
画像は、品川区荏原7丁目に所在する「小山八幡神社」です。
祭神は誉田別尊というこの小山八幡神社は、鎌倉幕府の時代に創立されたといわれています。古来武蔵国荏原郡小山村全体の鎮守であり、元禄年間に同村字三谷に分祀して氏子二分して現在に至っています。
この神社の境内にはかつて古墳跡といわれる小丘があり、この小丘が「小山」の地名の由来となったといわれています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「妙見社 除地三段五畝、字滝ノ原ニアリ、社ハ丘ノ上ニアリ」とあり、また『荏原町誌』には「小山八幡 滝ノ原の高台にあり、字名もこの小高き小山に因るといはれてゐる。」と、「小山」と呼ばれたのは境内に存在する小丘ではなく、文献によっては神社のある高台自体が「小山」であるかのような記述が見られます。
確かに、画像のように、見る角度によっては巨大古墳らしく見えないこともないのですが、この丘陵自体が古墳とは現実的にはちょっと考えにくいです。こういう地形なのではないでしょうか。。。

小山八幡神社境内の様子です。
すでに現在の境内には古墳跡といわれる小丘は存在しないようですが、社殿の土台の部分が周囲よりも一段高くなっています。古墳を削って墳丘上に社殿が造られたのであれば、この土台の部分が古墳の痕跡ということになります。

『大荏原総覧』には「村社小山八幡神社 通称西小山摩耶寺の隣に在り、元妙見八幡と称し神社境内の小丘が小山の地名となったと伝へられてゐる。」とあり、また『昭和二十八年由緒書』には「蓋し境内の小丘(古墳跡)を取りて小山の地名となすと。」と、丘陵自体が「小山」なのではなく、古墳らしき小丘がこの神社の境内に存在したという記述も存在します。
果たして社殿の土台の部分が古墳なのか、それとも境内の別の場所に古墳らしき塚が存在したのか。真相はよくわかりません。

境内社の稲荷社。
八幡神社社殿と地続きでこの場所も一段高くなっています。
よくよく考えると、古墳の所在地が現在の神社の境内とは限らないし、神社の周辺ももう少し散策しておけばよかったのですが、今となっては後の祭り。
一体古墳がどこにあったのか、正確な所在地を突き止めることはできませんでした。
うーん。社殿の土台じゃないのかな。。。
<参考文献>
東京都神社庁品川支部『品川区のお宮』
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- 2020/03/05(木) 19:53:23|
- 品川区/その他の塚
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画像は、品川区荏原1丁目にある「旧中原街道供養塔群」を北西から見たところです。4基の供養塔がこの場所に集められており、保存されています。品川区教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
品川区指定有形民俗文化財
旧中原街道供養塔群(一)
所在 荏原一丁目十五番十号
指定 昭和六十三年三月二十二日(第十九号)
本供養塔群は、かつては現在地の北方約一〇
メートルの辻にあったが、昭和三十八年の区画
整理の際、ここに移されてきた。
四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩
薩は、総高一・九メートルに及ぶ。造立年代は
わからないが、台石に刻まれている十七の村名
や型態からみて江戸時代中期と考えられる。
向かって右の地蔵菩薩は延享三年(一七四六)
寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は
元文元年(一七三六)造立であり、この頃戸越
本村に馬持講があったことを示す。その前にあ
る聖観音は石造墓碑で、貞享年間(一六八四~
八七)に建てられた。
これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の
信仰状況を示すものとして貴重である。
平成十三年三月三十日
品川区教育委員会
設置された説明板によると、この供養塔群は「現在地の北方約10メートル」ほどの場所にあったということですが、『荏原中延史 後編』の付図を確認すると確かにこの位置に塚のマークが記されており、かつては塚の上に供養塔が立てられていたのかもしれません。ただし昭和38年(1963)に発行された『校註南浦地名考』には「四ツ塚 此所に石地蔵あり塚はなし桐ヶ谷戸越居木橋谷山の四ヶ村の出崎なりしと云ふ(註)中原街道の脇にこの石地蔵は現存している。」と書かれています。江戸時代末期には塚はすでに削平されており、供養塔群のみが残されていたのかもしれません。この周辺の地名は古くは「四ツ塚」という字名で呼ばれていることから、複数の塚が存在したのではないかと思われますが、塚の性格や所在地についてはわかりませんでした。

画像が、塚の跡地と考えられる周辺を中原街道側から見たところです。街道沿いにはビルが立ち並び、塚の痕跡は完全に失われているようです。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区誌研究会『校註南浦地名考』
品川区教育委員会『品川の地名』
現地説明板
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- 2016/11/09(水) 22:19:36|
- 品川区/その他の塚
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画像は、品川区旗の台1丁目に所在する「旗の台1丁目石造庚申供養塔」を東から見たところです。中原街道沿いのこの場所にはかつて「長者町庚申塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この塚については昭和29年(1954)に発行された『荏原中延史』に、「長者町庚申塚」の名称で記述を見ることが出来ます。
「中延鎌倉街道の三叉路『旧延山小学校前』に庚申塚がある。寛文五年の供養塔が建ててあり、現在もあるけれども、これは位置が少々変つた。大正十年頃発掘して引ならして跡に交番を建てた。その折人骨が澤山出て來た。石塔も三基発掘された。其の供養塔には寄進者の名前が掘付けてあるけれど、磨滅してはつきりと判らない。(後略)」(『荏原中延史』35ページ) 人骨が出土したということですので、少なくとも庚申塔が立てられる以前からこの塚は存在していたのではないかと思われます。例えば中世の合戦の戦死者を葬った首塚であったのか、それとも古代に築造された古墳であったのか、学術的な調査は行われることなく消滅しているため詳細はわかりません。

庚申供養塔を南から見たところです。遠目に見るとこの場所が周囲よりも若干高く感じられるのですが、これは塚の名残なのでしょうか。。。
庚申塔は品川区の有形民俗文化財に指定されています。現地に設置されている品川区教育委員会による説明板には次のように書かれています。
品川区指定有形民俗文化財
旗の台一丁目石造庚申供養塔
所在 旗の台一丁目一番
指定 昭和六十一年三月十四日(第十七号)
中原街道から分かれて小山に至る旧道の分
岐点にあり、寛文五年(一六六五)旧中延村の
庚申講中が造立したもので、区内現存の庚申
塔五十基のうち三番目に古い。中央に「南無
妙法蓮華経」の髭題目を彫り、その下に石塔
を造立した七名の氏名が刻まれている。
本塔は高さ九二センチメートル、板碑型で材質は安山
岩、向かって右上部に一部欠損が見られるが、
保存状態は概して良好である。日蓮宗の影響
か、青面金剛・三猿・日月が掘られていない
文字塔として特色がある。
全村のほとんどが日蓮宗といわれる旧中延
村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申
講の存在を示す資料として貴重である。
平成十三年三月三十日
品川区教育委員会
庚申供養塔の敷地のようすです。ああ、やっぱりY字路の間の三角地なんだ!と思いましたが、三角畑や三角田は地域によっては不吉なものだとして嫌われていた、と何かの本で読んだ覚えがあるのですが、開発の進んだ東京都内でも庚申塔などの石造物やお稲荷さんの祠などがY字路の間の三角地に残されているという光景は度々目にします。世界でも有数の先進都市でありながらもこうして古いものが残されているあたりが東京の魅力的なところでもあると思います。。。

訪れてみてわかったのですが、この場所は高札場の跡地でもあるようで、道路を挟んだ向かい側には「札場の跡」と刻まれた石碑があり、品川区郷土の会による説明板が立てられています。
中原街道高札場跡
所在 品川区旗の台1−2−14号
高札場は札場(フダバ)といい 江戸時代に高札が掲示
された場所をいう。高札とは法度(法令・禁令)などを板
札に墨書したもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれ
る場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向
かう主要な道路であった。当敷地は芳根氏で徳川時代から
大正時代まで俗称を(札場)と呼ばれていた。
なお同書には東京都認定天然記念物の大欅(樹齢約四百年)
が昭和四十一年まであった。
平成十年十月吉日 品川区郷土の会
さらにこの場所には「木霊稲荷神社」という神社も存在しています。小さな祠の神社ですが、この神社を信仰するものは不思議と願いが叶えられて幸せが訪れることから、別名「不思議稲荷」とも呼ばれているそうです。
帰宅してからあらためて地図を見てみると、この場所は六差路になっているのですね。この周辺は昔は長者町と呼ばれ、資産家が多く暮らしていたといわれているようですが、かなり古くから人通りの多い場所だったのかもしれませんね。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
現地説明版
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- 2016/11/08(火) 01:17:23|
- 品川区/その他の塚
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前回は、品川区中延5丁目に所在したといわれる「新田義興の首塚」を紹介しました。多摩川の矢口の渡しで謀殺された、義興公の遺骸を埋葬したものであるとされる伝説の塚ですが、品川区内にはもう1ヶ所、義興公に関係する塚が存在します。品川区荏原3丁目付近に所在したとされる「權司稲荷塚」は、すでに墳丘は削平されて消滅しているものの、塚にまつわる言い伝えが地元の郷土誌に残されています。
(前略)平塚の塚より北の方え僅かにして平塚橋がある。渡らずに左え入る途がある。目黒碑文谷道である。直ちに左側に小高い稲荷塚がある。權司稲荷と云う。この麓に老松が聳えて居た、唯一の記念を誇るかの様にこの祠により副う様に生えて居た。これは新田義興夫人の塚であるという。法蓮寺向いの入道山麓の夫君の新田義興の塚より離るゝ数丁のこの地に夫人の塚があるのも敢えて不思議とするにあたらぬと思う。但しこの塚は伝説以外に確かな文献に筆者は寡聞にして見当たらない事を惜しむ。(『荏原中延史』33~34ページ)
新田義興夫人の塚 小山にある。中原道平塚橋から目蒲線「武蔵小山」駅に向ってゆくと、右側に製氷会社がある。建物に向って左側の奥に小祠があって稲荷様が祀られている。もとは小さな丘があって老松等がそびえていた。この塚には次の様な伝承がかたられている。
新田義貞の子義興が此附近にきた時に、奥方とも、妾ともいわれる女性がいて、義興が矢口渡しで殺されたことを知って、自害したのが此処で、村人がそのなきがらを埋めて塚をつくったのである。(『近世の品川・民俗編』161ページ) 画像は、品川区中延5丁目の塚の跡地とされる周辺のようすです。この場所は、東急目黒線武蔵小山駅から武蔵小山商店街パルムを南東方面に600〜700メートル程歩いた南側にあたります。開発の進んだこの場所には、二百坪ほどもあったといわれる塚はもちろん、塚の上に茂っていたという三本の老松や權司稲荷の姿を見ることは出来ません。武蔵小山商店街は単一のアーケード商店街として日本一長い商店街として有名で、テレビの情報番組でも紹介されまくっていますので、ご存知の方も多いのではないかと思いますが、町の変貌とともに新田義興公とその夫人の伝説は忘れられてしまったのかもしれません。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区教育委員会『近世の品川・民俗編』
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- 2016/11/05(土) 23:48:30|
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以前、2015年10月22日(木)の回の『古墳なう』にて大田区矢口1丁目に所在する「新田神社」と「新田義興塚」について紹介しました。新田神社は義興公の鎮魂のために建てられた神社であるといわれており、新田義興塚は義興公の墳墓であるとも、また古代の古墳であるともいわれています。矢口周辺には、光明寺の荒塚、大桜大塚といった、新田義興公にまつわる伝説を持つ塚が多く現存していますが、実は品川区内にも義興公の墳墓であるとされる塚が存在したといわれています。この品川区の塚は『東京都遺跡地図』には未登録であり、すでに削平されて消滅しているため正確な跡地もわからなくなっているようなのですが、地元の郷土誌にはこの塚にまつわる言い伝えが残されているようです。
昭和29年(1954)に発行された『荏原中延史』には、この塚について次のように書かれています。
新田義貞の子、義興の塚が法蓮寺の向いの入道山麓にある。義興と言えば誰しも矢口の渡の頓兵衛を想い出すことで悲惨な死を遂げ、新田村に新田神社として祀られたと思うのが普通であるが、事実は然らずで多くの資料や古老の伝説や周辺の狀況に依つて判断するに、入道山葬り説が尤も有力の様である。かの新田神社は、矢口村に義興の靈が現れ祟りが続出するのに恐怖し、後年これを建立したものであつて義興の遺品や遺骸がなかつたものと断ずる事が出來る。この義興の死は劇に講談に昔より盛んに喧伝されたもので、其多くの人の知る処である。(中略)豪勇勤王の念厚き義興の近臣に、二人や三人の眞の勇士があつてよい筈だ。徒らに船中に腹掻きつて何になろう。幾人かは主君の首を掻き切つて、水流を潜り夫人の許に逃れ帰つて、その悲境を報告したものであると云われる。当然なされた事ではあるまいか。其の義興夫人は緣家である、荏原左衛門義宗の館、現存の法蓮寺に居住して居たと云う。勝ち誇つた足利勢は草を分け木を掘りて義興夫人と一族を探索した。幸に義宗の庇護により事なきを得て、密かに義興の遺骸を法蓮寺向いの入道山の片端に埋葬したものであると伝説されて居る。この庚申塚一帯を入道山と稱し、新田義興残党が山中に穴を掘り隱れ住んだものという。筆者この山を掘り返す折幾つかの洞窟を見た、廣さ十数畳位で床の間の様な所もあり、押入れと思われる個所もあり、忠臣新田方の暫しの住ひであつた事と想像し、感慨を禁じ得なかつたものである。因に其の後数十年間の長きに亙り足利の天下であつて、南朝の忠臣楠氏や新田氏の残党は日の目を見られなかつたのである。(『荏原中延史』32~33ページ) 義興の首塚の所在地とされる「法蓮寺の向いの入道山麓」が、正確にはどの地点にあたるのか、なかなか突き止めることが出来なかったのですが、品川区教育委員会より発行された『近世の品川・民俗編』に記述を見つけることが出来ました。同書には次のように書かれています。
新田義興の首塚 中延にある。田園都市線「荏原町」駅の脇を通っている旧鎌倉街道、中通りを馬込の方にむかい、立会川を渡って二つに岐れる三角点に庚申堂が建っている。前には天明年間に建てられた「うの木光明寺と、池上本門寺へ」の道標がある。
ここはもとは塚になっていた。
昔新田義貞の子義興が、矢口の渡しで武田右京、江戸遠江守の為に討たれたが、其内幾人かは生き残って、主人の首をもってひそかに逃げのび、此処まできてその首を埋めた処であると伝へている。(『近世の品川・民俗編』161〜162ページ)
画像が、新田義興の首塚の跡地であるとされる、品川区中延5丁目に所在する庚申堂を北から見たところです。この場所は東急大井町線荏原町駅から南に延びる江原町商店街の道沿いにあたり、周辺にはびっしりと宅地が立ち並んでいます。すでに塚は削平されており、痕跡は全く残されていません。『荏原中延史』に書かれている、新田方の住まいであったという、広さ十数畳位で床の間や押入れと思われる個所のある洞窟とはどんなものであったのか、とても興味深いところなのですが、やはりこれらの遺構も見ることが出来ないようです。
但し、「新田義興の首塚」とされる塚は埼玉県入間市の愛宕神社境内にも存在しています。この入間市の塚が「首塚」で、大田区の新田神社の塚が「胴塚」ということのようですが、史実がいかなるものか、その真相はわかりません。。。

この庚申塚には天明3年(1783)のものとされる道標が立てられており、この道標は品川区の史跡として指定されています。敷地内には品川区教育委員会による説明板が設置されていますが、これはこの道標についての説明板であり、新田義興の首塚に関する記述は見られないようです。
品川区指定史跡
天明三年銘石造道標
所在 品川区中延五丁目十一番十六号
指定 昭和六十一年三月十四日(第二十二号)
この道標は、旧中延村を横断する中
通り(中原街道と池上道を結ぶ)と平
間道(上池上・久ヶ原を経て下丸子で
池上道と合流し、平間に至る)との分
岐点にある。高さが一・一五メートル
で、右うの木(鵜ノ木)光明寺道、左
池かみ道(池上道)と刻まれている。
造立者は不明である。
鵜ノ木光明寺は浄土宗の古刹で、江
戸からの日帰り行程の大寺として、近
世には多くの参詣者が来寺した。
平成二十四年九月三十日
品川区教育委員会<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
品川区教育委員会『近世の品川・民俗編』
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- 2016/11/03(木) 00:01:36|
- 品川区/その他の塚
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「高尾塚」は、品川区東大井3丁目周辺に所在したとされる塚です。すでにマウンドは削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録の、言い伝えにのみ残されている塚です。
画像は、品川区東大井3丁目にある「品川区立浜川中学校」を南東から見たところです。この中学校とその周辺は、1万6千8百坪余の高知藩山内家の下屋敷だった場所で、この敷地内に高尾塚と呼ばれる塚が所在したといわれています。大正12年に発行された『大井町誌』にこの塚についての記述が見られ、「高尾塚。風流なお殿様、仙臺藩主伊達綱宗公の寵愛を満身に引受けた高尾の塚である。綱宗公と高尾の物語りは婢から小童に至る迄知らぬ者はない。この高尾塚は元芝の山の内家邸内にある。」と書かれています。

第一京浜沿いの浜川中学校の敷地内には、品川区教育委員会により設置された「旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡」の説明板が立てられています。残念ながら高尾塚についての記述は見られないようです。
ここから北方に数百メートルほどの東大井4丁目周辺には少なくとも6基の古墳が存在したと考えられており、「大井古墳群」と呼称されています。また、東大井3丁目の来福寺境内の梶原氏館跡からも試掘調査により円筒埴輪が検出され、古墳の存在が確認されています。この来福寺の北方百メートル程の地点には、古墳の可能性も考えられる「梶原塚」が現存します。
高知藩山内家下屋敷であったとされる範囲には浜川中学校北西の一段高くなった台地上も含まれており、この縁辺部に塚が存在したとすれば古墳であった可能性も高いのではないかと考えましたが、高尾塚について書かれた文献は少なく、正確な所在地は詳細はわかりませんでした。
<参考文献>
安田精一『大井町誌』
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- 2016/11/02(水) 01:21:59|
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画像は、品川区東大井3丁目に所在する「梶原稲荷神社」を北から見たところです。この神社の境内には「梶原塚」と呼ばれる塚が残されています。
梶原稲荷神社は建久3年(1192)、征夷大将軍源頼朝の命を受けた梶原平三景時は、武蔵國荏原郡大井村鹿島谷に「萬福寺」を建立したものの、元応2年(1320)に火災により全焼、境内にあった稲荷祠だけが焼け残ったと伝えられています。その後、萬福寺は現大田区の馬込村に再建されますが、稲荷祠だけは来福寺に属してそのまま残されていましたが、近年の都市化により来福寺と梶原塚の間の宅地化が進み、現在のように別々の形態になったようです。

画像は、境内に残存する「梶原塚」を北西から見たところです。稲荷祠は来福寺に移された後も梶原稲荷と尊称されて現在に至っていますが、梶原塚は梶原一族の墳墓ではないかと考えられているようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られ、「来福寺」の項に「梶原塚。境内北の方にあり、景季の墳と云、按に此邊梶原景時父子の舊蹟と云もの多し。巳に馬込村の條にも記せし如く、永禄の頃小田原北條家人に梶原氏のものありて、馬込村を領したるにより後人附會の説を起し、かく景時が舊蹟のやうに云傳へしならん、猶馬込村の條に合せ見べし。」と書かれています。
北東に300mほどの地点には、前方後円墳ではないかと考えられている「大井林町2号墳」の跡地とされる立会小学校があり、古墳群が存在しています。同じ台地上の縁辺部に存在するこの梶原塚が、古代に築造された古墳である可能性も十分に考えられるのではないかと思われますが、発掘調査等は行われていないために詳細はわかりません。

北東から見た梶原塚です。塚は四方を削平されて方形に改変されており、東側に梶原稲荷の社殿が鎮座しています。周囲を宅地に囲まれているので、塚の全景を写真に収めることは出来なかったのが残念ですが、どんな性格の塚なのか、とても興味深い梶原塚です。。。

梶原稲荷神社社殿に設置されていた「梶原塚稲荷祠由来記」です。梶原塚についての記述も見ることが出来ます。
<参考文献>
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
梶原稲荷講『梶原稲荷神社由来記』
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- 2016/10/01(土) 03:20:54|
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前回は品川区大井1丁目に所在したとされる「納経塚」と、塚の伝承を紹介しました。この塚から掘り出されたといわれる二体の仏像のうちの一体は、品川区大井1丁目の三ツ又商店街と池上通りが交差する場所に今も祀られています。画像はこの「三ツ又地蔵」を南西から見たところです。
納経塚の跡地とされる「大井庚申堂」から徒歩30秒ほどの場所にあり、現在の地蔵像は戦後に再建されたものであるそうですが、病魔、難産などの「身代わり地蔵」として現在も地元の人の信仰を集めているそうです。

余談ですが、大井三ツ又地蔵は村松友視の直木賞受賞作品である「時代屋の女房」の舞台となった場所で、昭和58年(1983)に映画化されています。主演が渡瀬恒彦さんと夏目雅子さんで、三ツ又地蔵のある大井三ツ又差点角の「時代屋」という古道具屋が舞台となっており、この時代屋は実際に存在していたそうなのですが、現在は壊されて駐車場となっているようです。私の青春時代に公開された映画で、伝説の夏目雅子さんがとても印象的です。今となってはこの三ツ又地蔵のみが当時の記憶をとどめているのかもしれません。

さて、この三ツ又地蔵の周辺には「大塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。昭和29年(1954)に発行された芳根彌三郎著『荏原中延史 前編』の38ページにはこの大塚について、「大井の大塚は(三ツ又の附近)後年明治中期の頃、或る寺領のものとなり後、この土地の土塊を賣り拂つた折、この大塚も発掘されたその時見物に行つたものであるが、その塚の眞中頃に大きな井戸の様な洞穴があつたが、今に疑問に思つて居るが察するに狐狸の巣ではなかつたかと思う。明治初年頃は、狐や狸がこの大塚に数知れぬ程巣食つていて、この近郷に跳梁したものであるが、その本據が皆この大塚であつた事は、一般の知る処であつた。」と書かれています。塚が取り崩された際の「塚の中央あたりに洞穴が存在した」という記述はいかにも古墳の石室を連想してしまいますし、東大井4丁目周辺に展開する「大井古墳群』からかなり近い距離にあることもあり、この大塚が古墳であった可能性も考えられるのではないかと思われますが、明治中期に消滅したこの塚の学術的な記録はなく詳細は不明で、正確な所在地も突き止めることは出来ませんでした。
ちなみに、狐窪と呼ばれていた付近にも「大塚」という字名があり、大きな塚があったといわれていますが詳細はわからず、左近山にも五間(9m)四方の塚があったようですが、いずれも正確な所在地はわからなくなっているようです。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史 前編』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
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- 2016/09/23(金) 01:54:33|
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画像は、品川区大井1丁目に所在する「庚申堂」を東から見たところです。池上道に面するこの場所には古来より「納経塚」と呼ばれる塚があったといわれています。
塚上には榎の木が一本あったことから「一里塚」、または「庚申塚」ともいわれていたようですが、『南浦地名考』には「経塚 品川原の内池上道の傍にあり、来福寺地蔵尊縁起に頼朝卿書写納経の所とあり、村持にして今は庚申の石塔あり、此辺畠中に稲荷の祠あり山谷の稲荷と云ふ」とあり、また『大井町誌』には「(前略)果たして賴朝が書寫したものかどうかは解らないが一種の經塚であつた事は事實らしい。其後此邊で合戰して討死した武士を埋葬した様である。近年此地を穿つたときに人骨が現はれたことがある(後略)」とも書かれています。
庚申堂の前には、來福寺による説明板が立てられており、次のように書かれています。
庚申堂
この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに
古くは、右大将頼朝卿が、戦死諸兵供養の
為に写経を埋められたので、その当時は納
経塚といわれていた。
後柏原帝の文亀元年(一五〇一年前)梅巌と
いうお坊さんが、この塚の傍を通られると、
土中より読経の声を聞かれて、仏体を掘出
された。当時内乱で行方知れずであった、
來福寺(東大井三丁目)の本尊延命地蔵尊
であることがわかり寺に迎えて再び安置さ
れた。その為にこのご本尊は、別名経読地
蔵尊といわれるようになった。
戦後地元有志の方々が、堂を建立された。
現在も來福寺所管の境外仏堂で、縁日は
毎月一日・十日・二十日。
尚毎年「かのえさる」の日に、庚申祭り
の修法をいたします。
平成二十七年十二月
所管寺院 來福寺
さて、源頼朝が戦没諸兵の供養のために写経を埋めたといわれる「納経塚」ですが、数百年後の文亀元年(1501)、梅巌という僧が塚を通りかかったところ、経塚の中からお経を読む声が聞こえてきたそうです。おどろいた梅巌が土を掘りおこしたところ、二体の仏像があらわれ、お経も聞こえなくなったといわれています。
行者が生きたまま埋葬され、即身成仏したという伝承に基づく「行人塚」の伝説は東京都内でも各地に残されているようですが、お経を読む声が聞こえた場所を掘りおこして仏像が出土するという事例はなかなか興味深いところです。
塚から掘り出されたといわれる二体の仏像のうちの一体は、東大井3丁目の來福寺の本尊として祀られており、「延命地蔵」と呼ばれています。また、もう一体は「三ツ又地蔵」として三ツ又商店街と池上通りが交差する場所に今も祀られており、庶民の信仰を集めています。
納経塚は、東大井4丁目周辺に確認されている「大井古墳群」からかなり近い距離にあり、古墳であった可能性も考えて調べてみましたが、これらの言い伝えからするとどうやら古墳ではなかったのかもしれません。。。
<参考文献>
安田精一『大井町誌』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
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- 2016/09/21(水) 00:34:34|
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画像は、品川区大井7丁目にある「庚塚稲荷」を南から見たところです。この池上通りに面する庚塚のある周辺は、寛政期以前から大井村の中心地であり、稲荷の祠は小高い塚の上に祀られていたことから「庚塚稲荷」と呼ばれていました。「庚塚」は明治9年の地租改正以降に字名となり、昭和7年からは大井庚塚町となりましたが、昭和39年の住居表示実施により大井7丁目となり、庚塚の名称は消滅しています。
この、かなり知られた存在であったと思われる庚塚は多くの郷土史に記述が見られ、『南浦地名考』には「(庚塚)池上道の内百姓の居屋敷にあり、稲荷の祠あり庚塚稲荷と云ふ、金塚と云ふ、又鐘鑄塚なりとも云ふ、又庚申の塚と云ふを庚塚とも云へり、此近辺の惣名となれり」とあり、また『大井町誌』には「(庚塚)町の西にある。庚塚稲荷の祠が在るので云ふ。又金塚とも云ふ、庚申塚が在るからである。東西三町三拾間南北二町五拾間余り。」と書かれています。

画像は北西から見た現在の庚塚稲荷です。現代の建物に取り込まれてしまったようにも見える庚塚稲荷ですが、よく観察すると塚状に高くなった上に祠が祀られています。果たしてこれが塚の痕跡なのか、それとも他の場所から移されたものであるかはわかりません。東京湾に面する台地縁辺部に近い位置に所在する塚ということで古墳の可能性も考えたのですが、学術的な調査は行われていないようなので塚の性格まではわかりませんでした。大井古墳群から多少距離のあるこの周辺地域に古墳は存在しなかったのでしょうか。。。

塚上のようすです。境内には「縁者一同」による「稲荷縁起」の説明板があり、「霊験あらたかなる当稲荷は この地が江戸と呼称される以前にさかのぼる大井の庄の頃より土地の人々に愛され あがめられてきた由緒ある存在である 家内安全 無病息災 子宝授与 蓄財万全 旅の安全 祈願成就 等多くのお恵みにより 万民の幸福を約されている 平成の良き日にあたり改めて縁を起毫するものなり 平成二年吉日 縁者一同」と書かれています。

「庚塚」は、周辺の公園の名称に残されているようです。。。
【追記】
その後、このお稲荷様について、近隣で生まれ育って50余年という地元の方からコメントをいただきました。
この神社を所有する建物の場所は以前は砂利の露天駐車場で、そこに一間四面くらいの板張りの堂と鳥居一基があったそうです。この当時は駐車場と同じ高さの社地だったそうなので、少なくとも現在の祠の土盛は塚の痕跡ではなく、現代の建物の建築に伴い盛られたものであるようです。
『南浦地名考』が発行されたのは昭和26年(1951)ですので、戦後にはまだ塚のなんらかの痕跡は残されていたのかもしれませんが、昭和40年代には、整地されて消滅してしまっていたようです。。。
<参考文献>
安田精一『大井町誌』
品川区教育委員会『品川の地名』
磯ケ谷紫江『南浦地名考』
現地説明板
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- 2016/09/13(火) 01:23:52|
- 品川区/その他の塚
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