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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

茨城県大子町「上岡古墳群」ー大子町指定史跡ー

大子町「上岡古墳群 遠景」

 今回は、茨城県大子町に所在する「上岡古墳群」の探訪の記録です。

 この古墳群は「弥平土地(やへいどぢ)」と呼ばれる台地の突端に位置しており、南には押川が東流しています。
 2基の円墳で構成される古墳群で、昭和52年6月19日に大子町の史跡に指定されています。

 古墳の南には県道大子黒羽線が東西に走っており、当日は「このあたりかな?」と思うあたりで車を停めて徒歩にて坂道を上ってみましたが、ちょうどそこが古墳の所在地で、土地の所有者であるN野氏に声をかけて見学させていただきました。

 写真は、右奥が1号墳、左手前が2号墳という状況です。


大子町「上岡古墳群1号墳」1

 1号墳を南東から見たところです。

 上岡古墳群は「うわおか」と呼ぶそうで、これは大字名からくるものです。
 この地域は天保13年(1842)に当時の上沢村と高岡村が合併して、両村の一字をとり上岡村となったそうですが、ちなみに古墳群は当時の高岡村に属していたそうです。

 墳丘の南西側には「上岡古墳群」の看板と説明板が設置されており、説明板には次のように書かれていました。

大子町指定 史 跡
 上岡古墳群  二 基
        昭和五十二年六月十九日指定
            管 理 者 仲 野 六 蔵
 上岡古墳群は、押川の北約二〇〇メートルに位置する
台地の突端部に築造された二基の円墳からなる。
 周囲な畑地で、古墳二基はそれぞれ独立した原野とな
っている。
 一号墳は基底長約八.〇メートル、高さ一.四メートルの
不整合な円墳で、横穴式石室の奥壁及び東壁の一部が露
呈している。
 二号墳は一号墳の北側約一〇メートルに位置し、基底
長径七.八メートル、高さ一.六メートルのやはり不整合な
円墳である。
 一号墳については、明治から大正時代にかけて地元の
人により一部発掘され、人骨や副葬品ガ若干出土したと
されるか、その記録はなく、出土品も不明である。
 二号墳については、未調査である。
 上岡古墳群は詳細な調査がなされていないため、その
成立時期は明らかではない。
 しかし、周囲の畑地には古墳時代を代表する土師式土
器を包蔵する遺跡が多く、この古墳の被葬者をこうした
集落の中に求めることもできよう。
 平成八年三月
                 大子町教育委員会



大子町「上岡古墳群1号墳」2

 この1号墳は、明治から大正にかけて地元の青年会員が発掘を試みており、人骨や副葬品が出ているようですが、発病するなどの「祟り」があり、出土品は寺や墓地に収めたといわれています。

 私個人的には、祟りの伝承はあくまで伝承であり、祟りは存在しないよ、と思うこともあるのですが、それにしては古墳にまつわる祟りの伝承は非常に多く、やっぱり目に見えない不思議な出来事もあるのかな?とも感じます。


大子町「上岡古墳群1号墳」3

 1号墳は、説明板にも書かれているように盗掘を受けており、墳丘はかなり改変されています。
 横穴式石室が南に向いて開口しますが、その形状に墳丘はべっこりと窪みになっています。


大子町「上岡古墳群1号墳」4


 一枚岩の奥壁は砂岩自然石で、幅1.2m、厚さ約15cmあります。

 奥壁のすぐ横に「ツルマサキ」の木が生い茂っていて、奥壁にペローンともたれかかっているのが面白いし、なんだかちょっと絵になる光景です。笑。


大子町「上岡古墳群1号墳」5

 墳丘上の様子。

 おそらくは、真冬に訪れれば残存するという東側の側壁が見られるのではないかと思われますが、この日はまだ下草が多く、写真に収めることはできませんでした。。。


大子町「上岡古墳群1号墳」6

 1号墳の南側はすぐに急崖になっていますが、土地の所有者のN村氏によると崖の途中に1号墳の石材が転がり落ちているということで、2人で崖を降りかけました。
 下草が多く視界が良くないうえに、ちょっと危険を感じたのですぐにやめましたが、盗掘の際に放り投げたのでしょうか?

 一説によると、失われた天井石は某所で墓石になっているそうです。


大子町「上岡古墳群2号墳」1

 2号墳を南西から見たところです。
 1号墳の祟りの伝承に悩まされて、未発掘であるといわれる古墳です。


大子町「上岡古墳群2号墳」2

 2号墳の墳丘表面には、葺石なのか石室の石材なのか、河原石が見られます。

 ちなみにこの古墳群の南側の小字名は「入定塚」です。
 残存する2基は間違いなく古墳であると思われますので、入定塚は後世につけられた地名であると考えられますが、こちらもいったいどんな謂れがあるのか、とても興味深いです。。。

 土地の所有者であるN村さんには色々と解説いただき、紙の資料までいただきました。
 とても良くしていただき感謝しております。
 ありがとうございました。。。(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこり

<参考文献>
大子町史編さん委員会『大子町史研究 第6号』
現地説明板


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  1. 2023/11/15(水) 23:46:10|
  2. 茨城県の古墳・塚
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かすみがうら市「富士見塚古墳群」その2

「富士見塚2号墳」1

 前回に引き続き、今回も、かすみがうら市柏崎にある「富士見塚古墳群」の探訪の記録です。
 最初の写真は「富士見塚2号墳」を1号墳の墳丘上から見たところです。

 2号墳は直径25mの円墳です。
 説明板によると、埋葬施設は墳丘部には設けられず、周溝から発見された土坑が埋葬施設であると考えられているそうなのですが、調査報告書には「施設が墳頂近くに造られたため、長期間での封土崩壊の過程で流失してしまったのではないかと推定される。」と書かれており、墳頂近くからは金銅製の精巧な鉸具(かこ)が出土しているそうです。

 また、土坑の周辺からは破砕された状態で須恵器の甕が出土しており、古墳は5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されています。


「富士見塚2号墳」2

 同じく2号墳です。
 この写真は桜が比較的キレイに撮れた気がする。。。


「富士見塚3号墳」1

 こちらは「富士見塚3号墳」です。

 直径約18mの円墳で、墳頂中心より内部が赤彩されている箱形石棺が出土しています。
 内部からは、東部を北西にした女性と思われる人骨が確認されており、長短2本の刀子やガラス玉が出土しています。

 規模の小さな古墳ではありますが多くの埴輪が出土しており、円筒埴輪のみならず、武人を含む3体以上の人物埴輪や動物埴輪が出土しています。

 築造は、富士見塚よりも1世紀近く新しい、6世紀末と想定されています。


「富士見塚3号墳」2

 2号墳と3号墳の前にはかすみがうら市による案内版が設置されています。


「富士見塚4号墳」

 整備区域外に残存する4号墳です。
 こちらは高さがあまりないようですが、良好に残されている印象です。


「富士見塚5号墳」

 同じく、整備区域外に残存する5号墳。

 実は、見学後に図書館で調べてみて、整備区域外の2基の存在を知ったので、写真を撮っておいて良かった〜!と胸を撫で下ろしました。笑。


「富士見塚古墳公園展示館」1

 古墳公園の南側に「富士見塚古墳公園展示館」という施設が設けられていて、出土品などの資料を見学することができました。
 木造のステキな展示館です。


「富士見塚古墳公園展示館」2

 展示館内部の様子です。


「富士見塚古墳公園展示館」3

 出土した埴輪がずらりと並んでいます。
 円筒埴輪は、ノコギリの歯のような模様、波形の模様をはじめとしたさまざまな模様が描かれた、珍しい物なのだそうです。

 また、鹿や猿、犬の埴輪が見つかっており、狩の様子を表したものと考えられています。

 ここはなかなかいい古墳公園でした。
 お勧めかも。。。ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪。

<参考文献>
出島村教育委員会『富士見塚古墳群』
現地説明板


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  1. 2023/04/09(日) 21:30:47|
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かすみがうら市「富士見塚古墳群」その1

「富士見塚1号古墳」1

 今回は、かすみがうら市柏崎にある「富士見塚古墳公園」の探訪の記録です。

 毎年、桜の咲く季節になると、「桜古墳」を見に行きたいなあとそわそわしてきたりするのですが、最近は少々古墳熱が薄まっていたこともあって、何も計画を立てていませんでした。
 それがたまたま、桜の時期に茨城県内に行く予定ができて、その際にこの富士見塚古墳の存在を思い出して、夕方に見学に向かいました。


 この古墳、ネットで見て存在は知っていたものの、訪れたことはありませんでした。
 墳丘が急勾配というか、かなり高さがあるのが特徴的で、それでずっと気になっていたのですが、ようやく見学することができました。

 画像は、富士見塚古墳群の1号墳である「富士見塚古墳」です。
 まずは古墳の周囲をぐるりと時計回りに一周してみます。


「富士見塚1号古墳」2

 右手前が前方部、左奥が後円部です。

 史跡公園として整備、公開されているのは前方後円墳である1号墳、円墳である2号墳と3号墳の3基で、さらに未整備の区域に2基の円墳が残存しています。

 1号墳は全長80.2m、後円部の直径38.4m、くびれ部幅21.4m、前方部幅の推定復元49.4mで、後円部高さ8.5m、前方部高さは9mに達する規模を誇ります。
 周溝を含めると、主軸線上で111mの墓域を有しており、墳丘基部から墳頂部へ向かって最大角30度という急角度で立ち上がる墳丘を見上げると極めて壮大です。

 
「富士見塚1号古墳」3

 古墳は地元では「稲荷塚」、「兄弟塚」と呼ばれているようですが、霞ヶ浦の対岸からも遠望でき、その地方では「瓢塚」、「双子塚」などとも呼ばれているそうです。

 まさに地域を代表する墳墓ですよね。。。

 くびれ部には石段が設けられており、墳丘に登ることができます。
 のちほど登ってみますね。


「富士見塚1号古墳」4

 桜はド満開とはいかず、若干散り始めていました。
 桜を美しく撮影するのって、なかなか難易度が高いですよね。。。


「富士見塚1号古墳」5

 古くから知られた存在であったこの古墳は相次ぐ盗掘を受けていて、無数の掘り込みがあったそうです。
 埋葬施設も同様で、副葬品も残り物という感じで散乱状態で出土したそうです。

 後円部の埋葬主体部は2基並列の木棺直葬で、前方部からやや下がったあたりには箱式石棺が露出していたそうです。
 この石棺の内側には赤色料が見事に前面に塗布されていたそうです。

 また、石棺内からは壮年の男女各一体以上の以外が確認されていますが、下顎の骨や奥歯に赤色顔料が認められたそうです。。。


「富士見塚1号古墳」6

 桜と後円部。

 墳丘周囲に回らされていた埴輪は古式のもので、古墳の築造は6世紀初頭と推定されています。
 埴輪を復元した光景も見たかったなあ。。。


「富士見塚1号古墳」7

 後円部からは直刀、鉄鏃、馬具の破片、管玉、ガラス玉が、また周溝からは円筒形、朝顔形、家形、人物、動物などの埴輪が出土しています。


「富士見塚1号古墳」9

 桜と古墳。。。


「富士見塚1号古墳」10

 一周しました。
 墳丘に登ってみようと思います。


「富士見塚1号古墳」11

 古墳自体の景観もさることながら、墳頂部からの眺めも最高です。
 天気が良かったこともあって、霞ヶ浦とその対岸まではっきりと見ることができました。


「富士見塚1号古墳」12

 後円部から前方部を見たところ。
 急傾斜な古墳であることがわかると思います。

 おんなじ規模であれば、当然ながら急傾斜な古墳を造るほうが手間はかかるでしょうし、いったいどんな人物が埋葬されたのか、とても興味深いです。。。


「富士見塚1号古墳」13

 前方部から後円部を見たところ。

 次回は残る4基の円墳を紹介します。

 ここはね、なかなか良き史跡公園でした。
 桜も見れたし。ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪。

<参考文献>
出島村教育委員会『富士見塚古墳群』
現地説明板


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  1. 2023/04/08(土) 20:25:53|
  2. 茨城県の古墳・塚
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「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 「府中愛宕山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する、茨城県の史跡に指定されている前方後円墳です。画像はこの府中愛宕山古墳を西から見たところです。

 この古墳について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。

 県指定史跡 府中愛宕山古墳
         所 在 地 石岡市北根本六九四番地外
         指定年月日 昭和四十六年十二月二日

 府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北東約300メートルに
位置する前方後円墳である。霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので
出舟といわれ、舟塚山古墳は入舟と呼ばれる。明治三十年東
京大学の坪井正五郎が発掘調査し、無文素焼の壺七個を発見
したといわれる。
 昭和五十四年の周溝確認発掘調査により、全長九六・六メ
ートル、後円部径五七メートル、前方部幅五七メートル、後
円部高八・五メートル、前方部高七・五メートルの規模を持
つことが明らかにされた。その墳形は応神天皇陵(大阪府)に
類似している。かつて、墳丘から形象埴輪が出土したといわ
れるが、詳細については不明である。
 この古墳は、舟塚山古墳群の中でも規模が大きく、築造年
代は、六世紀初め頃に位置づけられる。
          平成二十六年三月 石岡市教育委員会



「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 後円部周辺のようすです。周溝の形状に沿うようにあぜ道がカーブしています。


「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 前方部から後円部を見たところ。「舟塚山古墳」を見学した後にこの古墳を見学すると小さく感じてしまいますが、全長96.6メートルと決して小さくない古墳です。


茨城県 府中愛宕山古墳 4

 後円部から前方部を見たところです。前方部の南西側が削られているようすが確認できます。

 この日は暗くなってきてしまったのでこの古墳で探訪は終了。他にもいくつか見学した古墳はあるのですが、それは後ほどということにして、次回からはまた本編である東京編に戻ります。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2015/11/12(木) 00:07:40|
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「舟塚山古墳(舟塚山古墳群16号墳)」国指定史跡

「舟塚山古墳」

 「舟塚山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する前方後円墳です。茨城県内で最大、東日本でも2番目の規模を誇るこの古墳は、墳丘の長さが186m、前方部幅100m、後円部径90m、前方部高10m、後円部高11mという巨大前方後円墳です。この地域の大豪族の墳墓と考えられており、昭和47年の周溝確認発掘調査で円筒埴輪が出土していることから、5世紀前半に築造された古墳であると推定されています。

 前回紹介した「虎塚古墳」の彩色壁画を見学した後、どうしても見学したくて車を飛ばして訪れた古墳ですが、印象はとにかくデカイ!まるで畑の中にぽっかりと戦艦が浮かんでいるような感じで、「舟塚山古墳」の名称も納得です。


「舟塚山古墳」

 画像は北西から見たところです。右手前が前方部、左奥が後円部です。
 東日本最大とされる群馬県太田市の「天神山古墳」は墳丘一面を木が覆っていて形状が把握し難い印象でしたが、この「舟塚山古墳」は見通しが良く、墳丘全体を観察することが出来ます。また、「天神山古墳」の表面には葺石がゴロゴロと転がっていて、埴輪片も観察できた記憶があるのですが、この「舟塚山古墳」には葺石は存在しないようです。


「舟塚山古墳」

 後円部から前方部を見るとこんな感じ。
 芝生が植えられて整備されており、三段に構築された墳丘の形状がはっきり見て取れます。


「舟塚山古墳」

 前方部から後円部を見たところ。後円部径よりも前方部が長いことは仁徳仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などに共通する特徴であるそうです。


「舟塚山古墳」

 後円部西側に建立されている鹿島神社です。この神社の造営のために墳丘西側がが削平されています。


「舟塚山古墳」

 現地説明版に掲載されていた舟塚山古墳の空中写真です。やっぱりデカイ!という印象ですね。舟塚山古墳の陪墳と見られる付近の円墳からは木棺が発見され、短甲、直刀、盾などの副葬品が出土しているそうです。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2015/11/10(火) 02:47:45|
  2. 茨城県の古墳・塚
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「十五郎穴横穴墓群」

「十五郎穴横穴墓群」

 那珂川の支流、本郷川左岸の崖面に幅1.5kmにわたって築かれているのが「十五郎穴横穴墓群」です。その存在はすでに江戸時代から知られており、文化4年(18,7)に刊行された地誌『水府志料』などにも紹介されているそうです。
 昭和51年から55年にかけて行われた発掘調査では115基の横穴が検出されましたが、残念ながらそのほとんどは盗掘を受けていたそうです。未発掘のものも含めると、その広がりから判断して300基を超えるものと考えられています。
 画像は「指渋支群」を南東から見たところです。発掘調査が実施されている場所はテントにより被覆して保護されているとのことですが、かなり劣化して横穴が露出しています。。。


「十五郎穴横穴墓群」

 画像は「館出支群」を南東から見たところです。この場所には、茨城県教育委員会とひたちなか市教育委員会による標柱と説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。

茨城県指定史跡 十五郎穴
            指定年月日  昭和十五年三月十一日
            所 在 地  ひたちなか市中根三四九〇−イ
            所 有 者  西野茂行

 十五郎穴横穴墓群は奈良時代(今から千二•三百年前)に作られたお墓です。
十五郎穴横穴墓群のように台地の崖の所に横から穴を掘り、つくられているも
のを横穴墓といい、群集していることが多くあります。
 横穴墓は玄室・玄門・羨道・前庭部などから構成されており、古墳の横穴式
石室と類似した構造になっています。
 十五郎穴横穴墓群は、館出・指渋地区などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれ
て分布していますが、このうち館出に群集している三十四基が茨城県の史跡に
指定されています。横穴墓からは須恵器・直刀・装飾品など多くの副葬品が出
土しています。
 虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖では、約百二十基が発掘調査で確認
されています。十五郎穴横穴墓群全体では数百基の横穴墓が存在していると考
えられ、わが国を代表する貴重な史跡です。
 十五郎穴の名称の由来は、この地に十郎、五郎なる人物が住んでいたという
伝承から生まれたということです。
    平成十七年三月
                         茨城県教育委員会
                      ひたちなか市教育委員会


 この「館出支群」の崖の直上には「虎塚古墳群第2号墳」のマウンドが残存しています。この古墳には埋葬施設が存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、十五郎穴横穴墓群「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているそうです。

<参考文献>
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第33号』


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  1. 2015/11/09(月) 01:38:20|
  2. 茨城県の古墳・塚
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「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「虎塚古墳群」は、茨城県ひたちなか市の東中根台地の縁辺部に存在しています。「虎塚古墳(第1号墳)」を盟主墳として、現在は第6号墳までが確認されているようですが、本来の古墳群の構成数については明確には把握されていないようです。画像は虎塚古墳群第1号墳である「虎塚古墳」を西から見たところです。石碑の奥に見えるのが虎塚古墳で、左手前が前方部、右奥が後円部です。埴輪や葺石は存在せず、前方部墳頂からは須恵器の大甕の破片が出土しているそうです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「第2号墳」は、「十五郎穴横穴墓群」の館出支群が存在する崖面の直上の台地の縁辺に残存します。この古墳は平成19年(2007)に調査が行われており、規模は南北約15.5m、東西約14m、高さ1.6mで、周溝が検出されています。埋葬施設がまったく存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、この第2号墳は「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているようです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 画像は「第3号墳」です。墳形は方墳で、埋葬施設は凝灰岩の切石を用いて構築した横穴式石室であるそうです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「第4号墳」は畑地の中に石室のみが残存しています。昭和61年(1986)から翌年にかけて調査が行われており、一片約22mの方墳であることがわかっています。埋葬施設は半地下式の単室構造の横穴式石室で、奥壁、左右側壁、天井石、床石すべてが一枚石で箱形に構築されています。玄門部は、一枚石の板石の中央が幅50cm、長さ1mに刳り抜かれているそうですが、石室は土砂に埋まって確認出来ませんでした。
 近所で農作業をしていたおばあちゃんに聞いたのですが、子どもの頃はまだ大木の立つ大きな墳丘が残されていたそうです。おそらく戦後ぐらいまでは残されていたのではないでしょうか。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 画像は「第5号墳」の跡地のようすです。畑地の中に石室の残骸のようなものが残されるのみで、墳丘を見ることは出来ません。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

仕事柄、古墳の探訪は日帰りで行ける範囲に限られてしまうのですが、この日は高速を飛ばしてひたちなかを訪れました。装飾古墳を生で見学できる機会はなかなかありませんので楽しい一日でした。茨城県は古墳の多い場所ですので、今後も足を運ぼうと思っています。。。

<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 -発掘調査の概要-』
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第42号』


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  1. 2015/11/07(土) 04:39:12|
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「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 装飾古墳として有名な国指定史跡「虎塚古墳」は茨城県ひたちなか市に所在する前方後円墳です。この古墳は、昭和48年(1973)に開始された発掘調査により良好な状態の彩色壁画が発見されて話題になりました、古墳は常時無料で見学ができますが石室内は通常非公開となっており、毎年春と秋に一般公開されています。今回は、平成27年の秋季一般公開ということで、この「虎塚古墳」の見学に行ってきました。

 画像は、整備された虎塚古墳へ向かう入口のあたりのようすです。年に2回の一般公開とあって入口には幟や看板が立てられていて華やかな感じです。大勢のボランティアとみられる学生たちの姿も見られましたが、「虎塚古墳入口→」の看板は学生たちの手作りなのでしょうか。。。
 この奥に、虎塚古墳群1号墳である「虎塚古墳」が保存されています。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像は後円部を南西から見たところです。石室は午前9時に公開というところで、私が現地についたのは10時近かったと思います。整理番号はちょうど40番でした。1番乗りしようと張り切って出掛けたのですが、高速の出口のあたりで「十五郎穴(横穴墓群)」が視界に入って、ついついこの横穴墓に先に向かってしまいました。笑。お天気も快晴でしたので、綺麗な写真が撮れました。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「虎塚古墳」は、本郷川右岸の東中根台地上に築造された古墳です。周辺地域では古くから知られていたといわれており、江戸時代の地誌『水府志料』には「とらが塚」という名称で紹介されているそうです。古墳の規模は、全長56.5m,後円部直径32.5m,高さ5.5m,前方部幅38.5m,高さ5mで、発達した前方部は後円部より大きく開き、前方部と後円部の高さの差があまりない、典型的な古墳時代後期の特徴を持っています。築造は7世紀後半と推定されています。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像はくびれ部を南西から見たところです。画像の左側が前方部、右側が後円部です。今回は古墳の大きさを感じられるように人が写っている画像を選んでみました。高さがある古墳であるのがわかると思います。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像は、墳丘南側の周溝のようすです。この古墳の周溝は左右対称ではないのが特徴で、墳丘の北側はほぼ一直線になっているのに対して南側はくびれ部あたりで墳丘に沿う形となっています。画像を見ると周溝がくの時に曲がっているようすがわかります。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 後円部から前方部を見たところです。
 石室内部には、頭部を北向きにした人骨一体があり、遺骸の左側には青銅製責金具を装着した刀子1口が1本添えてあったそうです。人骨は身長160cm前後の成人男性であったそうですが、ほとんど腐朽しており、人の形に骨粉の分布が認められる状態であったようです。一体どんな人物が埋葬されていたのでしょうか。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 前方部から後円部を見たところ。
 この古墳の第一次調査は昭和48年8月16日から行われたそうです。9月11日に石室閉塞部の礫がすべて取り除かれ、翌12日に多くの見学者や報道関係者の見守る中、現門の扉が開かれた際に先頭の調査員より「壁画だ!」という第一声がおこったそうです。あの奈良県明日香村の「高松塚古墳」が発掘された翌年の出来事ですから、最初に発見した調査員はさぞかし驚いたことでしょうね。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 さて、残念ながら石室の撮影はNGだったのですが、併設されている埋蔵文化財調査センター内に公開されている原寸大のレプリカを見学することが出来ました。画像はこのレプリカのようすです。
 石室内部の壁画は、玄門部と玄室内に描かれた幾何学文と玄室の奥壁、東壁、西壁にある具象的な図文から構成されています。凝灰岩の表面に白色粘土を塗り、ベンガラ(酸化第二鉄)で描かれたというこの壁画は、呪術的な性格を有した魔除のためのものであると考えられているようですが、東国において類例が殆ど見られない連続三角文などの図柄は九州の装飾古墳壁画には多く見られるようです。当時、遠く離れたこの地に移住して来た人がいたのでしょうか?それとも古墳を作る技術者が移住して来たのでしょうか。とてもとても興味深いと思います。。。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 昭和55年に公開保存施設が完成し公開施設は鉄筋コンクリートで作られていて内部は三部屋に別れています。施設内部の天井や壁は防水、断熱材が使用されており、断熱材を使用したステンレス製の扉に区切られています。画像はその、入口の部分の扉です。ここから奥は撮影は出来ませんでしたが、見学者の出入りや外気の影響を軽減するための仕組みになっているそうです。
 この入口をくぐって一番奥の部屋に入るとそこには閉塞石が置かれていて、この閉塞石は生で見ることが出来ます。その右側に観察窓が設置されていて、その窓越しに壁画を見学するようになっています。関東で暮らしていると装飾古墳を見学する機会は限られていますので、なかなか貴重な体験でした。

 次回、「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」へ続く。。。

<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 −発掘調査の概要−』


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  1. 2015/11/04(水) 23:59:42|
  2. 茨城県の古墳・塚
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