
画像は、川崎市中原区宮内4丁目に所在する「春日神社」です。
祭神は天津児屋根命で、旧宮内村の鎮守となっていた神社です。
自然堤防上に営まれたこの地域は古代から豊穣な土地でったそうです。
平安時代末期の平治元年(1159)~(1171)の頃、現在の中原区の宮内から井田の地域にかけて稲毛荘と呼ばれる荘園が成立して、荘園の鎮守として「春日新宮」が造立されました。これが現在の春日神社の前身で、荘園の領主である摂関家・藤原氏九条家の氏神である大和春日大社(奈良県)の祭神を勧請したものと考えられています。
『神奈川県神社誌』によると、境内には鹿を放して「関東の春日様」と呼ばれ、多くの参拝者で賑わったと伝えられています。
この神社の本殿裏には昔から不思議な力をもつ石があり、これに触れると崇りがあると云われていました。此の場所には古墳が存在したのではないかとも考えられており、一説には前方後円墳であったとも伝えられています。

昭和2年に発行された山田蔵太郎著『川崎誌考』には、本殿裏にある石と古墳について次のような記述が見られます。
「(前略)中原町宮内の春日神社本殿裏に今日も聖別されてある一坪許りの場所がある。其の中にある石は之に觸るれば祟ありとせられてあるが、今日では其石の姿見えず、何時の世にか他へ運び去られたか又は地下に埋没してゐるものか不明である。石と唱へられてあるのは古墳から往々出る石棺ではないかと考へられてゐる。それから此の春日神社の別當であつた常樂寺に今も曲玉二個保存されてある。徳川時代に林大學主監の下に編纂された〔新編武蔵風土記稿〕の材料蒐集に際し、係役人が此の曲玉を實檢に及びたる由を記した文書が同寺に殘つてゐる。そこで石棺=曲玉と斯う結び付けて見ると、直に古墳を想像せざるを得ない譯である。」(『川崎誌考』
拝殿の背後に「禁足地」が見えます。
『川崎誌考』の記述からすると、昭和初期には石の姿が見えなくなっていたようですので、おそらくは運び去られたのではなく埋没していたのではないかと考えられますが、現在はどんな状況なのでしょうか。
早速近づいてみましょう。。。

禁足地の様子です。
古墳の石棺とされる霊石は見られるのでしょうか。
この霊石について、境内に設置された説明板に詳細が書かれていました。
禁足地
春日神社付近は、多摩川の流れによって生まれたデルタで自然
堤防状の微高地で高瀬といわれている所です。
神社の裏にあります禁足地といわれている所は、新編武蔵風土
記稿(文化七~十一年 西暦一八一〇~二六)によれば、神霊
いとあらたかなれば、近づくときは祟りありとし、あえて近づ
くものなし、苔むし埋りければ、おのづから朽ちて今はその形
も見えず…と記されています。古墳といわれる禁足地が古くか
ら、宮内の人々にとって特別神聖な場所であり、やがて人々の
信仰の対象となる社が建立され、その後藤原氏の荘園となり藤
原氏の祖神である春日明神が勧請されたといわれている。
また神社由緒概要によると、天平十年(西暦七三八)戊寅の頃、
聖武天皇の御子阿部内親王(孝謙天皇)の御病平癒の為、春日
明神の霊石に祈願せしに、たちまち霊験現ると、後にその霊石
のもとに春日明神が勧請されたといわれている。その霊石は今
なほ存せり。その後霊跡の遺物永く保存されしが、いつの頃に
か回禄(火事)の厄いに罹り烏有に帰せりと記されています。
平成一九年四月、神社誌発刊に当り発刊記念として禁足地内に、
真榊を植樹するに際し掘削したところ、霊石(約一米大)と思
われる赤い石と壺が出土されました。故事を尊び霊石と思われ
る石は、直ちに元の所に丁重に埋め戻されました。 出土され
た壺は神社に保管されて居ります。
平成一九年十月吉日 春日神社 平成19年に発掘されているようですが、1m大の赤い石が出土したということですから、古墳の石室の、おそらくは天井石である可能性が高そうです。ただし、説明板の記述からすると、この位置に主体部が存在するのか、それともどこか他の場所から運ばれた石材であるのか、一番肝心な部分はわかりません。。。

禁足地内部の様子です。
霊石はちゃんと露出しています。
おそらくは房州石と考えられる、古墳の石材を連想させる霊石です。
はて?
この石、どこかでみたことがある光景だなあと思いましたが。。。

画像は、葛飾区立石8丁目にある「立石様」と呼ばれる霊石です。
『古墳なう』では、平成26年(2014)1月12日の回で取り上げました。
石で囲まれた周囲の様子もさることながら、房州石が露出した具合とかがそっくりだと思いませんか!笑。
ちなみにこの立石様は発掘調査が行われており、周辺の地下に古墳の石室や石棺の痕跡はなく、この地点が古墳ではないことが判明しています。
ただし、この石が古墳築造を目的として房総の鋸山の海岸部から運ばれた房州石であることはほぼ間違いないとされ、近隣に存在した「南蔵院裏古墳」の石室の構築石材が立石様の正体である可能性が高い…」と想定されているようです。つまり、別の場所にあった古墳の石材がこの場所に運ばれて、古代東海道の道標として再利用されたと想定されているようです。
果たして春日神社のどこに古墳があったのか、禁足地の地点が埋葬施設にあたるのか、とても興味深いところです。。。

境域を同じくする、春日神社に隣接する「常楽寺」です。
まんが寺として有名なお寺であるそうですが、不覚にも当日の私は勉強不足でスルーしてしまいました。

いつかもう一度訪れた際には、常楽寺の方もゆっくりと見学したいと考えているのですが、それはまたいずれ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-190.html(『立石様』平成26年1月12日)
<参考文献>
山田蔵太郎『川崎誌考』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
現地説明板
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- 2020/06/23(火) 23:10:47|
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「黄金塚古墳」は、川崎市中原区宮内1丁目に所在したといわれる古墳です。
この古墳は学術的な調査が行われていないため、古墳の規模や埴輪、葺石の存在、また埋葬施設についての詳細はわからないようですが、聞き取り調査により、大正10年の多摩川河川工事に際して破壊されたことがわかっているようです。
出土品についても不明で、正確な位置も分からなくなっているようですが、跡地と考えられる周辺に「遺跡 こがね塚」と刻まれた石碑が建てられています。
画像は北西から見た「遺跡 こがね塚」の石碑です。。。

この石碑が建てられている場所は、道路が微妙に弧を描くようにカーブしています。
ひょっとしたら、かつて存在した古墳を避けるように造られた道路で、この石碑の地点が古墳の跡地なのではないかと妄想してしまいますが、どうなのかな。。。


出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1190167&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)7月9日に米軍により撮影された「遺跡 こがね塚」の石碑の所在地周辺の空中写真です。
何かが存在したのではないか!と想像したくなるような地形ですが、これが当時残存する古墳であるか否かは判然としません。
う〜ん。古墳、ここにあったんじゃないかな。。。

塚の様子。
この小さな塚の西側に露出している断面が、古墳に見られる版築っぽくも見えるのですが、私の妄想かもしれませんし、なんとも言えません。
『川崎地名辞典(上)』によると、古墳は「古代前期」のものであったと伝えられているそうですが、その根拠もわからないままでした。。。
<参考文献>
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
日本地名研究所『川崎地名辞典(上)』
川崎市教育委員会『川崎の遺跡』
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- 2020/06/21(日) 23:00:07|
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私が最初に川崎市内の古墳を散策したのは10年近く前になります。
見て廻った古墳については、後で図書館でいろいろと調べてみたりするわけですが、この際に「クマモリ古墳」という名称がしばしば目につきました。この名称は複数の発掘調査報告書に見られ、分布図に古墳の位置が記されている書物も複数存在します。ところが、発掘調査が行われていないからか、埋葬施設や埴輪、葺石の有無、古墳の規模など詳細は何もわからず、また古墳にまつわる由来や伝承等もわからず、何よりも不思議なことに、川崎市教育委員会より発行された『川崎の遺跡』にもこの古墳は未登録という、実体のまったくわからない古墳でした。
結局、最初に散策した10年ほど前にはこのクマモリ古墳は見学しませんでした。。。
その後、一昨年になってもう一度川崎市内の古墳を散策してみようと思い立ち、このクマモリ古墳の存在を思い出しました。ところが、見学に先立ってあらためて調べてみても、残存する古墳ではあるらしいもののやはり詳細はほとんど何もわかりません。
というわけで、ほとんど何もわからないまま自分の目で確かめるために行ってみた、というのが、今回のクマモリ古墳の探訪の記録です。

画像は、川崎市高津区久本2丁目に所在する「龍台寺」です。
クマモリ古墳の所在地が記されている報告書の分布図とGoogleマップを見比べると、このお寺の本堂の背後が、東に向かって半島状に突き出るような形状の舌状台地となっており、その台地の先端に小さな神社と思しき鳥居と祠が確認できます。
ちなみにこの舌状台地の西側は「久保台古墳群」と呼ばれる地域で、これまで発掘調査により4基の古墳が確認されています。立地的には古墳の存在の可能性は十分に考えられます!

画像が龍台寺の本堂のようすです。
左奥が舌状台地の先端にあたる場所で、すでに神社の祠が見えています。
古墳らしく盛り上がっているようにも見受けられますが、これがクマモリ古墳なのでしょうか。。。

ズームしてみたところ。
下から見上げているので古墳らしく見えますが、台地の周囲は削られて地形が改変されているようですし、なんとも言えません。

祠の南側から階段が設けられています。
こちらから見ると、古墳らしきマウンドの存在は見られないようです。

階段を登ってみたところ。
平らに整地されているようです。
ホントに古墳かな。。。

台地の上から見下ろしてみたところ。
この角度から見ると、円形の古墳の墳丘を平らに削って祠を建てたようにも思えますが、確信は持てません。



さらに高いところから見下ろしたところ。この角度から見ると、山の斜面に築造された円墳を削って祠を建てた、という風にも思えます。
古墳が存在するとすれば、やはりこの神社の地点しか考えらえないように感じましたが、最後までこの場所が古墳であるのか確信は持てませんでした。。。
(ちなみに、クマモリ古墳の位置を記した分布図が掲載されている報告書は2、3冊は存在した記憶があるのですが、複写した資料を不覚にも紛失してしまって、参考文献として掲載することができまでん。これはまたいつか、川崎の図書館を訪れた際の宿題にしようと思います。。。)

クマモリ古墳からさらに西側に登った台地上に、高津区の№122遺跡として2基の古墳が登録されています。
この2基がどうやら「久保台古墳群3号墳」と「4号墳」となるようなのですが、『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』によると、3号墳は外径16m、内径14mの円墳で、「上面を削平されているが、比較的に遺存状況は良好である。」ということのようです。出土した遺物により6世紀中葉の築造と推定されています。
画像は、正確な場所がわからないので確信はありませんが、3号墳かな?と思われる地点です。

4号墳も正確な位置が不明なのですが、このあたりなのでしょうか。。。
外径で南北16.8m、東西22.25mの円墳で、出土した遺物が5世紀第1〜第2四半期の所産と考えられているようです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-999.html<参考文献>
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
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- 2020/06/19(金) 21:25:18|
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「子母口富士見台古墳」」は、川崎市高津区子母口に所在する古墳です。
『川崎の遺跡』には高津区の№98遺跡として「古墳」として登録されています。
この子母口富士見台古墳とその周辺地域一帯は、野川にある古刹「影向寺」周辺とともに、武蔵国橘樹郡の郡衙推定地として想定されている地域です。また南東には神奈川県指定史跡である「子母口貝塚」も残されています。
この古墳には、古くから弟橘媛にまつわる伝承が伝えられています。
古墳から南に200mほどの場所に「橘樹(たちばな)神社」があります。この神社の社伝によると、日本武尊東征の際、尊の身代わりに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠がこの地に漂着したと伝えています。
また、『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。
この社伝と古事記の記述とが結びつき、御陵とされてきたのがこの子母口富士見台古墳となるそうです。
どこまでが史実であるのか真偽はわかりませんが、とても興味深い伝承です。。。

北東から見た子母口富士見台古墳。
道路に面した墳丘北側の部分が大きく削られて変形しまっています。
現地説明板によると、現在の規模は墳径は17.5m、高さ3.7mを測りますが、築造当初はかなり大きな円墳であったと想定されているようです。

墳頂部の様子。
まるで、富士塚の噴火口のような窪地が見られます。

村田文夫氏は、著書『川崎・たちばなの古代史』のなかで、興味深い仮説を立てています。
明治、大正、昭和と現代の地図を見比べたときに、昭和4年の地図の子母口富士見台古墳の位置に盛土(塚?)を示す地図記号が見られ、現代の墳頂部の標高が38.9m、これに対して明治14年の地図では同じ地点の標高が30m余りで、大きな差があることから、子母口富士見台古墳は明治14年以降、昭和4年までの間に築造された盛土の可能性が高いのではないかと推測しています。
実際に、道路の敷設工事により墳丘を削った際に、古墳に見られる版築の跡が見られなかったともいわれています。
このあたりの真相を知るには、今後の調査の進展を待たなければなりません。。。



古墳の見学後、橘樹神社を参拝しました。
子母口富士見台古墳や橘樹神社の周囲は閑静な住宅街ですが、かつては武蔵国橘樹郡の郡衙として栄えていたわけですよね。実際に現地を散策して、地形を味わいながら様々な妄想をするのが楽しみの一つでもあるのです。。。

橘樹神社の社殿です。
今現在は大きな神社ではありませんが、かつては橘樹郡の総社であったと考えられている、歴史のある神社です。

橘樹神社境内で見かけた塚です。
「日本武の松」と「橘比免之命神廟」と刻まれた2基の石碑が建てられているのですが、パッと見が富士塚か御嶽塚かなという印象なので、びっくりしました。笑。

画像は「子母口貝塚」です。
子母口公園として整備、保存されており、子母口富士見台古墳から南東に徒歩4~5分ほどとかなり近い位置にあります。
縄文時代早期後半である約7,000年前のもので、多摩丘陵上で最も古い貝塚として知られているそうです。また、子母口貝塚は、関東の縄文土器編年約50型式の一つ「子母口式」の標式遺跡ともなっているそうです。
子母口貝塚は、元々は東西約100m、南北約150mの台地の範囲に4つの地点をもつ貝塚の総称で、そのうち2地点が現存しているそうです。

敷地内には「貝層の断面標本と発掘調査のあゆみ」という説明板が設置されています。
よく整備された綺麗な公園ですね。。。
<参考文献>
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』
現地説明版
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- 2020/06/14(日) 20:08:02|
- 川崎市の古墳・塚
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「千年伊勢山台古墳」は、川崎市高津区千年に所在する古墳です。
『川崎の遺跡』には、高津区№94遺跡として登録されている古墳ですが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設や周溝などの詳細はわかりません。昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録』の「川崎市の古墳(一)」に、この千年伊勢山台古墳についての記述が見られます。
「伊勢山台と呼ばれる標高約40メートルの丘陵東北端に地形を利用して築造された古墳で、正式な地番は川崎市千年伊勢山台四四二番地に属している。ここは影向寺台から連続している舌状台地で、古墳は台地の最末端部に位置しているため、崖崩れによって約五分の三が破壊されてしまった。附近は畑地で西側の墳麓も耕作のため若干削られている。高さ二・二メートル、墳径約一二・五メートルの小円墳である。」
画像が、千年伊勢山台古墳の所在地と思われる地点です。
「崖崩れが起こった舌状台地の先端」ということで、おそらくこの高まりが千年伊勢山台古墳の5分の2ほど残された墳丘ではないかと思われます。マウンドの裾のあたりにフェンスが設置されており、フェンスの奥は1mほどでほぼ垂直に近いような崖になっています。

この周辺は、古墳よりも橘樹郡衙推定地として知られており、古墳から南に100mほどの地点には、「たちばな古代の丘緑地」として千年伊勢山台遺跡の一部が保存されています。
川崎市内初の国指定史跡です。。。

実際、石碑と説明板以外に見るべきものはないのですが、とりあえずゆっくりくつろげます。
私はこのころはまだタバコを嗜んでいましたので、プカ~~~ッと一服しました。
日陰がないので、真夏の炎天下では死ぬかもしれません。。。笑。
古代の川崎市役所ともいえるこの一帯は、平成10年度から発掘調査が続けられており、伊勢山台から影向寺方面にかけて橘樹郡衙に関連すると推定される掘立柱建物跡などが発見されています。
橘樹郡衙推定地の北西には、古墳時代の川崎を支配していた豪族の墓とされる「西福寺古墳」や「馬絹古墳」があり、この豪族の拠点がこの橘樹郡衙推定地周辺であると考えられているようです。

この緑地内から発見された「千年伊勢山台2号古墳」がこのあたりです。
すでに墳丘は削平されて消滅していたようですが、発掘調査により推定径20mほどの周溝が検出されています。
東京都内では、府中市内に置かれた武蔵郡衙が、高倉古墳群と白糸台古墳群の間の古墳がまったく存在しない地域に造られているようなのですが、この橘樹郡衙は、それ以前に存在した古墳群をブッ壊して、その上に造られているわけですよね。
この違いはとても興味深いです。。。

緑地の北東隅には「橘樹郡衙跡」と刻まれた石碑が建てられています。
ちなみに緑地の南西側には、橘樹郡衙推定地と周辺の関連する周辺の文化財について解説された説明板が設置されています。

画像中央のあたりからも古墳の周溝が検出されています。
古墳の名称を確認できなかったのですが、「千年伊勢山台3号古墳」ということになるのでしょうか。。。

画像の地点からは「1号方形周溝墓」が確認されています。
方台部が東西に7.3m、南北は5.6mまで確認されており、方台部中央西寄りからほぼ完存する主体部が検出されています。

「橘樹郡衙跡」の見学後しばらくして、「影向寺(ようごうじ)」に立ち寄りました。
宮前区野川の影向寺台に所在する南武蔵きっての古刹で、この丘陵を東に進むと千年伊勢山台に至ります。
影向寺は天台宗に属するお寺で、『影向寺仮名縁起』によると、天平11年(739)に西武天皇の発願により僧行基が開基したと伝えられており、風土記稿には境内に置かれた影向石に記述が、また名所図会には影向石が描かれています。

画像は影向寺の本堂です。
影向寺境内から採集された古瓦の中には奈良時代のものが含まれており、このお寺の創建が縁起に近い、白鳳時代(7世紀末)にまで遡ることが明らかになっています。

画像は「太子堂」です。
疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像(鎌倉時代後期)が安置されており、毎年11月3日の縁日には、聖徳太子を祀るお祭りがおこなわれるそうです。

画像は「影向寺の乳イチョウ」です。
乳柱を削って汁を飲むと乳が出るようになるという伝説があり、影向寺の絵馬には乳しぼりの図柄が多いそうです。
堂々たる古木で、樹齢は2000年に達するものもあるといわれています。

私はむしろ、境内にこんな築山があると、「まさか古墳では?」と気になって仕方がないのです。笑。。。

影向寺境内の東南隅にある影向石です。
縁起でいう霊石にあたるものですが、実際の用途は塔の心礎であろうといわれています。

説明板には次のように書かれています。
影 向 石
当寺のいわれとなった霊石。奈良朝に本
寺創建のとき、ここには美しい塔が建てら
れ、その心礎として使用されました。心礎
には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心
となります。「影向」とは神仏の憑りますと
ころのことで、寺域は太古より神聖な霊地
神仏のましますところとして、信仰されて
いたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失わ
れた以降、この影向石のくぼみには常に霊
水がたたえられて乾くことなく、近隣から
眼を患う人々が訪れて、その功験によって
いやされました。江戸のはじめ万治年間に
薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら
堂を出でて、この石の上に難をのがれたと
いわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺
名を影向とあらためたと伝えれらます。
昭和五十一年五月吉日
重要文化財保存会



庚申塚。影向寺の北西200メートルほどの地点に所在します。
ギリギリ、第三京浜に壊されずに残ったのか、それとも壊された末にこの場所に移されたものか詳細はわかりませんが、塚が存在することに心踊ります。笑。

北から見たところ。

塚の上には3基の石塔が建てられています。。。
<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『千年伊勢山台遺跡 第1~8次発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『橘樹官衙遺跡群の調査』
現地説明版
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- 2020/06/12(金) 20:45:21|
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気がつけばなんと、記事番号が1000番に達していました。
今回は1000番記念ということで、ちょっと画像が大きめ。
画像は、川崎市高津区梶ケ谷3丁目に所在する「西福寺古墳」を南から見たところです。
地元の人にはかなり知られた古墳ですね。
高津区の№68遺跡として登録されているこの古墳は、現在は「梶ヶ谷第3公園」内に整備、保存されており、昭和45年に川崎市重要史跡に指定。その後、昭和55年(1870)には神奈川県の史跡として指定されています。
公園内には、川崎市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
西福寺古墳
西福寺古墳は、矢上川左岸に築かれた高塚古墳群の中にあって、規模が
大きく、保存状態も極めて良好です。
昭和五七(一九八二)年、古墳の景観整備の一環で行われた発掘調査
の結果、この古墳が築かれたのは、六世紀中頃から後半と考えられ、直径
約三十五メートル、高さ約五・五メートルの円墳で、墳丘の周囲には
幅六~七・五メートル、深さ約八十センチの溝(コンクリートブロックで
舗装されている部分)がめぐらされていたことがわかりました。
また出土した埴輪の中には、水鳥を模した埴輪の頭部も発見されてい
ます。
現在の西福寺古墳は、その成果に基づいて復元・整備をされたもので、
昭和五五年(一九八〇)九月一六日、神奈川県史跡に指定されています。
平成十一年(一九九九)三月 川崎市教育委員会
古墳の保護のため、植え込みの中に入らないようにお願いします。

史跡公園は、シーンと静まり返って誰もいないような場所も少なくないのですが、西福寺古墳が保存されているこの梶ヶ谷第3公園はいつも子供達が楽しそうに遊んでいて、とても雰囲気の良い公園です。
訪れた当日は墳丘上にも登ってみたのですが(子供らが古墳の上を全力で走り回っていたし)、見学を終えて写真も撮り終えて、最後に説明板を読んだところ、「古墳の保護のため植え込みの中に入るな」と書いてあるのを見て「げ」となりました。
墳頂部には三角点が設置されているのみで、特に古墳に関係するものは見られません。かなりバシャバシャと撮影しまくってしまったのですが、公開は控えておこうと思います。。。
この古墳は、一部の埴輪収集家により盗掘が行われており、昭和57年(1982)の調査の際には、墳麓のいたるところに盗掘の跡が残されていたそうです。
以前、栃木県内の古墳の現地説明会で、とある古墳の発掘現場で完形の埴輪の盗難事件が起きたというお話を学芸員の方にお聞きしたことがありますが、現代でもそんな事件が起きるのかとびっくりしました。(いや、犯罪だよという以前に、バチが当たりますよきっと)
貴重な文化財ですからね。大切にしたいものです。。。
<参考文献>
川崎市教育委員会「川崎市内の高塚古墳について」『川崎市文化財調査集録 第24集』
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- 2019/07/04(木) 23:56:01|
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多摩丘陵の北東縁の一角、現在の川崎市高津区末長2丁目周辺には、「久保台」と呼ばれる台地が存在します。この台地上は「久保台遺跡」と呼称され、縄文・弥生・土師・須恵」の散布地として知られています。
久保台遺跡と呼ばれる一帯は長く畑地として利用されていたようですが、昭和60年(1985)頃に地元在住の住民が埴輪の存在に気付き、以後採集された埴輪の破片は、昭和63年(1988)10月までに、40×30×20cmの箱にして7箱分にも及ぶそうです。埴輪片は径50メートルの範囲から採集されており、台地の中央部からまとまって出土していることから、埴輪窯とは考えられず、この場所に高塚古墳が存在したのは間違い無いと考えられていたようです。
画像は、久保台遺跡内に所在する「江戸見桜」です。川崎市の『まちの木50選』にも選ばれている桜で、品種はオオシマサクラです。
現地に設置された説明板には
江戸見桜 「江戸が見える」「江戸からも見える」として地元はもとより、大山詣での人の目印にもなったので。この名が付けられたと言われ、平安時代後期の武将八幡太郎義家も馬を休めたとも伝えられている。この地は鎌倉時代から明治初期にかけて熊野権現の境内で、桜は依代の樹で浄土を現す象徴として複数植えられたらしい。 と、この桜にまつわる多くの伝承が記されています。

埴輪片が採集された場所は、この江戸見桜の西方40メートルほどの地点で、画像の左側にあたります。
埴輪は、円筒埴輪、朝顔形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪が出土しており、埴輪の出土は2箇所に大別されています。これを甲群、乙群とすると、甲群の古墳は6世紀を前後する時期、乙群の古墳は6世紀の第一四半期~第二四半期に築造されたと推定されているようです。
埴輪が採集された当時、すでに古墳としての表徴は見られなかったようですが、『川崎市文化財調査収録』に収録の「川崎市高津区末長久保台出土の埴輪」には、「採集地点から東方40mの遺跡最高所には、塚状の高まりが存在し、古墳である可能性を有するものといえる。」と書かれています。同書に掲載されている布図と照らし合わせると、「遺跡最高所の塚状の高まり」とはどうやらこの「江戸見桜」の場所であるようです。
その後、平成12年(2000)から翌13年(2001)にかけて、宅地造成に伴う発掘調査が行われ、5世紀前半から6世紀中葉に築造されたと推定される古墳4基の古墳の周溝が検出されたようです。この調査の詳細は、報告書を見つけることができなかった(未刊行かもしれない)ので、よくわからないのですが、周溝の一部が確認されたという1号墳の周溝からは、5世紀末から6世紀初頭、6世紀前半という異なる2種類の埴輪が出土しているそうです。
想像するに、江戸見桜の西方40mほどの地点が1号墳。そしてこの江戸見桜の地点も古墳であり、2基の古墳の埴輪片が1号墳の周溝に混在していた、という状況が考えられそうですが、真相はわかりません。

『川崎の遺跡』からすると、画像の畑地の奥にも古墳が1基登録されているようです。江戸見桜の西側の古墳が1号墳であれば、この場所が2号墳となるのかも知れませんが、現状は古墳の痕跡らしき高まりは見られないようです。

『川崎の遺跡』によると、「江戸見桜」の東方20~30メートルほどの地点にも、高津区No.122遺跡として2基の古墳が登録されているようです。おそらくは、この2基が3号墳と4号墳ということになるのでしょうか。
3号墳は、平成20年(2008)に刊行された『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』に「上面を削平されているが、比較的に遺存状況は良好である。」とあるようですが、現地で散策したところでは、正確な古墳の位置はわかりませんでした。外径16m、内径14mの円墳で、出土した遺物により6世紀中葉の築造と推定されています。
4号墳は、外径で南北16.8m、東西22.25mの円墳で、出土した遺物が5世紀第1〜第2四半期の所産と考えられているようです。

周辺をよーく観察してみると、円形を呈するわずかな高まりを見つけることができました。これが古墳に関係するものなのかどうかは不明ですが、かなり気になる形状です。
少なくとも古墳群として複数の古墳が存在したことは間違いないようですので、これからの調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
鈴木重信「川崎市高津区末長久保台出土の埴輪」『川崎市文化財調査収録 第25集』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
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- 2019/07/02(火) 23:16:46|
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今回は、川崎市高津区久本1丁目に所在の「久本山古墳」の探訪の記録です。
古墳の見学に先立って、まずは久本神社を参拝しました。この神社は、明治期までは久本山古墳の墳丘上にあったという神社です。明治6年(1873)の神仏分離により神社の統廃合が行われ、久本村にあった杉山社、神明社、八幡社が合祀、現在地に移されて社名とされています。久本山古墳に祀られていたのは神明社で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「神明社 村の中央丘上にあり、龍臺寺持」と記されています。

久本神社境内の様子です。祭神を天照大神で、現在の社殿は昭和29年に建築されたものだそうです。
社殿の背後に見えているのが久本山で、この丘陵の頂部にあたる舌状台地の先端に古墳が存在するようです。 かつてはこの神社の脇から久本山古墳に登る道があったようなのですが、現在は入り口が塞がれていて、ここからは立ち入ることができないようです。

丘陵頂部の様子です。
この周辺もかなり開発が進み、古墳所在地の南側には大きなマンションが立ち並んでいます。そして、久本山の頂部には礼拝堂が建てられています。ネットで調べて見たところでは、この礼拝堂はヘールポップ彗星が近日点を通過したという平成9年(1997)に建設されたそうですが、古代に墳墓が築造され、かつては神社が祀られていた場所がいかなる理由で礼拝堂となったのか、とても興味深いですね。
久本神社側から見た景観とはまるで別世界という印象です。
この角度から見ると、礼拝堂の土台の部分が古墳であるかのようにも見えるのですが、画像の礼拝堂の背後にさらにこんもりと小高くなったマウンドが見られます。これが、残存する久本山古墳なのでしょうか。。。

礼拝堂の背後、東側から撮影した古墳らしきマウンドの様子です。
色々と資料を調べてみると、平成8年(1996)に発行された『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』に掲載されている「橘樹郡内の古墳一覧表」には、久本山古墳は「残存」とされており、「古墳は高津区467付近にある円墳で…」と書かれているのですが、平成9年(1997)に発行された『川崎市市民ミュージアム紀要 第9集』の「川崎の埴輪Ⅱ」には「現在は古墳の表徴は認められない」とも書かれています。
この高まりが残存する久本山古墳であるならば、せめて説明板が設置されていれば良いのになあと思いますが、なかなか難しいのでしょうか。

南から見たところです。
丘陵の最上部には小さな石像仏が存在するということなので、これが確認できれば、この塚が久本山古墳で間違いない!と考えたのですが、塚上には篠竹がびっしりと生い茂っていて、石像仏はおろか塚の形状すら確認することができません。また、伝承では古墳の周囲には円筒埴輪が巡っていたと云われているようですが、これも確認することはできません。
この古墳から出土したという円筒埴輪や形象埴輪が公開されていますので、少なくともこの地に古墳が存在したことは間違いないと思われますが、墳形や規模、埋葬施設や周溝等の詳細はわかりませんでした。

さらに近寄ってみたところ。
この角度から見ると、古墳らしく見えますね。

塚の裾部には、お地蔵様が祀られていました。
ひょっとしたら、最上部に存在したという石像仏が移されたものかとも考えましたが、このお地蔵様はかなり新しいものであるようですし、詳細は不明です。

画像は、川崎市市民ミュージアムで公開されている、久本山古墳出土とされる埴輪です。昭和8年頃に採集されたとされるもので、ほぼ完形の人物埴輪です。頭部に髷が剥がれており、女性像です。

画像は、久本山の北側の麓に建てられている、『久本B地区急傾斜地崩壊危険区域』の説明板に掲載されている地形図です。
なんと!開発が行われる以前の地形図が使われており、久本山古墳の西方数十メートルほどの地点に所在したとされる「桃ノ園古墳」の位置を見ることができます。
画像の中央右寄りが久本山で、中央左寄りの半島状に突き出た舌状台地の先端の円形の地形が桃ノ園古墳と思われます。
この地を訪れる古墳マニアのために、わざわざ古い地形図を使ってくれたんですねえ。(そんなわけないだろ)

この桃ノ園古墳は発掘調査が行われているようなのですが、調査に関する報告書が全く見つからず、人物埴輪が出土したという以外には詳細がわかりませんでした。古墳は直径は20メートルほどの円墳で、戦時中の爆弾被害による破壊が著しく、埋葬施設等の詳細はわからなかったようです。
古墳の跡地は開発により大きく地形が変わってしまっており、古墳の正確な位置まではわかりません。桃ノ園古墳の痕跡は何も見ることはできません。。。

「久本山古墳」の北側100メートルほどには「久本薬医門公園」があります。
ここは、江戸時代から八代続いた医家、岡家の屋敷跡で、江戸時代末期の建築と伝えられています。黒澤明監督の映画「赤ひげ」養生所のモデルにもなっているそうです。敷地内は公園として整備されており、残された蔵や日本庭園が整備されています。
「薬医門」とは、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたとも、かつて医者宅の門として使われていたからとも言われ、門の脇に木戸を付けて、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたとも言われているそうです。
現存する門は明治43年に完成したもので、馬で往診に出かける際に乗馬したまま門を通れるように内法を高く造ったと伝えられています。

門前には「岡先生記徳碑」や、慶応四年(1868)に近隣住民により建立されたという庚申塔が建てられています。庚申塔は、元は南武線久本踏切のそばにあったものが移されたものです。道標を兼ねていて、右面には「影向寺薬師 加な川道」、左面には「溝口府中道 庚申塔 小杉川崎道」と彫られています。

公園内に復元された土蔵です。江戸時代末期の建物であるそうです。
大正12年9月の関東大震災で背面と東面の壁がほとんど落ち、また第二次世界大戦中の爆撃被害により壁の一部は崩落、屋根は延焼し、その後はトタン屋根にて応急処置がなされていたそうです。
平成18年の整備工事により、基礎石や柱、床や建具、梁組は建築当時のものを活かし、屋根や壁等を新しい材料に交換して、復元されています。
こういう場所が落ち着くのはどうしてなんでしょうね。
私は、公園の前の道を通るたびに、3回もここで休憩しました。。。
<参考文献>
浜田普介「川崎の埴輪Ⅱ」『川崎市市民ミュージアム紀要 第9集』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
川崎市民ミュージアム『諏訪天神塚古墳』
現地説明板
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- 2019/06/30(日) 23:38:35|
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さて、今回紹介するのは、川崎市高津区末長所在の「末長向台遺跡」です。
この遺跡内からは、これまで行われた発掘調査により6基の古墳が確認されており、「末長向台古墳群」と呼称されています。
まずは「末長向台古墳群1号墳」です!
画像は、高津区1丁目に現存する、北から見た「口明塚」です。
かつては、「口明塚」と呼ばれる大きなマウンドがこの場所に残されていたようですが、その後開発が進み、現在は、川崎上下水道局中部サービスセンターの敷地内のわずかな一角に残されるのみです。小さく盛られた塚の上に「口明塚」と刻まれた石碑と、お地蔵様が祀られています。発掘調査により検出された「末長向台古墳群」の6基の古墳のうち、唯一痕跡の残る古墳といえるかもしれません。
平成17年に、この口明塚の道路を挟んで北側にあたる、末永向台遺跡第二地点の発掘調査が行われ、古墳の周溝が検出されたことから、この「口明塚」が古墳であったことが確認されています。
古墳の復元外径は30m前後、内径は20mほどの円墳で、土師器坏や円筒埴輪片が出土しており、5世紀第4四半期から6世紀第1四半期の築造と推定されているようです。

塚上に建てられている「口明塚」の石碑です。
この古墳の名称からして、おそらく往時の古墳は石室が開口していたのではないかと想像できますが、ひょっとして、まだこのわずかな敷地の地中に主体部の痕跡が残されているのではないかと想像すると、ちょっとワクワクしますね。
この画像は平成12年に撮影したもので、当時、水道局のスタッフの方にお願いして石碑の正面から撮らせていただきました。お仕事中に煩わせてしまって、本当にありがとうございました。
それにしても、訪れてから7年後に公開しているようでは、古墳「なう」の看板に偽りありですよね。。。実はこの時期に、当時使っていたパソコンを崩壊させてしまって、それまで撮影した多くの古墳画像を消失してしまったのですが、この画像は救い出すことができたという、貴重な画像なんです。

「末永向台2号墳」はだいたいこのあたり。
平成19年(2007)に行われた調査により確認された古墳です。縄文時代の集積土坑、土坑、陥し穴や平安時代の竪穴住居跡とともに、古墳時代後期の古墳の周溝が検出されています。外径20m、内径14.79mを測る陸橋付(ブリッジ付)の円墳で、主体部は墳丘が完全に削平されており、検出されなかったようです。
1号墳に続いて新たな古墳が確認されたことにより、清水谷古墳、法界塚古墳から西福寺古墳との間に多数の古墳が築造されていたことが明らかになっています。

「3号墳」はだいたいこのあたり。
平成19年(2007)4月から5月にかけて行われた発掘調査により、縄文時代の土坑、陥し穴、平安時代の竪穴住居跡とともに古墳の周溝が検出されています。現在は集合住宅が建てられており、古墳の痕跡は見当たりません。。。

画像の中央の集合住宅の辺りが「4号墳」の所在地です。
画像手前あたりに見えるように、この一帯はまだまだ畑地として使用されている土地も少なくないようですし、今後の調査次第ではかなり多くの遺跡が発見される可能性も感じられます。遺跡が集中している場所で畑地をみるとワクワクしますね。。。

「5号墳」はだいたいこのあたり。
昭和60年(1985)に発刊された『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』には、この周辺に存在した古墳の可能性のある塚について、次のような記述が見られます。
口明塚より東へ80mのところに高さ1.5m、径5m位のマウンドを持つものが昭和30年代まで存在していた。同じく川野芳郎氏の言によれば、それは低い小さなもので裾の方に竜の髭が植えられ、うえの方に玉石がいくつか置かれていたと言う。関東の霊山である大山に関係した供養塚みたいなもので大山講などで参拝に行く時に先づこの塚を拝んでいったものだとの話であった。その地点は高津区末長506番地で、これも一応地点を示した。 この塚と5号墳が同一のものかは、塚が消滅してしまった今となっては確認することは不可能ですが、同書に掲載の分布図からするとこの供養塚が5号墳である可能性は十分に考えられそうです。昭和初期にはまだ多くの古墳の痕跡が残されていたのかもしれませんね。。。

「6号墳」はだいたいこのあたり。
末長向台古墳群では、「口明塚(1号墳)」以外に古墳の痕跡は見られないようですが、今後、多くの未確認古墳が発見される可能性も高く、とても興味深い地域です。
調査の進展が楽しみです。
<参考文献>
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第2地点・末長向台古墳群』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
川崎市教育委員会『末長向台遺跡第5地点』
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- 2019/06/24(月) 23:29:02|
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前回に引き続き、今回も川崎市内の十三塚について取り上げようと思います。
神奈川県は多くの十三塚が築造された地域であり、昭和59年(1984)に発行された『十三塚 ―現況調査編―』掲載の「十三塚保存状況等一覧表」によると、日本全国でも三番目に多い、26箇所に確認されています。川崎市内でも7箇所に十三塚が所在したといわれており、麻生区の五力田と東京都稲城市平尾の境界付近には、現在も一列に並ぶ十三塚が現存します。
画像は、川崎市宮前区神木本町4丁目に現存する「十三坊塚の道標」です。
この角度から見ると、盛り上がった塚状地形の裾部に石碑が建てられているように見えるのですが、実際には、宅地化が進んだ地域の中にあって、この一角だけが東西に20~30mほどの細長い敷地として残されています。敷地内はびっしりと篠竹が生い茂っていて内部がどんな形状となっているのか謎ですが、ひょっとしたらこの藪の中に十三塚のうちの何基かが残されているのではないかと期待が膨らみます。
この十三塚について、『新編武蔵風土記稿』の中に記述が見られないかと調べてみましたが、上作延村の項に「十三坊原 村ノ西南丘上ノ平地ヲ云此邊長尾村ノ續キニシテカノ村ニテモ此地名ヲ唱ヘヌレト文字ヲ十三本原ト(?)テ唱ヘモオノツカラコトナリ名義ハ二村トモ傳ヘヲ失ヒテ詳ナラス或ハ十三佛ヲ供養セシ跡ナリト是ニヨレハ十三坊ト記ス方マシナランカサレト巨樹十三本アリシ地ト云傳説モアレハ今何レテ是ナルヘシトモ定メカタシ」と書かれていました。上作延村の西南、ということですから、これが十三坊塚についての記述とみてよいのではないかと思われます。
ここから東に400~500mほどの地点には「上作延南原古墳」、北西に400~500mほどの地点には「長尾古墳」が現存します。古墳ファンにとってはとても気になる十三塚です。。。

この台地はかつては十三坊台と称され、王禅寺道から溝口、府中方面に向かう道路が分岐する、交通の要衛であったといわれています。
画像の、文化12年(1815)建立の道標を兼ねた庚申塔には、「東 二子道」、「西 王ぜんじ道」、「北 ふちう道」と刻まれています。
<参考文献>
千秋社『新編武蔵風土記稿 横浜 川崎編1』
柿生郷土史料館『柿生文化』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
川崎市宮前区役所『宮前区歴史ガイドまち歩き 10 王禅寺道』
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- 2019/06/19(水) 22:09:26|
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