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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「将軍塚」

 前回は、所沢市に所在する「白旗塚」を紹介しました。この塚の周辺は古来よりよりしばしば合戦が展開されたといわれる地域で、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの小手指ヶ原に陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てた場所であるという伝承が残されています。
 開発によりほとんどが消滅してしまった首都圏の古墳や塚において、「塚に触れると祟られる」等の伝承が言い伝えられたことにより塚も崩されずに残された、という事例はかなり多く見られるところですが、白旗塚については、この新田義貞が白旗を立てたという伝承の存在と、後世に浅間神社として墳丘上に祠が祀られたことが、塚が崩されずに残された大きな要因であったと思われます。
 そして、所沢市内にはもう1基、古墳の可能性が考えられている塚が残存します。


東村山市「久米川古戦場」

 というわけで、画像は東京都東村山市諏訪町2丁目の西宿公園内に立てられている「久米川古戦場跡記念碑」です。
 この一帯も、小手指ヶ原と同様に新田義貞と鎌倉幕府軍との激しい戦闘が行われたとされる伝承地で、「久米川古戦場」の名称で東京都の旧跡に指定されています。
 記念碑の横に立てられている東京都教育委員会による説明板には、次のような解説が書かれています。

東京都指定旧跡
久米川古戦場
所在地 東村山市諏訪町二丁目付近
指 定 大正八年十月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓
一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永八年(一二七一年)
の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬
県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街
道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘三年(一三三三)五月八日、群馬県新田
町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵し
た新田義貞の軍勢は、十一日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉
軍を破り、翌十二日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行
われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』
によると、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわ
れる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約一九〇メートルの八国
山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根•大山)、甲斐(多波
山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国
の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武二年(一三三五)
の中先代の乱や応永二十三年(一四一六)と同二十四年(一四一七)
の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が
進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は、八国山山麓にあったものを文化
年間(一八〇四~一八)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町一
の二六)に移したものである。
 平成十年三月 建設
                       東京都教育委員会


 なんと、この説明板によると、八国山の所沢市側には「将軍塚」と呼ばれる塚があり、「白旗塚」と全く同じ、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承が残されていることが書かれています。
 これは見逃せない!ということで、早速この「将軍塚」の見学に訪れて見ました。


所沢市「将軍塚」

 画像は、所沢市松が丘1丁目に所在する「将軍塚」を南から見たところです。白旗塚と比べるとかなり小さな塚ですが、しっかりとマウンドが残されています。(真冬に訪れれば塚の形状がはっきり見えたかもしれないのですが、画像は2年前の5月のもので、残念ながらすでに草がぼうぼうに生い茂っていました。。。)
 塚の前には説明板歯が立てられており、次のように書かれています。

 将軍塚

 狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて
駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・
信濃の八か国の山々が望めたとこから八国山と
呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉
街道上道が南北に通っていた。
 元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒そうと上
州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指
ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分
倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝
利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるよう
になったと伝えられる。江戸時代に編纂された
「新編武蔵国風土記稿」には「此ニ一ツノ塚ア
リ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、こ
の塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚では
ないかとも記されている。


 所沢市内で古墳の可能性が想定されるという2基の塚が、ともに、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承の存在により崩されずに残されているというのは、なんという偶然かとびっくりします。
 ちなみに、小手指ヶ原や久米川で戦闘を繰り広げた新田軍はその後、分倍河原でようやく勝利となるわけですが、府中市内の「高倉古墳群」には、分倍河原の合戦で亡くなった戦死者を葬った塚であるとされる「首塚」や「胴塚」などの伝承が残されており、「首塚」や「耳塚」は現存します。また、府中市矢崎町2丁目には、東京都指定史跡である「三千人塚」も現存しています。


所沢市「将軍塚」

 画像のように、墳頂部には「将軍塚」の石碑が建てられています。


所沢市「将軍塚」

 将軍塚には、戦死した新田義貞方の武将たちを供養するための「元弘の板碑」と呼ばれる板碑が立てられていたそうです。現在この板碑は、東村山市の徳蔵寺の板碑記念館に移されて保管されています。
 将軍塚の場所には現在は「元弘青石塔婆所在趾」の石碑が建てられています。石碑の左奥に見えるのが将軍塚です。
 果たしてこの将軍塚が史実の通りに中世に築造された塚なのか、それとも古代に築造された古墳なのか、とても興味深いところです。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2018/05/08(火) 00:04:01|
  2. 埼玉県の古墳
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「白旗塚」

「白旗塚」

 さて、これまで東京都内の多くの古墳や塚を取り上げてきましたが、狭山丘陵周辺地域である瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市、小平市、東久留米市あたりは、どうやら古墳がまったく存在しない古墳空白地域となっているようです。これらの市域に本当に古墳が存在しないのか、実際に、足を運んで調べてみましたが、これまでに発掘調査により確認された古墳はおろか、古墳ではないかと推定されるような塚の存在もほとんど見当たらないようです。これらの地域には、古墳を築造するような豪族の存在はなかったのかもしれません。
 そんな中、狭山丘陵北側では、入間市域では古墳の存在は見当たらないものの、埼玉県側の所沢市は(かつては古墳の存在しない地域であると考えられていたようですが)、近年の開発に伴う発掘調査により「岩崎古墳群」や「海谷古墳群」等の複数の古墳の周溝が検出され、定説は覆されています。また、北秋津や滝の城といった地域では、横穴墓も発見されているようです。そして、所沢市内には、古墳である可能性が想定されている塚が何基か現存することを知り、これらの塚を見学するために所沢市まで足を伸ばしてみました。

 というわけで、画像は所沢市北野2丁目に所在する「白旗塚」を南から見たところです。こんもりとした森の中に塚が現存しており、一説には前方後円墳ではないかとする説もあるようです。


「白旗塚」

 現在の白旗塚を南東から見たところです。墳丘はかなり良好な状態で残されているようです。
 塚の所在地は、あまりわかりやすい場所ではないかもしれませんが、所沢市の埋蔵文化財調査センターの裏側、南側に隣接するように存在します。よりによって、埋蔵文化財調査センターの隣にありながら南発掘調査が行われず、塚の性格もわからないという状況はなんとも言えないもどかしさを感じますが(笑)、これは今後の調査の進展を待つしかなさそうです。


「白旗塚」

 北西から見た白旗塚です。 
 この白旗塚から埋蔵文化財センターにかけての一帯は、小手指ヶ原と呼ばれています。この地域の背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたことから古来戦場となることが多く、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてはしばしば合戦が展開されたといわれています。当時は一面の原野で、現在の狭山市から入間市あたりまでがその範囲に含まれていたようです。
 元弘3年(1333)年の、上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めは、特に歴史的な合戦のひとつとして知られています。同年5月8日に義貞は北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すために新田庄で兵を挙げ、利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下して、11日には新田軍は小手指の地に至ります。最初に150騎ほどだった新田軍は、進むにつれて沿道の武士を加えて行き、その数は最終的に20万騎にも及んだといわれています。この新田軍とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが勝敗はつかず、新田軍は入間川(現在の狭山市)に、幕府軍は久米川(現東村山市)にそれぞれ引きます。そして翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(現在の府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
 そして、この「白旗塚」は、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てた場所であるという伝承地です。


「白旗塚」

 塚の西側から北側あたりにかけて、古墳の周溝ではないかとも考えられる溝を見ることができます。素人目にもここは古墳なのではないかという印象を受けますが、真相やいかに!という感じですね。


「白旗塚」

 残存する墳丘からすると、前方後円墳というよりは帆立貝型という印象で、前方部か造り出しかと思しき形状を見ることができます。(もちろん古墳ではなく塚である可能性も考えられるわけですが。。。)


「白旗塚」

 白旗塚の墳頂部のようす。「白旗塚」と刻まれた石碑があり、浅間神社の石祠が祀られています。

 ちなみにネットでこの白旗塚について検索してみて知ったのですが、この場所は心霊スポットとしても知られているようです。鎧を身につけた武士の亡霊たちが白旗塚の周りを夜な夜な彷徨っているという目撃談や、武士が歩くような音が聞こえるなどの心霊現象、また心霊写真がよく撮れるという噂もあるようです。白旗塚の碑には「古武将の御魂祭れりこの塚を 護り通せと先祖より受 此の塚を壊せし者は忽ちに 霊魔を受けて死するやもあり 武蔵野の小手指ヶ原古戦場 月の光は変わらざりけり」と刻まれており、この碑文の内容も、この地の心霊スポット化に一役買っているのかもしれません。
 この地域は古くから知られる古戦場であり、祟りの言い伝えが存在することにより塚が崩されずに残された事例も少なからず存在するわけですが、霊感のまったくない私がよく晴れた日の午前中に訪れたという状況では、これらの噂の真偽を確かめることはできませんでした。。。


「白旗塚」

 墳頂部から下を見下ろして見るとこんな感じ。かなり高さが残されているようです。
 ただし、一時期はかなり塚は崩れていたようすで、修復が行われて現在の姿となっているようです。
 説明書きには次のように記されています。

 この白旗は太平記縁りの古戦場の一角にあり「説には古墳とも云い伝えられてきたが慶応四年村民の手により浅間神社(富士仙元)の石祠を建て浅間信仰の塚となった。以降百四十年余りに亘り風雨に晒され表土の流失が続きここにきて白旗塚碑石祠共土台が露出転倒する事態となった。
 さて白旗塚隣接地に農園を持つ北野中学校(校長都築政則)では強度の文化財を守ることは教育上の意義あることと考え体験活動の一環に取り入れ塚主の快諾を得平成十九年九月修復工事に着手した。
 盛土の土は地元の岩田清氏が提供教員生徒全員が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ五ヶ年の歳月をかけて修復し砂防に”著莪”を植え平成二十四年一月三十一日をもって本事業を完了した。
 盛土の総量約五十立方米生徒数(白旗塚の協力を含む)延三百五十名 この間文化財の奉仕活動に尽力された北野中学校生徒の功績を讃え茲に記し碑文とする。
平成二十四年三月吉日  建立  田中鳳仙書



「白旗塚」

 白旗塚の東方には、「小手指原古戦場」と刻まれた石碑が建てられており、所沢市教育委員会による説明板も設置されています。
 それにしても、この小高くなったマウンドが古墳跡であるなんてことは、ないですよね、多分。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2018/05/05(土) 00:06:18|
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