今回はタイムリーな探訪記録ということで、志木市本町2丁目所在の「田子山富士塚」、その2です。
私が最初にこの敷島神社を訪れた日は仏滅で、富士塚は閉山日で富士塚の登拝もできず、御朱印もいただくことができませんでした。
その直後には新型コロナウイルスによる緊急事態宣言も発令され、富士塚の再訪はしばらくは無理かなと諦めていました。この『古墳なう』でも地上から収めた写真のみで更新したのですが、最近になって登山が再開されていることをネットで知ってからいてもたってもいられなくなり、よく晴れた大安の日に「今日がチャンスだ!」と思い立ち、再訪しました。
今年3月には、国の重要有形民俗文化財に指定されたばかりの富士塚です。
無事に再開されてよかったです。。。

田子山富士の雄姿。
秋晴れの空が映える、素晴らしき光景です。。。
高さは約9m、麓の円周は約125mと、とにかくデカイです!

敷島神社でお参りをすませてから、いよいよ田子山富士に登拝します。
「本日は開山日です。」の立て札が立てられています。
前回は「本日は閉山日です。」の立て札が睨みをきかせていましたからね。

右は琴比羅神社で、富士塚築造以前から存在したといわれる神社です。
左は浅間下社で、「逆修の板碑」を御神体として明治2年の田子山富士着工時に建てられた神社です。
この間を抜けて登山道に向かいます。

浅間下社の御神体である「逆修の板碑」です。
田子山富士塚は、もともと「田子山塚」と呼ばれる古墳を流用して造られたといわれています。この古墳の上には、南北朝時代初めの暦応3年(1340)に旅の僧である十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)が富士山入定に先立ち、逆修の板碑を建立したといわれています。
江戸時代の地誌類を確認すると「田子山塚」と表記された塚の上に石碑が建てられている様子を確認することができますが、この石碑が逆修の板碑であった可能性は十分に考えられるところです。。。

その後、引又宿で醤油醸造業を営んでいたという熱心な富士信仰の信者であった高須庄吉が、あるときに「田子山に行きなさい」という夢のお告げにしたがい、富士信仰の先輩である宮岡卯八と田子山に向かってみると、そこで1枚の板碑を発見します。
この板碑こそが、十瀧房承海が建立したという逆修の板碑であり、泥にまみれた板碑を洗って刻まれた文字を読んでみると、富士山に関わることが書かれていることがわかり、感激した庄吉はここに富士塚を築くことを決意したといわれています。
日本中が混乱していた明治維新の時期である明治2年10月、高須庄吉は天下太平を祈願して富士塚築造に着工します。全て人力による作業を経て明治5年6月、ついに富士塚は完成します。

ようやく登山路の入口です。

登山口の右側には屋根棟と門扉が展示されています。
もとは経ケ嶽門付玉垣の入口部分にあった屋根棟と門扉で、麓に落下していたものだそうです。

さらに進みます。
「田子山」の名称の由来について、日本武尊が東征の帰路にここに立ち寄って富士山を遥拝し、田子の浦に似た景色だと言ったことから「田子山」と呼ばれるようになったという説。古墳の墳丘上から見た新河岸川を通る船の風景が駿河の田子の浦に似ていたからという説。田畑で働く農夫(田子)に、この塚の上から法螺貝や板を叩いて合図をしたことから田子山と呼ばれるようになったという説等、諸説あるようですが、定説はないようです。

ここが一合目です。
この一合目には合目石が見られますが、残念ながら失われた合目石もあるということでした。。。

二合目。
実際の富士山は、江戸時代まで女人禁制で頂上までの登山は許されず、二合目の御室浅間神社までしか登れなかったそうです。明治5年(1872)の政令により女人禁制は廃止されました。
中央の奥に見えるのが「御室浅間神社」の碑です。

三合目。
この田子山富士塚の所在する「敷島神社」は明治41年5月、もともとあった浅間神社と、志木地区にあった村山稲荷、星野稲荷、水神社が合祀されてできました。つまり、田子山富士塚が造られた当時には敷島神社はなかったということになります。
あ、そうなんだ?とちょとびっくりしますね。笑。

四合目。
富士塚は田子山富士保存会により整備されているそうです。
開山日には、保存会の方の詳しい解説を聞くことができます。
塚の表面には、暖かくなると当然ながら雑草が生えるわけですが、これを根っこごと引き抜いてしまうと盛り土が流出してしまうことから、すべて刈り取っているのだそうです。
保存会の方々のご苦労が偲ばれます。。。

五合目。
この田子山富士の体積は、約2400立法メートルあるそうです。
元々の古墳に積み増した盛り土がどこから運ばれたのかは謎であったようですが、東に隣接するマンションの建設の際に行われた発掘調査により土を削り取ったと考えられる鋤や鍬の跡が見つかり、ここから取った土で塚が盛られたと考えられています。
すぐお隣だったんですね。

六合目。
大正12年(1923)の関東大震災では被害が発生して、修復工事が行われたそうです。
また、平成23年3月11日の東日本大震災でもやはり石造物の転倒や登山道の崩落が進み、平成27年、28年の2年度にわたって修復工事が行われ、平成28年7月の山開きから入山が可能になりました。
かなり急勾配の大きな富士塚ですからね。
無理もないかもしれません。。。

七合目。
以前登拝したことのある、練馬区の「大泉富士」にビジュアルが似ているなあと感じていましたが、同じ「丸吉講」による築造なのだそうです。。。

八合目。
頂上に近づくにつれ、急勾配になってきます。
足元に気を付けないと。。。

九合目。
ようやく山頂が見えてきました!

山頂に祀られている浅間社石祠(奥宮)です。
祠の中には「木花開耶姫命」と彫られており、台石には「丸吉講」のマークが彫られています。

山頂の様子。
意外と広さはない印象です。
私は少々腰の調子が良くなかったので、真剣な感じでした。笑。

御朱印は、敷島神社のものと田子山富士塚のものと二種類いただきました。.゚+.(・∀・)゚+.
画像は敷島神社のものです。

画像が田子山富士の御朱印です。.゚+.(・∀・)゚+.
私は、この富士塚の元となった「田子山塚」は高い確率で古墳であると睨んでいますが、真相は調査の進展を待たなければなりません。
入山可能日などの情報は、田子山富士保存会のホームページで確認できます。
せっかく訪れるなら是非とも登拝したいところですし、入山可能日には志木市商工会が田子山富士塚の麓に
『田子山富士 観光案内所』を出店しており、御朱印のほか富士山グッズやガイドブックなども販売しています。
また、保存会の方の解説を聞くことができるのも入山可能日に限られています。
ちなみに私は、近隣の田子山御嶽神社の塚で周溝が検出されて古墳であることが確認されている!という情報を保存会の方にお聞きして知ることができました。(ありがとうございました。感謝です。)
大安の、できれば晴天の日がお薦めですね。
<参考文献>
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【歴史編】』
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【お宝編】』
田子山富士保存会『田子山富士のナゾ【パワースポット編】』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/21(土) 23:53:17|
- 埼玉県の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

今回は、志木市本町2丁目に所在する「田子山御嶽神社」の探訪の記録です。
この神社は田子山富士塚で有名な敷島神社の境外社で、社殿が塚の上に鎮座しており、塚は古くから古墳ではないかと考えられてきました。まずは敷島神社を参拝して田子山富士塚を見学した後、この御嶽神社の参拝に訪れました。
境内には、「御嶽神社」について志木市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
御 嶽 神 社
天保二年(一八三一)に実明講社
(御嶽講の一派)の人々が木曽御嶽神
社を勧請し、創建したものと伝えら
れています。
木曽御嶽山は、江戸中期頃までは
一般に開放されていませんでしたが、
寛政四年(一七九二)頃より一般にも
解放されるようになり、御嶽講社の
結成が行われ、江戸末期には全国に
広まってその数五〇〇ともいわれて
いました。
現在の社殿は、昭和三十三年十月
に改築されたものです。
平成六年三月三十日
志木市教育委員会掲示
とりあえずは発掘調査が行われる以前に設置された説明板ということで古墳についての記述は見られないようなのですが、この御嶽神社の土台となっている塚はどうやら古墳であるようです。

これが、残存する塚の上に鎮座する御嶽神社で、西から見たところです。
この神社の境内地は「田子山遺跡」に含まれており、これまでに行われた第63地点と第73地点(社殿の北側にあたる調査地)の確認調査により検出された遺構から、御嶽神社を取り囲むような堀跡が存在するのではないかと想定されていました。
そしてその後、第81地点の発掘調査により、やはり御嶽神社を取り囲む巨大な堀跡が検出され、まだ断定するには至らないものの、この溝は古墳の周溝ではないかと考えられています。
この塚が古墳であれば、堀跡から想定して直径約33メートルの円墳で、北東側の第32地点からは方形周溝墓1基が検出されていることから、この一帯は弥生時代後期から続く墓域であった可能性も想定されています。

北西から見た古墳の様子です。
とりあえず「○○古墳」とか「○○1号墳」といった古墳の名称はつけられていないようなのですが、現状はこの御嶽神社の塚が志木市内で唯一の、発掘調査により古墳であることが確認され、かつ残存する古墳ということになります。
古地図の中には「田子山塚」が2箇所に記されているものも存在するようですが、これは現在の田子山富士塚と御嶽山を指すようなので、この2基の塚は古くからかなり知られた存在であったのかもしれません。
この御嶽山が古墳であるということになると、同じ台地上縁辺部に存在する、もともとあった古墳を流用して造られたという伝承が残る「田子山富士塚」の存在がとても気になるところです。

墳丘上の様子です。
埋葬施設や葺石、埴輪の有無など、古墳に関連する遺構の存在は明らかではなく、築造年代も今のところはわからないようですが、今後の調査の進展に期待ですね。。。
<参考文献>
志木市『志木市史 原始・古代資料編』
埼玉県志木市教育委員会『志木市遺跡群14 田子山遺跡第132地点』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/20(金) 23:29:35|
- 埼玉県の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

画像は、志木市柏3丁目に所在する「館氷川神社」です。
素盞雄命を祭神として祀る神社で、館之郷に属した館村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村の総鎮守として崇められ、「館のお氷川様」と呼ばれていました。
埼玉県神社庁発刊の『埼玉の神社 北足立 児玉 南埼玉』にはこの神社について、『館の地名は平安時代にこの地を領した藤原長勝の居館があったことにちなんでいる。長勝は、沼に棲んでいた大蛇を退治し広大な田を開いたことから「田面長者」と称された。鎌倉時代には荏柄平太胤長・二階堂土佐守が相次いで居住し、室町期には大石信濃守により改築がなされた。その遺構は「柏の城」と呼ばれ、現在の志木第三小学校敷地が本丸、その東側が二の丸、南側が三の丸、西側の長勝院境内が西の丸と伝えられている。
この「柏の城」の空堀跡の南東にあるのが当社で、社伝によれば、貞観年間(859-877)に藤原長勝が勧請したのに始まり、室町期には「柏の城」の守護神とされたという。このほかにも、延暦年間(1782~1806)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、賊徒に行く手を阻まれた際、大宮の氷川神社の加護によって賊徒を倒せたことから同社を勧請したという説や久安五年(1149)に新座郡の郡司高野大膳亮師之が郷村の鎮守として勧請したという説が伝えられている。いずれにしても平安期から鎌倉・室町期にかけて、土地の開発に当たった有力土豪により崇敬されたことは間違いないであろう。』と書かれています。。。

氷川神社境内の様子です。
想像したよりも明るい雰囲気で、とても素敵な神社でした。
この神社の境内には、古墳ではないかといわれている塚状の地形が存在します。
すでに社殿の右側に塚が見えていますね。。。

画像の地点が、古墳ではないかといわれている地点です。
館氷川神社の境内社となっている場所で、確かに自然地形ではなく、人為的に盛られたのではないかと感じられる、塚上地形が見られます。

塚上の石碑には「木花佐久夜姫命」と刻まれています。
「コノハナサクヤヒメ」と読むわけですが、「サク」の文字が「咲」ではなく「佐久」と刻まれています。また、台座に対してその上の碑が斜めに建てられています。なんとも興味深いです。
志木市内の富士塚としては「田子山富士塚」や「羽根倉富士嶽」が知られているのではないかと思いますが、この舘氷川神社の富士塚(浅間塚か?)の存在は、私も訪れて初めて知りました。

私がこの神社を訪れた際、境内の道場で子供たちの柔道の稽古が行われていました。
そしてお稽古が終わると、三人の少女たちが一目散に走ってきて塚の階段を駆け上がり、塚上に建てられている石碑の周りに集まりました。
純粋な子供たちには神様の姿が見えていて、神様と遊んでいるのかな?などと、すぐに私はそういうことを考えるのですが、なんとも微笑ましく、また不思議な光景でした。。。
立地的には、この高まりが古墳を流用したものである可能性も考えられるのではないかと思われますが、学術的な調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。。。
<参考文献>
志木市『志木市史 原始・古代資料編』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/19(木) 23:01:17|
- 埼玉県の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
前回に引き続き、今回も志木市の「大塚古墳群とその周辺」、その4です。
今回は、正確な所在地を突き止めることができなかった、正体不明な塚を中心に取り上げようと思います。
『古墳なう』お得意の、跡地と称した街の風景写真が続くかも。。。

最初の塚は、『志木市史 原始・古代資料編』253ページ掲載の「志木地区の古墳・塚分布図」で4番に登録されている「クビ塚」です。
柏の城で捕まった武士を首を切って埋めたところだと伝わるようですが、現地を散策したところでは塚の痕跡はまったくみられず、残念ながらクビ塚は消滅してしまっているようです。
現在は保育園となっているその周辺あたりが所在地となるようなのですが、正確な所在地はわかりません。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194706&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年3月4日に米軍により撮影された「クビ塚」周辺の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
当時のこの場所は一面に広がる農地という状況ですが、その中にあぜ道から南西方向に伸びる小道があり、さらにその先に小さな黒い影が見えます。
この影の位置は『志木市史 原始・古代資料編』の「志木地区の古墳・塚分布図」で推定地としている地点とほぼ一致しているように感じます。
もちろん、画像の影はぼんやりしていてどんな形状であるか判断はできませんし、何より周辺の地形が大きく変わりすぎていて正確な位置を特定するには至らなかったのですが、私はこれが、最後に残るクビ塚の痕跡ではないかと推定しました。。。

保育園のすぐ西方に墓地があり、ちょっと怪しいと感じてしまいました(笑)。
ひょっとしたらクビ塚に建てられていた石碑が移されている、というような可能性もあるかもしれないのですが、真相は不明です。。。

「志木地区の古墳・塚分布図」で8番に登録されている周辺です。
かつては白山神社があったところで、『志木宿全図』の地割から推定して塚状の高まりが存在したのではないかと推定されている地点です。
写真は、この区画の中で画像の道路だけが突き当たりになっていて、ひょっとしたらかつての参道の痕跡ではないかと妄想して撮影したものなのですが、まったく根拠はありません。笑。
白山神社の正確な跡地を突き止めることはできませんでした。

幸町4丁目所在の「久保百衣観音堂」です。
一見すると普通の民家かな?という印象なのですが、境内には祠が祀られており、土で盛られた塚の上に石碑が建てられている光景が視界に入り、立ち寄ってみました。

境内に入って右手の塚。
「榮嶽霊神」と刻まれた霊神碑が建てられています。
ということは、霊神塚ということになるのかな?

反対側にも小さな塚。
中央が「浅間大神」で、周囲には「熊野社」や「金刀比羅大神」といった多くの石碑が建てられているようです。。。

一番気になったのがこの塚状地形。
まるで民家のような観音堂の背後、西側にある塚で、ちょっと写真は祠に寄りすぎて高まりとなっているのがわかりにくいかもしれませんが、塚の上には祠が祀られており、やはり多くの石造物が建てられています。

ちょっと角度を変えてみたところ。
高まりとなっている様子がわかります。

さらに背後から見たところ。
古墳とは関係がなかったかな〜というところですが、盛土フェチの私としてはワクワクする観音堂でした。+゚。*(*´∀`*)*。゚+

画像は、柏町4丁目6番地あたり、「ひさご塚」と呼ばれる塚が所在したとされる周辺です。
その名称の通り、前方後円墳だったのではないかともいわれている塚ですが、残念ながら塚の痕跡はまったく認められないようです。。。

ちょっと気になった祠。
前方後円墳上に祀られていたという可能性はないものか?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=222633&isDetail=true) 最後におまけ。
前回取り上げた「休塚」と呼ばれる塚のところで、空中写真の「コバケ」という墓場のさらに北側に大きな塚らしき影が見られる、という話題にふれましたが、実はちゃんとこの場所も訪ねてみました。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年1月8日に米軍により撮影された空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
おそらく撮影されたのは早朝と考えられ、この場所が木立となっている様子がはっきりと見て取れるのですが、地形自体が塚状に盛り上がっているようにも感じられます。
『志木市史 原始・古代資料編』の「志木地区の古墳・塚分布図」にはこの場所の塚の存在については何も書かれていないのですが、やはり気になってしまって、志木市内の散策の際に見学に立ち寄ってみました。\(^o^)/

なんと!木立の場所は墓地でした!
空中写真に見られる木立の面積よりは、現在の墓地の面積のほうが広く感じられるのですが、この敷地の中に古墳が存在したのでしょうか。。。

興味深いのは、墓地の一角に古くからあると考えられる石造物が立ち並んでおり、この場所が周囲よりも一段高くなっています。
古地図を見ても、塚を示すマークは記されていないのですが、少なくともこの場所になんらかの塚が存在した可能性を感じてしまいます。
残念ながら真相に迫ることはできなかったのですが、志木市の塚に関してはいずれもう少し深追いしてみたいと思っています。
真相が判明した際には追記しようと思います!
<参考文献>
志木市『志木市史 原始・古代資料編』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/17(火) 23:57:30|
- 埼玉県の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

前回に引き続き、今回も志木市の「大塚古墳群」とその周辺の探訪の記録、その2です。
画像は、志木市幸町1丁目の、古墳の可能性が考えられる塚が所在したとされる周辺です。かつてこの一番高くなったあたりに観音堂があり、その土台となった塚状地形が古墳であったのではないかといわれています。
現在のこの場所には大きなマンションが建てられており、観音堂もなく塚の痕跡も皆無という状況で、正確な所在地を突き止めることはできませんでした。

画像は、志木市幸町1丁目の愛宕神社です。
塚巡りの最中に参拝しました。
実はこの神社のすぐ西側が『志木市史 原始・古代資料編』掲載の「志木地区の古墳・塚分布図」10番に記されている塚跡(?)で、神社と塚は何か関係があるのではないかと妄想しました。
しかし、帰宅後に文献を読み返して、塚が「稲荷塚」と呼ばれていたことを確認。
塚と愛宕神社はおそらく関係がなかったな、という状況です。
ただし、まだちょっと気になっていることがあるので、これについては後述します。。。

愛宕神社境内の様子です。
やはり、塚らしき痕跡はまったく見られません。

画像は、『志木市史 原始・古代資料編』に掲載の「志木地区の古墳・塚分布図」の11番に該当するのがこの地点です。
稲荷神社があったとされる場所で、その土台のなっていた塚が古墳ではないかと考えられている地点です。
今は酒屋さんになっているようです。。。

「志木地区の古墳・塚分布図」の12番に該当するのがこの周辺です。
東武東上線志木駅から200メートルほどというかなり開発が進んだ地域にあることもあり、塚らしき痕跡はまったく見られません。
『志木市史 原始・古代資料編』によると、この場所に「愛宕神社が盛土の上に建っている。この盛り土を古墳と判断したものと思われ」ということなのですが、ひょっとするとこの愛宕神社というのは先ほど取り上げた幸町1丁目7番地の愛宕神社のことで、神社は近年に移設されている、つまり愛宕神社は塚と関係があったということなのか?とも妄想できます。
このあたりはもう少し調べてみたいと思っているので、詳細が判明した際にはひっそりと書き換えます。笑。

「志木地区の古墳・塚分布図」の13番に該当するのがこの周辺です。
昭和34年発刊の『志木の沿革と舟運』によると、この周辺のどこかに「大狭塚」なる名称の古墳が存在したようなのですが、正確な所在地は不明で、塚の痕跡も残されていないようです。。。

「志木地区の古墳・塚分布図」の14番に該当するのがこの周辺です。
「休塚」と呼ばれる塚で、「コバケ」という墓場の近くにあったといわれています。
『志木風土記第1集』によると、大正時代までコバケの南側にあったといわれていますが、現在は何の痕跡も残されていないようです。
散策した当日は、画像に見える墓場の場所が塚の痕跡かと勘違いしてしまったのですが、ここがコバケと呼ばれる墓場で、この南側(画像の左側)にかつて塚が存在したようです。
「コバケ」は、柏城が落城した際に戦死者を埋めたところだという言い伝えもあり、「休み塚」も、柏城を攻めにきたときの大将である新田義貞が塚の上で休んだとか、その塚の上から指揮をしたというような伝承が残されているようです。
ちなみに、近隣には「見張り塚」と呼ばれるもう1基の塚もあったようですが、これも正確な所在地はわかりませんでした。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=222634&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)1月8日に米軍により撮影された、「コバケ」と呼ばれる墓場周辺の空中写真です。
わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像中央に見える横に細長い形状の影が「コバケ」であると思われます。
コバケの右下(南東側)には大きな方形の区画が見られ、左側(西側)にも2箇所に方形の形状が見えます。
西側の角にある塚状地形が「大狭塚」なのではないかとも想定できますが、真相は不明です。。。
さらには、画像からははみ出た場所になるのですが、コバケの北側にも大きな塚らしき形状の影が見られます。
正確な所在地は突き止めることはできなかったのですが、はたして、古墳かもしれない「休塚」がいったいどこにあったのか、とても興味深い地域です。。。

最後におまけでもう一つ、正体不明の塚です。
調べたら所在地が新座市に入っているので、今回の趣旨からはちょっとずれてしまうのかもしれませんが、テーマが大塚古墳群と「その周辺」ということだし、まあいいか、ということで取り上げてみようと思います。(ていうか、志木駅は新座市にあるのですね?びっくりしました。)
画像は、東武東上線志木駅から東にほんの100メートルほど。
Googleマップで見た印象だと、慶應義塾志木高等学校の敷地かもしれない場所に(ということは、慶應義塾志木高等学校は志木市と朝霞市、新座市と三つの市にまたがっているのでしょうか?)謎の塚状の高まりが残されています。

角度を変えてみたところ。
敷地がフェンスで覆われており、遠方からの観察しかできなかったことから形状もよくわからず、正体不明の塚です。もちろん自然地形である可能性も考えられますし、ひょっとしたら単なる畑地の残土の山かもしれません。
調査継続中ではありますが、とりあえずは忘れてしまわないように記録のつもりで取り上げておきます。。。
<参考文献>
志木市『志木市史 原始・古代資料編』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/10(火) 23:53:31|
- 埼玉県の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
次のページ