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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

東京都北区「平尾一里塚」

平尾一里塚跡1

 今回は、北区滝野川6丁目に所在したとされる中山道2番目の一里塚、「平尾一里塚」の探訪の記録です。

 東京都内において中山道の一里塚は本郷追分(文京区)、平尾(北区)、志村(板橋区)に存在したようですが、現存するのは志村一里塚のみで、この平尾の一里塚はすでに削平されて消滅しています。

 画像は現在の旧中山道の様子で、一里塚は左手前と右奥あたりに存在したようなのですが、特に説明板の設置もなく、痕跡はまったく見られないようです。。。


平尾一里塚跡2

 平尾一里塚は前田藩下屋敷の敷地内に取り込まれており、下屋敷の絵図に塚が描かれています。

 学生社より発刊された『北区史跡散歩』では、下屋敷の絵図や中山道分間延絵図と現代の地図を照らし合わせることで塚の位置を特定しており、江戸から向かって右側の塚は、だいたいこのあたりにあったようです。

 右に入る路地は前田藩下屋敷裏門へと続く道で、この左脇に一里塚はありました。
 ちなみにここは板橋宿の入口にあたりますが、同宿が平尾宿、中宿、上宿と続いていることから一里塚も「平尾」の名称で呼ばれたそうです。


平尾一里塚跡(近藤勇処刑場付近)3

 もう一ヶ所、昭和53年(1978)発行の『北区史跡散歩』の付図で、左側の塚の跡地と記されている地点の様子です。
 なんと!馬頭観世音のお堂が建てられていて、これにはびっくりしました。(ただし、その後の平成5年(1993)発行の『北区史跡散歩』の新版ではこの左側の塚の位置は修正されていて、右の塚のはす向かいあたりに位置が記されています。このあたりの深追いはあまりしていないのですが、ここを塚の跡地とするには位置的にちょっと不自然な気がします。正解は平成5年の『北区史跡散歩』の付図の地点ではないかと感じますが、真相は不明です。)


平尾一里塚跡(近藤勇処刑場付近)4

 私は歴史はそれほど詳しくないのですが、慶応四年(1868)四月、下総流山で新政府軍に捕らえられた新選組の近藤勇は、この平尾一里塚付近で処刑され、胴体は刑場近くの馬捨場と呼ばれる場所に捨てられたといわれています。
 この馬捨場と呼ばれる場所が、埼京線板橋駅前にある現在の「近藤勇墓所」です。

 なぜここに馬頭観世音の石碑があるのかもわかりませんが、とても興味深いです。。。


平尾一里塚跡3

 ちなみに平成5年(1993)発行の『北区史跡散歩』では、画像の道路の左側あたりを塚の跡地としています。
 う〜ん、こちらの位置が正解じゃないかなあ〜と思うのですが。。。


平尾一里塚跡4

 旧中山道の南側の道です。
 道路が若干右に弧を描いていて、ひょっとしたらこれが一里塚の痕跡で、この右側に塚があったのではないかとも考えられますが、真相はわかりません。。。


平尾一里塚跡(近藤勇墓所)5

 JR埼京線板橋駅東口の「近藤勇の墓所」です。

 私が三鷹市の「出山横穴墓群」を最初に見学したのが2013年5月で、その際に龍源寺の「近藤勇の墓」も見学しました。そのすぐ後の2013年12月に、狐塚跡や四本木稲荷古墳を散策した際にこの板橋の「近藤勇の墓所」を見学して、「アレ?」みたいなことになったのですが。笑。

 後に知ったのですが、近藤勇の養子で娘婿の勇五郎が、「処刑の3日後に遺体を掘り起こして、三鷹の龍源寺まで運んで埋葬した」と証言しているそうなのですね。つまり、近藤勇の遺骸は三鷹の龍源寺に埋葬しているというわけです。
 しかし、この板橋の墓所の墓石の下からはなんと、昭和に入って首のない遺体が発見されているそうですので、真相はまったくわかりません。。。


平尾一里塚跡(近藤勇墓所)6

 境内には北区教育委員会による説明板が設置されていました。

東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
近藤勇と新撰組隊士供養塔
               北区滝野川七ー八ー一寿徳寺境外墓地
 慶応四年(一八六八)四月二十五日、新撰組局長であった近藤勇は、
中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で館軍により斬首
処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れ
たこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治九年(一八七六)五月に隊士の一人であり近藤
に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であ
った松本順の協力を得て造立されました。高さ三・六メートル程ある独
特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面に
は、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土
方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である
昌宣が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右
側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十
名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治
元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長
倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれて
いましたが、一部は現在判りにくくなっています。
 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友
と弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔はに、近藤勇のほか
数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う
際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
 平成十六年三月
                      東京都北区教育委員会



平尾一里塚跡(近藤勇墓所)9

 供養塔の横に、無縁塔」と刻まれた石碑が建てられています。

 この場所に、無縁仏を供養するような供養塚があった場所であると何かで読んだ記憶があるのですが、少なくとも敷地内にはすでに塚らしき痕跡は見られませんでした。ひょっとしたらこの石碑が供養塚と何か関係があるのかもしれませんが、このあたりはあまり深追いできていなくて、不明なままです。

 また、ここが馬捨場であったことと、一里塚の跡地近くの馬頭観世音の石碑との関係が気になるところですが、このへんもまだ調査不足で不明なままです。。。


平尾一里塚跡(近藤勇墓所)7

 敷地内には「近藤勇埋葬当初の墓石」がありました。
 「埋葬当初」ということは、やはり近藤勇の遺骸は三鷹の龍源寺に埋葬されているんでしょうかね。。。

平尾一里塚跡(近藤勇墓所)8

 墓石の様子です。

 この周辺に古墳の伝承は少なく、古墳が存在したとすればもう少し北方の石神井川沿岸地域かと考えられますが、一里塚を散策することで、この地域に残る様々な歴史を知ることができて楽しかったです。

 次回も一里塚の探訪の記録、「稲付一里塚」に続きます。。。

<参考文献>
芦田正次郎・工藤信一『北区史跡散歩』


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  1. 2021/04/24(土) 20:07:03|
  2. 一里塚
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「千住の一里塚」

「一里塚と高札場跡」1

 画像は、足立区千住仲町の大踏切通りと旧日光街道が交差する地点です。この場所には、日光・奥州道中2里目の「千住の一里塚」が所在したといわれています。
 足立史談会より平成4年(1992)に発刊された『足立区史跡散歩』にはこの一里塚について「一里塚は本来道の両側に築かれるものであるが、町中なので片側だけになったようである。それでも古図によると定法通り土を盛り上げ、その上に榎が植えられ、「是より日本橋に二里八丁」の道標が立っていたとある。」と書かれています。


「一里塚と高札場跡」2

 東側の1ヶ所のみ存在する、片側だけの一里塚だったというのが定説であるようですが、両側にあったとする文献も存在するようで、真相はよくわかりません。
 現在は、鶴亀飯店という中華料理屋さんの前の歩道の植え込みの中に、「一里塚跡」と刻まれた石碑がひっそりと立つのみで、塚の痕跡は何も残されていないようです。。。


「一里塚と高札場跡」3

 反対側の、交差点の南西角には「千住高札場跡」の碑が建てられています。
 記録によると、「尾州檜材で高さ二間幅三間奥行一間半」の規模で、五街道の初宿にふさわしい高札場であったようです。


「一里塚と高札場跡」4

 「千住高札場跡」の碑のさらに反対側、交差点の北西角の足立成和信用金庫本店前には「芭蕉像」が。
 木製なのがすごくいいなあと思うのですが、この像の素材は栃木県の鹿沼産の杉で、小林哲二さんというチェーンソーアーティストが、チェーンソーだけで彫り出した作品なのだそうです。鹿沼や日光は杉が有名ですもんね。。。


「一里塚と高札場跡」5

 現在の日光街道の様子。
 栃木県内の一里塚も古墳巡りの傍ら訪ね歩いたので、いずれ紹介できたらいいなと思っています。。。

<参考文献>
足立史談会『足立区史跡散歩』


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  1. 2020/04/20(月) 21:29:47|
  2. 一里塚
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「志村一里塚」 ー国指定史跡ー

「志村一里塚」ー国指定史跡ー1

 今日は古墳ではなくて、都内に残る貴重な一里塚です。
 都営三田線の志村坂上駅を、A1出口もしくはA2出口から地上に出たところが、現在の中仙道(国道17号)で、この道の両側に対になって残されているのが「志村一里塚」です。
 江戸日本橋を出発して一里目の塚は岩槻街道の分岐点にあたる本郷森川宿に、そして2里目の塚は板橋宿の入り口にあたる平尾宿にあったといわれていますが、この2箇所の塚はすでに消滅しており、板橋区内では唯一国指定史跡となっている一里塚です。

 画像は、中山道の「志村一里塚」交差点で、塚を北西からみたところです。
 左に見えるのが北東側の塚、右が南西側の塚です。


「志村一里塚」ー国指定史跡ー2

 画像は南西側の塚です。
 この志村の一里塚は、かつては塚が崩れて道にはみ出して通行も不自由な有様であったようですが、新中仙道の建設に伴い塚はやや移動され、三段の石積みを施し、土が崩れ落ちるのを防ぎ、規模も江戸時代の昔に復し、その後、さらに石積みを行い現在の姿に改築されています。


「志村一里塚」ー国指定史跡ー3

 南西側の塚を北から見たところ。
 この塚上の二代目の榎は昭和42年(1967)に枯死しており、三代目の若木に植え替えられています。
 現在は、地元町内会などの手によって塚上に樹木などを含め、塚全体がきれいに保護、管理されています。


「志村一里塚」ー国指定史跡ー4

 画像が北東側の塚です。
 この塚上に、板橋区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

 志村一里塚
 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六
〇四)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、
五間(約九m)四方、高さ一丈(約三m)の塚が江戸日本橋を基点と
して一里(四km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番
目の一里塚として築かれたもので、天保元年(一八三〇)の『新編武
蔵風土起稿』では「中山道往復の左右にあり」と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(一八
七六)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅してい
きましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の
際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保
全され、現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北
区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡と
して、大正十一年(一九二二)に国の史跡に指定され、昭和五十九年
に板橋区の史跡に登録されました。
 平成十七年三月
                       板橋区教育委員会



「志村一里塚」ー国指定史跡ー5

 南西から見た塚です。
 お隣の斎藤商店の建物と一里塚がお互いの存在を引き立たせています。
 何より電線がなくなりましたしね。
 素敵な景観です。。。

 旧中仙道の一里塚で当時の原型をとどめているのは、この志村の一里塚以外では、日本橋から28里目の高崎の一里塚のみだそうです。確か信越本線の群馬八幡駅近くの一里塚で、群馬の古墳を見学に行った際に、この一里塚も見学した記憶があります。


「志村一里塚」ー国指定史跡ー6

 この斎藤商店前にも板橋区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

     齋藤商店
 齋藤商店は、欅を主に扱う原木商として明治二十
二年(一八八九)に当地で創業しました。現在は竹
材を主とし、箒や笊などの竹製品も商っています。
現在の建物は、昭和八年(一九三三)の中山道(現
国道十七号線)の拡幅工事に伴って新築されたもの
です。
 建物全体は、店舗部分と住居部分が一体となって
おり、下屋庇を廻したL字型平面の入母屋造桟瓦葺
の平家に二階部分を載せた複雑な構造となっていま
す。築材には国産材を使っており、また宮大工が建
手たとも伝わりますが、大工の名前などは不明です。
 建物の外観には、破風を各所に見せる複雑な屋根
の構成や、二階の窓の手すりに高欄風の反りを持た
せるなどの意匠が見られます。さらに外壁には真壁
漆喰塗りが施されています。
 齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代
表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚
(昭和十一年国史跡)と一体化した町のランドマー
クとしても親しまれています。また、平成四年には
「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれてい
ます。
 斎藤商店は、区の歴史や文化に関係が深く、ま
た、意匠的、技術的にも優秀であることから、区の
建築史を明らかにするうえで重要な建築物です。平
成二十四年度に登録文化財となりました。
  平成二十六年二月
               板橋区教育委員会

<参考文献>
学生社『板橋区史跡散歩』


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  1. 2020/04/19(日) 19:41:17|
  2. 一里塚
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「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 慶長9年(1604)2月。当時の江戸幕府により、江戸日本橋を基点とした全国の主要街道に一里塚が築かれました。現在の東京23区内では18ヶ所に一里塚が存在しましたが、開発に伴う道路拡張や工事などによりそのほとんどは消滅しており、現在、対になる形で残されているのは、西ヶ原と志村の2ヶ所のみです。

 画像は、北区西ケ原2丁目に所在する「西ケ原一里塚」です。
 右側に見えるのが北側の塚で、左側に見えるのが南側の塚です。南の塚は、「本郷通り」の中央分離帯の一部となって残されています。
 日本橋から数えると、日光御成道では追分一里塚に次ぐ二里目の一里塚です。大正11年3月8日には国史跡に指定されています。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 画像は北側の一里塚。
 塚の上には大きな榎の木が植えられています。江戸時代のものは、残念ながら枯れてしまい、今は新たな榎の木が植えられています。塚上には、東京都教育委員会による「西ヶ原一里塚」と「二本榎保存之碑」という2種類の説明板が建てられています。
 説明板によると、都内の日光御成道は現在の本郷通が主要なルートにあたり、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して、幸手宿で日光街道に合流したそうです。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたことからこの名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われ、「岩槻街道」とも称されました。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 北側の一里塚を接写。
 日光御成道の一里目である「本郷追分」と北区赤羽西2丁目に所在したとされる三里目の「稲付」の一里塚は、どちらも消滅して既に存在しません。
 それだけに、この西ヶ原の一里塚が対になる形で2基ともに残されていることは、とても貴重な存在です。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 南側の一里塚です。
 中央分離帯の一部が小高く盛り上がっています。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 南の塚の前には、「二本榎保存之碑」と刻まれた大正5年6月の記念碑が建てられています。
 大正初期、この西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道延長路線上に位置したことから、工事に伴う道路改修工事により撤去されることとなったそうですが、渋沢栄一氏をはじめ東京市長、滝野川町長、地元住民らの尽力により保存されることとなりました。これを記念して、運動に参加した有志者により建てられたのがこの「二本榎保存之碑」です。


「七社神社」

 北側の塚の横には、同じ西ヶ原2丁目に所在する「七社神社」の、昭和9年(1934)造という大きな一の鳥居が建てられています。この道路が神社の参道なのですね。早速参拝に行ってみました。


「七社神社」

 七社神社の二の鳥居です。
 この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇)です。旧別当無量寺持であった寛政五年(1793)の火災により古文書類が焼失しており、創立年月日や由来についてはよくわからないようです。
 末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があり、天照大神を祭神とする神明宮は元々この地にあった神社で、七社神社の移転により末社となったものだそうです。江戸時代に西ヶ原村の鎮守だったという七社神社は、無量寺境内であった現在の旧古河庭園内にあったそうで、明治初年の神仏分離により現在地に移されたそうです。


「七社神社」

 拝殿。


「七社神社」

 境内の様子です。
 この神社の北西には、6基の古墳からなる「飛鳥山古墳群」が所在します。武蔵野台地の東端部をなす本郷台の崖線上に立地するこの神社にもかつて古墳が存在したのではないか?と妄想しましたが、古墳らしき痕跡は見当たらないようです。
 説明板によると、この境内から隣地にかけての一部は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが出土しているようです。


「七社神社」

 元々この場所に祀られていたという神明宮の祠です。
 古墳の上に祀られていた、ということはなかったかな。。。


「七社神社」

 境内に設置された説明板には、「無量寺」とかつての七社神社が描かれた『江戸名所図会』が掲載されていました。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/11/22(金) 23:06:57|
  2. 一里塚
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「瓜生一里塚跡」

「瓜生一里塚」

 多摩市永山2丁目の鎌倉街道沿いには、多摩市内で唯一の一里塚である「瓜生一里塚」が存在しました。
 画像は、「瓜生せせらぎ散歩道」に設置されている「瓜生一里塚跡」の記念碑です。碑には次のような説明文が刻まれています。

瓜生一里塚跡
 一里塚 は、一般的には旅の目印や休憩のために榎などの木を植えた塚を
一里(約四キロメートル)ごとに設けたものである。
 瓜生一里塚は多摩市内では唯一の一里塚で、ここから西南七〇メートル
ほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に、径四・六メートル、高さ三メートル
ほどの塚が存在していた。
 江戸時代初期の元和三年(一六一七年)、駿河国久能山(現在の静岡市内)
に埋葬されていた徳川家康の遺骸を日光東照宮に移すために街道の整備を
行い、この一里塚が造られたと言われている。家康の柩が通ったことから
「御尊柩御成道」とも呼ばれている。
 また、一里ほど離れた町田市小野路にも、この時に造られたと思われる
一里塚が残されている。
                平成七年三月
                            多 摩 市



 多摩川を渡って府中までたどり着けば、その先の道のりはしばらくは平坦な印象ですが、木曽から小野路、瓜生への道のりは峠を越えるための坂道ばっかりで、自転車でも死にそうになりますからね(私は最後に足がつりました)。
 むかしの人は辛抱強く歩いたものと想像しますが、小野路では御尊櫃を乗せた輿が向坂を下ったときに壊れて、鍛冶屋を呼んで修理したという伝承が残されているそうですからね。大変だったんだと思います。。。


「瓜生一里塚」

 画像は、記念碑の建つ「瓜生せせらぎ散歩道」の様子です。
 実はこの日、古くからこの地に住むという奥様にお話を聞くことができました。
 奥様がお嫁に来た頃(昭和の終わり頃ですよね?きっと)、この場所には乞田川に注ぐ小川が流れていて、この川は現在は散歩道の地下に暗渠となっているそうです。耳を澄ますと、チョロチョロと水の流れる音が聞こえてきます。
 暗渠となる以前の川は蛇行しており、この地点ではもう少し西側を流れていたそうで、そのさらに西側に鎌倉街道が南北に走っており、街道沿いのバス停の奥の竹薮の中に、こんもりと塚が残されていたそうです。
 当時の鎌倉街道は今よりもずっと狭かったそうですが、奥様の記憶では残されていたのは1基のみで、もう1基の記憶はないということでしたので、先に東側の1基が崩され、残された西側の1基が鎌倉街道の拡張工事により取り払われた、ということになるでしょうか。


「瓜生一里塚」

 現在のバス停の様子です。
 バス停の名称は残念ながら「一里塚」ではなく「貝取」です。
 かつてはバス停の目の前に塚があったわけですし、一里塚でいいじゃん?と思うのですが、ひょっとしたら昔は一里塚だったのかな。。。
 ちなみに、お話をお聞かせいただいた奥様のご自宅の屋号は、一里塚にちなんで「一塚」なのだそうです。。。

<参考文献> 
現地説明板


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  1. 2019/11/02(土) 23:53:22|
  2. 一里塚
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「木曽一里塚」

「木曽一里塚」

 画像は、町田市木曽西4丁目に所在する「木曽一里塚」を南東からみたところです。
 野津田町所在の「小野路の一里塚」とともに、町田市内に残る2基のうちの1基で、昭和44年(1969)には町田市の史跡として指定されています。

 現地には町田市教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。

町田市指定史跡
 木曽一里塚
所在地 町田市木曽西四丁目一四番
指 定 一九六九年(昭和四十四年)九月二日
 徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(一六〇四)に、
日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚
を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道
である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者
の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で
道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩がとれるよ
うに、榎や松が植えられた。
 町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残
っている。元和三年(一六一七)に徳川家康の遺櫃
が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、
東海道の平塚から、厚木、座間、木曽、小野路、
府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道
(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。一八世紀に
なると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣
する大山講が盛んになり、この道も大山道として
利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあった
が、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武
蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。
           二〇一一年二月設置
              町田市教育委員会




「木曽一里塚」

 塚上には「一里塚」の石碑が建てられています。。。


「木曽一里塚」

 塚の上には御岳の小祠があり、毎年四月には代参の二人が御岳講に出かけているそうです。以前は東側にも塚があったといわれていますので、一里塚であることは間違いないものと思われますが、御岳塚も兼ねているという、実はなかなか変わり種の塚なのかもしれません。

<参考文献>
忠生村村誌編さん委員会『忠生村誌』
現地説明板


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  1. 2019/10/24(木) 01:38:59|
  2. 一里塚
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「甲州道中一里塚跡」

「下高井戸一里塚」

 今回は、甲州街道の四里目にあたる、杉並区下高井戸1丁目に所在したとされる「下高井戸一里塚」です。
 この一里塚は、すでに塚は削平されて消滅、石碑や標柱なども残されていないようですが、甲州街道沿いの歩道に杉並区教育委員会による説明板が設置されています。

  甲州道中一里塚跡
 江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中
(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、
高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至
り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっ
ていました。
 この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、
同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府に
は、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の
往来もありました。
 この場所の前方、高速道路下に、日本橋から
数えて四里目(約十六キロメートル)を示す
「一里塚」がありました。
 当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を
知り、駄賃などの支払いをしました。
 塚は五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約
三メートル)を基準として土を盛り上げて築き、
榎が植えてありました。
 昭和五十四年四月一日
             杉並区教育委員会



「下高井戸一里塚」

 説明板から察するに、画像のあたりに一里塚が(少なくとも2基のうちの1基が)存在したのではないかと思われますが、所在地は現在の甲州街道のど真ん中で、さらには首都高速4号新宿線の高架が走っており、一里塚の痕跡はまったくないようです。
 大阪の方で、立体交差の高架の下に、崩されずに残されている古墳の写真をネットで見たことがあるのですけどね。
 なかなか難しいですよね。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/10/10(木) 00:03:02|
  2. 一里塚
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「新一里塚」

「新一里塚の里程標」

 今回は、世田谷区給田3丁目に所在したといわれる「新一里塚」の探訪記録です。

 この一里塚は、明治3年(1870)に内藤新宿を基点として甲州街道に築造されたという新一里塚で、世田谷区と調布市の市境に近い旧甲州街道沿いの民家の敷地内に、里程標と世田谷区教育委員会による説明板が建てられています。
 説明板には次のように書かれています。

 里 程 標(新一里塚)
  銘 文
(正 面)内藤新宿より三里 品川県
(左側面)内藤新宿より三里 品川県
(背 面)明治三庚午八月 武蔵国多摩郡給田村
(右側面)内藤新宿より三里 品川県
  年 代
 明治三年(一八七〇)
  伝 来
 甲州街道には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、四キ
ロメートルごとに築かれていた。
 この里程標は、明治三年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった
高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された新一
里塚で、記録によれば芝生に覆われた三メートル位の塚の上に
建てられてあったという。
 この標石は、上馬一丁目の前田鉄郎氏によって保管されたの
ち、昭和五十一年十二月、同氏から世田谷区立郷土資料館に寄
贈された。その後、同五十九年二月、元位置に近い現在地に復
元した。
 碑文にある「品川県」とは、明治二年布告された「府県施政順序
規則」により荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた
地域をいう。なお荏原郡の一部であった現世田谷区の旧井伊領
は「彦根藩」、後に「長浜県」と名付けられたが同五年には東京府
となり品川県はなくなった。
      昭和六十年三月
                   世田谷区教育委員会



「新一里塚の里程標」

 民家の門前に建てられた「里程標」と説明板です。


「新一里塚の里程標」

 以前、渋谷区幡ヶ谷で発見された、新一里塚の里程標の石碑を紹介したことがありますが、やはりこの碑にも「明治三庚…」と刻まれていましたので、同時期に造られたもので間違い無いようです。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-633.html (2016年10月30日号「笹塚」その1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-806.html (2017年11月17日号「笹塚」その2)

<参考文献>
現地説明板


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  1. 2019/10/06(日) 23:29:12|
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「新一里塚」

「新一里塚」

 府中市と国立市の境となる、府中市日新町5丁目の住宅街の一角には、1基の塚が残されています。府中市の所有となっている塚の敷地はフェンスで覆われて保存されており、塚上には大きな榎が植えられていて一里塚のような様相を呈していますが、敷地内には説明板や標柱等は存在せず、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。

 画像の、民家と民家の間に見えるフェンス内に、この塚は所在します。
 昭和60年に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・ 堰・橋の名前』の「塚」の項には、この塚は「新一里塚」という名称で掲載されており、「昔の甲州街道ぞいにある塚、榎の大木がある。日本電気構内にある一里塚跡からみて、一里としては距離が短いので”半里塚”かともいう」と書かれています。
 「半里塚」とは初めて聞く名称ですが、果たしてここがかつての甲州道中で、半里塚が存在したのでしょうか。


「新一里塚」

 東から見た塚の様子です。
 フェンスで覆われた三角地となっている敷地内はわずかに塚状に盛り上がっているようです。
 昭和44年(1969)に発行された、原田重久著『国立歳事記』に、この塚に関する記事を見つけることができました。

 谷保田圃の、府中市四谷寄りー本宿用水の南側に、一筋の里道が東西に走っている。この道端に榎塚がある。
 慶長年間(1596ー1615)時の幕府が始めて江戸から甲州への道路を作ったときは、府中市分倍から谷保田圃の中を通り、西方に至って多摩川を渡り、日野万願寺に抜けていた。
 榎の木のある塚は、一里塚の名残りである。三十六町を一里とした道程は、一里塚が目安になっているが、これは、道の両側に各一基ずつ築かれ、その中間に半里塚があった。
 これが定められてから九十年ほど後の貞享年中(1684ー88)に、道筋が一部改められた。これは、府中六所宮(大国魂神社)の前を通って、本宿、谷保、立川柴崎に至る段丘上のコースをとっている。現在のハケ上の道がそれである。
 現在の甲州街道は、このあと更に道筋を北方に移したいわゆる新道だ。
 一理又は半里毎に塚をつくり、そこに榎の木を植えたのは、榎という植物が長期繁茂し、風雪に堪え得る性質をもっていたからだろう。また、旅人が、遠方からこれを眺めて、旅程を按配するに好適な巨樹となったからでもあろう。(『国立歳事記』67~68ページ)


 最初に江戸から甲州への道路を造った当時は、多摩川に近い段丘地帯に集落が点在していたことから、ハケ上、ハケ下を縫って、江戸から甲州方面に通じていたそうです。
 ということは、この塚が一里塚(半里塚)出会ったとして、「新一里塚」という名称が適当なものであるかはちょっと微妙ですね?


「新一里塚」
 
 フェンスの内部の様子です。草が生い茂っていてわかりにくいのですが、わずかながらの高まりを見ることができます。
 猿渡盛厚著『武蔵府中物語 下巻』610ページには、この塚についての記述が見られ、「本宿南新田にある一本榎塚の如きは、ただ一基のみではあるが、一里塚 としてはっきりした口碑もなく、疑わしいから、それと定めがたい」と書かれています。
 また、平成24年度の第1回府中市文化財保護報告会では、委員から「古墳の可能性はむしろ無いですか。こんな位置では無いのでおかしいですか」という意見が出ており、事務局は「可能性もあるかとは思っておりますが」と答えているという様子が議事録に記載されているようです。
 この周辺の低地では今のところ古墳は発見されていにようですが、多摩川の対岸である日野市内の低地では、「落川・一の宮遺跡1号古墳」なる六角形墳が確認されています。
 果たしてこの塚が古墳である可能性もあり得るのでしょうか。


「新一里塚」

 南東から見た「新一里塚」。
 榎の木の存在からして、見た目はとっても一里塚っぽいです。


 「新一里塚」

『国立歳事記』に掲載されていた、往時の一里塚。
 昭和の中頃までは、大きな塚が残されていたようです。
 それにしても、こんな塚がひっそりと残されているあたりは、東京もまだまだ捨てたもんじゃないですよね。。。

<参考文献>
原田重久著『国立歳事記』
猿渡盛厚『武蔵府中物語 下巻』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』


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  1. 2019/10/03(木) 23:43:35|
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「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 画像は、日野市万願寺2丁目に所在する「甲州街道万願寺一里塚」を南から見たところです。
 東京都内に残る数少ない一里塚のうちの1基で、日野市の指定史跡となっています。


「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 江戸日本橋から9里目の一里塚で、ここから10里目の日野台を通り、八王子市内で11里目に至ります。塚を越えると日野宿であることから、この周辺は「塚越」という地名で呼ばれていたそうです。
 造られた当初の甲州街道は、国立市の青柳付近から「万願寺渡船場」で多摩川を渡り、この一里塚を経て日野宿に至るものでしたが、その後に再度整備が行われ、上流の「日野渡船場」を渡る道筋へと変更されました。ただし、万願寺渡船場と道も廃止されることなく、その後も利用されたようです。


「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 東から見た万願寺一里塚です。

 この周辺もかなり宅地化が進んでいるようなのですが、23区内のように密集していないので圧迫感がないし、見上げると空が綺麗だったりして、暮らすには良いところですよね、きっと。
 一里塚の前の道は「多摩モノレール通り」と命名されており、その名の通り路上から見上げるとモノレールの高架が走っています。江戸時代に造られた一里塚の高まりと多摩モノレールのコントラストが絶妙で、とても現代らしい光景です。


「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 これは、以前に訪れた時に撮影した説明板の写真で、現在は撤去されています。
 この一里塚は昭和54年に日野市の史跡として指定されていますので、おそらくこの時期に設置されたものと思われます。平成15年(2003)に行われた発掘調査については何もふれられていません。

市史跡 甲州街道万願寺一里塚
 江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩
川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。こ
の一里塚は、日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開
枯れた折につくられたものと伝えられ、日野市内に現存する唯一
のものである。もとは街道をはさんで2基あり、北側の1基はと
り崩された。かつては両方ともに径7~8m、高さ3mくらいあ
り、塚上には大きな榎が植えられ、旅人にとっては心身の憩いの
場であった。
   昭和54年2月1日          日野市教育委員会



「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 こちらは最近訪れた時の、新しく設置された説明板の写真。
 平成15年(2003)の発掘調査についてもふれられており、内容が詳しくなっています。
 

日野市指定史跡
甲州街道万願寺一里塚
昭和五十四年二月一日指定
 万願寺一里塚は、慶長年間(一五九六~一六一五)に甲州街道が開かれた際に造られたと伝えられ、都内に現存する数少ない
一里塚の一つとして大変貴重なものである。
 江戸時代初期の甲州街道は、青柳(国立市)付近から多摩川を渡り、万願寺一里塚を経て日野宿に入った。その後、貞享元年(一六八四)に上流の日野渡船場を通る道路へ改められたが、その後もこのルートは利用された。
 万願寺一里塚は日本橋から九里目にあたり、参勤交代の大名や甲州勤番、お茶壺道中の役人、八王子千人同心や甲府定飛脚が行き来し、また富士講や身延詣の人々が往来する道筋にあった。
 平成十五年(二〇〇三)に行われた発掘調査では、道に沿ってやや楕円形の、直径九メートル、高さ三メートルの塚が検出された。塚の崩落を防ぐため、道との境に三段の石積みがなされ、その上に宝永の火山灰(宝永四年、一七〇七年の富士山の噴火による)があることから、塚はその年代よりも古いものであることが確認できた。塚の北側に隣接する甲州街道は、三
間(約五、四メートル)の幅があり、道普請の痕跡も見つかっている。




「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

街道の一里塚
 江戸幕府は江戸日本橋を基点に街道を整備し、慶長9年(1604)に大久保長安
が一里(約4km)ごとに塚を築かせました。一里塚という名称は、一里ごとに存
在したことに由来します。
 一里塚は道を挟んで両側に造られ、平面規模は五間四方(約9m)を基準とし、
高さは1丈(約3m)と大きなものです。
 一里塚は旅人には距離の目安となり、塚の頂上には榎(えのき)が植えられるこ
とが多く、大きく成長すると夏場には木陰を与えるものでした。
 今の日野市域には、万願寺と現在の日野台に一里塚が築かれましたが、現存する
のは、万願寺の一里塚のうち甲州街道(甲州道中ともいう)の南側の一基だけです。
北側の塚は昭和43年(1968)に取り壊されました。

道と渡船場そして宿場
 当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、万
願寺一里塚を通り日野宿に入りました。この一里塚は江戸日本橋から九里目にあ
たり、参勤交代の大名・甲州勤番やお茶壺道中の役人も行き来しました。
 その後、貞享元年(1684)に甲州街道は、上流の日野渡船場を通る道路へと改
められました。しかし、満願寺渡船場や日野宿へと至る道は、その後も利用され、
多摩川を渡ってこの塚を越えると日野宿に到着することから、このあたりは塚越
(つかこし)と呼ばれていました。

一里塚の発掘調査と整備
 平成15年(2003)、現存する甲州街道の南側の塚について範囲や構造を探る
ために調査を行いました。
 塚は直径9m、高さ3mと一里塚の基準通りで、平面形は道に沿って長めでや
や楕円形をしています。
 塚の構造にあたっては、砂礫層まで堀崩し外周を一部掘りくぼめ、砂を多く含
む粘土質の土を積み上げました。また、道との境には塚の崩壊を防ぐためか、3
段ほどの石積みが見られます。その石積みの上には、宝永4年(1707)に噴火
した富士山の火山灰が認められたことから、その年代より古いことが確認できて
います。
 この塚の北側に隣接する甲州街道は、三間(5.4m)幅で、道普請の痕跡も見つかっ
ています。
 この調査の後、塚の頂上には榎を、塚全体には保護のために芝を、それぞれ植え、
甲州街道のイメージも可能なように整備しました。ただ、甲州街道は本来の三間
幅(5.4m)ではなく、幅4mで復元しています。
                平成27年(2015)7月 日野市教育委員会


「甲州街道万願寺一里塚」ー日野市指定史跡ー

 塚の裾部には、ステンレス製の「甲州街道万願寺一里塚」の標柱が。


日野市「甲州街道万願寺一里塚」0-1

 画像は多摩モノレール万願寺駅です。
 ここから北西方向に500メートルほど進んだ道沿いの北側に、現存する一里塚を見ることができます。(それにしても多摩モノレールは格好いいですねえ。)

 この一里塚には7年前と今年と、2回訪れたのですが。
 「きっとモノレールに乗れば、車窓から見下ろした写真が撮れるな」と考えていましたが、2回とも忘れました。


日野市「甲州街道万願寺一里塚」0

 国立市側から、「石田大橋」を渡って日野市内に入ったのですが、日野市側の「北川原公園」になにやら怪しげな塚状の築山が3基。

<参考文献>
現地説明版


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