
今回も「下砥上古墳群」シリーズということで、今回はその3。
姿川中央小学校の北方に残存する、下砥上古墳群中3基目の古墳です。
画像は古墳を北から見たところです。
かつて畑の中の農道であったと考えられる道が、古墳を避けるようにS字に曲がりくねっているあたりがたまらないです。。。笑。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=215381&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)10月に米軍により撮影されたこの地域周辺の空中写真です。わかりやすいように周囲を切り取っています。
画像の中心に見える円形の木立が古墳です。
こうしてみると、当時は周辺に民家らしき影がほとんどなく、広大な田園と畑地という状況です。
あらためて写真で見ると時の流れを感じますね。。。
ちなみに画像下の中央やや右寄りに見える木立は、前々回に取り上げた「鶴塚古墳」です。
この時代の空中写真ではまるで前方後円墳のように写っていて、とてもとても気になります。。。偶然かな?

古墳を南西から見たところ。
『宇都宮の遺跡』にはこの下砥上古墳群について、「この遺跡は県登録姿川中央小敷地内古墳と姿川中央小南古墳と姿川中央小北遺跡を併合したものである。」と書かれており、おそらくは姿川中央小北遺跡がこの古墳に該当するものと考えられます。
姿川中央小学校の敷地内の古墳が「1号墳」ということなので、鶴塚とこの小円墳のどちらかが2号墳でどちらかが3号墳、ということになるのかもしれませんが、宇都宮市内の古墳は名称のわからない古墳が多く(実際には名称はあるのかもしれませんが)、こうしてブログに掲載するには整理が難しいです。。。笑。

墳丘南側の裾部には鉄パイプで造られた鳥居が建てられており、墳頂部には石祠が祀られています。

墳頂部の様子です。
この周辺はかつてはかなり多くの古墳が存在したようなので、これから調査が進めば面白いなあと思っています。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
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- 2021/03/07(日) 23:53:10|
- 相模原市の古墳・塚
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「当麻東原古墳」は、相模原市南区当麻に所在する古墳です。
古墳は、JR相模線原当麻駅の南西約400メートルほどの田名原面の西縁辺部にあり、崖下西方に展開する谷原古墳群や東南方の横穴墓群を見下ろす位置にあります。
画像は当麻東原公園のようすで、右側に見える植え込みの中に古墳は整備、保存されています。

当麻東原古墳は昭和63年(1988)に発掘調査が行われています。
調査当時、墳丘の約1/3は破壊されていたようですが、直径16m、高さ3mの円墳であることがわかっており、7世紀代に築造された古墳であると推定されています。
古墳の北方からは集落が発見されており、5棟の住居と当麻東原古墳は7世紀前半のどこかで共存した可能性があるそうで、同時期の古墳と集落が近接して確認されたことはとても珍しく、価値のあることです。

古墳の様子。
墳丘状に大きな板石が敷かれていてこの上に登れるようになっているのですが、板石の周囲の盛土が流失して板が浮き上がってしまっており、石室の石材らしき河原石が顔を覗かせています。

古墳には「当麻東原古墳」という石碑が建てられており、次のように刻まれています。
当麻東原古墳
相模原市指定史跡名勝天然記念物
平成元年二月三日指定
当麻東原古墳は、相模川左岸に築かれた河原石を積み
上げた横穴式石室をもつ円墳です。墳丘の規模は直径十
六メートル・高さ約三メートルで、墳丘の周囲には幅二
メートルの溝が巡っています。埋葬施設である石室の中
からは装身具や武器具などの副葬品が四百点余り発見さ
れています。
本古墳は、当麻谷原古墳群と並び古墳時代後期の七世
紀代に造られたもので、相模川低地に生産活動の場をも
った集団の長の墓と考えられます。また昔から「馬塚」
や「名馬塚」という名で伝承され、長く保存されていま
した。
高塚古墳が少ない相模原市にあって、良好な状態で残
っており、かつ当地の古墳時代の姿を伝えるものとして
貴重であるため相模原市指定史跡名勝天然記念物に指定
されました。
平成二年三月
相模原市教育委員会 相模原市内の古墳や塚は、今回の当麻東原古墳でとりあえずひと段落。
神奈川県内では、座間市や海老名市、厚木市や伊勢原市、秦野市等々、まだまだ見学した古墳は少なくないのですが、とりあえずこれ以上南下はせず、次回から東京都内の古墳や塚に戻ります。。。
<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
現地説明板
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- 2020/03/23(月) 19:28:24|
- 相模原市の古墳・塚
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前回に引き続き「当麻谷原古墳群」の探訪の記録。今回は後編です。
前回は、南区当麻の東側の支群を中心に取り上げましたが、今回は中央区田名塩田3丁目に所在する西側の支群を中心に紹介しようと思います。
この西支群の一部は「田名向原遺跡公園」として整備、保存されています。早速見学してみましょう!

公園内の様子です。
古墳公園らしい、いい感じです。
画像の左側に半分ぐらいみえているのが12号墳。右側が14号墳です。

画像は谷原12号墳。
この古墳は平成6年(1994)、この遺跡公園の北方60メートルの地点で発掘された円墳を移築・復元したものです。
この古墳は石室が良好に残されており、人骨は残されていなかったものの、石室には、壁際に遺体を取り囲むように置かれた大小6点の直刀や鉄鏃などの武具、また装身具の玉類や耳飾りは頭の位置周辺から出土しています。公園内にはほかに、13号墳と14号墳の2基が保存されています。

同じく12号墳。
この日は、青い眼をした子供たちが大勢で楽しそうに古墳を見学していました。
これまでの私にとっての古墳探訪とは、だーれもいないところで独りで見学して、独りで写真を撮っているようなイメージでしたが、例えば最近は、遺跡の現地説明会などにも多くの人が参加するようになってきたりと、状況が変わってきましたよね。ましてや近年、海外から日本を訪れる観光客が増えている中で、海外の方が日本の古墳に興味を持って見学しているというシーンはなかなか感慨深いものがあります。
女の子たち、楽しそう。笑。

石室内部の様子。
半地下式の河原石積横穴式石室で、少し胴張り気味の奥部から羨門に向かってすぼまっており、羨道部の床は玄室よりも高くなっています。石室の全長は6.2メートルを測ります。

谷原13号墳の跡地の様子。
調査当時、すでに墳丘は削平されて存在しませんでしたが、石室の位置と周溝が確認されており、現在は現地保存された上で古墳の位置が表示されています。周溝外径20メートルの円墳です。

谷原14号墳。
1969年の県道拡張工事で消滅したとされていましたが、発掘調査により周溝と石室の残存部が確認されて、現地保存されています。復元される周溝外径は約20メートルの円墳です。

公園内に復元された住居状遺構です。
約2万年前の後期旧石器時代の住居跡と推定される遺構を復元したものです。

復元された縄文時代中期の竪穴住居の様子。
これは火災には気をつけたいですね〜。。。

住居状遺構内部の様子。

公園の東側、県道を挟んだ向かい側には「史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館」という施設が存在します。田名向原遺跡のガイダンス施設として造られて平成21年(2009)にオープンした学習館で、旧石器時代を中心とした施設ですが、もちろん、当麻谷原古墳群についてもふれられています。

学習館内部の様子。
古墳から出土した遺物も展示されています。

画像は、遺跡公園内に移築・復元された「谷原12号墳」から出土した副葬品です。

同じく12号墳より出土の直刀や刀子、鍔も展示されています。
相模線は単線で列車の本数が限られていますし同じくバスの本数も限られているので、この場所を訪れるには、車を所有していないと少々しんどいかもしれませんね。
当時私は「ブロンプトン」という折りたたみ自転車で移動していました。最寄りの駅までは電車で移動して、そこから折り畳み自転車を組み立てて目的地に向かうわけですが、この遺跡公園の見学後は当麻東原古墳へ向かい、段丘を上がる長い急坂を漕いで上がって、足が終わることとなります。。。とほほほ。笑。
<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
現地説明板
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- 2020/03/22(日) 23:57:41|
- 相模原市の古墳・塚
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今回は、相模原市南区から中央区にかけて存在する「当麻谷原古墳群」の探訪の記録です。
これまでに14基の古墳が確認されており、1号墳から7号墳までの東側の支群が南区当麻に、8号墳から14号墳までの西側の支群は中央区田名塩田3丁目に所在しています。相模原市を代表する古墳群です。。。
画像は「当麻谷原古墳群1号墳」です。
この1号墳は、相模原ポンプ場の敷地内に保存されており、敷地内に立ち入ることができないことから遠方からのみの見学となります。
この古墳は、昭和34年(1959)に最初の確認調査が行なわれており、外径20~21mの周溝が巡る円墳で、埋葬施設は半地下式の河原石積み横穴式石室であることが確認されています。

1号墳。
この角度から見ると、石室の石材が露出しているらしき様子が確認できます。
うーん。近くで見たいですねえ。笑。

画像は3号墳。
周溝外径が14~17mと、1~4号墳の中では最も小さい古墳で、埋葬施設は、1号墳と同様に半地下式の河原石積み横穴式石室であることが確認されています。
この古墳も、相模原ポンプ場の敷地内に保存されており、遠方からの見学となります。残存する墳丘もかなり小さな印象ですね。。。

画像が4号墳。
墳丘は相模原ポンプ場の敷地内になるのでしょうか?
現状保存されており、ポンプ場のフェンスが墳丘を取り囲んでいます。
確認された周溝から推定される周溝外径は約20mで、かつては4号墳が一番大きな墳丘だったという伝承もあるようです。
この古墳は、ポンプ場の南側にある「金山神社」の境内となっており、近くで見学できるようです。
早速その金山神社に行ってみましょう。

画像が金山神社です。
この神社の境内、鳥居をくぐって参道を進んだ右奥あたりに4号墳が残存します。

画像が4号墳。
保存のために、墳丘の形状や周溝の有無の確認調査が行われています。
墳丘は明治年間に盗掘が行われており、原型は留めていないようですが、南北8m、東西5m、高さ1.4mの円形の墳丘が確認されています。
古墳の西側に、金山神社の祠があります。

画像は8号墳です。
画像中央の木立の地点が8号墳です。
未調査であるため詳細はわかりませんが、調査が行われた古墳から判断して、外径20m前後の周溝が巡る、半地下式の河原石積み横穴式石室を持つ古墳群と推定されているようです。

8号墳の残存する墳丘のようすです。
石室の石材と推定される河原石が散在しています。この古墳群の石室はおおむね南を中心とした方向に開口しているそうですが、この8号墳に関してはよくわかりませんでした。

9号墳。
この古墳も、未調査であり、詳細はわからない古墳です。
土地の所有者かもしれない地元の方と、古墳について少々会話を交わした記憶があるのですが、何を話したかまったく思い出せません。
見学したらすぐに更新しないとダメですよね。。。

同じく9号墳の墳頂部のようす。
天井石が露出してしまっている状態でしょうか。
以下次号に続く。。。
<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
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- 2020/03/21(土) 22:30:43|
- 相模原市の古墳・塚
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今回は、相模原市葉山島に所在する「相生の塚」です。
3~4年ほど前に相模原市の発掘調査の発表会の告知があり、そこにこの相生の塚が掲載されていました。「あ、発掘したんだ?」ということで、かなり前向きにこの発表会に参加したいと考えていたのですが、結局都合で参加できず、それ以降なんとなくそれっきりになっていました。
それが、わりと最近になって、相模原市の博物館にて学芸員の先生に塚についての情報をお聞きすることができました。(丁寧に解説いただいてありがとうございました。)

相生の塚は、相模川右岸の沖積低地に張り出した舌状台地に位置しており、塚の周囲に河原石が散在する状況からして、ひょっとしたら古墳ではないか?とも考えられているようですが、塚上には宝篋印塔や中世の板碑があり、塚である可能性も考えられます。
塚自体の発掘調査は行われていないため、現状では塚の性格はわからないようです。
東から見た相生の塚です。
この塚がもし古墳であることがわかれば、おそらく大発見だと思いますし、今後の調査の進展を楽しみにしたいと思います。。。
<参考文献>
相模原市教育委員会 教育局 生涯学習部 文化財保護課『相模原市文化財年報 平成28年度の成果』
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- 2020/03/20(金) 22:20:58|
- 相模原市の古墳・塚
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画像は、相模原市中央区田名に所在する「オヒノモリ塚」を南東からみたところです。
この塚は、平成3年(1991)と同4年(1992)に発掘調査が行われており、近代に近在から移設されてきたという伝承どおりの近代の塚であることがわかっています。
この塚は、この地で非業の死を遂げたと伝えられる照手姫を弔った塚であると伝えられており、塚の前で火を焚き供養をすると天もその死を悲しみ大量の雨を降らせるといいます。

塚上には小規模な石造祠が祀られており、訪れる人は塩と米を欠かさなかったともいわれています。
相模原市内では、相原や下九沢にも同様に「オヒノモリ」と呼称される地点が確認されており、何れもこの塚と同様の祭りが行われていたそうです。また、下溝の日之宮や大島の日々神社といった、雨乞いに関わる神社も知られています。
このオヒノモリという名称は雨乞いを行う「お日の森」または「お日の守」である可能性が高く、この塚は、雨乞い習俗である「お天気祭り」の場として存在していたのではないかと考えられているようです。
「滝古墳群」から北方にかなり近い位置にある、同じ相模川左岸に立地する塚なのですけどね。
どうやら古墳ではなかったようです。。。

相模原市中央区田名の「蚕影神社」で見かけた塚状地形です。
まさか古墳の残骸では?と感じて撮っておいた画像です。
今のところ調べきれていないので、正体はわかっていません。
超怪しい。。。。

こちらから見ると自然地形かな?とも感じるのですが、頂部が塚状に盛り上がって石碑が建てられています。
超怪しい。。。。

塚上の石碑です。
河原石が散在している様子が見られます。
超怪しい。。。。
<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
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- 2020/03/19(木) 21:04:31|
- 相模原市の古墳・塚
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画像は、相模原市緑区橋本2丁目に所在する「供養塚」を南東から見たところです。
永禄12年(1569)10月、武田信玄と北条氏照の大軍が、旧津久井町と愛川町の境で激戦を展開したという「三増合戦」の際、敗れた北条軍の落武者の一部が八王子の滝山城に引き返したものの、退路を誤ってこの地まで迷い込み、力尽きた数十人が自刃した場所だと伝えられているようです。
後世になって、武運拙く自決した人々の慰霊供養がこの地で行われるようになり、明治31年(1898)4月に供養塔が建立。これにより「供養塚」の名称が怒ったといわれています。

塚上のようすです。
この場所には、日清・日露両戦役に従事した戦傷病者のための表忠碑を建立、明治43年3月31日に除幕の式典が行われています。この碑の建立に際して供養塚の発掘が行われ、三増合戦当時のものとも考えられる武具や刀剣、銅銭等がわずかに出土したようです。
またその後、昭和30年11月13日には、橋本地区忠魂碑建設委員会により第二次世界大戦戦没者忠魂碑も建立されています。
結構、駅からも近いのですが、塚、よく残ってますね〜。
<参考文献>
加藤重夫『橋本の昔話』
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- 2020/03/18(水) 23:06:37|
- 相模原市の古墳・塚
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画像は、相模原市中央区所在の新田稲荷神社です。
御祭神は宇迦魂神で、文政元年(1818)に久保沢道下に建てられた淵野辺新田地域の鎮守社です。
この神社の境内には「呼ばわり山」と呼ばれる大きな塚が存在します。

鳥居の横には、道祖神の石碑が建つ塚が!
淵野辺新田講中の人々が部落の無事息災祈願のために建てたもので、毎年1月14日にはこの碑の前で子供たちが道祖神祭を行なったそうです。

新田稲荷神社社殿です。
境内がかなり広いですし、お正月やお祭りの日はきっと出店が並んで楽しいでしょうね。。。

これが「呼ばわり山」です。
昔のこの地域は平地で雑木林と原野であり、迷い子や行方不明者が多かったそうです。野火除のため、開墾の芝や土などで約7メートルの塚を築き、行方不明者が出た時には塚の頂上で鐘や太鼓をたたいて呼ばわると、必ず現れると伝わる、民間信仰の場所なのだそうです。
塚は、平成14年に相模原市の文化財に登録されています。

塚のすぐ北側をJR横浜線が走っているので、きっと電車の中からでも見えるはず。
私にとって、この地域はちょっとだけ思い出のある土地でした。ところが、訪れたこの日は感傷に浸る気分でもなく、相模原市の博物館に行く道のりを、記憶に残る場所を避けて遠まわりして廻っていました。それで、お参りしようとした神社で偶然にこの塚を見つけたわけなので、遠まわりしてよかったです。。。
古墳ではなく、富士塚や御嶽塚といった宗教に関連する塚でもなく、行方不明者が出た時に頂上で鐘や太鼓をたたいて呼びよせるための塚ですから、相当に人の少ない鬱蒼とした場所だったのかもしれませんが、開発が進んだ今となっては想像もつきませんね。。。

西側から見た呼ばわり山。
塚の北西側は、裾部が少々削られています。

塚には石段が造られています。
早速登ってみます。

塚の頂部には今熊神社が祀られています。
<参考文献>
現地説明板
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- 2020/03/17(火) 22:34:51|
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愛車、ブロンプトンとの最後のサイクリング。大トリは、相模原市緑区久保沢に所在する「春林横穴墓群」です。相模原市のNo.243遺跡として登録されているこの横穴墓群は、総数100基ほどが埋没していると想定されている大横穴墓群です。
横穴墓群の所在地には、旧城山町による説明板が設置されており、次のように書かれています。
春林横穴墓群
このあたりの南斜面に多数の横穴があることは古くか
ら知られていましたが、昭和四十一年(一九六六年)の
墓地造成にともなう調査の結果、七世紀中ごろから奈良
時代にかけて造られた横穴墓であることがわかりました。
その後の分布調査で、横穴墓は標高一六〇メートルか
ら一七〇メートル付近の赤土の斜面に彫り込まれており、
全体の数はおよそ一〇〇基ほどと予想されています。
なお、横穴は崩れやすい状態で危険ですので、見学は
控えてください。
平成十七年三月 城山町教育委員会
開口する横穴は一見すると見当たらない状況ですが、深追いすれば痕跡が見られる横穴はあったかもしれません。見学は控えてくださいという言葉に圧されてしまったのと、どこも深い藪だったことから、あまり深追いはしませんでした。(このあたり、私は意外と押しが弱いのです。。。)
100基の存在が想定されているということで、まだ多くの横穴が残存するのではないかと考えられますが、いつの日か、「吉見百穴」ばりの穴だらけの斜面を見上げることができたら最高ですよね。
調査の進展を静かに見守りたいと思います。
愛車ブロンプトンはその後、幸いにも素敵な貰い手が現れてくれました。
私のような腹の出たおっさんと違って、ブロンプトンも喜んでいるかもしれません。
残念!
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/04/02(火) 00:44:09|
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相模原市緑区川尻地区には、前回紹介した「川尻八幡神社古墳(扇塚)」の他にもう一基、古墳の可能性が考えられる塚が存在します。画像は、相模原市No.252遺跡として登録されている「風間南遺跡」内に所在する塚です。
「風間南遺跡」は、境川に突き出す丘陵の尾根裾に位置しており、南端の明観寺とその墓域を除くほぼ全域が畑地として利用されています。その畑地の中に、画像の塚が残されています。
『津久井町史』には、周辺の傾斜地から古墳時代後期の鬼高式の破片が数点採集されている事例を挙げ、「本遺跡の特徴として、尾根裾の先端部に比高2.5メートル、直径約6メートルの塚が遺存していることを上げられる。古墳としての根拠もないが、同時にそれを打ち消す積極的根拠もない。」と書かれています。

西から見た塚の様子です。
塚の所在地は、「川尻八幡神社古墳(扇塚)」から北に600メートルほどと比較的近い位置にあたります。境川右岸に所在するこの塚は、果たして古墳なのでしょうか。。。
<参考文献>
相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館『津久井町史 通史編 原始・古代・中世』
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- 2019/03/31(日) 02:08:45|
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