
今回は、武蔵村山市中藤の谷津と呼ばれる地域に所在する「谷津仙元神社富士塚」の探訪の記録です。
武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは、身禄から五代目の千達星行であるといわれています。この時に星行から直接教えを受けたのが中藤村の山行星命(俗名藤七)と呼ばれる人物です。
星命が天保二年(1831)に亡くなると、息子の定右衛門は父親の跡を継がず、別の人が継いだそうですが、その後も富士講の活動は続き、天保十四年(1843)年には40人もの講中が富士に登ったりとかなり活気を呈したようです。また、安政期には元年(1854)に浅間山で花火のあったことが記されており、この時期にすでに富士塚と考えられる塚のあったことが想定されています。
その後、大正期までは富士講の活動は盛んに行われたようですが、第二次世界大戦後から急速に講員が減り、昭和40年代初期には全講員が2、3人となり、昭和40年代半ばには最後の先達1名となってしまいます。
その後、富士講再興計画が計られ、年に3回の行事や北口本宮富士浅間神社の開山式への参加、霊山を巡る旅等、現代も活動は活発に行われているようです。
画像は、仙元神社の社殿の様子です。
近世以来続く富士講の信仰対象としての神社です。
画像に見えるように、社殿の鎮座地自体が塚のような形状となっていますが、富士塚は社殿の背後に所在します。
ひょっとして周辺の草木をすべて刈り取ると、社殿の基壇を前方部、富士塚を後円部に見立てて前方後円墳のように見えるかもしれませんね。。。

画像は、仙元神社社殿の様子です。
「浅間神社」ではなく「仙元神社」と書くのはなぜだろう?と素朴に疑問に思うところですが、浅間を仙元と記すことは富士講の教義によるとされ、『御大行之巻』には「人の体の元をなすは二人ふたりにてなければ出生ハならず」として『仙元』を「たいふたり・ひとのもと」と訓ませることが記されているそうです。

社殿の前には、武蔵村山市教育委員会による説明板が設置されています。
画像はこの説明板に掲載されている、富士講の行事の様子です。
説明板には次のように書かれています。
武蔵村山市指定無形民俗文化財
谷 津 仙 元 神 社 富 士 講
谷津仙元神社富士講は、富士講を信仰行事として続
けている都内でも数少ない団体です。
谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食
行身禄から五代目の先達星行であるといわれています。
この時、星行から直接教えを受けたのが、谷津の山行
星命(俗名藤七)と呼ばれる農民でした。
谷津講社に残る富士講文書の中には星行の署名が残
されているものがあります。これらの古文書から谷津
富士講が興ったのは寛政から文化期であったことがわ
かりました。
社の裏の小高い山は富士塚で、登山できない人たち
がここに登り、富士山を遥拝しました。
谷津富士講の主な行事としては、一月一日の「初読
み」、五月五日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」
があります。
平成十五年三月
武蔵村山市教育委員会

早速、富士塚に登ってみましょう。
画像に見える、仙元神社社殿の東側に石段があり、ここから登拝できるようです。

途中の状況。
私が訪れたのは真冬でしたので、なんとかスムーズに登ることができたのですが、真夏に訪れてどんな状況になっているかはわかりません。
かなりな藪になっている可能性が大ですし、蜘蛛の巣が顔に張り付いたり、ハチや蛇に追われたりと色々あるかも。
訪れるなら冬がお勧めですね。。。
富士塚がどんな形状なのか、塚全体が深い藪となっていて全貌がわからないのが残念ですが、富士塚の高さは20メートルほどあるそうです。
富士講を現在も信仰行事として続けている富士講は、都内でも数少ない状況であるそうです。素晴らしいです。

富士塚の頂上の様子です。
多少、平らで広い空間となっていて、「浅間神社」の祠が祀られています。

浅間神社の祠です。
この場所を訪れるには、車で来ると駐車するスペースがが近くに無さそうですし、山の上にあるので徒歩や自転車でもなかなか大変です。
訪れるのに難易度の高い富士塚かもしれませんね。。。笑。
<参考文献>
武蔵村山市教育委員会『谷津富士講調査報告書』
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- 2020/05/02(土) 19:49:58|
- 東村山市•東大和市の塚
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東大和市内の古墳の記録として、『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には奈良橋村に古墳が存在したという記載があるのですが、残念ながらこの古墳は消滅しており、また『狭山之栞』には山口領野口村の「大塚」や、山口村之内野谷の「割塚」といった古墳の記載を見ることが出来るのですが、これらは後世の塚なで、古墳ではなかったといわれています。東大和市を含む狭山丘陵周辺の市域では、確実に古墳であるといえるものは、残念ながら皆無といえそうな状況です。
画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「蔵敷庚申塚」を北西から見たところです。
昭和49年(1974)には東大和市の史跡として指定されており、古墳とは無関係な塚はあるものの、マウンドの残る数少ない庚申塚です。

東大和市により設置された説明板には次のように書かれています。
東大和市史跡
蔵敷庚申塚
所在 東大和市蔵敷二丁目五〇八番地付近
指定 昭和四十九年九月二十日
この庚申塚は、高さ約二メートルの塚状をなしてい
る。中央右側にある明和元(一七六四)年造立の庚申塔
供養塔をはじめ、右端に湯殿山大権現の祈願塔、中央
左側に西国・坂東・秩父を合わせて百番の霊場巡拝供
養塔が並び、手前に道しるべがある。
庚申待供養塔は笠付方型石碑で、左上手に法輪、中
手にしょけら、下手に弓、右上手に槍、中手に剣、下
手に矢を持つ六 青面金剛像が刻まれている。
東大和教育委員会

塚上のようすです。左が天明2年(1782)の湯殿山大権現祈願塔、続いて文政8年(1825)の馬頭観音、明和元年(1764)の庚申塔、明治28年(1895)の西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔です。敷地内には他に、道しるべなども残されていました。
周囲は道路や宅地に削られているものの、こうして塚が残るのは都内では貴重ですね。

『東大和市のよもやまばなし』によると、Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人に悪さをするもので、昔から「辻しようげ」といわれていました。従って三角辻は利用価値が低く、石仏や石塔などが建てられたり捨て場になったりしたそうです。
東大和市内には、道路が交差する場所に石仏や石塔、祠が祀られている光景をたくさん見ました。その度に立ち止まってしまうので、なかなか探索が進まなくなってしまうのですが(あくまでお目当は古墳なのですが)、まだ古道が残されていて、元あった場所に文化財が残されている光景は楽しいものです。。。
<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
郷土史みちの会『東大和のよもやまばなし』
現地説明版
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- 2018/04/26(木) 00:17:03|
- 東村山市•東大和市の塚
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現在のところ、東大和市内で発見された高塚古墳は存在しないようですが、かつてなんらかの塚が存在したことから、「××塚」といった具合に小字名に塚の名前が使われていたという場所は、かなり多く存在するようです。(芋窪村には「法界塚」、「狐塚」。蔵敷村には「山王塚」、「庚申塚」、「塚前」。高木村には「蛇塚」、「塚下」。清水村には「金剛塚」、「庚申塚」。宅部・内堀地区には「行人塚」、「東光院塚」、「大塚」、「庚申塚」、「御判塚」、「送神塚」、「霊光塚」、「塚の腰」等々。)これらの塚は、残念ながら現在ではほとんどが失われ、地名からも消え去ってしまったものが多いようです。
「東覚院塚」は、現在の東大和市奈良橋5丁目に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』にも未登録で、やはり塚は失われてしまっているようですが、塚の痕跡は残されているようです。
東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』によると、雲性寺の東に愛宕山を祀る大徳院という修験者がいて、その初代である東覚院の塚があるところの名称であり、奈良橋庚申塚交差点から北に200メートルほどの青梅街道に沿った東側、画像の墓地の場所が東覚院塚の跡地ではないかとされているようです。
古墳とは無関係の中世の塚跡ですが、跡地が判明したことから取り上げてみました。。。
<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
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- 2018/04/24(火) 23:35:25|
- 東村山市•東大和市の塚
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「織部塚」は、現在の東大和市桜が丘1丁目あたりに所在したといわれる塚です。
開発によりすでに消滅して正確な所在地のわからなくなってしまった塚で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、『里正日誌』や『狹山之栞』といった、この地域について書かれている地誌類にはこの織部塚についての記述があり、『里正日誌』には「砂之台通り青梅道覚養通り弐間道但し織部塚之所五間余之馬立場也是より南小川橋迄弐間云々」と記されています。
画像は、西武拝島線東大和市駅北側の、現在駐車場になっている周辺のようすです。この一帯は、かつては地主の鎌田家の敷地で、かつては青梅橋(現在の東大和市駅東側あたり。交差点名に「青梅橋」の名称が残されている。)まで他所の土地を踏まずに行くことができたそうです。この現在の駐車場の地点には、かつて「瘡守稲荷」と呼ばれるお稲荷さんが祀られていました。内野家文書にある『奈良橋村青梅橋堀端実測図』に、橋の南西の鎌田喜三郎と書かれた土地に稲荷社らしき建物が描かれており、続いて五間の青梅道が西へ延びています。
昔は自家の土地のはずれに墓所を営むことが多く、また鎌田家には、この瘡守稲荷と由緒があるという話も伝わっているようです。これらのことから、東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』では、奈良橋村および蔵敷分の草分け五軒の中に鎌田織部という人物がおり、織部塚とはこの人の墓所だったのではないかと推測しているようです。また、『里正日誌』の「五間余之馬立場」という記述からして、五間もの広さのある馬立場が存在した場所というと御嶽道が最有力であることからも考えると、織部塚はこの「瘡守稲荷」のあたりが旧地だったのではないかと考えられているようです。

画像は、現在の瘡守稲荷のようすです。小平市小川町1丁目の住宅地の一角に移設されて祀られています。

かつての瘡守稲荷は、江戸時代には青梅橋のたもとにあったといわれています。(ちなみに東大和市駅も、昭和52年(1979)までは青梅橋駅という駅名だったそうです。)青梅橋は、野火止用水が暗渠となったことにより取り壊され、現在は「青梅橋」という交差点名にのみ残されています。
この場所には、小平市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。(先ほどの、織部塚の跡地は東大和市ですが、この青梅橋交差点は小平市にあたります。)
青 梅 橋
Ome-bashi Bridge
承応4年(1655)、玉川上水から分水
された野火止用水を、青梅街道が横断す
るために架けられました。両岸を石組で
固めた幅約2.5メートル、長さ約4メー
トルの木造の橋でしたが、昭和になって
コンクリート製に架け替えられました。
架橋から300年余り後の昭和38年
(1963)5月の東村山浄水場の開設にと
もない、玉川上水からの水の取入れが、
この橋のすぐ下流まで野火止用水路を
利用した暗渠となったため、橋は取壊さ
れ、青梅橋の名のみが残りました。
往時、この橋から丸山台まで、4キロ
メートルにわたって幅約20メートルの
道の中央に一列に植えられた千本桜と
呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊
の人々の花見でにぎわったといわれます。
小平市教育委員会 小平郷土研究会
画像は、説明板に掲載されている、昭和27年(1957)の青梅橋のようすです。
左側に見えるのが庚申塔で、右側の祠が祀られている場所が瘡守稲荷であると思われます。
塚状に小高くなっているような気もしますし、平らな気もしますし。。。
よくわかりませんね。笑。。。

現在の青梅橋交差点の小祠のに祀られている庚申塔です。
その左横には、かつての青梅橋の欄干が残されています。
<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明板
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- 2018/04/20(金) 00:10:00|
- 東村山市•東大和市の塚
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今回紹介するのは、東村山市本町1丁目に所在する「浅間塚」です。
浅間塚は、西武線東村山駅の南方300メートルほどの地点に位置しており、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号46番の「近世の塚」として登録されています。昭和44年には東村山市の史跡として指定されています。
昭和46年(1971)に発行された『東村山市史』によると、この塚は昭和40年(1965)、塚の一部の土採り工事が行われたことから将来の破壊の可能性があるとし、測量調査が行われて実測図が作成されています。これによると、塚は一見円墳状を呈しているものの実測の結果は長方形であり、規模は東西27.5メートル、南北24メートル、高さ5.2メートルを計ります。覆土は黒色を呈する有機質の腐植土のみで、古墳としての遺物はまったく見られなかったようです。
敷地内には東村山市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。
東村山市指定史跡
浅 間 塚
所在 東村山市本町一丁目十五番地十一
指定 昭和四十四年三月一日 指定第二号
江戸時代の末、文化文政の頃(十九世紀前半)から富士信仰が盛んになり、各地に
富士講がつくられ、また富士山を模した富士塚も築かれました。
この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており、
浅間塚と呼ばれています。浅間神社の小祠は西宿(現在の諏訪町一、二丁目あたり)
の人々が天保十三年(一八四二)に建てたものです。
塚の形は円形でなく、長辺二七m短辺二四mの長方形をしており高さは五m程です。
このような方形の塚は武蔵野地域には数多く残されており、多くは江戸時代の塚
と考えられますが、何のために築かれたものかははっきりしていません。
この塚も後に浅間神社を祀ったもので、富士信仰のために築かれたものではない
ようです。
かつては府中街道から参道が続いており、頂上からは富士山も良く眺められたこ
とと思います。
平成四年三月 東村山市教育委員会
塚の東側には階段が設けられています。早速、登ってみましょう。
説明板にもあるように、浅間神社の祠が祀られる以前から塚は存在していたと考えられているようですが、築造された当初の塚の性格まではわからないようです。この浅間塚の南東側にある「大塚」と「小塚(現在は消滅)」は、境塚ではないかともいわれているようですので、この浅間塚も含めて境塚であった可能性も考えられるかもしれません。

階段を登って行くと円形の場所に突き当たります。この奥に祀られているのが、「浅間塚」の名称の由来となった、浅間神社の祠です。

「村支小社浅間神社」の石祠です。
この石祠は、かつて神社としての取扱いを受けていて、徳川入府以後、明治9年(1876)までは徳蔵寺が管理していたそうです。

西武国分寺線を挟んだ、西側から見た浅間塚です。
塚は、西武国分寺線の線路により削られ、その後道路によりさらに削られており、塚の西側はかなり急勾配になっています。西武国分寺線を東村山駅へを向かって走ると、到着する直前に車窓の右側(東側)にこの浅間塚を見ることができます。
開発が進む以前の、この周辺が農地だった頃にこの地を訪れていれば、浅間塚、大塚、小塚の3基の塚が並んで存在しており、あるいは古墳群のようにも見えたかもしれませんね。。。

南西から見た浅間塚です。削られた現在の形状がわかります。
<参考文献>
東村山市『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』
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- 2018/04/18(水) 00:23:39|
- 東村山市•東大和市の塚
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さて、前回に引き続き、今回紹介するのは東京都東村山市本町1丁目に所在する塚で、「大塚(境塚)」と「小塚(境塚)」です。
大塚は、西武線東村山駅の南方数百メートルほどの地点に位置する塚で、昭和44年にはその遺跡範囲のすべてが東村山市の史跡として指定されています。『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-1番に「近世の塚」として登録されています。大塚の場所は、東村山市により「平和塔公園」として整備されており、昭和36年(1961)には塚の頂部に平和の女神像が建立されています。
画像は、大塚の所在する「平和塔公園」を東から見たところです。

画像が、南から見た大塚のようすです。
塚の周囲は若干の加工が施されており、塚の裾部は石垣が積まれて土留めが行われています。塚には階段が設けられており、平和の女神像のある塚上に登ることができます。この大塚の形状は陽丸方形を呈しており、径は東西19メートル、南北21メートル、高さ4.5メートルを計り、発掘が行われていないことから塚の内部構造は不明とされています。
塚の前には、東村山市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
境 塚 (平和塔公園)
武蔵狭山丘陵の村々は近世中ごろにかけて広い
秣(馬のエサ)場であったが、幕府は武蔵野原の新
田開発をすすめた。
延宝、元禄年間には入会地の開こんをめぐって幕
藩領主層と自立農民との対立も起り、延宝八年(一
六八〇)には「境目絵図」がつくられたり、その後
村々にはこのような境塚が築かれ、そのひとつとい
われる。
もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた。頂上
にはご覧のように平和の女神像が建立(昭和三六年)
されている。
浅間塚
あちら側にある円墳状の塚で、頂上にはかつて浅
間神社の石祠が祀ってあって、富士信仰による浅間
塚と呼ばれている。
西宿(現、諏訪町の一、二丁目)の講中の方々の
信仰のものであったもので、この祠は、いま諏訪神
社(諏訪町)境内にうつされている。
東村山市教育委員会
境塚・浅間塚とも市史跡として昭和四四年三月指定
大塚の頂部のようすです。平和の女神像が建てられています。
武蔵野狭山丘陵の村々は、近世初頭から中頃にかけて広い秣場だったそうですが、江戸幕府により武蔵野原の新田開発が進められました。延宝・元禄年間に、入会地の開こんをめぐって幕藩領主層と自立農民との間に対立が起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られ、その後村々には境塚が築かれたといわれています。この大塚もそのうちの1基であるといわれているようです。

大塚の南東に数十メートルほどの地点にはもう1基、「小塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。隣接する「大塚」とともに境塚だったといわれる塚で、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-2番に「近世の塚」として登録されています。
この「小塚」は、高さは約3メートル、底面積は十坪ほどの塚で、「こっぺ塚」という愛称がつけられていました。府中街道の東側で、現在の東村山市本町1丁目4番地に所在したようです。画像の地点が跡地であると思われますが、残念ながら塚の痕跡は残念ながら見ることができません。昭和38年頃に開墾により崩されて消滅したようですが、削平の際には、遺物は何も出土しなかったと伝えられています。
古地図などで確認すると、この地域には「四っ塚」という小字が存在しており、またこの地域の地誌、『 狭山の栞』にも「四っ塚」という塚があったことが記されています。おそらくは、この地域にはかつてもう1基、未知なる塚が存在したのではないかと考えられますが、このあたりの真相はすでにわからなくなっているようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=421186&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年9月5日に国土地理院により撮影された、大塚と小塚の所在地周辺の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の左上が大塚、右下が小塚です。削平されてしまう直前の小塚をはっきりと確認することができます。
<参考文献>
東村山市史編纂委員会『東村山市史』
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- 2018/04/16(月) 00:37:40|
- 東村山市•東大和市の塚
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画像は、東村山市久米川町5丁目にある「熊野神社」を南から見たところです。
久米川村の鎮守であるこの熊野神社の御祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神で、創建年代は定かではありませんが、久米川の合戦の際に新田義貞が後詰を置いた所であるとされています。この神社の境内からは、応永32年(1425)銘の青銅製鰐口と水鳥形香炉が発見されており、鎌倉時代から室町時代には社殿が存在していたと考えられています。この神社の敷地内に、東村山市の史跡として指定されている「久米川富士」が所在します。

画像が、熊野神社境内に所在する「久米川富士」です。この富士塚は熊野神社境内の北東隅に築造されており、周囲のどこから見ても同じ形に見える円墳状に造られています。ボク石や丸石などは使われていない簡素な塚で、規模は東西24m、南北24m、高さ6.1mとかなり大型の富士塚で、周囲に建てられている石碑の碑文から、明治21年頃に築造されたと推定されています。

敷地内に東村山市教育委員会により設置されている説明板には次のように書かれています。
東村山市指定史跡
久米川の富士塚
所在地 東村山市久米川五丁目六番地四
指 定 平成八年」(一九九六)七月三日指定第二七号
富士山、その美しい山は古代から信仰の対象とされてき
ました。特に江戸時代には富士講が大流行し、江戸を中心
として数多くの富士塚が築かれました。富士塚とは、富士
山を模した小さな山で、富士山の溶岩を配したり、富士五
湖に見立てた池をつくるなど凝ったものでした。
この久米川の富士塚にも、裾野に風穴がつくられたり、
一合目、二合目の標識が置かれていたようです。山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠で「日立講明治二十一年四月入間
川先達富士常行」の銘が刻まれています。また、講の人々
が毎年山開きの日に「六根清浄」を唱えながら塚に登り、
遥かに富士を拝みました。
戦後、各地の富士塚が破壊される中で、この久米川の富
士塚は、現在にその姿を残すことができました。富士信仰
を物語る上でも貴重な遺産と言えるでしょう。
平成九年(一九九七)八月
東村山教育委員会

登山道を中腹まで登ってみたあたりのようす。説明板によると、「裾野の風穴」や、「一合目、二合目の標識」が置かれていたことが書かれているのですが、これらは残念ながら失われてしまっているようです。富士塚自体の保存が行われても、やはり講なくなってしまうと、管理するのが難しいのかもしれませんね。。。

富士塚の頂部から見下ろしてみたところ。
台地の縁辺部に段差を利用して造られているので、かなり高さがあるように感じられます。

山頂のようすです。説明板に書かれている「山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠」も見当たらないようです。

段丘上で南からみた久米川富士です。段丘の下から見上げるとかなり大きな富士塚に見えるのですが、こうして見ると小さな小山ですね。
訪れたのは5月頃だったと思うのですが、すでに草ぼうぼうで、全体の形状が見えにくかったのが残念です。
古墳とは無関係の塚ですが、都内各地の富士塚が破壊されてしまった中で保存された貴重な富士塚ということで、見学に訪れてみました。。。
<参考文献>
(財) 日本常民文化研究所『富士講と富士塚 -東京・神奈川-』
東村山ふるさと歴史館『ひがしむらやまぶんかざいめぐるっく』
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- 2018/04/14(土) 00:51:24|
- 東村山市•東大和市の塚
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画像は、東村山市多摩湖町1丁目に所在する「日向塚」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号10番の”時代不明の塚”として登録されています。
多摩湖町周辺は宅地化が進んでいるもののまだ多くの畑地も残されており、この日向塚も日向遺跡と連続する丘陵上の山林に、1基のみが単独で存在しています。古墳である可能性も想定されたことから、昭和41年には11月3日から一週間をかけて、発掘調査が行われています。
盛土は、一見円墳形を呈しているものの中腹から頂部は方形となり、明らかに人為的に築造された塚であることがわかっています。塚の規模は東西13.7m、南北11.5m、高さは2mで、塚の頂部にトレンチを入れて調査が行われましたが、古墳の築造に用いられる版築は見られず、表土から地山までのほとんどが黒褐色土層で築成されており、また内部主体の棺または槨および埋葬施設らしき痕跡はまったく認められなかったようです。盛土の下底中央部では焼けた礫の一群が発見されたものの、その下部から打製石斧が発見されたことから、縄文時代の遺跡の一部に当たったものと考えられており、塚に関連する遺構ではないと判断されたようです。遺物も、土師器片が採集されまたものの、これも周辺の遺跡にあったものが盛り土に混入されたものであるとされ、 日向塚は古墳ではなく、別種の塚であることが判明しています。

北西から見た日向塚です。
この塚についての地元の人に伝わる由来や伝承などはまったく残されていないようなのですが、昭和46年に東村山市史編纂委員会より発行された『東村山市史』には「江戸時代の境塚の一つであるかもしれない」とあり、また東村山郷土研究会より発刊の『地域に残る地名にまつわる話』には「現在デーキャンプ場になっている所の中に、直径十メートル程、高さ二メートル程の塚があり、物見塚と呼ばれている。※古墳ではないかと市で調査したことがあるが、古墳ではないらしい。」と書かれています。
果たしてこの日向塚がどんな目的で築造された塚であるのか、興味深いところです。。。

画像は日向塚の頂部のようすです。
陥没したような窪みが見られますが、発掘された痕跡なのでしょうか。。。
<参考文献>
東村山市史編纂委員会『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』
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- 2018/04/13(金) 00:27:10|
- 東村山市•東大和市の塚
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東大和市内に現存する高塚古墳は存在せず、この地域に有力な支配者の存在はなかったのではないかとも考えられているようですが、塚の存在により「塚」が地名として使われた場所は数多く存在するようです。芋窪村には法界塚、狐塚。蔵敷村には山王塚、庚申塚、塚前。高木村には蛇塚、塚下。清水村には金剛塚、庚申塚。宅部・内堀地区には行人塚、東光院塚、大塚、庚申塚、御判塚、送神塚、霊光塚、塚の腰など、かなりの数にのぼりますが、多くの塚は現在消滅しており、その位置も判らなくなっているようです。
「奈良橋庚申塚」も、地元ではかなり知られた地名であるようですが、残念ながら塚は削平されており、現在は存在しません。画像は奈良橋庚申塚の跡地を南東から見たところです。交番の前の、交差点の角のところに塚は存在したようです。

画像は、奈良橋庚申塚から移設された現在の庚申塔のようすです。東大和市奈良橋1丁目の雲性寺の山門の下に所在します。庚申塔のほかに馬頭観音も立てられています。一説によると、新青梅街道拡張工事の際、駐在所に出入りするパトカーの邪魔になるということで庚申塚は崩されてしまったようですが、庚申塔や馬頭観音、道標といった石造物は元あった場所に保存しないと意味がないように思いますが、このあたりはなかなか難しいですね。。。

天王山雲性寺の山門前のようすです。創建は永享11年(1439)といわれるこのお寺の山門はなんと、箱根の関所の一の門として使われていたものなのだそうです。この山門はなかなか数奇な運命を辿っているといわれますので詳しく調べてみると面白いかもしれません。

雲性寺境内に咲く「ハンカチの木」の花です。私はこの花をこの雲性寺の境内で初めて見ましたが、なかなか見ることのない珍しい形状の花だと思います。。。

「奈良橋庚申塚」の痕跡は、様々な場所に名称として残されているようです。バス停にも……

交差点にも……

そして橋の名称にも!東大和市内で一番有名な塚の名称であるようですし、やはり塚が消滅してしまったのは残念でなりません。。。
<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
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- 2016/06/11(土) 03:42:58|
- 東村山市•東大和市の塚
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画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「山王塚」の跡地を北西から見たところです。
この場所はかつて三本杉または一本杉とも呼ばれた杉の木が目印となっていた三角地で、現在はフェンスで囲まれた中に山王社が祀られています。東大和市教育委員会より発行された『道と地名と人のくらし』では昭和49年当時の山王塚の写真を見ることが出来ますが、かつてのこの場所は小高く盛り上がった塚上に祠が祀られていて、古墳ではないかとも考えられていたようです。雑誌『武蔵野』にはこの周辺の遺跡を廻った村高擔風氏の一文が掲載されており、「山王塚の遺跡 自動車にて村山に着くや蔵敷村に有名な夫婦杉のある山王塚に向ふ桑畑には未だ雪の鹿の子斑に残る霜解道を漸くに夫婦杉の許に抵れば小高くなれる薮は古墳の崩れたるものにて小さな祠が安置してある四辺の畦道を彷徨ひて石斧を獲たるが内野杢左衛門氏方に多数蔵すを聞き同家を訪ふ旧地の主人快く倉より取出して土器(形は崩る)石器矢根石等を示さる何れも同村字台より発掘せるもの縄紋土器は磨石斧と共に出しが当時は博物館にても土器全形を足るものなりかば非常に珍重されしなん……」と書かれています。
多摩川から遠くはなれた東大和市内では未だ古墳の発見はないようですが、当時「古墳の崩れたるもの」と考えられた山王塚も残念ながら古墳ではなかったようです。

ちなみに、雑誌『武蔵野』は日本考古学の指導者として著名な鳥居龍蔵氏により創立された「武蔵野会」の機関紙として創刊された雑誌です。東大和市内においては、大正5年(1916)に東京市により村山・山口両貯水池の建設が行われた際、湖底に沈んでしまう埋蔵文化財の調査を依嘱されたのが鳥居龍蔵氏であったそうです。鳥居龍蔵氏といえば、大正12年(1923)に起こった関東大震災で東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したというエピソードが有名ですが、東大和市内の調査を行っていたとは知りませんでした。。。

この山王塚の場所は「蔵敷調練場跡」として昭和55年4月1日に東大和市の旧跡として指定されており、敷地内には東大和市教育委員会による説明板が立てられています。この説明板には次のように書かれています。
東大和市旧跡
蔵敷調練場跡
所在 東大和市蔵敷二丁目
指定 昭和五十五年四月一日
江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れていた。
このため、丈久三年、この付近を治めていた韮山代官江川
太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一
揆鎮圧のため、村役人級の農民に編成し、小銃を貸し付け、
農業の合間に軍事訓練を行った。農兵に軍事訓練を行った
場所を調練場といい、この付近一帯がその場所であった。
東大和市教育委員会 山王社の南側が調練場で、北西の一角にはクリの木で作った玉除を埋めこんだ大きな土手が築かれて射的場として使われていました。現在は開発が進み昔の面影はなくなっているようですが、調練場という名は戦前までは残されていたようです。。。
<参考文献>
村高擔風氏「村山地方の遺跡廻り」『武蔵野 第一巻 第一号』
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明版
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- 2016/06/09(木) 00:58:38|
- 東村山市•東大和市の塚
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