の富士塚」の中で「現在は山らしい形は見当たらない」と記述しています。
 ひょっとしたら古墳は大正時代に一度削平されており、大正から昭和にかけては消滅していて存在しなかったということなのでしょうか?
 それともまさか、単に見落としただけだったとか。。。


文京区「白山神社古墳」5

 北西から見た白山神社古墳です。
 この塚を古墳として見学するなら、やはり草が枯れて墳丘の全貌が見える冬がお勧めなのです。
 ただし、春になるとこの一帯は、古墳の墳丘上も含めて紫陽花が見事に咲き乱れます。
 毎年6月には一週間ほど「あじさい祭り」が実施されていて、古墳の敷地もこの時期のみ解放されて、墳丘内に立ち入ることができます。(感覚的には、紫陽花を観賞しながら浅間神社を参拝する、という感じでしょうか。古墳を見学に来たという人はいないかもしれません。多分。笑。)


文京区「白山神社古墳」6

 南東から見た白山神社古墳。
 周囲は宅地化が進んでいます。


文京区「白山神社古墳」7

 さて、ここからは、毎年6月に行われている「文京あじさい祭り」での白山神社古墳の様子です。
 ちなみに私が見学に訪れたのは今から3年前、2017年です。

 普段は施錠されている墳丘への入り口が解放されています。
 立ち入ることができるのは、毎年「文京あじさい祭り」が行われている9日間のみです。
 紫陽花が咲き乱れて、冬のイメージとは全然違いますね。


文京区「白山神社古墳」8

 参道を登ってみます。
 さすがにこの期間中は多くの人で賑わっていますね。


文京区「白山神社古墳」9

 私が訪れた日は八分咲きといったところでしょうか。
 あじさい祭りは梅雨期に開催されるのですが、この日は運よく晴天に恵まれました。


文京区「白山神社古墳」10

 墳頂部も人でいっぱいです。
 私の普段の古墳巡りは、基本的に人が誰もいないパターンが多いのですが(笑)、あじさい祭りでの白山神社古墳は活気のある感じです。


文京区「白山神社古墳」11

 墳頂部に祀られている浅間神社の祠。
 今年のあじさい祭りは、予定では6月13日の土曜日から21日の日曜日まで開催されるようですが。
 今の状況だと、予定通りの開催はちょっと厳しいのかな。


文京区「白山神社古墳」12

 今日よりも明日が少しでも良くなりますように。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周圍』
文京区神社総代会『文京区神社誌』
文京区教育委員会『文京区の文化史と史跡』
文京区役所『文京区史』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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  1. 2020/04/18(土) 20:27:26|
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「曙町古墳(鶏声塚)」

「曙町古墳(鶏声塚)」

 「曙町古墳」は、文京区本駒込1丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、文京区の遺跡番号13番の古墳(円墳)として登録されています。

 この場所はかつては土井大炊頭利勝の下屋敷だったところで、この地域の地名の由来ともなったある伝説が残されているようです。江戸時代の地誌『江戸砂子』にはこの伝説の詳細が記されており、
 「鶏声ヶ窪 駒込竹町の先。むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、夜ごとに鶏の声あり、あやしみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御やしきの内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のにはとり掘出せり、よつてかく名に成りたるといふ。」
 と書かれています。
 この言い伝えが、一帯のかつての地名である「鶏声ヶ窪」の名称の由来ともなっており、そしてこの土井屋敷には「鶏声塚」と呼ばれる塚があったといわれています。
 その後、明治2年のこの地域の町名はこの「鶏声」の意味からとって「曙町」とされており、「曙町古墳」の名称はおそらくこの町名からつけられたもので、鶏声塚と曙町古墳は同一の塚を指しているものと考えられます。(鶏声塚古墳でいいじゃないかよ、と思うのですが。)

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、昭和3年(1927)に発刊した、著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中でこの鶏声塚を取り上げられており、
 此處の巡視を済まし、それから駒込曙町の土井子爵の邸内に稲荷を祀つて居る小丘の所に行つたが、此の丘も無論古墳であつて、丸塚である。
 と、鶏声塚は古墳であると断定しています。

 画像の、道路が左に折れ曲がった右側あたりが曙町古墳の跡地とされる場所です。学術的な調査は行われないまま古墳は消滅していますので、埋葬施設や周溝等の詳細はわかりません。
 こうした、名の知られた存在だったであろう古墳の前で道が折れ曲がっているという光景はかなり多く見られるように思うのですが、古墳を道標にしてまっすぐに歩いてきた後、古墳の前で次の目標に向かって少し方角を変えて歩いていくような、そんな場所だったのかもしれませんね。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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  1. 2017/10/27(金) 09:04:13|
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「実盛塚」

「実盛塚」

 画像は、文京区湯島3丁目にある「実盛坂」を東から見たところです。
 この坂は、湯島天満宮の青銅の鳥居からお茶の水方面にまっすぐ向かった、中坂と三組坂の中間を東に下る石段坂です。この坂下方面には首洗いの井戸とともに「実盛塚」と呼ばれる塚があったと伝えられています。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、江戸時代の地誌『江戸砂子』の中に、原始時代及びそれ以後の古墳と考えられる遺構が掲載されているとして、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』において、「江戸砂子に見えたる古墳」という論文を発表しています。この中で、この実盛塚も取り上げられており、
 更に本郷の方へ來てはどうであるかといふと、本郷では不忍池の上、丁度今日の岩崎家の邸内あたりに、實盛の墳といふのがある。これには
 湯島の下、藤枝帶刀殿やしきの内にあり
 と書いて居る。これは果して齋藤實盛の墓であるか、固より分らないけれども、古墳が湯島の下にあつたことは、是に依つて考へることが出來る。

 と記されています。

 「湯島の下、藤枝帶刀殿やしき」を追いかけると、実盛塚の所在地を特定することが出来たかもしれませんが、塚が残されている可能性がほとんどなく、また段丘を下った低地という古墳の可能性をあまり感じさせない所在地ということもあり、あまり深追いをしませんでした。
 鳥居博士が主張するように実盛塚は古墳だったのでしょうか。。。


「実盛塚」

 この坂を上りきった歩道に文京区教育委員会による説明板が設置されています。
 この説明板には「実盛塚」についての記述も見られ、次のように書かれています。

           実 盛 坂
                               湯島三丁目20と21の間
 『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当
実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸が
あったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれ
から、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、
平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)
の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎三盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く
染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の "実盛塚" や "首洗いの井戸" の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、
実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
                       文京区教育委員会    平成14年3月


<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周圍』
現地説明版


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  1. 2017/10/25(水) 01:15:36|
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