
画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」を南西から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群3号墳」という名称で掲載されていますが、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号104-3番の無名の古墳として「あきる野市№104-3遺跡」の名称で登録されています。
この牛沼古墳群3号墳は、前回紹介した2号墳の東方数十メートル程の民家の敷地内に所在します。この古墳も、学術的な調査は行われていないため、埋葬施設や周溝等の詳細は不明で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、墳丘は「消滅」、主体部についても「石積の一部と思われる石が露出している」とのみ書かれています。

画像は、3号墳の南東数十メートル程の地点に所在する鳥居と祠です。古墳のある周辺を歩くと古墳跡ではないのかと思えるような場所に遭遇するのですが、この祠は牛沼古墳群と同じ台地上の縁辺部にあり、また祠の周囲には河原石が散在していて、積石塚の跡地かもしれないとも思えるような場所です(またいつもの妄想かもしれませんが)。。。

再度訪問した際には、祠の周囲がブルーシートで覆われていたのですが、発掘調査の予定でもあるのでしょうか。気になる場所です。

画像は、同じあきる野市牛沼に所在する「西秋留石器時代住居跡」です。国の史跡として指定されている縄文時代の住居跡で、崖下に秋川を望む、秋川左岸の河岸段丘上に所在します。牛沼古墳群から徒歩10分程の場所です。
国史跡
西秋留石器時代住居跡(清水遺跡)
所在地 東京都あきる野市牛沼二六五番地
指定日 昭和八年四月十三日
昭和七年、後藤守一氏を中心として東京府(現東京都)によって調査が行われ、縄文時代後期の敷石住居跡五軒や石棺墓二基、石組の炉一基などが発見された。
当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く昭和八年、国の史跡に指定された。
また、これらの遺構の他、縄文時代中期及び後期の土器や、石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面であると認められたため、竪穴式の住居ではなかったと判断され、それ以降の、敷石住居は平地住居であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも非常に貴重な遺跡である。
東京都あきる野市教育委員会 <参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/23(火) 02:15:14|
- あきる野市/牛沼古墳群
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画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群2号墳)」を北西から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群2号墳」という名称で掲載されていますが、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号104-2番の無名の古墳として「あきる野市№104-2遺跡」の名称で登録されています。
この牛沼古墳群2号墳も、前回紹介した2号墳と同様に、圏央道の建設計画に対しての地元住民の反対運動や訴訟の末に、破壊を免れたという古墳です。1号墳と同じく真上が圏央道の秋川高架橋となっており、古墳はフェンスに囲まれる形で現状保存されています。
古墳が残されたことに対しては喜ばしいとは思うのですが、施錠されて滅多に人が立ち入らない敷地内でさらにフェンスで囲ってしまったことにより、フェンスの外側は整地されているにも拘らずフェンスの内部だけが竹林となって鬱蒼としています。本当にこれで良いのだろうかと甚だ疑問なのですが、きちんと整備して史蹟公園として古墳を公開したりできないのでしょうか。。。

画像は、北から見た、雑草の合間に僅かに見える2号墳のマウンドです。平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には墳丘は「消滅」とあり、主体部についても「石積の一部と思われる石が露出している」とのみ書かれていますが、少なくとも1号墳と比べると墳丘らしきマウンドが残されているようにも見えます。

画像は、最初に訪問したときの2号墳のようすです。このときは、フェンス内の竹や雑草が伐採されていて墳丘がきれいに見えたのですが、残念ながら敷地内には入ることが出来ず、遠方からの見学のみでした。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/22(月) 00:17:18|
- あきる野市/牛沼古墳群
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「牛沼古墳群」は多摩川の支流である秋川左岸に所在する古墳群です。多摩地区所在古墳確認調査団により行われた平成4年度の分布調査において把握されており、3基の古墳により形成されていることがわかっています。この調査結果が掲載されている『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群」という名称で掲載されているのですが、その後の『東京都遺跡地図』には、あきる野市の遺跡番号104番の無名の古墳として登録されており、現在ネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、「№104-1遺跡」から「№104-3遺跡」までの3基の古墳として登録されています。この古墳に北側には、5次にわたる発掘調査が行われた「西龍ヶ崎遺跡」があり、この古墳も 「牛沼西龍ケ崎古墳」や「西龍ケ崎塚古墳」等々、さまざまな名称で呼ばれているようです。
画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」を南西から見たところです。この1号墳のちょうど真上は圏央道の秋川高架橋となっていますが、古墳の所在する牛沼地域ではこの圏央道の建設にあたって地元住民の激しい反対運動があり、多くの訴訟も起こされたようです。江戸時代から先祖代々生活を続けてきた旧家の住民に対する不当な土地収用、騒音や振動など道路公害とともに、地権者の敷地内に発見された古墳時代後期の円墳がこの事業により破壊されることなども訴えられたようです。
この古墳は、当時、土地所有者で原告の地元住民の敷地内に所在する古墳の上に圏央道の橋脚を立てることになっており、土地収用後に古墳の学術的な調査を行った後に消滅という流れであったようですが、工事着工を急ぐ起業者は当初の工事費用に数千万円を上乗せして高架橋方式に大きく設計変更。これは、関係する鉄鋼メーカーの談合によりかなりの高値で落札されたといわれており、この工事を受注した会社からは2人の逮捕者を出したようです。

土地収用後の古墳周辺は整地が行われてゲートボール場が作られているようですが、通常は施錠されていて敷地内に立ち入る事は出来ません。古墳の学術的な調査は行われず、説明板なども特に設置されていないようです。数奇な運命に翻弄されながらも圏央道の高架橋の下に残された1号墳は、現在はフェンスに囲まれて保存されています。
私が最初に訪れたときは敷地内に立ち入ることは出来ず、遠方から見学するのみだったのですが、2度目の訪問の際は町内会によるゲートボール大会が行われており、使用者に許可を得て見学することができました。
画像はフェンスの内部のようすです。墳丘らしきマウンドは見られないようですが、積石塚と思われる石積みの一部が露出しています。

画像は、西から見た牛沼1号墳です。この角度から見ると、僅かに盛り上がった古墳らしい形状を見ることが出来ます。
色々経緯のあった古墳であるようですが、せっかく破壊を免れて保存されることになったわけですから、きちんと発掘調査を行ったうえで史蹟公園のような形で公開することは出来ないものかと思うのですが、難しいのでしょうね。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/21(日) 00:41:19|
- あきる野市/牛沼古墳群
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