
画像は、中野区本町2丁目に所在する「成願寺」です。
山号を多宝山と称す曹洞宗の寺院で、開基は正蓮居士、俗名中野九郎(中野長者)で、開山は応永年間といわれています。
このお寺には、中野長者正蓮、つまりは成願寺の開基鈴木九郎の墳墓であるといわれる円形の塚が所在したとされています。
塚は成願寺の背後の丘陵上の台地縁辺部にあり、周囲には壕のあとがあったともいわれています。
Googleマップ等で確認したところでは、すでに塚は開発により消滅しているようなのですが、この塚が古墳ではなかったという妄想の真偽を確かめるべく、成願寺を訪れました。

さて、「鈴木九郎長者塚」の由来を知るためには、このお寺が建立されたいきさつについて理解しなければなりません。
成願寺HPの「
成願寺の歴史」にこのお寺にまつわる伝承について書かれていますので、転載させていただきました。
成願寺の歴史
およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。
そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。
食べもののない日が何日も続くような、たいへんまずしい暮らしでした。九郎の馬もやせていて、あまり高くは売れません。
ある日九郎はやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。
「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」
大観通宝というのは中国のお金です。そのころは日本でも、中国のお金が使われていたのです。
さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったより、ずいぶん高く売れました。
(これは観音さまのおかげじゃ)
九郎は大喜び。ところが受け取ったお金をよく見てみると、みんな大観通宝だったのです。
(これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・)
九郎は迷いました。約束どおり、観音さまにお金をあげてしまうと一銭も残りません。せっかく千葉まで馬を売りにきたのに、それではあんまりです。
でも九郎はこう思いました。
(やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。
それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。(後略)

江戸時代から昭和初期にかけての地誌類には、この成願寺の塚について記されている文献も少なくないようです。
江戸時代の地誌『江戸名所図会』には
「中野長者正蓮墳墓 同じ境内叢林の中にあり、開基鈴木九郎の墓なり。其石塔今崩れて半土中に埋れてあり。紫一本といへる冊子に、武州多摩郡中野の中、正観寺といふ薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記してありと云云。昌正同音なり。同巻高田百八塚の条下と応照せてみるべし。」 とあり、また『江都近郊名勝一覧』には
「中野長者の墓 成願寺の境内に在り。長者は名を正蓮といふ、武州多摩郡中野正観寺薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記したり、則この人也といふ」 とあり、さらに『嘉陵紀行』には
「其うしろ乾に小高き塚あり、周りにから壕のあとあり、墳につゝぢ二三株生ず、其下に小さき五輪のかさニツ、半土に埋れてみゆ、伝ていふ、性蓮長者といふものゝ墳也と、又この山も、其人のすみし跡也と、又この山も、其人のすみし跡也と云…」 とあり、成願寺の裏山に存在する塚とから壕のようすが描かれています。
また、昭和6年に発行された『東京淀橋誌考』には
「開基、中野長者正蓮の墓は、寺背の丘陵松樹の傍らに在り、五輪の塔にて高さ五尺許、正面に梵字を刻するのみ他に文字を見す。前に一尺許の板碑に「明徳三年七月二十八日」と鐫れるがありたるも、正蓮が成願寺を創立せしは、應永年間にして其の死は永享十二年にあり、而して明徳は其の以前の年號なるは疑ふべし、惟ふに此の板碑は長者の墓に関係なきものならんか、墓は大正十四年五月、東京府史蹟bに定められ左の標示を建つ。
史 蹟 中野開拓 鈴木九郎長者塚
大正十四年五月 東 京 府 ちなみに、神田川左岸の同じ台地上縁辺部となる、この成願寺の北方数百メートルの地点には「塔山古墳群」が存在します。
多くの郷土史本の記述やこの鈴木九郎長者塚が築造された立地からすると、やはりこの鈴木九郎長者塚は実は古墳だったのではないか、と妄想したくなってしまいます。。。

お寺の墓地内で塚の跡地と想定される裏山を見上げてみると、塚状に盛り上がったようにも見える一角が視界に入りました。
江戸時代の地誌類に描写からすると、成願寺の本殿の背後の裏山を北方に登りきった台地の縁辺部が塚の跡地ではないかと想定されます。斜面の中腹であるこの場所が塚の跡地とは考えにくいところですが、それでもやはりこの目で確かめなくてはなりませんね。笑。

近寄ってみました。
塚状に盛り上がって見えるものの、特別何かが祀られているというような状況でもないようです。
墓地内の築山なのか、単なる自然地形なのでしょうか。。。

南東から見た塚状地形。
怪しい地形であるようにも思えますが、お寺でお聞きしたところでは、少なくとも鈴木九郎長者塚とはなんの関係もないようです。


出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194185&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月3日に米軍により撮影された鈴木九郎長者塚跡地の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
この塚の学術的な調査は行われていませんので、塚の性格や正確な所在地については知る由もないのですが、塚の跡地ではないか、と想定したあたりに円形の影を見つけました。
画像の中央に大きな円形の影、その左にも小さな円形の影が見えるように思えます。。。
第二次世界大戦後、空襲により焼け野原となった後の写真です。
これが鈴木九郎長者塚の周囲に巡っていたという「から壕のあと」なのでしょうか。。。

塚の跡地と想定した周辺の様子です。
空中写真の影を塚の跡と推定するならば、道路が突き当たったあたりが塚の跡地となります。
残念ながらすでに開発が進み、塚の痕跡は何も見られません。

画像右側あたりが塚の跡地でしょうか。
やはり塚の痕跡は何も見られません。。。

ここが、成願寺境内に所在する、現在の「鈴木九郎長者塚」です。
中野長者である鈴木九郎の伝承については、昭和の時代になって、ある驚愕の事実が判明します。
成願寺の開山、川庵宗鼎像の開山像の解体修理が昭和55年に行われますが、この際に像の胎内から人骨が発見されます。開山像は江戸時代初期に造られた70センチほどのお像で、胎内に収められていた骨は、粉々といってもいい状態の数百個に及ぶ細片であったそうです。これを鈴木尚東大名誉教授による約10ヶ月の鑑定の結果、熟年男性と若い女性の二体の人骨に、犬の骨が混ざっていることがわかりました。
男性の骨は、頭骨の縫合の具合やその状態からして筋骨たくましい熟年男性であると想定され、また女性の骨は、その形状から室町時代の女性と推定され、元来小柄である室町時代の女性の中でもさらに小柄であったようです。
これらの骨が大切な開山像に内蔵されていたということは、この成願寺において重要な人物の遺骨であることは間違いなく、また愛娘である小笹は結婚する前に亡くなったとも伝えらており、この伝説と人骨の鑑定結果はピタリと一致しています。
鑑定された骨片が中野長者と小笹の遺骨である可能性は、かなり高いのではないかと考えられます。。。

中野長者である鈴木九郎のお墓です。
お寺でお聞きしたところでは、第二次世界大戦中の空襲によりこの一帯は焼け野原となり、裏山にあったという長者塚も灰塵と化したそうです。

画像中央は、かつて丘陵上に所在した「鈴木九郎長者塚」に建てられていたという石碑です。
『史蹟 中野開拓 鈴木九郎長者塚 東京府』、背面には『大正十四年 五月』と刻まれています。
かつては塚が東京府の史跡として指定されていたことがわかります。
戦後になって、この石碑のみが現在地に移されたようです。
唯一の塚の痕跡ですね。。。



さて、ここからはわりとタイムリーな画像で、最近再訪した時の画像です。笑。
この成願寺の裏山には、第二次世界大戦中に使用されたという防空壕が残されています。
事前に申し込みをして、この日は防空壕の内部を見学させていただきました。
画像が防空壕の入り口で、ここから内部に入ることができます。

防空壕内部のようです。
防空壕の内部は、総延長30数m、総面積は約80平方メートルです。
内部は堀きりで中が剥がれだし、また上の木は大きく崩落の危険があったことから平成12年(2000)に補強工事が行われており、画像に見えるように壁面が全て鉄板によって保護されています。
戦争当時は、アメリカ空軍の空襲のたびに近隣から多くの人が逃げ込んだそうです。
また、空襲により堂宇や仏像は全焼しましたが、かろうじてご本尊様、ご開山さまと古文書の一部が防空壕によって守られたそうです。
東京都内で、現代まで残されていて、しかも内部を見学できるという防空壕はなかなか稀有で、貴重な存在です。
壁にくり抜かれている空間には、仏像を安置しようとしたそうですが、実際には水漏れが激しく、また木の根が突き出してきたりと、計画通りにはいかなかったそうです。

内部はかなり広くてびっくりです。
中に本堂もあり、風呂や雪隠も備えています。
5月25日夜の空襲の際には、南からの火の手をおそれて北へ転進したところ、逆から火が襲い犠牲になったという悲しい話もあるそうです。境内では、焼かれて骨だけになったしゃがみこんだ遺体が三柱もあったそうです。
以前、5月14日の『古墳なう』の「塔山古墳群」の回でも、焼かれて変形した庚申塔の写真を紹介しましたが、この周辺はかなり激しい空襲が行われたといわれています。。。

防空壕内部の一室には、謎の像と温度計が置かれていました。
内部の気温は22度です。。。

空襲の際には大勢でここに逃げ込んで、皆でガタガタと震えていたのかもしれませんよね。
内部に電気がついていたかどうか微妙だし、想像すると恐ろしいです。。。

再訪した日に御朱印をいただきました。.゚+.(・∀・)゚+.



周辺を歩くと、「長者」の名称がそこかしこに残されています。
画像は「長者橋」。
下を流れているのは神田川です。

「中野区立長者橋公園」。

成願寺の周辺は、中野区の遺跡番号72番の「成願寺遺跡」として登録されており、古墳時代から奈良時代にかけての横穴墓が数多く存在したようです。
画像の周辺にも横穴墓が存在したはずですが、痕跡は全くみられません。
むしろ、成願寺の境内にこそ残されているかもしれませんね。。。

画像は「象小屋の跡」です。
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。
当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また、象にちなんだ調度品、双六や玩具類
もさかんに作られました。
中野に来た象は、享保十三年(1728)中国人貿易商鄭大威が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち、中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが、寛保二年(1742)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。(中野区教育委員会説明板より)
というわけで、「鈴木九郎長者塚」が古墳であったか否かの真相はわかりませんでした。
今、両国にある江戸東京博物館で「東京府史蹟」という地域展を開催しています。
ひょっとしたら、「鈴木九郎長者塚」の往時の姿を写真で見られるのではないかという期待があって見学に行きましたが、残念ながら取り上げられていなかったようです。
展示は「館蔵及び寄託資料で「史蹟名勝天然紀念物保存法」成立当時における東京府史蹟の一部を紹介する」ということでしたので、大正14年5月に指定されたという「鈴木九郎長者塚」は含まれていなかったのかもしれません。(ちなみに「発掘された日本列島2020」なる企画展も開催されています。この時期とっても空いていますので、ゆっくり見て回るチャンスかも)
昭和初期までは存在した塚ですので、もう少し深追いをすれば当時の塚の写真が見つかったかもしれませんが、これは今後の宿題ということで。。。
<参考文献>
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
小林貢『中野長者の寺・成願寺』
中野区教育委員会『中野を読むⅠ 江戸文献史料集』
曹洞禅 多宝山 成願寺『「戦争体験」「成願寺界隈の大正・昭和」について』
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- 2020/07/07(火) 23:39:19|
- 中野区の古墳・塚
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画像は、中野区中央1丁目の中野区立第十中学校の跡地です。
これから、第三中学校と第十中学校の2校が統合して新しく「中野東中学校」となり、図書館や子どもセンターも入るということですが、実はこの場所は「塔山古墳群」と呼ばれる、複数の古墳が存在したとされる場所でもあります。
この工事が行われていることを知り、今年2月頃に見学に立ち寄ってみました。
この場所にはなんと、「工事現場」の見学エリアが設けられており、ベンチまで置かれていす。
自由に入って工事のようすを見ることができるようになっていました。
私が訪れた際には基礎工事が行われており、見学エリア内には説明板が張られていました。

工事現場のようす。
ちょうどお昼を過ぎたところで、休憩に入っていたようです。
一番気になるのは発掘調査が行われたのかな?というところですが、これは今のところ未確認です。
東京都教育員会より発行された『東京都遺跡地図』によると、中野区の遺跡番号66番に「塔山古墳群」が、また同77番には「包蔵地」としても登録されています。古墳については5基の円墳の存在が記載されており、1号墳が66-1番に、2号墳が66-2番に登録されています。3~5号墳については詳細は不明とされているようです。

山手通りから見た工事現場のようすです。
この古墳群は、昭和29年(1954)7月4日と8月1日に後藤守一氏と明治大学考古学研究室により調査されています。
当時の記録によると、敷地内に所在するとされる5基の古墳の測量調査が行なわれ、1号墳と2号墳の2基の発掘が行われたようです。5基のいずれも径15~20mの円墳であるとされ、1号墳は高さ3mを測り、封土には4層にわたる水平な層序の存在があるためこの塚が人口的な盛土であることは確認されているものの、埋葬施設は認められなかったようです。ただし、土層に若干の硬い部分があり、そこから鉄釘数本と直刀片が発見されていることから、これが主体部の遺構ではないかとも考えられているようです。
これに対して2号墳は規模が小さく、高さ1.5mの円墳であると考えられています。この2号墳からは柱状の石を組み合わせた門扉様の遺構が発見されたそうですが、これは古墳の主体部とは無関係であると考えられているようです。
1、2号墳ともに周溝や埴輪などについての記述はなく、また3~5号墳に関してはなんの記録も残されていないようなので、これ以上の詳細はわかりません。

画像は、この場所が中野区立第十中学校だった頃のものです。
2014年の3月ですからちょうど6年ほど前の写真です。
この画像からは昭和の香りがプンプンしますが、工事が終わると最先端の中学校になってしまうんでしょうね(笑)。
いや、もちろんいいことですが。。。
この旧十中の敷地には、西南隅には「富士」、西北隅には「日光山」、東北隅には「筑波山」、東南隅には「愛宕」の山を築き、そのほぼ中央に三重の塔が建てられていました。その後方には宝仙寺の歴代住職の墓があり、園内各地には四国八八ヵ所に擬したいくつかの石碑が配置され、さらに西南の片隅には寛永12年4月のお日待寄進碑が建てられていたそうです。
また、南側には地蔵堂があり、その中に等身大の八辻子育地蔵尊がまつられ、二四日の縁日には参拝客で大変賑わったそうです。
大正期の記録によると「老杉林立せる一郭 地域敢て広かざるも樹間に丹塗りの三重の塔屹然と建てる風情 まことに塵界を脱するの思いあり 殊に夏季の納涼散策に、冬季白雪の頃の景色最も圭なり此は昔宝仙寺ご朱印地なり 除地一町二反八歩」と記されており、『江戸砂子』には「宝仙寺 むかしは大寺なりしが また近きに中野の塔といいて三層の塔あり 昔は宝仙寺の境内なりしという 今は五ー六町の外にありて一構えの地なり その間は畠村となりて境内の形もなし」と記されています。
この敷地の詳細と見取り図が掲載されている文献を複写しておいたはずなのですが、最近の引っ越しの際に紛失してしまいまして詳しくわかりません。おそらく、敷地の四隅に存在した富士、日光山、筑波山、愛宕山が古墳であったと想定されます。

かつての校庭のようすです。
古墳らしき痕跡はすでに失われています。
実はわたしには、この十中出身だという知人がいました。
10年ほど前だと記憶していますが、この知人に色々と話を聞いてみたことがあります。
古墳については、残念ながら痕跡すらみたことも話を聞いたこともないそうで、中庭に古墳らしき高まりがない?とも聞いてみましたが、ない!ということでした。残念。。。
むしろ学校の七不思議的な話を聞いて、こちらのほうがよほど面白かった記憶があります。
残念ながら内容をよく覚えていないのですが、一つだけ覚えているのが、ある校舎の中の階段が、かつては地下まで伸びていたかのような形状になっていて、階段の手すりがそのまま地下まで埋まっていたそうです。で、これにまつわる怖い話があったように思うのですが、これは全く思い出せません。
彼女が今どうしているかわかりませんが、20代前半の歌唱力抜群の美人さんでした。
もっと詳しく聞いておけばよかったですよね。
「このあたりは地元では「塔の山」っていうんだよ?」と教えてくれました。。。

さて、何か古墳の痕跡が残っていないものか、周辺をぶらりと一周してみます。
旧十中の西側、道が二股に分かれた三角地には「白金龍昇宮」があります。
白金龍昇宮由来
白 金 龍 昇 宮
日本の国土は龍体の姿をしておりますので
このお宮には、昭和二十四年中野区城山町に
現れました黄金の龍を国土の神としてお祀り
してあります。
国土を祀らずしては平安の来るはずもあり
ません。ここに日本の国土を祀り国家の
安泰をはかり世界人類の幸福をお祈り
しております。
七 曜 の 心 霊
日月火水木金土の七曜も、このお宮にお祀り
してあります。七曜は世界共通の生きながらの
神で生命の根源でありますので人類はもと
より万物にとって一日もなくてはならぬ神々です
ここにお祀りして世界平和と人類の幸福を
お祈りしております。
建立者 大日入来不動明 この西側を通る山手通りは、10年くらい前までず~っと工事をやっていましたよね。
重要な幹線道路であるにも関わらず、頻繁に流路が変わって走りにくいし、騒々しいし、景観も良くないイメージがありましたが、整備が終わってからは本当に走りやすくなって、景観もとてもよくなりました。。。

北に10メートルほど進むと、平入型式の2m×1.5mメートルほどの小さなお堂が見られます。
このお堂には不思議な形状の石造物が祀られています。

画像が、お堂に祀られた石造物です。
まるで異形のオブジェといった印象ですが、なんと!この御尊体は庚申塔なのです。
第二次世界大戦時の戦禍はこの地域にも及び、昭和20年5月の空襲による被害は甚大なるものがあったそうですが、この空襲により、かつての庚申塔は石の棒同然に変えられてしまったそうです。
火で燃やされると石はこうなってしまうのか?と驚きますが、それでもこの庚申塔が今でもこうして立っていることは貴重です。
ありがたいことに、古い郷土史本にこの庚申塔について記録されており、『中野町誌』によると、この塔には「宝永五戌子十月吉日 奉供養庚申講為二世安楽」と刻まれていたといい、彫像は青面金剛で笠付の円筒形であったようです。
こういう、戦争の悲惨さを伝えるエピソードこそ後世に伝えるべきなのではないかと思うのですが、ぜひ説明板を立ててほしいですよね。。。

敷地の西北隅には、大きな文字で「三重塔跡」と刻まれた記念碑が立てられています。
「日光山」を模した塚が存在したと想定されるあたりですね。。。
この三重塔については江戸時代の文献等にも記載があり、その建立について中野長者であるという伝承や記録が残されています。この300メートルほど南には中野長者開基という「成願寺」があり、この塔も長者の寄進により建てられたのであるという伝承です。
『江戸名所図会』には
「(前略)また中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり 七塔の一ならんか 伝へ云ふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つる所にして、昔は成願寺の境にいりしを、後世今の地に移すと云へり(中略)中に長者鈴木九郎夫婦の肖像と称するものを安ぜり」 と記されています。
この説は誤りで、三重塔はかつてこの地が宝仙寺の境内だった寛永13年(1636)に飯塚惣兵衛という村人(なんと村人!)が建てたものだそうで、安置されている木像は塔の建立者とされている飯塚惣兵衛夫妻のものであることがわかっています。
三重塔は、その後この周辺が「塔の山公園」として整備されてからも戦前までは残されていたそうですが、昭和20年5月の第二次大戦の空襲により消失しています。

「三重塔跡」の記念碑の前には、中野区教育委員会による説明板が設置されていました。
説明板に掲載されていた、三重塔の往時の写真です。

中野区中央2丁目にある、宝仙寺も訪ねてみました。
平安後期の寛治年間、源義家によって創建されたと伝わるお寺で、この近隣のお寺では由緒も古く、また豊富な文化財に恵まれた寺院でもあるようです。
画像は、宝仙寺の山門である仁王門で、阿吽の仁王が左右に立っています。
終戦後に、以前のものを模して増率されたものです。

宝仙寺境内の様子です。
奥に見えるのが再建された三重塔で、手前に見えるのは石臼塚です。
三重塔は、興教大師850年御遠忌記念事業として平成4年に再建されたものです。
飛鳥様式の純木造建築で、塔内には、大日如来像をはじめとする五体の木像が安置されています。
石臼塚は、供養のために噴水として積み上げた石臼の塚です。
境内に設置された説明板には、
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を
挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田學純大僧正(宝仙寺学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。 と書かれています。

明治28年から昭和の初頭まで中野町の役場が、また区役所が境内に置かれていたそうです。
境内には「中野町役場跡」と刻まれた石碑が建てられています。

この「白玉稲荷神社」も、もとは宝仙寺境内にあった神社です。
塔山古墳群跡地(旧十中跡地)を見学した跡、参拝しました。

実際に境内に入って参拝しないと気がつき難い奥まった場所にあるのですが、白玉稲荷神社裏には石の鳥居が残されています。中野区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
白玉稲荷神社の鳥居
白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内にありました
が、明治維新後の神仏分離の際に、ここに分社され、
以後、この地であがめられてきたやしろです。
この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 小下中」「明治
十四年巳十月」、そして願主として浅田甚右ヱ門以下
五十人の氏名が刻まれています。
青梅街道に面した家いえは江戸時代末期、半商半
農の生活を営んでおり、問屋場の置かれた街道筋に
は人家も多く、村内は上・中・下の三宿にわけられ
ていました。鳥居に刻まれた「小下中」というのは、
下町をさらに大・小にわけたうちの小下組中という
意味で、この近辺が小下に属していたのでしょう。
この文は、浅田澱橋氏を介し、明治の初め頃の漢字
者、南摩綱紀の依頼によって成瀬大域が書いたもの
で、その書風は、区内の金石文の中でも風格のある
名筆といわれています。
この鳥居に刻まれた金石文によって、地名の移り
変わりがわかるとともに、この地に住んでいた有
力者たちの姿を想像することができます。
昭和五十八年三月
中野区教育委員会 中野区や杉並区は古墳の分野では目立たないのですが、神田川流域では、善福寺川右岸に「高千穂大学大宮遺跡1号墳」があり、 善福寺川が神田川に合流する向田遺跡からも2基の古墳が検出されており、杉並区の「本村原遺跡」からは2ヶ所で埴輪片が採集されています。
この塔山古墳群も含めて、実際にはかなり多くの古墳が築造されたのではないかと妄想しています。
今後の調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
中野町教育会『中野町誌』
日本考古学協会『日本考古学年報7(昭和29年度)』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版
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- 2020/05/14(木) 23:43:20|
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「哲学堂公園」は、中野区松が丘1丁目に所在する、一万七千坪の広大な敷地を擁する公園です。この一帯はかつては和田山と呼ばれ、源頼朝が上総国から隅田川を渡って武蔵国へ入り、松橋(現在の板橋)へ陣取った際、和田義盛が陣屋を設けたところともいわれている場所です。哲学館大学(後の東洋大学)学長であった故井上円了博士が、精神修養の公園として明治39年に創設したところで、園内には哲理門、六賢台、宇宙館といった、77場の哲学に由来するさまざまな建物や石造物、通路などが造られています。
この哲学堂公園周辺には現存する古墳こそ残されていないようですが、かつて存在したと考えられる古墳の伝承が数多く残されています。
妙正寺川中流域右岸では、中野区松が丘1丁目周辺に「片山東南方高塚古墳群」と称する複数の古墳の存在の伝承があり、隣接する新宿区西落合2丁目の「妙正寺川No.1遺跡」からは、発掘調査により埴輪片が出土しています。また、中野区上高田5丁目の「遠藤山遺跡」からは合計4基の円墳の周溝が検出しています。
妙正寺川左岸では、中野区沼袋1丁目の沼袋氷川神社境内の小丘から鉄剣が出土したことにより古墳の存在が判明しており、その後方の丘陵上にも小隆起が複数存在したという伝承が残されています。そして、哲学堂公園北東には「四ツ塚」と呼ばれる4基の塚が存在したといわれており、これは「豊島塚」のひとつではないかという説もあるものの、鳥居龍蔵氏はこの四ツ塚を古墳として紹介しており、『中野区史 上巻』でも「江古田一丁目四ツ塚古墳群」の名称で古墳として取り上げています。
そして、哲学堂公園は、この四ツ塚と妙正寺川の間の丘陵縁辺部から妙正寺川に向かう斜面上に造られていることから、立地的に古墳築造に適した場所ではないかと仮定して、かつて存在した古墳の痕跡や古墳を流用した築山の存在を求めて哲学堂公園を散策してみました。

画像は、哲学堂公園内に存在する築山です。77場の哲学に由来するというスポットの内には数えられていないようですが、人工的に築かれた塚ではないかとも考えられる形状で、妙正寺川に面する台地縁辺部に所在します。現地のスタッフの方にこの塚の名称をお聞きしたのですが(たしか「梵天(ぼんてん)××」と呼んでいたように記憶していますが)、正しい名称は忘れてしまいました。。。

南東側の、哲学堂公園の外からフェンス越しに見た塚のようすです。塚上に植栽された植込みがあることから、南側からでは塚の全貌は把握し難いのですが、この角度から見ると円形の塚状地形を見ることが出来ます。(古墳じゃないのかな?)

塚の頂部のようす。あとから写真で見てみると、塚の頂部の平らな部分は石室の石材で、房州石が置かれているのでは?とも見えるのですが、この日は注意力が散漫で色々見逃してしまいました。。。

画像は「三学亭(さんがくてい)」です。三学亭は、日本の神、儒、仏の三道の中で最も著述の多い大家として、神道の「平田篤胤」、儒教の「林羅山」、仏教の「釈凝然」の三人を祀っているそうです。井上円了曰く、「三学は三角と音相通じることから三角の意匠を用いた」としており、形状は徹底した三角尽くしとなっています。三角形の小山の三方に階段が設けられており、山の頂部には三角形の屋根を持つ三本柱の亭子があります。
ちなみにこの山を下りたところには「尾無毛泉無白(尾に毛無し、泉に白無し)」の石柱があり、この文句は「尿」の字になり、便所を指すのだそうです。(う〜ん、よくわからない)。。。

三学亭の頂部のようすです。もしこの塚が古墳であればかなり改変されているということになりそうですが、古墳を流用したものであるかどうかはよくわかりませんでした。。。

画像は、三学亭の麓に立てられている「硯塚(すずりづか)」の石碑です。井上円了が全国を巡遊中、求められて各地で揮毫した際に用いた硯を供養した記念碑で、「筆塚」と対になっているそうです。マウンドは存在せず、この碑のみが存在するようです。

画像は「筆塚」です。「硯塚」と対になっているもので、この塚もマウンドは存在せず、丘陵斜面に石碑のみが建てられています。古墳とは無関係であると思われますが、「塚」の文字を見るとやはり気になってしまいます。。。
公園内にはかなり多くの文化財が存在するのですが、今回はこれらの史跡には目もくれず(笑)、塚状に盛られたマウンドと「塚」と名のつくスポットのみを紹介しました。果たしてこの哲学堂公園内に古墳が存在したのかどうか、今のところその詳細は不明です。。。
<参考文献>
学生社『中野区史跡散歩』
哲学堂公園管理事務所『ガイドマップ哲学堂公園』
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- 2017/09/30(土) 00:03:13|
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画像は、中野区上高田5丁目の「遠藤山遺跡」の2次調査により検出された「1号墳」の所在地を南西から見たところです。
この遺跡の第2次発掘調査は、平成26年(2014)に行われており、2基の方形周溝墓とともに1基の古墳の周溝が検出されています。(この古墳の名称は「遠藤山古墳群4号墳」ではなく、2次調査における「1号墳」と命名されているようです。)画像の三井文庫の建物のさらに奥が古墳の所在地となるようです。
この1号墳は調査が行われた周溝が部分的であり、規模を正確に捉えるほどには検出されていないようですが、推定される外径は14.3m、内径9.5mで、調査当時墳丘がすでに消滅していたことから高さは不明です。

周溝内からは古墳時代後期の円筒埴輪が出土しています。画像は、中野区立歴史民族資料館で開催された館蔵品展「中野の遺跡 新発見伝」で公開されていた埴輪です。
埴輪は口縁を南側に向けて横になった状態で周溝内から出土しており、ほぼ一個体分がまとまって発見されています。周溝の調査範囲は狭いものであったものの、円筒埴輪は7個体分程度が採集されています。6世紀中葉に埼玉県比企地方で造られたと推定されているようです。
<参考文献>
スターツアメニティー株式会社・中野区教育委員会・共和開発株式会社『遠藤山遺跡Ⅱ』
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- 2017/09/28(木) 00:36:22|
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画像は、中野区上高田5丁目の「遠藤山古墳群(遠藤山遺跡)」の所在地を南西から見たところです。
この遺跡は、杉並区内にある妙正寺池を水源とする妙正寺川右岸の台地上に所在しており、『東京都遺跡地図』には、「遠藤山遺跡」の名称で中野区の遺跡番号57番に登録されています。平成2年(1990)に最初の発掘調査が行われており、縄文時代の炉穴、弥生時代の集落跡、古墳時代前期の住居跡とともに3基の円墳が発見されています。これらの古墳の墳丘は発掘当時にはすでに失われており、古墳の存在は想定されていなかったようですが、周溝が検出されたことによりその存在が確認されています。
画像の建物の場所が遠藤山古墳群の所在地です。古墳は中央から右奥に向かって3号墳、2号墳、1号墳の順に、東西に並ぶように存在したようです。
1号墳は、周溝全体の3分の2が調査されています。周溝外径は南北約15m、内径は12.5mの、陸橋部を持つ円墳で、周溝内からは縄文土器片や弥生土器片が出土しているものの、古墳に付帯する遺物は出土しなかったようです。
2号墳は周溝全体が検出されており、周溝外径は南北約18.6m、内径は14mの、やはり陸橋部を持つ円墳です。縄文土器や弥生土器の他に、完形の土師器坏形土器1点が出土しています。
3号墳も周溝全体が検出されており、周溝外径は南北約14.7m、内径は11.7mの陸橋部を持つ円墳であることがわかっています。
出土した土器から古墳築造時期を推定すると。2号墳が6世紀第1四半期、3号墳が6世紀第Ⅱ四半期後半、遺物の出土のなかった1号墳がこれに先立つものとされ、1号墳⇨2号墳⇨3号墳の順に築造されたと推定されているようです。

平成28年(2016)11月から12月にかけて中野区立歴史民族資料館で開催された館蔵品展「中野の遺跡 新発見伝」では、この遠藤山古墳群から出土した遺物が展示されていました。画像はこの展示品のようすです。

坏形土器は、陸橋部付近から出土しています。これは、葬送儀礼に使われた土器が転がり落ちたと考えられているようです。中央のものが2号墳から、左右の2個が3号墳から採集されています。

1次調査からは2点の円筒埴輪片が出土しています。
<参考文献>
中野区教育委員会・中野区遠藤山遺跡調査会『遠藤山遺跡』
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- 2017/09/27(水) 00:35:42|
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