
画像は、世田谷区瀬田4丁目にある「瀬田玉川神社」を東から見たところです。永禄2年(1559)10月の創立ともいわれるこの玉川神社の祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。この神社の社殿は古墳の上に鎮座しているといわれており、『東京都遺跡地図』には「玉川神社古墳」の名称で、世田谷区の遺跡番号108番の遺跡として登録されています。

この古墳は、昭和58年に東京都教育委員会により行われた東京都心部遺跡分布調査により把握されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれていました。
113 瀬田玉川神社古墳
世田谷区 108 世田谷区瀬田4-10
①台地上
②神社
③一部残存
④円墳?(径32m)
⑤不明
⑥直刀(明治43年出土伝)
⑧社殿西下に50cm程度の墳丘の一部が残る。従来、塚とされていたが古墳と確認。
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ④墳形 ⑤主体部 ⑥副葬品 ⑦文献 ⑧所見、備考)
画像が、『都心部の遺跡』にある、社殿の西下に残存する50cm程度の墳丘の一部と思われる箇所です。確かに古墳の基底部らしく円形に残されており、この弧を描く曲線からすると、かなり大きな古墳であることが伺えます。『東京都遺跡地図』ではこの古墳は径32mの円墳とされていますが、これは、後円部直径約30mの「八幡塚古墳」や径約30mの「狐塚古墳」とほぼ同等の規模ということになります。ひょっっとすると帆立貝形もしくは造出付円墳という可能性も考えられるのかもしれませんね。。。

画像は、残存する墳丘を別角度から見たところです。はっきりと弧を描いている形状を見ることが出来ます。

拝殿の後ろ側にある境内社のようすです。この場所も墳丘上ということになると思われます。
江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には「熊野社 村ノ西南ノ方、ワヅカニ高キ塚上ニアリ。スナハチ二子街道ナリ。小祠、西向ニテ本村慈眼寺ノ持ナリ。」と記載されています。おそらくは、江戸時代にはすでに墳丘はかなり削られていたのかもしれません。
世田谷区内に残存する古墳の中では数少ない未調査の古墳ですが、今後の学術的な調査が待たれる重要な古墳ではないでしょうか。。。
<参考文献>
東京都世田谷区教育委員会『せたがや 社寺と史跡(その二)』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/22(金) 21:49:41|
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世田谷区岡本2丁目の、静嘉堂文庫の敷地内に所在するのが「弁天塚・天神塚」という2基の塚です。
『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号199番の”時代不明の塚”として登録されており、画像はこの2基の塚を北西から見たところです。
この塚に関しては詳しい記載のある文献は見つからず、詳細がわかりません。発掘調査が行われたという記録もなく、弁天塚と天神塚というからには塚上に弁天様や天神様が祀られているのかな?という想像は出来るものの、実際に現地を訪れてみても、塚上は樹木が生い茂っていてようすをうかがうことはできませんでした。
塚は、静嘉堂文庫敷地内の噴水池の前、岩崎家霊堂の北西側に築山となって残されているのですが、静嘉堂文庫でお聞きしたところでは、この築山は古墳ではないかと考えられてはいるものの特に遺物の出土等の伝承もなく、「弁天塚」、「天神塚」という名称の存在も把握していなかったということです。したがって、左右に並ぶ2基のマウンドのどちらが弁天塚で、どちらが天神塚であるのかもわかりませんでした。

画像は南西側のマウンドです。以外と高さが残されているのがわかります。
世田谷区の学芸員の先生にお聞きしたところでは、この2基の塚は古墳ではないかと考えており、さらに、元々は1基の前方後円墳だったのはないかという可能性も指摘されておられました。確かに現地で観察すると2基の塚は繋がっているようにも見えますが、築山としてかなり改変されているため、真相はわかりません。

画像は北東側のマウンドです。
塚上には「せたがや百景」の石碑が設置されており、「73 岡本静嘉堂文庫 静嘉堂文庫は、岩崎弥太郎・小弥太父子2代によって集められた和漢の古典籍と古美術品とを集蔵し、大正13年建築の文庫と平成4年竣工の美術館とから成る。多摩川を望む丘陵の上に立ち、深い樹林に包まれて四季おりおりの景観に恵まれている。」と、塚ではなく静嘉堂文庫について記されています。
現地でその形状を観察した印象や立地的に考えても、やはり前方後円墳なのではないかと期待したい塚ですが、いずれは行われるであろう発掘調査を待つよりほかに詳細を知る術はないようです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/21(木) 23:29:09|
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「下野田2号墳」は、世田谷区喜多見6丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には266-2番の古墳として登録されています。
この古墳についても前回紹介した「下野田1号墳」と同様に、昭和57年度から59年度にかけて実施された東京都心部遺跡分布調査により把握されたとされる古墳です。昭和60年に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
201 下野田2号墳
世田谷区 266 世田谷区喜多見6―3
①台地上
②宅地
③遺存
④円墳?(径5m)
⑧昭和59年、世田谷区遺跡調査会が存在を確認。
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ④墳形 ⑧所見、備考)
この古墳に関しては、戦後の空中写真で確認すると古墳らしき円形のマウンドを見ることが出来ますので、おおよその位置は推測することが出来ます。実は5〜6年前に世田谷区の古墳群を散策した際、画像の駐車場のあたりにコンクリートで囲まれた方形の高まりが残されていた記憶があるのですが、今思えばあの高まりが下野田2号墳の残存部分ではなかったかとも思います。このときは写真に収めることはしませんでしたので今となっては確認することは出来ないのですが、『都心部の遺跡』に書かれている「世田谷区遺跡調査会が存在を確認」したという古墳の残存部分は、あの方形の高まりと同一のものだったのでしょうか。
残念ながら方形の高まりは消滅しており、古墳の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/07/13(水) 01:28:46|
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「下野田1号墳」は、世田谷区喜多見6丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には266-1番の古墳として登録されています。
下野田1号墳は、昭和57年度から59年度にかけて実施された東京都心部遺跡分布調査により把握されたとされる古墳ですが、ほかに多くの情報がないため詳細のわからない古墳です。昭和60年に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
201 下野田1号墳
世田谷区 266 世田谷区喜多見6―5・9
①台地上
②学校
③湮滅
⑧昭和59年、世田谷区遺跡調査会が存在を確認。
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ⑧所見、備考) 「世田谷区遺跡調査会が存在を確認」としながらも遺存状況に関しては「湮滅」と書かれていますので、恐らくは聞き取り調査等により確認された古墳なのかも知れません。所在地については「世田谷区喜多見6―5・9」とされていますが、5番地と9番地にまたがって存在した古墳なのでしょうか。画像は、右側の宅地となっている区画が喜多見6丁目5番地にあたり、左側の小学校の敷地が6丁目9番地にあたります。『都心部の遺跡』の情報を信用するならば、この道路を中心に左の学校から右の宅地にかけて古墳が存在したのではないかと思われるのですが、残念ながら痕跡らしきものは見当たらないようです。
この場所から南東に100m程の地点は「下野田2号墳」の所在地とされています。この2基の古墳が存在したとなると、「砧中学校古墳群」と「殿山古墳群」が連なるように存在していたとも考えられますし、とても興味深い地域ではないでしょうか。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/07/11(月) 01:37:02|
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「堂が谷戸1号墳」は、昭和57年(1982)に行われた個人住宅建築に伴う緊急発掘調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号272番の古墳として登録されています。
画像は、世田谷区岡本3丁目の「堂が谷戸1号墳」の跡地を北から見たところです。この古墳の墳丘はすでに消滅しており、周溝の1/4のみが検出されています。規模は墳丘径20.5m、外径は約28mで、墳丘の痕跡はなかったものの、円墳ではないかと推定されています。埋葬施設は調査区域外であったために書くのんされておらず、出土遺物から古墳時代前期五領期~和泉期の築造と考えられているようです。
「堂が谷戸遺跡」内で発見されている古墳はこの古墳1基のみであるようですが、「1号墳」という名称からして、今後も周辺から同規模の円墳が発見されるであろうという主張を感じてしまいます。今後の調査が楽しみですね。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会 世田谷区遺跡調査会『慶元寺1号墳•陣屋前遺跡•奥沢台遺跡他』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/30(金) 23:50:08|
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「下山1号墳」は、昭和53年(1978)に行われた集合住宅建設に伴う第5次調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号273番の古墳として登録されています。
画像は、世田谷区瀬田4丁目の下山1号墳の跡地周辺のようすです。奥の集合住宅のあたりが古墳の跡地であると思われます。この古墳の墳丘はすでに消滅しており、発掘調査により円形の周溝が検出されています。規模は墳丘径9~10.2m、外径は11~14mで、西側にブリッジを持つ円墳です。墳丘上面が削平されていたため盛土は確認されず、埋葬施設も検出されなかったようです。また、同じ調査区の北側からは小石室が検出されています。
下山遺跡内からは計3基の古墳の周溝が発見されていますが、周辺にはまだ畑地も残されていることから今後の調査により新たな古墳の発見もありそうです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『下山遺跡 Ⅱ』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/29(木) 23:52:55|
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「下山2号墳」は、世田谷区瀬田5丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号323番の古墳として登録されています。
この古墳のマウンドはすでに消滅しているものの、平成9年(1997)の宅地造成工事に伴う事前調査により周溝が検出されています。推定規模は内径約12m、外径約15.5mで、遺物は出土していないものの覆土の様相から古墳時代中期から後期初頭のものであると考えられています。
画像の畑地の奥、宅地のあたりが古墳の跡地となるようですが、残念ながら古墳の痕跡を見ることは出来ません。この瀬田の台地上にマウンドの残る古墳は存在しないようですが、周辺からは下山1号墳と3号墳の2基の円墳の周溝が検出されており、周辺にはさらに数基の同規模の古墳が存在するのではないかと考えられています。この地域にはまだ畑地も残されており、今後の調査による新たな発見が楽しみです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『1997年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/28(水) 00:35:32|
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「下山3号墳」は、平成14年(2002)から15年(2003)年に行われた農地改良工事に伴う事前発掘調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号324番の古墳として登録されています。
画像は、世田谷区瀬田4丁目の下山3号墳の跡地を南から見たところです。この古墳の墳丘はすでに消滅しており、周溝の半分のみが検出されています。規模は墳丘径13.2m、外径は15.4mで、南東側にブリッジを持つ円墳です。遺物は出土していないものの、覆土から古墳時代中期末~後期初頭の築造と考えられています。
「下山遺跡」内には墳丘が残存する古墳はありませんが、発掘調査により3基の古墳の周溝が検出されており、周辺にはさらに数基の同規模の円墳が存在するのではないかと考えられているようです。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『2002年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/27(火) 00:45:15|
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