
画像は、川崎市中原区宮内4丁目に所在する「春日神社」です。
祭神は天津児屋根命で、旧宮内村の鎮守となっていた神社です。
自然堤防上に営まれたこの地域は古代から豊穣な土地でったそうです。
平安時代末期の平治元年(1159)~(1171)の頃、現在の中原区の宮内から井田の地域にかけて稲毛荘と呼ばれる荘園が成立して、荘園の鎮守として「春日新宮」が造立されました。これが現在の春日神社の前身で、荘園の領主である摂関家・藤原氏九条家の氏神である大和春日大社(奈良県)の祭神を勧請したものと考えられています。
『神奈川県神社誌』によると、境内には鹿を放して「関東の春日様」と呼ばれ、多くの参拝者で賑わったと伝えられています。
この神社の本殿裏には昔から不思議な力をもつ石があり、これに触れると崇りがあると云われていました。此の場所には古墳が存在したのではないかとも考えられており、一説には前方後円墳であったとも伝えられています。

昭和2年に発行された山田蔵太郎著『川崎誌考』には、本殿裏にある石と古墳について次のような記述が見られます。
「(前略)中原町宮内の春日神社本殿裏に今日も聖別されてある一坪許りの場所がある。其の中にある石は之に觸るれば祟ありとせられてあるが、今日では其石の姿見えず、何時の世にか他へ運び去られたか又は地下に埋没してゐるものか不明である。石と唱へられてあるのは古墳から往々出る石棺ではないかと考へられてゐる。それから此の春日神社の別當であつた常樂寺に今も曲玉二個保存されてある。徳川時代に林大學主監の下に編纂された〔新編武蔵風土記稿〕の材料蒐集に際し、係役人が此の曲玉を實檢に及びたる由を記した文書が同寺に殘つてゐる。そこで石棺=曲玉と斯う結び付けて見ると、直に古墳を想像せざるを得ない譯である。」(『川崎誌考』
拝殿の背後に「禁足地」が見えます。
『川崎誌考』の記述からすると、昭和初期には石の姿が見えなくなっていたようですので、おそらくは運び去られたのではなく埋没していたのではないかと考えられますが、現在はどんな状況なのでしょうか。
早速近づいてみましょう。。。

禁足地の様子です。
古墳の石棺とされる霊石は見られるのでしょうか。
この霊石について、境内に設置された説明板に詳細が書かれていました。
禁足地
春日神社付近は、多摩川の流れによって生まれたデルタで自然
堤防状の微高地で高瀬といわれている所です。
神社の裏にあります禁足地といわれている所は、新編武蔵風土
記稿(文化七~十一年 西暦一八一〇~二六)によれば、神霊
いとあらたかなれば、近づくときは祟りありとし、あえて近づ
くものなし、苔むし埋りければ、おのづから朽ちて今はその形
も見えず…と記されています。古墳といわれる禁足地が古くか
ら、宮内の人々にとって特別神聖な場所であり、やがて人々の
信仰の対象となる社が建立され、その後藤原氏の荘園となり藤
原氏の祖神である春日明神が勧請されたといわれている。
また神社由緒概要によると、天平十年(西暦七三八)戊寅の頃、
聖武天皇の御子阿部内親王(孝謙天皇)の御病平癒の為、春日
明神の霊石に祈願せしに、たちまち霊験現ると、後にその霊石
のもとに春日明神が勧請されたといわれている。その霊石は今
なほ存せり。その後霊跡の遺物永く保存されしが、いつの頃に
か回禄(火事)の厄いに罹り烏有に帰せりと記されています。
平成一九年四月、神社誌発刊に当り発刊記念として禁足地内に、
真榊を植樹するに際し掘削したところ、霊石(約一米大)と思
われる赤い石と壺が出土されました。故事を尊び霊石と思われ
る石は、直ちに元の所に丁重に埋め戻されました。 出土され
た壺は神社に保管されて居ります。
平成一九年十月吉日 春日神社 平成19年に発掘されているようですが、1m大の赤い石が出土したということですから、古墳の石室の、おそらくは天井石である可能性が高そうです。ただし、説明板の記述からすると、この位置に主体部が存在するのか、それともどこか他の場所から運ばれた石材であるのか、一番肝心な部分はわかりません。。。

禁足地内部の様子です。
霊石はちゃんと露出しています。
おそらくは房州石と考えられる、古墳の石材を連想させる霊石です。
はて?
この石、どこかでみたことがある光景だなあと思いましたが。。。

画像は、葛飾区立石8丁目にある「立石様」と呼ばれる霊石です。
『古墳なう』では、平成26年(2014)1月12日の回で取り上げました。
石で囲まれた周囲の様子もさることながら、房州石が露出した具合とかがそっくりだと思いませんか!笑。
ちなみにこの立石様は発掘調査が行われており、周辺の地下に古墳の石室や石棺の痕跡はなく、この地点が古墳ではないことが判明しています。
ただし、この石が古墳築造を目的として房総の鋸山の海岸部から運ばれた房州石であることはほぼ間違いないとされ、近隣に存在した「南蔵院裏古墳」の石室の構築石材が立石様の正体である可能性が高い…」と想定されているようです。つまり、別の場所にあった古墳の石材がこの場所に運ばれて、古代東海道の道標として再利用されたと想定されているようです。
果たして春日神社のどこに古墳があったのか、禁足地の地点が埋葬施設にあたるのか、とても興味深いところです。。。

境域を同じくする、春日神社に隣接する「常楽寺」です。
まんが寺として有名なお寺であるそうですが、不覚にも当日の私は勉強不足でスルーしてしまいました。

いつかもう一度訪れた際には、常楽寺の方もゆっくりと見学したいと考えているのですが、それはまたいずれ。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-190.html(『立石様』平成26年1月12日)
<参考文献>
山田蔵太郎『川崎誌考』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
現地説明板
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- 2020/06/23(火) 23:10:47|
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「黄金塚古墳」は、川崎市中原区宮内1丁目に所在したといわれる古墳です。
この古墳は学術的な調査が行われていないため、古墳の規模や埴輪、葺石の存在、また埋葬施設についての詳細はわからないようですが、聞き取り調査により、大正10年の多摩川河川工事に際して破壊されたことがわかっているようです。
出土品についても不明で、正確な位置も分からなくなっているようですが、跡地と考えられる周辺に「遺跡 こがね塚」と刻まれた石碑が建てられています。
画像は北西から見た「遺跡 こがね塚」の石碑です。。。

この石碑が建てられている場所は、道路が微妙に弧を描くようにカーブしています。
ひょっとしたら、かつて存在した古墳を避けるように造られた道路で、この石碑の地点が古墳の跡地なのではないかと妄想してしまいますが、どうなのかな。。。


出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1190167&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)7月9日に米軍により撮影された「遺跡 こがね塚」の石碑の所在地周辺の空中写真です。
何かが存在したのではないか!と想像したくなるような地形ですが、これが当時残存する古墳であるか否かは判然としません。
う〜ん。古墳、ここにあったんじゃないかな。。。

塚の様子。
この小さな塚の西側に露出している断面が、古墳に見られる版築っぽくも見えるのですが、私の妄想かもしれませんし、なんとも言えません。
『川崎地名辞典(上)』によると、古墳は「古代前期」のものであったと伝えられているそうですが、その根拠もわからないままでした。。。
<参考文献>
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
日本地名研究所『川崎地名辞典(上)』
川崎市教育委員会『川崎の遺跡』
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- 2020/06/21(日) 23:00:07|
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私が最初に川崎市内の古墳を散策したのは10年近く前になります。
見て廻った古墳については、後で図書館でいろいろと調べてみたりするわけですが、この際に「クマモリ古墳」という名称がしばしば目につきました。この名称は複数の発掘調査報告書に見られ、分布図に古墳の位置が記されている書物も複数存在します。ところが、発掘調査が行われていないからか、埋葬施設や埴輪、葺石の有無、古墳の規模など詳細は何もわからず、また古墳にまつわる由来や伝承等もわからず、何よりも不思議なことに、川崎市教育委員会より発行された『川崎の遺跡』にもこの古墳は未登録という、実体のまったくわからない古墳でした。
結局、最初に散策した10年ほど前にはこのクマモリ古墳は見学しませんでした。。。
その後、一昨年になってもう一度川崎市内の古墳を散策してみようと思い立ち、このクマモリ古墳の存在を思い出しました。ところが、見学に先立ってあらためて調べてみても、残存する古墳ではあるらしいもののやはり詳細はほとんど何もわかりません。
というわけで、ほとんど何もわからないまま自分の目で確かめるために行ってみた、というのが、今回のクマモリ古墳の探訪の記録です。

画像は、川崎市高津区久本2丁目に所在する「龍台寺」です。
クマモリ古墳の所在地が記されている報告書の分布図とGoogleマップを見比べると、このお寺の本堂の背後が、東に向かって半島状に突き出るような形状の舌状台地となっており、その台地の先端に小さな神社と思しき鳥居と祠が確認できます。
ちなみにこの舌状台地の西側は「久保台古墳群」と呼ばれる地域で、これまで発掘調査により4基の古墳が確認されています。立地的には古墳の存在の可能性は十分に考えられます!

画像が龍台寺の本堂のようすです。
左奥が舌状台地の先端にあたる場所で、すでに神社の祠が見えています。
古墳らしく盛り上がっているようにも見受けられますが、これがクマモリ古墳なのでしょうか。。。

ズームしてみたところ。
下から見上げているので古墳らしく見えますが、台地の周囲は削られて地形が改変されているようですし、なんとも言えません。

祠の南側から階段が設けられています。
こちらから見ると、古墳らしきマウンドの存在は見られないようです。

階段を登ってみたところ。
平らに整地されているようです。
ホントに古墳かな。。。

台地の上から見下ろしてみたところ。
この角度から見ると、円形の古墳の墳丘を平らに削って祠を建てたようにも思えますが、確信は持てません。



さらに高いところから見下ろしたところ。この角度から見ると、山の斜面に築造された円墳を削って祠を建てた、という風にも思えます。
古墳が存在するとすれば、やはりこの神社の地点しか考えらえないように感じましたが、最後までこの場所が古墳であるのか確信は持てませんでした。。。
(ちなみに、クマモリ古墳の位置を記した分布図が掲載されている報告書は2、3冊は存在した記憶があるのですが、複写した資料を不覚にも紛失してしまって、参考文献として掲載することができまでん。これはまたいつか、川崎の図書館を訪れた際の宿題にしようと思います。。。)

クマモリ古墳からさらに西側に登った台地上に、高津区の№122遺跡として2基の古墳が登録されています。
この2基がどうやら「久保台古墳群3号墳」と「4号墳」となるようなのですが、『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』によると、3号墳は外径16m、内径14mの円墳で、「上面を削平されているが、比較的に遺存状況は良好である。」ということのようです。出土した遺物により6世紀中葉の築造と推定されています。
画像は、正確な場所がわからないので確信はありませんが、3号墳かな?と思われる地点です。

4号墳も正確な位置が不明なのですが、このあたりなのでしょうか。。。
外径で南北16.8m、東西22.25mの円墳で、出土した遺物が5世紀第1〜第2四半期の所産と考えられているようです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-999.html<参考文献>
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
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- 2020/06/19(金) 21:25:18|
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「子母口富士見台古墳」」は、川崎市高津区子母口に所在する古墳です。
『川崎の遺跡』には高津区の№98遺跡として「古墳」として登録されています。
この子母口富士見台古墳とその周辺地域一帯は、野川にある古刹「影向寺」周辺とともに、武蔵国橘樹郡の郡衙推定地として想定されている地域です。また南東には神奈川県指定史跡である「子母口貝塚」も残されています。
この古墳には、古くから弟橘媛にまつわる伝承が伝えられています。
古墳から南に200mほどの場所に「橘樹(たちばな)神社」があります。この神社の社伝によると、日本武尊東征の際、尊の身代わりに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠がこの地に漂着したと伝えています。
また、『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。
この社伝と古事記の記述とが結びつき、御陵とされてきたのがこの子母口富士見台古墳となるそうです。
どこまでが史実であるのか真偽はわかりませんが、とても興味深い伝承です。。。

北東から見た子母口富士見台古墳。
道路に面した墳丘北側の部分が大きく削られて変形しまっています。
現地説明板によると、現在の規模は墳径は17.5m、高さ3.7mを測りますが、築造当初はかなり大きな円墳であったと想定されているようです。

墳頂部の様子。
まるで、富士塚の噴火口のような窪地が見られます。

村田文夫氏は、著書『川崎・たちばなの古代史』のなかで、興味深い仮説を立てています。
明治、大正、昭和と現代の地図を見比べたときに、昭和4年の地図の子母口富士見台古墳の位置に盛土(塚?)を示す地図記号が見られ、現代の墳頂部の標高が38.9m、これに対して明治14年の地図では同じ地点の標高が30m余りで、大きな差があることから、子母口富士見台古墳は明治14年以降、昭和4年までの間に築造された盛土の可能性が高いのではないかと推測しています。
実際に、道路の敷設工事により墳丘を削った際に、古墳に見られる版築の跡が見られなかったともいわれています。
このあたりの真相を知るには、今後の調査の進展を待たなければなりません。。。



古墳の見学後、橘樹神社を参拝しました。
子母口富士見台古墳や橘樹神社の周囲は閑静な住宅街ですが、かつては武蔵国橘樹郡の郡衙として栄えていたわけですよね。実際に現地を散策して、地形を味わいながら様々な妄想をするのが楽しみの一つでもあるのです。。。

橘樹神社の社殿です。
今現在は大きな神社ではありませんが、かつては橘樹郡の総社であったと考えられている、歴史のある神社です。

橘樹神社境内で見かけた塚です。
「日本武の松」と「橘比免之命神廟」と刻まれた2基の石碑が建てられているのですが、パッと見が富士塚か御嶽塚かなという印象なので、びっくりしました。笑。

画像は「子母口貝塚」です。
子母口公園として整備、保存されており、子母口富士見台古墳から南東に徒歩4~5分ほどとかなり近い位置にあります。
縄文時代早期後半である約7,000年前のもので、多摩丘陵上で最も古い貝塚として知られているそうです。また、子母口貝塚は、関東の縄文土器編年約50型式の一つ「子母口式」の標式遺跡ともなっているそうです。
子母口貝塚は、元々は東西約100m、南北約150mの台地の範囲に4つの地点をもつ貝塚の総称で、そのうち2地点が現存しているそうです。

敷地内には「貝層の断面標本と発掘調査のあゆみ」という説明板が設置されています。
よく整備された綺麗な公園ですね。。。
<参考文献>
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』
現地説明版
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- 2020/06/14(日) 20:08:02|
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「千年伊勢山台古墳」は、川崎市高津区千年に所在する古墳です。
『川崎の遺跡』には、高津区№94遺跡として登録されている古墳ですが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設や周溝などの詳細はわかりません。昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録』の「川崎市の古墳(一)」に、この千年伊勢山台古墳についての記述が見られます。
「伊勢山台と呼ばれる標高約40メートルの丘陵東北端に地形を利用して築造された古墳で、正式な地番は川崎市千年伊勢山台四四二番地に属している。ここは影向寺台から連続している舌状台地で、古墳は台地の最末端部に位置しているため、崖崩れによって約五分の三が破壊されてしまった。附近は畑地で西側の墳麓も耕作のため若干削られている。高さ二・二メートル、墳径約一二・五メートルの小円墳である。」
画像が、千年伊勢山台古墳の所在地と思われる地点です。
「崖崩れが起こった舌状台地の先端」ということで、おそらくこの高まりが千年伊勢山台古墳の5分の2ほど残された墳丘ではないかと思われます。マウンドの裾のあたりにフェンスが設置されており、フェンスの奥は1mほどでほぼ垂直に近いような崖になっています。

この周辺は、古墳よりも橘樹郡衙推定地として知られており、古墳から南に100mほどの地点には、「たちばな古代の丘緑地」として千年伊勢山台遺跡の一部が保存されています。
川崎市内初の国指定史跡です。。。

実際、石碑と説明板以外に見るべきものはないのですが、とりあえずゆっくりくつろげます。
私はこのころはまだタバコを嗜んでいましたので、プカ~~~ッと一服しました。
日陰がないので、真夏の炎天下では死ぬかもしれません。。。笑。
古代の川崎市役所ともいえるこの一帯は、平成10年度から発掘調査が続けられており、伊勢山台から影向寺方面にかけて橘樹郡衙に関連すると推定される掘立柱建物跡などが発見されています。
橘樹郡衙推定地の北西には、古墳時代の川崎を支配していた豪族の墓とされる「西福寺古墳」や「馬絹古墳」があり、この豪族の拠点がこの橘樹郡衙推定地周辺であると考えられているようです。

この緑地内から発見された「千年伊勢山台2号古墳」がこのあたりです。
すでに墳丘は削平されて消滅していたようですが、発掘調査により推定径20mほどの周溝が検出されています。
東京都内では、府中市内に置かれた武蔵郡衙が、高倉古墳群と白糸台古墳群の間の古墳がまったく存在しない地域に造られているようなのですが、この橘樹郡衙は、それ以前に存在した古墳群をブッ壊して、その上に造られているわけですよね。
この違いはとても興味深いです。。。

緑地の北東隅には「橘樹郡衙跡」と刻まれた石碑が建てられています。
ちなみに緑地の南西側には、橘樹郡衙推定地と周辺の関連する周辺の文化財について解説された説明板が設置されています。

画像中央のあたりからも古墳の周溝が検出されています。
古墳の名称を確認できなかったのですが、「千年伊勢山台3号古墳」ということになるのでしょうか。。。

画像の地点からは「1号方形周溝墓」が確認されています。
方台部が東西に7.3m、南北は5.6mまで確認されており、方台部中央西寄りからほぼ完存する主体部が検出されています。

「橘樹郡衙跡」の見学後しばらくして、「影向寺(ようごうじ)」に立ち寄りました。
宮前区野川の影向寺台に所在する南武蔵きっての古刹で、この丘陵を東に進むと千年伊勢山台に至ります。
影向寺は天台宗に属するお寺で、『影向寺仮名縁起』によると、天平11年(739)に西武天皇の発願により僧行基が開基したと伝えられており、風土記稿には境内に置かれた影向石に記述が、また名所図会には影向石が描かれています。

画像は影向寺の本堂です。
影向寺境内から採集された古瓦の中には奈良時代のものが含まれており、このお寺の創建が縁起に近い、白鳳時代(7世紀末)にまで遡ることが明らかになっています。

画像は「太子堂」です。
疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像(鎌倉時代後期)が安置されており、毎年11月3日の縁日には、聖徳太子を祀るお祭りがおこなわれるそうです。

画像は「影向寺の乳イチョウ」です。
乳柱を削って汁を飲むと乳が出るようになるという伝説があり、影向寺の絵馬には乳しぼりの図柄が多いそうです。
堂々たる古木で、樹齢は2000年に達するものもあるといわれています。

私はむしろ、境内にこんな築山があると、「まさか古墳では?」と気になって仕方がないのです。笑。。。

影向寺境内の東南隅にある影向石です。
縁起でいう霊石にあたるものですが、実際の用途は塔の心礎であろうといわれています。

説明板には次のように書かれています。
影 向 石
当寺のいわれとなった霊石。奈良朝に本
寺創建のとき、ここには美しい塔が建てら
れ、その心礎として使用されました。心礎
には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心
となります。「影向」とは神仏の憑りますと
ころのことで、寺域は太古より神聖な霊地
神仏のましますところとして、信仰されて
いたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失わ
れた以降、この影向石のくぼみには常に霊
水がたたえられて乾くことなく、近隣から
眼を患う人々が訪れて、その功験によって
いやされました。江戸のはじめ万治年間に
薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら
堂を出でて、この石の上に難をのがれたと
いわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺
名を影向とあらためたと伝えれらます。
昭和五十一年五月吉日
重要文化財保存会



庚申塚。影向寺の北西200メートルほどの地点に所在します。
ギリギリ、第三京浜に壊されずに残ったのか、それとも壊された末にこの場所に移されたものか詳細はわかりませんが、塚が存在することに心踊ります。笑。

北から見たところ。

塚の上には3基の石塔が建てられています。。。
<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『千年伊勢山台遺跡 第1~8次発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『橘樹官衙遺跡群の調査』
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- 2020/06/12(金) 20:45:21|
- 川崎市の古墳・塚
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