
画像は、栃木県壬生町に所在する 「壬生愛宕塚古墳」を南から見たところです。
この古墳は黒川左岸の台地上に築造された前方後円墳で、大正15年に国の史跡として指定されています。北方500mほどの地点に所在する車塚古墳や牛塚古墳と同様に、栃木県中央部の大型古墳にみられる、二段につくられた墳丘の第一段平坦面(基壇)を幅広くつくる特徴がみられます。規模は、全長65m、周湟の底から高さは後円部で5.5m、前方部で6.5mあり、後円部にくらべ前方部が大きさ、高さとも著しく発達した典型的な後期型の墳形をしているようです。
画像の、栃木街道から鳥居をくぐった奥に古墳はあり、前方部の墳頂に愛宕神社が祀られています。。。

画像の、愛宕神社が鎮座するマウンドが前方部で、右奥が後円部ということになります。愛宕神社は、元禄7年(1694)に壬生城主の松平輝定が壬生城の鬼門除けとして建立したと伝えられています。

周堤上からは多くの埴輪が出土しており、盾持ち人埴輪や四条の突帯を持つ円筒埴輪などが確認されています。また、墳丘の第1段上からも円筒埴輪が確認されているようです。また、埋葬施設については発掘調査が行われていないことから不明であるようですが、墳形や出土した埴輪などから、6世紀代後半に築造された古墳と考えられています。壬生地域の首長墓は「壬生愛宕塚古墳」→「牛塚古墳」→「車塚古墳」の順に築造されているようです。

前方部上から後円部を見たところです。

墳丘の周囲に盾形に残る、堀と土塁(周堤帯)のようすです。この愛宕塚に限らず、壬生町周辺の大型古墳は周溝も含めてかなり良い状態で残されている古墳が多いようです。
壬生町周辺ではまだまだ多くの古墳を見学しましたが、とりあえず栃木編は一旦終了。次回からまた東京都内の古墳に戻ろうと思います。。。
- 2017/02/08(水) 08:38:06|
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画像は、壬生町に所在する「ダジロー塚古墳」を南から見たところです。
愛宕塚古墳群や車塚古墳群とは少し離れた場所に位置する円墳で、墳丘南側に石造の鳥居があり、この鳥居をくぐり、石段を登った墳頂部には祠が祀られています。
- 2017/02/05(日) 19:49:29|
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「車塚古墳」の周辺では、国の史跡として指定されている「車塚古墳」と「牛塚古墳」の他には円墳3基と小さな石室のみからなる小規模な古墳群と考えられていたようですが、近年の「車塚古墳群」の発掘調査により、円墳 9 基、方墳 1 基(?)、小規模な石室のみの古墳 3 基が新たに確認されています。これらの古墳は、川原石積石室の特徴から車塚古墳や牛塚古墳よりも古い時代に築造された古墳であることが明らかになっています。「車塚古墳群」は、6世紀後半に、埴輪を墳丘上に並べた「車塚3号墳」を中心に円墳約20基からなる古墳群が築造され、その後、6世紀末から7世紀前半に「牛塚古墳」、「車塚古墳」が相次いで築造されたとされています。
画像は「車塚3号墳」を東からみたところです。首長墓である牛塚古墳と車塚古墳の2基以外では、おそらくは唯一墳丘の残る古墳ではないかと思われます。篠竹が生い茂っていて墳丘のようすがよくわからないのが残念ですが、この古墳からは埴輪が出土しているようです。
墳丘裾に祠が祀られているのですが、この存在により古墳は破壊されずに残されたのかもしれません。。。
- 2017/02/03(金) 01:42:24|
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「牛塚古墳(車塚2号墳)」は、壬生町壬生甲字車塚に所在する古墳です。東方に隣接する「車塚古墳」同様に、壬生町中央部を南流する黒川右岸の台地上に築造された古墳で、大正15年(1926)に国の史跡として指定されています。墳形は墳丘の一段目が低く平坦で幅の広い基壇前方部が短い「下野型古墳」と呼ばれる特徴的な墳形で、帆立貝型前方後円墳です。
画像はこの、牛塚古墳を東から見たところで、左側が前方部、右側が後円部という状況です。かなり良い状態で保存されているようです。

続いて、牛塚古墳を南西から見たところ。右手前が前方部、左奥が後円部です。墳丘の全長は約60メートル、高さは5メートルを測ります。実際に見学すると、思ったより前方部が長く見えるので、帆立貝型なんだ?という印象です。埋葬施設については発掘調査が行われていないため不明ですが、「車塚古墳」に続いて調査が始まるということなので、今後が楽しみな古墳です。

前方部から後円部を見上げたところ。墳丘上からは須恵器の甕の破片が採集されており、古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭と考えられているようです。

後円部から前方部を見たところ。周溝はかなり埋もれてしまっているのですが、それでも目を細めてみるとうっすらと濠を確認することができます。周溝や周堤を含めると全長は80メートル近い規模となり、葺石や埴輪が確認されていないことから、7世紀初頭頃の築造と考えられているようです。

敷地内には壬生町教育委員会による説明板が設置されています。画像はこの説明板に掲載されている古墳の測量図です。古墳の形状を見て取ることができます。
- 2017/02/01(水) 09:45:53|
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先週末は壬生車塚古墳の現地見学会が開催されるということで、栃木県壬生町を訪れました。壬生町というところは私にとっては比較的土地勘のある、馴染みのある場所なのですが、よく知る場所であるがゆえにこれまで積極的に古墳の探訪に訪れたことはなく(まず行ったことのない場所に行って見たくなってしまうから)、今回はゆっくりと町内の古墳を見学することができました。こんなによく晴れた休日の古墳探訪は久しぶりです。。。
さて、画像は「車塚古墳」を南から見たところです。車塚は壬生町中央部を南流する黒川右岸の台地上に築造された古墳で、壬生バイパス沿いに所在するため車があれば交通の便の良い古墳です。大正15年(1926)に国の史跡として指定されており、墳丘の直径84メートル、周溝も含めた総全長は130メートルもある大円墳です。この周辺地域では、墳丘の一段目が低く平坦で幅の広い基壇を持つという特徴があり、前方後円墳においては多くの古墳が後円部やくびれ部に石室が設けられているのに対してこの周辺の古墳は前方部にのみ横穴式石室が設けらており、これらの特徴のある古墳は「下野型古墳」と呼ばれています。この車塚古墳も、墳形は円墳ですが、三段に作られた墳丘の第一段平坦面は幅広く造られています。

「車塚古墳」を西から、周堤の外側から見たところです。墳丘の一段目が低く、平坦で幅が広いということですが、例えば埼玉古墳群の丸墓山古墳などと比べると形状的に平べったい印象です。

敷地内には壬生町教育委員会による説明板が設置されており、画像はこの説明板に掲載されている古墳の測量図です。古墳の大きさとともに形状がわかります。

画像は埋葬施設のようすです。玄門をはさむ「玄室」と「前室」が残されており、凝灰岩の一枚石で造られています。以前訪れたときには、石室内に土砂が流れ込んで半分くらいは埋まっていた記憶があるのですが、現在は土砂はかなり取り除かれています。。。

石室内部のようす。玄室の規模は幅2.8m、奥行き3m。前室は幅2.5m、奥行き2.4m、高さ2.1mメートルを図ります。これまでの調査で、玄室の床部分を除く側壁、天井部分がベンガラ(酸化第二鉄)で赤に塗られていたことが確認されており、さらに前室の壁からも赤彩の跡が確認されています。かなり色は落ちてしまっているようですが、わずかに顔料の赤い痕跡が残されているようすがわかるでしょうか。。。

この古墳の隣接地には鎌倉時代以降に寺院が建築されといわれており、その関連施設が前庭部に造られたことにより大きく破壊を受け、石室前面に構築される祭祀の場である「前庭」の存在は突き止めることができなかったようですが、今回の発掘調査によりの一部が確認されています。前提は石室入り口前面に川原石や切石で造られており、この発見により墳丘の全体像を復元することも可能になると考えられているようです。

この車塚古墳は壬生地区の首長墓の中では唯一の葺石を持つ古墳です。葺石は墳丘第一段の斜面中ほどから墳頂部の平坦面まで覆われていることが確認されています。墳頂部など平坦面の葺石は良好な状態で残っているものの斜面部の多くの葺石は崩落してしまっているそうです。また周囲には完全な形で周溝と周堤が廻っており、近年の調査により周堤の外側に幅5メートル、深さ約1メートルの二重目の周溝の存在が確認されています。この車塚は円筒埴輪のかわりに須恵器が飾られていたということのようですが、どのような意味があったのでしょうか。。。
それにしても、見事に周溝が残っています。
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- 2017/01/29(日) 23:23:49|
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