
目黒区目黒4丁目には、「大塚山古墳」という名称の古墳が存在したといわれています。
この古墳は、『東京都遺跡地図』にもと登録されており、目黒区の遺跡番号18番の「古墳(円墳)」と明記されています。この古墳がどんな古墳であったのか、色々調べてみました。
この大塚山古墳はすでに昭和40年代の後半に削平され、残念ながら現在は消滅してみることはできません。ただし、現在も複数のマンションや公園、銭湯などにも大塚山の名称が残されていることから、周辺地域ではかなり知られた存在であったことがわかります。
しかし、不思議なことに、江戸時代に編纂された地誌類にはまったく記述が見つからず、まるでこの時代には古墳は存在しなかったかのようです。
昭和10年に発行された『目黒區大觀』では「口碑及傳説」の項でこの大塚を取り上げており、「下目黒四丁目に今も鐳型をした塚が殘つて居る、古書には『中目黒に在り……』云々とあるが、中目黒でなく矢張り現在の位置を指したものであらう。或は會て此の附近が中目黒に屬して居たかも知れないが、大塚と云ふ字は下目黒に市郡併合まで殘つて居た。地主星野氏は此の塚の周圍を空地として、地内居住の小兒遊園地に充てゝ居る。目黒乘合自動車の大塚山停留所は、恰度此の塚の所になつて居る。」とあり、大塚がどんな性格の塚であったか、またその由来等にはふれていません。
しかし、その後の昭和28年に発行された『目黒区誌』では、「集落及地形を表わした地名」の項の「塚・古墳」の項の中にこの大塚山を記載しています。
さらにその後、昭和36年に発行された『目黒区史』では、「従来何々塚と呼ばれて古墳の可能性をもつ」とする12箇所の中にこの大塚山を取り上げており、「大塚山」の項には「これは下目黒四丁目九〇五番地にあり、本墳は標高二七・五メートル、耕地川の南、羅漢寺川の北に、東に向かって舌状に突出する低平な丘陵上にある。したがって古墳の立地条件としては最適の位置にある。もとは直径一〇メートル、高さ五メートルほどの円墳であったらしいが、現在は破損が甚だしい。その封土は明らかにローム土壌を積み重ねて人工的に築かれているが、出土物は不明であり、おそらく後期円墳の一種と考えられる。」と、大塚山を古墳として取り上げています。
同書が発行された当時はまだ墳丘が残されていたようですし、「ローム土壌を積み重ねて人工的に築かれた」とするあたりは、ひょっとしたらこのマウンドが版築により築造されたようすが見られたのかなとも想像できます。
さらに、墳丘が削平された後の昭和60年に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』ではこの大塚山を径10mの古墳(円墳)として、昭和42年に撮影されたという墳丘の写真とともに取り上げており、また昭和63年の『東京都遺跡地図』では径10m、高さ5mの古墳(円墳)として記載しています。ともに参考文献を『目黒区史』としていますので、どうやら目黒区史の編纂の時期にこの大塚山が古墳ではないかと判断され、その後に目黒区の古墳として登録された、ということではないかと考えられます。ただし、詳しい調査が行われないまま墳丘が消滅しており、この大塚山が古墳であることを裏付ける埋葬施設や周溝、遺物の出土等の記録は存在しません。
目黒区郷土研究会より発行された『目黒区郷土研究』や『郷土目黒』など、目黒の歴史に詳しい地誌類を調べてみると、興味深い記事をたくさん見つけることが出来ます。
江戸時代の文献には全く登場しないこの大塚山ですが、明治42年に発行された1万分の1地形図にはこの大塚山の墳丘が認められるようです。ひょっとしたら、大塚山は江戸時代末期から明治時代の間に築造された、何らかの塚ではないか?とも考えられます。
大塚山は、地元の子供達には「ぐりぐり山」と呼ばれるような築山で、塚に登る道が山裾から平らな頂上に向かって周囲をぐるぐると回っていて、当時富士講により築造されて流行となっていた富士塚のような形状だったようです。ただし、大塚山が富士塚であったのかというと、塚には山岳信仰の石碑等は全く存在しなかったようです。
結論として、これはあくまで可能性ですが、「大塚山」は、当時知られた存在であった「元富士」などの富士塚を模して大名の庭に造らせたような、単なる築山だったのかもしれません。
もちろん、元々存在した無名の古墳を流用して造られた築山である、という可能性も考えられますし、今後の発掘調査により周溝が検出される、というような可能性も否定はできません。
真相は、今後の調査の進展次第ですね。。。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/04(水) 22:45:55|
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画像は、目黒区中目黒5丁目の「祐天寺」境内に所在する「累塚」を北東から見たところです。
昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられており、区史が編纂された当時は、累塚が古墳である可能性も考えられていたようです。
かつては、土で盛られた塚が存在したのかもしれませんが、現在は周囲よりも一段高くなった敷地内に「かさね塚」と刻まれた石碑が建てられており、周囲は塀で囲まれています。
こうなってしまうと、古墳なのか塚なのか見た目では判断がつきませんが、最新の『東京都遺跡地図』にもこの塚は登録されていないようですし、立地的に考えてもこの地域に古墳が存在するというのはちょっと考え難いかもしれません。

塚の前には、「かさね塚の由来」が書かれた説明板が設置されています。
かさね塚の由来
祐天上人は増上寺第三十六代の大僧正で徳川家
五代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く
名僧であった。
寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、
累一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、
天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、
五世清元延寿太夫等が施主となり、
現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、
上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で
累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を
祈願することが慣習となっている。
以上
塚の上の「かさね塚」の石碑。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
現地説明板
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- 2020/03/03(火) 20:01:18|
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画像は、目黒区目黒本町6丁目に所在する「法界塚」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録となっているものの、古くから古墳ではないかとも考えられている塚で、昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とされる12基のうちの1基として取り上げられています。
昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの法界塚についての詳しい記述があり
向原町二六〇番地にある。此塚に就て角田長廣氏編『碑文谷村々誌』には左の如く載せている。
所在 字向原?字法界塚 第二百六十四番地 坪數 四十二坪 形状 高さ七尺位にして三角也 雜項 往古より除地の古塚にして何人の塚なるか不詳、乾元元年・明應四年六月二十六日付の碑存 但し天正十三年十一月十七日付の古文書に法界塚を中とすとあり
とある。後述する鬼子母神堂は相隣りして建つて居るが、これは後に此處へ移されたもので、此の塚とは関係がない。往古の古墳とも考へられるが、或は法華寺関係の經塚(碑文谷誌の著者は後者の説)であるとも見られ、確然とした斷案を下すことは至難である。尚ほ『天正十三年の古文書には中とす』とあるのは、新編武蔵風土記稿の編者が法問塚と此の塚を混同して書いたものを、一寸引例したのであらうが、これは勿論誤りであると思考される。従つて此の塚がほつけ塚と云はれ或は法解塚と書かれたものであらう。 と書かれています。
どうやら、古くからこの塚が古墳ではないかとは考えられていたようですが、現在まで学術的な調査が行われた記録はなく、塚の性格は不明のままであるようです。

画像は、法界塚が所在する「碑文谷鬼子母神堂」の境内から見た塚のようすです。かなり多くの碑石が残されています。『碑文谷村々誌』に書かれているように、乾元元年の碑が存在したということになると、乾元元年とは西暦で1302年になりますから、かなり古くから存在する塚であることは間違いないようです。平成3年に現地に設置された説明板には、円融寺文書の吉良氏印判状に
天正十三年の古書にも法界塚と書たれば別に故ありと見えたり と記されていることから法華寺関係の経塚か、あるいは5~6世紀の古墳ではないか、と推測しています。
目黒区郷土研究会より昭和44年に発行されている『郷土目黒 第30輯』に掲載されている「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」の中で、佐々木逸巳氏はこの塚の性格について
落武者が戦死して、鎧甲のままこの一角に葬られた というこの塚にまつわる言い伝えを紹介したうえで、大永4年(1524)1月13日の小田原城の北条氏綱が江戸城主朝興を攻めたときの戦いではないかと推測しています。また、天台宗の僧円仁(慈覚)がお経をうめて供養塔をたてた経塚の初期のものであろうと推測しています。
目黒区内の古代の遺跡の分布状況から考えると、この周辺地域の古墳の存在はちょっと考え難いようにも思うのですが、いつの日か発掘調査が行われて真相が解明される日が来るのでしょうか。。。

鬼子母神堂のようす。
西小山の日蓮宗摩耶寺に属し、祭神は鬼子母神・18番神です。開基はこの地の安藤氏で、元和2年(1616)に十羅刹女・鬼子母神を勧誘して堂宇を創建したとされ、堂内には同年の板碑1基が保存されているそうです。

神輿と法界塚(特に深い意味なし)。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
佐々木逸巳「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」『郷土目黒 第30輯』
現地説明版
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- 2018/06/14(木) 01:58:48|
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画像は、目黒区碑文谷2丁目に所在する「狐塚古墳」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、目黒区の遺跡番号25番に登録されている古墳です。
この古墳については、地元の郷土誌から多くの情報を得ることが出来ました。昭和33年(1958)に目黒区郷土研究会より発行された『郷土目黒』には
(前略)当初は五間四方の方墳で、深さ一間幅二間の空濠を繞らしていたそうであるが、現在は角がくずれて円墳に近くなつて居り、濠も次第に埋め立てられて、深さ幅とも一尺程度の溝になり、素通りする人々には、樹や雑草が生い茂つている高さ一間位の小丘としか見られないが、すくなくとも古墳なら千参百年、単なる墳墓としても、七百年を経た土豪の塚であることは間違いないから、目黒に残る数すくない此の種の遺跡として、現状の保存を切望する。 と書かれています。学術的な調査が行われていないこの狐塚が『東京都遺跡地図』に登録されており、「方墳?」とされている背景には、このあたりの郷土誌の記述が背景にあるのかもしれません。
その後、昭和46年に発行された『目黒百景』には
碑文谷2丁目にあります。古墳時代の末期(5~6世紀)の円墳と推定されています。もとは直径10メートル高さ3メートル以上、周囲に堀をめぐらしたあとがあり、形の整ったものでありましたが、現在は一部がけずりとられて、その形はくずれています。明治のころまではキツネがすんでいたので、狐塚とよばれていますが、古墳を狐塚と呼ぶことは各地にみられるものです。 と書かれています。戦後の空中写真で確認したところでは、昭和30年代から40年代にかけて周辺の開発が進行する中、この狐塚の周囲は最後まで畑地として残されていたようですが、昭和50年代に、現在のように集合住宅に取り囲まれてしまったようです。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』では、「一部遺存」、「墳丘下部が高さ50cm程残るのみ」と書かれています。

古墳の周囲では、集合住宅が建て替えられたりと変化が見られるのですが、発掘調査の報告書等を見つけることはできませんでしたので、学術的な調査は行われなかったのかもしれません。もしこの狐塚が古墳であれば、目黒区内で唯一墳丘の残る古墳ということになるのですが、塚の性格や出土品等の詳細が不明である現状は残念です。
かつては周溝らしき堀が存在したというあたりから推測すると、狐塚は古墳だったのではないかと思われますし、この地域の歴史や立地から考えると古墳ではなく塚だったのではないかとも思えます。
まだまだ謎の多い狐塚古墳です。。。
<参考文献>
目黒区郷土研究会『郷土目黒 第二輯』
目黒区教育委員会『目黒百景』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/12(火) 23:52:34|
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目黒区内には、周辺地域でその存在が知られており、また塚にまつわる伝説が残されていながらも削平されて消滅した塚が数多く存在しています。
「鐘鑄塚」は目黒区駒場に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「鏡塚」という名称の塚が記載されています。ただし、おそらくこの名称は間違いで、「鐘塚(鐘鑄塚)」と同一の塚を指したものではないかと思われるのですが、塚の所在地については旧番地で「駒場町915番地」とはっきりと記載されています。おそらくはまだこの時点で塚が残存していたか、または墳丘が破壊されたものの塚の跡地がまだ地元の人の記憶に残されていた状況であったと考えられます。そこで、鐘鑄塚の所在地を突き止めるべく、当時の番地が記載されている古地図を探してみました。しかし、やっと見つけた古地図にはなぜか913番地までは記されているものの914と915番地が存在せず、916番地以降がまた記されているという状況で、塚の位置が判然としません。そこで、大体この辺りではないかという当たりをつけて実際に現地を訪れてみました。
画像が、旧駒場町の900〜910番台と思われる周辺のようすです。。。

この周辺は古地図と比べると大きく地形が変わっているため位置を推定するのは難しいのですが、やはりこの周辺もすでに宅地化が進み、古墳らしき痕跡を見ることはできません。。。

北に進むとすぐに一段高くなった台地となり、古墳が存在したとすればこの辺りか?とも思われるのですが、やはり塚を見つけることはできません。画像は、東京大学校内の、ちょっと気になる地形をした場所です。。。

目黑區大觀刊行會より昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚の言い伝えについて次のように書かれています。
里俗『鐘塚』と言つて、今の帝都電鐵東駒場驛の下御成橋の附近にあつた。同所は山内杉太郎の先々代上知組名主三左衛門氏の邸内に在りし由。同家は會て牛乳搾取業を營み家號を金塚舍と言つて居たが、これはその古名に因むものであつた。名所圖繪に
鐘鑄塚は駒場野の中にありと云ふ。方九尺許り、高七八尺許りなりしとぞ。昔此處にて梵鐘を鑄たる舊跡なりと傳ふれども、何れの寺の鐘なりしや知るべからず。富士見坂の下の水流、下澁谷の分水掛口の地の名に『道場ヶ淵』と伝ふあり、いづれ此の近邊に盛大の寺院ありしなるべし
と記して居る。(『目黑區大觀』206ページ) 『目黑區大觀』の「帝都電鐵東駒場驛の下御成橋附近」という記述からして、ひょっとしたら鑄塚の所在地は、『目黒区史』にある「駒場町915番地」は間違いで、正しくは815番地ではないかとも考えて散策してみましたが、やはりこの周辺も宅地化が進み、塚の痕跡は全く見ることができません。
これは私の推測ですが、目黒区域の古墳時代の遺跡の分布状況から考えると区内の中央部周辺は人々の生活に適さない原野が多く、古墳が存在するとすれば目黒川流域か、河川の上流の台地上に限られていたのではないかと考えていました。現在『東京都遺跡地図』に古墳として登録されている「大塚山古墳」や「狐塚古墳」は実は後世の塚で、世田谷区との区境にある「土器塚」やこの「鐘鑄塚」に古墳の可能性を感じていたのですが、よくわからない!というのが結論です。。。
この他にも『目黑區大觀』には、現在の青葉台3丁目あたりに存在したといわれる「東山塚」について「上目黒の中央にあつたもので、上目黒村石川組名主加藤定右衛門がもと住んで居た所に當つて居るが、塚らしいものは全然殘つて居ない。又その名の起源も定かでない。市郡併合まで、その名の塚の字を除いて、単に『東山』と云ふ字名が殘つて居た。」とあり、また「耳塚」についても「上目黒東山にあつた。昔敵軍人の耳を斬取つて埋めた所であると傳へられて居る。後に至り之を平坦にして、其趾に耳塚花園と云ふものが有つたが、大正六七年の頃町田氏の邸宅を建築するに當り、其の邊りを發掘した際には、拍車様のものが多數發見されたと伝ふ。」と書かれています。「耳塚」の名称からする言い伝えや、拍車(靴のかかとに装着する馬術のための道具)が出土したという伝承は非常に興味深いのですが、いづれも塚は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、真相は不明です。
果たして、目黒区内に古墳は存在したのでしょうか。。。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
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- 2016/11/30(水) 08:25:09|
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「道京塚」は、目黒区南町3丁目に所在したとされる2基の塚の総称です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられています。旧番地の宮ケ丘1844番地の塚が「東道京塚」、1845番地の塚が「西道京塚」と呼ばれ、どちらも広さ100~130平方メートルほどを占める高さ4mほどの円墳状の塚であったといわれていますが、どちらの塚も現在は削平されて消滅しています。
画像は、目黒区南町3丁目の東道京塚の所在地付近のようすです。塚の所在地は道路の左側あたりのどこかにあたると思われますが、正確な跡地はわかりません。昭和37年に発行された『郷土目黒』の第六輯では元の土地の所有者による回顧録と塚の往時の写真を見ることができるのですが、同書によると東道京塚は終戦後まではほぼ原型を留めており、昭和30年前後に取り壊されてしまったようです。塚の頂部には「東道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていたようですが、同書には「この塚の持主であり、好事家であった私の父、金蔵のたしか昭和初年になしたことであるが、後にあやまちを招く恐れがあると思った。果して直きに、この塔の存在と名称によって、経塚であると見るような向も現われた。 」とあり、五輪塔の存在を根拠とする経塚であるという判断は誤りであるとしているようです。

画像は、「東道京塚」の塚上に立てられていたという五輪塔です。この五輪塔は現在、碑文谷1丁目の円融寺の境内に祀られています。この場所には多くの板碑が円墳状に立てられて祀られており、東道京塚の五輪塔はその正面に見ることができます。

画像は、目黒区南町3丁目の西道京塚の所在地付近のようすです。塚の跡地はおそらく道路の右側のどこかにあたると思われます。こちらの塚は戦前には開墾されて破壊が進み、高木神社遥拝所の小祠が建てられていたようです。その後の開発により塚は消滅、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見ることはできないようです。
この2基の塚は学術的な調査が行われないまま消滅しており、塚の性格については不明とされていますが、『郷土目黒 第六輯』には、元の土地の所有者によるの推察が次のように書かれています。
両塚は附近の富士見台三合塚(古墳時代末期の前方後円墳と推定された)と同じく、すぐ南方に洗足池の水源の一つをなす清水窪の湧水低湿地をひかえた丘陵の上頂部にあるところから、立地上三合塚と同時代の円墳と見られないこともない。現に東塚の西下の地点から無紋薄手の古土器の完全なものを掘出したことがあったが、地上に出すと同時にバラバラにくずれてしまった。
尚この二塚の取こわしの状況を見る機会を私は持たなかったが、ともに出土品はなかったときいた。
これ等の事実と離れて、この塚に道京塚(どうきょうづか)と言う名称がつけられたことについては、私に二つの仮定、想像がわくのである。
一つは道京塚、即ち道鏡塚、道鏡、村境の標識としての塚ということである。西塚は目黒区内の最高所の地点を走る旧六郷道のかたわらにあり、東塚は丸子道のかたわらにあり、ともにいりくんだ馬込村千束との村境にあることは事実である。
今一つは、道京塚は道鏡塚なりとする説であって、これは曽て洗心堂主人、赤崎新太郎氏の私に教示されたものである。即ち道鏡塚又は将門塚といわれるものは、ともに謀叛者、反削道鏡(–772)平将門(–940)の名をとっているのは、古く郷村においては、秋に笛や太鼓で害虫を村境の川や塚まで追出す虫追い(悪病よけ)の慣習行事があり、この遺跡の塚が各地にある。即ち村境を現わしたものが道京塚でありとするのであるのである。
それでは再び失われたこの二塚は古墳なりや、はた又一里塚、境界塚の如き標識の塚なりやということになるが、標識塚としては三合塚とこの二塚の距離が、三角形に何れからの距離も2~300メートルを出ない近距離にあり、又東方洗足には塚越などの地名もあり、このあたり一帯にかけては、小規模ながら古代文化のあとの古墳群のあったことを示すものではないかと私は思う。(『郷土目黒 第六輯』8ページ~9ページ) 東方に存在する「三合塚」については、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した3基の塚であることがわかっており、前方後円墳ではなかったことが確認されていますので、2基の道京塚と周辺の塚を含めて古墳群が存在したとする説は現実的ではないと思われますが、なかなか興味深い仮説です。この塚の位置はかつての碑文谷村と馬込村の村境となっていましたが、現在でも目黒区南町3丁目と大田区北千束1丁目との境界となっています。「めぐろ歴史資料館」で行われた平成27年の春の企画展でも、展示されていた境界にまつわる民俗資料としてこの道京塚が紹介されていたようですし、同書の記述からしても境塚であるとする説が現実的かもしれません。。。

西道経塚の頂部にも、東道京塚と同様に「西道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていました。この五輪塔は現在、中目黒3丁目の「めぐろ歴史資料館」の敷地内に移設保存されています。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
富岡丘蔵「失われた道京塚二つ」『郷土目黒』
目黒区めぐろ歴史資料館『めぐろ歴史資料館だより つどい 第10号』
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- 2016/11/27(日) 09:35:53|
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「土器塚遺跡」は、目黒区駒場1〜2丁目から大橋2丁目、世田谷区代沢1丁目から池尻4丁目にかけて所在する遺跡です。この遺跡は、古くは旧石器時代から縄文時代や弥生時代、明治時代以降の「駒場練兵場」関連の防空壕や掩体壕など、多くの遺物や遺構が検出されている複合遺跡です。画像は、この土器塚遺跡の中心にあたる、淡島通りの目黒区と世田谷区の区境付近を東から見たところです。
この周辺には「土器塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』などに取り上げられており、源義家が奥州征伐の際にこの地で酒宴を催して土器を埋めたという説、また世田谷区下馬5丁目に所在する「葦毛塚」と同様に馬を埋めた塚であるという説などが記載されています。昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚について次のように書かれています。
駒場野の内に在りて、俚言に依れば、昔此の地が奥州街道に當つて居たので、源義家が奥州征伐に赴く途次、此處で酒宴を開いた事がある。其時に用つた土器を、義家の武功英名を尊ぶの餘り、此の附近の人々が地下に埋めて塚としたと傳へて居る。卽ち之が土器塚の起源で、此塚の附近の事を同勢山と云ふのは、義家に供奉した者等の屯ろした所の舊跡であると。『按ずるに此地に芦毛塚と稱するものあり、疑ふらくは土器塚も?塚を語るものにして、その往古は馬などを埋めたる塚なるべし』と江戸名所圖繪は云ふて居る。(『目黑區大觀』203ページ)
画像は、駒場二丁目17番にある「〆切地蔵」を南西から見たところです。目黒区のホームページによると、この地蔵は江戸時代の延宝から元禄年間に建立されたものであると考えられており、板きれに次の様な由来が書かれていたそうです。
コノ地蔵ハ、駒場、下代田、池尻ノ、境ニアル仏デアリマス。昔ノ人ノ伝エ聞ク話ニ依ルト、明治初年以前、西駒場地蔵(一名〆切地蔵)ト申サレ、隣村に悪病流行致ス時ハ、当駒場ノ村人一同、百万ベント云フ念仏ヲトナエ、地蔵尊ニ願ヲ掛ケ、当時ニハ一名ノ病人モ無ク、安心シテ生活シテコラレタノ由。悪病悪魔〆切ト云フノデ〆切地蔵ト申サレ、今デモ重病人ノ在ル方ハ、〆切地蔵ニ一週リ(現今ノ一週間)、モシ一週リニテ御利益ナキ時ハ、二週リ御願申セバ必ズ快方ニ向フトノ伝説デ御座リマス。又此ノ地蔵ニ『イタズラ』又賽銭ヲ取ルマタハ不心得ノ者ハ、一ヶ月以内ニ必ズ災難ニアフトノ事、又他何事ノ願デモ必ズ誠心誠意ノ方ニ成就スル事『ウタガイナシ』 やはり土器塚については何も書かれていないようです。この場所は、淡島通りがちょうど「く」の字に折れ曲がった場所で、目黒区と世田谷区の区境でもあり、またお地蔵様が祀られているということで、塚の跡地としては怪しい!と考えたのですが、結局正確な塚の跡地を突き止めることはできず、今思えばあまり深追いせずあきらめてしまったかもしれません。。。

明治15年(1882)には、駒場農学校生であった福家梅太郎氏が「土器塚」で縄文土器を発見し、翌明治16年に『東洋学芸雑誌』に「土器塚考』という論文を発表しているそうです。つまり、明治の頃までは塚は残されていたようなのですが、現在土器塚は完全に消滅しており、痕跡を見ることはできないようです。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区守屋教育会館 郷土資料室『めぐろの弥生時代をさぐる ―駒場土器塚遺跡の調査から―』
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- 2016/11/26(土) 02:15:16|
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目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。この富士塚は以前、9月19日の回で紹介したものですが、今回紹介するのは新富士から遡ること7年、文化9年(1812)に築造された「元富士」を紹介したいと思います。この元富士は東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上に所在したとされる富士塚で、別名「西富士」とも呼ばれていました。
この元富士は、丸旦講の先達で麻布善福寺門前の伊右衛門により築造され、明治11年(1878)にこの場所が明治維新の際に活躍した岩倉具視の別荘となった際には、塚は残されたものの石祠や石碑、水盤などの石造物は目黒区大橋2丁目の氷川神社に移されています。その後この場所は東武鉄道社長の根津喜一郎氏の私邸となり、昭和14年(1939)の改築の際に塚は取り崩され、消滅しています。現在のこの場所はマンションとなっており塚の痕跡は何も残されていませんが、跡地前には目黒区教育委員会による説明板が設置されており、画像はその跡地前のようすです。
目黒元富士跡
上目黒1―8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講と
いう団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型
の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、
山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の
人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、
別所坂上(中目黒2―1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こ
ちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重
の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描か
れています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(2―16―21)
へ移されました。
平成22年12月
目黒区教育委員会
元富士の北側に隣接する旧朝倉家住宅周辺には、かつては複数基の古墳が存在していたといわれ、現在も残存する2基の猿楽塚古墳(北塚と南塚)は渋谷区の指定史跡として保存されています。同じ丘陵上縁辺部に存在したこの元富士が、例えば元々存在した古墳を流用して築造された可能性はないのだろうかと考えたのですが、めぐろ歴史資料館でスタッフの方にお聞きしたところでは、この元富士と新富士は何もない場所に蓄財された富士塚であるということで、古墳流用の可能性はないようです。

画像は、目黒区大橋2丁目に所在する「氷川神社」を南西から見たところです。旧上目黒村の鎮守であるこの氷川神社の境内には、目黒元富士にあった浅間の石祠や仙元講(丸旦講)の石碑が移されています。富士塚は存在しないようですが、台地の斜面に登山道が造られて「目黒富士」と呼ばれています。

画像が、氷川神社境内に所在する「富士浅間神社」です。社殿前には「目黒富士」について目黒区教育委員会による説明板が立てられています。
目黒富士
大橋2-16-21
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が
各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富
士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に
目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上
(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。
元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年
(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑
を移しました。
昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一
角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行
われています。
平成22年3月
目黒区教育委員会
富士講の石碑のようす。
<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板
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- 2016/11/25(金) 00:57:47|
- 目黒区の古墳・塚
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目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文化9年(1812)に築造されたもので、東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上にあり、「元富士」あるいは「西富士」と呼ばれていました。そしてもう1基が、元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。蝦夷地探検で名高い幕臣・近藤重蔵が自身の別邸に作った富士塚で、眺望が良く、多くの参拝人を集めたといわれています。
画像は、目黒区中目黒の「別所坂」です。1丁目と2丁目の境を北東へジグザグに折れ曲がって登るこの坂はこの周辺の地名であった「別所」が由来といわれており、古くより麻布方面から目黒へ入る道として賑わったといわれています。ちなみに別所とは『新しく開かれた土地」あるいは「行き止まりの場所」を示すといわれているそうです。
この坂を登り切った場所が、かつての新富士の所在地です。坂の入口には「別所坂」の碑が立てられており、「かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」と新富士についてもふれられています。


別所坂を登り切った階段の右手に目黒区教育委員会による「新富士」についての説明板が設置されています。画像の右手のマンションの奥のあたりが新富士の跡地で、昭和34年(1959)までは残されていたそうですが、残念ながら現在は取り壊されています。

別所坂を下った新富士跡地の南側にある「目黒区立別所坂児童遊園」には、新富士にあった石碑が移設されています。ここにも目黒区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
新富士 中目黒2–1
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつく
られ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼
ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文
政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた
近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが
良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴
雑記』)と書かれるほどであった。
新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙
法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊
辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
平成18年10月
目黒区教育委員会
石碑が保存されている目黒区立別所坂児童遊園で振り返ってみるとこんな風景が。この周辺は昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られており、新富士は大勢の見物人で賑わったといわれていますが、眺めの良さは健在ではあるものの、残念ながらこの日は富士山は確認出来ませんでした。。。

富士山には、過去の噴火で出来た「風穴」と呼ばれる溶岩洞窟が多数存在しています。この内部に助骨の形や臓器の形を示すものがあり、人間の胎内を連想させることから富士講の人々はこれを胎内洞穴と呼んでいます。この胎内洞穴をくぐりぬけると安産の御利益があるということで、講徒は白木綿の布を襷に掛けて胎内くぐりをして、白木綿を持ち帰って産婦の腹帯にして安産を願うという事が行われていたそうです。
江戸の各地に築造された富士塚の多くにはこの胎内洞穴が造られているようですが、目黒新富士跡地の隣接地からは、平成3年の発掘調査により胎内洞穴と考えられる地下式遺溝が発見されています。現在は埋め戻されて見ることは出来ないようですが、めぐろ歴史資料館では復元された胎内洞穴が公開されています。

この胎内洞穴は目黒新富士が所在した南の方向に延びており、壁面に富士講の笠(講)印や文字が線刻されていました。奥行き6mの横穴の奥には祠が造られており、祠の直下からは御神体と思われる「大日如来」像が発見されたそうです。
画像は、めぐろ歴史資料館で公開されている壁面の線刻のレプリカのようすです。

文政9年、この富士塚にまつわるある事件が起こりました。
あるとき、山正廣構という富士講の講中の集まりの中で、下渋谷村の百姓である半九郎の屋敷地が眺めの良い場所であることから、ここに富士塚を築造すると参拝人が多く集まり、講員も増えるのではないかという意見が出ました。しかし、百姓の身分での富士塚の築造は難しいと考えた半九郎は、自身の所有地の一部を近藤重蔵氏の抱屋敷(別邸)としてこの邸内に富士塚を築くという意向を、近藤宅に出入りしている者を通じて打診したところ両者の考えは一致、早速邸内の残土を集めて富士塚が築造されます。この塚は高台にあったため後に広重の『名所江戸百景』に描かれるほど見晴らしが良く、江戸の人びとの行楽の名所として大変な人気を集めます。これに合わせて半九郎は自宅で手打ち蕎麦の店を始めますが、こちらも大繁盛となったようです。
その後、近藤は別邸に招待した客に半九郎の店から出前した蕎麦や酒でもてなしますが、代金の支払いはいっさいしませんでした。これに対して半九郎は、採算が取れなくなっては困ると考え、近藤からの注文には応じない事にします。近藤は腹を立て、半九郎の店との間に大木を植えて生垣を造り、半九郎の店から富士塚が見えないようにしてしまいます。半九郎は、話が違うと代官中村八太夫に提訴しますが、代官は相手が旗本であることから取り合いません。半九郎は仕方なく仲裁者を立て、生垣の撤去を申し入れたところ、近藤は生垣を撤去する人手がないので半九郎方で生垣を刈り取ってよいという返事をしたようです。半九郎はその翌日、すぐに生垣を刈り取ってしまいますが、これを見て腹を立てた近藤の忰の富蔵は家来を連れて半九郎宅に乗り込み、半九郎と半九郎の倅、半九郎の妻と抱えていた子供、日雇いの5人を斬り殺してしまいます。
半九郎にしてみれば、土地を提供して自力で塚を築いたにも拘らず土地も塚もとられ、店の売りである富士塚の見物も出来ず、見物人が塚に入ることも出来ない状況は理不尽に感じたでしょうし、近藤にしてみれば話に乗ってやったのだから酒と蕎麦くらい振る舞え、といったところだと思いますが、感情のもつれから起こってしまった事件なのかも知れません。。。
<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板
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- 2016/09/19(月) 01:47:54|
- 目黒区の古墳・塚
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画像は、目黒区中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」を東から見たところです。6基の庚申塔がおさめられている庚申堂で、別所坂を登りきった台地の縁辺部に所在しています。昭和10年(1935)に目黑區大觀刊行會より発行された『目黑區大觀』には「上目黑別所坂の上重信常直氏邸の前にある庚申堂附近で、新編武蔵風土記稿に『上目黑別所にある、除地五坪』とある。元祿の頃よりさゝやかな堂宇が建てられ、後近年に至り昭和五年頃上・中兩別所の有志が發起となつて七百餘圓の寄附を集め、祠堂の大修築を施こした。現在鏡域二十五坪五合、數年前まで古松が殘つて居た。」と書かれています。江戸時代には庚申堂は存在しており、その「附近」ということはこの庚申堂とは別の場所に塚が存在した、ということのようですが、すでにこの庚申塚は消滅しており、所在地はわからなくなっています。

この別所坂上庚申塔に近い恵比寿駅周辺には、加計塚古墳や渋谷塚古墳、渋谷区の遺跡番号55番の無名墳など、古墳ではないかと考えられている塚が多く存在したとされており、古墳群の存在も想定されているようです。また、北西側の台地縁辺部には猿楽塚の北塚と南塚の2基が現存しており、こちらも古墳ではないかと考えられています。
別所坂上庚申塔に隣接する場所はかつて存在した「目黒新富士」の跡地です。富士塚が元々存在した塚や古墳を流用して築造された事例も多く確認されていることから、この庚申塚や新富士が古墳であり、この台地縁辺部に古墳群が存在した可能性はないだろうかと考えて調べてみました。庚申塚については破壊の際の遺物の出土の伝承等はなく、また学術的な調査も行われていないようです。また、新富士についてめぐろ歴史資料館でお訪ねしたところでは、何もない場所に築かれた富士塚であり古墳流用の可能性はないのではないかとのことです。残念ながらこの周辺での古墳の存在の可能性は今のところ考え難いようです。。。

昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「庚申塚」が記載されているのですが、この庚申塚は所在地が「上目黒2丁目」と記されています。ということは、中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」とは別の庚申塚が存在するのだろうか?と考えましたが、上目黒2丁目に所在する塚について書かれている文献は見つけることが出来ず、詳細はわかりません。
ちなみに上目黒2丁目には2ヶ所に庚申塔が残されており、画像はこのうちの1ヶ所である「天祖神社」を南東から見たところです。この神社の境内に庚申堂があり、2基の庚申塔が祀られています。

画像が「天祖神社庚申塔」です。塚らしきマウンドは見当たらないようです。

画像は、上目黒2丁目に所在するもう1ヶ所の庚申塔で「けこぼ坂庚申塔」です。目黒区役所前の、駒沢通り沿いの坂の途中の歩道に残されています。
やはりこの場所にも塚は存在しないようです。果たして、開発が進む以前には塚の上に祀られていたのでしょうか。。。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
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- 2016/09/15(木) 01:24:06|
- 目黒区の古墳・塚
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