
「南水元富士神社」は、葛飾区南水元にある神社です。創建は正慶元年(1332)と伝えられるこの神社の祭神は木花咲耶姫命で、江戸時代には旧飯塚村の鎮守だったといわれています。この神社の拝殿の背後には、葛飾区内では最も大きいといわれる「飯塚の富士塚」が所在します。
富士神社は、この数年をかけての整備事業が行われていました。私が前回訪れたのは2014年の1月頃ですが、このときすでに工事が始まっており、変な形に崩されたとおぼしき富士塚はブルーシートが掛けられて見学は不可能。境内でも工事が進められ、社殿のかわりにプレハブが建てられていました。
その後、最近になって急に富士塚のことが気になってしまって、出来たてほやほやか、もしくは完成直前の富士塚の姿が拝めるのではないかということで、良く晴れた秋の日にぶらりと出かけてみました。

画像が、新築された拝殿のようすです。拝殿の背後にわずかに、同じく新築された富士塚らしき姿が見えています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「浅間社 村の鎮守なり、安福寺持」と書かれているのがこの富士神社ですが、『四方の道草』に「堤の上に松の木立ある所にいたる。ここに富士浅間の社、小高き所に鎮座まします。」とあるように、江戸時代には現在のような「富士塚」ではなく、駒込の富士神社のように塚の上に社殿が乗っていたといわれています。これを、明治12年(1879)に社殿を下ろし、平坦な山頂部に盛り土をして現在のような富士塚の形となったそうです。

出来たてほやほや、ピカピカの拝殿と富士塚のようすです。
富士塚に改変されたとされる、明治12年以前から存在したという塚がどんな性格の塚だったのかとても気になるところなのですが、この新しい富士塚は以前の富士塚の位置と多少ズレた場所に移されているように感じます。発掘調査等は行われたのでしょうか???
南東から見た富士塚のようすです。
訪れた当日はまだ富士塚は完成直前といった状況で、塚の周辺にはこれから立てられるのであろうたくさんの石碑が置かれています。完成した富士塚の姿がどうなるのかとても興味深いところです。
ちなみに以前は葛飾区教育委員会による説明板が存在したのですが、これは取り外されているようでした。いずれ新しい説明板が設置されるのかもしれません。ちなみに以前の説明板には次のように書かれていました。
区指定史跡
飯 塚 の 富 士 塚
所 在 地 葛飾区南水元二丁目1番1号
指定年月日 昭和56年(1981)2月28日
富士神社は木花咲耶姫命を祭神として正慶元年(1332)に創建されたと伝えられ、
その例祭は毎年7月1日に行われます。
富士塚は拝殿の裏にある浅間山の上に、さらに盛土をして築かれています。これ
は明治12年(1879)に地元富士講の人々によって造られたものですが、現在もそ
こに登るための石段や富士浅間の石祠・灯籠などが残され、当時の様子をしのぶ
ことができます。
例祭とともに行われる「飯塚の富士講」(区登録無形民俗文化財)とあわせ、葛飾
区における富士信仰を今に伝える貴重な資料です。
東京都葛飾区教育委員会
正面(南東)から見た飯塚富士です。
葛飾区内には、かつては村単位で講中が存在して富士塚への代参が行われていたようですが、現在はこの旧飯塚地区のみに残っていて、月例の講行事と7月1日の「七富士参り」が行われています。7月1日には、草加市瀬崎、八潮市大瀬、三郷市戸ケ崎、松戸市小山、江戸川区篠崎、葛飾区西水元浅間神社を巡拝するそうです。

富士塚の完成を見計らって、もう一度参拝に訪れようと考えている南水元富士神社でした。。。
<参考文献>
入本英太郎・橋本直子『葛飾区史跡散歩』
現地説明版
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- 2017/11/06(月) 23:52:19|
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画像は、葛飾区東金町4丁目にある「半田稲荷神社」を南東から見たところです。この神社は、『新編武蔵風土記稿』には和銅4年(711)の創建と記されており、当社の縁起には永久年間(1113~17)の創建ともいわれています。延享4年(1747)の火災で多くの什宝と記録の類いを失ったことから確かなことはわからないようです。
この神社周辺にはかつて塚があったといわれており、『東京都遺跡地図』には「葛飾区№18遺跡」の名称で、葛飾区の遺跡番号18番の塚として登録されているようです。

昭和45年発行の『葛飾区史 上巻』にはこの遺跡について「半田稲荷神社の西隣につづく民有地にあったが、近年道路の拡張や住宅の建設などで消滅し(中略)その痕跡すらみとめられない。いずれも古墳時代のものと推定される土師器や須恵器の破片多数が表面採集され円墳であることが確認されたが、その原形・規模については精査されていない。また出土品もほとんど散逸し詳しいことはわからない。」と書かれています。
円墳であることが確認されたという古墳の所在地は「半田稲荷神社の西隣につづく民有地」としかわからないので、正確な所在地は判然としないのですが、神社の西側には現在墓地があり、その奥が塚状にわずかに高くなっている(ように見える)のですが、この場所が古墳の跡地なのでしょうか。

神社の南西側には、この地域の地主らしき広い土地を持つ民家があり、大木の下には祠が祀られていました。いかにも古墳跡らしき風情があるのですが、特に古墳の痕跡らしきマウンドは残されていないようです。

葛飾区郷土と天文の博物館より発行された『葛飾遺跡探訪』では、塚の所在地は半田稲荷神社の裏手の、現在の半田児童遊園のあたりを古墳の跡地であるとしているようです。
同書によると、塚は昭和10年(1935)頃に切り崩されており、この際に出土したとされる海獣葡萄鏡と菊花散双鳥鏡が残されており、塚は室町時代頃の供養塚か経塚の可能性が指摘されているようです。但し、塚の周辺や境内から埴輪や土器片が採集されたという記録があり、古墳であるという説もあるようです。
元々存在した古墳を、後世に塚として流用した事例ではないかとも考えられますが、真相はわかりません。。。

画像の神泉遺構は、かつては湧泉井戸だったそうです。現在は湧き水は渇水し、敷石も荒廃しているようですが、井戸枠には現在も注連縄(しめなわ)が掛けられ、旧来の形状が保存されています。平成7年(1995)2月には葛飾区の有形文化財に指定されています。
私が最初に訪れたのは真冬だったのですが、水面がカチカチに凍り付いていました。
都内でもこんなに凍り付いてしまうのかとビックリしました。
また寒い冬がやってきますね。。。
<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪』
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- 2017/11/05(日) 21:23:55|
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画像は、葛飾区高砂7丁目にある「理昌院」を南から見たところです。このお寺の裏手にかつて所在したといわれるのが「三ツ池古墳」で、『東京都遺跡地図』には葛飾区の遺跡番号10番として登録されています。
この古墳は、昭和24年(1949)11月に可児弘明氏らによって発掘が行われています。発掘当時の記録によると、古墳は高さ約1メートル程で、発掘当時すでに大半が切り崩されて原形を失っていました。埴輪や石室も設けられておらず、敷石と粘土質の垂直壁が認められ、この垂直壁との境には貝殻が認められたようです。
敷石は死骸埋葬の一装置と考えられており、古墳は奈良時代の火葬墳と報告されているようですが、火葬された痕跡がないことから火葬墳とするには検討の余地があるようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1187890&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された三ツ池古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
古墳はすでに宅地造成により削平されて消滅しており、正確な跡地はわからなくなっているようですが、理昌院裏手の水田に一本松と水神が祀られていたという墳丘は、当時の空中写真にはっきりと残されています。これにより、古墳のおおよその位置は推測できるようです。

三ツ池古墳の跡地周辺のようすです。生産緑地として残されている畑のあたりか、その奥の集合住宅のあたりが古墳の跡地であると思われますが、すでに地上に古墳の痕跡は見当らないようです。。。
<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪(改訂版)』
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- 2017/11/04(土) 22:13:47|
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「宝木塚」は、江戸時代初期からの古い地名で、「掃塚(ほおきづか)」とも「宝樹塚」、「仏塚」とも書かれたようです。この地域は古くは堀切村と篠原村の境にあり、立石村から分かれて小字から一つの村に独立したものだといわれていますが、この宝木塚村の一部は昭和7年(1932)に本田宝木塚町と改称、さらに昭和36年(1961)の住居表示法の改正により「宝町」へと変わり、現在では宝木塚の町名の由来もすでに不明となり、宝木塚なる塚が存在したのか、またどこに存在したのかもわからなくなっているようです。
この宝木塚について、昭和45年(1970)に発行された『葛飾区史 上巻』には、
西光寺境内に宝樹塚という古い塚があり、はじめ法喜塚と称し、元仁元年(1224)に親鷲上人がこの地で道俗を教化するにあたり、土民とともに法縁に連り無疑の深信を発し、日夜教化宣伝につとめたが、かたわらにそびえる老松に法衣をかけ、自からこれを法喜塚と名ずけた。これが後に宝樹塚となり、宝木塚に変って村名になったという。宝木塚の地名は「応永五年葛西御厨注文」「永禄二年北条分限帳」ともにその名が載らず「正保改定国図」にはじめて見えるので、村名となったのは、江戸時代初期のころと思われる。
と書かれています。
画像は、葛飾区宝町2丁目の西光寺を南から見たところです。
このお寺の境内に所在したともいわれる「宝木塚」の痕跡は残されていないのでしょうか。

画像は、西光寺の山門を入った左手に存在する築山です。親鷲上人が法衣を掛けたという老松はさすがに残されていないようですが、この築山に「袈裟掛松」と刻まれた石碑が建てられています。

画像が「袈裟掛松」の石碑です。
果たして「宝樹塚」とはこの築山の場所を指すのか、それともこの周辺の別の場所に存在したのか、真相はわかりません。

築山の中には「丹頂塚」なる石碑も建てられていました。
これは古墳とは関係ないかもしれませんね。。。

萬年一著『葛飾百話』によると、この地の塚は意富木塚(おほふきづか)、つまりは大き塚(大塚)と呼ばれ、ほかに五百木塚などとも呼ばれ、これは前方後円墳が想起されるとしています。そして、某氏の研究として、この地域にはかつて前方後円墳とその陪塚が存在しており、その裏鬼門にあたる所に社があり、また塚を取り巻く周囲には湿地帯があってこれが周溝ではないかと考証しているようです。この社にはお稲荷さまが祀られており、このあたりが塚の中心地(後円部の中心地?)ではないかとされ、また社の南には池があり、この池は盗掘による掘られた窪地に水が溜まったものではないかと推測しています。そして、この盗掘により塚は荒廃し、村人たちは何のためらいもなく塚を取り壊し、農地としてしまったのではないかとしています。
葛飾区内では、柴又3丁目の柴又八幡神社古墳の学術的な調査が進められており、横穴式石室と埴輪を伴う前方後円墳であることが確認されています。この四つ木の地域の宝木塚前方後円墳説も、あながち荒唐無稽な説でもないのかもしれません。
この前方後円墳の推定地がどこにあたるのかは残念ながらよくわからなかったのですが、地名からは消滅してしまった「宝木塚」の名称は小学校の校名などに僅かに残されているようです。
<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
萬年一『葛飾百話』
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- 2017/11/03(金) 22:50:03|
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画像は、葛飾区四つ木1丁目に所在する「葛西清重墓(清重塚)」です。すでにマウンドは削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、この墓所内には葛西三郎清重の墓と呼ばれる五輪塔が所在します。
この清重塚について、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には興味深い記述を見ることが出来ます。同書には、「清重塚 当寺除地の畑中にあり、僅の塚なり。松二株あり上に小社を建、清重稲荷と崇めり。昔は塚も大なりしにや後年あたり近き陸田を廣めんとて、塚をも稍堀崩せるに一の石槨堀得たり。其蓋石に梵字と蓮華を刻し、側に葛西三郎清重と彫り、槨中に佛像及び武器等ありしかは佛像のみ取出て当時の宝物とし、其余は元の如く埋みて塚上に社を立しと云。按に清重が遺骨をここに葬すと云うこと疑ふべし。彼は文治五年奥州の泰衡追討とて下向し、凱陣の後其功に依て奥州七郡に封せられ検非違使所の事を管領して彼国へ移転し、子孫連綿住居せし由、対内風土記、平泉旧蹟志、奥羽観跡聞老志等にも載て、再び当郡へ帰住する事他に所見なしもしくば清重移転の後、一族の者ここに住してそれらの遺骨を葬せしなるを、清重が名高きを以誤り傳へしにあらすや。殊に寺伝に親鸞回国の時清重法弟と成て薙染し、宅地を寺とせしなと云事、年代齟齬するに似たり。是等に依ても清重にあらさる事論無るべし。又寺内に清重が碑とて五輪の塔あれど、銘に寛永八辛未天為道松禅定門云々とほのかにみゆれば、恐くは他人の碑なるべし。又其側に応永20年の古碑あれど是も何人の碑なりや詳ならず。」と書かれています。
つまりは、江戸時代に畑を拡げようとした際にこの塚から石棺が掘り出され、その蓋石には梵字と蓮華が彫られていて側には葛西三郎清重とあり、棺の中には仏像や武器の類がぎっしり詰まっていたようです。ただし、葛西三郎清重は文治5年に奥州の泰衡追討の成功により奥州に移転しており、清重の遺骨がこの場所に葬られているということは疑わしいのではないかとも書かれています。
この塚が清重の墓ではなく、塚からは石棺が掘り出され、棺の中には大量の武器が詰まっていたというエピソードからすると、清重塚は古墳だったのではないかと考えたくなるところですが、真相はいかがなものでしょうか。。。

画像が現在の清重塚のようすです。江戸時代には開墾により削平され、僅かな高まりであったとされる清重塚ですが、古くはかなり大きな塚であったと考えられるようです。現在は塚は完全に削平されて平らになっているようですが、地中には石室が埋まっているのでしょうか。
東京都教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。
東京都指定旧跡
葛西清重墓
所在地 葛飾区四つ木一の二五の八
西光寺墓地内
標 識 大正十五年四月
指 定 昭和三〇年三月二八日
葛西清重(一一六二-一二三八)は、鎌倉時
代前期の御家人です。葛西氏は平安時代末期
から下総国葛西地域に勢力をもつ豪族でした。
清重は、源頼朝の挙兵に応じて平氏追討のた
め西国に赴き、また奥州藤原氏征伐にも参加
して功績を挙げ、奥州惣奉行として奥州支配
の任に当たりました。そののちも、梶原景時
の乱の鎮圧に功を成し、壱岐守まで進みまし
た。草創期の鎌倉幕府において、頼朝の信任
の厚い重臣でした。この墓は、清重の墓と伝
えられているものです。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
画像は、同じ四つ木1丁目の「西光寺」を南東から見たところです。天台宗、超越山来光院と号す、葛西三郎清重の居館跡として知られるお寺です。
山門の横の塀の上にわずかに顔をのぞかせているのが、葛飾区観光協会による案内板で、この案内板には「史跡 葛西三郎清重の遺跡 西光寺は鎌倉時代、関東の豪族として雄飛した葛西三郎清重の居館跡として知られています。当寺は古くは嘉禄元年(1225年)清重の創建と伝えられ、天台宗超越山来迎院と号しています。また、近くにある清重塚と称す古墳は葛西清重夫妻の遺骸を葬った場所といわれています。 葛飾区 (社)葛飾区観光協会」と、清重塚についてもふれられています。
<参考文献>
東京都葛飾区教育委員会『葛飾区の歴史と史跡・名所・文化財』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪』
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- 2017/11/02(木) 01:16:19|
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画像は、葛飾区奥戸1丁目にある「鬼塚」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、葛飾区の遺跡番号25番の塚として登録されています。
この鬼塚については、以前にこの『古墳なう』で紹介しましたが、その後調べて判ったこともあり、書き加えて再掲載してみようと思います。
この周辺は昔は一面の水田地帯で、長雨に見舞われるとあたりは水浸しとなり、陸地がこの塚だけとなって周辺の蛇がこの塚に集まることから「蛇塚」とも呼ばれていたようです。また、二本の松の木が高く聳えて遠く四ツ木橋からも望見できたことから「二本松」とも呼ばれていました。また、葛西城の合戦との関係があり「首塚」ではないかとも考えられていたようです。
塚の周辺からは、古くから古墳時代後期の遺物が採集されており、古墳ではないかとも考えられていたそうです。しかし、近年の発掘調査により、中世と近世の二つの時期に築造された塚であることが判明しています。
元々の中世の塚は、近世に造られたとみられる土盛の下にかなり良好な状態で遺存しているそうで、東西約8m、南北約8.5mの方形を呈していると推定されています。土坑の分析の結果から、13世紀に墳墓として築造された可能性も考えられているようです。また、塚の南側からはハマグリを主体とした貝殻が堆積しており、生業活動に伴う儀礼行為が行われていたのではないかとも考えられているようです。その後、近世になって中世の塚の上に新しく土が盛られ、現在は東西約13.9m、南北約15.4m、高さ約1m(海抜)の方形ないし不整の円をなしています。塚の上に鎮座していた石の祠には「寛保二年壬戌七月吉日」と刻まれていたそうで、築造された年代として参考になるのではないかとされています。
塚の周りはきれいに整備されており、南東角には葛飾区教育委員会による説明板が立てられています。敷地内は立ち入り禁止なので、塚に近づいて見ることは出来ませんが、かつては鳥居が建てられて稲荷神の祠が祀られていたようです。また、この地から建武の紀銘年号の板碑が出土したそうですが、現在は所在が不明となっているようです。
<参考文献>
葛飾区郷土と天文の博物館『鬼塚・鬼塚遺跡Ⅶ』
萬年一『葛飾百話』
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- 2017/11/01(水) 21:40:03|
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画像は、葛飾区奥戸3丁目にある「葛飾区№23遺跡」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、葛飾区の遺跡番号23番の「時代不明の塚」として登録されています。
この塚については以前にもこの『古墳なう』で紹介したのですが、その後、最訪した際に土地の所有者のおばあちゃんやそのご友人である奥様にお話を聞くことが出来ました。また、その後入手した新しいカメラで写真も取り直すことが出来ました。あらためて取り上げてみようと思います。
祟りなどの否定的な言い伝えが存在したが故に、崩されずに残された古墳や塚の事例はこれまでにも数多く取り上げてきましたが、この塚にも古くからの祟りの言い伝えがあったようです。実際に、塚の整備の際に敷地内で立ち小便をしたところ、なんと!作業員の局部が大きく腫れ上がったということがあり、これは地元の人たちには塚の祟りだったのではないかといわれていたようです。
塚上には弁天様の祠が祀られていますが、作業員はこの弁天様の怒りに触れてしまったのでしょうか。。。

塚上に祀られている弁天様の祠です。
古くは、ある大学がこの塚の発掘調査を行ったことがあるそうです。土器らしき遺物が出土したともいわれているようですが、この調査がいつごろ行われたものなのか、またどの大学が行った調査なのか、詳細は全くわからず、この記録が記されている文献等は見つけることが出来ませんでした。。。

塚と同じ敷地内にひっそりと置かれているのが男根の石碑です。
この一帯が草ぼうぼうで藪になっていたところを、土地所有者のご友人である奥様が草むしりなどの整備をした際に発見したものであるそうです。子宝に恵まれなかったという土地所有者のご先祖様が、この碑を祀って祈願したものであるそうですが、過去にはこの存在を知ったTV局が取材に来たこともあるのだと、奥様から教えていただきました。
なぜか今回の塚にまつわるお話は下半身ネタが多くて、奥様も話し難かったかもしれないのですが、興味深いお話を聞けて、勇気を出して話しかけてみて良かったです。
ちなみに南西に数百メートルほどの地点には、発掘調査により中世と近世に築かれた塚であると判明した「鬼塚」が今も残存します。また北西数百メートルほどの中川を渡ったあたりには「熊野神社古墳」や「南蔵院裏古墳」等で形成される「立石古墳群」が存在します。この塚が古墳であるのか塚であるのかは諸説在るところですが、今後の調査の進展が楽しみな塚ではないでしょうか。
土地所有者のおばあちゃんとご友人の奥様には色々と教えていただきました。
楽しい時間をありがとうございました!
<参考文献>
葛飾区郷土と天文の博物館『鬼塚・鬼塚遺跡Ⅶ』
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- 2017/10/31(火) 00:44:52|
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画像は、葛飾区奥戸2丁目に所在する「入定塚」を南から見たところです。画像の右側は「南葛大師」で、左側が入定塚であるとされる「森市地蔵尊」です。森市地蔵尊の祠の前には「入定塚」の石碑が建てられています。
この場所には、村の古老の間で語り伝えられたという伝説が残されています。
ここに入定埋葬されたという森市は、他郷からこの土地に流れてきて土着したといわれ、村人の施しに縋って毎日の命を継いでおり、有る時は食べ、無い時は食べないという状態で、この塚のあたりに小屋を掛けて雨露を凌いでいたといわれています。森市は毎日村を廻って日暮れにはここに戻り、貰ったものを煮炊きしていました。村人たちはその姿を見ていて、何もない時に残り物を持っていって与えてやると、何度も何度も頭を下げていたそうです。
こうして何年か暮らすうちに、森市は自分の寿命が尽きることを悟り、これまで情けをかけてもらった村人の恩義に報いるために、生きながら入定して悪疫災難を村から除き、村人の無病長生の祈願を続けることを約束しました。
森市は、「この鈴の音が聞こえなくなったら成仏したと思って下され。念願は成就します。」と遺言を残してこの地に作法通りに座禅を組み、経文を唱えて行ない済せて宝鈴を振り続け、森市は村の発展と平和を願い、入定を断行したといわれています。
「入定塚」前に立てられている説明板には次のように書かれていました。
入 定 塚 の 由 来
此の入定塚は、森市と言う六部(行者)の終焉の地です。
以後この場所を、森市地蔵・または圦の河岸・と呼んでいます。
森市は、江戸時代他国より廻国してきた「六部」で、此の村で何年か過ごし
ましたが村人にも大変尊敬された行者でしたが「自己の天寿を悟り」今迄大変
お世話になった村の人等の繁栄を祈願し「入定」しました(入定とは生きなが
ら墓穴に入り、即身仏となって命を断つ意)。
経文を唱え、鉦を打ち、其の音が「三日・三晩」続いた……と伝えられてい
ます。村人は森市の死を哀れみ、お地蔵様を祀り供養しました。
現在のお地蔵様は、お堂内に祀られている聖徳太子像の、背面に安置され
ています。
南 葛 大 師 第十二番 の 由 来
南葛八十八ヶ所の一霊場として、お大師様のご遺徳と村の繁栄を願い、大
正十二年奥戸六丁目・真言宗 善紹寺住職 宇田川恵心 師、竝に地元有志
の「発願」により小堂を建て、弘法大使の石像を安置したもので「南葛大師」
と呼び称されています。以来、旧南葛飾郡一円の善男善女の信仰を集め、現
在に至っています。
古き代の 石のみほとけかしこみて
斎きまつれる 人ぞ尊き
坂本 凱二 詠
両社とも毎年六月二十四日 午前十時より盛大な供養会を執行しています。
所在地 葛飾区奥戸二丁目一番八号
平成十年六月
森市福地蔵尊弘法大師奉賛会
森市の入定を哀れんだ村人は遺言通りに塚を築いて手厚く葬り、それがこの「森市地蔵尊」です。
この付近に住むたばこ屋の老婆の話では、子供の頃に古老から聞いた話として、宝鈴の音が三日三晩鳴り響いたそうで、このころに森市は入定したのではないかと話されていたそうです。
このお話は、いつ頃の時代のものかも判らず、また森市という六部とも按摩とも知れない人物が何者なのかはいっさい不明ですが、現在も村人の篤い信仰によって老人たちの念仏講中に支えられて、毎年2月には墓前で念仏供養会が捧げられているそうです。
私が訪れた当日も、地元の女性が犬の散歩がてら、この森市地蔵尊にお参りに来ていました。
今でも地元の人に大切に祀られているようです。。。
<参考文献>
萬年一『葛飾百話』
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- 2017/10/30(月) 00:02:24|
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柴又八幡神社古墳は、葛飾区柴又3丁目の八幡神社の境内にあります。画像は、社殿を南から見たところです。
以前より露呈していた石組などから古墳ではないかと考えられていましたが、昭和40年の社殿改築に際して、考古学者による調査が行われ、埴輪片、馬具、石室石材の存在が確認されたそうです。現在は、社殿内に石室が復元されているそうですが、通常は非公開のようです。平成3年の立石遺跡の緊急調査では、墳丘は全く失われていますが、周溝内径12m、外径17mの陸橋付の円墳の周溝が検出されたそうです。平成14年に寅さん似の埴輪が出土され、報道されたことで有名になりました。

画像は、社殿裏の島俣塚です。出土した遺骨や遺品を納めてあるそうです。
- 2012/07/23(月) 01:11:14|
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