
日野市の南方、多摩川の支流である大栗川の下流域左岸、その大栗川の支流である倉沢川と谷戸川に挟まれた舌状台地上に存在するのが「万蔵院台古墳群」です。昭和49年(1974)に行われた調査により、縄文時代後期や古墳時代後期の住居址とともに主体部を土壙内に構築する横穴式石室が検出されています。また、翌昭和50年に行われた第2次調査では横穴式石室を持つ2基の古墳が検出されています。
画像は「万蔵院台古墳群 第3号古墳」を南西から見たところです。この古墳は、確認された3基のうち最も東に位置しており、畑地と山林の境界となる根切り溝がこの古墳を避けるように湾曲しています。長径は約7mほどで、高さ約1mほどの高まりとして残存しているのが、この第3号墳です。主体部は土壙内に河原石を用いて構築された横穴式石室で、石室内からは刀子や鉄鏃、わずかな四肢骨が出土しています。

画像は南西から見た第3号古墳です。7世紀前半の築造と推定されているようです。

画像は、 第2号古墳の墳頂部のようすです。主体部を構築すると思われる石材が露出しています。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
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- 2016/03/31(木) 23:36:51|
- 日野市/万蔵院台古墳群
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日野市の南方、多摩川の支流である大栗川の下流域左岸、その大栗川の支流である倉沢川と谷戸川に挟まれた舌状台地上に存在するのが「万蔵院台古墳群」です。昭和49年(1974)に行われた調査により、縄文時代後期や古墳時代後期の住居址とともに主体部を土壙内に構築する横穴式石室が検出されています。また、翌昭和50年に行われた第2次調査では横穴式石室を持つ2基の古墳が検出されています。
画像は「万蔵院台古墳群 第2号古墳」を東から見たところです。この古墳は、確認された3基のうちの中央にあり、台地縁辺の最も南に位置しています。畑地と山林の境界となる根切り溝がこの古墳を避けるように湾曲しており、その根切り溝の外側に高さ約80cmほどの高まりとして残されているのが、この第2号墳です。検出された周溝から、規模は内径約10mほどの円墳であると考えられています。主体部は土壙内に河原石を用いて構築された片袖式の横穴式石室が検出されており、玄室内へは側壁を構築した石材や天井石が崩落していたようですが、古墳は保存のために埋め戻されているため石室を見学することはできません。築造は6世紀後半と推定されているようです。

画像は西から見た第2号古墳です。万蔵院台の3基の古墳のうち最古の古墳で、6世紀末の築造と推定されています。

画像は、 第2号古墳の墳頂部のようすです。主体部と構築すると思われる石材が露出しています。古墳は畑地と山林の境界となる根切り溝により改変されているようですが、都内に墳丘が残存する古墳は僅かですので貴重な存在であると思います。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
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- 2016/03/30(水) 00:18:02|
- 日野市/万蔵院台古墳群
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日野市の南方、多摩川の支流である大栗川の下流域左岸、その大栗川の支流である倉沢川と谷戸川に挟まれた舌状台地上に存在するのが「万蔵院台古墳群」です。昭和49年(1974)に行われた調査により、縄文時代後期や古墳時代後期の住居址とともに主体部を土壙内に構築する横穴式石室が検出されています。また、翌昭和50年に行われた第2次調査では横穴式石室を持つ2基の古墳が検出されています。

万蔵院台古墳群は現在3基の古墳が確認されていますが、昭和59年(1984)に日野市編さん委員会より発行された『日野市史 史料集 考古資料編』には「万蔵院台古墳群は、2回の調査により確認されたところでは3基であるが、更に若干の存在の想定される地点もある。しかし、いずれも台地の南縁辺に位置するものであり、第1号墳と第2号墳との間、第3号墳の更に東の地点などである。」と、未確認の古墳についての記述も見ることができます。
第1号墳と第2号墳の間に存在すると想定されている古墳については、この周辺が耕作により平らにならされていて地上に痕跡を見ることはできません。ただし、石材ではないかと思われる河原石が露出している場所もあり、地中に主体部が残されている可能性は残されているかもしれません。画像は、ちょうど1号墳と2号墳の中間あたりに見られる川原石です。

画像が「第3号墳の更に東の地点」ではないかと思われれる地点です。古墳の墳丘かと思われるマウンドがわずかに盛り上がりを見せており、日野市の有形民俗文化財に指定されているという庚申塔が祀られています。
この場所には日野市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
日野市指定有形民俗文化財
万蔵院台の庚申塔(4基)
平成二一年九月一七日指定
庚申信仰は「庚申の晩に眠ると、身中の三戸の虫が昇天し
て天帝にその人の過失を告げる」という中国の信仰と日本の
日待ち、月待ちの信仰が融合したものとされる。江戸時代に
庶民の間に浸透し、庚申の晩に人々が集まり、眠らずに一晩
を過ごす庚申講が行われた。この講を何度か行った節目に建
てたのが庚申塔で、人々の祈願の対象にもなっていた。
万蔵院台の庚申塔は、宝永7年(1710)に、当時この地
の領主であった小林正利が建立した一基とこの地の住民が元
文三年(1738、文化2年再建)と明和6年(1769)に建立
した2基、建立年代は不明だが昭和52年に再建された1基が
ある。このうち宝永7年のものは、近年まで節分の豆撒きや
初牛に供物を供えるなどの行事が行われていた。
これらの庚申塔は領主と住民が建立したものが一体に祀ら
れ両者の関係を示す好資料となっている。また近年まで信仰
行事を伴っており、民間信仰を理解する上でも貴重である。
日野市教育委員会
説明板には古墳についての記述は見られないようですが、庚申塔の土台となっている周辺には、主体部を構築する石材とも思える複数の河原石が露出しているようすを見ることができます。古墳である可能性を大きく感じるマウンドですが、発掘調査は行われていないため、真相はわかりません。
考えてみると、日野市内には古墳群を形成する複数の古墳が残されている、つまりは古墳が残存するのではなく、古墳群が残存するという場所が、「万蔵院台古墳群」、「西平山古墳群」、「七ッ塚古墳群」と3箇所も残されており、都内では大変希少な市域であると思うのですが、いずれはやはり開発が進んで宅地化されてしまうのでしょうか。。。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
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- 2016/03/29(火) 01:03:55|
- 日野市/万蔵院台古墳群
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日野市の南方、多摩川の支流である大栗川の下流域左岸、その大栗川の支流である倉沢川と谷戸川に挟まれた舌状台地上に存在するのが「万蔵院台古墳群」です。昭和49年(1974)に行われた調査により、縄文時代後期や古墳時代後期の住居址とともに主体部を土壙内に構築する横穴式石室が検出されています。また、翌昭和50年に行われた第2次調査では横穴式石室を持つ2基の古墳が検出されています。
画像は、第1号古墳を北東から見たところです。この古墳は耕作により墳丘が完全に消滅しており、調査以前にすでに何の痕跡も残されていなかったようです。周溝も検出されなかったため古墳の規模も不明で、土壙内から検出された主体部が唯一の施設です。石室内からは金環4点と鉄鏃2点須恵器片が出土しています。

画像は、近距離から撮影した万蔵院台1号墳のようすです。石室は埋め戻されているものの、石材の一部が露出しています。この場所のみ、耕作は行われていないようなので、地中にはまだ埋葬施設が残存するものと思われます。
この日は土地の所有者の方に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
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- 2016/03/27(日) 23:32:38|
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