
那珂川右岸の湯津上地区には「小舟渡古墳群」として「観音塚古墳」(円墳)と「二ツ室塚古墳(前方後円墳)が所在します。今回紹介するのは観音塚古墳です。
かつては「小舟渡古墳群2号墳」と呼ばれていたこの古墳の規模は、直径約40m、高さ6mという大型の円墳で、基底部には一段の平坦面があり、破壊の少ないこの古墳はさながら林の中に着陸したUFOのごとき趣があります。墳頂部からは鶏の形象埴輪、基底の平坦面からは塚を取り巻くように埴輪列が確認されているといわれ、円筒埴輪は現存します。
昭和61年(1986)に墳丘の測量調査が実施されており、この測量図から南東に開口する石室の存在が想定されているようですが、これは土砂に埋没してしまったのか、残念ながら見ることはできません。
現存する円筒埴輪から、古墳の築造は6世紀後半頃と推定されているようです。。。
<参考文献>
塙 静夫『探訪 とちぎの古墳』
有限会社 随想舎『那珂川と八溝の古代文化を歩く』
栃木県小川町教育委員会『国指定史跡 那須小川古墳群』
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- 2017/06/29(木) 00:47:46|
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日本有数の鮎の宝庫といわれる、那珂川右岸の縁辺部に所在するのが「二ツ室塚古墳」です。画像は、この二ツ室塚古墳を西から見たところです。かつては「小舟渡古墳群1号墳」と呼ばれていた古墳で、昭和41年2月15日に大田原市の史跡に指定されている古墳です。前回紹介した「観音塚古墳」から南方約30mほどの地点にあり、観音塚古墳同様に植林された杉の山林の中に所在することから、昼間もなお薄暗いという環境下にあります。
この古墳は、昭和49年(1974)の栃木県史編さん室により発掘調査が実施されています。規模は全長46.5m、後円部の高さ4.5m、前方部の高さ2.2mの前方後円墳で、葺石は後円部のみに存在しており、後円部造営後に一定の時間を経て前方部が築造されたことがわかっています。通常見られる後円部の横穴式石室の加えて、前方部からも同様の石室が発見され、未盗掘であった前方部の石室内からは数多くの副葬品が出土しています。この出土品や石室の構造から、古墳は6世紀後半から7世紀初頭頃に築造されたものと推定されています。

画像は、北西から見た二ツ室塚古墳です。左手前が前方部、右奥が後円部という状況です。
発掘以前のこの古墳は前方部よりも後円部が高く、また前方部の前端があまり開かずに直線的に伸びていることから、古い時期の前方後円墳ではないかとも考えられていたようですが、調査により、前方部西側は農道により削られていることによる形状であることが判明したようです。
大田原市により設置された説明板には次のように書かれています。
二ツ室塚古墳 大田原市指定史跡
所在地 湯津上村大字小船渡
墳 形 前方後円墳
規 模 全 長 46.5m
後円部径 22.0m 後円部高さ 4.5m
前方部幅 16.0m 前方部高さ 2.2m
この古墳は、昭和49年、栃木県史編さん事業の一環として発掘調査が実施
され、後円部及び前方部の双方に横穴式石室をもつ珍しい古墳であることが
わかりました。
発見された横穴式石室は、いずれも側壁は河原石を積み重ね、奥壁は1~
2枚の巨石を立てて構築されたものですが、平面形が異なり、後円部の石室
は羽子板状に、前方部の石室は側壁がいくぶん膨らむ「胴張り」という形を
しています。
後円部の石室はすでに盗掘を受けていたために、鉄鏃がわずかに出土した
だけですが、前方部の石室からは刀類や多量の鉄鏃が出土しました。
また、平成元年には湯津上村教育委員会による発掘調査も実施され、前方
部前端には幅6mの周溝があることもわかりました。
この古墳は、出土遺物や石室の形態等から、6世紀後半から7世紀初頭に
かけて築造された古墳とみられています。

後円部の石室のようすです。以前は河原石を積み重ねた横穴式石室を見学することができたようですが、現在は土嚢が積まれて塞がれています。東日本大震災で石積が崩落したとお聞きしましたが、これからさらに大地震が来るかもしれないことを考えるとちょっと怖いです。

画像は、説明板に掲載されていた後円部石室のようすです。

石室周辺には天井石らしき石材が見られます。
それにしても、前方後円墳の多くは後円部に石室が造られているようですし、築造当時の感覚としては後円部が前で前方部が後ろだったんじゃないかと思うのですが、やはり真相はわかりませんね。。。

前方部に存在するという石室も、天井石らしき石材が僅かに露出するのみで内部を見学することは出来ません。発掘調査により内反刀、直刀、刀子、柄、鍔、鉄鏃、留金具などの武具類が出土しており、その後のX線写真撮影からは、鍔の外縁に施された波状唐草文の象嵌が発見されているそうです。。。
<参考文献>
塙 静夫『探訪 とちぎの古墳』
有限会社 随想舎『那珂川と八溝の古代文化を歩く』
眞保昌弘『塚古墳と那須国造碑 下野の前方後方墳と古代石碑』
栃木県小川町教育委員会『国指定史跡 那須小川古墳群』
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- 2017/06/27(火) 00:54:50|
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黒羽の市街から南方に3キロほどの、大田原市北滝地区の那珂川左岸の段丘上に所在するのが「銭室塚古墳」です。昭和52年(1977)5月18日に大田原市の史跡として指定されている古墳で、下段径約26メートル、高さ約2メートル、上段径約18メートル、高さ約2.5メートルの二段築成の円墳です。外面から周溝を確認することはできませんが、かつて周辺の圃場整備が行われた際に幅約5メートル程の周溝が見つかったと伝えられています。6世紀頃の築造と推定されているようです。

墳丘上には、大田原市教育委員会による説明板が立てられています。かなり色褪せていて現地では読み難いのですが、次のように書かれています。
大田原市指定文化財 史 跡 銭 室 塚 古 墳
(昭和52年5月17日指定)
那珂川左岸段丘上に立地する2段築成の円墳である。直径26m、高さは4.5mあり、ほぼ中段にテラス状の平坦
面を持つ。墳丘表面は、河原石の葺石で覆われている。埴輪等が伴っていた痕跡は見あたらない。また、原形か
らは認められないが、基盤整備時の土の観察から、幅5mほどの周溝が伴っていたといわれている。
主体部は、南西に面して開口している河原石を乱石積みした両袖型の横穴式石室である。側壁は、わずかに銅
張りを呈し、“持ち送り”もゆるやかである。床面にも河原石を敷きつめていたと思われる。石室の規模は、玄
室長さ6.3m、玄室最大幅2.0m、奥壁幅1.4m、奥壁高さ1.45mを測る。玄室には”ほうだて石”(袖石)が左右に立
ち、その上に“まぐさ(楣)石”がしっかりと載っている、羨道部(墓道)の天井石は外されて墳丘南斜面に1個存
在している。側壁は、土砂に覆われているが、その長さは約3mほどである。
いつの時期か盗掘を受け、石室内に遺物は見あたらない。ただ、金銀珍宝を埋めた塚と言い伝えられて銭室塚
の名が残っている。
現在、周囲には他の古墳は認められないが、当時は数基の円墳が群集しており、この古墳もその中のひとつで
あったと思われる。
周囲の水田には、古墳時代後期に比定できる土器片が散布しており、銭室塚古墳もこの時期に築造されたもの
と推測される。未調査の古墳であるが、円墳ではなく墳形を帆立貝式とみる考え方もある。
大田原市教育委員会

墳丘南側に横穴式石室が開口していますが、入り口は土砂に埋没しており、残念ながら内部を観察することは出来ません。。。

墳丘南斜面に外された羨道部の天井石が置かれています。

墳丘の裾部と斜面部には河原石による葺石(ふきいし)が見られます。
真夏の、青々とした稲穂の中に浮かぶ古墳の写真を撮りたいと思うのですが、なかなか機会に恵まれません。。。
<参考文献>
塙 静夫『探訪 とちぎの古墳』
有限会社 随想舎『那珂川と八溝の古代文化を歩く』
栃木県小川町教育委員会『国指定史跡 那須小川古墳群』
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- 2017/06/25(日) 22:19:23|
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「川崎古墳」は、栃木県那須郡那珂川町の武茂川と那珂川の合流地点近くに位置する古墳です。北に「北向田古墳群」、東に「三枚畑古墳群」があり、川崎古墳はこの中心的位置にある古墳です。馬頭から小川方面へ向かう国道293号線が大きく右にカーブする左手の細い道を下ると、やがて木彫りの「川崎古墳」の標識が見えてきますが、この奥の民家の敷地内に古墳は所在します。

画像が、「川崎古墳」を北西から見たところです。右手前が前方部、左奥が後円部です。
敷地内に設置されている那珂川町教育委員会による説明板には次のように書かれています。
川 崎 古 墳
川崎古墳は、馬頭町大字久那瀬字川崎に所在し、那珂川とその支
流武茂川の合流点近くの低段丘上に築造された古墳時代後期の前方
後円墳です。この周辺には、北側に北向田古墳群、その東側の丘陵
には唐の御所横穴墓(国指定史跡)を中心とする和兄・北向田横穴
墓群、東側の台地上には三枚畑古墳群などがあり、川崎古墳はその
中心的存在をなしています。
本墳は前方部を西に向けて造られ、全長は約四九メートル、後円
部の径は約二一メートル、後円部の高さは約四・五メートル、前方
部と後円部の頂部間は約二四メートルで、前方部が約一メートル程
低くなっています。前方部幅は三〇~三五メートルと推定され、墳
丘全体に葺石が施されています。
本墳を特に著名ならしめているのは巨大な横穴式石室で、後円部
中央から南に向かって開口し、羨道は欠損していますが玄室部は良
く遺存しています。自然石を巧みに積み上げて造ったもので、天井
と玄室奥壁には巨大な石が使われています。玄室の規模は全長が約
八・二メートル、幅は奥壁側で約一・七メートル、玄室側で約一・
六メートル、最大幅三メートルで胴張りの強い両袖型の横穴式石室
です。今のところ開口している横穴式石室では栃木県内最大級の規
模を有し、那須地方はもとより、県内でも貴重な古墳の一つです。
昭和六三年に石室内の精査を目的に国士館大学教授大川 清文学
博士の指導で調査を行い、ガラス小玉・耳環などの装飾品、鉄鏃・
鞘尻・留金具・飾り弓金具などの鉄製品、須恵器などが出土しまし
た。このほか古銭・カワラケ・陶磁器など中世期の遺物も出土して
おり、石室は割合早い時期に開口していたようです。
那珂川町教育委員会
画像が石室内のようすです。この古墳は、耳環の組み合わせから、少なくとも数次の追葬が想定されており、遺物の年代は6世紀後半から7世紀前半で、古墳の築造は6世紀後半の比較的新しい時期であると推定されています。そして、15世紀後半頃に石室内の主な副葬品が持ち去られ、明治期には民家の建設により墳丘が削られ、羨道部分が破壊されたと考えられているようです。

石室の入り口周辺には石材らしき石が残されています。破壊された羨道部分の石材でしょうか。
近年の調査では、古墳の周囲には幅約15メートルの堀が廻っていることや、削り出しによる長方形土壇上に前方後円墳が築かれていること、また前方部にも石室が存在することがわかっており、この石室は盗掘の形跡は認められていないようです。

那珂川町の「栃木県立なす風土記の丘資料館」には、川崎古墳の横穴式石室に使用された石材の一部が展示されています。
<参考文献>
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- 2017/06/23(金) 03:04:20|
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「北向田古墳群」は、栃木県那須郡那珂川町の那珂川左岸段丘上に分布する古墳群です。8基の古墳の所在が知られており、現在7基が現存します。
画像は1号墳の跡地周辺のようすです。昭和38年(1963)に調査が行われた後に消滅した古墳です。当時を知るご近所の農家の方にお聞きしたところでは、発掘された墳丘から河原石を積んだ石室が露出した場面が子供ながらにとても興味深かったとおっしゃっていました。。。

画像は2号墳を北から見たところです。現状の規模は東西、南北ともに一辺が10mの方形を呈しており、高さ2mです。個人の宅地内に残存しており、原形は留めていないようです。
この周辺地域の明治時代の地籍図を確認すると、「あお地」と呼ばれる除外地が記載されており、このうちの多くは古墳であった可能性が指摘されています。すでに消滅した1号墳や残存する3~7号墳の位置にもあお地が見られ、北向田地区南端の1~7号墳の所在範囲に限っても16~17か所のあお地を確認することが出来ます。
この周辺地域は、昭和50年代に行われた圃場整備による整地によりかつての地形は失われており、重機を使用した整地により数基の古墳が消滅したともいわれています。ちなみに2号墳と3号墳の間にも3~4か所のあお地が見られることから、かつてはかなり多くの古墳が存在したようです。

画像は、3号墳を西から見たところです。古墳群中唯一、形象埴輪や円筒埴輪が採集されている古墳で、現存規模は東西、南北ともに一辺が10m、高さ1.8mで、墳形は不明です。

画像が、北西から見た4号墳です。現存規模は東西、南北ともに一辺が17m、高さ3.5mで、現状の墳形は方形を呈しています。墳丘上には葺石を見ることが出来ます。

画像は、5号墳を西から見たところです。現存規模は東西4m、南北10m、高さは2mで、墳形は不明です。

画像は西から見た5号墳です。農道により大きく変形しているようです。

画像は、6号墳を西から見たところです。現存規模は東西11m、南北17.5m、高さは2.5mで、墳形は不明です。

画像は西から見た6号墳です。こちらも農道により墳丘の東側がざっくりと削られています。

画像は、7号墳の跡地のようすです。この古墳は、東京電力による送電線の鉄塔建設に伴う発掘調査が行われています。規模は径約16mの円墳で、葺石が葺かれていた可能性が高く、埴輪は存在しなかったようです。埋葬施設は河原石積みの横穴式石室で、すでに盗掘にあっていたものの、太刀、小刀、刀子の破片、金銅製の耳環、碧玉、水晶、瑪瑙製の勾玉、小玉などが出土しています。

画像は、8号墳を西から見たところです。地元では古くより「狐塚」とも呼ばれている古墳で、残存する古墳群中最大規模のこの古墳は、東西15m、南北23m、高さ約4mを測り、方墳ではないかと考えられています。墳丘上には葺石が認められるようです。
明治時代の地籍図に見られる「あお地」は、この8号墳の所在する久那瀬地区にも存在するようです。8号墳は現在よりも若干大きく記載されており、その周囲には数ヶ所のあお地が存在します。そして、さらに東方300mの地点には直径30m、高さ5mほどの「大塚」と呼ばれる古墳が存在したといわれ、やはりこの場所にあお地が見られるようです。
明治41年頃の北向田小学校の資料には、この大塚について「大塚=北向田小字大塚ニアリ高サ三間、周囲五十間表面ハ芝ヲ以テ蔽ハル」とあり、またこの周辺の古墳について「塚=?小字塚下ニアリ大塚ニ比し稍小形ナレドモ基数現時十七」と書かれており、この当時の北向田古墳群には計18基の古墳(らしき塚?)が存在したようです。
<参考文献>
馬頭町教育委員会『北向田7号墳』
有限会社 随想舎『那珂川と八溝の古代文化を歩く』
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- 2017/06/21(水) 01:37:32|
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