
前回までに、「砧中学校古墳群3号墳」と「同4号墳」という、残存する古墳を取り上げましたが、ほかに砧中学校の敷地内からは、発掘調査により1・2・8・9号墳が確認されています。いずれも現在は墳丘は消滅しており、見ることのできない古墳です。
「1号墳」とされたマウンドは、昭和23年(1948)に行われた体育館建設に伴う第一次調査により、後世に作られた築山であったことが判明しています。
「2号墳」も同様に昭和23年(1948)に行われた体育館建設に伴う第一次調査により確認されており、径22mの方墳であることがわかっています。

「8号墳」は、現在の体育館の位置にあった円墳で、直径13.5m、周溝を含めても19.2mという小円墳で、南西側にはブリッジを持つことがわかっています。埋葬施設は失われていましたが竪穴系と推定され、6世紀後半の築造と推定されています。
画像は、世田谷区立郷土資料館にて公開されている8号墳の出土品です。
すべて周溝内から採集されたもので、左から「須恵器広口壺」、「土師器甕」、「須恵器有蓋短頸壺」、「土師器坏」です。
「9号墳」は直径9mの小円墳で、刀子が出土しています。
8号墳に続く築造であると考えられており、埋葬施設の存在は確認されなかったものの、横穴式石室の痕跡が見当たらないことから、8号墳と同様に竪穴系の主体部と考えられているようです。
このあたりにはかつて通称「首塚」と呼ばれる小塚があり、校舎建築の際に地ならしされたといわれています。
古墳らしき出土品はなかったとされていますが、位置的にこの首塚は9号墳なのではないかとも考えられるのですが、真相はわかりません。。。

現在の科学技術学園高等学校の敷地内で確認されたのが「5号墳」です。
科学技術学園高等学校の敷地内なのですが、名称は「砧中学校古墳群5号墳」なんだなあと意味なく思いました。
どうでもいいですよね。。。笑。
一辺が17mの方墳であるとされています。

現在の東京都市大学付属小学校の敷地内で確認されたのが「6号墳」です。
昭和23年(1948)に、酒詰仲男氏と千歳中学校考古班により発掘調査が行われた古墳で、調査当時には高さ1mほどの墳丘が残されていたようです。
砧中学校古墳群中唯一横穴式石室を持ち、切石積みの石室には6人が埋葬されていて、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、ガラス玉、土師器、須恵器など、多くの副葬品が出土しています。

「7号墳」の跡地周辺の様子です。
全長65m、周溝を含めると76mという砧地域で最大の古墳で、昭和24年(1949)の発掘調査では前方後円墳とされていましたが、その後の昭和55年(1980)の調査で前方後方墳であると訂正されました。しかしその後、前方後方墳の根拠となった南側の周溝の再検討が行われ、この溝が平安時代の住居址を壊して構築されていることから、同時代以降であることが確実であり、本来の古墳周溝を中世の砦の一部とみられる濠として再掘削した可能性が高いことが判明しています。
これにより、後円部側に弧を描く北側くびれ部の様相から、墳形は前方後円墳であるというのが定説となっているようです。
後円部の中央からは粘土で包まれた木棺が埋葬施設として設けられ、小型鏡、直刀、刀子、鉄鏃、鉄斧、管玉、ガラス小玉や土師器が出土しています。

砧中学校古墳群は、国分寺崖線上の武蔵野段丘面の縁辺部に築造されています。古墳群の南側を東西に走る「世田谷通り」から、この崖線を上がることのできる階段が存在します。
実はこの道は大穴なんです。。。

この台地上にはわずかながらの畑地が残されており、庚申堂が存在します。
私は、この2〜3年ほどは庚申塔巡りも兼ねて古墳巡りをしていた部分があり、この場所は庚申堂を見学するために訪れて、ついでに古墳の写真も撮り直した感じなのです。
この庚申堂は地元に暮らすわずかな人以外は誰も気がつかないような超穴場にあり、世田谷の成城とは信じられないような景観もあり、心躍るような場所だったのです。笑。。。

左が、享保7年(1722)10月9日の造立とされる庚申塔。
総高81cm、塔身部62×29×20cm、青面金剛像と三猿の板状駒型庚申塔です。
ブログ『ぼのぼのぶろぐ』さんによると、古い喜多見村の地図ではここに富士講の塔があったと書かれているそうです。富士塚が存在したのか真相は謎ですが、かつて存在した古墳に関係している気がしてならないですが。。。

わずかに残る畑地の一部が周囲よりもモリッと一段高くなっていて、まさか墳丘上を平らにならして畑にしている、残存する古墳なのでは??と疑った場所。敷地内に立ち入るわけにも行かなかったのでよくわかりませんが、こういう勘はたまーに当たるんですけどね。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
世田谷区教育委員会『世田谷の庚申塔』
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- 2020/04/27(月) 19:33:15|
- 世田谷区/砧中学校古墳群
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前回に引き続き「砧中学校古墳群」から、今回は「4号墳」です。
最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、3号墳が世田谷区の遺跡番号10-3番、4号墳が10-4番に登録されています。
古墳は、砧中学校の南東角、校庭の南側に保存されています。
古くは、江戸時代の地誌類に記述が見られ、『武蔵名勝図会』には、この4号墳を含む砧中学校古墳群について、次のように記されています。
『古塚 五ケ所。大蔵村の内にあり。同じく世田谷領にして、ここは荏原郡界に近し。塚の囲り二十間。高さ一丈或は九尺。村内の路傍に二ケ所あり。百姓屋敷内に一ヵ所ありしを掘り穿ちけるとき、その塚の内は石を以て畳みあげて、その内に壷一つ、刀剣一本錆び朽ちて細かに打ち崩れけり。また元の如く刀の折れは埋む。壺はいまに村長が家に所持す。』

画像は古墳の北側、校庭側から見た4号墳です。
古墳群中、唯一原形に近い形で残されている古墳です。
昭和17年(1942)から翌年にかけて発掘調査が行われており、昭和56年(1981)から翌年にかけても、校庭改修および擁壁工事に伴う発掘調査が行われています。
最新の調査が平成25年(2013)に行われており、見かけの規模は南北約34m、東西約34m、高さ約1.9mを測り、本来の古墳の復元規模は直径約40mほどであると推定されています。
昭和17年に調査された「粘土槨」とされる埋葬施設は痕跡すら残存しないことがわかっており、また追走の埋葬施設も確認されていないようです。

この4号墳に葺石や埴輪はなかったと判断されています。
段築はなく、築造は5世紀前半と推定されています。

墳頂部の様子です。
現在の平坦面は径約15mほどで、これはもう少し狭かったと考えられています。
墳頂部はかなり削平を受けているようです。。。

4号墳の敷地内に、世田谷区教育委員会により設置されている説明板です。
この説明板は現在も存在はするものの、風に晒されて文字が色褪せていて判読不能となっています。
大きな四角い鏡が立っているのかと思いました。笑。。。

もう一つ大きな説明板が。
この4号墳については
「今見ることのできる唯一の古墳です。古墳の大きさは直径37メートル、高さ1.5メートルで、今は埋まっていますが、周りを幅5〜10メートルの周溝がとりまいています。1949(昭和24)年の発掘調査で中央部には粘土で包まれた木棺が埋葬施設として設けられ、直刀や土師器が出土しています。また、周溝からも祀りに使われた土師器が出土しています。」
と書かれています。
当日は、学校のスタッフの方に許可を得て見学させていただきました。
ありがとうございました。
次回、「消滅古墳」に続く。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
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- 2020/04/26(日) 21:49:46|
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古墳巡りを始めたばかりの頃の記事と写真が微妙だぜ!とずーっと思っていました。
再訪した機会に画像を差し替えたりした古墳も過去にいくつかはあったのですが、もちろん放置になってしまっているものもあったりします。今回は、ずっと気になっていた「喜多見古墳群」と「砧中学校古墳群」の画像を差し替えよう!ということで、まずは「砧中学校古墳群3号墳」からいってみようと思います。

この地域の台地は古多摩川により形成された3段の段丘面からなり、最も上段が下末吉段丘面、その下に武蔵野段丘面、さらにその下に立川段丘面となります。武蔵野段丘面と立川段丘面の境である国分寺崖線は通称「ハケ」と呼ばれ、砧中学校古墳群はこの国分寺崖線上に分布します。
ちなみにこの周辺は古墳の密集地帯で、仙川を挟んだ南東には「大蔵古墳群」、「殿山古墳群」が、そして段丘を一段下がった立川段丘面には「喜多見古墳群」が所在します。また、崖線中腹には「上神明横穴墓群」、「不動橋横穴墓群」、「中神明横穴墓群」といった7世紀代の横穴墓群が所在します。
というわけで、画像は「砧中学校古墳群3号墳」です。

南東から見た砧中学校古墳群3号墳です。
通称「一本松」と呼ばれたこの古墳は、戦後に土地解放されて開梱する際に、地境の印として残されました。
その後、塚が崩れて木の根が露出したことから、昭和29年に保護のためにコンクリートで囲われたそうです。

中学校の敷地の北側を東西に道路が通っているのですが、3号墳のあたりだけ狭くなっていて、古墳が保護されている様子が確認できます。
古墳は発掘調査により周溝が検出されており、径32m、高さ1.3mの円墳であるとされていますので、実際かなり小さくなってしまっているわけですね。
もちろんこうして残されたことに感謝です。。。

北東から見たところ。
次回、「4号墳」に続く。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
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- 2020/04/25(土) 20:27:48|
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