古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「経塚(京塚)」

「経塚(京塚)」

 武蔵村山市中原3丁目に所在したといわれる塚が「経塚」です。既に削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、塚にまつわる出土品と言い伝えが残されているようです。
 瑞穂町教育委員会より発行された『路辺夜話』には、当時の経塚を知る人による次のようなエピソードが書かれています。

 それは昭和14年の盛夏、私は小学校6年生の児童でした。時あたかも日中事変が始まって既に3年を経過しており、出征兵士の留守宅農家への手助けとして勤労奉仕に従事していました。真夏の照りつける太陽のもと、夏休みのある一日でした。確か集合したのは、日除けになる大榎の下、かの一本榎の塚上でした。
大きな石の庚申塔が建っていて、横には「文化十癸酉歳九月吉、武刕多摩郡邑山郷殿ヶ谷村」、台右には「惣村、講中、発願主 小峯佐兵衛」の文字が彫られています。
 この庚申塔を近くで見るのは初めてでしたので興味を持ちました。やがて集合時間よりも早目に着いた者が、地元の殿ケ谷村に住む級友が案内人となって、経塚へ行ってみようということになり、これまた全くの初の場所へ連れて行かれました。
 経塚は畑の中にポツンと盛り上がっていて、丸くお椀を伏せた形状の、小山の如き姿をしていました。
 塚には一面に雑草が生い茂って緑の土饅頭といったところ。
 集まった者は到着するが早く、直ぐに経塚に登りだしました。止める者は誰もいない。登った仲間は皆お山の大将気取りで大きく手を挙げ、声をあげてはしゃいだのを思い出します。まるでその頃のニュース映画に映し出された広野の戦場で、トーチカを占領した兵士の気分でした。
 塚には雑草のほかは何もありませんでした。
 塚へ登るのには、多少手足と身体を巧く操っての登攀だったような記憶があります。這い登ったという形容が当たっているでしょうか。塚の高さは子供の目測ですから正確ではありませんが、2m程はあったと思います。(『路辺夜話』46~47ページ)


 さて、ではこの「経塚」がどこに存在したかということになりますが、瑞穂町教育委員会により編集された『瑞穂の地名』には「岸前京塚 岸村(現武蔵村山市岸)にあった経塚の近辺、殿ケ谷村に属した土地もあったろう。村境でもある。その経塚の位置は、一本榎より斜めに伊奈街道と方角を対照的に南へ、榎の塚から残堀方面に向かう道を進むとやがて道は二つにわかれる。その三角地帯にあった円墳形式の塚である。戦後きれいに盛土は運び去られて平地化されてしまった。その時唯一の遺物として大きな五輪塔の水輪が一つ出土した。したがって京塚は境塚とみるより経塚にちがいない。」と書かれています。
 画像はこの、現在も残る三角地のようすです。この周辺地域は開発が進み、区画整理が行われて大きく地形が変わってしまっていますが、塚の所在地とされる周辺にはまだ古い道も残されているようです。一本榎から南に向かった二つにわかれる辻とはこの場所ではないかと思われますが、経塚らしき痕跡を見つけることは出来ませんでした。
 

「経塚(京塚)」 

 戦後の空中写真等で、塚らしき痕跡が残されていないか探してみたところ、この辺りに塚らしきマウンドが存在しなかったかと推測した場所が画像の地点です。もちろん、経塚とは無関係の別の塚が存在した可能性も多いに有り得るわけですが、残念ながらここにも痕跡は何も残されていません。


「経塚(京塚)」

「経塚(京塚)」

 経塚は残念ながら消滅してしまったようですが、周辺のバス停や公園などの名称に経塚の名が残されているようです。

「経塚(京塚)」

 戦後までは残されていたといわれているこの経塚ですが、その後の開墾により削平され消滅しています。この際に、出土したとされているのが画像の五輪塔の水輪です。この水輪は、現在は瑞穂町の郷土資料館に所蔵されているもので、昨年の6月に見学させていただいたものです。水輪には五輪塔発心門の「水」を表す梵字が刻まれています。地輪が残されていないことから、経塚を築造した年代、もしくは五輪塔を建立した年代は不明であるものの、この水輪の存在により塚が経塚であったことがわかっているようです。
 瑞穂町の郷土資料館のスタッフさまには、とても丁寧な対応で五輪塔を見学させていただきました。ありがとうございました。。。

「経塚(京塚)」
 
<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』
瑞穂町教育委員会『路辺夜話』


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  1. 2017/05/28(日) 01:41:20|
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「奈良橋庚申塚」

「奈良橋庚申塚」

 東大和市内に現存する高塚古墳は存在せず、この地域に有力な支配者の存在はなかったのではないかとも考えられているようですが、塚の存在により「塚」が地名として使われた場所は数多く存在するようです。芋窪村には法界塚、狐塚。蔵敷村には山王塚、庚申塚、塚前。高木村には蛇塚、塚下。清水村には金剛塚、庚申塚。宅部・内堀地区には行人塚、東光院塚、大塚、庚申塚、御判塚、送神塚、霊光塚、塚の腰など、かなりの数にのぼりますが、多くの塚は現在消滅しており、その位置も判らなくなっているようです。

 「奈良橋庚申塚」も、地元ではかなり知られた地名であるようですが、残念ながら塚は削平されており、現在は存在しません。画像は奈良橋庚申塚の跡地を南東から見たところです。交番の前の、交差点の角のところに塚は存在したようです。


「奈良橋庚申塚」

 画像は、奈良橋庚申塚から移設された現在の庚申塔のようすです。東大和市奈良橋1丁目の雲性寺の山門の下に所在します。庚申塔のほかに馬頭観音も立てられています。一説によると、新青梅街道拡張工事の際、駐在所に出入りするパトカーの邪魔になるということで庚申塚は崩されてしまったようですが、庚申塔や馬頭観音、道標といった石造物は元あった場所に保存しないと意味がないように思いますが、このあたりはなかなか難しいですね。。。


「奈良橋庚申塚」

 天王山雲性寺の山門前のようすです。創建は永享11年(1439)といわれるこのお寺の山門はなんと、箱根の関所の一の門として使われていたものなのだそうです。この山門はなかなか数奇な運命を辿っているといわれますので詳しく調べてみると面白いかもしれません。


「奈良橋庚申塚」

 雲性寺境内に咲く「ハンカチの木」の花です。私はこの花をこの雲性寺の境内で初めて見ましたが、なかなか見ることのない珍しい形状の花だと思います。。。


「奈良橋庚申塚」

 「奈良橋庚申塚」の痕跡は、様々な場所に名称として残されているようです。バス停にも……


「奈良橋庚申塚」

 交差点にも……


「奈良橋庚申塚」

 そして橋の名称にも!東大和市内で一番有名な塚の名称であるようですし、やはり塚が消滅してしまったのは残念でなりません。。。 

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明版


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  1. 2016/06/11(土) 03:42:58|
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「山王塚」

「山王塚」

 画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「山王塚」の跡地を北西から見たところです。

 この場所はかつて三本杉または一本杉とも呼ばれた杉の木が目印となっていた三角地で、現在はフェンスで囲まれた中に山王社が祀られています。東大和市教育委員会より発行された『道と地名と人のくらし』では昭和49年当時の山王塚の写真を見ることが出来ますが、かつてのこの場所は小高く盛り上がった塚上に祠が祀られていて、古墳ではないかとも考えられていたようです。雑誌『武蔵野』にはこの周辺の遺跡を廻った村高擔風氏の一文が掲載されており、「山王塚の遺跡 自動車にて村山に着くや蔵敷村に有名な夫婦杉のある山王塚に向ふ桑畑には未だ雪の鹿の子斑に残る霜解道を漸くに夫婦杉の許に抵れば小高くなれる薮は古墳の崩れたるものにて小さな祠が安置してある四辺の畦道を彷徨ひて石斧を獲たるが内野杢左衛門氏方に多数蔵すを聞き同家を訪ふ旧地の主人快く倉より取出して土器(形は崩る)石器矢根石等を示さる何れも同村字台より発掘せるもの縄紋土器は磨石斧と共に出しが当時は博物館にても土器全形を足るものなりかば非常に珍重されしなん……」と書かれています。

 多摩川から遠くはなれた東大和市内では未だ古墳の発見はないようですが、当時「古墳の崩れたるもの」と考えられた山王塚も残念ながら古墳ではなかったようです。


「山王塚」

 ちなみに、雑誌『武蔵野』は日本考古学の指導者として著名な鳥居龍蔵氏により創立された「武蔵野会」の機関紙として創刊された雑誌です。東大和市内においては、大正5年(1916)に東京市により村山・山口両貯水池の建設が行われた際、湖底に沈んでしまう埋蔵文化財の調査を依嘱されたのが鳥居龍蔵氏であったそうです。鳥居龍蔵氏といえば、大正12年(1923)に起こった関東大震災で東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したというエピソードが有名ですが、東大和市内の調査を行っていたとは知りませんでした。。。


東大和市 未登録 山王塚3

 この山王塚の場所は「蔵敷調練場跡」として昭和55年4月1日に東大和市の旧跡として指定されており、敷地内には東大和市教育委員会による説明板が立てられています。この説明板には次のように書かれています。

東大和市旧跡
蔵敷調練場跡
             所在 東大和市蔵敷二丁目
             指定 昭和五十五年四月一日

 江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れていた。
このため、丈久三年、この付近を治めていた韮山代官江川
太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一
揆鎮圧のため、村役人級の農民に編成し、小銃を貸し付け、
農業の合間に軍事訓練を行った。農兵に軍事訓練を行った
場所を調練場といい、この付近一帯がその場所であった。
                 東大和市教育委員会


 山王社の南側が調練場で、北西の一角にはクリの木で作った玉除を埋めこんだ大きな土手が築かれて射的場として使われていました。現在は開発が進み昔の面影はなくなっているようですが、調練場という名は戦前までは残されていたようです。。。

<参考文献>
村高擔風氏「村山地方の遺跡廻り」『武蔵野 第一巻 第一号』
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明版


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  1. 2016/06/09(木) 00:58:38|
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「残堀一本榎の塚」

「残堀一本榎の塚」

 さて、前回までに、「三本榎塚」と総称される「乙幡榎塚」、「加藤榎塚」、「奥住榎塚」の三つの榎の塚を紹介しましたが、これらの塚はすべて市街道(瑞穂町内では江戸街道と呼ばれ、ほかに村山通り江戸道、引又街道とも呼ばれる)沿いに存在しています。武蔵村山市周辺では、南北の道は中世の道で、東西の道は近世の道であるともいわれてきたようですが、江戸時代初期に江戸と青梅を結ぶ道として作られたとされるこの市街道沿いにはほかにもいくつかの塚が存在しており、「勘兵衛塚」、「念仏塚」、「千部塚」、「三本榎・奥住榎塚」、「三本榎・加藤榎塚」「三本榎・乙幡榎塚」、「残堀一本榎塚」と7基の塚が確認されているようですが、残念ながら三本榎の塚以外はすべて削平されて消滅しているようです。

 画像は、武蔵村山市三ツ藤3丁目に所在する「北多摩西部消防署三ツ木出張所」を東から見たところです。市街道(引又街道)と三ツ木街道が交差する四辻であるこの場所にかつて「一本榎の塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。


「残堀一本榎の塚」

 残念ながら榎の大木は台風により倒壊、塚も昭和40年代に消滅していますが、塚の上に建てられていたとされる庚申塔が消防署の敷地の一角に今も残されています。高さ103cm、幅37cmのこの庚申塔は、正面に「庚申塔」と大きく掘り込まれており、右側面には「文政三庚辰三吉詳日」、左側面には「天下泰平国土安全」とあり、裏面には「武州多摩郡山郷三ツ木村峰」と刻まれています。榎の塚もすでになく、引又街道も新青梅街道に取って代わられてしまった今、この庚申塔のみが昔の面影を偲ばせています。。。

<参考文献>
武蔵村山市史編さん委員会『武蔵村山市史 通史編 上巻』
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第4号』


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  1. 2016/06/01(水) 00:06:00|
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「三本榎塚(奥住榎塚)」

「三本榎塚(奥住榎塚)」

 武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の三本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。

 画像は、武蔵村山市学園1丁目に所在する「奥住榎塚」を南西から見たところです。こと奥住榎は水道局敷地内に所在しているため、路上からの見学となります。


「三本榎塚(奥住榎塚)」

 この三本榎にはある伝説が残されています。この地には昔、乙幡、加藤、奥住という3人の若者がおり、遠矢の競争をしたそうです。この矢を打った場所は、赤堀の三王様とも行人塚ともいわれているようですが、遠矢の競争をして自分の矢が落ちたところに榎を植えていったと伝えられています。上の榎が乙幡、中の榎のが加藤榎、下の榎が奥住榎、三本揃って三本榎と呼ばれています。この地域では、榎の葉の出具合によりその年の桑の葉の出来を占ったともいわれています。
 ちなみにこの三本榎の近隣に「行人塚」が存在したとは驚きなのですが、この行人塚の所在地については情報が見つからず、詳細はわかりませんでした。。。

 画像は、奥住榎の塚のようすです。「三本榎(奥住榎)」と刻まれた石柱が立てられています。

<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
現地説明版


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  1. 2016/05/31(火) 00:32:52|
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