
「大蔵古墳群」は、世田谷区大蔵4丁目に所在する古墳群です。
これまでの調査により3基の古墳が確認されており、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号33番に登録されています。
「1号墳」は、昭和34年(1959)5月に大場磐雄氏により発掘調査が行われています。
この調査の正式な報告書は刊行されていないようですが、当時の記録によると、かなり破壊が進んでいだとされるこの古墳の墳形は円墳で、旧地表面を掘り窪めた半地下式ともいうべき位置に、凝灰質軟砂岩の切石を積み上げて構築した、複室構造の横穴式石室が確認されているようです。
昭和50年に刊行された『世田谷区史料 第8集 考古編』にある、その後の昭和43年(1968)に行われた調査の記録の中で、「今回の調査では1号墳の主体部は緑地として保存する地域にはいるので敢て再発掘せず…(後略)」と書かれています。おそらくは現在の世田谷区立総合運動場の陸上競技場南側の緑地内のどこかに埋葬施設が残されているのかもしれません。
画像は、この緑地内の様子です。
このどこかに1号墳が埋もれている、という目で見ると、地膨れのごとき高まりもすべて怪しく見えてしまいますが、残念ながら1号墳の正確な所在地はわからなくなっているようです。

この高まりなんてどうかな?

唯一おおよその位置がわかっている、野球場のピッチャーマウンドの真下に残されているといわれるのが「大蔵2号墳」です。
この古墳は、調査当時に畑地として使用されていたことから墳丘がほぼ削平されれおり、わずかな地膨れを残すのみとなっていたようです。露出する古墳の石室が見出されたものの、発掘期間の制約のため石室全体の発掘は行われず、露出部分の計測のみが行われています。石質は凝灰岩で、長さ4.8m、奥壁の幅1.85m、羨門部の幅1mで、床には長さ5~20cmほどの河原石が敷き詰められています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の大蔵村の条には、「塚三ヶ所 一は岡本村境にあり、村民持、山の内にて二間四方許、一は愛宕社の傍にあり、又一も此辺にあり、耕作の障になりしとて近き頃崩したれば、古瓦の如く損たるもの出しと云り」と記されています。
このうち、愛宕社の傍にあったという塚が1号墳で、耕作の邪魔になって削平された塚が2号墳であろうとされているようです。

「大蔵3号墳」は、調査により周溝が確認されており、径約29mの円墳であるとされています。この古墳も正確な所在地はわからなくなっているようです。
このあたりかな。

案外、高まりではなく窪みになっているこの辺だったりして。。。
この大蔵古墳群については、報告書が刊行されていないため、古墳の正確な位置を示す分布図が存在しません。
最後までどこに古墳があるのかわからず、しまいには野毛古墳まつりで世田谷区の学芸員の先生に直接お聞きしたのですが、やはり古墳の位置はわからなくなってる、ということでした。
私は学芸員のT先生のファンでした。野毛古墳まつりの古墳解説や発掘調査の発表会などで、いつも抜けの良い声と巧みな話術で、集まった人たちの前で古墳の解説をされていました。とても楽しませていただきました。
おそらく、本日で引退されるのではないかと思います。長い間お疲れ様でした。
3基ともに古墳の痕跡を見ることはできませんでしたが、いつの日かこの大蔵古墳群の調査が行われる日を待ちたいですね。。。
<参考文献>
東京都世田谷区『世田谷区史料 第8集 考古編』
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- 2020/03/29(日) 22:26:08|
- 世田谷区/大蔵古墳群
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