
今回もちょっと脱線。6月18日に現地説明会が行われた「鰭ヶ崎三本松古墳」を紹介したいと思います。
流山市鰭ヶ崎字塚ノ腰に所在する鰭ヶ崎三本松古墳は、流鉄流山線鰭ヶ崎駅からは徒歩5分、JR武蔵野線とつくばエクスプレス南流山駅からは徒歩10分ほどの標高20mほどの台地上に立地します。今回は、まだ一度も乗ったことのなかった流鉄流山線を利用して鰭ヶ崎駅から歩いて現地に向かいました。
流鉄流山線は松戸市の馬橋駅と流山市の流山駅までの全6駅を結ぶ路線です。先週は、鎌倉市由比ガ浜の「長谷小路周辺遺跡」の発掘現場見学会の見学のために久しぶりに江ノ電を利用しましたが、この流鉄流山線も2両編成のレトロでカラフルな電車です。自動改札が無く、改札で駅員さんに切符を手渡しするあたりが懐かしい感じです。。。

鰭ヶ崎駅を降りると、古墳までの道のりは曲がり角のたびに案内板が立てられているので、迷わずに進むことができます。さすがに行き届いています。

坂道の途中で、発掘途中の鰭ヶ崎三本松古墳の後円部がちらりと顔を覗かせています。
この古墳は地元では塚と呼ばれており、この塚の存在が周辺地域の「塚の腰」という字名となっているそうです。

坂を登り切った台地上が古墳の所在地であり、現地説明会の会場です。当日は天気もよく、かなり多くの人が見学に訪れていました。

画像が、鰭ヶ崎三本松古墳を北西から見たところです。かなり発掘が進んでいるためわかり難いかもしれませんが、右手前が前方部、左奥が後円部です。発掘調査は平成27年7月から行われており、全長は約40m、後円部の直径約25m、高さ約2.5mの前方後円墳であることがわかっており、江戸川左岸では、市川市の法皇塚古墳や弘法寺古墳に次ぐ規模の貴重な古墳として位置付けられています。

画像は南西から見た鰭ヶ崎三本松古墳です。こちらから見るとなんとか形状がわかるのではないかと思いますが、左手前が前方部、右奥が後円部です。
この古墳の東側と南側は、昭和30年代後半に宅地造成のための土取りにより削られていて古墳ぎりぎりまで崖となっており、古墳の現状保存は困難であるようです。

手前に見えるのが周溝で、奥に見えるのが後円部です。周溝は幅4m、深さ約0.4m、長さ18mにわたって検出されています。後円部の周囲からは周溝が検出されているものの、中世以降の攪乱により前方部の周囲からは周溝は検出されていないようです。

後円部の墳丘断面のようすです。墳丘の築造の際にちがった種類の土を交互に敷いて叩き締めていく「版築(ばんちく)」の手法を見ることができます。

画像は古墳の全景を北西から見たところです。埋葬施設は今の段階では検出されていないようなのですが、千葉県北部から茨城県の霞ヶ浦周辺にかけての前方後円墳には、墳丘上ではなく前方部と後円部の間のくびれ部の裾の部分に埋葬施設を設けるという特徴がみられることから、今後この場所から埋葬施設が発見される可能性も考えられるとのことなので、このあたりは今後の調査の進展が楽しみですね。

出土した円筒埴輪です。発掘調査により出土した埴輪は様々な場所から発見されており、完全な形を保っているものは殆どなかったようです。完形に近いこの埴輪は貴重ですね。


人物埴輪の破片も多数出土しているようです。

画像は、古墳から移設された現在の「三本松稲荷」です。かつての墳丘上にはこの稲荷神社が祀られており、下総國鰭崎邨古冢碑(しもうさのくに ひれがさきむらこちょうひ)と刻まれた石碑が立てられていました。碑文は漢字で書かれているようですが、『天明の飢饉の時、古くから貴人の墓と伝えられている塚を掘れば宝器があるにちがいないと村人たちが話していました。それを里正(名主)である渡辺充房と子の寅が聞き、米を与えて塚を掘るのを止めさせ、続く睦も塚を守ったので白虎が現れ、村も渡辺家も繁栄した」という内容であるようです。この石碑は現在修復作業が行われているそうで、残念ながら今回見ることはできませんでした。。。
<参考文献>
流山市教育委員会・生涯学習部 図書・博物館『鰭ヶ崎三本松古墳 現地説明会資料』
流山市教育委員会『チェック!流山のむかし』
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- 2016/06/19(日) 02:05:11|
- 千葉県の古墳・塚
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