
画像は、東大井3丁目にある「來福寺」を東から見たところです。このお寺の境内からは、発掘調査により埴輪片が検出されており、古墳の存在が想定されています。『東京都遺跡地図』には「梶原氏館跡」として品川区の遺跡番号22番の遺跡として登録されていますが、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、古墳は登録されていないようです。
來福寺は、平安時代の中期にあたる正暦元年(990)の創建とされています。昨年の9月21日の回の『古墳なう』では、大井1丁目に所在したとされる「納経塚」とその言い伝えについて取り上げましたが、この來福寺は納経塚から掘り出されたとされる二体の地蔵像の一体である「延命地蔵」が本尊で、この地蔵は別名「経読地蔵」とも呼ばれています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはこの来福寺について「境内除地四段一畝十八歩、村の東北にあり」と記し、また天満宮(聖天堂)について「門を入て右の方小高き処にあり」と書かれています。そして、『南浦地名考』にはこの天満宮について「境内に天満宮の社あり、故に始は天神山とも云ひしとぞ」とあり、また「現在は歓喜天を祀ってある。この小高きところは円墳のように考えられる」とも書かれています。
画像が、円墳ではないかとされる「聖天堂」を南西から見たところです。山門を入って右手の塚状に小高くなったマウンドの上にあり、歓喜天が祀られています。山門とともに江戸時代の終りごろに建てられたという古いものであるそうです。
この塚が古墳であるという説は南浦地名考以外には特に見つからなかったのですが、実際に見学したところでは、素人目に見てもいかにも古墳を削って造られたような円形のマウンドです。東大井4丁目周辺に存在する品川大井古墳群から南に2~300メートルという近距離にあり、また同じ台地上の縁辺部という立地状況からしても、このマウンドが古墳である可能性は高いように思われます。

聖天堂(墳丘上?)のようすです。このマウンドが古墳であれば、墳丘上部を大きく平らに削平されているようですが、聖天堂は山門とともに江戸時代の終わりごろに建てられたといわれていますので、古墳もこの頃に削平されたのかもしれません。。。

埴輪片などの遺物が残されていないか表面観察を試みましたが、特にそれらしき遺物を見つけることは出来ませんでした。

聖天堂の背後(北東側)に存在するのが、埴輪片が出土したとされる問題の塚状のマウンドです。残念ながらこの場所はフェンスに覆われていて立ち入ることが出来なかったのですが、聖天堂の土台となっているマウンドが円墳で、聖天堂裏のマウンドも円墳であると考えるには、両者の距離は近すぎる(というよりもくっついている)ように思いますし、ひょっとしたら聖天堂建立の際に削られた古墳の残土の山で、そこかに埴輪が紛れ込んでいた、ということも考えられるのかもしれませんが、このあたりの真相はわかりません。

画像は、南から見たマウンドのようすです。こちらから見ると円形を呈する塚のように見えます。石造物が何基か立てられているようなのですが、落ち葉が降り積もって殆ど見えなくなっています。
発掘調査は狭い範囲に限られていたようなので、埋葬施設や周溝などの詳細はわからないようですが、出土した円筒埴輪は6世紀後半の所産と考えられるもので、これは同じ大井古墳群の「大井林町古墳」から出土した埴輪とほぼ同時期のものであるようです。

南西から見たマウンドのようすです。北西側が來福寺の建物に、まだ北東側がマンションにより削られているようなので、形状については何ともいえないところですが、方形を呈するようにも思えます。こちらから見ると、聖天堂の土台の部分が後円部で、この背後のマウンドが前方部という小形の前方後円墳なのではないかという期待も膨らみますが、このあたりは謎のままです。

來福寺境内のようすです。この築山もまた古墳跡ではないかと妄想してしまいますが、古墳とは関係ないようですね。
<参考文献>
磯ケ谷紫江『南浦地名考』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
品川区立品川歴史館『品川地中探検記』
現地説明板
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- 2017/01/07(土) 04:02:32|
- 品川区/品川大井古墳群
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画像は、品川区南品川5丁目に所在する「海晏寺(かいあんじ)」を東から見たところです。
海晏寺は建長3年(1251)、北条時頼が鎌倉の建長寺の蘭渓道隆を迎えて開いたと伝えられ、その後時頼の息子の時宗の時代に新たな堂が造られて、阿弥陀仏が安置されたといわれています。墓地には、東京都の旧跡に指定されている岩倉具視、白井鳥酔、加舎(春秋庵)白雄の墓があり、また松平慶永、由利公正の墓が品川区の史跡に指定されています。岩倉具視のお墓は本堂の裏手に残されているようですが、残念ながら一般の参拝は認められていないようです。この本堂裏手に、品川区の遺跡番号18番の古墳が登録されています。

この遺跡番号18番の古墳はすでに削平されており、墳丘の存在しない古墳です。都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の品川区大井地区の古墳分布調査により、須恵器高杯、須恵器甕、形象埴輪がそれぞれ1点と円筒埴輪片5点が採集されており、これにより古墳の存在が想定されているようです。
画像の道路の右側あたりが「須恵器及び円筒埴輪片散布域」となるようです。実際にはもう少し奥の方ではなかったかと思います。残念ながらこの場所は見学不可で、立ち入ることが出来ないようですので、路上から見学するより手段が無いのが残念です。遺物はかなり広い範囲から採集されているようなので、古墳が円墳であれば複数の古墳が存在したか、もしくは前方後円墳が存在した可能性も考えられるところですが、真相は不明のままです。

塀の隙間から覗いてみるとこんな感じ。平らに整地されているようなので、はっきりと墳丘が残る古墳は存在しないようです。品川区の史跡として指定されるような墓所ですから、ちゃんと整備して見学できるようになると良いのになあと思うのですが、なかなか難しいですね。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
品川区立品川歴史館『東京の古墳 ―品川にも古墳があった―』
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- 2017/01/05(木) 03:00:40|
- 品川区/品川大井古墳群
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新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

「大井公園内古墳」は、その名の通り、品川区東大井4丁目に所在する大井公園内の築山として存在しています。『東京都遺跡地図』には品川区の遺跡番号20番の古墳として登録されています。画像はこの大井公園内古墳を南東から見たところです。
このマウンドの周辺からは、都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の品川区大井地区の古墳分布調査により円筒埴輪片が採集されています。この埴輪片の発見により、それまで公園の造営時に盛られたものであると思われていた築山が、実は元々存在した古墳を流用したものではないかと考えられているようです。発掘調査は行われていないため、埋葬施設や周溝の有無については不明であるようです。

古墳は盛り土により築造されていますので、夏になれば草が生え、木には葉が茂ります。当然墳形も見難くなりますし、自然の中での古墳探訪はスズメバチに追われたり、蛇が出たりと実はかなり危険で怖いのです。都心部の古墳においてはこのような危険はあまりありませんが、それでもやはり古墳は冬の見学が理想的です。
大井公園内古墳は整備が行われていますので、落ち葉なども清掃され、冬には残存する墳丘をはっきりと見ることが出来ます。公園内には広葉樹が植えられているので、秋になると葉が紅や黄色に色づき始め、秋も深まる11月後半には中旬から下旬が紅葉が深まる古墳の姿を見ることが出来ます。
画像は、秋の大井公園内古墳を南東から見たところです。。。

画像は、大井公園の坂の下に品川区教育委員会により設置されている説明板です。古墳についての記述は見られないものの、江戸時代のこの周辺は下屋敷であり、この下屋敷内に所在したと云われる塚についての興味深い記述が見られます。
説明板には次のように書かれています。
旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡
(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)
東大井4丁目
この地より高台に向かう一帯には、越前国(現・福井県)間部下総守の下屋敷があった。
もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新た
に大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚が
あり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江
藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、
一部は再び伊達家の所有となった。
安政2年(1855)頃の鯖江藩主間部下総守詮勝は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋
御門内(現・千代田区大手町)にあった。
品川区教育委員会 この説明板にある下屋敷の範囲から「高尾太夫の器を埋めたという塚」を現在確認されている古墳に当てはめてみると、「大井公園内古墳」か「大井林町1号墳(伊達家邸内古墳趾・伊達古墳)」、「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」の何れかではないかと考えられます。ただし、当時、2基の林町古墳を発掘したとされる徳川義宣氏著『大井林町古墳』には、1号墳の発掘や2号墳の埴輪片の採集についての詳細な記述が見られるものの、大井公園内古墳についての記述は全く見られないことは不自然にも感じられますし、ひょっとしたら大井公園内古墳は大井公園を造成した際に造られた築山で、都心部遺跡分布調査団により円筒埴輪片が採集されたのは偶然であるという可能性も考えられるかもしれません。
いずれにせよ、この周辺に複数の古墳が存在したことは間違いないと思われますので、今後の調査の進展に期待をしたい地域だと思います。。。

あらためて、季節により移り変わる大井公園内古墳、その1。画像は、南から見た夏の大井公園内古墳です。
これこのとおり、案の定、草ボウボウですね。。。

季節により移り変わる大井公園内古墳、その2。先ほどと同じ、南から見た、色づき始めた秋の大井公園内古墳です。紅葉がきれいです。

季節により移り変わる大井公園内古墳、その3。同じく南から見た、冬の大井公園内古墳です。残存する墳丘のようすをはっきりと見ることができます。

画像は墳頂部のようすです。灰皿が設置されており、喫煙所となっているのが残念なところですね。。。

画像は、墳頂部から北東側を見下ろしたところです。埴輪片が採集されたのはこの辺りだと思われます。この日も表面観察を試みましたが、埴輪片らしき遺物は見られませんでした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
品川区立品川歴史館『東京の古墳 ―品川にも古墳があった―』
現地説明版
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- 2017/01/03(火) 23:12:22|
- 品川区/品川大井古墳群
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「仙台坂遺跡」は、武蔵野台地の東南端にあたる品川区東大井4丁目に所在する遺跡です。「仙台坂」の名称はこの周辺に陸奥国仙台藩伊達家の下屋敷があったことに由来しており、昭和62年(1987)から翌年にかけて行われた、東京都都市計画道路・補助第26号線の仙台坂トンネルの工事に伴う発掘調査では、江戸時代の大名屋敷にちなんだ遺構・遺物が、多く出土しています。また、この仙台坂遺跡の発掘調査により、2基の古墳の周溝が検出されています。この2基の古墳を中心として南北に250mほどの範囲に予てより須恵器や円筒埴輪片といった古墳時代の遺物の散布域が認められており、10基前後の規模の古墳群の存在が想定されています。
画像は、「仙台坂1号墳」の跡地周辺を南東から見たところです。この1号墳の規模は内径約16m、外径約22mの円墳と推定されており、覆土上面や周溝の周囲からは埴輪片が採集されています。画像の道路から左側の集合住宅の駐車場のあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳の痕跡は地上に残されてはいないようです。。。
<参考文献>
品川区遺跡調査会『仙台坂遺跡』
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- 2016/09/04(日) 01:28:43|
- 品川区/品川大井古墳群
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「仙台坂2号墳」は、昭和61年から翌62年にかけて行われた「仙台坂遺跡」の発掘調査により確認された古墳です。調査区西側のA区の北東端部において周溝の南西部分の一部が検出されており、古墳の規模は外径15m、内径9mの円墳と推定されています。この規模は、同じA区の南西隅から検出された1号墳の3分の2ほどで、この規模の違いは、被葬者の社会的地位の差異を明示するものであると考えられているようです。埋葬施設は見検確認であるものの横穴式石室採用以前の竪穴系の主体部を構築したものであると想定されており、6世紀前半から中葉の築造と考えられています。
画像の周辺が2号墳の所在地であると思われます。立体交差の切り通しの道路となっている側道のあたりが古墳の跡地であると思われますが、残念ながら地上に古墳の痕跡を見ることはできません。。。
<参考文献>
品川区教育委員会『仙台坂遺跡』
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- 2016/09/02(金) 02:11:51|
- 品川区/品川大井古墳群
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「大井林町2号墳」は品川区東大井4丁目、現在の品川区立立会小学校の敷地内に所在したとされる、品川区の遺跡番号19番に登録されている古墳です。画像はこの古墳の推定地を南東から見たところで、大井林町2号墳はこの台地上縁辺に存在した前方後円墳であるといわれています。
この古墳の所在地は、前回紹介した「大井林町1号墳」の所在地である旧仙台藩伊達邸の裏庭(現在の大井公園の大半)に隣接する、旧土佐藩の山内家の墓所となっていた場所で、「目黒台」と呼ばれる台地の東端に、戦後まで墳丘が残されていたようです。昭和24年(1949)から翌年にかけて市川健二郎氏の指導のもと、学習院輔仁会高等科史学部により発掘調査が行われ、この発掘に参加した徳川義宣氏により執筆された調査報告が、「大井林町古墳」と「大井林町古墳 補訂」として『品川歴史館紀要』の第11号と第13号に記載されています。
同書によると、当時の残存規模は「東西に約四一メートル、南北に二〇メートル乃至二八メートル、高さ四メートル強の墳頂部は西から一四メートル」で、「西に後円部、東に前方部を展開する前方後円墳」と想定されています。翌昭和25年の発掘では木棺と粘土槨で構成されると考えられる埋葬施設が検出されています。墳丘周辺からは埴輪片や土師器片が採集されており、また南側数メートルには陪塚と考えられる塚の存在も推定されていたようですが、発掘調査が実施されなかったためにこの塚が古墳であったかどうかはわからないようです。

大井林町1号墳とこの2号墳の他に、発掘調査により周溝が検出されている仙台坂1号墳と2号墳、また埴輪片散布地なども含めると、この東大井4丁目周辺には少なくとも6基以上の古墳が存在したということになるようです。もちろん未発見のまま消滅した古墳の存在も考えられるでしょうし、想像するよりはずっと大きな古墳群だったのかもしれませんね。。。

大井林町2号墳の所在地とされる立会小学校に隣接する場所に保存されているのが「山内豊信(容堂)墓」です。鯖江藩主間部下総守の下屋敷があったことから下総山と呼ばれていた場所で、「大井公園内古墳」が残存する大井公園との間の石段を登ったところにあります。
山内豊信とは、土佐藩の第15代藩主で、福井の松平慶永、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城とともに「幕末の四賢候」に数えられる、明治維新の先駆者として幕政に大きな影響を与えている人物で、遺言により、晩年愛したこの地に葬られたそうです。

画像が「山内豊信(容堂)墓」です。このお墓は、古墳(円墳)を思わせる塚状に築かれた盛土に墓石を配されており、かつての古墳群が展開されていた真っ只中に存在することを考えると、形状的にもとても興味深いです。(このお墓が公開されているのは午前9時から午後5時までの間のみで、これ以外の時間は施錠されて立ち入ることができませんので注意が必要です。)
<参考文献>
徳川義宣「大井林町古墳」『品川歴史館紀要』第11号
徳川義宣「大井林町古墳 補訂」『品川歴史館紀要』第13号
品川区立品川歴史館『東京の古墳 -品川にも古墳があった-』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
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- 2016/08/09(火) 00:00:50|
- 品川区/品川大井古墳群
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「大井林町1号墳」は、品川区東大井4丁目に所在したとされる、品川区の遺跡番号19番に登録されている古墳です。画像はこの古墳の推定地周辺を南東から見たところです。
この周辺は、江戸時代前半には幕府の敷地であったため大井村御林町と呼ばれ、昭和7年の二十区制により大井林町と称された後、昭和39年の住民表示制度施行により東大井4丁目と改められた地域です。「目黒台」と呼ばれる台地の東端に位置しており、台地の高さは大井林町周辺で14~15メートルほどとなっています。この台地上、現在の大井公園周辺には旧仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があり、この伊達家邸内から埴輪片が採集されたことにより古墳の存在が想定されています。
この埴輪片の表面採集を行った徳川義宣氏により執筆された「大井林町古墳」によると、埴輪片の多くは円筒埴輪で、中には人物の腕部や水鳥の足かと思われる破片もあり、形象埴輪も含まれていたと考えられています。調査は表面採集のみで周溝の発掘等も行われていないため、墳丘の規模や形状、古墳の基数等は不明であるようですが、埴輪片は八百坪ほどの庭の全面から採集されたものの台地先端部から20~60メートルの範囲の分布密度がが高かったとされ、最長でも50メートル内外の古墳ではなかったかと推定されています。
この大井林町1号墳の所在地とされる埴輪片採集地は、現在は整地が行われて大きなマンションが立ち並び、地形自体が大きく改変されています。画像の中央付近から左右に立ち並ぶマンションあたりまでが埴輪片採集地となるようですが、残念ながら古墳の痕跡を見つけることは不可能な状況であるようです。。。
<参考文献>
徳川義宣「大井林町古墳」『品川歴史館紀要』第11号
徳川義宣「大井林町古墳 補訂」『品川歴史館紀要』第13号
品川区立品川歴史館『東京の古墳 -品川にも古墳があった-』
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- 2016/08/07(日) 03:11:03|
- 品川区/品川大井古墳群
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