
画像は、武蔵野市吉祥寺東町1丁目の武蔵野八幡宮を南から見たところです。
この神社の御祭神は、誉田別尊・比賣大神・大帯比賣命で、桓武天皇の御代延暦八年坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられています。
四代将軍徳川家綱の頃、「明暦の大火」の被害により、創建の地である本郷周辺の住民がこの地へと移住、寛文初年吉祥寺村開村により神社もこの地に遷座、以降村民の氏神様として尊崇されています。
『東京都遺跡地図』によると、この神社の境内に「武蔵野市№2遺跡」の名称で古墳が1基、登録されています。武蔵野市内で唯一、古墳として登録されている地点です。

鳥居の左手前には、天明5年(1785)の「神田 御上水 井之頭辨財天」と刻まれた石碑と庚申塔が祀られています。
道標は、井の頭の弁財天へお参りする人のために建てられたもので、台座を含めて約2メートルと道標としては大きなものです。
元々は、この武蔵野八幡宮の対角にあったそうですが、大正時代の道路拡張により井之頭通りと吉祥寺通りが交差する旧大踏切際に、さらに昭和44年に武蔵野郷土館(現在の江戸東京たてもの園)へと移設され、平成20年9月8日に当初の場所に近いこの武蔵野八幡宮の境内へと戻ってきたそうです。
私は、若い頃の何年かをこの吉祥寺で暮らし、この周辺もかなりうろうろしたものですが、全然知らなかったです。。。

武蔵野八幡宮境内の様子です。
このどこかに古墳が存在するのでしょうか。
昭和23年に武蔵野市役所より発行された『武蔵野史』には、社地に存在したという古墳と、出土した蕨手刀に関する記述を見ることができます。
「(前略)たまたま昭和三年三月、社地地均し工事の際、社殿西側の大欅を掘りおこしたが、この時その根元から古刀一口を掘出した。これは同社に保存されてゐるが、實に立派な蕨手刀である。蕨手刀は奈良時代以前のもので、従來古墳から出土するものであるから、この社地には、もと古墳があつた、と考へて間違ひない。
古墳の外形は、削平されて殘つてゐないが、恐らく丸塚であつたらう。その上に神社が祀られたものと考へてよい。神社は元來清淨の地に祀られるもので、古墳などは忌むのであるが、それと氣がつかずただ景勝の地であつたがために社地となつたものと思はれる。地均し工事の當時は「僅かに境内の築山位に考へられた程」(社掌小美野龜之助氏の言)低くなつてゐたので、封土はこれまでに幾度も削られたものであらう。
蕨手刀の出土は、ここに古墳のあつたことの確證としてよいが、これには石室がなく卽ち無石室式の古墳で、武蔵野の古墳例にもれない。
蕨手刀は柄頭が早蕨に似た一種の曲線をなし鐵製である。柄頭は別につけたものではなく、莖の末端が早蕨形に作られていて、長さの割合に幅が広いのが特徴である。柄には木質の被ひはなく、葛その他の料を以てこれを纒うたものと思はれる。蕨手刀の起源は印度に遡り、我が國へは支那から伝來したので、奈良時代に用ひられたものである。」(『武蔵野史』76〜77ページ) かつては、わずかながらも高まりが存在したようですし、蕨手刀が出土したという伝承からしても、かつて社殿西側に存在したという築山はやはり古墳だったのかもしれません。
画像は、右側が現在の拝殿で、右側の建物は社務所です。『武蔵野史』の記述からすると、画像中央に見える木立のあたりが古墳の跡地となるようです。

この奥が古墳の所在地でしょうか。
この場所は立ち入り禁止であるため、内部の写真は撮影できませんでしたが、現地で見学したところでは、古墳らしき高まりは見当たらないようです。

井の頭通りから見た、古墳の跡地と考えられる木立の様子。
画像は、武蔵野市境5丁目に所在する「武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館」です。平成26年(2014)12月14日に開館という比較的新しい郷土資料館です。
ここに、武蔵野八幡宮から出土した蕨手刀のレプリカが展示されています。

画像が、武蔵野八幡宮の蕨手刀のレプリカです。
現存長は63cm、最大身幅4.3cm、厚さ0.5cmで、解説文には、拝殿建立の際に「本殿裏より出土」とあり、「玉石で囲まれ、砂を敷いた個所から発見された。」と書かれています。製作年代は8世紀代と考えられています。
蕨手刀は東北地方に多く分布しており、柄頭が蕨の若芽のように渦を巻くデザインから蕨手刀と呼ばれているそうです。
ちなみに東京都内の蕨手刀といえば、台東区鳥越2丁目の鳥越神社に献納されているものを思い出しますが、この鳥越神社の蕨手刀は、周辺から発掘された可能性は高いと想定されているものの、確実に付近に古墳が存在していて、そこから出土した遺物であるという客観性にも欠けると考えられているようです。
東北地方では、古墳や墳墓からの出土例が多いようですが、果たしてこの武蔵野八幡宮に古墳が存在したのか、またなぜ武蔵野の地に蕨手刀がもたらされたのか。真相は謎のままです。
発掘調査が行われれば何かわかるのかもしれませんが。神様が住む場所ですし、なかなか難しいですよね。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-197.html(2014/02/06 「鳥越古墳」)
<参考文献>
武蔵野市役所『武蔵野史』
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
現地説明板
人気ブログランキングへ
- 2019/09/18(水) 02:06:26|
- 武蔵野市の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

「こんこん塚」は、武蔵野市吉祥寺本町3丁目に所在したとされる塚です。画像はこの、こんこん塚の跡地とされる、現在の武蔵野市立井之頭小学校現在のを南西からみたところです。『東京都遺跡地図』には、武蔵野市の遺跡番号1番の「塚」として登録されています。
こんこん塚はすでに消滅して現存しない塚ですが、かつては古墳ではないかとも考えられており、「八丁大塚」、「大塚古墳」などと呼ばれていたようです。昭和23年に武蔵野市役所より発行された『武蔵野史』には、当時まだ残存していたこの塚に関する記述を見ることができます。
「平地に聳え四方とも広潤な視界を有する所である。風林であるが北の一部は封土が削り取られて屋敷に接し崖をなしている。その部分は竹林になっている。
墳の外形は、前面の道に接した部分は封土が崩れてかなり丸味を失っているが、左右背の三方は円形築成の形迹を存していて、本来の形の円であることを知る。前面は頂上の稲荷小祠に参詣道を造るために、漸次封土を削り取ったため生じた変形と思われる。円形で径は約二十五米、高さ四米八十糎で、相当大きなものである。なお江戸初期にはこのあたり萱野で人夫頭がこの塚上から萱を刈り取る人夫に貝を吹いて時を知らしめたといわれる。
封土の外部の設備としては葺石などはなく、この大塚古墳の内部の主体をなす石室は粘土槨と考えられる。それは西側の削り取られた部分に、粘土が頂点下一米位のところで〇・五米の厚さに南北の軸線に沿うて露出しておるのが認められたからである。
大塚古墳を以て古墳と考察するについては少し疑問がある。武蔵野には富士見塚が多いのでこの古墳もそれではないかと一応は疑問を持ったのであるが、元来八丁は後に述べるように江戸中期に開墾した新田村で、したがって大塚古墳は開墾以前から所在していたものである。右古墳西側の田辺勘次郎氏宅は、開墾後ここに屋敷を定めるに当って古墳の一部を削り取ったものと断ぜられるのである。(後略)」(『武蔵野史』74ページ) 粘土槨らしき遺構が露出していたというこの『武蔵野史』の記述からすると、やはりこの塚は古墳だったのではないかとも考えられるところですが、その後、昭和45年に武蔵野市史編纂委員会より発行された『武蔵野市史』には、その後の大塚について次のように書かれています。
「昭和三六年(一九六一)夏、付近の小学校々庭拡張のために本塚が崩されることになった。その頃は藤原氏も御元気で、筆者も御一緒に見学したことがあった。工事が進むにつれて封土中からは何も検出されず、また藤原氏の推定した粘土槨らしいものもなく、封土全部が真黒な有機質土壌であったことが判明した。その折筆者は付近の農家を訪ねて塚の由来をきいたところ、詳細は明らかではないが、頂上に稲荷社があるので、俗称コンコン塚といわれ、毎年行者が来てお祀りをしていたということがわかった。また口絵第7図に示す実測図(藤原氏提供)によると、元の形は方形であったことがわかり、南方は稲荷社の参道造成のために崩れたことがうかがわれる。(後略)」(『武蔵野市史』74ページ) この本の記述からすると、やはりこんこん塚は古墳ではなかったのかな?という印象ですが、同書の中ではさらに、同様になんの遺物もなく封土が方形で黒色土壌からなる、世田谷区砧の「砧大塚(西岡第1号古墳)」や、千葉県市原市の「サンヤ塚」等の塚との比較、検討により、このこんこん塚も、中世から近世にかけて民間信仰の対象として造られた塚ではないかと推定しているようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1173401&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和32年(1957)10月10日に米軍により撮影された、こんこん塚推定地の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。塚は、昭和36年(1969)夏に崩されたとされていますので、まだ塚が残存していたことの空中写真ということになります。恐らくは、画像の中央に見える円形の木立のあたりがこんこん塚ではないかと思われます。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1611563&isDetail=true) 画像は、同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和54年(1979)11月14日に国土地理院により撮影された塚の推定地の空中写真です、削平されてから18年後の写真ということになります。
塚は、体育館が建てられる際に崩されたといわれているようですが、昭和32年の写真に見られる円形の木立は、体育館らしき建物が建てられたことにより消滅しています。つまりは、1枚目の画像の校舎の奥、北西隅あたりが塚の跡地ということになるのではないかと思われます。

この地域には、日本の各地に伝承される巨人伝説が残されています。
「だいだらぼっち」と呼ばれるに巨人がこの武蔵野を通り、歩くたびに土地がへこみました。1歩目が現在の善福寺で水が湧き出て池となり、2歩目の八丁はへこんでくぼ地となりました。そして、足からこぼれ落ちた土のひとかたまりが、このこんこん塚となったといわれています。そして、3歩目は現在の現在の井の頭公園で、ここも水が湧き出て池となりました。
画像は、2歩目のへこんだくぼ地といわれる、現在の横河武蔵野グラウンドのようすです。
サッカー場として綺麗に整備されている場所ですが、やはりこのグラウンドだけ周囲よりも一段低くなっていますよね。
足跡だったんだー。。。
<参考文献>
武蔵野市役所『武蔵野史』
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
人気ブログランキングへ
- 2018/10/24(水) 00:04:22|
- 武蔵野市の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

画像は、武蔵野市境南町2丁目の「杵築大社」を東から見たところです。
この神社は、今から三百五十年程前の後光明天皇の慶安年中(1648〜1651)に、徳川三代将軍家光の従兄弟で家康の次男、松平秀康(越前国北ノ庄六十七万石領主、北ノ庄城々主)の三男、松平出羽守直政公(出雲国松江藩十八万六千石、同藩初代藩主、松江城々主)が、当所十二町四方を将軍家より賜り御用屋敷を設け、鷹狩りをして遊ばれていたところと伝えられています。
松平直政公は大変信仰心厚く、当御用屋敷内に徳川幕府の繁栄と天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社のことで、明治以降現社名に改名された)と稲荷社の両者を御創建されたのが、この神社の起こりであるとされています。
祭神は大国主大神、事代主大神で、境内社は稲荷神社、八坂神社、金刀比羅宮、冨士浅間神社、弁天宮、松平稲荷社で、境内には「境富士」と呼ばれる富士塚があり、この富士塚は武蔵野市の史跡として指定されています。

画像が、「境富士(杵築大社の富士山)」を北東から見たところです。
富士塚には武蔵野市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
市 史 跡
杵築大社の富士山
昭和四十七年三月十六日指定
この富士山は、明治十四年五月境本村をは
じめ近隣二十二町村の丸嘉講の協力により作
られ、富士講の講中が富士登山や七富士参り
をするさい、先達や講員がこの御山に道中の
安全を祈願しました。
清瀬の富士山神社に次いで三多摩では最大
のもので、境本村を中心とした富士信仰の規
模の大きさをあらわしています。
丸嘉講は富士信仰の一つで、今から約二百
年前赤坂伝馬町の近江屋嘉右エ門がおこし、
本市では旧西窪以西の二百人前後の講員を擁
し、○を講じるしとする講社です。
(○内には嘉)
昭和四十七年三月三十一日建設
武蔵野市教育委員会
塚の手前には、富士五湖を象った池が掘られており、これは塚築造用の土採取もひとつの目的となっていたそうです。池の正面には「富士橋」なる橋が架けられており、橋を渡り、石造の明神鳥居をくぐって登山道に入ります。

さてさて、早速、富士塚に登って見ましょう。

境富士は、武蔵野特有の円墳状に土を盛り上げて築いた土盛り型の富士塚です。登山道の入り口に建てられている築造の際の記念碑には、井口村や上連雀、下連雀村、新川村等の近隣各村の丸嘉講社のほか、上石神井村、落合村、南沢村、前沢村、下保谷村、上保谷村、など十八か村の丸嘉講社が講社中として名を連ねていることから、塚の築造にあたって各村の講社が協力したものと推測されています。

登山道は正面に造られており、電光形の登山道が左右に2本、設けられています。

境富士は、築造時には土だけを使用して造られていますが、昭和48年(1973)に修繕が行われた際には、頂上にトラック3台分の熔岩が積み上げられており、また登山道の両側にも配置されています。

山頂部が見えてきました。すでに若干ハァハァいっています。笑。。。

山頂部の様子です。築造当時に安置されたとされる石祠が、現在は溶岩の上に安置されています。

西から見た境富士です。こちら側からみると、塚の全貌を見ることができます。
塚上には多くの樹木が植えられています。
昭和45年に武蔵野市史編纂委員会より発行された『武蔵野市史』の「古代」の章でもこの富士塚についてふれられているようですが、「境南町鎮座の「杵築神社」内には富士塚があって、これは明らかに近世末期の築造であることがわかっている。」と、古墳である可能性はなさそうです。。。
<参考文献>
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明板
人気ブログランキングへ
- 2018/10/21(日) 21:42:37|
- 武蔵野市の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0