古墳なう

ご〜ご〜ひでりんの古墳探訪記

「鐘鑄塚(鐘塚)」

「鐘鑄塚」

 目黒区内には、周辺地域でその存在が知られており、また塚にまつわる伝説が残されていながらも削平されて消滅した塚が数多く存在しています。

 「鐘鑄塚」は目黒区駒場に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「鏡塚」という名称の塚が記載されています。ただし、おそらくこの名称は間違いで、「鐘塚(鐘鑄塚)」と同一の塚を指したものではないかと思われるのですが、塚の所在地については旧番地で「駒場町915番地」とはっきりと記載されています。おそらくはまだこの時点で塚が残存していたか、または墳丘が破壊されたものの塚の跡地がまだ地元の人の記憶に残されていた状況であったと考えられます。そこで、鐘鑄塚の所在地を突き止めるべく、当時の番地が記載されている古地図を探してみました。しかし、やっと見つけた古地図にはなぜか913番地までは記されているものの914と915番地が存在せず、916番地以降がまた記されているという状況で、塚の位置が判然としません。そこで、大体この辺りではないかという当たりをつけて実際に現地を訪れてみました。
 画像が、旧駒場町の900〜910番台と思われる周辺のようすです。。。


「鐘鑄塚」

 この周辺は古地図と比べると大きく地形が変わっているため位置を推定するのは難しいのですが、やはりこの周辺もすでに宅地化が進み、古墳らしき痕跡を見ることはできません。。。


「鐘鑄塚」

 北に進むとすぐに一段高くなった台地となり、古墳が存在したとすればこの辺りか?とも思われるのですが、やはり塚を見つけることはできません。画像は、東京大学校内の、ちょっと気になる地形をした場所です。。。


「鐘鑄塚」

 目黑區大觀刊行會より昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚の言い伝えについて次のように書かれています。

 里俗『鐘塚』と言つて、今の帝都電鐵東駒場驛の下御成橋の附近にあつた。同所は山内杉太郎の先々代上知組名主三左衛門氏の邸内に在りし由。同家は會て牛乳搾取業を營み家號を金塚舍と言つて居たが、これはその古名に因むものであつた。名所圖繪に
 鐘鑄塚は駒場野の中にありと云ふ。方九尺許り、高七八尺許りなりしとぞ。昔此處にて梵鐘を鑄たる舊跡なりと傳ふれども、何れの寺の鐘なりしや知るべからず。富士見坂の下の水流、下澁谷の分水掛口の地の名に『道場ヶ淵』と伝ふあり、いづれ此の近邊に盛大の寺院ありしなるべし
と記して居る。


 『目黑區大觀』の「帝都電鐵東駒場驛の下御成橋附近」という記述からして、ひょっとしたら鑄塚の所在地は、『目黒区史』にある「駒場町915番地」は間違いで、正しくは815番地ではないかとも考えて散策してみましたが、やはりこの周辺も宅地化が進み、塚の痕跡は全く見ることができません。
 これは私の推測ですが、目黒区域の古墳時代の遺跡の分布状況から考えると区内の中央部周辺は人々の生活に適さない原野が多く、古墳が存在するとすれば目黒川流域か、河川の上流の台地上に限られていたのではないかと考えていました。現在『東京都遺跡地図』に古墳として登録されている「大塚山古墳」や「狐塚古墳」は実は後世の塚で、世田谷区との区境にある「土器塚」やこの「鐘鑄塚」に古墳の可能性を感じていたのですが、よくわからない!というのが結論です。。。

 この他にも『目黑區大觀』には、現在の青葉台3丁目あたりに存在したといわれる「東山塚」について「上目黒の中央にあつたもので、上目黒村石川組名主加藤定右衛門がもと住んで居た所に當つて居るが、塚らしいものは全然殘つて居ない。又その名の起源も定かでない。市郡併合まで、その名の塚の字を除いて、単に『東山』と云ふ字名が殘つて居た。」とあり、また「耳塚」についても「上目黒東山にあつた。昔敵軍人の耳を斬取つて埋めた所であると傳へられて居る。後に至り之を平坦にして、其趾に耳塚花園と云ふものが有つたが、大正六七年の頃町田氏の邸宅を建築するに當り、其の邊りを發掘した際には、拍車様のものが多數發見されたと伝ふ。」と書かれています。「耳塚」の名称からする言い伝えや、拍車(靴のかかとに装着する馬術のための道具)が出土したという伝承は非常に興味深いのですが、いづれも塚は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、真相は不明です。
 果たして、目黒区内に古墳は存在したのでしょうか。。。

<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』


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  1. 2016/11/30(水) 08:25:09|
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「道京塚」

「道京塚」

 「道京塚」は、目黒区南町3丁目に所在したとされる2基の塚の総称です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられています。旧番地の宮ケ丘1844番地の塚が「東道京塚」、1845番地の塚が「西道京塚」と呼ばれ、どちらも広さ100~130平方メートルほどを占める高さ4mほどの円墳状の塚であったといわれていますが、どちらの塚も現在は削平されて消滅しています。

 画像は、目黒区南町3丁目の東道京塚の所在地付近のようすです。塚の所在地は道路の左側あたりのどこかにあたると思われますが、正確な跡地はわかりません。昭和37年に発行された『郷土目黒』の第六輯では元の土地の所有者による回顧録と塚の往時の写真を見ることができるのですが、同書によると東道京塚は終戦後まではほぼ原型を留めており、昭和30年前後に取り壊されてしまったようです。塚の頂部には「東道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていたようですが、同書には「この塚の持主であり、好事家であった私の父、金蔵のたしか昭和初年になしたことであるが、後にあやまちを招く恐れがあると思った。果して直きに、この塔の存在と名称によって、経塚であると見るような向も現われた。 」とあり、五輪塔の存在を根拠とする経塚であるという判断は誤りであるとしているようです。


「道京塚」

 画像は、「東道京塚」の塚上に立てられていたという五輪塔です。この五輪塔は現在、碑文谷1丁目の円融寺の境内に祀られています。この場所には多くの板碑が円墳状に立てられて祀られており、東道京塚の五輪塔はその正面に見ることができます。


「道京塚」

 画像は、目黒区南町3丁目の西道京塚の所在地付近のようすです。塚の跡地はおそらく道路の右側のどこかにあたると思われます。こちらの塚は戦前には開墾されて破壊が進み、高木神社遥拝所の小祠が建てられていたようです。その後の開発により塚は消滅、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見ることはできないようです。
 この2基の塚は学術的な調査が行われないまま消滅しており、塚の性格については不明とされていますが、『郷土目黒 第六輯』には、元の土地の所有者によるの推察が次のように書かれています。

 両塚は附近の富士見台三合塚(古墳時代末期の前方後円墳と推定された)と同じく、すぐ南方に洗足池の水源の一つをなす清水窪の湧水低湿地をひかえた丘陵の上頂部にあるところから、立地上三合塚と同時代の円墳と見られないこともない。現に東塚の西下の地点から無紋薄手の古土器の完全なものを掘出したことがあったが、地上に出すと同時にバラバラにくずれてしまった。
 尚この二塚の取こわしの状況を見る機会を私は持たなかったが、ともに出土品はなかったときいた。
 これ等の事実と離れて、この塚に道京塚(どうきょうづか)と言う名称がつけられたことについては、私に二つの仮定、想像がわくのである。
 一つは道京塚、即ち道鏡塚、道鏡、村境の標識としての塚ということである。西塚は目黒区内の最高所の地点を走る旧六郷道のかたわらにあり、東塚は丸子道のかたわらにあり、ともにいりくんだ馬込村千束との村境にあることは事実である。
 今一つは、道京塚は道鏡塚なりとする説であって、これは曽て洗心堂主人、赤崎新太郎氏の私に教示されたものである。即ち道鏡塚又は将門塚といわれるものは、ともに謀叛者、反削道鏡(–772)平将門(–940)の名をとっているのは、古く郷村においては、秋に笛や太鼓で害虫を村境の川や塚まで追出す虫追い(悪病よけ)の慣習行事があり、この遺跡の塚が各地にある。即ち村境を現わしたものが道京塚でありとするのであるのである。
 それでは再び失われたこの二塚は古墳なりや、はた又一里塚、境界塚の如き標識の塚なりやということになるが、標識塚としては三合塚とこの二塚の距離が、三角形に何れからの距離も2~300メートルを出ない近距離にあり、又東方洗足には塚越などの地名もあり、このあたり一帯にかけては、小規模ながら古代文化のあとの古墳群のあったことを示すものではないかと私は思う。(『郷土目黒 第六輯』8ページ~9ページ)


 東方に存在する「三合塚」については、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した3基の塚であることがわかっており、前方後円墳ではなかったことが確認されていますので、2基の道京塚と周辺の塚を含めて古墳群が存在したとする説は現実的ではないと思われますが、なかなか興味深い仮説です。この塚の位置はかつての碑文谷村と馬込村の村境となっていましたが、現在でも目黒区南町3丁目と大田区北千束1丁目との境界となっています。「めぐろ歴史資料館」で行われた平成27年の春の企画展でも、展示されていた境界にまつわる民俗資料としてこの道京塚が紹介されていたようですし、同書の記述からしても境塚であるとする説が現実的かもしれません。。。


「道京塚」

 西道経塚の頂部にも、東道京塚と同様に「西道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていました。この五輪塔は現在、中目黒3丁目の「めぐろ歴史資料館」の敷地内に移設保存されています。

<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
富岡丘蔵「失われた道京塚二つ」『郷土目黒』
目黒区めぐろ歴史資料館『めぐろ歴史資料館だより つどい 第10号』


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  1. 2016/11/27(日) 09:35:53|
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「土器塚」

「土器塚」

 「土器塚遺跡」は、目黒区駒場1〜2丁目から大橋2丁目、世田谷区代沢1丁目から池尻4丁目にかけて所在する遺跡です。この遺跡は、古くは旧石器時代から縄文時代や弥生時代、明治時代以降の「駒場練兵場」関連の防空壕や掩体壕など、多くの遺物や遺構が検出されている複合遺跡です。画像は、この土器塚遺跡の中心にあたる、淡島通りの目黒区と世田谷区の区境付近を東から見たところです。

 この周辺には「土器塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』などに取り上げられており、源義家が奥州征伐の際にこの地で酒宴を催して土器を埋めたという説、また世田谷区下馬5丁目に所在する「葦毛塚」と同様に馬を埋めた塚であるという説などが記載されています。昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚について次のように書かれています。

 駒場野の内に在りて、俚言に依れば、昔此の地が奥州街道に當つて居たので、源義家が奥州征伐に赴く途次、此處で酒宴を開いた事がある。其時に用つた土器を、義家の武功英名を尊ぶの餘り、此の附近の人々が地下に埋めて塚としたと傳へて居る。卽ち之が土器塚の起源で、此塚の附近の事を同勢山と云ふのは、義家に供奉した者等の屯ろした所の舊跡であると。『按ずるに此地に芦毛塚と稱するものあり、疑ふらくは土器塚も?塚を語るものにして、その往古は馬などを埋めたる塚なるべし』と江戸名所圖繪は云ふて居る。(『目黑區大觀』203ページ)


「土器塚」

 画像は、駒場二丁目17番にある「〆切地蔵」を南西から見たところです。目黒区のホームページによると、この地蔵は江戸時代の延宝から元禄年間に建立されたものであると考えられており、板きれに次の様な由来が書かれていたそうです。

 コノ地蔵ハ、駒場、下代田、池尻ノ、境ニアル仏デアリマス。昔ノ人ノ伝エ聞ク話ニ依ルト、明治初年以前、西駒場地蔵(一名〆切地蔵)ト申サレ、隣村に悪病流行致ス時ハ、当駒場ノ村人一同、百万ベント云フ念仏ヲトナエ、地蔵尊ニ願ヲ掛ケ、当時ニハ一名ノ病人モ無ク、安心シテ生活シテコラレタノ由。悪病悪魔〆切ト云フノデ〆切地蔵ト申サレ、今デモ重病人ノ在ル方ハ、〆切地蔵ニ一週リ(現今ノ一週間)、モシ一週リニテ御利益ナキ時ハ、二週リ御願申セバ必ズ快方ニ向フトノ伝説デ御座リマス。又此ノ地蔵ニ『イタズラ』又賽銭ヲ取ルマタハ不心得ノ者ハ、一ヶ月以内ニ必ズ災難ニアフトノ事、又他何事ノ願デモ必ズ誠心誠意ノ方ニ成就スル事『ウタガイナシ』

 やはり土器塚については何も書かれていないようです。この場所は、淡島通りがちょうど「く」の字に折れ曲がった場所で、目黒区と世田谷区の区境でもあり、またお地蔵様が祀られているということで、塚の跡地としては怪しい!と考えたのですが、結局正確な塚の跡地を突き止めることはできず、今思えばあまり深追いせずあきらめてしまったかもしれません。。。
 
「土器塚」

 明治15年(1882)には、駒場農学校生であった福家梅太郎氏が「土器塚」で縄文土器を発見し、翌明治16年に『東洋学芸雑誌』に「土器塚考』という論文を発表しているそうです。つまり、明治の頃までは塚は残されていたようなのですが、現在土器塚は完全に消滅しており、痕跡を見ることはできないようです。

<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区守屋教育会館 郷土資料室『めぐろの弥生時代をさぐる ―駒場土器塚遺跡の調査から―』


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  1. 2016/11/26(土) 02:15:16|
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「目黒元富士」

「目黒元富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。この富士塚は以前、9月19日の回で紹介したものですが、今回紹介するのは新富士から遡ること7年、文化9年(1812)に築造された「元富士」を紹介したいと思います。この元富士は東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上に所在したとされる富士塚で、別名「西富士」とも呼ばれていました。
 この元富士は、丸旦講の先達で麻布善福寺門前の伊右衛門により築造され、明治11年(1878)にこの場所が明治維新の際に活躍した岩倉具視の別荘となった際には、塚は残されたものの石祠や石碑、水盤などの石造物は目黒区大橋2丁目の氷川神社に移されています。その後この場所は東武鉄道社長の根津喜一郎氏の私邸となり、昭和14年(1939)の改築の際に塚は取り崩され、消滅しています。現在のこの場所はマンションとなっており塚の痕跡は何も残されていませんが、跡地前には目黒区教育委員会による説明板が設置されており、画像はその跡地前のようすです。

           目黒元富士跡
                            上目黒1―8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講と
いう団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型
の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、
山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の
人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、
別所坂上(中目黒2―1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こ
ちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重
の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描か
れています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(2―16―21)
へ移されました。
                         平成22年12月
                              目黒区教育委員会

 元富士の北側に隣接する旧朝倉家住宅周辺には、かつては複数基の古墳が存在していたといわれ、現在も残存する2基の猿楽塚古墳(北塚と南塚)は渋谷区の指定史跡として保存されています。同じ丘陵上縁辺部に存在したこの元富士が、例えば元々存在した古墳を流用して築造された可能性はないのだろうかと考えたのですが、めぐろ歴史資料館でスタッフの方にお聞きしたところでは、この元富士と新富士は何もない場所に蓄財された富士塚であるということで、古墳流用の可能性はないようです。


「目黒元富士」

 画像は、目黒区大橋2丁目に所在する「氷川神社」を南西から見たところです。旧上目黒村の鎮守であるこの氷川神社の境内には、目黒元富士にあった浅間の石祠や仙元講(丸旦講)の石碑が移されています。富士塚は存在しないようですが、台地の斜面に登山道が造られて「目黒富士」と呼ばれています。


「目黒元富士」

 画像が、氷川神社境内に所在する「富士浅間神社」です。社殿前には「目黒富士」について目黒区教育委員会による説明板が立てられています。

             目黒富士
                          大橋2-16-21
 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が  
各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富
士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
 目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に
目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上
(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。
元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年
(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑
を移しました。
 昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一
角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行
われています。
                     平成22年3月
                          目黒区教育委員会



「目黒元富士」

 富士講の石碑のようす。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


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  1. 2016/11/25(金) 00:57:47|
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「目黒新富士」

「目黒新富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文化9年(1812)に築造されたもので、東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上にあり、「元富士」あるいは「西富士」と呼ばれていました。そしてもう1基が、元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。蝦夷地探検で名高い幕臣・近藤重蔵が自身の別邸に作った富士塚で、眺望が良く、多くの参拝人を集めたといわれています。

 画像は、目黒区中目黒の「別所坂」です。1丁目と2丁目の境を北東へジグザグに折れ曲がって登るこの坂はこの周辺の地名であった「別所」が由来といわれており、古くより麻布方面から目黒へ入る道として賑わったといわれています。ちなみに別所とは『新しく開かれた土地」あるいは「行き止まりの場所」を示すといわれているそうです。
 この坂を登り切った場所が、かつての新富士の所在地です。坂の入口には「別所坂」の碑が立てられており、「かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」と新富士についてもふれられています。


「目黒新富士」

「目黒新富士」

 別所坂を登り切った階段の右手に目黒区教育委員会による「新富士」についての説明板が設置されています。画像の右手のマンションの奥のあたりが新富士の跡地で、昭和34年(1959)までは残されていたそうですが、残念ながら現在は取り壊されています。


「目黒新富士」

 別所坂を下った新富士跡地の南側にある「目黒区立別所坂児童遊園」には、新富士にあった石碑が移設されています。ここにも目黒区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

新富士 中目黒2–1
 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつく
られ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼
ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文
政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた
近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが
良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴
雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙
法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊
辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
                         平成18年10月
                       目黒区教育委員会



「目黒新富士」

 石碑が保存されている目黒区立別所坂児童遊園で振り返ってみるとこんな風景が。この周辺は昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られており、新富士は大勢の見物人で賑わったといわれていますが、眺めの良さは健在ではあるものの、残念ながらこの日は富士山は確認出来ませんでした。。。


「目黒新富士」

 富士山には、過去の噴火で出来た「風穴」と呼ばれる溶岩洞窟が多数存在しています。この内部に助骨の形や臓器の形を示すものがあり、人間の胎内を連想させることから富士講の人々はこれを胎内洞穴と呼んでいます。この胎内洞穴をくぐりぬけると安産の御利益があるということで、講徒は白木綿の布を襷に掛けて胎内くぐりをして、白木綿を持ち帰って産婦の腹帯にして安産を願うという事が行われていたそうです。
 江戸の各地に築造された富士塚の多くにはこの胎内洞穴が造られているようですが、目黒新富士跡地の隣接地からは、平成3年の発掘調査により胎内洞穴と考えられる地下式遺溝が発見されています。現在は埋め戻されて見ることは出来ないようですが、めぐろ歴史資料館では復元された胎内洞穴が公開されています。


「目黒新富士」

 この胎内洞穴は目黒新富士が所在した南の方向に延びており、壁面に富士講の笠(講)印や文字が線刻されていました。奥行き6mの横穴の奥には祠が造られており、祠の直下からは御神体と思われる「大日如来」像が発見されたそうです。
 画像は、めぐろ歴史資料館で公開されている壁面の線刻のレプリカのようすです。


「目黒新富士」

 文政9年、この富士塚にまつわるある事件が起こりました。
 あるとき、山正廣構という富士講の講中の集まりの中で、下渋谷村の百姓である半九郎の屋敷地が眺めの良い場所であることから、ここに富士塚を築造すると参拝人が多く集まり、講員も増えるのではないかという意見が出ました。しかし、百姓の身分での富士塚の築造は難しいと考えた半九郎は、自身の所有地の一部を近藤重蔵氏の抱屋敷(別邸)としてこの邸内に富士塚を築くという意向を、近藤宅に出入りしている者を通じて打診したところ両者の考えは一致、早速邸内の残土を集めて富士塚が築造されます。この塚は高台にあったため後に広重の『名所江戸百景』に描かれるほど見晴らしが良く、江戸の人びとの行楽の名所として大変な人気を集めます。これに合わせて半九郎は自宅で手打ち蕎麦の店を始めますが、こちらも大繁盛となったようです。
 その後、近藤は別邸に招待した客に半九郎の店から出前した蕎麦や酒でもてなしますが、代金の支払いはいっさいしませんでした。これに対して半九郎は、採算が取れなくなっては困ると考え、近藤からの注文には応じない事にします。近藤は腹を立て、半九郎の店との間に大木を植えて生垣を造り、半九郎の店から富士塚が見えないようにしてしまいます。半九郎は、話が違うと代官中村八太夫に提訴しますが、代官は相手が旗本であることから取り合いません。半九郎は仕方なく仲裁者を立て、生垣の撤去を申し入れたところ、近藤は生垣を撤去する人手がないので半九郎方で生垣を刈り取ってよいという返事をしたようです。半九郎はその翌日、すぐに生垣を刈り取ってしまいますが、これを見て腹を立てた近藤の忰の富蔵は家来を連れて半九郎宅に乗り込み、半九郎と半九郎の倅、半九郎の妻と抱えていた子供、日雇いの5人を斬り殺してしまいます。
 半九郎にしてみれば、土地を提供して自力で塚を築いたにも拘らず土地も塚もとられ、店の売りである富士塚の見物も出来ず、見物人が塚に入ることも出来ない状況は理不尽に感じたでしょうし、近藤にしてみれば話に乗ってやったのだから酒と蕎麦くらい振る舞え、といったところだと思いますが、感情のもつれから起こってしまった事件なのかも知れません。。。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


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  1. 2016/09/19(月) 01:47:54|
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