
今回は「内牧塚内古墳群」の探訪記録その4、いよいよ最終回です。
画像の画像は、「内牧塚内古墳群9号墳」です。
かつては二つの墳丘が連なるように遺存していたといわれ、内牧塚内古墳群中唯一の前方後円墳である可能性が指摘されている古墳です。
この古墳の見学にあたっては、最初は土地の所有者でなく、畑仕事をされていた別の女性に声をかけました。
「それなら土地の所有者を紹介するから!」ということで、古墳がある土地の所有者である旦那様を紹介いただき、そこで許可を得て見学させていただきました(ホント、感謝です)。
4号墳の前に設置されている「内牧塚内古墳群」の分布図によると、この近辺に9号墳、10号墳、11号墳という3基の古墳が存在するはずなのですが、実際に墳丘が残されているのはこの1基のみでした。
位置的にはここが9号墳となり、10号墳と11号墳は消滅してしまっているようです。。。

わずかに残る墳丘上には、祠が祀られています。
お父さまがかつてこの古墳を発掘してしまったそうなのですが、内部からはおそらく横穴式石室と思われる大きな埋葬施設が出現したそうです。しかし、その後原因不明の高熱が出て医者に見せても原因は分からず、ご祈祷しても治らず、塚を暴いた祟りかも知れないということになったそうです。
そんな出来事もあり、供養のためにこの祠が祀られた、といううことになるのでしょうか。
これが、古墳を暴いてしまった祟りなのかどうかは私には分かりませんが、そんなお話を土地の所有者からお聞きすることができました。。。

墳丘上に祀られている祠の内部の様子です。
なんと!石室の奥壁か天井石と思われる石が安置されており、「塚下大明神」と刻まれています!
これを見せていただいた時は、心の底から感動しましたよホントに。
来てよかった。。。

周辺に散らばる、石室を構築した石材と思われる石を見せていただきました。この石は組み合わせて積み上げるために削られていた様子が伺えます。
「これはあれだよ、榛名山が爆発して堆積した石だろう!」なんて話で盛り上がりましたw。
さらに残存する墳丘の断面には、埋蔵する石室の構築剤と思われる石が露出してもいました。
果たして本当に前方後円墳であったのか、どちら向きの前方後円墳であったのか、残存する墳丘はどの部分であったのか、詳細はさっぱりわかりませんが、色々興味深いです。
発掘調査を行うのであれば真っ先にこの9号墳!と願いたいです。。。

こちらも、石室を構築したと思われる石材。
土地の所有者の方の足がチロっと見えていますね。笑。
色々と説明していただきまして、「石材を持って帰れよ」と言っていただきましたが、「い、い、いやそれは流石にそれはちょっと、、、まずくないっすか?」とお断りしました。(ちょっと欲しかったです。9号墳は史跡として指定されている範囲外ですし、完形の埴輪とか直刀だったら貰っちゃったかも知れないですけどね。。。笑)

12号墳の跡地周辺の様子。
周囲より高くなっているので、最初はこれが古墳の残存部分かと思いましたが、そういうわけではないようです。。。

最後に、古墳群と同じ地区内にある「藤盛稲荷神社」を参拝しました。
実は、この神社前の道路沿い西側には「8号墳」が所在したとされており、また東方からは発掘調査により17号墳と18号墳の周溝が検出されています。
この神社も古墳跡ではないか?怪しい!
と睨んでいましたが、特にそれらしき景観は見られませんでした。
ま、いつもの私の妄想ですな。。。

内牧塚内古墳群中、残存する7基の古墳はすべて個人の敷地内に分布しているのですが、すべて見学することができました。
土地の所有者の方々には感謝です。
楽しい時間をありがとうございました!
<参考文献>
埼玉県教育委員会『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』
塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』
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- 2022/05/25(水) 22:53:06|
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前回に引き続き、春日部市内牧字塚内周辺に所在する「内牧塚内古墳群」の探訪記録、その3です。
まず最初の画像は「内牧塚内古墳群6号墳」です。
この内牧塚内古墳群の見学にあたっては、ほとんど何の準備もなく向かってしまったので、4号墳の前に設置されている古墳群の分布図のみを頼りに見学するような状況でした。そんな中、6号墳と7号墳の2基はかなり隣接して存在するはずなのですが、路上から見えないので正確な位置がわかりません。
そこで、最初に農作業をしていた地元の方にお聞きしたのですが、「そこのじいさんが一番詳しいから聞いてみるといい」ということで、その古老の方に場所をお聞きしました。
すると、「そこの畑の奥にあるから行ってみればいい」と言います。。。
この古老の方が土地の所有者だったのかどうかはわからないのですが、まあ、行ってみろというんだし、ということで畑の畦道をズンズンと進みました。
そこで視界に入ったのがこの6号墳です。
「おお!あったぜ!」とう感じ。笑。
現存する墳丘の規模は、直径約7m、高さ約1mで、主体部に関しては不明とされています。

6号墳からさらに西に進むと、すぐに7号墳らしき墳丘が見えてきます。
ただし、これが本当に7号墳であっているかどうかは自信なし。。。
『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』には、「墳丘南側が破壊されているが、現存墳丘の規模は径約15〜16m、高さ約1mである。なお、横穴式石室の一部と見られる角閃石安山岩が露出している」と書かれています。
帰宅してから画像をチェックしてみると、直径15mもあったようには見えないし、露出しているという石材もチェックしなかったし(なんせ、場所を教えていただいた古老の男性が土地の所有者かどうかよくわからなかったので、慌てて見学してしまったし)、怒られたら謝ればよかったんだし、もっとよく見てくればよかった、と後悔。。。
この塚の位置は、4号墳前の分布図に記された位置とぴったり合っていますし、これが7号墳であるとは思うのですが。。。
<参考文献>
埼玉県教育委員会『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』
塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』
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- 2022/05/24(火) 23:06:52|
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前回に引き続き、春日部市内牧字塚内周辺に所在する「内牧塚内古墳群」の探訪記録、その2です。
まず最初の画像は、内牧塚内古墳群3号墳!
個人の民家の敷地内にある古墳で、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。

墳丘は人家により若干削られていて、現存墳丘は直径約14m、高さは約1.8mほどです。
主体部については不明であるようですが、どうにも墳丘の周囲を囲っている河原石が気になりますな。。。。

墳丘の表面には芝が貼られていて、キレイに刈られて整備されていました。
それにしても、自宅の庭に古墳があるなんてちょっと羨ましいなあ。
うちに古墳があったら自分で説明板を建てちゃうかな。笑。
ウチの庭なんて、もはやただの空き地だけど。。。

墳丘上にはお堂が建てられていました。

こちらは4号墳。
画像中央の木立のあたりが4号墳の所在地です。
この古墳は、春日部市編纂のため発掘調査が行われています。
当初は円墳と考えられていたようですが、調査の結果、一辺約20m、周溝外径では約29mの規模をもつ方墳であることがわかっています。
主体部は木炭槨1基、粘土槨が3基と多葬埋葬が行われた古墳で、墳丘や周溝内から円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪や須恵器壺が出土しています。

木立の合間から見えた4号墳の墳丘。
この古墳は所有者宅をピンポンするまでは深追いしませんでした。。。
この古墳から出土した埴輪は、第一段目が低く三条突帯を持ち、径が細くて長い、「下総型円筒埴輪」と称される埴輪が出土しており、この古墳には下総の埴輪製作工人と武蔵の工人が関わったと考えられています。
しかも、下総型が七割もあり古隅田川を越えた下総国の影響が強い地域であったことがうかがえます。
いや、ほんとに発掘調査ってすごいですよねー。。。

古墳の前には2種類の説明板が設置されています。
どうしてこの4号墳の前に設置されているのかと疑問に思っていましたが(奥まった目立たない場所なのに)、唯一発掘調査が行われた古墳の前に設置したということなんでしょうかね。多分。。。
内牧塚内古墳群
塚内古墳群は古隅田川を見下ろす高台にあり、14基以
上の古墳がありました。古墳は、径20m前後の円墳が多
く、前方後円墳は一基のみです。現在も古墳の形が残って
いるのは、このうちの7基だけです。
昭和五二年に発掘調査された4号墳は、径20m前後の
円墳で、幅4m、周囲には深さ1mの溝がありました。
中央には、木炭や粘土で造られた4つのお墓があり、鉄剣、
鉄のやじり、ガラス製の小玉等が納められていました。
その他にも、武人の姿をした埴輪や筒状の円筒埴輪が見つ
かっています。円筒埴輪は武蔵の地域で作られた帯が二段
のものと、下総の地位で作られた三段のものの2種類があ
ります。このことから塚内の地は、両地域の文化の影響を
受けていたと考えられます。
塚内古墳群 昭和34年市指定史跡
塚内4号墳出土遺物 平成5年市有形文化財指定
春日部市教育委員会

説明板ともう1枚、「内牧塚内古墳群位置図」も設置されています。
ちなみに、ここに記されている古墳の位置はかなり正確に記されているので、信用していいかも。。。

ここが「内牧塚内古墳群5号墳」。
4号墳の北東に隣接して造られた古墳で、現状の古墳の規模は径約13m、高さ1.5mの円墳とされています。
主体部については不明であるようです。

画像の道路の左奥、民家の敷地内に「内牧塚内古墳群15号墳」があったとされています。
痕跡は見当たりませんでしたが、ひょっとしたら道路が微妙に弧を描くあたりが痕跡なのかも?
今回はここまで。
さらに次回に続きます。。。
<参考文献>
埼玉県教育委員会『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』
塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』
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- 2022/05/23(月) 23:35:11|
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今回は、春日部市内牧(うちまき)字塚内(つかない)周辺に所在する「内牧塚内古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群は南埼玉地域では最多の古墳数で、6~7世紀の古墳時代後期に築かれており、現在19基の古墳が確認されています。
このうち1~7号墳が春日部市の史跡に指定され、また発掘調査が行われた「塚内4号墳」の出土遺物が春日部市の有形文化財に指定されています。
最初の画像が「内牧塚内古墳群1号墳です。
古墳の目の前に、「内牧塚内古墳群」の説明板と石碑が建てられています。

1号墳は、開墾により消滅したとされているようなのですが、現地で表面観察した印象では、わずかな地膨れが認められます。(最初に訪れた日に出会った地元のボーイスカウトの方も、「あの膨らみが1号墳だ!」とおっしゃっていましたし。笑。)
角閃石安山岩の出土が伝えられ、横穴式石室を持った円墳と推定されています。

内牧塚内古墳群とその時代
春日部市指定史跡「塚内古墳群」
指定年月日 昭和三十四年一月三十日
内牧塚内古墳群が築かれた六世紀中頃から七世紀は、
古墳時代後期にあたります。大型の前方後円墳が徐々に
築かれなくなり、小規模な古墳が全国各地で増加します。
内牧塚内古墳群は二十基以上の古墳から構成されていま
すが、このように狭い地域に古墳が密集して形成された
古墳群は「群衆墳」と呼ばれ、この時期を代表する古墳
の在り方です。
前方後円墳をはじめとする大型の古墳は、一般的に大
王や地方豪族など一部の有力者が築いたものでした。一
方で、群衆墳に葬られた人々は、それらに仕えた地元の
有力者とその家族であったと考えられます。
このような群衆墳の広がりは、近畿地方を拠点とした
ヤマト政権の支配が各地方に浸透した結果と考えられて
います。内牧塚内古墳群は、古墳時代の春日部の地にも、
遠く離れたヤマト政権の影響がおよんでいたことを表す
遺跡といえます。
平成三十一年三月
春日部市教育委員会

この1号墳の目の前がバス停なのですが、このバス停の名称も「塚前古墳群」なんですわ。
素晴らしい!。。。

1号墳の北東側、道を挟んだにあるのが「内牧塚内古墳群2号墳」です。
1号墳とは10m程しか離れていないのですが、なぜか見学したのは別の日なので、2号墳の写真は曇ってますな。。。
個人の民家の敷地内にある古墳ですが、土地の所有者の奥様に許可を得て見学させていただきました。
部分的に削平されているそうですが、素人目には良好に残されている印象です。。。

ちょっと角度を変えて。
現存墳丘は直径約15m、高さは1.5mで、墳丘周辺には角閃石安山岩がみられ、横穴式石室が構築されていたと推定されています。

私がこう、地面を見ていてですね。
奥様が「植木鉢の破片が散らばっていて紛らわしいのよ~」みたいにおっしゃったんですけど、「いやいや奥さん!これなんかは植木鉢じゃなくて当時物っすよー」みたいな会話で、楽しかったです。

同じお宅の敷地内にある祠です。
位置的に、ここは16号墳の痕跡ではないかと高ぶりました。
旦那様曰く、若いころから墳丘らしき高まりはなかったそうですが。。。

いや、若干の高まりが残されているようにも感じるのですけどね。
いつもの妄想かも知れませんけどね。。。

祠の様子です。

このあたりに13号墳があったと思われますが痕跡なし。
正確な所在地は分かりません。。。
というわけで今回はここまで。
以下、次回に続きます。。。
<参考文献>
埼玉県教育委員会『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』
塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』
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- 2022/05/22(日) 23:54:17|
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さいたま市中央区八王子3丁目周辺に所在したといわれる古墳が「苗塚」です。
ネットで公開されている『さいたま市遺跡地図』でこの苗塚を検索すると、「苗塚古墳」の名称で「古墳(円方)」と表示されるのですが、さいたま市教育委員会より発行された『さいたま市の塚調査報告』では「塚」としても掲載されています。
この『さいたま市の塚調査報告』によると、規模は径70m×80m、高さ6.0mとあり、かなり巨大な塚であったことが記されているのが興味深いところなのですが、残念ながら塚自体は、昭和35~36年頃の土地改良事業により消滅してしまったようです。
画像は、『さいたま市遺跡地図』に記されている、苗塚の跡地周辺の様子です。
残念ながら周辺は宅地化が進み、古墳らしき痕跡は何も残されていないようです。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=57518&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和21年に米軍により撮影された、苗塚の跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
画像の中央に、楕円形の塚状の地形が見られ、これが残存する苗塚の姿なのではないかと推測しました。
ただし、これが苗塚の痕跡であれば、『さいたま市遺跡地図』に記されている位置より南西方向にずれた位置が所在地となります。
正直、跡地の正確な住所はわからないので、この円形の影が苗塚の跡であるか否か、確信はありません。。。
『与野市史』の別巻に『井原和一日記』というシリーズがあり、井原和一氏により、昭和初期に書かれた膨大な量の日記が掲載されているのですが、この中に苗塚に関する興味深い記述が見られます。
四月十九日 晴 天気よし
八王子に農会の用事を兼ね苗塚を初めてよく見る。南北三十間、東西多少短く円墳たること疑ひなく、未だ少しも損所もなき完全なものであった。八王子に下宿、中宿、上宿と云ふ家があると云ふので、往古の街すじで宿泊させた家と思ふ。避病舎のある所を以前は「おかね塚」と称したりと。塚でもありそうの処に思ふ。(後略)

さいたま市桜区神田にある月讀社です。
かつては字苗塚に鎮座していたとされる神社です。
昭和59年に発行された『与野市史 自然・原始古代資料編』には、苗塚の往時の写真が掲載されていますが、ぼんやりとした写真ではあるものの、塚上に祠や鳥居ではないかと思しき形状が見られます。
個人的には、月讀社は苗塚の塚上に祀られていたのではなかろうか?と睨んでいるのですが、今のところ真相を突き止めるところまでは至っていません。
直径80メートルもの巨大は古墳が果たして本当に存在したのかとても興味深いところですが、今のところ学術的な調査は行われていないようですね。。。

月讀社境内の様子です。
境内に設置された案内板にも、この神社がかつて字苗塚に鎮座していたことが記されています。
月 讀 社 御 由 緒
⬜︎ 御 縁 起( 歴 史 )
当地は鴨川左岸の自然堤防上に位置しかつては水田地帯であった。
神田の地名は、古来伊勢神宮の神領であったことに由来するという。
旧神職家の神山家所蔵の嘉永四年(一八五一)「神田月讀宮之由緒」
によれば、当社は人皇六代孝安天皇二十年の創建とされる。当時
神田地内に伊勢田と称す一反五畝四歩の除地があり、ここで収穫され
た初穂を浦和駅(現浦和区)の調神社に納入して伊勢神宮に奉納
していた。往時は一丁余り離れた八王子村(現さいたま市桜区)字
苗塚に鎮座していたが、夫役も負担となる小村であったため、天正
年間(一五七三~九二)に当村から五町歩余を八王子村に譲り、代わ
りに月讀社を当地に引き移した。この時、当社が一宮氷川神社と同体
(祭神が同一の意か)であったために、俗に氷川神社と称したという。
中世以来、月待信仰と調神社が発音上一体化され、調神社は月讀社
とも称されたことから、当地と関係の深い調神社(月讀社)を勧請し
て、農耕神として祀ったのであろう。
『風土記稿』神田村の項に「氷川社 村の鎮守なり、永福寺の持、
末社稲荷社」と載るのが当社である。
明治に入り、氷川社として神田村の村社に列した当社は、旧来に
復したいという村民の希望により、明治二十三年に社名を月讀社と
改称し、祭神も須佐之男等を改めて月讀命とした。
⬜︎ 御 祭 神 … 月讀命
⬜︎ 御 祭 日
・例祭 … 三月七日 ・大祓 … 七月一日

境内社である稲荷社の祠です。。。

庚申塔。。。

苗塚の跡地近くで見かけた怪しげな場所。
塚の跡ではないかとも妄想しましたが、よくわかりません。。。

さらに近隣で見かけた庚申塔。
ここも塚の跡地かな?と妄想しました。
こうした古い石塔が原位置近くに残されているのは、いいね!と思います。。。

気がつけば、さいたま市特集を始めてはや4ヶ月。。。
そろそろ別の地区にも目を向けるべきだろうか。。。
<参考文献>
与野市『与野市史 別巻 井原和一日記I』
塩野博『埼玉の古墳 北足立・入間』
さいたま市教育委員会『さいたま市の塚調査報告』
現地説明板
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- 2022/04/20(水) 23:00:20|
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今回は古墳や塚とは無関係となりますが、さいたま市中央区の「一山神社」の参拝の記録です。
周辺地域は都市化が進み、宅地が密集した地域ではありますが、この神社の境内は歴史を感じさせる樹木に覆われており、閑静な雰囲気に包まれています。
御嶽講の四大講祖の一人とされる一山行者を祀った社であり、前回取り上げた「御嶽社塚」の所在地である「御嶽神社」の御由緒の案内板にも、この一山神社について書かれています。
御嶽社 御由緒
さいたま市中央区本町西二ー五ー六
与野は江戸時代から木曾御嶽講の盛んな地域であった。とり
わけ、与野の名主であった井原平八はその熱心な信者であり、
御嶽講の四代講祖の一人である一心行者を支援すると共に、
自らも御嶽講の先達として布教に努めた。
文政四年(一八二一)、幕府は御嶽講に禁圧を加え、一心は
遠島に処せられた。やがて、尾張藩主の取り計らいによって、
御嶽講は解禁され、井原平八も布教活動を再開するが、当社
は、口碑によれば、この禁圧のために一旦は所払いとなった
井原平八が、住民らの熱心な嘆願や御嶽講の解禁によって与
野に戻ってから造った社であるという。したがって、『風土記
稿』には、当社についての記載はなく、恐らくは、井原家が社
地を寄進して新たに一社を設けたものか、既に地内にあった
何らかの社の祭神を改めて御嶽社としたものであろう。
また、一説には当社は明治初年の創建といわれ、『明細帳』
は、当社の由緒を「創立不詳。明治九年中再建。同十年五月天
祖神社大国社の境内を併せて公園と定めらる」と記している。
⬜︎ 御 祭 神
・大山祇命 ・国常立尊
⬜︎ 御 祭 日
・春のお祭り(四月十五日)・当事祭り(十二月二十一日)

一山神社の鳥居です。
御嶽講は、木曾国(長野県)御嶽山の山頂に鋲座する御嶽神社を信仰する人々によって作られた講社です。
『埼玉の神社』によると、天明五年(1785)に尾張国出身の覚明行者が黒沢ロの登山路を、次いで寛政四年(1792)に武蔵国大滝村出身の普寛行者が王滝口の登山路を開いたことによって普及が進みました。
その後、信濃国出身の一心行者が普寛行者の法統を受け継いで御嶽講の普及に努め、その結果、関東の各地に御嶽講の講社ができ、普寛の元には多くの門弟が集まりました。
与野町の有力者・井原平八もその一人で、御嶽講の先達として活躍したそうです。

一山神社は「冬至祭」が有名で、別名「ユズ祭り」とも呼ばれています。冬至の日にカボチャを食べ、ユズ湯に入ると風邪をひかないといい、ユズを縁の下に投げ込む風習は無病息災、火災予防のまじないでもあります。
冬至祭は、拝殿での祭典後、境内でユズ・神饌物を供え、祝詞をあげ神火をつけ火焚神事が行なわれます。行者は人形の入った木箱を担ぎ火中を渡り、参加者も加わって一年の災厄を清めるそうです。
平成12年(2000)にさいたま市の文化財に指定されています。

幕府は、民間信仰集団の拡大は宗教統制上良しとせず、文政四年(1821)になって、寺社奉行より一心は遠島、平八たち先達には所払いの沙汰が下りました。その後、平八は与野町惣百姓61名により町役人復帰嘆願が寺社奉行に差し出されたほか、御嶽講に深い関係のあった尾張藩主の斡旋などもあり赦免となったものの、講は壊滅状態に瀕していました。
この状況下に登場したのが一山で、俗名を治兵衛という一山は相模国津久井郡の出身といわれ、壮年になって藤原家(平八)の養子となりました。
信仰心厚く、やがて井原家の許しを得て同家に近い円乗院で剃髪し、治兵衛は数年間の修行の後、諸国で行者修行を積み、木曾御嶽山において木食行を重ねて普寛・一心の行法を感得し、深く御獄大神を尊信するに至りました。
こうして御嶽講の行者となった一山は一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、嶺村(現東京都大田区) (註:北嶺町御嶽神社)と当地に霊場を設け、ついに数万の信者を擁するまでにして、嘉永四年(1851)十二月二十日に没したそうです。。。

一山の没後、講祖「一山霊神」の高徳を敬慕する多数の講員は与野町内にあった八幡社の境内に御嶽大神の一座を勧請して神社を建立し、行者名及び講社名を取って一山神社と称しました。
これが一山神社の創建であり、嘉永末年(1854)までには社殿が建立されたそうです。
その後も講員によって境内の整備が逐次進められ、慶応二年(1866)には手水石が奉納され、明治十九年には本殿・拝殿・神供所・社務所・祭器庫・鳥居・手水舎・敷石などが新築されました。

この土台みたいなのがいったいなんなのか、再訪したら聞いてみようと思っていたのですが、やっぱり忘れてしまいました。。。

2019年に行われた東京文化財ウィークの企画事業に関連して、大田区立郷土博物館にて「嶺の御嶽山と一山行者」なる特別展が開催されました。この特別展に関連して、学芸員と巡る「与野を歩く」という地域探訪が行われ、御嶽神社を開いた一山行者の縁の地である与野地域を、学芸員の解説を聞きながら巡るという企画に参加しました。
私が初めて一山神社を訪れたのはこの時で、かなり強い雨に降られてしまいましたが、東京都大田区の特別展でありながらさいたま市の与野を探訪するという、なかなか面白い企画でした。。。

拝殿内の様子です。

念願の、御朱印をいただきました。。。.゚+.(・∀・)゚+.

もう一種類、例大祭の直後であったということで、例大祭仕様の御朱印もいただきました。。。.゚+.(・∀・)゚+.
<参考文献>
埼玉県神社庁『埼玉の神社 北足立 児玉 南埼玉』
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- 2022/04/19(火) 23:40:19|
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前々回に引き続き、さいたま市中央区に所在する「御嶽社塚 (おんたけしゃづか)」、その2です。
ここ最近、さいたま市内の山岳信仰に関係する塚を取り上げる中で、先週の日曜日にあまりにもお天気が良かったことから、御朱印巡りに出かけよう!と思い立ちまして、それで「一山神社」を参拝した流れでこの御嶽社塚も再度、訪れました。

御嶽社塚です。
前回訪れたのも同じように桜の咲く時期だったのですが、今回は塚上に生い茂っていた大木や雑草が刈られていて、塚の形状が見やすくなっていました。。。わ~*。٩(ˊᗜˋ*)و*。~い!!
そりゃもう、写真を撮るのに夢中ですよ。。。

塚はこ〜ンな感じ。
古墳ではないと考えられているようですが、草が刈られるとなぜか古墳に見えますよねー。。。

時計回りに塚の周囲を一周します。。。

見る角度によっては2段築成の円墳にも見えます。。。

北から見た御嶽社塚です。

この日の参拝者が訪れていました。。。

塚は木曽御嶽山を模して造られており、南側の中腹には溶岩が置かれています。

次回、「一山神社」に続く。。。
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- 2022/04/17(日) 20:32:06|
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画像は、さいたま市中央区本町西1丁目の与野公園内に所在する「スリバチ山」です。
この塚は、南北に伸びる舌状台地の西側、台地と低地の境部分に位置しています。与野公園の北西部にあり、東西18m、南北20m、高さ8.7mの長円形を呈しています。
塚の南東裾部には「富士登山五十八度」と刻まれた安政七年建立の石碑が建てられており、以前には塚の中腹に「富士浅間神社」の石碑も存在したといわれていることから、富士講に関わる塚、つまりは富士塚であると考えられています。

2019年に行われた東京文化財ウィークの企画事業で、大田区立郷土博物館にて「嶺の御嶽山と一山行者」なる特別展が開催されました。
同時期に、この特別展にまつわる全5回の講演や、学芸員と巡る地域探訪なども行われ、「与野を歩く」というタイトルのもと、御嶽神社を開いた一山行者の縁の地である与野地域を、学芸員の解説を聞きながら巡るという企画に参加しました。
私、個人的にもさいたま市内の古墳や塚を巡り始めた頃で、一山行者に関係する富士塚や神社を、解説を聞きながら見学できるかもしれないということで、楽しみに参加しました。
そして当日、この与野公園にある「すりばち山 (富士塚)」も見学したわけですが、この富士塚は、円形を呈する塚本体から南東方向に盛り上がった参道が伸びていて、まるで前方後円墳かのように見えます。
それで、学芸員の「さてみなさん、この小山はなんでしょう!」という問いについうっかり「ぜんぽうこうえんふんなんですねっ」と答えてしまって、「あ。いや、、、そうじゃなくて、、、富士塚なんですけどね。。。」ととても冷静に答えられました。笑。
画像の左奥の塚がスリバチ山ですが、参道らしき道が右に伸びています。
初めて見たときには、改変された前方後円墳の残骸であるようにしか見えなかったのですが、いかがでしょうか。。。

スリバチ山を南から見たところです。
与野市より発行された『与野市史 自然・原始古代資料編』の768ページには、「この塚は「明治十一年二月 与野公園内堀割堀削許可願」によると、不二道孝心同志が千害に備えるため、高丘の周囲を堀削し、貯水池(弁天池)を造り、その土砂で築いたものとなっている。」と書かれています。
この記述からすると、やはりスリバチ山は古墳ではないのかもしれないと感じますが、古墳好きからすると、古墳であってほしいと思ってしまいますね。。。

北西から見たスリバチ山です。
う〜む。どうしても前方後円墳に見えてしまってクラクラしてきた。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=57517&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和21年に米軍により撮影された、与野公園周辺の当時の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像の中央がスリバチ山、中央上が「御嶽社塚」で左上の円形の木立が「大国社塚」です。
この空中写真からすると、やはりスリバチ山は少なくとも前方後円墳ではなかったのかなと思います。
それにしても、どうしてこんなに至近距離に3基もの山岳信仰にまつわる塚が造られたのか、興味深いですね。。。

摺鉢山頂部の様子です。
訪れたのがお花見のシーズンということで、家族連れで賑わっていました。

頂部から見下ろしてみたところです。
かなり高さがあるのが見えます。
塚の中腹にはかつて「お中道」と呼ばれた、頂上に登らなくてもこれを一周すれば良いとされた道の痕跡が残されているそうです。
おそらく、階段の中ほどにある平坦部がその痕跡ではないかと思われますが、違うかも。。。

安政七年(1860)建立の「富士登山五十八度」の石碑です。
58回ですからね。鉄道も車もない時代に、富士登山を58回…。
年に一回、登山を行っても58年かかるわけで、すごい記録ですよね。。。

塚北側の石段の登り口左手に立つ、「小御嶽 石尊」の石碑です。

ここが「弁天池」です。
「神橋」を渡ると、池の中の与野弁財天を参拝することができます。

与野天祖神社です。
天祖神社 御由緒
さいたま市中央区本町西1ー14
⬜︎ 御 縁 起 (歴史)
当地は、中世与野郷に属したことが正和三年(一三一四)の『融通
念仏縁起』から知られる。戦国時代の成立と推定される「市場之祭
文写」には「足立郡与野市祭成之」と見え、このころから当地で市が
開かれていたことが知られる。
『風土記稿』与野町の項によれば、地内を鎌倉街道(中山道脇往還)
が通り、往還に沿って北から当町は上・中・下の三町に分かれていた。
下町に鎮座する当社は、かつて神明社と称し、文政年間(一八一八
- 三〇)の「与野町並絵図」(柏計助家所蔵)からは、両脇に家屋が立
ち並ぶ鎌倉街道から西に入った田畑の中に「神明山」と書かれた当
社が鎮座していた往時の様子がうかがえる。明治八年に与野町の村
社となったのを機に名称を天祖神社と改めている。
また、明治九年に当社境内を公園にしようという運動が地元住民
の間で起こり、翌十年には当社並びに御嶽社・大国社の境内が県営
の与野公園となった。近年には寿老人を合祀してから長寿の神とし
ても信仰されるようになっている。
⬜︎ 御 祭 神 と 御 神 徳
・天照皇大神・・・五穀豊穣、子授安産、開運隆盛
⬜︎ 御 祭 日
・元旦祭(一月一日)
<参考文献>
与野市『与野市史 自然・原始古代資料編』
さいたま市教育委員会『さいたま市の塚調査報告』
現地説明板
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- 2022/04/11(月) 23:52:23|
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画像は、さいたま市中央区本町西2丁目にある「御嶽社」です。
この神社の境内には、「御嶽社塚」と呼ばれる大きな塚が所在します。
御嶽社が『新編武蔵風土記稿』に記載がなく、明治初年の『武蔵国郡村誌』に記載があることから、この間に神社が創建され、塚も築かれたと考えられています。
境内に設置されている「御由緒」には、この神社について次のように書かれています。
<
span style="font-size:large;"> 御嶽社 御由緒
さいたま市中央区本町二ー五ー六
⬜︎ 御 縁 起( 歴 史 )
与野は江戸時代から木曾御嶽講の盛んな地域であった。とり
わけ、与野の名主であった井原平八はその熱心な信者であり、
御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援すると共に、
自らも御嶽講の先達として布教に努めた。
文政四年(一八二一)幕府は御嶽講に禁圧を加え、一心は
遠島に処せられた。やがて、尾張藩主の取り計らいによって、
御嶽講は解禁され、井原平八も布教活動を再開するが、当社
は、口碑によれば、この禁圧のために一旦は所払いとなった
井原平八が、住民らの熱心な嘆願や御嶽講の解禁によって与
野に戻ってから造った社であるという。したがって『風土記
稿』には当社についての記載はなく、恐らくは、井原家が社
地を寄進して新たに一社を設けたものか、既に地内にあった
何らかの社の祭神を改めて御嶽社としたものであろう。
また、一説には当社は明治初年の創建といわれ、『明細帳』
は、当社の由緒を「創立不詳。明治九年中再建。同十年五月
天祖神社大国社の境内を併せて公園と定めらる」と記している。
⬜︎ 御 祭 神
・大山祇命 ・国常立尊
⬜︎ 御 祭 神
・春のお祭り(四月十五日)・冬至祭り(十二月二十一日)

これが境内の様子と御嶽社塚です。
この塚も前回取り上げた「大国社塚」と同様に、『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』には古墳として記載されているものの、『さいたま市の塚調査報告』には塚として取り上げられており、現在ネットで公開されている『さいたま市遺跡地図』では記載がないという状況です。
『与野市史 自然・原始古代資料編』では「やはり古墳の再利用とするには無理がある」とあり、現状は古墳ではなく塚ではないか?と考えられているようです。。。

規模は東西18m、南北19mで、高さは3〜4mほどです。
塚には石段が設けられており、頂部に祀られている御嶽神社を参拝することができます。
南斜面にはクロボクが多数置かれています。。。

西から見た御嶽社塚の様子です。

塚の頂部の様子です。
御嶽社の木造の祠が祀られています。

「御神の大井戸」です。
その名護を留めたという場所に再建された井戸です。

<参考文献>
与野市『与野市史 自然・原始古代資料編』
さいたま市教育委員会『さいたま市の塚調査報告』
現地説明板
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- 2022/04/07(木) 23:18:36|
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画像は、さいたま市中央区本町西2丁目に所在する「大国社塚」です。
前回も八王子1丁目の「富士塚」を取り上げましたが、この周辺は山岳信仰に関係する塚が集中して存在するという地域です。
もしこれらの塚が古墳を流用して造られたものであれば、古墳群が存在したのではないか?とも考えたくなるところですが、『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』には古墳として記載されているものの、『さいたま市の塚調査報告』には塚として取り上げられており、現在ネットで公開されている『さいたま市遺跡地図』では記載がありません。
現状は古墳ではなく塚ではないか?と考えられているようですが、真相は今後の調査の進展を待つよりなさそうです。。。

『さいたま市の塚調査報告』によると、規模は径14m×12.5m、高さ1.6mで、北・東側では保存状態がよく、西側が新大宮バイパスの建設によって一部削平されており、南側は急傾斜となっています。

塚には石段が設けられており、頂部には大国社が祀られています。
文政十三年(1820)の「石燈篭」の残欠が確認されており、少なくとも大国社はこの時期には存在していたと考えられていますが、塚自体の増率時期や塚の性格はわかっていません。。。
<参考文献>
与野市『与野市史 自然・原始古代資料編』
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- 2022/04/05(火) 23:19:37|
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