
「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山古墳群6号墳」は、平山古墳群中最も西端に位置する古墳です。昭和57年(1982)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-5番の古墳として登録されています。墳丘はすでに削平されて存在しなかったものの西側部分の若干のみ検出されています。推定される古墳の規模は周溝外径11.5mほどで、周溝幅1mほどの円墳ですが、遺物の出土もなく、また主体部も検出されていないため、詳細は分かりません。この周溝を覆う覆土のみは他の古墳の周溝の覆土と異なる粗粒なものであり、この6号墳のみ築造時期が異なるものと考えられているようです。
画像は6号墳の跡地とされる地点です。まだ調査の行われていない周溝の大部分は地中に埋もれていると思われますが、周囲に新築された建物もあり、発掘調査が行われたのか、新たな古墳の発見はあったのか気になるところです。
この平山6号墳も、残念ながら地上痕跡を見ることはできません。。。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2016/04/18(月) 23:37:29|
- 日野市/平山古墳群
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山古墳群5号墳」は4号墳の北西5mほどに位置する古墳です。昭和57年(1982)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-5番の古墳として登録されています。墳丘はすでに削平されて存在しなかったものの周溝のほぼ全容が確認されており、古墳の規模は周溝幅1.5~3mほど、周溝外径18mほどの円墳です。主体部も検出されなかったようですが、主体部に関係すると考えられる多数の礫が土層中に含まれていたとされており、河原石積横穴式石室の存在も想定されているようです。また、築造年代を明示する遺物も出土していないようです。
平山古墳群に残存する古墳が存在しないことはわかっていたのですが、周辺にはまだ宅地化されていない場所も多く、ひょっとして古墳の残骸が残されているのではないかという期待もありました。折り畳み自転車で走り回ってみたのですが、結局それらしき存在を見つけることはなく、やはりこの周辺で見学できる古墳は遺跡番号45番の無名古墳1基のみであるようです。
画像はこの5号墳の跡地とされる地点です。古墳は手前の道路から奥の高くなったあたりにかけて存在したようですが、手前半分は平山通りと呼ばれる切り通しの道路となっており、この古墳も完全に消滅しているようです。。。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
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- 2016/04/16(土) 11:36:01|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山古墳群4号墳」は3号墳の北側25mほどの台地東斜面で確認された古墳です。昭和53年(1978)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-4番の古墳として登録されています。調査当時墳丘はすでに削平されて存在せず、周溝のみが検出されています。周溝東側の大半は攪乱により失われており、西側の一部が検出されています。周溝幅は2mほどで、外径11.5mの円墳と推定されており、主体部は不明、築造年代を明示する遺物も出土していないようです。
画像はこの4号墳の跡地とされる地点です。現在この場所は平山通りと呼ばれる切り通しの道路となっていますので、恐らく古墳は地中も含めて完全に消滅していると思われます。。。
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- 2016/04/15(金) 00:36:17|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山古墳群3号墳」は2号墳の北東22mほどの台地東斜面上位に位置する古墳です。昭和53年(1978)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-3番に登録されています。調査当時、墳丘はすでに削平されて存在せず、また周溝も東半部は削平されて欠損して板というこの古墳は周溝の西半部のみが検出されています。この周溝には陸橋部が検出されており、規模は周溝外径15mほどのブリッジ付きの円墳であると考えられています。
画像は3号墳の跡地と思われる周辺のようすです。平山橋交差点の角の台地上にある「大名渕公園」か、その奥の民家となっているあたりが古墳の跡地であると思われるのですが、この場所は平山橋交差点を中心に切り通しだらけという状況で、調査当時と地形が変わっているので、古墳の正確な跡地はよくわかりませんでした。やはり痕跡は何も残されていないようです。。。
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- 2016/04/14(木) 00:16:25|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山2号墳」は、第1号古墳の北方20メートルほどの台地縁辺にあり、台地が最も南に張り出す位置で確認された古墳です。昭和53年(1978)7~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-2番に登録されています。この2号墳は古墳群中唯一墳丘の残されていた古墳で、調査時には約80cmの高さが残されていたようです。周溝外径は15mを測る円墳で、主体部である河原石積横穴式石室が検出されています。玄室内より直刀、刀子、鉄鏃、耳環などが出土しており、他に玄室内攪乱部より須恵器、周溝より土師器坏が出土しています。これらの出土品より、古墳の築造は6世紀後半と推定されています。
画像は、平山古墳群が所在する平山橋北岸周辺のようすです。手前を流れるのが多摩川の支流である浅川で、中央の林の奥の台地縁辺が平山2号墳跡地となります。残念ながら古墳は宅地となり、調査後に消滅しています。。。
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- 2016/04/13(水) 01:00:55|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
「平山1号墳」は古墳群中西南端に位置する古墳です。昭和53年(1978)7~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認された古墳で、墳丘はすでに削平されていたものの周溝の東半部が検出されています。周溝外径約28mはこの地域においてはかなり大きな部類に入る古墳で、平山古墳群中最大の円墳です。主体部は完全に削平されて遺存しなかったため詳細はわかりませんが、周溝内から2点の土師器が出土しており、この出土遺物により5世紀前半に築造された古墳であると推定されています。
大規模な宅地造成が行われずに古い道が残されている地域では、かつて存在した古墳を避けるように折れ曲がった道路が見られます。この古墳に関しては調査当時にこの道路が存在しなかったはずなので、なぜ古墳の跡地を避けるように折れ曲がっているのかはわかりませんが、画像の、道路がクの字に折れた左側あたりが跡地となるようです。やはりこの古墳も地上に痕跡を見ることはできません。。。
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- 2016/04/12(火) 06:53:38|
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「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。この古墳群については江戸時代の地誌類にも記述が見られ、『新編武蔵風土記稿』には「小名大名渕と云所に柴山ありて、野狐の巣穴あり、その辺より近き年土人等鏡数枚を掘り得たりとて今も二枚を持ち伝へたれば李重が住せしと云はしばらくおきて、何れも古き世の人の住居跡なることは論なかるべし又近き辺の陸田の際に古墳数多あり其所よりも古瓦出しことありといへど、古瓦と云は誤にして明器の類を掘出せしなるべし又塚をあばきて陸田となせしとき、太刃二振を得て村の鎮守八幡の社内に納め置たるに、何れのものにか奪いされしと云伝へり然れば此古墳は全っく当所に住せし人を葬したるなるべし」とあり、また『武蔵名勝図会』にも「同所、屋敷跡の続き、浅川の岸なり。大なる深淵なりしが、いまはまた大抵浅瀬となれり。この上の丘地の柴山を狐すみかとなして穴を穿ちけるとき、土中より鏡を十枚ばかり掘りだして穴の辺にありけるが、その中に柄のある鏡二、三枚、その外は丸鏡なり。村内の者も取ることをおそれて捨て置きけるが、いつとなくみな失せたりと云。又云先年柴山の辺に自然に大なる土穴できたけれども、いまにその中に入りてみたる者もなし。この内に石函ありと云。いずれも年暦不知。何人か住居の跡ゆえ、その岸の深淵なれば、大名淵と名付けしなるべし。」と書かれており、この平山橋周辺の古墳は古くから知られていたようです。
平山古墳群は昭和53年(1978)以降の平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されていますが、古くは平山橋の北東100mほどの地点にかつて2基の古墳があり、学術的な調査は行われないまま破壊されたという地元の人の証言が残されているようです。ここから出土したとされる遺物は日野市平山6丁目の「宗印寺」に保管されたのちに日野市遺跡調査団に寄贈されており、この遺物について日野考古学会より発行された『日野考古研究』で紹介されています。同書によると、古墳から出土したとされる直刀や鉄鏃などの鉄器類は7世紀後半の所産であると推定されているようです。また、遺物の中には鎌倉時代後半から室町時代前半の所産と推測される和鏡も含まれていることから、古代に築造された古墳が後世に経塚もしくは他の信仰対象として流用されていた可能性を指摘しています。
この古墳はすでに消滅していますので真相を確かめることはできませんが、とても興味深い考察であると思います。
画像は、2基の古墳が所在したとされる周辺を、多摩川の支流である浅川の対岸から見たところです。手前を流れるのが浅川で、奥の台地上縁辺が古墳の所在地ではないかと思われます。

2基の古墳が所在したとされる「平山橋の北東100mほどの地点」に一番近い畑地が、画像の場所です。南西隅に怪しげな盛土が見られるのですが、ここが古墳の跡地であるかどうかはわかりません。周辺は急速に開発が進んでいますが、まだいくらかの畑地が残されていますので、今後の調査次第では新たな古墳や遺跡が発見される可能性が大きな地域であると思います。。。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
遠藤政孝「日野・宗印寺所蔵の武器と和鏡」『日野考古研究 創刊号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2016/04/11(月) 01:20:26|
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