
高塚古墳が存在しないとされる小金井市内にあって、唯一確認されている横穴墓が「前原横穴墓」です。
この横穴は下水管敷設工事中に発見されたもので、武蔵野段丘と立川段丘の境にあたる国分寺崖線の中位に位置しています。
玄室からは北に頭を向けた人骨が1体検出されており、壮年期初めの女性であることがわかっています。追葬はなく、この女性1体のみの埋葬が行われたようです。
画像は、小金井市前原町の「前原横穴墓」の跡地周辺の様子です。
この1基のみでなく、周辺にも横穴が存在していたと想定されているようですが、周辺は開発が進んでいるようなので、古墳はもうすでに消滅しているのかもしれません。
どんな人物が埋葬されたのか、とても興味深いですね。。。
<参考文献>
小金井市史編さん委員会 小金井市教育委員会生涯学習部生涯学習課内『小金井市史 資料編 考古・中世』
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- 2020/05/07(木) 21:49:12|
- 小金井市•国分寺市の塚
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小金井市前原町3丁目の墓地の一角に、1基の塚が残されています。
『東京都遺跡地図』には未登録であるようですが、小金井市内では唯一現存するという希少な塚です。
塚は、野川をのぞむ武蔵野段丘の縁辺に位置しており、付近からは板碑が2点、発見されているようです。ただし、この板碑は発掘調査により発見されたものではなく、この板碑の存在により塚が中世のものである可能性はあるものの、真相は今のところ不明であるようです。
多摩川中流域の古墳はそのほとんどが立川崖線縁辺部に集中しており、国分寺崖線縁辺部では古墳は確認されていないようです。この塚が古墳である可能性は考え難いところかもしれません。
妄想するに、供養塚の一種であるか、ひょっとしたら金井原の合戦に関係する塚という可能性も考えられるのかもしれません。ひょっとしたら、もう少し深追いすると、塚にまつわる伝承等も残されているのかもしれませんが、このあたりもわかりませんでした。

画像は、小金井市緑町3丁目の「小金井市文化財センター」ふたたび。
かなり歴史のある建物で、平成5年に室内を改装して文化財センターとして文化財センターとして開館しているそうです。
ちなみに私はこれまで3回ほど見学に行きましたが、森の中にレトロな建物がひっそりと佇む感じがとっても好きです。ちなみに画像は昨年の秋のものですが、訪れるならやはり秋がお勧めで、何よりも紅葉が綺麗です。東京都文化財ウィークに関連した企画展をやっているのもこの時期です。
私はいつもまず図書館等で調べてみて、どうしてもわからないことがあった時に郷土資料館などで質問してみます。いつも気さくにお教えいただきますし、知識の量も質もすごいです。
実は、今回のこの塚や、以前取り上げた「法印塚」の記事を書くにあたっては、学芸員の先生方に色々とご教授いただきました。感謝しております。
コロナが収束したら、いつかまた遊びに行かせていただきます。
<参考文献>
小金井市『小金井市史 通史編』
小金井市史編さん委員会 小金井市教育委員会生涯学習部生涯学習課内『小金井市史 資料編 考古・中世』
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- 2020/05/05(火) 23:05:40|
- 小金井市•国分寺市の塚
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画像は、国分寺市西元町4丁目に所在する「国分寺市No.13遺跡」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には国分寺史の遺跡番号13番の「中世の塚」として登録されています。
この塚は、国鉄武蔵野線の建設により塚の東側が削り取られることとなり、昭和44年(1969)3月から4月にかけて発掘調査が行われています(画像のフェンスの右側が現在のJR武蔵野線の切り通しで、塚が削られています)。
調査記録がまとめられている『武蔵国分尼寺』によると、塚は一辺が22〜24メートルの方形状を呈しており、旧地表面を平坦に整地した後に暗褐色土を主体に盛土されています。高さは約3.5メートルで、頂部平坦面下1.5メートルのところで、塚の主体部と考えられる約2メートル四方の粘土・黄色土を敷いた遺構が検出されていますが、この遺構は明治時代末の大きな盗掘坑により大部分が破壊されていたようです。

西から見た塚の様子です。
大正12年に発刊された『東京府史蹟勝地調査報告書』では「国分寺に関係を有する一種の”土塔”と認められる」とされていた塚ですが、現在はこの説は否定され、形状が法形状であることや素焼土器や仏具である瓶子が出土していることから、塚は中世に築かれた修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推測されているようです。

画像は、たまたま草が刈られていた時の塚の様子。

画像の道路(切通し)は旧鎌倉街道で、国指定の史跡地内にあることから車両通行止めを実施して保存されています。右側の階段を上ったところが塚の所在地です。

塚の見学の後、「武蔵国分尼寺跡」から」「武蔵国分寺跡」までをぶら〜っと散歩してみました。
公園として整備された一角には「史跡 武蔵国分寺址」と「史跡 武蔵国分尼寺跡」という石碑が建てられています。

JR武蔵野線のすぐ横にある「国分寺市立歴史公園 武蔵国分尼寺跡」の石碑。

画像は「金堂跡」。
本尊をまつるお堂で、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物です。
屋根の大きさに築かれた高さ1mほどの基壇上に建てられていました。

河原石による乱石積基壇や雨落石敷、階段などの痕跡は一切残っていなかったものの、かろうじて残存していた基壇掘り込み部(版築土)の規模と地上部の規模をほぼ同じと考えて、東西26.7m、南北18.5mに復元したそうです。

「斜めに立つ幢竿跡」です。
柱の抜き取り痕跡が54度前後で斜めに観察されたもので、なぜ柱が斜めに建てられたのかはよくわかっていないようです。

「尼坊跡」です。
尼僧の住まいで、行動の背後に建てられていたそうです。
柱の下にあったはずの礎石70個は全て失われていたようですが、基礎工事の礎石据付堀方が規則正しく並んでおり、全ての柱石が復元できるそうです。

JR武蔵野線を挟んで東側、「武蔵国分寺跡」に移動します。
その道すがら、国分寺市文化財資料展示室に立ち寄りました。
中学校の特別教室に、校地出土品を中心に市内遺跡の発掘調査結果が展示がされている、入場無料の展示室です。

展示室内部の様子。
住田正一古瓦コレクションのうちの、東山道、東海道諸国の古瓦が大量に展示されています。

「武蔵国分寺跡」まで歩きました。
「史跡 武蔵国分寺址」の石碑が大木に取り込まれていて、いい感じヾ(o´∀`o)ノ

画像は「金堂跡」。
本尊仏を安置する建物で、基壇の高まりとともに19個の礎石が当時のまま残されていたそうです。

同じく、「金堂跡」の基壇上の様子です。

画像は「講堂跡」。
経典の講義が行われた建物で、8世紀中頃に創建されましたが、9世紀後半に大規模な工事が行われ、東西両側に増築されて金堂と同規模である桁行7間の四面庇建物として建て替えられたそうです。この基壇が復元されています。
武蔵国分寺創建期の瓦の約8割は埼玉県比企郡鳩山町の東日本最大級の古代窯業移籍「南比企窯跡群」で生産されたそうです。
復元された基壇の瓦は、鳩山産の粘土を用いて鳩山町農村公園内に復元された古代窯で焼成して、この場所に運ばれたそうです。

国分寺市の重要有形文化財の「国分寺楼門」。
米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものだそうです。このあたりまで来ると、「ここは東京だよね?」という気になってきましたが、中央線沿線としてはなかなか奇跡的な光景です。。。

国分寺市重要有形文化財に指定の「旧本多家住宅長屋門」。
田舎に行くと、綺麗な長屋門もまだまだも見られますが、都内ではこうして文化財として指定されて保存されたものしか見かけなくなった気がしますね。
桜が咲く春先か、紅葉に染まる秋に訪れていれば、綺麗だったかも。

JR西国分寺駅までの帰り道。
マンションが立ち並ぶ一角に、古代官道である「東山道武蔵路」が残されています。
画像の右側に見えるのが東京都立多摩図書で、ここには何度か古墳について調べに訪れていたにもかかわらず、この東山道の存在はずっとスルーしたままだったというていたらく。。。
<参考文献>
小金井市史編さん委員会 小金井市教育委員会生涯学習部生涯学習課内『小金井市史 資料編 考古・中世』
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- 2020/04/06(月) 20:11:20|
- 小金井市•国分寺市の塚
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これまで、府中市内の古墳や塚を探訪する中で、「分倍河原の合戦」について触れてきました。この合戦は元弘三年(1333)五月、新田義貞と北条幕府との戦いで、新田軍に軍配が上がり幕府は倒れます。(府中市内には「首塚」、「胴塚」、「耳塚」、「三千人塚(石仏塚)」 といった、分倍河原の合戦に関係する伝承が残る古墳や塚が、今も残されています。)そしてその後、20年の時を経た正平七年(1352)二月、「金井原合戦」が起こります。
建武(1334〜1338)の頃、南朝と北朝がそれぞれ天皇を主張して、二人の天皇が生まれたことにより、天下を二分する勢力争いとなるわけですが、「金井原合戦」はこの南北の争いの中、両軍合わせて五万余騎のいくさで、戦死者は六百人超えたといわれています。
画像は、小金井市前原町3丁目に所在する「前原神明宮」です。
この神社の西方に、金井原合戦で戦死した武士を葬ったと言い伝えられる「首塚」、「胴塚」と呼ばれる2基の塚が存在したといわれています。

前原神明宮境内のようすです。
この神社の祭神は天照皇大神で、天正十三年(1585)八月二十一日、豊臣秀吉の時代の創祀と伝えられています。
何か、首塚や胴塚に関する痕跡が残されていないものかと境内を散策しましたが、何も見当たらないようです。。。

梶家墓地です。この墓地にほど近い、野川を望む場所にかつて首塚と胴塚が所在したといわれています。
この2基の塚は昭和初期までは残されていたようですが、この頃にはどちらが首塚でどちらが胴塚なのか知る人もなく、このうちの1基は当時発掘が行われたものの何も出土しなかったともいわれています。
塚には石塔が建てられていたということですが、この石塔は残されていないのでしょうか。

墓地内のようすです。
立ち入ることはできないので、近くで確認することはできません。
首塚、胴塚に関係する石造物が存在するのでしょうか。

同じく墓地内南側の石碑。
まさかここが首塚の跡地では???

墓地内北側の石碑。
帰宅してから画像を拡大してみてみましたが、詳細は分からず。
首塚の石塔は残されていないのかもしれません。。。

戦前にこの一帯は買収され、モーリ農園という農場に転用されて、鶏舎が建つ囲いの中に塚はしばらく残されていたようです。しかしその後、開発により塚は崩され、この一帯は住宅地へと変わりました。
地元の篤志家の中川春明氏が、野に果てた武士の菩提を弔うため、昭和初期に「新足神社」と命名した祠を建立して、毎年神主を招いて供養していたそうですが、戦後に土地所有者が変わったことにより取り壊され、跡地に六角堂が建てられたものの、このお堂も開発により取り壊されてしまったそうです。
実は、古くからこの地に住む奥様に、「モーリ農園」を調べてみると何か分かるかもしれないよ、と教えていただき、また六角堂の跡地の場所も教えていただきました。長話におつきあいいただき申し訳なかったです。
跡地は開発により宅地となっているようです。

このあたりなんて、道が円形に左にカーブしていて、塚の跡なのでは?と妄想しましたが、気のせいですよね。。。

野川です。のどかでいい感じ。
この川を望むどこかに2基の塚が存在したはずです。

画像は、小金井市緑町3丁目に所在する小金井市文化財センターです。
こちらに、首塚付近から出土したとされる蔵骨器が展示されているといううことで、早速見学に行ってみました。

画像が、首塚の付近から出土したという蔵骨器です。
鎌倉時代末期の13世紀後半から南北朝時代の14世紀前半のもので、小金井市の登録有形文化財となっています。
蔵骨器は、火葬した人骨を入れて埋葬するための容器で、昭和10年頃、現在のわかたけ幼稚園の南側にあったモーリ農園から出土しています。出土地点はかつて中丸の首塚と呼ばれた付近で、掘り出したモーリ農園の経営者である毛利竜三氏は、ここを金井原合戦の戦死者の墓であると考え、六角堂を建設して供養してきましたが、昭和40年頃に六角堂が撤去されることになり、蔵骨器は小金井市に寄贈されました。
蔵骨器は、愛知県知多郡知多町周辺の窯で制作された行基焼と呼ばれる焼き物と推定されており、窯印が二ヶ所に刻印されているそうです。
この蔵骨器の存在により、「首塚」は少なくとも古墳ではなかったと考えられます。。。

小金井街道と霊園通りの分かれ道の三角地に、「金井原古戦場の碑」と小金井市教育委員会による説明板が設置されています。
まるで塚みたいですね。
説明板には次のように書かれていました。
東京都指定旧跡
金井原古戦場
所在地 小金井市前原町一帯
(小金井市前原町三丁目一番地
前原坂下交差点)
標 識 大正一五年四月
指 定 昭和三〇年三月二八日
金井原古戦場は、南北朝時代に起こった武蔵野合
戦の戦場のひとつで、北朝の足利尊氏と南朝の新田
義興・義宗兄弟の軍勢が激突した場所です。
室町幕府の内部抗争に端を発した観応の擾乱の最
中、観応二年(正平六年)(一三五一)に北朝の足
利尊氏は、対立していた弟の直義を追討するため、
南朝に降伏する形で講和する「正平一統」を行いま
したが、翌年には南朝方の京都への進攻を機に、こ
の講和は破錠します。時を同じくして、新田義貞の
子、義興・義宗兄弟が、後醍醐天皇の皇子宗良親王
を奉じて、関東で挙兵します。観応三年(正平七
年)(一三五二)閏二月二〇日、新田兄弟は人見原
(府中市)から金井原にかけての一帯で尊氏の軍勢
と戦い、義宗が尊氏を打ち破ります。この時、尊氏
は石浜(台東区)まで敗走しました。この金井原の
地が、現在の小金井市前原町付近と考えられていま
す。
昭和三四年、小金井市により、霊園通りと小金井
街道の交差点に「史蹟 金井原古戦場」碑が建立さ
レました。
平成二八年三月 建設
東京都教育委員会

金井原古戦場の碑です。
<参考文献>
皆木繁宏『小金井小次郎伝』
芳須緑『小金井風土記』
小金井市史編さん委員会『小金井市史 通史編』
小金井市史編さん委員会『小金井市誌 Ⅱ 歴史編』
小金井市史編さん委員会『小金井市誌 Ⅵ 今昔ばなし編』
現地説明板
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- 2019/12/16(月) 23:51:49|
- 小金井市•国分寺市の塚
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今回の『古墳なう』は、小金井市前原町4丁目に所在したとされる「法印塚」です。東京都教育委員会よりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には小金井市の遺跡番号23番に登録されており、築造された時代不明の「塚」とされています。
さて、この法印塚を語るには、前原町3丁目の神明社に隣接してあったという光明院に触れなければなりません。画像は現在の神明社です。
光明院は現存していませんが、中世から近世にかけて大きな力を振るった修験道場であったといわれています。明治5年()に修験道は政府によって廃止され、神明社は光明院から分離して独立した神社となり、光明院の当主である良純は名を梶大学と改め、神明社の神官に任命されたそうです。
地元の人たちは光明院の修行僧のことを「前原の法印様」と呼び、病気の平癒や揉め事の解決を願うときにはその祈祷にすがっていました。また、冬至には火渡りの業を行い、真っ赤に焼けた炭火の上を信者に裸足で渡らせて、身の安全を祈ったそうです。
この法印様が亡くなると、信者たちが抱きかかえて運び、高さ3メートルほどの塚を築き、遺骸を埋葬したといわれています。

画像は、前原町4丁目の「いちょう公園」です。『東京都遺跡地図』に「小金井市№23遺跡」として記載されている地点、つまりは、法印様の遺骸が埋葬されたという「法印塚」の推定地とされる場所です。
この一帯はかつては茅原で、雑木や赤松の森がところどころに黒ずんで見えるその間に、法印塚がありました。文化6年(1809)に、太田蜀山人が小金井に花見に来て帰りにこの道を通り、府中の鍵屋に泊まって、この法印塚について書き記しているそうです。

いちょう公園内部には土塁のような盛り土が見られます。「公園」と名付けられているものの、ちょっと不思議な空間が広がっています。これが何かの遺構なのか、ひょっとして法印塚が崩された際の残土なのか、ずっと疑問でした。
『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」にこの塚が取り上げられており、「消滅」とされていますが、昭和34年(1959)には調査が行われているとあり、「径17〜18m、高2m」という規模まで記されています。ただし、「文献」の欄が空欄であることから報告書は刊行されなかったと考えられ、図書館で調べてみても詳細はわかりません。そこで、小金井市文化財センターを訪ねて学芸員の先生にお尋ねしてみたところ、ようやく詳細がわかってきました。
現在の「イチョウ公園」と南側のエルフォレストマンションの敷地には戦時中から横河電気小金井工場が存在しており、戦後~昭和40年代末まではその建物を利用して慶應大学工学部の武蔵小金井キャンパスとなっていました。
昭和40年代末のこの地域に詳しい学芸員の話として、当時すでに塚の痕跡は無く平らな土地だったということで、現在確認できる土地の起伏などは、遺跡とは関係のないものであるということです。
ちなみに、『東京都遺跡地図』に塚の記号が記されている場所はこの「イチョウ公園」で間違いないようですが、正確な所在地はわからなくなっており、あくまで推定地とされています。

エルフォレストマンションの建物と建物の間に、塚状に盛り上がった地形が確認できます。居住者以外は立ち入り禁止であるため、敷地の外から見学するほかないのですが、ひょっとしたら何らかの事情でこの場所に残された法印塚の痕跡なのでは?と妄想していました。が、やはりこの高まりも塚とは無関係であるようです。
昭和34年(1959)に行われたという調査の内容がわからないので塚の性格は不明ですが、立地から考えて古墳であった可能性は考え難いかもしれません。。。
<参考文献>
小金井市誌編さん委員会『小金井今昔ばなし』
芳須緑『小金井風土記』
皆木繁宏『小金井小次郎伝』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2019/12/12(木) 23:04:14|
- 小金井市•国分寺市の塚
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小金井市貫井南町の「庚申塚通り」を東から西に歩くと、貫井南町4丁目11番の分かれ道のところで、この寛政六年庚申塔に突き当たります。この分かれ道を左に向かうと、国分寺薬師堂に通じる旧道です。
庚申塔は、正面に「絶三尸罪」と刻まれた、庚申信仰を伝える希少なもので、左右の側面に道しるべが刻まれています。昭和48年2月には、小金井市の有形民俗文化財に指定されています。

塚の前には、小金井市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
寛政六年庚申塔
高さ七十七cm
市郷土資料
指 定 昭和四十八年二月
この庚申塔は、江戸時代後期寛政六年(一七
九四)に建てられました。正面に「絶三尸罪」
と刻まれ、中国の道教に由来する三尸説をあら
わしており、都内でも珍しく、貴重なものです。
三尸説とは、庚申の日の夜に人が眠ってしまう
と三尸という虫が体から抜け出し、天帝に罪を
告げ、その人が死ぬというものです。そこで、
更新の日の夜は、講中の仲間の人々が飲食を共
にし、眠らずに一夜を明かしたと伝えられてい
ます。
側面に「右小川・すな川道、左こくぶんじ道」
という道しるべがあり、台座には「貫井村講中」
と刻まれています。
平成九年二月二十八日
小金井市教育委員会

庚申塔のようすです。
石質が良くないためか、銘文はほとんど読めない状況です。
塔の前にはいつもお供え物があり、地元の人に大切に祀られているようです。

貫井南町4丁目16番の道路沿いには、「庚申塚通り」のプレートが設置されています。ここは、池の上通りと庚申塚通りの分岐点で、池の上通りは南へ向かうと府中に通じ、北に向かうと清戸(現在の清瀬市)に通じる古道です。
この付近にも、かつては庚申塔が建てられていたようですが、残念ながら現在は撤去されており、この庚申塔が、小金井市文化財センターで12月25日まで行われている企画展「小金井の石造物」で公開されています。

貫井南町4丁目16番の庚申塔です。
「庚申塚通り」の名称が、どちらの庚申塔が由来となっているのかは不明ですが、ひょっとしたら両方なのかもしれません。
最近、分かれ道に建てられた道しるべを兼ねた庚申塚にたまらない魅力を感じてしまっています。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/12/11(水) 04:35:33|
- 小金井市•国分寺市の塚
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野川は、国分寺市恋ヶ窪地域内の湧水に源を発する、国分寺崖線下の東、西元町地区等、数ヶ所から湧出する水を集めて、世田谷区内二子橋近くで多摩川に合流しています。
三鷹市内では「出山横穴墓群」をはじめとする多くの横穴墓が、また世田谷区内では左岸に「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」が、また右岸には「喜多見古墳群」など多くの高塚古墳が造営されています。
「野川」の名称の由来は不明であるようですが、「野の川」「武蔵野の川」という意味であると考えられているようです。
画像は、国分寺市南町3丁目の野川沿いに所在する「野川の不動明王と庚申塚」です。

「庚申塚」と名のつくもので、実際に土で盛られた塚が存在する庚申塚は少なくなっているようですが、この場所にはちゃんと塚が存在します。植え込みに隠れて見えにくいですが、塚には天保三年(1832)の石橋供養塔が造立されています。
石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があるそうです。
この塚の向かいの、野川に架かる不動橋は以前は石橋でしたが、この供養塔が造られたころに石橋になったのではないかと考えられているようです。

右側の庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記念銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれています。
左側の不動明王碑は、村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味で建てられたと伝えられているようですが、いつ誰が造立したのかはわからないようです。この石碑にちなんで、現在の橋の名称が「不動橋」となっています。

現在の「不動橋」の様子。小さな可愛らしい橋ですね。

庚申塚の南側の国分寺街道添いには一里塚が存在したといわれています。この一里塚についてあまり詳しいことはわからなかったのですが、JR国分寺駅南口に設置された地図にはなんと、一里塚の位置が記されていました。

一里塚の跡地周辺のようすです。痕跡は何も残されていないようですが。。。

ひょっとしたらこの分離帯が一里塚の痕跡なのでしょうか?まさか。。。

バス停も「一里塚」。

交差点も「一里塚」。
<参考文献>
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- 2019/11/25(月) 03:19:38|
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