
今回は「市ヶ尾横穴古墳群」の探訪の記録です。
市ヶ尾横穴古墳群は、横浜市青葉区市ケ尾町に所在します。
鶴見川上流域である市ケ尾周辺にはかなり多くの横穴墓が築造されたようですが、この市ケ尾横穴古墳群はその代表的なもので、昭和32年(1957)に神奈川県の史跡として指定され、昭和58年にA群、平成6年にB群の保存整備が実施され、「市ケ尾遺跡公園」として保存、公開されています。
昭和8年(1933)と昭和31年(1956)に行われた発掘調査により、前庭部と呼ばれる横穴墓の入口前の広場部分から刀・土器類などの遺物が発見されており、ここで死者を祀る儀式が行われていたのではないかと考えられています。
19基の横穴内部の構造にはいろいろな形式がみられ、時代とともに次第に変化していった様子もうかがえるようです。

画像は、「A群」と呼ばれる支群の様子です。
6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたという計12基の横穴墓から成り立っています。

それぞれの横穴が様々な形で保存されているのが面白いのですが、A-1号横穴は蓋してあるような感じです。
ちなみにA-2号横穴も似た感じ。。。

A-3号横穴はこんな感じ。
やはり横穴は塞がれていますが、A-1号となちょっと違う感じです。
ちなみにお隣のA-4号横穴の前庭部からは、須恵器の甕の破片が並べられたような状態で出土しているそうです。

A-6号横穴。
ここはガラス越しに内部を見学できるようになっています。

A-8号横穴。
ここは開口した状態で公開されており、横穴内部に入ることができます。

A-8号横穴を内部から見たところ。
アーチ状をしているのがよくわかりますね。

「立ち入り禁止」の看板が設置されていて、入ることのできない横穴もありました。
崩落の危険があるのでしょうか。。。

A-12号横穴。
ここもガラス越しに内部を見学することができます。

A-12号横穴内部の様子。
ちゃんと内部には照明が取り付けられていて、明るく照らされるようになっています。
さて、ここからは「B群」に移ります。
B群はA群から南へ約40メートル離れた丘陵西側斜面に造られており、計7基の横穴墓から成り立っています。
6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたことが明らかになっており、それぞれの横穴入口部の前面には、比較的狭い前庭部がほぼ平坦に造られていることがわかっています。

同じく、角度を変えて見たB群の様子。

B-2号横穴は内部に入って見学することができます。
このB-2号とB-5号横穴からは、横穴の各部から装身具、土器などの豊富な副葬品が出土しており、当時の葬られた人々の姿をそのままうかがい知ることができます。

B-2号横穴内部の様子。
棺座、玄室と羨道の間には間仕切りの段がみられます。

内部から見たところ。
都心部とその周辺で、石室や横穴の内部に入って見学することができる古墳は多くはありませんので、貴重ですね。。。

B-4号横穴は、玄室内部の床に十文字の排水溝がつくられているそうなのですが、ガラス板の汚れがバリバリに固まっていてよく見えないという残念な状況。古墳あるあるですね。。。

B-7号横穴は、蓋の部分に解説が書かれていました。
玄室内部の床は羨道よりも一段高く、周囲には排水溝が設けられているそうです。
他に「C群」としてもう一箇所、横穴が存在したはずなのですが、2度も訪れていながら2度ともすっかり存在を見落としました。目につかなかったわけですから、整備されて公開されているような状況ではないのかもしれませんが、これはいつかまた訪れるチャンスがあったら、その日までの宿題ということで。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/05/29(金) 00:07:49|
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今回は、横浜市青葉区大場町に所在する「稲荷前古墳群」です。
この古墳群は、昭和42年から同44年にかけて発掘調査が行われています。
同じ丘陵上から前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳などの様々な形状の10基の古墳と9基の横穴墓が発見されたことから、「古墳の博物館」とも呼ばれました。
画像は、この稲荷前古墳群の所在地を南西から見たところです。
現在は、この丘陵上に15、16、17号墳の3基の古墳が保存、公開されており、昭和45年に神奈川県の史跡に指定されています。

古墳の所在する丘の前には、「県史跡 稲荷前古墳群」と看板が設置されています。
なんと、ここには駐車場が完備されていて、無料で車を止めて古墳を見学できるという、都心部では希少な史跡なのです!

前方後方墳である16号墳の墳丘が、木立の間にチロっと見えていますね。笑。
早速、丘の上に登ってみましょう!

16号墳です。
左手前が前方部、右奥が後方部となります。
15~17号墳の3基の古墳は昭和57年に保存整備事業に伴う発掘調査が行われており、その結果、この16号墳は前方後方墳と呼ばれる珍しい墳形の古墳であることが判明しています。そして、この前方後方墳は、正方形をした2つの墳丘を撥形をしたくびれ部で連結しているという、かなり特異な形の古墳であることがわかっています。
規模は、全長37.5m、後方部幅15.5m、前方部幅14.0m、くびれ部幅10.0~11.5mを計ります。周囲には、幅1.2~1.4mを測る周溝が確認されています。

北から見た16号墳です。
浜田普介氏による「前期前方後円墳と円墳」という論文の中では、この16号墳を「前方後方形周溝墓」とも呼称しています。
果たして、当時に築造に関わった人たちにとってこの古墳は「前方後方墳」なのか、それとも「双方墳」なのか、はたまた「前方後方形周溝墓」なのか、興味の尽きないところです。。。

墳丘上で見た16号墳。
前方部から後方部を見たという状況でしょうか。

逆に、後方部から前方部を見たところ。
奥に小さく見えるのが17号墳です。

17号墳です。
調査の結果、16号墳と同様に大量の盛土で造られている方墳であることがわかっているそうです。

15号墳です。
16号墳の北側に隣接している古墳で、調査時にすでに墳丘の大部分が削平されていたものの基底部が残存しており、一辺約12mを測る方墳であることがわかっています。つまりは、現在見られる墳丘は復元されたものとなるようです。。。
周溝の切り合いにより、16号墳より新しい時期に造られたことがわかっています。
ちなみに実はですね、最初にこの古墳群を訪れたのは9年前になります。
真夏に訪れたのがよくなかったのですが、なんと巨大なスズメバチがこの15号墳の上空をず〜っと旋回していて、まったく近寄ることができません。
それでも写真を撮りたかったので恐る恐る近づいてみると、スズメバチがぶわーっと降下してくるので慌てて逃げる、ということを3〜4回繰り返してですね。最後に意を決して15号墳に早足で近づいて行くと、怒ったスズメバチがすごい勢いで襲いかかってきて、もはや命からがら泣きながら逃げ出した(大人なのに)、ということがありました。
「もうここは『古墳なう』には掲載しない!」とすっかりあきらめていたのですが、1年半ほど前、今度は真冬に訪れて、ゆっくりと写真を撮ることができました。
ま、私ってヒマなのかもしれませんよね。。。
<参考文献>
浜田普介「前期前方後円墳と円墳 ー川崎・横浜市域を例としてー」『川崎市市民ミュージアム紀要 第13集』
現地説明板
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- 2020/05/27(水) 01:17:14|
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横浜市青葉区あざみ野南3丁目の赤田西公園内には、「赤田2号墳」という名称の古墳が復元、公開されています。
今回は、この復元古墳の探訪の記録です。

画像は、復元された赤田2号墳を南から見たところです。
この古墳がかつて所在した荏田周辺は古くは赤田と呼ばれ、起伏に富んだ丘陵地帯で、縄文時代から中世までの集落や古墳・横穴墓など14カ所の遺跡があり、昭和60年から63年にかけて発掘調査が行われました。
赤田2号墳は自然地形を利用して築かれた古墳で、規模は径約20mの円墳で、北側と南西側から周溝が検出されています。石室は、泥岩の切石を用いた両袖型の横穴式石室で、玄室は床面が3つに区切られて川原石が敷かれていました。遺体はこのいちばん奥に安置されていたようで、この部分は一段高く川原石の下には泥岩の切石がきれいに敷かれていたそうです。

画像は、これも復元された埋葬施設の様子です。
この古墳は本来はこの場所から東へ410m、北へ310m、標高56.8mの丘陵上にあったそうですが、これは現在のあざみ野南1丁目あたりであると思われます。石室はGRTにて造形保存復元して、墳丘を調査結果に基づいて復元されたそうです。
調査の結果、玄室の中からは耳環、勾玉、管玉、切子玉、棗玉等の首飾り、鈴釧(腕輪)、太刀・鉄鏃等の武器、刀子(ナイフ)、須恵器の𤭯、坏が出土しました。墳丘からは須恵器の堤瓶、甕の破片、北側の周溝からは土師器の坏が出土しており、墓前祭が行われたと考えられています。

この古墳の築造は6世紀後半と推定されており、この地域の横穴式石室の中でもっとも古いもののひとつです。
古墳は1号墳から4号墳まで4基が調査されており、2号墳の南側斜面には42基の横穴墓があり、同じ場所に古墳と横穴墓が造られていることは、古墳と横穴墓の被葬者の関係を知るうえで貴重です。
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/05/25(月) 21:45:07|
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今回は、横浜市青葉区荏子田1丁目に所在する「荏子田横穴」の探訪の記録です。
別名「荏子田かんかん穴」とも呼ばれているこの横穴は、早渕川上流南岸の丘陵西斜面に位置しており、古墳時代後期から奈良時代にかけての有力者の家族墓と考えられています。平成5年11月1日には横浜市の史跡として指定されています。
画像の丘陵斜面が「荏子田朝日公園」として整備されており、2基の横穴が保存、公開されています。

画像が「荏子田朝日公園」です。
階段を登った奥に、2基の横穴墓が保存されています。
私の持論として、古墳の見学は、草ぼうぼうになって墳丘が見えなくなってしまう可能性のある夏よりも冬がいい!と思っていますので、この荏子田横穴も寒さのピークである2月に訪れたのですが。
衝撃の結果は。。。

なんと!公園内の芝はきちんと刈られているにも関わらず、古墳を保護するためにフェンスで覆ってしまったことが仇となり、フェンスの内部のみが草ぼうぼうという信じられない状況。横穴内部はまったく見ることができません。
いや、こういうことって意外とあるんですよね。。。がっくし(´⊿`)

この横穴は、昭和3年に学会に紹介され、その後の昭和31年には発掘調査が行われています。
現地説明板によると、1号横穴は内部が切妻造りの家型にかたちづくられ、天井部と壁面には、家屋内部を表した柱・棟木・束柱・桁などが浮き彫りに表現されているそうです。これは、当時の有力者居宅を表現したものとみられ、7世紀前半に造られたものと考えられています。
切妻造りの家型の内部が遠くからでも見られたらと思ったのですが、写真に収めるのはどうにも無理と判断。
せめて横穴の様子だけでもということで、斜面を無理やりよじ登って斜め上から撮影しました。
内部の様子までは写りませんでしたが、これが1号横穴です。

画像が、2号横穴と思われる横穴。
2号横穴は規模が小さく、7世紀後半に造られたものと考えられているようです。
田園都市線沿線は見逃している塚も多々あるので、また遊びに行けたらいいなあとも考えているのですが、とりあえずはこれまでに見学した古墳の写真を更新していく方向です。
次回、「赤田2号墳」に続く。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/05/24(日) 23:28:40|
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画像は、横浜市青葉区しらとり台に所在する「神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)」です。
祭神は日本武尊、弟橘姫尊というこの神社は、文治元年(1185)3月、武蔵国桝形城主稲毛三郎重成の創建であるとされ、白鳥前川社と称したが、何時の頃よりか白鳥を転じ神鳥と書き、之を「シトト」または「シトトリ」と呼び今日に及んでいるそうです。明治43年12月23日に、無格社神明社(祭神伊弉諾尊、伊弉冊尊)を合祀しています。
この神社には「恩田富士」と呼ばれる富士塚が存在します。

神鳥前川神社社殿の様子です。
恩田川左岸の台地縁辺部にあり、対岸には「北門古墳群」が存在するという、立地的には古墳が存在してもおかしくないような場所ですね。
社殿の左側に富士塚が所在します。

画像が、現在の「恩田富士」です。
この上恩田富士の北西に所在したという「上恩田富士(六角富士)」と「下恩田富士(榎が丘富士)」が合体して移築されたそうですが、何とも愛おしい姿にびっくりしてしまいました。笑。
現在の恩田富士の周囲には多くの石碑が存在しますが、これらはかつて上恩田富士や下恩田富士に置かれていたものが移されているものであるそうです。

富士塚を接写。
以前に、三鷹市中原3丁目所在の中嶋神社の富士塚を取り上げたことがあります。
この中嶋神社の富士塚も塚自体がコンクリートで固められているという、なかなかに異形の富士塚でしたが、この恩田富士は丸石のコンクリート固めという、とても可愛らしい富士塚ですね。。。

実は、神鳥前川神社を参拝する以前に、「上恩田富士(六角富士)」の跡地とされる場所を見学していました。
この富士塚については、「恩田メモ」という郷土研究サイトにとても詳しく書かれています。
同サイトによると、宅地造成が行われる以前は、この地域を南北に縦断していた鎌倉路または登戸道と呼ばれた道沿いに筋塚があり、昭和49年(1974)ごろには開発により破壊され、消滅したようです。

六角形という、とても興味深い形状であったこの上恩田富士なのですが、残念ながら塚の痕跡はまったく残されていないようです。
ただし、跡地付近には、塚にあったという9基の石碑が並べて保存されています。
開発が進んだ地域の一角に民家が存在しない更地があって、その片隅に石碑が集められているというかなりシュールな状況ですが、なぜこういう状況になっているのか、それも興味深いです。。。
<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』
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- 2020/05/22(金) 20:12:46|
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今回は、横浜市都筑区に所在する「山田富士」を紹介します。
この富士塚はその名の通り、「山田富士公園」として整備、保存されています。
横浜市営地下鉄グリーンライン北山田駅を降りて北西方向を見上げると、もう丘の上に大きな富士塚が見えています。
早速丘の上に登ってみましょう!

山田富士公園内の山道を登ると、すぐに富士塚は見えてきます。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には、「太子堂山、北ノ方ニアリ、此山ニ富士塚トテ高サ、十丈ハカリアリ、又半腹ニ至リテ、太子堂ヲ建ツ、五間二二間、南ニ向エリ、太子ハ木ノ立像、長一尺ハカリ、村内長泉寺ノ持」と書かれています。この時期、江戸時代の文政年間(1818〜1830)には高さ30メートルほどの塚があり、かなり知られた存在であったようです。

見えた〜。笑。これが山田富士です。
現在の都筑区や青葉区周辺地域では富士信仰が盛んであったそうですが、この富士塚も、富士信仰に基づき富士山の山容を模して築かれた塚です。黒ボク(富士山から取り寄せた溶岩)や石碑類は見られないようです。
富士講は、富士の八百八講といわれるほど多くの講が結社されましたが、この山田富士の講である山眞講と、富士信仰に関わる行事は早い時期に絶えてしまっているようです。

山頂部の様子です。
頂上には噴火口に模した穴が造られています。
ちなみに、噴火口の縁で写真を撮っているおじさまと30分以上立ち話をしましてですね(私もおじさまですが)。笑。それで、川和富士や池辺富士も見に行きたい!という気持ちになって、この山田富士を訪れてから3日後に見学に向かったというわけなのです。。。

頂上から見た街の遠景。
川和富士、池辺富士、山田富士と合わせて「都筑三大富士」と呼ばれているそうです。
確かに、どれも見事な富士塚ですよね。。。

西側から見た山田富士の様子です。
犬がいい味を出しています。笑。。。
この富士塚は実際の富士山同様に美しい裾野をひき、コニーデの形状を示しています。
登拝口は、東側の緩やかな道を御殿場口、南側の急な勾配の道を吉田口としています。前者の登り口を数歩登った場所には、かつて胎内道が穿たれ、仏がまつられていました。
また後者の脇には須走りが模作されています。それぞれの登り口から頂上のお釜までの間には石塔が点在していたそうです。

この山田富士の脇にももう1基の小さな塚があり、いくつかの石造物が祀られています。
「川和富士」の際にもふれましたが、これも「大山小山の構成」ということになるのでしょうか?
このあたりはまだよくわからないままです。。。
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/05/20(水) 15:17:20|
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前回に引き続き、今回も横浜市都筑区に所在する富士塚、「池辺富士」です。
この一帯のニュータウン計画により富士塚の周辺は農業専用区に指定されているそうです。農地として拓けた中に富士塚がボコッと一際目立っているので、すぐわかります。
寛政8年(1796)築造という古い塚です。周辺には川和富士、山田富士や新池辺富士、荏田富士といった多くの富士塚が存在しますが、周辺の富士塚が移築されたり公園化されているのに対して、この池辺富士は場所も形もほとんど変わっていないようです。
ちなみにこの富士塚の”池辺”とは、「いけべふじ」ではなくて「いこのべふじ」と読むらしいです。
通常の地名は「いけべ」でも構わないらしいですが、いやいや、こういうのは「いこのべ」でこだわろうよ!と私は思いますが、オヤジですかね。。。

鳥居です。
おそらくこれが二の鳥居ではないかと思います。
近年まで欠損していたようですが、新しい鳥居が建てられたようです。

今、この記事を書いていて気がついたのですが(今更かよという感じですが)、有坂蓉子著『ご近所 富士山の「謎」』の189ページに、この池辺富士について、「浅間神社 通称:富士塚古墳」と記されています。
「古墳の可能性があったのか!!!」とびっくりしてそのまま後ろにひっくり返りましたが、この塚については富士塚であると思い込んでいてあまり深く追求していませんでした。このあたりは、のちに何か判明した際には追記しようと思います。。。

参道を登ります。
真夏に訪れるとちょっと厳しい状況かも。

山頂の石祠と水盤の様子です。
この日は、この池辺富士の見学後に川和富士を巡りました。
都筑区から青葉区周辺の富士塚は、なぜかキュートで可愛らしく見える富士塚が多いです。
黒ボクや石碑が存在せず、塚の周りを取り巻く螺旋道が丸見えな姿は、なぜかたまらないものがあります。(いよいよ変態レベルかな。。。)
<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』
有坂蓉子『ご近所 富士山の「謎」』
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- 2020/05/18(月) 20:20:42|
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今日は、横浜市都筑区に所在の「川和富士」です。
1年ほど前に、とにかく「でけ〜!すげ〜!」といいたい、みたいなバカみたいな理由で横浜を訪れました。笑。
底部の直径は約50メートル、高さは14メートルで、頂上の標高は74メートルととにかく巨大で、塚の上には3巻き近い螺旋道が巡っています。
富士塚本体の横っちょに小さな小山(塚?)があるというパターンを、これまで何度か見かけてきました。この川和富士もそうですが、今パッと思い出せるのは、所沢の「荒幡冨士」や横浜の「山田富士」などで、謎の小山を見かけました。
これについては、これまであまり深く掘り下げてこなかったのですが、有坂蓉子著『富士塚ゆる散歩』をよーく読んでみて、「大山小山の構成で、小さいほうは宝永山?」と書かれているのを見つけました。富士塚についてはそれほど詳しい方ではありませんが、「大山小山の構成」というのがあるのか!というのは今日初めて知って、ちょっとテンション高いです。笑。
やはり小さいほうも富士塚の一部だったのですね。。。

小さい塚の方から見たところです。
小さいといっても、並みの富士塚以上の大きさがありますよね。笑。
この富士塚は、200メートル北西から移築されていて、信仰物は、そこから西へ700メートルの八幡神社へ移されていて、塚には存在しないようです。

北側から、直線的に登ることができる階段も存在しますが、実際には螺旋道を登っている人が多かったように思います。景観がとても良いですし、当然かもしれませんね。。。
横浜市により設置された石碑に、この川和富士について書かれていました。
川和富士について
私たち日本人は、ともすれば自然界の不思議な現象や
造形物に対して、それを神そのものであるとしたり、或
は神の心による働きとして、おそれおののく思いを抱い
てきました。
日本を代表する富士山も、古くから霊峰として信仰の
対象とされており、このような富士山をまつる信仰を、
浅間信仰(せんげんしんこう)といいます。
富士の山神を迎える”依代”(よりしろ)として富士山
の形をまねて塚をつくることは、室町時代からの習わし
としてありましたが、江戸時代の中頃になると大いに流
行しました。 ”川和富士”もこの流行により江戸時代後期
につくられ、かつては、ここより数百メートル北西の伊
勢森原の頂上にありました。
ここに築造された富士塚は、その ”川和富士” を、復
元したものです。
横浜市
頂上の様子です。
この富士塚には、黒ボク(富士山から取り寄せた溶岩)が見られないのだなあと思い、調べてみました。
東京23区内と千葉県の富士塚には全てに溶岩が見られるそうですが、多摩地区の7ヶ所、埼玉県の7ヶ所,神奈川県の4ヶ所、北関東の4ヶ所で溶岩が見られない富士塚が存在するそうです。
私は最初に23区内の富士塚から巡り始めてしまったので黒ボクの存在が当たり前になってしまっていたのですが、黒ボクの存在しない富士塚も少なくないようですね。

塚の頂部から見下ろしたところ。
流石に高さがあります。
訪れてみて、実際に「でけ〜!すげ〜!」と思えた、大きくて素敵な富士塚でした。
<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』
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- 2020/05/17(日) 21:44:38|
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さて、前回取り上げた「成瀬奈良谷戸古墳」と同じ丘陵上にはもう1基、「富士塚」という名称の塚が存在するということで、この塚も探して歩いてみました。
成瀬奈良谷戸古墳の見学後、成瀬尾根1号緑地から成瀬尾根コースを歩きます。

この尾根道の途中の様子。
まるで古墳かと見間違うような高まりを避けるように、うねうねと尾根道が続きます。
自然地形なのかもしれませんが、中には人工的に造られた塚があってもおかしくないような印象。
富士塚はもう少し奥に存在するはずです。
ちなみに2015年にはこのあたりでマムシが出たようですからね。
私が歩いたのは冬でしたが、油断は禁物です。。。

もはや高まりのすべてが古墳に見えてしまいます。
富士塚はまだかな?

成瀬奈良谷戸古墳から南に200メートルほどの地点でしょうか。
奥へと階段が続いている場所を発見しました。
絶対に怪しい。。。

この場所は実はフェンスで囲まれているのですが、このフェンスの入り口は特に施錠はされていなかったので、中に入ってみました。階段を登った奥の、一番高い位置に存在するのが、この「富士塚」ということになるようです。
前回紹介した成瀬奈良谷戸古墳が、横浜市青葉区No.93遺跡として、「古墳」として登録されているのに対して、この富士塚は青葉区No.94遺跡として、「近世の塚」として登録されています。
富士講が築造したようないわゆる一般的な富士塚とは違って、溶岩や石碑の類は一切見られないようです。
学術的な調査は行われていないようですし、どういう目的で造られたのか、塚の性格はわかりませんでしたが、同じ丘陵上に存在するこの富士塚が古墳である可能性はないのでしょうか?
今後の調査の進展がとても気になる塚でした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/05/13(水) 20:30:14|
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画像は、横浜市青葉区に所在する「青葉区NO.93遺跡」を南から見たところです。
この古墳は東京都町田市と神奈川県横浜市の境に位置しており、横浜市側に所在します。
ちょうど画像の道路が境界線となっており、道路の右側が横浜市、左側が町田市となるわけですが、
この古墳は、昭和36年(1961)に東京都教育委員会より発行された『南多摩文化財総合調査報告』の「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」の中で「成瀬奈良谷戸古墳」の名称で取り上げられており、次のように記されています。
横浜市港北区奈良町熊ヶ谷戸横穴群の存在する丘陵頂部に、県境にまたがって存在している。径約13m、高さ約25mの規模をもって、石室に使用されたと思われる凝灰岩が一部露出している。横穴式石室の構造をもつものと思われるが、他は明らかでない。後期終末期のものであろう。(『南多摩文化財総合調査報告』121ページ) おそらく「高さ約25m」という記載は間違いで、正解は2.5mであると思われます。
「径約13m、高さ約2.5m」が古墳の規模であれば、今もあまり変わらないように見えます。
古墳に突き当たった道路は古墳を避けるように弧を描いており、古墳は裾部は削平されているものの、良好に残されているようです。フェンスで覆われていて立ち入り禁止となっているため、一部露出するとされる凝灰岩を確認することは出来ませんでした。。。

反対の北側から見た成瀬奈良谷戸古墳です。
やはり、道路が墳丘を避けて弧を描いている様子が確認できます。

西から見た古墳の様子です。
その後に学術的な調査が行われているかどうかの詳細は不明です。

古墳の近くの木の上で、キツツキ(?)かもしれない鳥がカッコーン、カッコーンと木をつついている音が響き渡っていました。
写真に収めたいと思って探しましたが、うまく撮影できず、残念です。。。笑。
まだ自然も多く残されている、良いところですよね、横浜は。。。
<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2020/05/12(火) 23:09:21|
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