
長野県の積石塚シリーズは今回が最終回。長野県須坂市に所在する「八丁鎧塚古墳群」を紹介します。
上八町の南山麓を流れる鮎川の段丘上には40基ほどの積石塚が確認されており「鮎川古墳群」と総称されています。このうち「鎧塚古墳群」は6基の古墳からなり、1号墳と2号墳が長野県の史跡に指定されています。
画像は「鎧塚第1号古墳」です。現地の説明板には次のように書かれています。
八丁鎧塚第1・2号古墳 HATCHO YOROIZUKA TOMB NO.1,NO.2
鎧塚古墳群は、鮎川古墳群のほぼ最上流部に位置し、現在は6基で一群をなしています。
1号古墳は直径25.5m、高さ2.5mでスイジガイ釧片ゴホウラガイ釧片碧玉製石釧片、勾玉、ガラス小玉等が出土、4世紀後半の古墳と推定されています。
2号古墳は直径25.5m、高さ3.5mで南側に張り出した部分があり、この時代の積石塚としては全国で初めて《張出付円墳》と確認されました。また、《鍍銀銅製獅噛文銙板》と呼ばれる帯金具、家型埴輪片、朝顔形埴輪片、円筒埴輪片、人物埴輪片等が出土し、5世紀後半の古墳と推定されています。
6号古墳は直径12.5mで6世紀中頃の葺石工法で造られた古墳と推定されます。
日本の代表的積石塚として、また貝釧が東シナ海原産の貝であること、帯金具の文様が朝鮮半島出土のものに似ていることなど、大陸文化の影響を色濃く示しておりたいへん重要な意味を持っています。
出土品は須坂市立博物館で保管、展示しています。

画像は「鎧塚第2号古墳」です。積石塚の張出付円墳というのは初めて見ましたが、これはとても興味深いです。
敷地内には展望台が造られているので、高い位置から良い角度で古墳を見学することが出来ます。

画像は「鎧塚第6号古墳」です。
現地に設置されている説明板には次のように書かれています。
鎧塚第6号古墳 HATCHO YOROIZUKA TOMB NO.6
この古墳は、平成6年の1・2号古墳範囲確認調査で偶然確認されたもので、直径は約12mあります。
古墳の一番裾、最下部の石積が発見され、一緒に円筒埴輪片、土師器片が古墳の外側に当たる部分からまとまって出土しました。
この古墳は1・2号古墳とは異なり中心を土で盛り、その上に石を葺いた工法の古墳であることが特徴です。
鎧塚1号古墳から約1世紀以上後の築造ですが、1・2号古墳の狭い場所に、しかも南北に並ぶように築造されていることは、埋葬された人を考える上で大変興味深いことです。
この古墳の埋葬施設は失われていますが、明治時代にこの古墳の中心部と思われる部分から、”板石を運び出した”という言い伝えがあり、石室は板石で造られた”箱式石棺”だった可能性があります。

画像は「鎧塚第2号古墳」の南側張出部に存在する「箱式石棺」です。
説明板には次のように書かれています。
箱式石棺 STONE COFFIN
この石棺は、鎧塚第2号古墳の南側張出部に設けられたもので、長辺に板石6枚を短辺に各1枚で箱形に組み立てられ長さ2m50cm、幅約50cmの大きさです。
石棺底にも西側では平らな川原石を2枚、東側では平らな板石を2枚敷いています。
また、石棺の内部からは遺物は出土していません。
築造当所はこの石棺の上に板石で蓋されていたと考えられます。
古墳の周りに石棺を設け、埋葬する例はたくさんありますが、この石棺は2号古墳から南に延びる張出部分に東西に造られていて、2号古墳本体に埋葬された被葬者との関わりはたいへん深かったことがうかがわれます。
また、この石棺の発見は、2号古墳の埋葬施設を知る手がかりになります。
この古墳は今年の5月に訪れたばかりで、撮りたてほやほやの写真です。周囲に広がる葡萄畑の中に史跡公園として整備保存されていますが、あまりに風景に溶け込んでいてすぐに場所が分からず、かなりウロウロしてしまいました。積石塚である鎧塚古墳がこんなに大規模なものだとは思わなかったのでビックリしました。とにかくデカイ!という印象ですね。
長野県は私の大好きな場所ですが、昨年訪れた「大室古墳群」も含めて多くの積み石塚を見ることが出来たことは楽しかったです。
- 2015/06/07(日) 23:58:03|
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大室谷支群には241基の古墳が存在しますので、エントランスゾーンに整備された24基の古墳はほんの一部にすぎません。大室古墳館からさらに大室谷を奥に進むとこの地区も周遊路が整備されていて、多くの古墳を見学することが出来ます。この241基のうち、石を積み上げて墳丘を築造した「積石塚」が176基、埋葬施設の天井石を屋根形に組む合掌形石室が採用されている古墳が27基も存在しており、この特異な構造をもつ古墳が集中していることが、この大室古墳群の特徴です。
大室古墳館から周遊路を10〜20分ほど進むと「ムジナゴーロ」と呼ばれる地域に到着します。この大室谷支群のすべての古墳を見学することは出来ませんでしたが、このムジナゴーロに所在する見学できた古墳のうち、主要な古墳を紹介したいと思います。

周遊路を入ってすぐのところにあるのが「195号墳」です。これも積石塚古墳で、大室古墳群では種類の少ない竪穴式石室が2つ造られているという珍しい古墳だそうです。平石を積み上げて四壁を作り、上部から棺を納める石室です。


これも周遊路を入ってすぐのところにある「197号墳」です。横穴式石室が開口しています。

この古墳も周遊路を入ってすぐ、195号墳のとなりにあるのが「189号墳」です。画像の左側、墳丘の裾の一部が林道によって削平されています。板石を箱形に組み合わせた埋葬施設で、石棺の上には水平に設置された天井石が残されているそうです。積石塚古墳は盛土墳とは違って、墳丘に登っていくことはためらってしまいますね。。。

画像は「187号墳」です。大室古墳群の中でも横穴式石室は数多く見られますが、この中でも古い段階に造られたと考えられている古墳であるそうです。側壁の一番下の石材が縦方向に捉えられているのが特徴的です。

画像は「186号墳」です。かなり良い状態で残されているようで、造られた当時の姿が残っている古墳であるそうです。発掘調査により馬の頭骨が出土しており、被葬者と馬との関わりを示しているといわれる古墳です。

「176号墳」は大室古墳群の中ではとても規模の大きな積石塚で、多少崩れかかってはいるものの合掌形石室が上部に残されており、石室の位置から考えると別の埋葬施設が存在する可能性もあるのだそうです。

画像は「168号墳(大平塚)」です。大室谷支群の内、整備されたエントランスゾーン以外の古墳では珍しく説明板が設置されており、次のように書かれていました。
168号墳
この古墳は石だけを積み上げて造られた
5世紀代の積石塚です。埋葬施設は板状
の石材を屋根形に組み合わせた合掌形石
室と呼ばれる特殊な構造です。
平成5~7年に発掘調査が行われ、古墳
に供えられていたと考えられる土器類や、
馬をかたどった土製品が出土しました。
馬形の土製品は古墳に葬られた人と馬と
の関係を考える上で非常に重要です。
長野市教育委員会
次回、長野の積石塚シリーズ最終回へ続く。。。
- 2015/06/03(水) 02:59:32|
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信州で史跡公園や観光地を歩いていると、地元の人が「こんにちは」と声をかけてくれるのです。シャイだった少年時代は「あ、どうも…」という感じでなかなかなじめずにモジモジしていたものですが、大人になった今では、やっぱり長野は良いなあと思う理由のひとつです。
さて、画像は「235号墳」です。規模は不明ながら発掘調査により6世紀後半の築造と推定される円墳です。墳丘の半分は崩されており、石室の裏側が露出しています。
こちらから見ると円墳らしい景観が保たれているように見えますが…

実は無袖形の横穴式石室がこんな姿で保存公開されています。

近くでみるとこんな感じ。石室の裏側を観察できるようにあえて墳丘の半分が失われた状態で公開されているそうですが、大地震がきたら大丈夫かなと心配になってしまいますね。

ここからはエントランスゾーンの中でも「鳶岩単位支群」と呼ばれる支群で、画像の「第37号墳」はこの鳶岩単位支群に含まれる古墳です。なぜかこの古墳には説明板が設置されていなかったのですが、「鳶岩単位支群」に対する説明板が設置されていたので紹介しようと思います。
大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群
31・32・33号墳が分布するこの地区は、「大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群」と呼ばれています。史跡の入口周辺で整備を行った古墳は「大室古墳群 大室谷支群 村東単位支群」と別の単位支群(古墳のまとまり)に分けられ、互いに少し離れています。また、蔦岩単位支群には山袖部に古墳が造られるという立地や墳丘に土のみを用いた「盛土墳」があることなど、他地区ではみられない特徴があります。
史跡整備事業では、史跡の入口となるこの一帯を「エントランスゾーン」と呼称し、「大室古墳群の野外ガイダンス」として、古墳に親しんでいただくことを目的に整備を行いました。古墳は整備以前の状況を踏まえて、前から、横から、上から、盗掘坑からなど、様々な位置から見学できるようにしました。また、ゾーン内の樹木は伐採し、後世に造られた石積みなどは解体して、古墳が造られた当時の地形を再現しています。
この地区では、植林された杉林の中に、近代以後の果樹園や桑畑のために造成された段々畑と一体化した古墳の状況を整備しました。古墳が造られた後、様々な土地利用によって古墳の形態が変化していく様子を示しています。古墳時代の地形を再現したエントランスゾーンの他地区と景観が大きく異なりますが、この両者を比較してみることで、悠久の時の流れを感じることができるのではないでしょうか。
長野市教育委員会

画像は「31号墳」です。7世紀前半の築造と推定される、直径約14mの円墳です。整備前には露出した横穴式石室の上に小屋が建てられており、墳丘は後世の二次利用により大きく改変されていたそうです。こうしてみると、どこまでが元々の古墳でどこからが段々畑の石積みなのかわからなくなりますね。笑。
なんとこの古墳は大室古墳群に多くみられる積石塚ではなく、土による盛土墳なのだそうです。

画像は「32号墳」です。この古墳も近代以降の開墾により大きく改変されています。発掘調査により7世紀前半の築造と推定される、直径約10mの円墳です。横穴式石室の奥壁に盗掘坑が開口しており、内部を見学することが出来ます。

画像は「33号墳」です。これも、近代以降の開墾により段々畑の石積みと一体化していた古墳で、横穴式石室が露出しています。7世紀前半に築造されたと推定されており、直径約10mの墳丘は石室の石の間に固まる特殊な土により補強されて復元されています。

敷地内には「大室古墳館」が建てられています。入場無料で、無人ながらも古墳についての解説がありパンフレットも置かれています。
私が訪れたのは春先でしたが、ほとんど日陰のないエントランスゾーンのあまりの暑さにバテてしまい、この古墳館の自動販売機の飲み物に助けられました。笑。
エントランスゾーンに公開されている古墳はこれですべてです。次回、「大室古墳群、大室谷支群」の最終回、大室古墳群 その5(ムジナゴーロ編)に続く。。。
- 2015/06/01(月) 01:08:01|
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さてさて、引き続き、大室古墳群のエントランスゾーンの紹介です。
画像は「242号墳」。墳丘上部が削平され、天井石を失った横穴式石室が露出していたそうですが発掘調査の後に整備され、石室を埋め戻して墳丘が復元されています。直径約10mの円墳で7世紀前半の築造とされています。
握りこぶしほどの小さな石が多く使われているのがこの古墳の特徴であるそうです。

「27号墳」は古墳時代後期に築造されたとされる、直径約12mの円墳です。耕作により墳丘の半分は削平されていたそうで、露出した横穴式石室の裏側は崩落して土砂で埋まっていたそうです。現在石室は埋め戻され、墳丘端部の石列が復元されています。

画像は「29号墳」です。この古墳は墳丘、埋葬施設ともに原形をとどめず、墳形や規模ともに不明とされています。発掘調査により埴輪が確認されており、5世紀後半から6世紀前半に築造された積石塚古墳であると判明しています。

「241号墳」は6世紀前半に築造されたとされる直径約14mの円墳です。埋葬施設は「合掌形石室」で、天井石が失われていましたが復元されています。墳丘上からは埴輪、土師器、須恵器、石室からは剣菱形杏葉や環状雲珠などの馬具、鉄鏃、ガラス玉が出土しているそうです。

画像が、復元された241号墳の合掌形石室の天井石です。
屋根形に石が組み合わされているのが特徴的ですね。

「240号墳」は7世紀後半に築造されたとされる直径約13mの円墳です。この古墳も、整備前には墳丘や石室の羨道部が改変されて失われていたため、この状況を生かして土石混合墳の墳丘断面が観察できるように整備されています。

画像が「240号墳」の石室内部のようすです。

画像は「239号墳」です。この古墳は上円下方墳や方墳の可能性も考えられていましたが、発掘調査により6世紀後半に築造された直径約15mの円墳とされています。ただし、斜面下方の石列が八角形に近く、多角形墳の可能性も考えられているそうです。

239号墳の石室内部です。奥壁に「239」と書かれていますが、これは昭和24年の分布調査時に書かれてものであるそうです。時代を感じますね。

画像は「238号墳」です。これも土石混合墳で、墳丘は復元されています。規模不明の円墳で、7世紀前半の築造と推定されています。
さらに次回へ続く。。。
- 2015/05/30(土) 23:14:17|
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少年時代の2年間を長野市で過ごした私にとって、長野は私の第二の故郷とも言える場所です。その後、信州の蕎麦の魅力に魅かれ、東京で暮らす今でも気が向いた時に美味しい蕎麦屋を求めて信州を訪れます。この日はあまり冒険はせず、「うずら屋」や「そばの実」といった戸隠の名店で蕎麦を堪能したあと、この「大室古墳群」を訪れました。(戸隠の蕎麦は「ぼっち盛り」というこの地方独特の盛りつけで蕎麦が出てくるのですが、これがまた病み付きになるのです。)

さて、前回に引き続き、今回も長野県松代町にある「大室古墳群」を紹介します。まずは「D号墳」です。石のみで造られた積石塚で、直径約12mの円墳です。石室最下段の石を立ててその上に石を平積みして壁面が構築されているという、特殊な横穴式石室であることが判っていますが、破壊が著しく石室は埋め戻されており見ることは出来ません。積石墳丘は復元されています。

続いて「E号墳」です。直径約10mの円墳ですが、耕作により墳丘はすでに失われ、残存するのは横穴式石室の羨道の一部と現出の床面のみという古墳です。鉄鏃、刀子、耳環といった遺物が出土しています。

画像は「B号墳」です。7世紀に築造されたとされる直径約7mの円墳で、これも積石塚古墳です。横穴式石室が確認されていますが天井石が失われるなど破壊が著しく、石室は埋め戻されています。積石墳丘は復元されたものだそうです。
背後に見えるのは、左が「A号墳」、右が「26号墳」です。かなり多くの古墳が密集しているのがわかります。

画像は「C号墳」です。規模は直径約8mと小形の円墳で、石と土による土石混合墳であると考えられています。殆ど原形はとどめていないため、むしろ背後にある古墳のほうが目立ってしまいますね。
背後に見えるのは左からD号墳、E号墳、B号墳、26号墳です。

画像は「A号墳」。この古墳は隣接する26号墳の一部ではないかと考えられていましたが、発掘調査により独立した古墳であることがわかっています。26号墳がこの古墳の上に重なっていることから26号墳に先行して造られたと考えられています。破壊が進んでいて規模は不明ですが円墳であると判明しており、6世紀後半から7世紀前半の築造と推定されています。

続いて「26号墳」です。直径約14mの円墳で、7世紀後半の築造とされています。整備前には墳丘の一部が失われており、現出の天井石は一石のみが石室内に崩落していたそうです。現在は墳丘が復元され、石室を観察できるように整備されています。

26号墳の埋葬施設を上から見たところ。胴張形の横穴式石室です。

これは名称のわからない「無名墳」。26号墳の近くにあるかなり小形の古墳で、現地で配られている見学マップにも未掲載で、説明板も設置されていません。石室が開口していますので古墳であると思われますが、かなり目立たない可哀想な古墳です。。。

画像は「ハ号墳」。7世紀に築造されたとされる直径約8mの円墳ですが、墳丘や横穴式石室の上部は改変されて失われており、復元は行われずに現状保存されています。もはや木の根元にしか見えませんね。。。
続く。。。
- 2015/05/29(金) 00:52:25|
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あきる野市や八王子市等、東京多摩地区の古墳を巡っていて知ったのが「積石塚」です。積石塚とは土ではなく石を積み上げて墳丘を造った墳墓で、高句麗からの渡来人と何らかの関係があるのではないかともいわれています。東京都内ではあきる野市に所在する「瀬戸岡古墳群」が有名で、周辺地域にも多くの積石塚が存在したようですが、残念ながら良い状態で残されている古墳は皆無に等しい状況で、一度本場の積み石塚を見に行きたいと考えていました。そんなわけで、今回は番外編として、長野市松代町大室地区を中心に分布する「大室古墳群」を紹介しようと思います。
この古墳群は500基を超える東日本では最大規模の古墳群で、大部分が積石塚です。大室谷支群(241基)、北山支群(22基)、霞城支群(16基)、北谷支群(208基)、金井山支群(18基)の5つの支群からなり、一部は国史跡に指定されています。このうち、大室谷支群入口のエリアは「エントランスゾーン」として発掘調査や整備工事が順次行われており、24基の古墳が公開されています。

この史跡公園の入口を入るとまず視界に飛び込んでくるのが「244号墳(将軍塚)」です。古墳の周囲には大室古墳群中で唯一周溝を備えており、周溝を含む復元径は約30mの円墳です。
おっさんのハゲ頭にもにた風貌が刺激的ですね。(私もおっさんですが。。。)

この古墳は古墳群中最大規模とされ、両袖形の横穴式石室も全長12mを測ります。

画像は「243号墳」です。整備前には墳丘の約半分は失われて横穴式石室が露出していたそうですが、現在は復元されて公開されています。直径12mの円墳で6世紀後半の築造と推定されています。

墳丘内部のようすです。石室の奥壁近くでは壁の石を抜き取った盗掘坑が開いていたそうですが、この盗掘坑からも横穴式石室が覗けるように整備されています。

「23号墳」は北側を走る高速道路用地内に所在したため、発掘調査の後に移築、復元された古墳です。18m×13mの円墳で、7世紀前半の築造と推定されています。

埋葬施設は両袖形の横穴式石室で、奥壁の一枚石はなんと、重さが5tもあったそうです。

画像の「245号墳」は破壊が進み、墳丘の規模や形態については詳細の判らない古墳です。「死人塚(しびとづか)」とも呼ばれ、墳丘上には石祠が祀られています。

画像は「246号墳」です。整備前には墳丘はほぼ失われ、奥壁がない状態で石室が露出していたそうです。このため、墳丘内に埋まっている土留めのための3重の列石を見えるように整備され、築造途中の古墳を再現しているそうです。
埋葬施設は両袖形の横穴式石室で、規模は直径約12mの円墳です。墳丘内からは底に穴をあけた壺形土器が出土しています。
この大室古墳群を訪れたのは昨年の4月下旬頃だったのですが、この日は晴天に恵まれてなかなかの古墳日和でした。笑。
エントランスゾーンは綺麗に整備されておりゆっくりと見学できますが、広い敷地内に屋根はなくかなり暑くなるので、夏の炎天下は避けて春に訪れるのがお薦めです。信州は避暑地というイメージがありますが、盆地であるために意外と暑いのです。。。
- 2015/05/27(水) 02:25:54|
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