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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「谷津仙元神社富士塚」

「谷津仙元神社富士塚」1

 今回は、武蔵村山市中藤の谷津と呼ばれる地域に所在する「谷津仙元神社富士塚」の探訪の記録です。

 武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは、身禄から五代目の千達星行であるといわれています。この時に星行から直接教えを受けたのが中藤村の山行星命(俗名藤七)と呼ばれる人物です。
 星命が天保二年(1831)に亡くなると、息子の定右衛門は父親の跡を継がず、別の人が継いだそうですが、その後も富士講の活動は続き、天保十四年(1843)年には40人もの講中が富士に登ったりとかなり活気を呈したようです。また、安政期には元年(1854)に浅間山で花火のあったことが記されており、この時期にすでに富士塚と考えられる塚のあったことが想定されています。
 その後、大正期までは富士講の活動は盛んに行われたようですが、第二次世界大戦後から急速に講員が減り、昭和40年代初期には全講員が2、3人となり、昭和40年代半ばには最後の先達1名となってしまいます。
 その後、富士講再興計画が計られ、年に3回の行事や北口本宮富士浅間神社の開山式への参加、霊山を巡る旅等、現代も活動は活発に行われているようです。

 画像は、仙元神社の社殿の様子です。
 近世以来続く富士講の信仰対象としての神社です。

 画像に見えるように、社殿の鎮座地自体が塚のような形状となっていますが、富士塚は社殿の背後に所在します。
 ひょっとして周辺の草木をすべて刈り取ると、社殿の基壇を前方部、富士塚を後円部に見立てて前方後円墳のように見えるかもしれませんね。。。


「谷津仙元神社富士塚」2

 画像は、仙元神社社殿の様子です。
 「浅間神社」ではなく「仙元神社」と書くのはなぜだろう?と素朴に疑問に思うところですが、浅間を仙元と記すことは富士講の教義によるとされ、『御大行之巻』には「人の体の元をなすは二人ふたりにてなければ出生ハならず」として『仙元』を「たいふたり・ひとのもと」と訓ませることが記されているそうです。


「谷津仙元神社富士塚」3

 社殿の前には、武蔵村山市教育委員会による説明板が設置されています。
 画像はこの説明板に掲載されている、富士講の行事の様子です。
 説明板には次のように書かれています。

武蔵村山市指定無形民俗文化財
谷 津 仙 元 神 社 富 士 講
 谷津仙元神社富士講は、富士講を信仰行事として続
けている都内でも数少ない団体です。
 谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食
行身禄から五代目の先達星行であるといわれています。
この時、星行から直接教えを受けたのが、谷津の山行
星命(俗名藤七)と呼ばれる農民でした。
 谷津講社に残る富士講文書の中には星行の署名が残
されているものがあります。これらの古文書から谷津
富士講が興ったのは寛政から文化期であったことがわ
かりました。
 社の裏の小高い山は富士塚で、登山できない人たち
がここに登り、富士山を遥拝しました。
 谷津富士講の主な行事としては、一月一日の「初読
み」、五月五日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」
があります。
平成十五年三月
              武蔵村山市教育委員会




「谷津仙元神社富士塚」4

 早速、富士塚に登ってみましょう。
 画像に見える、仙元神社社殿の東側に石段があり、ここから登拝できるようです。


「谷津仙元神社富士塚」5

 途中の状況。
 私が訪れたのは真冬でしたので、なんとかスムーズに登ることができたのですが、真夏に訪れてどんな状況になっているかはわかりません。
 かなりな藪になっている可能性が大ですし、蜘蛛の巣が顔に張り付いたり、ハチや蛇に追われたりと色々あるかも。
 訪れるなら冬がお勧めですね。。。

 富士塚がどんな形状なのか、塚全体が深い藪となっていて全貌がわからないのが残念ですが、富士塚の高さは20メートルほどあるそうです。
 富士講を現在も信仰行事として続けている富士講は、都内でも数少ない状況であるそうです。素晴らしいです。


「谷津仙元神社富士塚」6

 富士塚の頂上の様子です。
 多少、平らで広い空間となっていて、「浅間神社」の祠が祀られています。


「谷津仙元神社富士塚」7

 浅間神社の祠です。

 この場所を訪れるには、車で来ると駐車するスペースがが近くに無さそうですし、山の上にあるので徒歩や自転車でもなかなか大変です。
 訪れるのに難易度の高い富士塚かもしれませんね。。。笑。

<参考文献>
武蔵村山市教育委員会『谷津富士講調査報告書』
現地説明版


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  1. 2020/05/02(土) 19:49:58|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「蔵敷庚申塚」

「蔵敷庚申塚」

 東大和市内の古墳の記録として、『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には奈良橋村に古墳が存在したという記載があるのですが、残念ながらこの古墳は消滅しており、また『狭山之栞』には山口領野口村の「大塚」や、山口村之内野谷の「割塚」といった古墳の記載を見ることが出来るのですが、これらは後世の塚なで、古墳ではなかったといわれています。東大和市を含む狭山丘陵周辺の市域では、確実に古墳であるといえるものは、残念ながら皆無といえそうな状況です。

 画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「蔵敷庚申塚」を北西から見たところです。
 昭和49年(1974)には東大和市の史跡として指定されており、古墳とは無関係な塚はあるものの、マウンドの残る数少ない庚申塚です。


「蔵敷庚申塚」

 東大和市により設置された説明板には次のように書かれています。

東大和市史跡
蔵敷庚申塚
  所在 東大和市蔵敷二丁目五〇八番地付近
  指定 昭和四十九年九月二十日

 この庚申塚は、高さ約二メートルの塚状をなしてい
る。中央右側にある明和元(一七六四)年造立の庚申塔
供養塔をはじめ、右端に湯殿山大権現の祈願塔、中央
左側に西国・坂東・秩父を合わせて百番の霊場巡拝供
養塔が並び、手前に道しるべがある。
 庚申待供養塔は笠付方型石碑で、左上手に法輪、中
手にしょけら、下手に弓、右上手に槍、中手に剣、下
手に矢を持つ六 青面金剛像が刻まれている。
                東大和教育委員会


「蔵敷庚申塚」

 塚上のようすです。左が天明2年(1782)の湯殿山大権現祈願塔、続いて文政8年(1825)の馬頭観音、明和元年(1764)の庚申塔、明治28年(1895)の西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔です。敷地内には他に、道しるべなども残されていました。
 周囲は道路や宅地に削られているものの、こうして塚が残るのは都内では貴重ですね。


「Y字路」

 『東大和市のよもやまばなし』によると、Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人に悪さをするもので、昔から「辻しようげ」といわれていました。従って三角辻は利用価値が低く、石仏や石塔などが建てられたり捨て場になったりしたそうです。
 東大和市内には、道路が交差する場所に石仏や石塔、祠が祀られている光景をたくさん見ました。その度に立ち止まってしまうので、なかなか探索が進まなくなってしまうのですが(あくまでお目当は古墳なのですが)、まだ古道が残されていて、元あった場所に文化財が残されている光景は楽しいものです。。。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
郷土史みちの会『東大和のよもやまばなし』
現地説明版


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  1. 2018/04/26(木) 00:17:03|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「東覚院塚」

「東覚院塚」

 現在のところ、東大和市内で発見された高塚古墳は存在しないようですが、かつてなんらかの塚が存在したことから、「××塚」といった具合に小字名に塚の名前が使われていたという場所は、かなり多く存在するようです。(芋窪村には「法界塚」、「狐塚」。蔵敷村には「山王塚」、「庚申塚」、「塚前」。高木村には「蛇塚」、「塚下」。清水村には「金剛塚」、「庚申塚」。宅部・内堀地区には「行人塚」、「東光院塚」、「大塚」、「庚申塚」、「御判塚」、「送神塚」、「霊光塚」、「塚の腰」等々。)これらの塚は、残念ながら現在ではほとんどが失われ、地名からも消え去ってしまったものが多いようです。

 「東覚院塚」は、現在の東大和市奈良橋5丁目に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』にも未登録で、やはり塚は失われてしまっているようですが、塚の痕跡は残されているようです。
 東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』によると、雲性寺の東に愛宕山を祀る大徳院という修験者がいて、その初代である東覚院の塚があるところの名称であり、奈良橋庚申塚交差点から北に200メートルほどの青梅街道に沿った東側、画像の墓地の場所が東覚院塚の跡地ではないかとされているようです。

 古墳とは無関係の中世の塚跡ですが、跡地が判明したことから取り上げてみました。。。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』


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  1. 2018/04/24(火) 23:35:25|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「織部塚」

「織部塚跡地」

 「織部塚」は、現在の東大和市桜が丘1丁目あたりに所在したといわれる塚です。
 開発によりすでに消滅して正確な所在地のわからなくなってしまった塚で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、『里正日誌』や『狹山之栞』といった、この地域について書かれている地誌類にはこの織部塚についての記述があり、『里正日誌』には「砂之台通り青梅道覚養通り弐間道但し織部塚之所五間余之馬立場也是より南小川橋迄弐間云々」と記されています。

 画像は、西武拝島線東大和市駅北側の、現在駐車場になっている周辺のようすです。この一帯は、かつては地主の鎌田家の敷地で、かつては青梅橋(現在の東大和市駅東側あたり。交差点名に「青梅橋」の名称が残されている。)まで他所の土地を踏まずに行くことができたそうです。この現在の駐車場の地点には、かつて「瘡守稲荷」と呼ばれるお稲荷さんが祀られていました。内野家文書にある『奈良橋村青梅橋堀端実測図』に、橋の南西の鎌田喜三郎と書かれた土地に稲荷社らしき建物が描かれており、続いて五間の青梅道が西へ延びています。
 昔は自家の土地のはずれに墓所を営むことが多く、また鎌田家には、この瘡守稲荷と由緒があるという話も伝わっているようです。これらのことから、東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』では、奈良橋村および蔵敷分の草分け五軒の中に鎌田織部という人物がおり、織部塚とはこの人の墓所だったのではないかと推測しているようです。また、『里正日誌』の「五間余之馬立場」という記述からして、五間もの広さのある馬立場が存在した場所というと御嶽道が最有力であることからも考えると、織部塚はこの「瘡守稲荷」のあたりが旧地だったのではないかと考えられているようです。


「瘡守稲荷」

 画像は、現在の瘡守稲荷のようすです。小平市小川町1丁目の住宅地の一角に移設されて祀られています。

「青梅橋交差点」

 かつての瘡守稲荷は、江戸時代には青梅橋のたもとにあったといわれています。(ちなみに東大和市駅も、昭和52年(1979)までは青梅橋駅という駅名だったそうです。)青梅橋は、野火止用水が暗渠となったことにより取り壊され、現在は「青梅橋」という交差点名にのみ残されています。
 
 この場所には、小平市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。(先ほどの、織部塚の跡地は東大和市ですが、この青梅橋交差点は小平市にあたります。)

青 梅 橋
Ome-bashi Bridge
 承応4年(1655)、玉川上水から分水
された野火止用水を、青梅街道が横断す
るために架けられました。両岸を石組で
固めた幅約2.5メートル、長さ約4メー
トルの木造の橋でしたが、昭和になって
コンクリート製に架け替えられました。
 架橋から300年余り後の昭和38年
(1963)5月の東村山浄水場の開設にと
もない、玉川上水からの水の取入れが、
この橋のすぐ下流まで野火止用水路を
利用した暗渠となったため、橋は取壊さ
れ、青梅橋の名のみが残りました。

 往時、この橋から丸山台まで、4キロ
メートルにわたって幅約20メートルの
道の中央に一列に植えられた千本桜と
呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊
の人々の花見でにぎわったといわれます。

小平市教育委員会 小平郷土研究会



「青梅橋」

 画像は、説明板に掲載されている、昭和27年(1957)の青梅橋のようすです。
 左側に見えるのが庚申塔で、右側の祠が祀られている場所が瘡守稲荷であると思われます。
 塚状に小高くなっているような気もしますし、平らな気もしますし。。。
 よくわかりませんね。笑。。。


「青梅橋の庚申塔」

 現在の青梅橋交差点の小祠のに祀られている庚申塔です。
 その左横には、かつての青梅橋の欄干が残されています。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明板


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  1. 2018/04/20(金) 00:10:00|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 今回紹介するのは、東村山市本町1丁目に所在する「浅間塚」です。
 浅間塚は、西武線東村山駅の南方300メートルほどの地点に位置しており、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号46番の「近世の塚」として登録されています。昭和44年には東村山市の史跡として指定されています。
 昭和46年(1971)に発行された『東村山市史』によると、この塚は昭和40年(1965)、塚の一部の土採り工事が行われたことから将来の破壊の可能性があるとし、測量調査が行われて実測図が作成されています。これによると、塚は一見円墳状を呈しているものの実測の結果は長方形であり、規模は東西27.5メートル、南北24メートル、高さ5.2メートルを計ります。覆土は黒色を呈する有機質の腐植土のみで、古墳としての遺物はまったく見られなかったようです。

 敷地内には東村山市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。

東村山市指定史跡
  浅 間 塚
                 所在 東村山市本町一丁目十五番地十一
                 指定 昭和四十四年三月一日 指定第二号
 江戸時代の末、文化文政の頃(十九世紀前半)から富士信仰が盛んになり、各地に
富士講がつくられ、また富士山を模した富士塚も築かれました。
 この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており、
浅間塚と呼ばれています。浅間神社の小祠は西宿(現在の諏訪町一、二丁目あたり)
の人々が天保十三年(一八四二)に建てたものです。
 塚の形は円形でなく、長辺二七m短辺二四mの長方形をしており高さは五m程です。
 このような方形の塚は武蔵野地域には数多く残されており、多くは江戸時代の塚
と考えられますが、何のために築かれたものかははっきりしていません。
 この塚も後に浅間神社を祀ったもので、富士信仰のために築かれたものではない
ようです。
 かつては府中街道から参道が続いており、頂上からは富士山も良く眺められたこ
とと思います。
                平成四年三月      東村山市教育委員会



「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 塚の東側には階段が設けられています。早速、登ってみましょう。
 説明板にもあるように、浅間神社の祠が祀られる以前から塚は存在していたと考えられているようですが、築造された当初の塚の性格まではわからないようです。この浅間塚の南東側にある「大塚」と「小塚(現在は消滅)」は、境塚ではないかともいわれているようですので、この浅間塚も含めて境塚であった可能性も考えられるかもしれません。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

階段を登って行くと円形の場所に突き当たります。この奥に祀られているのが、「浅間塚」の名称の由来となった、浅間神社の祠です。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 「村支小社浅間神社」の石祠です。
 この石祠は、かつて神社としての取扱いを受けていて、徳川入府以後、明治9年(1876)までは徳蔵寺が管理していたそうです。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 西武国分寺線を挟んだ、西側から見た浅間塚です。
 塚は、西武国分寺線の線路により削られ、その後道路によりさらに削られており、塚の西側はかなり急勾配になっています。西武国分寺線を東村山駅へを向かって走ると、到着する直前に車窓の右側(東側)にこの浅間塚を見ることができます。
 開発が進む以前の、この周辺が農地だった頃にこの地を訪れていれば、浅間塚、大塚、小塚の3基の塚が並んで存在しており、あるいは古墳群のようにも見えたかもしれませんね。。。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 南西から見た浅間塚です。削られた現在の形状がわかります。

<参考文献>
東村山市『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』


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  1. 2018/04/18(水) 00:23:39|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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