
画像は、足立区東伊興3丁目に所在する「白旗塚史跡公園」です。
この付近一帯には、かつてはかなり多くの古墳が存在したと伝えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊興村の項には摺鉢塚、聖塚、甲塚、船山塚などの古墳らしき塚の名称が、また『日光道中分間延絵図』には兜塚、二本松塚、擂鉢塚、駒形塚、庚申塚のほか、無名称の古墳らしき3基の塚が記されています。
しかし、戦後の開発により多くの塚は取り壊され、伊興古墳群中唯一残存する「白旗塚古墳」が、この公園内に保存、公開されています。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-1番に登録されている古墳です。

現在の白旗塚古墳です。
『新編武蔵風土記稿』にはこの古墳について、「白幡塚(伊興村)東ノ方ニアリ、此塚アルヲ以テ白幡耕地ト字セリ、塚ノ除地二十二歩百姓持ナリ、上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリシトテ此名ヲ傳ヘシ由、元来社地ニシテ祠モアリシナレト、此塚ニ近寄ハ咎アリトテ、村民畏レテ近ツカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ、又塚上ニ古松アリシガ、後年枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器其数多出タリ、時ニ村民来リ見テ件ノ兵器ノ中ヨリ、未ダ鐵性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン家挙ゲテ大病ヲナヤメリ、畏レテ元ノ如ク塚下ニ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由、今塚上ノ両株是ナリト云、今土人コノ松ヲ二本松ト號ス、太サ一囲半許。」と記されています。
やはり、東京都内で古墳が壊されずに残されるためには、祟りの伝説の存在は大きいなあとあらためて感じてしまいます。。。

南から見た白旗塚古墳。
古墳の周囲には壕が掘られています。学術的な調査は行われていないようですし、地中に存在するはずの周溝や遺物は残されているのだろうかと多少心配になります。
公園内に設置された説明板には次のように書かれていました。。。
東京都指定史跡
白旗塚古墳
所在地 足立区東伊興三の一〇の一四
白旗塚史跡公園内
指 定 昭和五〇年二月六日
この付近の毛長川南岸の自然堤防上に
は、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳な
ど七基からなる白旗塚古墳群が形成され
ていたとされますが、現存するのは白旗
塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂
鉢山古墳や甲塚古墳の推定地域を調査し
ていますが、確認までには至っていませ
ん。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬
形・円筒埴輪から白旗塚古墳群の築造は
六世紀と推定されます。
白旗塚古墳は直径一二メートル、高さ
約2•5メートルの円墳ですが、未調査の
ため主体部の構造や古墳の年代はわかっ
ていません。白旗塚という名の由来は源
頼長、義家父子が奥州安部氏の反乱(前
九年の役)の鎮圧にむかう途上にこの地
に白旗を立てたためと言われています。
平成二三年三月 建設
東京都教育委員会

墳丘上の様子です。
かつては祟りがあるということで、塚の上に登ることも禁止されていたそうで、現在も墳丘へ渡る橋は存在はするのですが、この橋の入り口はいつも施錠されていて、古墳の上へ渡ることはできません。
墳丘上には白幡神社の祠が祀られており、その横には石碑が建てられているようです。明治21年に建てられたという「白旗大神」の石碑ではないかと考えられますが、確認することはできませんでした。。。

公園内に設置された、人形埴輪と家形埴輪のレプリカ。
設置されてある程度の時間が経過すると、レプリカも良い味を出してきますね。。。

馬形埴輪。

船形埴輪です。

これ、なんだろうと思いながら撮った一枚。
あとで調べたら、東西南北を示す古代文字を記したオブジェなんだそうです。

白旗塚史跡公園の東側の風景。
画像の周辺にあたる、公園に隣接した調査区からは形象埴輪片を含む、多数の円筒埴輪片が確認されているようです。これは、白旗塚古墳以外の、まったく知られていない古墳に伴うものである可能性も指摘されています。
また、白旗塚古墳の西側道路上の調査区では耳環が一点確認されており、これも古墳に伴うものであることが推定されています。
おそらくは想像するよりもずっと多くの古墳が存在した、大きな古墳群であったのではないかとも思われますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりません。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記10 伊興地区』
現地説明版
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- 2020/08/30(日) 21:00:55|
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「甲塚古墳」は、足立区東伊興3丁目に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-2番に登録されています。
この甲塚古墳は、前回紹介した「摺鉢塚古墳」と同様に「白旗塚古墳群」に属するとされる古墳です。『新修 足立区史 上巻』によると、旧番地の伊興町白旗977番地に所在したといわれる円墳で、松が二本あったことから「二本松」とも呼ばれていたようです。
この甲塚古墳も、摺鉢塚古墳同様に開墾によって失われており、古墳の痕跡はすでに失われて見ることができませんでした。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』
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- 2020/08/29(土) 18:02:51|
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「摺鉢塚古墳」は、足立区東伊興3丁目に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-3番に登録されています。
「白旗塚古墳群」は、足立区内で唯一現存する「白旗塚古墳」を含む、東伊興町に所在する古墳群です。かつては複数基の古墳の存在が知られており、江戸時代の『日光道中分間延絵図』には「兜塚」「二本松塚」「擂鉢塚」「駒形塚」「庚申塚」のほか、無名称の古墳らしき3基の塚が描かれています。
多くの古墳は開墾によって失われてしまうことになるわけですが、開墾以前には毛長川に臨む自然堤防の縁辺部と並行して存在したと推定されています。
画像は、摺鉢塚古墳の推定地とされる周辺の様子です。
昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』によると、旧番地で伊興町白旗984番地に所在したといわれる円墳で、塚の周囲が高く、中央部に凹みがあることから「摺鉢塚」と呼ばれていたようです。
『足立区北部の遺跡群』では画像の右側あたりを、『毛長川流域の考古学的調査』では画像の左側あたりを跡地としているようですが、現在も古墳の位置は未確認であり、正確な所在地はわからなくなっているようです。

この摺鉢塚古墳は、昭和39年(1964)に行われた土地改良事業により古墳が所在した白旗耕地が削られ、埋め立ての土に利用されました。
この埋め立て地からは多数の円筒埴輪の破片や人物像4体、馬の頭部、大刀の破片などが採集されています。
その一部は、伊興遺跡公園の展示館内で見学することができます。
確認された埴輪片は、摺鉢塚古墳に伴うものである可能性も十分に考えられますが、胎土や焼成方法があまりにも違いすぎることから、摺鉢塚古墳以外にも名も知らレテいない古墳が複数存在して、群集墳をなしていた可能性が強いと考えられているようです。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』
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- 2020/08/27(木) 22:41:24|
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「聖塚古墳」は、足立区東伊興1丁目に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号5番に登録されています。
この古墳について、昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』には「〈伊興町聖堂三八二番地〉面積約二三平方メートル(七坪)、円墳。」と書かれています。
その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「東伊興町9付近」、墳形について「円墳」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。土師器、須恵器、土錘、石製模造品が出土しているようなので、古墳の存在は間違いないものと考えられますが、正確な所在地はわからなくなっているようです。

出典:国土地理院ウェブサイト(
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された聖塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
古墳かな?と思えるような形状は複数見られます。
中央右上あたりには、前方後円墳かとも思える気になる形状の地形も見られます。
『足立区史』や『都心部の遺跡』に記されている旧番地の住所と古地図、空中写真を照らし合わせれば跡地が特定できるのではないかと考えましたが、旧番地が記されている古地図が入手できず、この上空から撮影した写真のみでは聖柄塚古墳の正確な所在地を特定するのは難しそうです。
私は、中央からやや左上の三日月のような形状を聖塚の残骸と想定しましたが、そうするとちょうどコンビニのあたりが跡地となるかもしれません。
いずれ発掘調査が行われれば、古墳の周溝はまだ地中に残されているのではないかとも考えられますし、今後の調査の進展を待ちたいですね。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
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- 2020/08/26(水) 20:00:53|
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「船山塚古墳」は、足立区東伊興2丁目に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号12番に登録されています。
昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』には「〈伊興町谷下三七四番地〉面積約一二九平方メートル(三十九坪)、円墳。谷下堤に接している。」と書かれています。
その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「東伊興町谷下55・56付近」、墳形について「円墳」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された船山塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
足立区伊興遺跡調査会より発行された『毛長川流域の考古学的調査』の分布図と『足立区北部の遺跡群』の分布図はほぼ同じ地点を記しており、戦後の空中写真でもほぼ同じ位置に古墳らしき黒い円形の影が確認できますので、画像の地点が船山塚古墳の所在地と考えて間違いないのではないかと思われます。
ほとんど民家も見られない一面に広がる農地に、おそらくは草ぼうぼうであろう古墳がポツンと残されている様子が眼に浮かぶようです。笑。
「船山塚」という名称からして、前方後円墳であった可能性が考えられるのですが、この空中写真だけではよくわかならいものの、画像の右上の方に向かってとんがったような形状の影がのびているのがみられます。これが「船山塚」の名称の由来なのかどうかは不明ですが、とても興味深い形状です。。。
低地帯を見下ろす自然堤防上の縁辺部の調査が進めば、この伊興地区の古墳の様相も見えてくるものと思われますし、今後の調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
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- 2020/08/24(月) 20:44:37|
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「金塚古墳」は、足立区東伊興2丁目に所在したとされる古墳です。
『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号11番に登録されています。
この古墳は戦後までは痕跡が残されていたようですが、残念ながら現在は消滅しており、正確な所在地はわからなくなっているようです。
昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』にはこの古墳について、「〈伊興町谷下二二五番地〉面積約一三六平方メートル(四十一坪)、方墳(?)。伊興町の北部にある。」と書かれています。
その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「伊興町谷下51付近」、墳形について「方墳?」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。
この「伊興町谷下225番地」と「伊興町谷下51番地付近」という旧番地での住所と細かい番地が記された古地図、空中写真などを見比べれば、正確な所在地が確認できるのではないかと想定していましたが、古地図が入手できず、所在地を特定するには至っていません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)
足立区伊興遺跡調査会より発行された『毛長川流域の考古学的調査』の分布図で画像の地点を跡地としていたことから1枚目の画像の地点を撮影しましたが、『足立区北部の遺跡群』や現在の『東京都遺跡地図』では、画像のさらに北西の地点を所在地としています。
しかし私は、金塚古墳の正確な所在地は、この量地点のちょうど間あたり、氷川神社に東側の東伊興2丁目11番地下7番地内なのではないかと想定しています。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された金塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
これは私の勝手な憶測ですが、画像の中央に見える場所が金塚古墳の痕跡ではないかと睨んでいます。
宅地化が進んで痕跡はまったく残されていないようなので、今となっては痕跡を確認することはできません。
今後の調査の進展を待つしかなさそうですね。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』
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- 2020/08/23(日) 23:02:30|
- 足立区/伊興古墳群
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画像は、足立区東伊興2丁目の「淵の宮氷川神社」を南から見たところです。
「足立区登録記念物(史跡)」として指定されている、足立区内最古の氷川神社です。
足立区教育委員会により境内に設置されている説明板には、この神社について次のように書かれています。
氷川神社(淵の宮)
東伊興二ー十二ー四
祭神 須佐之男命 大己貴命 櫛稲田姫命
末社 浅間社 稲荷社 熱田社 白幡社 三峰社
当社は足立区内最古の氷川社で、往古、淵江領の総
鎮守であった。江戸期に村々の開発がすすむと共に、各
地にも鎮守が祀られ、この社は伊興、竹塚、保木間三村
の鎮守となり、明治五年からは伊興村の村社となった。
奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく
過程で、この附近が最も早く陸地となり、大宮台地あ
たりからの移住者が、武蔵国一の宮である大宮の氷川
神社から分霊を勧請したものと考えられている。当時は
まだこの周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の
宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として、淵江郷、淵
江領が生じたものであろう。
付近一帯は、古代遺跡で、弥生式土器、土師器、須
恵器、また鏡・勾玉・管玉・臼玉などの祭祀遺物や漁
具として土錘、さらに住居趾、井戸跡など生活遺構が
たくさん出土しており、伊興遺跡といわれる埋蔵文化
財包蔵地を形成している。
昭和五十七年十二月足立区登録記念物(史跡)とした。
東京都足立区教育委員会

この神社は、以前この『古墳なう』でも取り上げた祥伝社新書『東京の古墳を歩く』に「伊興氷川神社古墳」という名称で、古墳として大きく取り上げられています。しかし、不思議なことに『東京都遺跡地図』には古墳としての登録はされていません。
画像の、社殿の土台が一段高くなっているあたりはとても興味深いところですが、これが古墳の残存部分なのでしょうか?

この神社の周辺には金塚古墳、船山塚古墳、聖塚古墳といった多くの古墳が存在したといわれる古墳が群衆する地域であり、付近一帯は「伊興遺跡」と呼ばれる、古墳時代前期から後期初頭にかけての祭祀遺跡でもあります。(ちなみに、この神社の道路を挟んで向かい側には、「伊興遺跡公園」とともに展示館が併設されています。)
つまり、この神社が古墳の跡地であったとしてもなんら不思議のない地域であるわけですが、この神社自体の学術的な調査は行われていないようなので、当然ながら発掘報告書も存在せず、真相はわかりませんでした。
ただし、伊興遺跡公園内の展示館で配布されていた『七色会』には「神社は古墳の上に立っており、伊興遺跡の中心地でもある」とはっきりと書かれています。ひょっとしたらやはり、この土台の部分が古墳なのかもしれません。

境内社の浅間神社の祠です。
いわゆる「浅間塚」ということになるのでしょうか。
古墳群の真ん中にある神社の境内に二つの塚状地形が存在するという、とても興味をそそる状況です。案外期待を裏切らずに二つとも古墳跡なのではないか?という気もしますが、真相はわかりません。
今後の調査の進展は要チェックですね。。。

お向かいの「伊興遺跡公園」にも立ち寄りました!
伊興遺跡は遺構や遺物の量があまりにも多く、足立区を驚かせそうです。
多くの出土品により、この地域の人々は、水田での稲作や川での漁と半農半漁の生活をしていたことがわかっているそうです。
画像は、公園内に復元された方形周溝墓です。
説明板には次のように書かれています。
「古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓である。周囲を溝で区切りなだらかな墳墓もあったとされている。稲作農耕の発展に伴いムラムラで力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もあった。やがてムラムラは統合されて国になり、強力な権力のもとに古墳が造られるようになった。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代になっても造り続けられた。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造りだすことのできない地位の低い有力者の墓と考えられている。遺跡公園で見つかった方形周溝墓もこの頃造られた。」

同じく公園内に復元された竪穴式住居。
説明板には次のように書かれています。
「竪穴式住居は縄文時代から続いた住居の形で、貴族や武士が瓦葺きや板葺きの高床や、地面に建てた平地式の家屋に住むようになっても、一般庶民のあいだでは10世紀頃まで利用されていた。長く利用されたのは、反地下式なので温度変化を受けにくく、夏は涼しく冬は暖かく感じられたことによるらしい。しかし、水はけがわるく、採光の点でも不便だったようである。
古墳時代の竪穴式住居の最大の特徴は、それまで楕円形に掘り込んでいるのに対し方形となり、炉にかわり竃が造り付けられたことにある。炉が竃に変わったのは古墳時代の中頃(5〜6世紀)とされるが、伊興遺跡ではこの頃の住居が最も多く見つかっている。」

都内だと、各区や市に一箇所くらいは、竪穴式住居が復元された史跡公園が存在しますが、その多くには、住居内に生活の様子が再現されてこうして等身大の人形が置かれているような気がします。
私は、この等身大の人形はどうにも苦手で、怖いというか気持ち悪いというか何度見ても慣れないのですが、資料館などで、気がつかずに振り返って背後にこの手の人形があるとギョッとしてしまいます。
あーもうなんだろう。。。

展示館の内部の様子。
無料の展示館ですが、すごい数の土器が展示されています。

伊興遺跡公園の地中には、調査することのできなかった多くの遺構・遺物が今も眠っているそうです。
この周辺の古墳の多くはすでに消滅しており、正確な所在地もわからなくなっています。今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。
<参考文献>
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記10 伊興地区』
祥伝社『東京の古墳を歩く』
現地説明版
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- 2020/08/22(土) 23:57:00|
- 足立区/伊興古墳群
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画像は、足立区東伊興町に所在する白旗塚古墳を、北から見たところです。直径12m、高さ2.5mの円墳とされています。発掘調査はされていないようですが、隣接した擂鉢山古墳から金環・円等埴輪などが出土した経緯があり、6世紀に築造されたと考えられているようです。周辺にあった甲塚古墳、摺鉢塚古墳も含めて、白旗塚古墳群とも呼ばれているようですが、現在はこの白旗塚古墳が残るのみのようです。

その昔、立ち枯れた墳丘上の松の木が台風によって倒れた際に、根元から武器などが出土したそうです。村人が、その中のまだ比較的錆びていない刀を家に持ち帰ったそうですが、その後一家が大病に苦しんだので、祟りを恐れて再び塚に埋め戻しす、ということがあったそうです。
東京の古墳の多くは、調査もされずに消滅して行ったことと思いますが、こういった伝説があることが、白旗塚古墳が姿を留めてきた要因となっているのかもしれませんね。

戦後間もない頃の写真では、田んぼの中にぽつりと浮かぶような状況だったようですが、現在は「白旗塚史跡公園」として整備され、古墳の周りに壕が掘られています。

白旗塚史跡公園の様子です。なかなか雰囲気のある、癒しの空間だと思います。
- 2012/07/28(土) 02:55:43|
- 足立区/伊興古墳群
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画像は、舎人氷川神社社殿を南から見たところです。
現地の案内板には特に古墳については触れておらず、果たしてこの社殿の土台となる高まりが古墳なのか、それとも敷地内の他の場所に古墳跡が存在するのかは、よく判りませんでした。
- 2012/07/27(金) 04:39:03|
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画像は、入谷古墳のある入谷氷川神社を南から見たところです。
入谷古墳は、昭和49年に当地の区画整理事業に当り、この塚の半分以上が削られることになったそうですが、地元住民の熱意により保存されることになったそうです。
発掘調査はされていないそうで、現地の案内板には「入谷古墳跡」とあって、「古墳の可能性の高い塚」と書かれています。

墳丘上は平らに削られていて、入谷氷川神社社殿が鎮座しています。

西から見たところです。こちらから見ると、なかなか円墳らしく見えます。
- 2012/07/27(金) 04:22:44|
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