
昨日は用事があって、群馬県の太田市方面に出掛けました。
私の大好きな群馬まで来て古墳を1基もみないで帰るのもなんだよな〜と思い、用事が済んでから帰り道に古墳がないかどうか(絶対ある!)ググってみたところ、ちょっと遠回りすれば見られるぜ!という古墳をみつけました。
古墳公園として整備されているようなので薮になっている可能性もなさそうだし、いいかも。
というわけで立ち寄ったのが、群馬県邑楽郡大泉町に所在する「古海原前1号墳」です。

古墳は利根川左岸の洪積台地上に位置しており、現在は円形の墳丘が保存されていますが、かつては帆立貝の形をした全長約54mの帆立貝式古墳であったと考えられています。
なんかさ。佇まいが府中市の「高倉塚古墳」に似てるね。
復元した墳丘の一部が建物の角に切られているところなんかさ。

説明版を読んで初めて知ったのですが、この古墳の埋葬施設は主体部が縦に4基、重なった状態で発見されたそうです。
同じような事例はあまり聞いたことがないですが、どういう意図があってそうなったのか、とても興味深いです。。。

墳丘裾部には埴輪列が復元されていました。

古墳の墳頂部からは、西暦500年頃に噴火したという榛名山の火山灰が確認されていて、出土した須恵器の年代を参考して、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられています。

整備されているんだし、墳頂部には何もないかな?と思ったら、何かある?

芝の中に埋もれるように説明板が埋め込まれていました。
危うく見落とすところだったぜ、と。
4基重なっていたという埋葬施設は、もっとも下層のものは棺を粘土で覆った粘土槨、その上の3基は棺を河原石で覆う礫槨で、棺の構造は竹を縦に2つに割ったような形の割竹形棺と考えられています。
ここは、古墳のすぐ北に古海東公民館があってそこに車を停められます(多分)。
見学しやすい古墳かも。。。
ちなみに周辺にはぼこぼことかなり多くの古墳が残っているようなのですが、これはまたいずれゆっくり見学しようと考えています。。。
<参考文献>
現地説明版
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- 2023/09/25(月) 23:24:21|
- 群馬県の古墳・塚
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画像は、 群馬県板倉町飯野の「松ノ木古墳」の跡地周辺に所在する謎の塚状地形です。
この古墳は、分布図に記載されている所在地の周辺に高まりがあり、塚上に祠が祀られていたことから、「お!これが松ノ木古墳だな?あったあった。」みたいな感じで、表面観察ののちに写真を撮って現地を後にしました。
形状的に「ホントにこれ、古墳かな?」という印象もあったのですが、ほかに古墳らしき地形は見当たりませんでしたし、あまり深く考えなかったかも。。。
ところが、後日に板倉町の文化財資料館で文献を漁っていて、板倉町教育委員会発行の『板倉町の遺跡 ー町内遺跡詳細分布調査報告書ー』に「現在墳丘は残存していないが、『遺跡台帳』(1971)に径10m、高さ2mと記されているが、この当時でも「削平が進んでいた」とあるので、原型はより大きかったと推察する。」という記述を見つけました。
つまりは、画像の高まりは松ノ木古墳ではないということになります。

角度を変えて撮影しました。
例えばかつて古墳の墳丘上にあった祠をここに盛り土をして祀ったとか、何か古墳に関係があるのではないかとは感じますが、このあたりの詳細は分かりません。
ただし、周辺からは人物埴輪や円筒埴輪の破片が採集されているそうなので、かつての古墳の存在は間違いないようですが、現存するする高まりが残存する墳丘であるかどうかは怪しい感じです。。。

塚上の様子。
石祠が祀られています。
<参考文献>
板倉町史編さん委員会『板倉町史 考古資料編 別館9』
板倉町教育委員会『板倉町の遺跡 ー町内遺跡詳細分布調査報告書ー』
現地説明板
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- 2023/04/23(日) 21:08:07|
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画像は、群馬県板倉町大高嶋に所在する「稲荷神社古墳」です。
前回の「大塚山古墳」の北東約300mほどに位置する古墳で、大塚山古墳同様に板倉町の史跡として指定されています。

ここは、古墳であるとされる場所が周囲よりも小高くなってはいるものの、古墳であると認識できるような明確な墳丘は残されていないように感じられます。
墳丘北側の町道拡張工事に伴う、拡張部分のみの発掘調査が行われましたが、墳形や規模は明らかにならなかったようです。
ただし、その後に墳丘南側の削平に伴う調査で周堀が確認され、規模はおよそ30m前後の墳丘ではないかと想定されているようです。
また、近年の耕作によって社の東側から奥壁と側壁および裏込めの粘土層が認められ、石室の残存が判明しています。

墳丘上の様子です。
昭和13年の『上毛古墳総覧』には「円墳・大きさ48尺(約14.5m)、高さ5尺(約1.5m)」と記載されています。
また、古墳は明治17〜18年頃発掘され、石槨が確認されたといわれています。
出土したとされる大小刀剣や石槨の石材、板状の縁石3個は現在では所在不明となっているようですが、板状の縁石はなんと!刻字されていたそうですが読み取りは不可能であったといわれています。

位置の鳥居の横には「稲荷神社古墳」の標柱と板倉町教育委員会による説明板が設置されています。
説明板には次のように書かれていました。
板 倉 町 指 定 史 跡
稲 荷 神 社 古 墳
(『上毛古墳総覧』大箇野村第二号墳)
昭和五十年四月二十五日 指定
昭和六十二年周堀確認調査の結果、円墳であること
が確認されています。大きさ等は明らかではありません
が、径約30m、高さ約2mの古墳になると推定され
ます。
石室の床面には榛名山二ツ岳産出の浮石質角閃石安
山岩(河原石)が敷き詰められています。この石材は
利根川流域の古墳(横穴式石室)とくに谷田川両岸の
石室に使用されている特徴的な石です。
構築時期は、出土遺物が少ないため明確ではありま
せんが、6世紀後半頃と見られます。
平成十年三月 板倉町教育委員会

二の鳥居と社殿の様子です。
ちなみにこの古墳が所在する堆積台地の東端には、現在でも水の湧く地点が3箇所も存在するそうです。
従って、古墳が築造された当時も水田として適した地であったことが想定され、この古墳の被葬者は経済的に豊かな集落を掌握していたものと推測されています。

むしろ気になるのは、古墳の東隣の民家の敷地内にあるこの高まりかな、と。
元々あった古墳を流用したような可能性はないのでしょうか。。。
<参考文献>
板倉町史編さん委員会『板倉町史 考古資料編 別館9』
板倉町教育委員会『板倉町の遺跡 ー町内遺跡詳細分布調査報告書ー』
現地説明板
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- 2023/04/20(木) 20:24:35|
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今回から、群馬県板倉町内の古墳をいくつか取り上げてみようと思います。
画像は、群馬県邑楽郡板倉町大高嶋に所在する「大塚山古墳」です。
板倉町の史跡として指定されている古墳ですが、敷地は民有地です。
複数の方が所有する土地となっているそうですが、当日はそのうちのひとりであるという土地の所有者の奥さまに声をかけて見学させていただきました。。。

古墳は、麦倉・川俣停車場線という県道沿いの北側に所在します。
道路沿いには大塚山古墳と稲荷神社古墳を示す標識が設置されていますが、ぼんやり走っていると見落としてしま雨かも。。。笑。

残存する墳丘の様子。
階段が設けられていて、墳頂部に祀られている秋葉神社・大作神社を参拝することができます。
古墳の残りも良いようですね。。。

古墳の横には板倉町教育委員会による説明板と標柱が設置されていました。
標柱はポッキリと折れていますね。。。笑。
説明板には次のように書かれていました。
板倉町指定史跡
大塚山古墳(大箇野二号墳)
板倉町大字大高嶋一七三二
昭和五十年四月二十五日指定
大塚山古墳は「上毛古墳総覧」によると円墳とされ、
七世紀ごろ築造されたものと考えられています。
墳丘部は直径約七メートル、高さ約二•五メートルで、
かなり良好な状態で残されています。
谷田川下流域の古墳群として、六世紀代に岩田の舟
山古墳、道明寺古墳が築造され、次いで筑波山古墳が
築造されました。
七世紀に入り、松ノ木古墳(飯野ー消滅ー)、大塚山
古墳、稲荷神社古墳(高島)が築造されました。
この大塚山古墳は出土品が全くなく、発掘に関する
伝承もないため、完全な形で石室が遺されている可能
性があります。未知の部分が多い古墳であり、その分
だけ貴重な古墳であると言えます。
平成二十六年二月 板倉町教育委員会

大塚山古墳は測量調査が行われており、墳丘の形態は東西に15m、南北に13mを測り、方墳ではないかとも考えられているようです。
また、地下レーダー探査も行われており、埋葬施設は横穴式石室といった大規模なものではなく、竪穴式や粘土槨的なものと想定されています。

墳頂部の様子です。
板倉町は、古墳の数はそれほど多くはありませんが、どこの古墳も見学しやすいです。
地元の方々もとても親切で、楽しく巡ることができました。。。

墳頂部から見下ろしてみたところ。
高さが残されているのがわかります。
<参考文献>
板倉町史編さん委員会『板倉町史 考古資料編 別館9』
板倉町教育委員会『板倉町の遺跡 ー町内遺跡詳細分布調査報告書ー』
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- 2023/04/19(水) 21:41:32|
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朝倉・広瀬古墳群の見学を終えてから後日、駒形神社を参拝しました。
この神社の鎮座地は、古墳時代の旧利根川本流の右岸に位置しており、かつては広漠たる原野の中にこの駒形神社一社のみがあり、駒形大明神と称されていたそうです。
位置的に朝倉・広瀬古墳群の南東端にあたりますが、ひょっとしたら数多くの古墳に囲まれた神社だったかもしれませんよね。(ちなみに前回取り上げた「経塚古墳」は南に600~700mほどの地点に所在します。)

本殿の様子です。
祭神は「保食命」で、勧請年月は元亀元年(1570)と伝えられています。
勧請年月は元亀元年(1570)と伝えられており、神仏混淆(神道と仏教が合体した信仰)の時代には天台宗泉蔵寺に属していました。その後、慶安年間(1648〜1651)頃に社殿を改築、「別当 山伏修験本明院」として駒形の氏神として祀られるようになったそうです。
宝暦7年(1752)にも社殿を改修、現在の社殿は明治37年(1905)に新築されたものです。
明治40年(1907)12月、本社境内末社三社(八坂社・稲荷社・秋葉社)並びに町内字高島鎮座琴平神社とその末社四社(八坂社・稲荷社・秋葉社・菅原社)及び町内字桃井鎮座の雷電神社とその境内末社三社(八坂社・三峰社・諏訪社)を駒形神社に合併しました。
大正3年(1914)10月9日に群馬県より神鐉幣帛共進神社に指定されて村社となり、昭和27年(1952)12月、宗教法人駒形神社となりました。その後、平成17年(2005)10月に社殿新築百年祭の記念行事が盛大に行われました。(駒形神社由緒書より)
また、この神社にある「駒形牛頭天王の獅子頭一対」は昭和57年(1982)4月26日に前橋市の重要有形民族文化財に指定されています。

境内社である「駒形伏見稲荷神社」です。
本社のみならず、この駒形伏見稲荷神社の御朱印もいただきくことができます。御朱印は、境内前の宮司さんの自宅でいただけます。

この神社を取り上げた理由の一つは、この御嶽塚の存在です。
御嶽山三柱大神と石祠が、わずかに盛り上がった塚の上に祀られています。
ままままさか古墳の痕跡では?と一瞬びっくりしましたが、う〜ん、古墳じゃないかも。。。

塚を背後の北側から見たところ。
う〜ん。やっぱり古墳とは関係ないかな。。。

御朱印をいただきました.゚+.(・∀・)゚+.
駒形神社のものと駒形伏見稲荷神社のもの、2種類いただきましたが、まずは駒形神社の御朱印です。
この日は、折り畳み自転車でキコキコ走り回りましたが、奥様に「お気をつけて〜」と声をかけていただいて、とっても癒されましたー。

駒形伏見稲荷神社の御朱印です.゚+.(・∀・)゚+.
<参考文献>
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- 2021/06/14(月) 01:57:33|
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画像は、前橋市東善町に所在する「経塚古墳」です。
総社歴史資料館や大室はにわ館で配布されている小冊子、『朝倉・広瀬古墳群』にはこの古墳は掲載されていないので、学術的には朝倉・広瀬古墳群に属してはいないのかもしれませんが(属しているのかもしれませんが。笑。)、広瀬川右岸に築造された古墳ということで、見学に訪れました。

この経塚古墳は、昭和48年9月24日に前橋市の史跡として指定されています。この古墳の所在地は前橋市東善町経塚乙737番地とあり、古墳の名称が字名となっているようですので、かなり古くから知られた存在であったようです。
古墳は、田んぼの中に浮島のように浮かんでおり、標柱と説明板が設置されている様子も確認できるのですが、古墳の場所まで到達するための道がなく、どこから行くんだ?と迷いました。
結局草むらの中をかき分けて進みましたが、田んぼに水が張られていたら到達できなかったかも。笑。

古墳は学術的な調査は行われていないため、墳丘全体に葺石が存在することはわかっているようですが、正確な古墳の形状や規模、埴輪の有無は不明で、主体部は横穴式石室が想定されているようですが、これも未確認であるようです。
ちなみに『群馬県古墳総覧』には、規模は直径約30mの”円墳”と記載されています。
古くからこの地域は「経塚」と呼ばれていることから、古墳は経塚に転用されて信仰の場所として使われてきたことが推測されています。
<参考文献>
群馬県教育委員会『群馬県古墳総覧』
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- 2021/06/11(金) 23:58:55|
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朝倉・広瀬古墳群シリーズも今回でその12。
画像は、前橋市山王町に所在する「上陽33号墳」です。
総社歴史資料館や大室はにわ館で配布されている小冊子、『朝倉・広瀬古墳群』を参考にすると、広瀬川右岸の台地上に北西から南東にかけて細長く分布する「朝倉・広瀬古墳群」の中で、南東端に位置する古墳ということになります。

南から見た上陽33号墳です。
実際に現地で見学した印象は、墳丘の南西側が削られてその断面に石垣が積み上げられている様子から、かつてはこの石垣の先に前方部が伸びていたのではないか?と感じたのですが、これは勘違いで、古墳は直径33m、現状の高さ2.9mの円墳であるようです。
昭和10年頃には周囲に周溝が確認されていたという記録も見られるそうなので、円墳で間違いないのかも。。。

墳丘裾部に説明板が設置されていました。
「ぐんま食と歴史文化財団」による助成と地権者、(株)測研の協力により設置された説明板で、史跡として指定されている古墳以外にも、こうして民間の手による説明板が建てられているのが素晴らしいですね。。。

墳丘頂部から北東側を見下ろしたところです。
この上陽33号墳は学術的な調査が行われたことがなく、詳細は不明なのですが、墳丘上部が削平され、西側が緩い傾斜に形を変えられているそうです。
それで、前方部が削平された前方後円墳に見えたのですね。笑。

墳丘斜面に微妙な大きさの穴が開けられていてびっくりしました。
これまでにも何度かこうした光景を目にしましたが、モグラにしては穴が大きすぎるし、キツネかタヌキが巣穴にしているのかな?
主体部は横穴式石室が想定されているようですが、現状は未確認です。
墳丘には葺石が存在します。
墳丘面からは円筒埴輪や朝顔型埴輪の小破片が確認されており、また墳丘面に榛名山噴火で噴出した角閃石安山岩が確認されることから、6世紀中頃以後の築造と推定されているそうです。。。
<参考文献>
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
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- 2021/06/09(水) 23:32:15|
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朝倉・広瀬古墳群シリーズその11。
今回は、前橋市山王町1丁目に所在する「山王金冠塚古墳」の探訪の記録です。
画像は、古墳の北側のつばき公園から撮影した金冠塚古墳の全貌です。
左が前方部、右が後円部という前方後円墳です。

画像は、後円部側を見たところです。
古墳は全長52mの前方後円墳で、二段築成ですがその上段部分がほぼ失われており、遺存状態はあまりよくなかったようです。しかし、明治40年に行われた発掘調査により豪華な副葬品が大量に発見されたことから、古墳の範囲のほとんどが保存されたそうです。
実際に現地で見学してみて、上段が極端に低く平べったい古墳だなあと感じましたが、そういうことだったのですね。。。
昭和13年(1938)に群馬県より発行された『上毛古墳綜覧』には「上陽村14号古墳」として記載されており、また地元では山王二子山古墳」とも呼ばれていたようですが、この副葬品のなかに朝鮮半島製の可能性が高い金銅製の冠が出土したことから、名称が「金冠塚古墳」に統一されました。

後円部の裾のあたりに、「市指定史跡 金冠塚古墳」と刻まれた石碑と、前橋市教育委員会による説明板が設置されています。
前橋市指定史跡 金冠塚古墳
指定年月日 昭和61年6月6日
所 在 地 前橋市山王町一丁目13-3
朝倉町から広瀬町、山王町にかけて、かつては、140基を超える古墳が
あったといわれています。その中で、昭和10年(1935)に行われた群馬県内
の一斉調査では上陽村14号墳として記載されています。
山王二子山古墳とも呼ばれていましたが、金銅製の冠が出土したこと
により、名称を金冠塚古墳に統一しました。昭和56年(1981)に発掘調査
が行われ、全長52.5m、後円部の直径32.3mで、後円部に榛名山二ツ岳起源
の軽石(角閃石安山岩)を加工して積み上げて造られた推定全長5.2m以上
奥壁の幅2.5mの横穴式石室があったことがわかりました。
大正4年(1915)に出土した金銅製冠は、古代朝鮮半島三国時代の新羅や
伽耶で作られていた「出の字」型の冠に似ていることから、このころの
朝鮮半島の文化の影響が日本にも強く現われていることがわかります。
前橋市教育委員会

後円部上から前方部側を見たところ。
やはり上段部分の高さはあまりありませんが、古墳の形状ははっきりと見ることができます。

前方部上から後円部側を見たところ。
朝倉・広瀬古墳群は、開発が進んでいる地域ではありますが、日常の中に古墳が溶け込んでいるという印象で、いい感じですねヾ(o´∀`o)ノワァーィ
<参考文献>
右島和夫『群馬の古墳物語〈上巻〉ー東国の古墳と文化を探るー』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
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- 2021/06/06(日) 23:00:20|
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朝倉・広瀬古墳群を散策中に、画像のような標柱を見かけました。
住宅地の通り沿いの一角に建てられており、「前橋市指定重要文化財 山王の宝塔」と書かれています。
民家の入り口に標柱だけがポツリとあるのですが、肝心の宝塔はどこにあるのか見当たらないという不思議な光景です。
文珠山古墳や阿弥蛇山古墳から、東に200mほどの地点です。。。
スマホで「前橋市指定重要文化財、山王の宝塔」と検索すると、前橋市の「市指定文化財一覧」という一覧表がヒット。この一覧表には宝塔の所在地が「山王町98-2」と書かれています。
この住所をGoogleマップ検索すると、宝塔の場所は標柱の東側の民家の敷地にあたるようです。(いやホントに便利な時代で、その場でいろいろ調べることができるなんて素晴らしいですよね。今更ながら。。)
どうにも気になってしまって、まずはぐるりとこの区画を一周してみたのですが。。。

一覧表に記載されていた「山王町98-2」にはなんと、どうみても古墳ではないかと思しき高まりの上に宝塔らしき石造物が!
位置的には広瀬川右岸の段丘縁辺部であり、広範囲に分布する朝倉・広瀬古墳群の真っただ中でもありますので、古墳の可能性は高そうです。
総社歴史資料館で入手して持ち歩いていた『朝倉・広瀬古墳群』の分布図と照らし合わせると、どうやら「上陽村第12号古墳」という名称の前方後円墳に当てはまるようです。

さらにその場で検索してみると、なんと!あんけん氏のHP『
趣味の案件』で、この宝塔と古墳について取り上げられているのを発見しました。
やはり、この高まりは「上陽村第12号古墳」の残存部分で、塚上の石造物も「山王の宝塔」で間違いないようです。(くあ〜。偶然見つけてラッキーでしたが、事前にちゃんと調べてくるべきですよね〜。。。)

塚の前の道路の形状も、まるで前方後円墳の痕跡かのように弧を描いていてワクワクしますが、『朝倉・広瀬古墳群』の分布図からすると、往時の古墳は東西に向いていたようなので、どうやらこの地形は偶然であるようです。。。
今回は残存古墳の見学が目的だったし、先を急ぐこともあり、ピンポンしたりはしませんでしたが、この朝倉・広瀬古墳群はもっと深追いして探すと、色々な古墳の痕跡が各地に残されているのではないかと感じます。(ちなみに敷地内には、道路から見えない場所には説明板も設置されていたそうです)
いずれチャンスがあれば、もう少し痕跡を追い求めてみたい地域ですね。。。
<参考文献>
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
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- 2021/06/05(土) 00:25:26|
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朝倉・広瀬古墳群シリーズその9。
今回は、前橋市山王町に所在する「阿弥蛇山古墳」です。『上毛古墳綜覧』には「上陽村7号古墳」の名称で登録されています。
実は、前回紹介した「文珠山古墳」と今回紹介する「阿弥蛇山古墳」は、かなり近い位置に並んで存在します。
画像の右側が文珠山古墳で、左側が阿弥蛇山古墳です。
大きな古墳が並んでいる光景は、なかなか壮観ですよね。。。

前回の文珠山古墳と今回の阿弥蛇山古墳には説明板が設置されていないようなのですが、のちに調べてみたところでは、規模は径25m、高さ4mで、墳形は帆立貝型古墳です。
帆立貝型古墳である阿弥蛇山古墳よりも、円墳である文珠山古墳の方がはるかにデカイ(ちょうど倍!)というのも面白いなあと思いますが、墓地化されながらも造り出しの部分の形状もしっかりと残されているようです。
画像の左側が後円部、右奥が前方部(造出し?)となるようです。。。

墓地の入口部分です。
前方部から後円部側を見たという状況です。
文珠山古墳と阿弥蛇山古墳のどちらの古墳も、壊されずに現代まで残されたわけですが、やはり墳丘が墓地として利用されたこと大きかったのかもしれませんね。

墳頂部の様子です。
直径50mもある文珠山古墳と並んでいるので、阿弥蛇山古墳のほうはかなり小さく感じてしまうのですが、こうして墳丘に登ってみるとかなり高さがあるのに驚かされます。
築造当時は、きっとすごい数の古墳が並んでいたんでしょうね。。。
<参考文献>
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『群馬の古墳時代はここから始まった!! 朝倉・広瀬古墳群』
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- 2021/06/02(水) 19:24:25|
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