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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

前橋市 朝倉・広瀬古墳群その8「文珠山古墳 (上陽6号古墳)」

文珠山古墳(上陽6合墳)1

 朝倉・広瀬古墳群シリーズその8。
 今回は前橋市山王町に所在する「文珠山古墳」です。

 『上毛古墳綜覧』には「上陽村6号古墳」の名称で登録されている古墳で、地元では「おぼ山
とも呼ばれています。規模は全長50mと大型の円墳です。


文珠山古墳(上陽6合墳)2

 画像は、隣接する阿弥蛇山古墳から見た文珠山古墳です。
 墳丘の西側が墓地として改変されている様子がわかります。

 古墳は、平成7年に古墳土砂崩壊防止擁壁工事に伴う発掘調査が行われており、墳丘全体に河原石による葺石が敷き詰められていることがわかっています。

 墳丘斜面には人頭大程度の大きめの河原石が葺かれ、平坦面には拳大程度の小さめの河原石が配されていたそうです。さらには、墳丘斜面の最下段にやや大きめの石を配し、平坦面との変換点が形成されていたそうです。

 古墳は、4世紀中葉から6世紀初頭の間に築造されたと推定されています。


文珠山古墳(上陽6合墳)3

 墓地となっている、墳丘西側から登ってみました。


文珠山古墳(上陽6合墳)4

 墳頂部には、かなり古い墓石が並んでいました。。。


文珠山古墳(上陽6合墳)5

 墳丘が二段に築成されている様子がはっきりと残されています。


文珠山古墳(上陽6合墳)6

 墳丘斜面に残された葺石です。

<参考文献>
前橋市教育委員会 文化財保護課『文珠山古墳』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』


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  1. 2021/05/31(月) 18:27:53|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その7 「亀塚山古墳(上陽20号古墳)」ー前橋市指定史跡ー

亀塚山古墳(上陽20号古墳)1

 今回は朝倉・広瀬古墳群シリーズその7。
 前橋市山王町1丁目に所在する「亀塚山古墳」の探訪の記録です。

 画像はこの亀塚山古墳を東から見たところで、左が前方部、右が後円部です。その形状が亀に似ていることから、地元では古くから亀塚と呼ばれてきました。


亀塚山古墳(上陽20号古墳)2

 南西から後円部を見たところです。

 古墳は全長60m、後円部径40m、高さ6.5m、前方部(造出し)長さ20m、高さ1.5mの前方後円墳で、現地説明板によると帆立貝式古墳という説もあるようなのですが、発掘調査が行われていないことから不明とされています。


亀塚山古墳(上陽20号古墳)3

 敷地内には、「市指定史跡 亀塚山古墳」と刻まれた石碑と、前橋教育委員会による説明板が設置されています。

 古墳は二段に築造され、墳丘斜面には葺石が敷き詰められ、埴輪が並べられていました。
 昭和10年に行われた調査では周溝が確認されていますが、現在は住宅建設により痕跡は見られないようです。


亀塚山古墳(上陽20号古墳)4

 後円部には石段が設けられており、登ることができます。
 早速登ってみましょう!


亀塚山古墳(上陽20号古墳)5

 埋葬施設は竪穴式と推定されているようですが、副葬品などは明らかになっていないようです。
 古墳の築造は5世紀末から6世紀初頭と推定されています。

<参考文献>
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
現地説明板


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  1. 2021/05/29(土) 23:34:14|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その6 「前橋八幡宮(前橋市第9号古墳)」

1586 前橋市第9号古墳(前橋八幡宮)1

 今回は、前橋市本町2丁目に所在する「前橋八幡宮」の探訪の記録です。
 この神社の本殿・拝殿の土台である高まりは、古墳であるといわれています。

 前橋が城下町であった江戸時代はこの地域は連雀町といって、町人の町として賑わっており、この前橋八幡宮は総鎮守として栄えた神社です。
 現代も、群馬県の県庁所在地である前橋市の中心地に鎮座するこの神社において、社殿が墳丘上に建てられたことにより、古墳の痕跡である高まりも残されたものと考えられますが、かつて社殿の付近では埴輪片が採集されたそうなので、おそらくは古墳で間違いないと思われます。

 早速参拝しましょう。。。


1586 前橋市第9号古墳(前橋八幡宮)2

 社殿の高まりは、まだかなりの高さが残されているようです。

 古墳は、『上毛古墳綜覧』に「前橋市第9号古墳」の名称で登録されており、また2017年に発刊された『群馬県古墳総覧』にも前橋市の1586番の古墳として記載されており、△マークが記されて一応残存する古墳として扱われています。
 ただし、葺石や埴輪、周溝や埋葬施設といった古墳としての詳細はわからないようです。


1586 前橋市第9号古墳(前橋八幡宮)3

 南東からみたところです。
 残された形状からすると元々はかなり大きな古墳で、社殿建築により削られているものの、高さもかなりあったのではないかと思われます。


1586 前橋市第9号古墳(前橋八幡宮)4

 前橋八幡宮社殿の様子です。

 ちなみに、最初はこの左手にある建物が社務所かと思い、御朱印をいただくために待ちましたが、社務所は神社の西隣りの区画にありました。宮司さんにはとても親切に対応していただきましたが、どうやら足を悪くされているらしく、動き回るのはなかなか大変そうでした。

 御朱印は、西側の社務所に向かうのが良きかもしれません。。。


1586 前橋市第9号古墳(前橋八幡宮)5

 墳丘上の様子です。
 かなり広さがあり、往時の古墳のスケールが偲ばれます。
 仮に墳形が円墳であるとすれば、40m前後の大きな古墳だったのかもしれませんね。。。


img336.jpeg

 前橋八幡宮の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.

<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
現地説明板


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  1. 2021/05/27(木) 22:37:23|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その5 「不二山古墳(前橋2号古墳・カチカチ山古墳)」ー前橋市指定史跡ー

不二山古墳(前橋2号古墳)1

 朝倉・広瀬古墳群シリーズその5。
 今回は、前橋市文京町3丁目に所在する「不二山古墳」の探訪の記録です。

 不二山古墳は、朝倉古墳群の北端に位置する前方後円墳です。

 昭和13年(1938)に群馬県より発行された『上毛古墳綜覧』には「前橋市第2号古墳」として登録されており、平成9年(1997)には前橋市の史跡として指定されています。


 画像は不二山古墳を東から見たところです。
 墳丘の北側や西側の一部は削られているようですが、かろうじて前方後円墳の形状は保たれているようです。


不二山古墳(前橋2号古墳)2

 不二山古墳は、JR両毛線前橋駅から距離も近く、宅地化も早かったであろうと考えられるこの地域にあって古墳の周囲にはギリギリまで民家が密接しています。(むしろ、よく破壊されずに残されたものだと思います。)

 したがって古墳の全貌を捉えるのはなかなか難しく、東側の駐車場から見学するのが良いようです。。。


不二山古墳(前橋2号古墳)3

 不二山古墳の築造は6世紀後半と推定されているそうです。

 前回紹介した、不二山古墳から南東600m程の地点に所在する「天川二子塚古墳」とは相似形の平面プランを持つことから、豪族同士の密接な関係が想定されているそうです。
 天川二子塚古墳の全長は104m、不二山古墳の全長は54.5mですから、サイズ的にはほぼ2分の1ということになるわけですね。。。


不二山古墳(前橋2号古墳)4

 敷地内には前橋市教育委員会による説明板が設置されています。
 ちょっと目立たないところにあるので見落としがちですが、駐車場の奥の方です。。。

前橋市指定史跡 不二山古墳
指定年月日 平成9年4月21日
所 在 地 前橋市文京町三丁目2

 上毛古墳綜覧(昭和13年群馬県発行)に前橋市第2号墳として登録されている前方後円墳である。古墳の周辺は、昭和30年頃
から宅地化が進み、周囲を住宅に囲まれている。墳丘の前方部と後円部の一部は宅地化により削られ、原形をとどめていない。
 昭和29年に群馬大学史学研究室により後円部に残る石室部の調査が実施された。その結果、石室は、角閃石安山岩を用いて築かれた
両袖形の横穴式石室で、角閃石安山岩の丸石の五面を削り、壁石として用いた互目積としており、高崎市綿貫観音山古墳の石室や総社
二子山古墳の後円部の石室と共通する。
 出土遺物の中には、冠、直刀、槍、鉄鏃、耳輪、玉などがあり、特に、冠の出土は、本市山王町金冠塚古墳に次いで二例目であり、
これらの古墳が属する「朝倉・広瀬古墳群」の重要性を際立たせる資料になっている。これらの遺物は、現在、群馬大学に保存されて
いる。

法量
全  長 54.5m 後円部径 31.5m 高さ7m
前方部幅 35m 高さ6m
石室全長 8.8m 玄室長さ4.7m
奥  壁 3.05m 前幅2.6m
羨道長さ 4.1m 奥幅1.53m 前幅1.25m
                                前橋市教育委員会



不二山古墳(前橋2号古墳)5

 墳丘に登っていいものかちょっと戸惑いましたが、登ってしまいました。

 画像は、前方部から後円部を見たところです。。。
 10年ほど前は、墳丘上にかなり木が茂っていたのですが、伐採されて見学しやすくなっていました。(*ノˊᗜˋ*)ノワーイ


不二山古墳(前橋2号古墳)6

 後円部から前方部を見たところ。
 高さはかなり残っていますね。


不二山古墳(前橋2号古墳)7

 さて、本日一番の見どころは、この河原石で造られた構造物。

 横穴式石室がかつて南向きに開口していたというのは知ってはいましたが、総社歴史資料館でいただいたパンフレットには「石室は崩れてしまったため見学はできない」と書いてあったし、石室は見られないだろうと想定して見学に訪れました。
 それが、墳丘に登ってみたところ、墳丘南側に河原石が集中している場所が!

 事前に、角閃石安山岩を用いて築かれた石室内の写真を見ていましたし、なにか変だな?と思いながらも

 「マママママジかよ!」

 と心踊らせて近づきました。。。

 「こ、これはまさか風呂?」

 河原石をコンクリートで桶状に固めて造られた構造物の背後には、麓からひいてきたらしき水道の蛇口も見えます。
 すでに朽ち果てている様子からするとかなり古いものであるようですが、ひょっとしたらこの周囲がまだ一面の農地だった頃、農作業を終えたこの土地の所有者が、小高くなったこの古墳の上で一杯やりながら露天風呂に浸かっていたのでは?
 しかも、頭の上に手ぬぐいを乗せて、鼻歌なんか歌っていたのでは?
 などと無駄に妄想してみました。

 少し傾いてしまっているので、実際、風呂桶だったらお湯が流れ出てしまいそうだし、正体不明。
 真相はわかりません。

 一応、私には風呂桶に見えた。笑。

<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
現地説明板


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  1. 2021/05/24(月) 18:53:46|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その4 「前橋二子山古墳(前橋1号墳)」ー国指定史跡ー

天川二子山古墳(前橋1号墳) 1

 今回は、前橋市文京町3丁目に所在する「前橋二子山古墳」の探訪の記録です。

 この古墳は「二子山古墳」の名称で国の史跡として指定されており、また地元では地名をとって「天川(あまがわ)二子山古墳」とも呼ばれています。
 現在は、二子山児童公園内に整備、保存されており、いつでも見学することができます。

 最初の画像は、北から見た前橋二子山古墳です。

 葉が茂り始めて少々見えにくくなっていますが、墳形は前方後円墳で、画像の右側が前方部、左側が後円部です。
 全長104mで、前方部幅76m、後円部径72m、前方部高9.5m、後円部高11mという、とても大きな前方後円墳です。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 2

 この二子山古墳は、広瀬古墳群に属する古墳です。
 古墳群は、広瀬川低地帯を見下ろす前橋台地のふちに細長く立地しており、二子山古墳はその西北端に所在します。

 これまでに本格的な発掘調査は行われていないことから、古墳の内容についてはわからないことも多いようです。
 埋葬施設についても不明ですが、横穴式石室と推定されているようです。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 3

 墳丘東側の様子です。
 二段に築かれた様子がよくわかります。

 古墳の西側にある文書館では、建設に際して発掘調査が行われており、前方部の西側では幅30m近い濠が設けられていたことがわかっているそうです。

 古墳は、6世紀後半の築造と推定されてきましたが、この文書館建設に際しての調査では、濠を埋めている層序の中に、6世紀中頃の榛名山の噴火に伴う層が確認されたそうです。つまり、噴火以前の時期に築造された可能性が高くなってきたということになります。

 朝倉・広瀬古墳群中、重要な位置をしめるこの二子山古墳のさらなる解明が待たれますね。。。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 4

 墳丘北東側の入り口から入って、古墳に登ってみました。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 5

 右奥が前方部、左手前が後円部です。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 6

 墳丘のいたるところに葺石らしき河原石がゴロゴロと転がっています。
 現地の説明板によると、墳丘を保護するために薄く盛土が行われているということなのですが、やっぱり葺石なのかな。。。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 7

 後円部の墳丘上の様子です。
 中央にちっっさく見えているのが三角点です。笑。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 8

 後円部上から前方部側を見たところです。
 前方部が大きく発達しているのが特徴ですね。。。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 9

 前方部上から後円部側を見たところ。


天川二子山古墳(前橋1号墳) 10

 敷地の西側の隅に、古墳の詳細な解説が書かれています。

<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
現地説明板


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  1. 2021/05/21(金) 20:30:48|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その3 「飯玉神社古墳(上毛古墳総覧:上川淵97号墳)」

飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基1

 今回は朝倉・広瀬古墳群その3。
 前橋市広瀬町2丁目に所在する「飯玉神社古墳」の探訪の記録です。

 画像の、通りに面した場所に飯玉神社の一の鳥居があり、団地と団地の間の参道を進んだ奥の団地に囲まれた中に、飯玉神社の社殿の土台となった古墳が所在します。

 早速まずは神社を参拝しましょう。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基2

 画像は、二の鳥居です。

 この神社の祭神は保食神で、この前橋の飯玉神社が総社であるそうです。
 『飯玉神社 参拝のしおり』によると、平安時代、朝廷により記録された『上野国神名帳』にある『毛野けぬ明神』がこの飯玉神社であると考えられており、室町時代初期に関東地方を襲った台風による大洪水及び、幾多の天候不順のため凶作が続き、困窮の中、藤原氏一門の所領地(利根庄)に祀られている五穀豊穣の神「保食神=宇気母智命」を新たに合祀して、稲魂を語源とする「飯玉明神」と改称されたそうです。

 中世期は神仏混淆の時代であり、飯玉神社も「示現山観音寺」の管理するところとなり、修験者(山伏)達の信仰場所にもなりました。

 江戸時代後期には、後閑山(当社周辺)にお白狐がでると広く伝わり、以前より奉斎されていた稲荷大神が、養蚕の急速な普及に伴い、産業の守護神として厚く信仰されたそうです。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基3

 画像が三の鳥居です。
 すでに鳥居の奥に、社殿の土台となった古墳の高まりが見えています。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基4

 墳丘には石段が設けられて、墳丘上の飯玉神社を参拝することができます。

 古代、この一帯は大豪族上毛野氏の領地であり、豊かな田園が広がり、東国の一大文化圏であったと考えられており、そんな中、この飯玉神社古墳は4世紀に築造されたと考えられているそうです。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基5

 墳丘上の様子です。

 祭神である「保食命(宇気母智命・うけもちのみこと)」は、「う」は宇宙、「け」は空気・自然エネルギー、「もち」は大地の生命力、つまりは天地の恵みにより食物が育ち実るという意味であるそうです。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基6

 古墳の高まり全体を捉えると、こんな感じ。

 実際に訪れて見学したところでは、円墳の中ではかなり大きな部類に入る古墳ではないかという印象ですが、最近になって戦後の空中写真でこの地域を確認したところ、なんと衝撃の事実が!


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基13
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)4月6月に米軍により撮影された飯玉神社周辺の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。

 中央に見える木立が飯玉神社の境域となるわけですが、なんと!この戦後の空中写真からすると飯玉神社古墳は円墳ではなく、前方後円墳ではないかとも思えるような形状であることがわかりました。
 もちろん、上空からの写真だけではなんともいえないところで、参道の両側も含めて森林となっていることから偶然に前方後円墳に見えている可能性もあり得るところですが、それにしてもかなり興味深い形状です。

 また、この写真の範囲だけでも周囲に複数の古墳が残されている状況が確認できますし、農道の形状や、農地の区割りの形状なども古墳の跡地を連想させる、ワクワクするような空中写真です。笑。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基7

 境内に建てられていた、飯玉神社の由来碑です。
 古墳についての記述も見られます。

 飯 玉 神 社
      祭神 保食命 他 十二柱
         由緒
 当社は東日本最古の前橋天神山大古墳群の中心に位置し、社殿
は一古墳上に鎮座している。
古代、此の地方一体は大豪族、上毛野君に関る初期の東国文化圏
 であった。
創建年代不詳であるが、上野国神名帳(平安時代)に記載されて
 いる群馬東部「正五位上・毛野明神」とは当社と思われる。
文永三年(一二六六)の鎌倉幕府関東下知状に、当地「後閑郷(村)」
 の名が上野国の中の地名として記されている。
応永年間(室町時代)に天候不順にため凶作が続き困窮の中
新たに五穀豊穣の祖神「保食命=宇気母智命」を勧請合祀し
 稲魂を語源とする「飯玉明神」と改称された。
嘉永五年(一八五二)に神祇官白川家より「正一位」の神階を賜る。
社は全村民に護持崇敬され、末社の稲荷社と共に霊験あらたかな
鎮守さまとして、広く氏子崇敬者に親しまれ今日に至る。



飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基8

飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基9

 境内にはなんと!もう一箇所、古墳と思しき高まりが見られます。

 帰宅後に、『朝倉・広瀬古墳群』に掲載されている古墳分布図や『群馬県古墳総覧』を確認したところ、該当する古墳は見られないようで真相不明なのですが、社務所でお聞きしたところでは、この高まりも古墳ではないかと考えられているようです。(『群馬県古墳総覧』がすべての古墳を網羅しているかというと、実はそうでもないような気がしていますが、この飯玉神社の高まりは実は古墳ではなく塚であり、これが理由で記載されていないということも考えられますが、このあたりは深追いできていません。。。)


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基10

 こちらの高まりには赤城神社が祀られています。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基11

 塚上の様子。
 多くの小祠が祀られています。

 古墳なのかな。。。


飯玉神社古墳(上川淵97号墳)ともう1基12

 飯玉神社の社務所で御朱印をいただきましたー。.゚+.(・∀・)゚+.

<参考文献>
飯玉神社社務所『飯玉神社 参拝のしおり』
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  1. 2021/05/19(水) 20:09:44|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その2 「前橋天神山古墳(上川淵71号墳)」ー群馬県指定史跡ー

前橋天神山古墳(上川淵71号墳)1

 画像は、前橋市広瀬町に所在する「前橋天神山古墳」です。

 私が最初にこの古墳を訪れたのはもうかれこれ10年ほど前になりますが、当時は古墳の場所がわからず、この周囲をさんざん探し回りました。
 途中でこの四角い丘もちらりと視界に入っていたのにもかかわらず、「ぐあ~、場所がわからねえ~」とさんざん探して、ご近所の人に場所を聞いて「あの四角い丘だよ」とお教えいただいて、ヘナヘナ~っと力が抜けました。笑。

 ろくに調べもせずに訪れたのもいけなかったのですが、墳丘上には木が茂っていて形状は前方後円墳というイメージが頭にあって、まさかこんな形状で古墳が残されているとは思いもしなかったのです。。。

 元々は、全長129mもある巨大な前方後円墳だったそうなのですが、戦後の開発により墳丘は削り取られ、後円部の中心部分のみが現在のような形状となって残されているそうです。


前橋天神山古墳(上川淵71号墳)2

 住宅地の家と家の間に細い道があって、そこが古墳への入り口です。
 大きな説明板が設置されているので、すぐにわかります。(わからなかったけど)


前橋天神山古墳(上川淵71号墳)3

群馬県指定史跡 前橋天神山古

指定年月日 昭和45年12月22日
所 在 地 前橋市広瀬町一丁目27-7

 4世紀後半の古墳時代前期に、東日本で最も早く造られた前方後円墳
の一つです。主軸を東西方向にとり、全長は129m、後円部の直径は75m
ありました。後円部は3段に造られ、葺石により覆われていました。
墳頂部には赤く塗られ、底に孔が開けられた壺形土器が四角く配列され
ていました。その中央部に全長7.8m、巾1.2mの長大な粘土槨(遺体を納
めた木の棺を被覆したもの)が検出され、その中から、三角縁神獣鏡を
含む鏡5面のほか銅の鏃や鉄の剣、鉄の斧や鑿などが出土しました。
また、赤い顔料の入った滑石で造られた小型の壺も出土しています。
 たくさんの出土品のうち、粘土槨の副葬品は、国の重要文化財として
東京国立博物館に所蔵保管されています。しかし、残念なことに、古墳
は区画整理事業により、前方部は削平され後円部だけが四角の丘として
残されることになりました。
 古墳時代は、巨大な前方後円墳の出現で幕を開けます。天神山古墳の
出土品から、鏡は宗教、鏃や剣や武力、そして斧や鑿は生産の象徴とし
ての首長の姿が浮かび上がってきます。

発掘調査の経過
・第1次調査……昭和43年7月~8月
        墳丘部現状実測
        後円部葺石調査
・第2次調査……昭和43年11月
        周溝調査
・第3次調査……昭和44年3月~4月
        後円部埋葬主体部(粘土槨)調査
・第4次調査……昭和44年7月~8月
        前方部周溝調査
                        前橋市教育委員会



前橋天神山古墳(上川淵71号墳)4

 お隣の「前橋八幡山古墳」に引き続いて4世紀後半に築造されたことから、この2基の古墳は直接的な系譜関係が想定されているそうです。

 確かに、前方後方墳と前方後円墳という墳形の違いはあるものの、全長は約129メートルとほとんど同じで、郷土史本などに掲載されている天神山古墳の写真を見ると、残存する八幡山古墳と形状がそっくりです。

 この地域を開拓した当時の豪族が八幡山古墳の被葬者であるとすれば、これを引き継いでかなり暮らしが豊かになってきた頃の豪族が、この天神山古墳の被葬者なのかもしれません。。。


前橋天神山古墳(上川淵71号墳)5

 こうして墳丘上から見下ろしてみるとかなりの高さがあり、築造当時の古墳の巨大さが偲ばれます。
 ちょっと痛々しい印象もありますが、こうして古墳が残されたことは良かったと思います。


前橋天神山古墳(上川淵71号墳)6

 墳丘上の様子です。
 以前は墳丘上に屋根があったのですが、いつの間にかなくなりましたね?(そういえば昨年古墳カード集めのために訪れた時もなかったような。。。)

 現在は主体部である粘土槨のみが保存されているそうです。

<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
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  1. 2021/05/16(日) 23:55:52|
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前橋市 朝倉・広瀬古墳群その1 「八幡山古墳(上川淵67号墳)」ー国指定史跡ー

八幡山古墳(上川淵67号墳) 1

 今回から、群馬県前橋市内に所在する第古墳群、「朝倉・広瀬古墳群」を取り上げてみようと思います。

 前橋市内の北西から南東に向かって広瀬川が流れていますが、この河川に近いところを古墳時代の利根川が流れていたといわれています。この旧利根川の右岸には、河川によって形成された段丘が帯状に連なっています。この台地縁辺部には、昭和二十年代後半から四十年代にかけて朝倉・広瀬団地が形成されましたが、この団地が造成される以前は一面の桑畑が広がっており、その中にはいたるところに古墳が残されていたそうです。

 実際に、開発が始まる以前の昭和10年に県下一斉に行われた古墳調査によると、154基の古墳が所在したと記録されており、当時既に消滅した古墳も存在することを考えると、この数字をはるかに上回る古墳が築造されたとも考えられています。

 残念ながら、古墳のほとんどはその後の開発により消滅。現在は史跡として指定されている6基を含めた10基ほどが残るのみとなっています。


 今回は、この「朝倉・広瀬古墳群」の第1回ということで、国の史跡として指定されている前方後方墳、「八幡山古墳」の見学の記録です。

 画像は、南西から見た八幡山古墳です。

 ああ、なんという素晴らしき光景。。。


八幡山古墳(上川淵67号墳) 2

 北東から見た八幡山古墳です。

 古墳の北側は野球のグラウンドとなっており、この日も少年野球が行われていました。
 ちなみにこのグラウンドの敷地にも大きな円墳が存在したようですが、すでに痕跡は見られません。

 前方後方墳は、前方後円墳に先行して主要な地域に出現した墳形で、前方後方墳を築造した氏族がヤマト王権の列島経営のために各地に進出したからと考えられています。

 ちなみに前橋市で配布されている『朝倉・広瀬古墳群』という小冊子には、古墳群の分布の様相を復元した分布図が掲載されていますが、すごい数の円墳や前方後円墳が台地縁辺部に集中する中で、巨大な前方後方墳が唯一ただ1基、存在します。
 『東国の古代史』の形名氏が、群馬県内の前方後方墳について、同一地域の同墳形での首長継承がないことを指摘されていましたが、とても興味深いと思います。。。


八幡山古墳(上川淵67号墳) 3

 左手前が前方部、右奥が後方部です。
 古墳がかなり良好に残されている様子がわかります。ヽ(。・ω・。)ノ

 北関東自動車道や県道前橋長瀞線のバイパス建設に伴う発掘調査では、古墳の南方一帯に延々と連なる水田跡と集落跡が発見されています。これらの調査結果に共通していたのは、すべては始まりが古墳時代初頭のもので、弥生時代にさかのぼるものは一つもなかったそうです。
 つまり、前橋市南部に広がる水田地帯は古墳時代になって一気に開発されたもので、八幡山古墳の被葬者はこの水田開発事業を牽引した、この地域の新しいリーダーであったことが想定されているそうです。


八幡山古墳(上川淵67号墳) 5

 古墳の敷地は「八幡山公園」として整備されています。
 公園の西角に「史跡 八幡山古墳」と刻まれた石碑と解説が刻まれた石碑が建てられています。


八幡山古墳(上川淵67号墳) 4

史跡 八幡山古墳
 かつては、現在住宅地となって
いる広瀬側右岸の台地上に百数十
基にもおよぶ大小の古墳があり、
一大古墳群を形成していた。本古
墳は、この古墳群を代表するもの
の一つで、古墳群中唯一の前方後
方墳である。
 墳丘の規模は現状で全長一三〇
m、前方部幅五九m、同高さ八m
後方部幅七二m、同高さ一二mで
前方後方墳としての形もよくどと
めている。また、墳丘周囲には幅
二五m~三〇mの堀がめぐってい
たことが確認されている。
 埋葬主体部については、未調査
のため明らかでないが、墳丘頂上
部から埋葬した竪穴系のものであ
ったと推定される。なお、本古墳
の東南には、県内最古の古墳と考
えられる天神山古墳がある。



八幡山古墳(上川淵67号墳) 6

 前方部から後方部を見たところです。
 とにかくデカイというのはいいことですね。笑。


八幡山古墳(上川淵67号墳) 7
 
 後方部から前方部を見たところ。

 10年前にこの地域の古墳を散策したときは車を利用したのですが、今回は両毛線駒形駅から小さな口径の折りたたみ自転車を組み立てて、前橋駅周辺までゆっくりと散策しました。


 栃木県内から高崎方面に移動中、車内アナウンスで「上り」という表現があり、栃木から群馬への移動では群馬に向かうのが上りになるのか?と初めて知りました。

 群馬はかつては「毛野(ケノ)」と呼ばれており、この毛野はのちに「上毛野(かみつけぬ)」と「下毛野(しもつけぬ)」に分別され、平安時代に「上野」、「下野」に改められたそうです。

 これが現代の上り、下りに関係しているのかどうかはわかりませんが、じゃあ水戸線はどうなんだろうとか、武蔵野線はどうだったっけなとか、色々と考えました。笑。。。 


 とりあえずこの古墳は古墳群中最もオススメ。
 大勢の人に見て欲しいです。

 朝倉・広瀬古墳群シリーズ、次回の「前橋天神山古墳」に続きます。

<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
現地説明板


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  1. 2021/05/13(木) 20:49:10|
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七輿山古墳群 その1「七輿山古墳」ー国指定史跡ー

「七輿山古墳」

 最初にこの七輿山古墳を訪れたのは7~8年ほど前の真夏で、汗みどろでバテバテになりながら散策しました。
 その際に、この七輿山古墳と白石稲荷塚古墳が桜の名所であることを知り、以来ずっと、3月下旬から4月初旬の桜の咲くあたりに訪れたい!と機会をうかがっていました。笑。
 今年ついに念願叶い、7~8年越しで、満開の桜が咲き乱れる壮大な七輿山古墳の姿を見ることができました!

 画像は、群馬県藤岡市上落合に所在する「七輿山古墳」を南東から見たところです。
 前日までは八分咲きという状況だったらしいのですが、ちょうど私が訪れた4月6日の土曜日に満開となったそうです。(バッチリ読み通りだったけど、でも運が良かったー。)


「七輿山古墳」

 画像は南から、つまり真横から見た七輿山古墳です。
 墳丘が大きすぎて真横からでは全体像を捉えることができないのですが、左側が前方部、右側が後円部です。それにしても、巨大な墳丘一面を覆う桜のなんと美しいことか。。。

 この古墳は、昨年の2月下旬~3月下旬にかけて、最先端のデジタル三次元測量や地中レーダー探査(GPR)を活用した調査が、非破壊で行われています。実は私、ひょんなことから1年ほど前にもこの七輿山を訪れたのですが、ちょうど測量調査を行っている真っ最中で、墳丘上にはテープが張り巡らされて、学生さん達が忙しなく動き回っていました。
 この調査により、墳丘の構造は三段築成で、地面の下には墳丘を覆っていたとみられる葺石が残っていることが分かり、規模は従来考えられていたより5m大きい全長約150m超だったことも判明。全長も幅も広がったようです。
 また、横穴式石室は、後円部南側の入り口から中心部に向かっており、レーダーが深さ6メートル以上は届かないことから正確な大きさは判明しないものの、少なくとも入り口から長さ十メートルの石室の一部を確認。仮に石室が中心部まであった場合、かなり大規模な石室である可能性もあるそうです。


「七輿山古墳」

 画像は、南西から見た七輿山古墳です。
 七輿山古墳の築造年代は、その形状から推定6世紀の第2四半期(525~550)と絞り込まれており、この古墳が天皇に近い人物の墓に匹敵することから、被葬者はヤマト王権の直轄地である緑野屯倉を治める使命を帯びた有力者、または大きな力を持った豪族、上毛野氏の誰かだったのではないかと推測されているようです。


「七輿山古墳」

 この古墳の後円部の先端は一部削られていて、おびただしい数の首の無いお地蔵さまが立てられています。
 私、初めて訪れたのは夕暮れ時で、しかも周囲に見学者がまったくなく独りだったこともあって、この光景には凍りつきました。。。
 これは、明治時代の廃仏毀釈に関連するものといわれているようです。
 廃仏毀釈は、神道と仏教を分離させて神道を国教とすることを目指す明治政府の方針ににより、「神仏分離令」が発せられます。これにより、全国各地で必要以上の、寺院の施設、仏像、仏具の破壊、焼却が行われたようです。
 この七輿山古墳の首無し地蔵は、一説には、江戸時代の寺と農民の紛争が背景にあるのではないかともいわれているようですが、切断された石像の首は、古墳の堀の中に投げ捨てられていたそうです。

 七輿山古墳には複数の説明板が設置されているのですが、この首無し地蔵に関する詳しい解説も付け加えて欲しいなと思いました。。。


「七輿山古墳」

 後円部の墳頂にも首の切られた釈迦三尊像が。
 ああ、恐ろしや。。。


「七輿山古墳」

 釈迦三尊像の周辺に大きな石が露出しているのですが、埋葬施設が隠されているのでしょうか。。。


「七輿山古墳」
 
 後円部から前方部を見たところです。
 多少崩れてはいるものの、築造当時の形状をはっきりと見て取ることができます。

 説明板は、古墳の東側と北側の2箇所に設置されているようです。
 後円部東側の説明板には次のように書かれています。

 国指定史跡
  七 輿 山 古 墳
所在地 藤岡市上落合831-1ほか
所有者 国ほか
 この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。大
きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の
高さは16mです。
 四回にわたる範囲確認調査で墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴
輪列が明らかになりました。また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡
っています。出土遺物は円筒埴輪、朝顔型埴輪のほかに人物•馬•盾などの形象
埴輪があります。特に、円筒埴輪は七条凸帯を有し、径50cm、高さ1.1mの
大型品です。古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られ
たものと考えられます。
                           藤岡市教育委員会



「七輿山古墳」

 前方部から後円部を見たところ。
 古墳北側の説明板には次のように書かれています。

国 指 定 史 跡 七 輿 山 古 墳
   所在地 藤岡市上落合831-1ほか
   所有者 国・藤岡市
   指定日 昭和2年6月14日
   追加指定 平成8年9月26日
 古墳は、鏑川と鮎川に形成された舌状の河岸段丘に造られた三段築成の前方
後円墳である。大きさは全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と
後円部の高さは16mを計る。
 4回にわたる確認調査の結果、中堤帯や外堤帯と呼ばれる土手状の堤を境に
内側と外側に周溝が巡り、三重目の溝、葺石、埴輪列が確認された。なお、
埴輪列は中堤の平坦面に2列、三重目の溝は前方部前面からコの字状に検出さ
れている。出土遺物は円筒埴輪•朝顔形埴輪•人物•馬•盾などがある。特に円筒
埴輪は径40cm、高さ1mを越す7条突帯の大型品で、貼付口縁と低位置突帯の
特徴がある。
 古墳の埋葬施設は不明であるが、出土遺物から築造時期は6世紀前半に推定
され、6世紀代の古墳としては東日本最大の前方後円墳である。
                           藤岡市教育委員会
 



「七輿山古墳」

 前方部の先端には、石組みがあります。
 この日は、どこかのタレントさんが桜を背景に撮影を行っていました。
 実は、3枚目の画像の真ん中あたりで光っているのは、スタッフが抱えたレフ板なのです。
 良い映像が撮れているといいですね。。。


「七輿山古墳」

 左が前方部、右奥が後円部です。
 くびれ部の形状がよくわかりますね。


「七輿山古墳」

 段丘がはっきりと残っています。
 桜を見学に来た人たちのよき通路となっていました。笑。

<参考文献>
『TOKYO Web』
『朝日新聞DEGITAL』
『現地説明板』


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  1. 2019/05/08(水) 22:50:36|
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稲荷山古墳群 その1「白石稲荷山古墳」-国指定史跡-

「白石稲荷山古墳」

 さてさて、今回から麗しの群馬特集!ということで、群馬県藤岡市白石に所在する「白石稲荷山古墳」の探訪の記録です。

 国指定史跡であるこの白石稲荷山古墳は、藤岡市を一望できる台地の縁辺部に築造されており、後円部の墳頂部には大きな2本の桜の木が植えられています。地元ではお花見スポットとしても知られており、満開になる4月上旬頃には多くの人が観光に訪れています。
 私が訪れたのは4月6日の土曜日でしたが、なんと!八分咲きだった桜がちょうどこの日に満開になったということで、多くの人がスマホを片手に桜を楽しんでいました。

 画像は「白石稲荷山古墳」を、台地から一段下がった南東側から見上げたところです。
 左が前方部、右が後円部という状況です。
 やはり古墳の雄大さを感じるには、台地の下から見上げなければ!


「白石稲荷山古墳」

 なんと美しき、後円部とさくら。
 この角度から見ると、壮大な一本桜に見えるのです!

 実は、私が最初にこの古墳を訪れたのは8年前の9月、つまり桜とは全く無縁な時期だったのです。当時はこの古墳が桜のお花見スポットだとは露知らず、よく調べてから訪れるべきだったと激しく後悔しましたが、以来ずっと再訪できるチャンスを狙っていました。
 なんとかギリギリ、平成最後の年にようやく満開の桜を拝むことができました。

 今回の画像、実は周囲には、多くの桜の写真を撮影している人がいるのです。
 私だけ、人の波が途切れるまでじーっと待っているわけなのですが、変な人だと思われたでしょうね、きっと。笑。


「白石稲荷山古墳」

 墳頂部の様子です。
 もう少し遅い時期を狙ってきて、舞い散る桜吹雪を撮影できたら、それもキレイだったかもしれません。

 石碑とともに、藤岡市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 国指定史跡
  白石稲荷山古墳
       所在地:藤岡市白石一三六五ほか
       所有者:飯玉神社ほか
 古墳は、鮎川左岸の上位段丘面東端に占地する前方後円墳である。大きさは
全長一七五m、後円部径九二m、くびれ部幅五〇m、前方部幅約一四八m、後
円部高一三・五m、前方部高六mである。昭和8年の調査で、墳頂部から東槨
(全長八・二m、幅九〇cm)、西槨(全長五・三m、幅四〇cm)の二つの竪穴式礫
槨が確認されている。出土遺物は鏡、直刀、装飾品類、石製模造品(石枕・刀
子・案・杵・坩・箕・釧・勾玉・屐など)などのほか家、短甲などの埴輪があ
る。
 本墳は十二天塚古墳や十二天塚北古墳を陪塚とし、五世紀前半に造られた東
日本を代表する古墳の一つで、豊富な副葬品から当時の生活文化を考える上で
極めて重要である。
                           藤岡市教育委員会




「白石稲荷山古墳」

 後円部から前方部を見たところです。
 後円部に比べて、前方部が低い形状が特徴的ですね。
 長年農地として利用されたからか、墳丘の表面がなめらかになっていて墳形がはっきりしません。


「白石稲荷山古墳]

 南西から見た白石稲荷山古墳です。
 左が後円部、右が前方部です。

 この古墳は、昨年の「七輿山古墳」同様に、早稲田大や県立歴史博物館と合同で今年2月26日~3月25日にかけて、デジタル三次元測量や地中レーダー探査による調査が行われています。昭和8年の調査は深さ数十センチまでしかできなかったものの、GPRはなんと地下6メートルまで測定できるそうです。
 この古墳は、昭和8年(1933年)に大規模な発掘調査が行われています。この際、後円部の墳頂部の東西二箇所に竪穴式の埋葬施設が確認されており、直刀や銅鏡、勾玉、家形埴輪や多数の石製模造品が出土しているそうです。
 この二箇所の埋葬施設は、墳頂部中心から外れていることから、さらに下層の中心部に、より古い年代の埋葬施設が存在するのではないかとも想定されているそうです。地中レーダー探査等の非破壊調査により、墳丘の詳細な規模や構造、未確認の埋葬施設などの解明が期待されているそうです。
 現在はまだ、詳細な調査結果は公表されていないようですが、古墳の形状や別の埋葬施設の存在により、古墳の築造時期がさかのぼる可能性もあるようです。
 昨年、「七輿山古墳」で行われた非破壊調査では、国内最大規模ともいわれる横穴式石室の存在が確認されているようですし、調査の結果が楽しみですね。。。

 この写真、実は撮影しているときは古墳の全貌をおさめているつもりだったのですが、帰宅してから空中写真で確認すると、私が撮影している場所も前方部の西角にあたっていました。。。

「白石稲荷山古墳」

 西から見た白石稲荷山古墳。
 墳丘上を歩く人影が、古墳の雄大さを物語ります。


「白石稲荷山古墳」

 北側から後円部を見たところ。
 デカイってのは良いことです!


「十二天塚古墳」と「十二天塚北古墳」

 白石稲荷山古墳の北側には、隣接して「十二天塚古墳」、「十二天塚北古墳」という2基の古墳が存在します。かつては1基の前方後円墳ではないかとも考えられていたようですが、昭和62年(1987)からの3度にわたる範囲確認調査で、別々の2基の古墳であることが判明しています。
 藤岡市のHPによると、「十二天塚古墳」は長軸36.8m、短軸26.8m、高さ2.6mの長方形墳で葺石や埴輪列が巡っています。「十二天塚北古墳」は、長軸23m、短軸22m、高さ2.2mの方墳で、竪穴式の礫槨が確認されています。十二天塚北古墳からは白石稲荷山古墳と同じ竪穴式礫槨が確認され、紡錘車、勾玉、坩などが棺外埋葬で出土しています。
 画像の右手前が十二天塚古墳、中央奥が十二天塚北古墳の所在地となるようですが、墳丘が明瞭な形で残されていないため、よくわかりません。


「白石稲荷山古墳」、「十二天塚古墳」と「十二天塚北古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=738742&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和35年(1960)に国土地理院により撮影された、白石稲荷山古墳、十二天塚古墳、十二天塚北古墳の所在地周辺の空中写真です。この時代にはまだ方形の十二天塚古墳と、うっすらと円形にも見える十二天塚北古墳の形状を捉えることができます。さらには、白石稲荷山古墳の前方部の形状も確認することができます。
 やはり、かなり広い前方部だったようですね。


「白石稲荷山古墳の埴輪」

 この白石稲荷山古墳と、皇子塚古墳、平井地区1号古墳が所在する毛野国白石丘陵公園のちょうど中間地点に「藤岡歴史館」があり、常設展示にて白石稲荷山の出土品が公開されています。
 画像が円筒埴輪と朝顔型円筒埴輪です。

次回、「稲荷山古墳群 その2」に続く。。。

<参考文献>
群馬県『ぐんま古墳探訪』
東京新聞『TOKYO Web』
現地説明板


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  1. 2019/04/23(火) 02:06:02|
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