古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「氷川神社付近古墳」

「氷川神社付近古墳」

 画像は、中野区沼袋1丁目に所在する「沼袋氷川神社」を南から見たところです。
 この神社は旧下沼袋村の鎮守社で、『新編武蔵風土記稿』の下沼袋村の項には、「氷川社 除地、九段、小名大下前にあり、村の鎮守なり、本社二間四方、拝殿二間に三間南向、本地十一面観音の木の立像六寸五分なるを安す、前に鳥居をたつ、鎮座の年代詳ならず、上沼袋村清谷寺の持なり、」と書かれています。
 境内にはかつて古墳が存在したという伝承が残されており、『東京都遺跡地図』には「氷川神社付近古墳」の名称で、中野区の遺跡番号102番の古墳として登録されています。


「氷川神社付近古墳」

 氷川神社境内のようすです。この神社の敷地は、
 古くは半島状に突出する台地となっており、その先端に小丘が隆起していたそうです。その後、昭和2年(1927)の村山線(現在の西武新宿線)の建設工事の際にこの小丘を崩したところ、中から錆びた鉄剣が出てきたことにより古墳であることが判明したといわれています。(氷川神社付近古墳から出土したとされる鐵刀劔は、発掘当時すでに粉砕しており、残念ながら現存しないようです。)
 また、同年の社務所新築の際には境内から弥生土器が数点出土しており、さらに神社周辺の丘陵の宅地化に伴い、縄文・弥生・古墳時代の石器や土器、鉄鏃等の遺物が出土しています。


「氷川神社付近古墳」

 画像は、氷川神社付近古墳の伝承地とされる周辺を北から見たところです。
 氷川神社付近古墳は、昭和18年(1943)に東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』の「遺跡性質一覧表」には「沼袋町氷川神社古墳」の名称で取り上げられており、同書によると「西武電車開通以前、氷川神社より半島狀に突出せし丘陵先端に經不明の小高き隆起部分あり、之を發掘破壊せしところ、銹化した鐵刀劔出土せしために古墳なりしことを確認せしも、内部には特殊なる棺槨の構造全然無かりし由。なほ附近氷川神社後方の丘陵上にも小隆起多く、一種の小形高塚墳の群集地と考へらる。」と書かれています。興味深いのは「後方の丘陵上にも小隆起多く」という記述で、かつては複数の古墳が群集する古墳群の存在も考えられるのかもしれません。
 

「氷川神社付近古墳」

 松の木が植樹されている場所が僅かに盛り上がっていて古墳の痕跡を思わせますが、これは古墳とは関係がないようです。


「氷川神社付近古墳」

 ベンチとして使われているらしき大きな石が石室の石材を思わせるのですが、これも古墳とは無関係であるようです。


「氷川神社付近古墳」

 過去に、江古田・沼袋原の合戦の戦死者を葬ったといわれる、中野区内に伝わる七ヶ所の「豊島塚」と称される塚を紹介してきましたが、この神社にも太田道灌に関わる伝説が残されています。文明9年(1477)には、太田道灌が「江古田ヶ原・沼袋の合戦」の際にこの地に陣営を置いたといわれており、境内には道灌が戦勝を祈願したとされる「道灌杉」の跡地が保存されています。


「道灌杉」

 道 灌 杉
 当神社には、太田道灌が植えたといわれる道灌杉
がありました。惜しくも昭和十九年(一九四四)頃
枯れてしまいましたが、当時の写真からは、高さが
三十メートルに達し、樹齢数百年にもなると思われ
るご神木の姿がしのばれます。
 文明九年(一四七七)四月、対立関係にあった関
東管領方の武将太田道灌と関東公方方の豊嶋泰経は、
江古田と沼袋の地で戦闘を交えました(江古田原・
沼袋合戦)。その際、道灌によって戦勝を祈願して植
えられたのが、この道灌杉であると伝えられていま
す。道灌はこの合戦に勝利し、豊嶋氏にかわって武
蔵野の支配を確立しました。
 平成二十八年八月

<参考文献>
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
現地説明版


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  1. 2017/09/10(日) 02:40:38|
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「くろんぼ川の地蔵さん・お化け地蔵」

「くろんぼ川の地蔵さん・お化け地蔵」

 画像は、中野区野方4丁目に所在する「笠付型庚申塔」を南東から見たところです。この庚申塔は、地元の人たちには「くろんぼ川の地蔵さん」とも「お化け地蔵」とも呼ばれていたそうです。現在は暗渠になっているようですが、この周辺にはかつて「くろんぼ川」と呼ばれる川が流れており、その川のほとりに化け物が出没して地元の人びとに恐れられていたそうです。これは何かの祟りではないかと考えた当時の人びとは、供養のためにこの庚申塔を建てたという伝承が残されているそうです。この辻の庚申塔の場所には草ボウボウの塚が存在したといわれているのですが、現在は開発により宅地化が進み、塚は消滅しているようです。


「くろんぼ川の地蔵さん・お化け地蔵」

 妙正寺川流域では、沼袋1丁目には「氷川神社付近古墳」があり、この周辺にもかつて古墳らしき小隆起が多く認められてたといわれています。さらに下流には古墳伝承地である「片山東南方高塚古墳群」と4基の古墳が検出された「遠藤山遺跡」があり、左岸にも古墳の可能性も考えられている「四ツ塚」があります。これらのすべてが古墳であったかどうかは微妙なところですが、同じ妙正寺川の流域に所在した塚ということでこの「くろんぼ川の地蔵山」を見学に訪れましたが、塚は学術的な調査が行われないまま消滅しており、真相は全くわかりません。。。

<参考文献>
中野区沼袋地域センター『古老の語る沼袋・江古田の歴史Ⅱ』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』


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  1. 2017/09/09(土) 02:41:45|
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「向田遺跡」

「向田遺跡」

 中野区弥生町6丁目全域から南台5丁目にかけて存在するのが「向田遺跡」です。この遺跡の北側には善福寺池を湧水とする善福寺川が流れ、また南側から東側にかけて井の頭池を湧水とする神田川が流れ、向田遺跡の北東で合流しています。この河川に挟まれた舌状台地上からは古くから弥生土器が出土することが知られており、「弥生町」の町名の由来ともなっているそうです。
 平成18年(2006)には向田遺跡の二次調査が行われており、2基の円墳の周溝が検出されています。画像の右側あたりが1号墳、そのさらに右奥が2号墳の跡地となるようですが、住宅地として開発が進んだ地域での発掘調査によって確認された古墳ですので、当然痕跡はなく、跡地には集合住宅らしき建物が建てられています。


「向田遺跡」

 画像の道路を登り切った突き当たりのあたりが2基の古墳の跡地です。1号墳の周溝外径は推定約16.1m、内径約12.8mの円墳で、2号墳は推定約14.1m、内径約9.6mのブリッジ付きの円墳で、2号墳の周溝からはほぼ完形の坏が2点出土しています。この2基の古墳は、周溝外側の最短間隔が約90cmとかなりの近距離にあり、覆土のロームや黒褐色土の堆積の仕方が似ていることからほぼ同時期に築造されたものと考えられており、古墳の年代は5世紀末と推定されているようです。
 古墳の築造には、直線的な崖線沿いよりも河口周辺や半島状に突き出た舌状台地の先端あたりが特に一等地として好まれたのではないかと考えていますが、この2基の古墳は舌状台地の根本のあたりに築造されていますので、特にここから北東側(舌状台地の先端あたり)から未発見の古墳が発見される可能性は高いかもしれません。。。


善福寺川と神田川の合流地点

 善福寺川と神田川の合流地点です。
 この2つの川は私にとっては身近な河川なのですが、「ああ、ここで善福寺川は終わりなんだ?」と意味なく感傷的な感じです。。。。

<参考文献>
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』
中野区教育委員会『向田遺跡Ⅱ 発掘調査報告書』


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  1. 2017/08/24(木) 00:03:55|
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「一本松の庚申塚」

「一本松の庚申塚」

 これまで、その多くは失われてしまったであろう東京都内の古墳を追いかけてきました。かつては多数の古墳が群集する形で存在した「古墳群」も、そのすべてが削平されて失われたが故に、現在ではその存在の想定すらされない地域もどうやら数多く存在するようです。近年の考古学的な調査の進展により、古代の東京について少しずつ解明されてきているようですが、やはり把握されている古墳は一部であり、一説には都内には5.000基ほどの古墳が存在したのではないかともいわれているようですが、実際に歩いてみた感覚では6〜7,000基から多ければ10,000基近く存在したのではないかとも思えます。(あくまで素人考えで私に考古学的な背景はありません。)
 そんな中、「大塚」、「丸山」、「摺鉢山」、「二子山」といった地名が残る場所は、その由来が気になるところですし、「××塚」といった塚の所在地は、実際に訪れてこの目で確かめたくなってしまいます。

 とういうわけで、今回紹介するのは中野区南台4丁目に所在する「一本松の庚申塚」です。
 この塚が古墳であるなどという文献はまったく存在せず、また周辺に古墳の存在もない中、この庚申塚が古墳跡であるとは私も考えません。しかし、北西数百メートルほどの善福寺川と神田川に挟まれた舌状台地上に所在する「向田遺跡」からは2基の円墳が検出されているという中、この遺跡と神田川を挟んで対岸に位置する一本松の庚申塚が古墳であるか、もしくは古墳が存在し得る地域ではないのかと、妄想しながら周辺を散策するのもまた楽しいものなのです。。。

 画像は、一本松の庚申塚を南から見たところです。敷地内には中野区教育委員会により説明板が立てられており、次のように書かれています。

   一本松の庚申塚
 この庚申塚は、地元の言い伝えによれば、
明和年間(一七六四~一七七一)に雑色村
(現在の南台地域の旧村名)の人たちが共同
で庚申塔と地蔵尊を祀ったことにはじまる
といわれています。
 また『中野町誌』には、数百年前、西国
の武士で原田七左衛門、同彦左衛門、増川
八左衛門の三名がこの地で亡くなったので、
その供養のために塚がつくられたという言
い伝えが記されています。
 第二次世界大戦の空襲で罹災し、原形を
失いましたが、昭和二十五年(一九五〇)に
地域の人々の手で再建されました。

干支の庚申(六〇日に一回めぐってくる)の夜、人間が眠
っている間に体内に巣くう三戸という虫がぬけ出して天に
昇り、帝釈天にその人の罪を訴え、生命を縮めるという。
 庚申信仰は、長命安楽を願って、三戸の虫に罪を訴えら
れないようにする、いわゆる民間信仰で中国の道教の守庚
申に由来するものです。
 特に江戸時代に盛んに行われ、青面金剛や、庚申に因ん
だ猿、庚申の文字などを刻んだ塔が建てられました。
 平成二年十一月
           中野区教育委員会



「一本松の庚申塚」

 説明板とともに建てられている「庚申塚」の石碑です。
 この庚申塚の横には一本松があり、地元の人びとには触ると祟りがあると恐れられていたといわれています。。。

<参考文献>
中野区教育委員会『中野区の史跡』
現地説明版


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  1. 2017/08/23(水) 01:45:45|
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「四ツ塚(四ツ塚古墳群)」

「四ツ塚(四ツ塚古墳群)」

 現哲学堂公園の北東角、現在の新青梅街道と、新井薬師駅方面から千川通り方面に抜ける、地元では「鎌倉街道」と呼ばれる道路が交差する付近に道路を挟んで四ヶ所に存在したといわれているのが「四ツ塚」です。その名の通り4基の塚の塚の総称で、これも「豊島塚」のひとつであるといわれています。

 鳥居龍蔵氏は昭和15年(1940)発刊の『風至』五巻二号の「上代の野方風至地区付近に就いて 三、四」の中でこの四ツ塚は古墳ではないかと推測しており、昭和18年(1943)に東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』でもこの四ツ塚を「江古田一丁目四ツ塚古墳群」の名称で古墳として紹介しています。しかし比田井克仁氏は著書『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』の中で「鳥居龍蔵は古墳説をとっているが、この地域で兜や刀を出土する古墳、すなわち五世紀~六世紀代のトップクラスの古墳の存在の可能性はきわめて低いため、この説は賛成できない」としており、古墳説には否定的です。
 この4基の塚はかなり接近して存在しており、高さ約3m、径約3m程あったといわれています。明治40年頃の宅地建設の際にこのうちの1基が壊された際には、鉄の兜や腐った刀が人骨とともに出土しているようですが、その後、昭和10~15年頃に道路工事によりもう1基が崩された際には何も出土しなかったと伝えられています。これだけでは、この塚が古墳であったか塚であったかは何ともいえないところですが、残念ながら出土した遺物の所在はわからなくなっているようです。
 『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』等の江戸時代の地誌類にはこの四ツ塚についての記述は見られず、また『風至』の鳥居龍蔵氏の文献の後ろには「この四ツ塚に就いては、古い文献の上にも現はれてゐない程、重視、否問題にしてゐなかったらしく記録がない。又土地にもこれに關する口碑さへ傳へられてゐない有様である。」と編集者の補遺が記載されています。つまりは、かつての四ツ塚は特に伝承等が残されていない無名の塚で、明治40年頃の塚の削平の際の兜や刀の出土により、その後豊島塚と呼ばれるようになったというのが真相のようです。


「四ツ塚(四ツ塚古墳群)」

 堀野良之助著『江古田のつれづれ』には4基の塚のうちの1基について、「哲学堂側にあった塚は、盛り土を哲学堂地内に移して面影を残された」と記されています。この盛り土は「哲学堂公園野球場」の北東角、グランドのバックネット裏の金網の内側に残されています。
 画像はこの盛り土が残された地点を北東から見たところです。交差点の歩道の金網の奥に、うっすらと塚らしきシルエットが見られると思います。これが四ツ塚の唯一の痕跡といえるものですが、これは移築された塚と呼べるような代物ではなく、残土の山に篠竹が生い茂っているという状況で、残念ながら”面影を残す”というものではなく、また説明板等も存在しないようです。将来このグランドの工事でも行われれば、何も知らない工事関係者があっさりと撤去してしまいそうです。。。

 この交差点は中野区と新宿区の区境に当たります。残された盛り土が中野区側に所在していることから今回の「四ツ塚」は中野区の塚として紹介しましたが、現在の行政区分に従うならば四ツ塚のうちの2基は西側の中野区内に、残る2基は東側の新宿区内に存在したということになります。


「四ツ塚(四ツ塚古墳群)」

 今回まで中野区内に所在したとされる七ヶ所の「豊島塚」と呼ばれる塚を紹介しましたが、古墳の可能性という点では、どの塚よりもこの四ツ塚に古墳の可能性を感じますが、残された遺物も存在せず、また発掘調査等も行われないまま塚は消滅していることから、真相はわかりません。ただし、もしもこの塚が古墳であれば、残された塚の残土の中に埴輪片などの遺物が紛れているという可能性は考えられるかもしれませんし、発掘してみる価値はあるかもしれません。
 『中野区史 上巻』には、この四ツ塚の南側、妙正寺川を挟んだ対岸に「片山東南方高塚古墳群」と称される古墳群が存在したと記されています。また、上高田5丁目の「遠藤山遺跡」からは近年の発掘調査により計4基の古墳の周溝が検出されています。妙正寺川流域に所在するこの四ツ塚が古墳群であった可能性は十分に考えられるのではないかと思われますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりません。。。


「史蹟江古田ヶ原沼袋古戦場」の碑

 四ツ塚の交差点から新青梅街道を西に四百メートルほど進んだ中野区立江古田公園の敷地内には、「史蹟江古田ヶ原沼袋古戦場」の碑と中野区教育委員会による説明板が建てられており、次のように書かれていました。

   江古田古戦場
 このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にい
たる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477)
太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
 ここでの合戦は、享徳の乱(1454〜1482)と
いう長期にわたる内乱の中の戦でした。
 享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関
東公方足利成氏と。太田氏が仕える関東管領上
杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により
管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きま
した。
 この乱により関東は二分され、幕府などの支
援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をお
さえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とし
た道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、
戦を有利にすすめるために重要な役割をはたし
ました。
 ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た
豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立
するうえで、大きな意味をもっていました。

  昭和五十七年二月
             中野区教育委員会


中野区立江古田公園

 妙正寺川のほとり、江古田公園のようす。ほんの何百年か前にはここで戦争をしていたとは信じられない、平和な感じです。。。

<参考文献>
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
堀野良之助『江古田のつれづれ』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』


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  1. 2017/01/19(木) 01:00:58|
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