
今回は、東久留米市南沢2丁目に所在する庚申塚の探訪の記録です。
ここは、前回取り上げた西東京市の「石製尾張藩鷹場標杭」の見学後に訪れました。
私はなぜか、分かれ道の間の三角地に築かれた塚が、そしてそこに道標の石塔が建てられているというような光景がたまらなく好きなのでして。。。
開発が進んだ東京でも意外と古い道がそのままの形状で残されていたりして、今でも分かれ道には多くの石塔が残されています。
そこで、現代に昔の風景を妄想するのは楽しいんですよねー。。。笑。
東久留米市は古墳がないので、私が東京在住時代にはあまり深追いできなかった地域なのですが、この場所はあとから知人にお教えいただきました。
ずっと見学のタイミングを伺っていましたが、ようやく最近になって訪れることができました。ヾ(*´∀`*)ノワーイッ

ちょうど坂道になって傾斜する、台地の縁辺部という場所ではありますが、ここは切り通しとなって削り残された地形ではなく、かなり大きな塚が存在したのではないかと妄想(にやり)。
立地的に古墳ではないと思うけれど。。。

塚の上にはお堂が建てられていて、大きな庚申塔が祀られています。
この庚申塔は、元禄七年(1694)に造立されたもので、主尊として青面金剛像、上部左右に日月、下部に三猿、両側に蓮が彫られています。

とても大きな庚申塔です。

現地を訪れて初めて知ったのですが、この横の道は「笠松坂」と呼ばれ、かつて立っていたという大きな松が、在原業平の伝説にみられる「笠懸の松」であるという説があるそうです。
<参考文献>
現地説明板
- 2022/11/19(土) 11:06:23|
- 西東京市•東久留米市の塚
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今回は久しぶりに東京の塚の話題です。
富士街道の、ちょうど西東京市と練馬区の境のあたりに「高塚」という名称の交差点があります。
ここ、ずっと前から気になっていました。
というか、塚の名がつく交差点名はすべて気になっているわけなのですが(笑)。。。

「庚申塚」とか「行人塚」ならともかく、ただ「高塚」というだけなので、名称から塚の性格ま推測することはできないのですが、交差点の名称に使われるぐらいなので、なんらかの塚が存在したのだろうと思ってずっと気になっていました。
富士街道の、旧保谷市と練馬区との境界あたりに一里塚があったのだ、という記述を何かで読んだ記憶があって、確かに富士街道を東に進むと、石神井町7丁目には一里塚の跡地とされる場所があり、「一里塚改築記念碑」が残されていますし、春日町2丁目の富士街道北側には「一里塚子育地蔵尊」が所在します。
また逆に富士街道を西に進むと、現在の西東京市西原町2丁目の六角堂のあたりにも一里塚があったともいわれています。
距離的にも、これらの一里塚跡はなんとなくルーズに4kmおきに存在したようですし、おそらくこの「高塚」の名称の由来は一里塚なのかなあと妄想しつつ、痕跡が何もないままだったことからこの『古墳なう』では記事にしていませんでした。
その後、西東京市の歴史に精通している方からご指摘がありました。
尾張藩の鷹場の区域を示す石杭は土で盛られた塚の上に建てられており、しかも「高塚」交差点の近くが「御鷹場塚」の跡地であるとされており、高塚の名称の由来はひょっとしたらこの「御鷹場塚」である可能性もあるのではないか?ということです。
どうやらこの交差点から若干東寄りの北側に巳の方向に向いた南東御杭が建てられており、当時は「鷹塚」という字名も存在したようです。
「高塚」の語源が「鷹塚」というのは十分にあり得そうですよね。。。
しかも!
この周辺地域に建てられていた「尾張藩御鷹場境界杭」のうちの5本が、某家のお庭にまとめて保存されているヨ、というお話まで聞いて、その日のうちに訪ねて見学を試みました。
しかし、その日は残念ながら誰もいらっしゃらず、庭に建てられている鷹場境界杭が家の入り口からチロっと見えているにもかかわらず、後ろ髪を引かれながら現地を後にしました。。。
その後、すぐに私は東京を離れてしまいましたし、またコロナの影響もあり、なかなか再訪するチャンスもないまま時間が経過していたのですが、今年に入って鷹場境界杭が移設されて公開されているという情報を聞き、ようやく最近になって見学に行くことができた、という状況です。

現在、石製尾張藩鷹場標杭が置かれているのはこのゴルフセンターの敷地内です。
場所は把握していましたので迷わず来られましたが、鷹場標杭は植え込みの中にあると聞いています。
どこにあるのかな。。。

鷹場標杭はここ。
人に見せる気がまったく感じられないというか、むしろ隠しておきたいぐらいの感じがちょっと笑えました。
まあ、誰かにイタズラされてしまうよりはマシかもしれませんが、何年か経って植え込みが茂ってきたら隠れてしまいそうです。笑。

西東京市教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれていました。
西東京市指定文化財第三十一号
石製尾張藩鷹場標杭
江戸時代の多摩・新座・入間郡、百八十五か村に、尾張藩徳
川家の鷹場が設けられ、上保谷村はその東南の隅に位置してい
ました。享保二年(1717)以後、鷹場をかこんで境界線に
八十三本の石杭が立てられ、そのうち上保谷村の村境には、九
本の御定杭がありました。幕末に鷹場は廃止され、多くの杭が
廃棄されましたが、上保谷村では五本が保存されました。正面
の銘文と記録により、小字「柳沢」・「下野谷」・「坂上」に
立っていたものであることがわかります。このようなまとまっ
た保存は、新座郡蓮沼村(埼玉県志木市)の四本と神保谷村の
みです。尾張藩の鷹場は、武蔵野の村むらの生産と生活に大き
く影響し、農民にさまざまな負担が課せられました。この御定
杭は、鷹場の歴史を表す遺物として貴重なものです。
平成四年十二月
西東京市教育委員会

というわけで、「高塚」の名称の由来はわからないままなのです。
が、多分、一里塚か御鷹場塚のいずれかである可能性は高いかも。
また何かわかったらこっそりと書き足します。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2022/11/13(日) 21:14:25|
- 西東京市•東久留米市の塚
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さて、今回紹介するのは、ほんの十数年前まで存在していたという塚。
西東京市住吉町5丁目の「南入経塚」です。
この塚は以前に一度、令和元年(2019)9月2日の『古墳なう』で取り上げましたが、この時すでに開発により塚は消滅しており、跡地の写真を公開したのみでした。
しかし、その後なんと!たきしーた氏により、往時の南入経塚の姿を収めた写真をご提供いただきました。今回は、残存する南入経塚の姿を公開します!

1枚目の写真は、平成19年(2007)10月の南入経塚です。
すぐ隣にまで宅地化の波が押し寄せてはいるものの、まだ塚は良好に残存しているようです。
この塚は古くから経塚、天王山、弾中塚などと呼ばれ、古墳ではないかとする説もあったようです。
しかし、平成20年に行われた発掘調査の結果、周溝等の付帯施設が発見されなかったことから、少なくとも塚は古墳ではなく、また、経典なども出土しなかったことから、経塚であることも確認されなかったようです。
ただし、これも最近になって知ることができたのですが、昭和43年発行の『郷土誌「保谷」4号』に掲載されている座談会の記録の中にこの南入経塚の記述が見られ、塚は大正時代に一度発掘が行われており、この際に南無妙法蓮華経の経文を書いた石が出土したといわれているそうです。
昆虫食ならbugoom(バグーム)

同じく、平成19年(2007)10月の南入経塚です。
ちなみに、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「鐘塚 村の北にあり 経塚 村の南にあり 相伝うこの二つの塚は、隣村小榑村妙福寺開山日延聖人改宗の日、経文及び鐘をこのところへ埋め、その上へ塚を築きたる」とあり、昭和10年に書かれた『武蔵保谷村郷土資料』にも「昔は塚の上に一本の古松が生えており、人びとは御経文が埋めてあるのだといった」と記されています。
大正時代に出土したという経石の所在はわからなくなっているようですし、平成20年の発掘調査の時点でこの経石が全く残されていなかったというのも不思議な気がするのですが、これらの状況証拠からすると、少なくとも南入経塚が古墳である可能性はなく、経塚である可能性が極めて高そうです。

写真は、翌年の平成20年(2008)6月の南入経塚です。
発掘調査の真っ最中という貴重な写真です。
写真の左端に、まだ一部が残存する塚の姿が見えます。
実は、私が最初にこの塚の見学に来たのは平成22〜23年頃だったと思います。当時にGoogleマップで確認すると、杭で囲まれて塚が保護されているように見えたのですが、実際に訪れてみると平らに整地されていて塚はなく、「あれ?ここじゃなかったのかな?」ということになったのですが、あれは発掘調査が終わった後だったのですね。。。

同じく、発掘調査の真っ最中の写真です。
小さな女の子がじーっと遺跡の様子を見つめているのがとても興味深いです。
何が気になっているんでしょうかね。笑。
A8.net

塚の跡地の現在の様子です。
左隅の、地下に降りる通路のあたりが南入経塚の跡地ということになります。
古墳は存在しないとされる西東京市内において唯一残存する塚だったのですが、破壊されてしまった現実は返す返すも残念でなりません。。。
<参考文献>
保谷市『保谷市史〈別冊 1〉保谷の石仏と石塔』
保谷市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』
公民館だより編集室『西東京市公民館だより』
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- 2020/06/26(金) 20:22:50|
- 西東京市•東久留米市の塚
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画像は、小平市上水本町2丁目の、旧鎌倉街道が玉川上水の緑地にかかる「鎌倉橋」を南から見たところです。
この橋の西側あたりには、昭和の初期頃まで小さな塚が2基存在したといわれており、この橋の手前の地名は「二つ塚」と呼ばれていました。
この二つ塚は、国分寺市のこの街道沿いの一里塚からちょうど一里の地点にあり、かつては旅人に道程を知らせた旧鎌倉街道十三塚のうちの一つであったといわれています。
残念ながら、民家の敷地内にあった塚はいつしか開発により姿を消してしまったようですが、「二つ塚」の名称は地名に残されているようです。

画像は立川バスの停留場に残された「二つ塚」。

画像は道路の名称に残された「二つ塚」。
「二つ塚」の文字の真ん中の「つ」が、「ツ」だったり「つ」だったり、まちまちですね。。。
<参考文献>
小平市史編さん委員会『小平市史 地理・考古・民俗編』
小平市教育委員会『郷土こだいら』
芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅 1 上町・山ノ道編』
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- 2020/04/22(水) 20:41:08|
- 西東京市•東久留米市の塚
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「南入経塚」は、旧保谷市にあたる西東京市住吉町5丁目に所在した塚です。『東京都遺跡地図』には西東京市の遺跡番号7番の塚として登録されています。
残念ながらすでに消滅した塚で、画像は、跡地周辺に建てられた説明板に掲載されていた、往時の南入経塚の姿です。
この塚は、白子川の最源流部微高地の縁辺部に立地しており、昭和の時代頃までは周囲は畑地となっていたものの、墳丘上は雑木や雑草が生い茂っており、塚は良好に残されていたようです。
塚は古くから「弾中塚」、「経塚」と呼ばれていました。江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「鐘塚 村の北にあり 経塚 村の南にあり 相伝うこの二つの塚は、隣村小榑村妙福寺開山日延聖人改宗の日、経文及び鐘をこのところへ埋め、その上へ塚を築きたる」とあり、昭和10年に書かれた『武蔵保谷村郷土資料』にも「昔は塚の上に一本の古松が生えており、人びとは御経文が埋めてあるのだといった」と記されています。
そして、昭和51年の『保谷の石仏と石塔(一)』では『新編武蔵風土記稿』を引用したうえで、「経塚の由来は、あるいは正しいのかもしれない。しかし、経塚から経文が出土しない限り、断定はできない」としており、さらには昭和62年の『保谷市史 通史編I 考古』で、「各地において古墳の発掘調査に際し、後世になってから、その墳丘を利用して中世の墳墓が設けられたり、経塚が造営されていたりあるいは経文が埋められていたりする例が数多く発見されている。したがって、経塚との伝承があったとしても、実際に経塚、あるいは経石の埋納があったにせよ、それをもってただちに経塚と断定することはできない。だからといって、この塚が古墳であるとも断定はなし難いが、墳丘の形状からみるならば、その可能性は十分にあるといいうる。いずれにしても、それは発掘調査によって決定されるべきであろう。ここではいちおう、古墳(円墳)としておくことにしたい。」と、墳丘の形状や墳頂部に平坦地があることから、古墳ではないかと考えられていたようです。

塚の跡地周辺の現在の様子です。
東西に走る西武池袋線と南北に走る伏見通りの立体交差となっている場所で、塚は発掘調査が行われたのちの平成20年に消滅。現在は、跡地に西東京市により設置された説明板が建てられています。
画像の中央のあたりに説明板が見えますが、実際の塚はこの説明板の西側あたりに存在したようです。
発掘調査の結果、周溝等の付帯施設が発見されなかったことから少なくとも塚は古墳ではなく、また、経典なども出土しなかったことから、経塚であることも確認されなかったようです。
説明板によると、この地がかつての下保谷村と上保谷村の境にあり、また、信仰する宗派の境でもあること、古道(横山道)沿いにあることから、塚それ自体がシンボルとなるような「境塚」であったと考えられているようです。
実際に現地を訪れてみると、塚の跡地は立体交差となっている伏見通りとは微妙にずれているようにも見えるのですが、塚を壊さなくても保存することができたのではないかとも考えると、消滅してしまったことは残念です。。。

塚に建てられていた3基の石塔は、現在は下保谷3丁目の「福泉寺」に移設されています。
画像の右は、元文元年(1736)の「題目塔」、左は建立不詳の「題目馬頭観音塔」で、題目塔には大梵天王・帝釈天王が刻まれており、塚は「天王山」とも呼ばれていたそうです。

天明元年(1781)の「題目塔」です。

おまけ。南入経塚跡地の50〜60メートルほど東側、横山道沿いに残る「題目馬頭観世音塔」です。
天保5年(1834)、明治2年(1869)の下保谷村絵図に「死馬捨場」とある場所に造立されている石塔で、供養のために建てられたと考えられています。
この周辺地域もかなり宅地化が進んでいるようですが、こうして畑地の一角に石塔が残る風景は、なんだか懐かしい感じがしますね。。。
<参考文献>
保谷市『保谷市史〈別冊 1〉保谷の石仏と石塔』
保谷市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』
公民館だより編集室『西東京市公民館だより』
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- 2019/09/02(月) 00:25:05|
- 西東京市•東久留米市の塚
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画像は、現在の西東京市芝久保町2丁目、旧田無市に所在する富士塚、「北芝久保富士」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録につかです。
田無で富士講がいつ成立したのかはわかっていないようですが、田無の富士講は丸嘉講で、六つの組のうちの一つである田無組の講中に入っていたそうです。

塚を近くで見たところ。
かつての北芝久保富士は現在よりも高く盛り上げて造られていたようですが、現在は高さ1mほどの小さな塚となっています。

富士講中は先達に引率されて富士山に大勢で登拝して祈願をしましたが、実際に登拝できない人は近くの富士塚に参拝して、家内安全を祈願すれば富士登山したのと同じ後利益があるとされました。この北芝久保富士の塚の上にも、石造の祠が祀られています。

この富士塚は、実はサイクリング中に偶然に見つけて「おお!田無にも古墳状の塚があるじゃないか!」とワクワクしました。笑。
これまで何十年も生きてきて、盛り上げた土を見てワクワクするというおっさんが出来上がっているわけですが、とりあえず安上がりだし、まあいっか、と思う今日このごろです。。。
<参考文献>
田無市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』
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- 2019/08/29(木) 23:06:59|
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画像は、清瀬市上清戸2丁目に所在する「お塚様遺跡」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、清瀬市の遺跡番号64番の「中世の塚」として登録されています。
地元の人には「お塚さま」として知られているこの塚は、昭和50年発行の『多摩の歴史2』には「塚の周囲は数十メートルあって高さは約1メートルほど」とあり、昭和54年発行の『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』には「直径5メートル、高さ0.7メートルの塚」と書かれており、昭和の時代に周囲を削られて小さくなっていったのかもしれません。現在は、開発が進んだ住宅地の中で更に小さくなっているようです。かつては塚上に樹木が茂っていたようですが、今では枝を切られたかつての大木が肩身を狭くしています。

画像は南西から見たお塚さまです。この角度から見ると、マンションの駐車場の一角にひっそりと残されているようすがわかります。貴重な塚ですから、しっかりとした説明板があれば良いと思うのですが、南北朝時代に新田義貞がここを通った時に、愛馬に死なれてしまったことからここに埋めて、供養したという言い伝えが残されているようです。
<参考文献>
武蔵野郷土史刊行会 有峰書店『多摩の歴史2』
江幡潤『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/11/20(月) 00:10:06|
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清瀬市竹丘2丁目に所在する「下里富士」は、清瀬市と東久留米市との境を流れる野火止用水の北側に築かれている富士塚です。武蔵野に多く見られる円錐状の富士塚で、その姿から地元では「三角山」と呼ばれています。

塚の正面の山裾に、石造の明神鳥居が建てられています。富士塚によくあるボク石はなく、赤土が露出した塚上には樹木が茂って塚そのものがこんもりとした森のようになっています。
石碑の数は少なく、明治12年(1879)造立の「小御嶽神社」碑が最古のもので、この種の碑は一般に塚築造の際に塚に立てられるのが普通であることから、この富士塚は文化3年(1806)から明治12年(1879)の間に築造されたことが推定されています。

鳥居をくぐると、頂上に登る石段が直線的に造られています。これは、従前には電光状か「く」の字状に造られていた登山道を、後にこのように直線的になおして、登りやすくしたのではないかと推察されているようです。

山頂のようすです。富士浅間神社が祀られています。
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明版
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- 2017/11/19(日) 00:17:07|
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「中里富士」は、清瀬市中里3丁目に所在する富士塚です。
富士山は古くから信仰対象の山とされており、特に江戸時代中期には富士登拝の風潮が盛んとなりました。しかし、実際の富士登山は経済的負担が大きく、危険が伴うことから、富士登山のできない人々のために各地に富士塚が築かれました。
東京都の有形民俗文化財、また清瀬市の有形文化財として指定されているこの「中里富士」は、円錐状に赤土を盛り上げて築いた高さ12メートルと大型の富士塚で、ボク石は存在せず、頂上への登山道は正面に電光状に設けられています。築造は、中里講社に伝わる「清瀬村中里富士講社起源」と題する文書(大正10年代の記載と考えられている)には文政8年(1825)に再築とあり、さらに「明治7年(1874)春講員ト謀リ、村富士ヲ凡七尺五寸高ク再築シ」と記されています。

富士塚の北側に設けられた鳥居をくぐると登山道は九十九折りに続き、一合目から九合目までの小さな石柱が建てられています。中里富士の石碑は、塚の規模に比べて少なく、頂上の2基と山裾に5基を数えるのみで、名所石はありません。

登山道に向かって右側山麓には、富士山麓の風穴と呼ばれる洞窟をくぐることによって安産の利益があるという胎内巡りを模して掘られた横穴が存在するそうです。当日は気がつかず、写真を撮ることなく見過ごしてしまいました。現在は閉鎖されているようです。富士登山や火の花祭りなどの講行事は現在も継続されており、武州田無組丸嘉講中里講社関係資料は東京都の有形民俗文化財に指定されています。

山頂には石製小祠が2基と石碑2基があり、このうちの明治14年(1881)造立の碑は丸嘉講と武蔵野北部一帯に広がる丸吉講の講紋を彫ってあるもので、正面中央に大日如来と思われる仏像を彫っており、明治維新の際の神仏分離の影響もこの塚までは及ばなかったようです。

毎年9月1日には「富士吉田の火祭り」の再現ともいえる「火の花祭」と呼ばれる行事が現在も行われているそうです。この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を家に持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものだそうです。
<参考文献>
有坂蓉子『ご近所富士山の「謎」』
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明版
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- 2017/11/18(土) 02:25:33|
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