
画像は、品川区荏原7丁目に所在する「小山八幡神社」です。
祭神は誉田別尊というこの小山八幡神社は、鎌倉幕府の時代に創立されたといわれています。古来武蔵国荏原郡小山村全体の鎮守であり、元禄年間に同村字三谷に分祀して氏子二分して現在に至っています。
この神社の境内にはかつて古墳跡といわれる小丘があり、この小丘が「小山」の地名の由来となったといわれています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「妙見社 除地三段五畝、字滝ノ原ニアリ、社ハ丘ノ上ニアリ」とあり、また『荏原町誌』には「小山八幡 滝ノ原の高台にあり、字名もこの小高き小山に因るといはれてゐる。」と、「小山」と呼ばれたのは境内に存在する小丘ではなく、文献によっては神社のある高台自体が「小山」であるかのような記述が見られます。
確かに、画像のように、見る角度によっては巨大古墳らしく見えないこともないのですが、この丘陵自体が古墳とは現実的にはちょっと考えにくいです。こういう地形なのではないでしょうか。。。

小山八幡神社境内の様子です。
すでに現在の境内には古墳跡といわれる小丘は存在しないようですが、社殿の土台の部分が周囲よりも一段高くなっています。古墳を削って墳丘上に社殿が造られたのであれば、この土台の部分が古墳の痕跡ということになります。

『大荏原総覧』には「村社小山八幡神社 通称西小山摩耶寺の隣に在り、元妙見八幡と称し神社境内の小丘が小山の地名となったと伝へられてゐる。」とあり、また『昭和二十八年由緒書』には「蓋し境内の小丘(古墳跡)を取りて小山の地名となすと。」と、丘陵自体が「小山」なのではなく、古墳らしき小丘がこの神社の境内に存在したという記述も存在します。
果たして社殿の土台の部分が古墳なのか、それとも境内の別の場所に古墳らしき塚が存在したのか。真相はよくわかりません。

境内社の稲荷社。
八幡神社社殿と地続きでこの場所も一段高くなっています。
よくよく考えると、古墳の所在地が現在の神社の境内とは限らないし、神社の周辺ももう少し散策しておけばよかったのですが、今となっては後の祭り。
一体古墳がどこにあったのか、正確な所在地を突き止めることはできませんでした。
うーん。社殿の土台じゃないのかな。。。
<参考文献>
東京都神社庁品川支部『品川区のお宮』
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- 2020/03/05(木) 19:53:23|
- 品川区/その他の塚
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画像は、品川区荏原1丁目にある「旧中原街道供養塔群」を北西から見たところです。4基の供養塔がこの場所に集められており、保存されています。品川区教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
品川区指定有形民俗文化財
旧中原街道供養塔群(一)
所在 荏原一丁目十五番十号
指定 昭和六十三年三月二十二日(第十九号)
本供養塔群は、かつては現在地の北方約一〇
メートルの辻にあったが、昭和三十八年の区画
整理の際、ここに移されてきた。
四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩
薩は、総高一・九メートルに及ぶ。造立年代は
わからないが、台石に刻まれている十七の村名
や型態からみて江戸時代中期と考えられる。
向かって右の地蔵菩薩は延享三年(一七四六)
寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は
元文元年(一七三六)造立であり、この頃戸越
本村に馬持講があったことを示す。その前にあ
る聖観音は石造墓碑で、貞享年間(一六八四~
八七)に建てられた。
これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の
信仰状況を示すものとして貴重である。
平成十三年三月三十日
品川区教育委員会
設置された説明板によると、この供養塔群は「現在地の北方約10メートル」ほどの場所にあったということですが、『荏原中延史 後編』の付図を確認すると確かにこの位置に塚のマークが記されており、かつては塚の上に供養塔が立てられていたのかもしれません。ただし昭和38年(1963)に発行された『校註南浦地名考』には「四ツ塚 此所に石地蔵あり塚はなし桐ヶ谷戸越居木橋谷山の四ヶ村の出崎なりしと云ふ(註)中原街道の脇にこの石地蔵は現存している。」と書かれています。江戸時代末期には塚はすでに削平されており、供養塔群のみが残されていたのかもしれません。この周辺の地名は古くは「四ツ塚」という字名で呼ばれていることから、複数の塚が存在したのではないかと思われますが、塚の性格や所在地についてはわかりませんでした。

画像が、塚の跡地と考えられる周辺を中原街道側から見たところです。街道沿いにはビルが立ち並び、塚の痕跡は完全に失われているようです。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区誌研究会『校註南浦地名考』
品川区教育委員会『品川の地名』
現地説明板
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- 2016/11/09(水) 22:19:36|
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画像は、品川区旗の台1丁目に所在する「旗の台1丁目石造庚申供養塔」を東から見たところです。中原街道沿いのこの場所にはかつて「長者町庚申塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この塚については昭和29年(1954)に発行された『荏原中延史』に、「長者町庚申塚」の名称で記述を見ることが出来ます。
「中延鎌倉街道の三叉路『旧延山小学校前』に庚申塚がある。寛文五年の供養塔が建ててあり、現在もあるけれども、これは位置が少々変つた。大正十年頃発掘して引ならして跡に交番を建てた。その折人骨が澤山出て來た。石塔も三基発掘された。其の供養塔には寄進者の名前が掘付けてあるけれど、磨滅してはつきりと判らない。(後略)」(『荏原中延史』35ページ) 人骨が出土したということですので、少なくとも庚申塔が立てられる以前からこの塚は存在していたのではないかと思われます。例えば中世の合戦の戦死者を葬った首塚であったのか、それとも古代に築造された古墳であったのか、学術的な調査は行われることなく消滅しているため詳細はわかりません。

庚申供養塔を南から見たところです。遠目に見るとこの場所が周囲よりも若干高く感じられるのですが、これは塚の名残なのでしょうか。。。
庚申塔は品川区の有形民俗文化財に指定されています。現地に設置されている品川区教育委員会による説明板には次のように書かれています。
品川区指定有形民俗文化財
旗の台一丁目石造庚申供養塔
所在 旗の台一丁目一番
指定 昭和六十一年三月十四日(第十七号)
中原街道から分かれて小山に至る旧道の分
岐点にあり、寛文五年(一六六五)旧中延村の
庚申講中が造立したもので、区内現存の庚申
塔五十基のうち三番目に古い。中央に「南無
妙法蓮華経」の髭題目を彫り、その下に石塔
を造立した七名の氏名が刻まれている。
本塔は高さ九二センチメートル、板碑型で材質は安山
岩、向かって右上部に一部欠損が見られるが、
保存状態は概して良好である。日蓮宗の影響
か、青面金剛・三猿・日月が掘られていない
文字塔として特色がある。
全村のほとんどが日蓮宗といわれる旧中延
村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申
講の存在を示す資料として貴重である。
平成十三年三月三十日
品川区教育委員会
庚申供養塔の敷地のようすです。ああ、やっぱりY字路の間の三角地なんだ!と思いましたが、三角畑や三角田は地域によっては不吉なものだとして嫌われていた、と何かの本で読んだ覚えがあるのですが、開発の進んだ東京都内でも庚申塔などの石造物やお稲荷さんの祠などがY字路の間の三角地に残されているという光景は度々目にします。世界でも有数の先進都市でありながらもこうして古いものが残されているあたりが東京の魅力的なところでもあると思います。。。

訪れてみてわかったのですが、この場所は高札場の跡地でもあるようで、道路を挟んだ向かい側には「札場の跡」と刻まれた石碑があり、品川区郷土の会による説明板が立てられています。
中原街道高札場跡
所在 品川区旗の台1−2−14号
高札場は札場(フダバ)といい 江戸時代に高札が掲示
された場所をいう。高札とは法度(法令・禁令)などを板
札に墨書したもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれ
る場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向
かう主要な道路であった。当敷地は芳根氏で徳川時代から
大正時代まで俗称を(札場)と呼ばれていた。
なお同書には東京都認定天然記念物の大欅(樹齢約四百年)
が昭和四十一年まであった。
平成十年十月吉日 品川区郷土の会
さらにこの場所には「木霊稲荷神社」という神社も存在しています。小さな祠の神社ですが、この神社を信仰するものは不思議と願いが叶えられて幸せが訪れることから、別名「不思議稲荷」とも呼ばれているそうです。
帰宅してからあらためて地図を見てみると、この場所は六差路になっているのですね。この周辺は昔は長者町と呼ばれ、資産家が多く暮らしていたといわれているようですが、かなり古くから人通りの多い場所だったのかもしれませんね。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
現地説明版
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- 2016/11/08(火) 01:17:23|
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前回は、品川区中延5丁目に所在したといわれる「新田義興の首塚」を紹介しました。多摩川の矢口の渡しで謀殺された、義興公の遺骸を埋葬したものであるとされる伝説の塚ですが、品川区内にはもう1ヶ所、義興公に関係する塚が存在します。品川区荏原3丁目付近に所在したとされる「權司稲荷塚」は、すでに墳丘は削平されて消滅しているものの、塚にまつわる言い伝えが地元の郷土誌に残されています。
(前略)平塚の塚より北の方え僅かにして平塚橋がある。渡らずに左え入る途がある。目黒碑文谷道である。直ちに左側に小高い稲荷塚がある。權司稲荷と云う。この麓に老松が聳えて居た、唯一の記念を誇るかの様にこの祠により副う様に生えて居た。これは新田義興夫人の塚であるという。法蓮寺向いの入道山麓の夫君の新田義興の塚より離るゝ数丁のこの地に夫人の塚があるのも敢えて不思議とするにあたらぬと思う。但しこの塚は伝説以外に確かな文献に筆者は寡聞にして見当たらない事を惜しむ。(『荏原中延史』33~34ページ)
新田義興夫人の塚 小山にある。中原道平塚橋から目蒲線「武蔵小山」駅に向ってゆくと、右側に製氷会社がある。建物に向って左側の奥に小祠があって稲荷様が祀られている。もとは小さな丘があって老松等がそびえていた。この塚には次の様な伝承がかたられている。
新田義貞の子義興が此附近にきた時に、奥方とも、妾ともいわれる女性がいて、義興が矢口渡しで殺されたことを知って、自害したのが此処で、村人がそのなきがらを埋めて塚をつくったのである。(『近世の品川・民俗編』161ページ) 画像は、品川区中延5丁目の塚の跡地とされる周辺のようすです。この場所は、東急目黒線武蔵小山駅から武蔵小山商店街パルムを南東方面に600〜700メートル程歩いた南側にあたります。開発の進んだこの場所には、二百坪ほどもあったといわれる塚はもちろん、塚の上に茂っていたという三本の老松や權司稲荷の姿を見ることは出来ません。武蔵小山商店街は単一のアーケード商店街として日本一長い商店街として有名で、テレビの情報番組でも紹介されまくっていますので、ご存知の方も多いのではないかと思いますが、町の変貌とともに新田義興公とその夫人の伝説は忘れられてしまったのかもしれません。。。
<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区教育委員会『近世の品川・民俗編』
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- 2016/11/05(土) 23:48:30|
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以前、2015年10月22日(木)の回の『古墳なう』にて大田区矢口1丁目に所在する「新田神社」と「新田義興塚」について紹介しました。新田神社は義興公の鎮魂のために建てられた神社であるといわれており、新田義興塚は義興公の墳墓であるとも、また古代の古墳であるともいわれています。矢口周辺には、光明寺の荒塚、大桜大塚といった、新田義興公にまつわる伝説を持つ塚が多く現存していますが、実は品川区内にも義興公の墳墓であるとされる塚が存在したといわれています。この品川区の塚は『東京都遺跡地図』には未登録であり、すでに削平されて消滅しているため正確な跡地もわからなくなっているようなのですが、地元の郷土誌にはこの塚にまつわる言い伝えが残されているようです。
昭和29年(1954)に発行された『荏原中延史』には、この塚について次のように書かれています。
新田義貞の子、義興の塚が法蓮寺の向いの入道山麓にある。義興と言えば誰しも矢口の渡の頓兵衛を想い出すことで悲惨な死を遂げ、新田村に新田神社として祀られたと思うのが普通であるが、事実は然らずで多くの資料や古老の伝説や周辺の狀況に依つて判断するに、入道山葬り説が尤も有力の様である。かの新田神社は、矢口村に義興の靈が現れ祟りが続出するのに恐怖し、後年これを建立したものであつて義興の遺品や遺骸がなかつたものと断ずる事が出來る。この義興の死は劇に講談に昔より盛んに喧伝されたもので、其多くの人の知る処である。(中略)豪勇勤王の念厚き義興の近臣に、二人や三人の眞の勇士があつてよい筈だ。徒らに船中に腹掻きつて何になろう。幾人かは主君の首を掻き切つて、水流を潜り夫人の許に逃れ帰つて、その悲境を報告したものであると云われる。当然なされた事ではあるまいか。其の義興夫人は緣家である、荏原左衛門義宗の館、現存の法蓮寺に居住して居たと云う。勝ち誇つた足利勢は草を分け木を掘りて義興夫人と一族を探索した。幸に義宗の庇護により事なきを得て、密かに義興の遺骸を法蓮寺向いの入道山の片端に埋葬したものであると伝説されて居る。この庚申塚一帯を入道山と稱し、新田義興残党が山中に穴を掘り隱れ住んだものという。筆者この山を掘り返す折幾つかの洞窟を見た、廣さ十数畳位で床の間の様な所もあり、押入れと思われる個所もあり、忠臣新田方の暫しの住ひであつた事と想像し、感慨を禁じ得なかつたものである。因に其の後数十年間の長きに亙り足利の天下であつて、南朝の忠臣楠氏や新田氏の残党は日の目を見られなかつたのである。(『荏原中延史』32~33ページ) 義興の首塚の所在地とされる「法蓮寺の向いの入道山麓」が、正確にはどの地点にあたるのか、なかなか突き止めることが出来なかったのですが、品川区教育委員会より発行された『近世の品川・民俗編』に記述を見つけることが出来ました。同書には次のように書かれています。
新田義興の首塚 中延にある。田園都市線「荏原町」駅の脇を通っている旧鎌倉街道、中通りを馬込の方にむかい、立会川を渡って二つに岐れる三角点に庚申堂が建っている。前には天明年間に建てられた「うの木光明寺と、池上本門寺へ」の道標がある。
ここはもとは塚になっていた。
昔新田義貞の子義興が、矢口の渡しで武田右京、江戸遠江守の為に討たれたが、其内幾人かは生き残って、主人の首をもってひそかに逃げのび、此処まできてその首を埋めた処であると伝へている。(『近世の品川・民俗編』161〜162ページ)
画像が、新田義興の首塚の跡地であるとされる、品川区中延5丁目に所在する庚申堂を北から見たところです。この場所は東急大井町線荏原町駅から南に延びる江原町商店街の道沿いにあたり、周辺にはびっしりと宅地が立ち並んでいます。すでに塚は削平されており、痕跡は全く残されていません。『荏原中延史』に書かれている、新田方の住まいであったという、広さ十数畳位で床の間や押入れと思われる個所のある洞窟とはどんなものであったのか、とても興味深いところなのですが、やはりこれらの遺構も見ることが出来ないようです。
但し、「新田義興の首塚」とされる塚は埼玉県入間市の愛宕神社境内にも存在しています。この入間市の塚が「首塚」で、大田区の新田神社の塚が「胴塚」ということのようですが、史実がいかなるものか、その真相はわかりません。。。

この庚申塚には天明3年(1783)のものとされる道標が立てられており、この道標は品川区の史跡として指定されています。敷地内には品川区教育委員会による説明板が設置されていますが、これはこの道標についての説明板であり、新田義興の首塚に関する記述は見られないようです。
品川区指定史跡
天明三年銘石造道標
所在 品川区中延五丁目十一番十六号
指定 昭和六十一年三月十四日(第二十二号)
この道標は、旧中延村を横断する中
通り(中原街道と池上道を結ぶ)と平
間道(上池上・久ヶ原を経て下丸子で
池上道と合流し、平間に至る)との分
岐点にある。高さが一・一五メートル
で、右うの木(鵜ノ木)光明寺道、左
池かみ道(池上道)と刻まれている。
造立者は不明である。
鵜ノ木光明寺は浄土宗の古刹で、江
戸からの日帰り行程の大寺として、近
世には多くの参詣者が来寺した。
平成二十四年九月三十日
品川区教育委員会<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史』
品川区教育委員会『近世の品川・民俗編』
現地説明版
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- 2016/11/03(木) 00:01:36|
- 品川区/その他の塚
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