
目黒区目黒4丁目には、「大塚山古墳」という名称の古墳が存在したといわれています。
この古墳は、『東京都遺跡地図』にもと登録されており、目黒区の遺跡番号18番の「古墳(円墳)」と明記されています。この古墳がどんな古墳であったのか、色々調べてみました。
この大塚山古墳はすでに昭和40年代の後半に削平され、残念ながら現在は消滅してみることはできません。ただし、現在も複数のマンションや公園、銭湯などにも大塚山の名称が残されていることから、周辺地域ではかなり知られた存在であったことがわかります。
しかし、不思議なことに、江戸時代に編纂された地誌類にはまったく記述が見つからず、まるでこの時代には古墳は存在しなかったかのようです。
昭和10年に発行された『目黒區大觀』では「口碑及傳説」の項でこの大塚を取り上げており、「下目黒四丁目に今も鐳型をした塚が殘つて居る、古書には『中目黒に在り……』云々とあるが、中目黒でなく矢張り現在の位置を指したものであらう。或は會て此の附近が中目黒に屬して居たかも知れないが、大塚と云ふ字は下目黒に市郡併合まで殘つて居た。地主星野氏は此の塚の周圍を空地として、地内居住の小兒遊園地に充てゝ居る。目黒乘合自動車の大塚山停留所は、恰度此の塚の所になつて居る。」とあり、大塚がどんな性格の塚であったか、またその由来等にはふれていません。
しかし、その後の昭和28年に発行された『目黒区誌』では、「集落及地形を表わした地名」の項の「塚・古墳」の項の中にこの大塚山を記載しています。
さらにその後、昭和36年に発行された『目黒区史』では、「従来何々塚と呼ばれて古墳の可能性をもつ」とする12箇所の中にこの大塚山を取り上げており、「大塚山」の項には「これは下目黒四丁目九〇五番地にあり、本墳は標高二七・五メートル、耕地川の南、羅漢寺川の北に、東に向かって舌状に突出する低平な丘陵上にある。したがって古墳の立地条件としては最適の位置にある。もとは直径一〇メートル、高さ五メートルほどの円墳であったらしいが、現在は破損が甚だしい。その封土は明らかにローム土壌を積み重ねて人工的に築かれているが、出土物は不明であり、おそらく後期円墳の一種と考えられる。」と、大塚山を古墳として取り上げています。
同書が発行された当時はまだ墳丘が残されていたようですし、「ローム土壌を積み重ねて人工的に築かれた」とするあたりは、ひょっとしたらこのマウンドが版築により築造されたようすが見られたのかなとも想像できます。
さらに、墳丘が削平された後の昭和60年に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』ではこの大塚山を径10mの古墳(円墳)として、昭和42年に撮影されたという墳丘の写真とともに取り上げており、また昭和63年の『東京都遺跡地図』では径10m、高さ5mの古墳(円墳)として記載しています。ともに参考文献を『目黒区史』としていますので、どうやら目黒区史の編纂の時期にこの大塚山が古墳ではないかと判断され、その後に目黒区の古墳として登録された、ということではないかと考えられます。ただし、詳しい調査が行われないまま墳丘が消滅しており、この大塚山が古墳であることを裏付ける埋葬施設や周溝、遺物の出土等の記録は存在しません。
目黒区郷土研究会より発行された『目黒区郷土研究』や『郷土目黒』など、目黒の歴史に詳しい地誌類を調べてみると、興味深い記事をたくさん見つけることが出来ます。
江戸時代の文献には全く登場しないこの大塚山ですが、明治42年に発行された1万分の1地形図にはこの大塚山の墳丘が認められるようです。ひょっとしたら、大塚山は江戸時代末期から明治時代の間に築造された、何らかの塚ではないか?とも考えられます。
大塚山は、地元の子供達には「ぐりぐり山」と呼ばれるような築山で、塚に登る道が山裾から平らな頂上に向かって周囲をぐるぐると回っていて、当時富士講により築造されて流行となっていた富士塚のような形状だったようです。ただし、大塚山が富士塚であったのかというと、塚には山岳信仰の石碑等は全く存在しなかったようです。
結論として、これはあくまで可能性ですが、「大塚山」は、当時知られた存在であった「元富士」などの富士塚を模して大名の庭に造らせたような、単なる築山だったのかもしれません。
もちろん、元々存在した無名の古墳を流用して造られた築山である、という可能性も考えられますし、今後の発掘調査により周溝が検出される、というような可能性も否定はできません。
真相は、今後の調査の進展次第ですね。。。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/04(水) 22:45:55|
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画像は、目黒区中目黒5丁目の「祐天寺」境内に所在する「累塚」を北東から見たところです。
昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられており、区史が編纂された当時は、累塚が古墳である可能性も考えられていたようです。
かつては、土で盛られた塚が存在したのかもしれませんが、現在は周囲よりも一段高くなった敷地内に「かさね塚」と刻まれた石碑が建てられており、周囲は塀で囲まれています。
こうなってしまうと、古墳なのか塚なのか見た目では判断がつきませんが、最新の『東京都遺跡地図』にもこの塚は登録されていないようですし、立地的に考えてもこの地域に古墳が存在するというのはちょっと考え難いかもしれません。

塚の前には、「かさね塚の由来」が書かれた説明板が設置されています。
かさね塚の由来
祐天上人は増上寺第三十六代の大僧正で徳川家
五代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く
名僧であった。
寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、
累一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、
天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、
五世清元延寿太夫等が施主となり、
現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、
上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で
累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を
祈願することが慣習となっている。
以上
塚の上の「かさね塚」の石碑。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
現地説明板
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- 2020/03/03(火) 20:01:18|
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画像は、目黒区目黒本町6丁目に所在する「法界塚」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録となっているものの、古くから古墳ではないかとも考えられている塚で、昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とされる12基のうちの1基として取り上げられています。
昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの法界塚についての詳しい記述があり
向原町二六〇番地にある。此塚に就て角田長廣氏編『碑文谷村々誌』には左の如く載せている。
所在 字向原?字法界塚 第二百六十四番地 坪數 四十二坪 形状 高さ七尺位にして三角也 雜項 往古より除地の古塚にして何人の塚なるか不詳、乾元元年・明應四年六月二十六日付の碑存 但し天正十三年十一月十七日付の古文書に法界塚を中とすとあり
とある。後述する鬼子母神堂は相隣りして建つて居るが、これは後に此處へ移されたもので、此の塚とは関係がない。往古の古墳とも考へられるが、或は法華寺関係の經塚(碑文谷誌の著者は後者の説)であるとも見られ、確然とした斷案を下すことは至難である。尚ほ『天正十三年の古文書には中とす』とあるのは、新編武蔵風土記稿の編者が法問塚と此の塚を混同して書いたものを、一寸引例したのであらうが、これは勿論誤りであると思考される。従つて此の塚がほつけ塚と云はれ或は法解塚と書かれたものであらう。 と書かれています。
どうやら、古くからこの塚が古墳ではないかとは考えられていたようですが、現在まで学術的な調査が行われた記録はなく、塚の性格は不明のままであるようです。

画像は、法界塚が所在する「碑文谷鬼子母神堂」の境内から見た塚のようすです。かなり多くの碑石が残されています。『碑文谷村々誌』に書かれているように、乾元元年の碑が存在したということになると、乾元元年とは西暦で1302年になりますから、かなり古くから存在する塚であることは間違いないようです。平成3年に現地に設置された説明板には、円融寺文書の吉良氏印判状に
天正十三年の古書にも法界塚と書たれば別に故ありと見えたり と記されていることから法華寺関係の経塚か、あるいは5~6世紀の古墳ではないか、と推測しています。
目黒区郷土研究会より昭和44年に発行されている『郷土目黒 第30輯』に掲載されている「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」の中で、佐々木逸巳氏はこの塚の性格について
落武者が戦死して、鎧甲のままこの一角に葬られた というこの塚にまつわる言い伝えを紹介したうえで、大永4年(1524)1月13日の小田原城の北条氏綱が江戸城主朝興を攻めたときの戦いではないかと推測しています。また、天台宗の僧円仁(慈覚)がお経をうめて供養塔をたてた経塚の初期のものであろうと推測しています。
目黒区内の古代の遺跡の分布状況から考えると、この周辺地域の古墳の存在はちょっと考え難いようにも思うのですが、いつの日か発掘調査が行われて真相が解明される日が来るのでしょうか。。。

鬼子母神堂のようす。
西小山の日蓮宗摩耶寺に属し、祭神は鬼子母神・18番神です。開基はこの地の安藤氏で、元和2年(1616)に十羅刹女・鬼子母神を勧誘して堂宇を創建したとされ、堂内には同年の板碑1基が保存されているそうです。

神輿と法界塚(特に深い意味なし)。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
佐々木逸巳「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」『郷土目黒 第30輯』
現地説明版
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- 2018/06/14(木) 01:58:48|
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画像は、目黒区碑文谷2丁目に所在する「狐塚古墳」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、目黒区の遺跡番号25番に登録されている古墳です。
この古墳については、地元の郷土誌から多くの情報を得ることが出来ました。昭和33年(1958)に目黒区郷土研究会より発行された『郷土目黒』には
(前略)当初は五間四方の方墳で、深さ一間幅二間の空濠を繞らしていたそうであるが、現在は角がくずれて円墳に近くなつて居り、濠も次第に埋め立てられて、深さ幅とも一尺程度の溝になり、素通りする人々には、樹や雑草が生い茂つている高さ一間位の小丘としか見られないが、すくなくとも古墳なら千参百年、単なる墳墓としても、七百年を経た土豪の塚であることは間違いないから、目黒に残る数すくない此の種の遺跡として、現状の保存を切望する。 と書かれています。学術的な調査が行われていないこの狐塚が『東京都遺跡地図』に登録されており、「方墳?」とされている背景には、このあたりの郷土誌の記述が背景にあるのかもしれません。
その後、昭和46年に発行された『目黒百景』には
碑文谷2丁目にあります。古墳時代の末期(5~6世紀)の円墳と推定されています。もとは直径10メートル高さ3メートル以上、周囲に堀をめぐらしたあとがあり、形の整ったものでありましたが、現在は一部がけずりとられて、その形はくずれています。明治のころまではキツネがすんでいたので、狐塚とよばれていますが、古墳を狐塚と呼ぶことは各地にみられるものです。 と書かれています。戦後の空中写真で確認したところでは、昭和30年代から40年代にかけて周辺の開発が進行する中、この狐塚の周囲は最後まで畑地として残されていたようですが、昭和50年代に、現在のように集合住宅に取り囲まれてしまったようです。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』では、「一部遺存」、「墳丘下部が高さ50cm程残るのみ」と書かれています。

古墳の周囲では、集合住宅が建て替えられたりと変化が見られるのですが、発掘調査の報告書等を見つけることはできませんでしたので、学術的な調査は行われなかったのかもしれません。もしこの狐塚が古墳であれば、目黒区内で唯一墳丘の残る古墳ということになるのですが、塚の性格や出土品等の詳細が不明である現状は残念です。
かつては周溝らしき堀が存在したというあたりから推測すると、狐塚は古墳だったのではないかと思われますし、この地域の歴史や立地から考えると古墳ではなく塚だったのではないかとも思えます。
まだまだ謎の多い狐塚古墳です。。。
<参考文献>
目黒区郷土研究会『郷土目黒 第二輯』
目黒区教育委員会『目黒百景』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/12(火) 23:52:34|
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目黒区内には、周辺地域でその存在が知られており、また塚にまつわる伝説が残されていながらも削平されて消滅した塚が数多く存在しています。
「鐘鑄塚」は目黒区駒場に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「鏡塚」という名称の塚が記載されています。ただし、おそらくこの名称は間違いで、「鐘塚(鐘鑄塚)」と同一の塚を指したものではないかと思われるのですが、塚の所在地については旧番地で「駒場町915番地」とはっきりと記載されています。おそらくはまだこの時点で塚が残存していたか、または墳丘が破壊されたものの塚の跡地がまだ地元の人の記憶に残されていた状況であったと考えられます。そこで、鐘鑄塚の所在地を突き止めるべく、当時の番地が記載されている古地図を探してみました。しかし、やっと見つけた古地図にはなぜか913番地までは記されているものの914と915番地が存在せず、916番地以降がまた記されているという状況で、塚の位置が判然としません。そこで、大体この辺りではないかという当たりをつけて実際に現地を訪れてみました。
画像が、旧駒場町の900〜910番台と思われる周辺のようすです。。。

この周辺は古地図と比べると大きく地形が変わっているため位置を推定するのは難しいのですが、やはりこの周辺もすでに宅地化が進み、古墳らしき痕跡を見ることはできません。。。

北に進むとすぐに一段高くなった台地となり、古墳が存在したとすればこの辺りか?とも思われるのですが、やはり塚を見つけることはできません。画像は、東京大学校内の、ちょっと気になる地形をした場所です。。。

目黑區大觀刊行會より昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚の言い伝えについて次のように書かれています。
里俗『鐘塚』と言つて、今の帝都電鐵東駒場驛の下御成橋の附近にあつた。同所は山内杉太郎の先々代上知組名主三左衛門氏の邸内に在りし由。同家は會て牛乳搾取業を營み家號を金塚舍と言つて居たが、これはその古名に因むものであつた。名所圖繪に
鐘鑄塚は駒場野の中にありと云ふ。方九尺許り、高七八尺許りなりしとぞ。昔此處にて梵鐘を鑄たる舊跡なりと傳ふれども、何れの寺の鐘なりしや知るべからず。富士見坂の下の水流、下澁谷の分水掛口の地の名に『道場ヶ淵』と伝ふあり、いづれ此の近邊に盛大の寺院ありしなるべし
と記して居る。(『目黑區大觀』206ページ) 『目黑區大觀』の「帝都電鐵東駒場驛の下御成橋附近」という記述からして、ひょっとしたら鑄塚の所在地は、『目黒区史』にある「駒場町915番地」は間違いで、正しくは815番地ではないかとも考えて散策してみましたが、やはりこの周辺も宅地化が進み、塚の痕跡は全く見ることができません。
これは私の推測ですが、目黒区域の古墳時代の遺跡の分布状況から考えると区内の中央部周辺は人々の生活に適さない原野が多く、古墳が存在するとすれば目黒川流域か、河川の上流の台地上に限られていたのではないかと考えていました。現在『東京都遺跡地図』に古墳として登録されている「大塚山古墳」や「狐塚古墳」は実は後世の塚で、世田谷区との区境にある「土器塚」やこの「鐘鑄塚」に古墳の可能性を感じていたのですが、よくわからない!というのが結論です。。。
この他にも『目黑區大觀』には、現在の青葉台3丁目あたりに存在したといわれる「東山塚」について「上目黒の中央にあつたもので、上目黒村石川組名主加藤定右衛門がもと住んで居た所に當つて居るが、塚らしいものは全然殘つて居ない。又その名の起源も定かでない。市郡併合まで、その名の塚の字を除いて、単に『東山』と云ふ字名が殘つて居た。」とあり、また「耳塚」についても「上目黒東山にあつた。昔敵軍人の耳を斬取つて埋めた所であると傳へられて居る。後に至り之を平坦にして、其趾に耳塚花園と云ふものが有つたが、大正六七年の頃町田氏の邸宅を建築するに當り、其の邊りを發掘した際には、拍車様のものが多數發見されたと伝ふ。」と書かれています。「耳塚」の名称からする言い伝えや、拍車(靴のかかとに装着する馬術のための道具)が出土したという伝承は非常に興味深いのですが、いづれも塚は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、真相は不明です。
果たして、目黒区内に古墳は存在したのでしょうか。。。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
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- 2016/11/30(水) 08:25:09|
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