
今回は、栃木県日光市長畑にあるお蕎麦屋さん、「三たてそば 長畑庵」を紹介します。
ここは最近、地元に住む友人に連れて行ってもらって初めて知りました。
日曜日に訪れましたが、駐車場では他県のナンバーの車も多く見られ、かなり知られているようです。
市街地ではなく、農地が広がるのどかで自然豊かな場所で、このお店のお昼時が賑わっていて、面白いですよね。
おそらく、土日や祝日はかなり混むんじゃないかな?という印象ですね。。。
最近、なかなか好みのお蕎麦屋さんに行き当たらなかったのですが、久しぶりにここはとっても美味しかったです。

このお蕎麦屋さんの所在地である長畑は、日光東照宮の造営とともに日光神領に含まれ、蕎麦や朝鮮人参の産地として指定されたそうです。
お蕎麦は元来、山間冷涼な痩地を好み、とくに朝霧、夕霧が立ち籠める土地柄が最高級の品質とされていて、つまりはこの長畑地区ということになるのでしょうか。。。笑。
「三たてそば」の名称は、一に挽きたて、二に打ちたて、三に茹でたて、これが「三たて」の由来なんだそうです。

お蕎麦はちょっと多めに「二合打」をいただきました。
1,150円也。
口の中でそばの風味がふんわり広がる、美味しいお蕎麦特有のあの感じですね。
看板に偽り無し!

ネギがとっても多めでした。笑。

ちょっと写真では分かりにくいのですが、蕎麦湯はトロッとした濃厚な感じ。
正直、栃木県の飲食店は当たり外れは大きい印象ですが、美味しいお店もたくさんあるし、事前にちゃんと調べてから行くべきかなと思います。(私はそれができずに、飛び込みで入ってはハズレもたくさん引くわけですが。。。(。•́ - •̀。)ショボーン…)
- 2023/04/24(月) 20:16:33|
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今回は、下国府塚の「そば処 季楽」にあるお蕎麦屋さん、「そば処 季楽」です。
このお蕎麦やさんの存在はつい最近知ったばかりなのですが、とっても気になっていました。
まあなんというか、古墳かもしれないような塚が集中している地域の真っ只中にあるお蕎麦屋さんだし(笑)、というのはさておき、立地的にお蕎麦屋さんがありそうもない集落の一角にあるのが逆に目をひいたし、かなり立派な長屋門の前に看板がでているのも目を引きました。
栃木県内では長屋門は珍しくはありませんが、都心部で暮らしているとなかなか見ないですよね。
ここはかなり立派な長屋門です。。。

建物は、築400年の古民家を流用した建物なんだそうです。。
「とちぎのふるさと田園風景100選」に選ばれていて、建物や敷地は小山市の文化財に指定されてもいます。

お勘定するところは土間なんですよね。
私が訪れたのは13時もすぎていましたので、比較的すんなり入れましたが、込み合う時間帯はここで待つことになるのだと思います。
私は行列は好きではないのですが、うんうん。ここなら待てる。笑。

建物の中には当然ながら靴を脱いで上がります。
もちろん畳。
よさそうな着物が壁にかけられています。。。

私が注文したのは「ざるそば大盛りセット」、1300円なり。
石臼手挽き手打ちそばにしらす山椒ごはんの他に小鉢がついています。

蕎麦好きな人はこの写真を見て判断してくださいね。
おそば、私は美味しかったです。

そばつゆはあっさりした感じ。
蕎麦と古墳と両方好きな人で(どんだけいるんだよと)、下国府塚を訪れたら絶対ここですわ。。。
次回!この周辺の古墳と塚状地形!
- 2022/11/08(火) 23:59:56|
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さてさて。
最近は仕事の都合で、週に2、3日は矢板市方面に向かっています。
その道すがらずっと気になっていたお蕎麦屋さんがあって、先日やっと食べに行くことができました。
矢板市乙畑にある「ダッタンそば寿庵」です。
栃木県内で「ダッタンそば」の文字を見かけることは多くはない気がしていましたが、ここはお店の名称に「ダッタンそば」の文字が入っています。
Googleマップに投稿されているお蕎麦の写真もとっても美味しそうです。
最初に、うっかり定休日である木曜日に訪れてしまったのですが、その後はちゃんと営業日に食べに行きました。笑。

席に着くとすぐにお茶が出てくるのですが、そのお茶の急須がこれですよ。。。
おしゃれなカフェのような雰囲気というか、食器にこだわっているのが素敵です。

お箸もこ〜んな感じ。
使い捨てではないお箸で、最近流行りのエコ箸でもない木製のお箸でした。
私はエコ箸でお蕎麦やラーメンを食べるのは好きではないのですが、ここのはオシャレでしかも食べやすかったです。

今日食べたのは普通のもりそば。(大盛りです)

お蕎麦。

蕎麦湯は鉄瓶というこだわり。
鉄瓶で蕎麦湯が出てくるのは初めてだ。。。

前回食べたダッタンそば。
こちらも美味かった。。。

写真にすると、普通のお蕎麦と区別がつきにくいのですが、色も風味も全然違います。

当然ながらダッタンそばの蕎麦湯が出てくるわけです。
蕎麦湯の鉄瓶は何種類あるんだろう。笑。
ルチンが通常のそばの100倍以上あるそうですよね。
なんというか、私向きだと思う。。。

かなりメニューが豊富で、実は女性向きだと思います。
お昼は11:30~14:30ということですが、お蕎麦がなくなると閉めてしまうそうなので早めに行くのがいいかも。
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- 2022/09/06(火) 18:00:20|
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今回は脱線して蕎麦屋探訪企画。
港区赤坂4丁目の「蕎麦きり みまき」です。
お蕎麦のみならず、セットのカツ丼や天丼も絶品で、しかもリーズナブルなお値段というこのお店。。。
人気店なので平日のお昼時は少々並ばないといけませんが、昼食をガッツリ食べて仕事に挑むぜ!という人には絶対お勧め!ちなみに、私は赤坂でのお仕事は昼の12時からなので、ちょっと早めに赤坂を訪れて、混雑前の11時台に食しています。

3日ほど前に訪れましたが、カウンターにて「昨日から新そばに切り替わったんですよ」とお聞きして、「お。ラッキー!」と嬉しくなりましたが、よくよく考えると8月のこの時期に新そばって、かなり早いですよね?
それを聞いてみたら、そういう早い時期に収穫できるお蕎麦があって、長野の安曇野から取り寄せているんだそうです。
おお!私の愛する信州のお蕎麦。。。笑。
カウンターでね。そんなふうにお声をかけていただくだけでも嬉しい気持ちです。。。

私は信州の、特に戸隠のお蕎麦が大好きなのですが、「あ、今年は新蕎麦の季節に戸隠に行きたいな〜」とかね。
思ってしまいました。
というわけで、今回な都内のお蕎麦屋さんの話題でした。
次回はまたいずれ。。。
- 2022/08/26(金) 23:10:24|
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今回は脱線して、私の好きなお蕎麦屋さんの話。
浅間塚古墳近くのお蕎麦屋さんが美味しかったので書き記しておこうと思います。

古墳を散策中に「下野茶屋」という看板が目に入り、お食事をしました。
初め入ったお店ではついつい守りに入ってしまって「もりそば」を頼んでしまうことが多いのですが、この日はメニューに「大根そば」という文字が目に入り、ちょっと迷いました。
お店のお姉さんに「大根そばともりそば、どちらがお勧めですか」と尋ねたところ、「大根そばがイチ押し!」ということだったので、注文してみました。
これがもう、私好みでバカうま!
口の中で蕎麦粉の風味がブワッと広がるあの感じね。
細切りの麺に大根がまぶしてあって、とっても美味しかったです。
蕎麦好きだったら、この写真を見ただけでわかりますよね?
ちなみに大根そばは720円、大盛りは100円増しで820円です。
次、もう一度行った時にはもりそばを注文しようと考えていますが、これはまだ実現していません。

蕎麦湯です。
この日はね、浅間塚古墳を見学した後、加須市方面の古墳を見学しました。
最も近いのは浅間塚古墳ですね。
このあたりを通りかかることがあるなら、ここのお蕎麦はおすすめしたいですわ。。。
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- 2022/08/13(土) 19:20:52|
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今日はふと思い立って、鹿沼市入粟野にある「賀蘇山神社」にお参りに行ってきました。
私のささやかな趣味である御朱印巡りもさることながら、別にもうひとつ、この神社を訪ねてみたい理由もありました。。。
画像は、賀蘇山神社の一の鳥居です。
地元の人には「尾鑿山(おざくさん)」と呼ばれる(地元でがそやまじんじゃ、と訪ねても知らないといわれてしまったりするらしいです。笑。)神社で、祭神は天御中主神・月読命・武甕槌命で、配神は大国主命です。

石段を登ると二の鳥居が見えてきます。
賀蘇山神社は『日本三代實録』記載の社で、ちなみに山一つ東にある上久我「加蘇山神社」も『日本三代實録』記載の社で,賀蘇山神社と加蘇山神社には共通の奥宮があり、石裂山(地元では尾鑿山とも呼ばれる)の山頂直下の岩屋が奥宮であるそうです。
今日は、家を出るのが遅かったこともあり、加蘇山神社や奥宮への参拝は行いませんでしたが、これは涼しくなってからの宿題です。。。

賀蘇山神社社殿の様子です。
神社の周辺にはほとんど民家もなく、杉林に囲まれています。
この周辺では、天狗の伝説なども残されているようなのですが、うん、天狗、いたかもしれない、と思えてきます。。。

社殿の左側に、鹿沼市指定史跡である「賀蘇山神社大杉切株」が保存されていました。
幹の周囲は14.8メートル、 樹高は70メートルにも及び、御神木として仰がれてきたそうで、一の枝の直径が1メートルほどの巨木の年齢は1800年あまりといわれ、日本一と判定されたそうです。
明治44年(1911)7月20日に落雷を受けた際には、古木ゆえの空洞の幹が大煙突のようになり、凄まじい猛火に三日三晩の消火を要したそうです。大正6年(1917)2月には人家火災の類焼を受け、同年9月に地上2.5メートルを残して伐採されたそうです。
樹齢1800年は、古墳時代をも見てきたわけですよね!
すごい。。。

大杉切株には祠が祀られていました。
神社の名称はもちろん、「大杉神社」でした!

急に賀蘇山神社に行こう!と思い立ったのは、この存在でした。
ひょんなことから入手したもので、縦に長い和紙に「賀蘇山神社」と刷られていて、神社の印も押されています。
時期的には、明治から昭和初期あたりまでのものではないかと想定しましたが、当時の御朱印みたいなものなのかな?と妄想はするものの、果たしてどんなものなのか正体もわからない状態でした。
それで、神社に直接聞きに行ってみよう!と思い立ったわけです。
なんと運よく、神社の神主さまにお話をお聞きできました。
やはり、少なくとも江戸期のものではなく、神仏分離が行われた明治以降から、新しくても戦前のものであるのは間違いないものの、正確な年代まではわかりませんでした。
結論としてはこれはお札みたいなもので、ある種の御朱印みたいなものと言ってもいいかもしれないそうで、おそらくは、例えば当時盛んだった講の集まりなど、何かの集まりがあってそこで配られたとか、または納経の際に配られたかとか、そういうものなのではないかと想定されますが、正確なところまではわからずです。
本来であれば、掛け軸にして飾るようなものだったのかもしれませんし、押された印も現在では神社には残されていないそうですし、希少なものであることは間違いないのかも。。。
神社では貴重なお時間をいただき、色々と勉強させていただきました。
感謝しております。。。

御朱印もいただきました。
印刷の書き置きではなくて直筆なのですが、すごい達筆!
私は、小学校時代に母親に書道を習ったのですが、それ以降はまったく書いていないし、もう書けません。
筆でここまで書けるって憧れますね。。。

さてさて、賀蘇山神社に向かう途中の道沿いに、定期的に石碑が建てられていて説明板も設置されているのを見かけました。気になっていて、神社に行った帰りに止まってみてみようと考えていましたが、最近の私の傾向ですが、すっかり忘れて車を飛ばしていました。
「お〜っと!」と思い出して急ブレーキをかけたわけですが、なんと!石碑は賀蘇山神社までの道標でした。
画像は二十一丁目ものです。

画像は二十七丁目のもの。
昔の人は、遠方の神社へお参りするにも車もなく、大変だったろうなあと思っていましたが、電気や動力がない時代は、水を容易に調達できることは重要で、山間地域は平地より住みやすい場所だったそうですね!
山は水を始め多くの恵みを与えてくれる存在で、神坐す聖域と考えられたのだそうです。。。

三十五丁目のものです。
ちなみに一里は三十六丁だそうなので、一丁は111メートルほどとなります。
神社に向かう人のために約100メートルおきに道標を建てたわけですから、さすがは賀蘇山神社!という感じ。
この道標の存在は知らなかったけど、ほかの神社にもあるのかな。。。

これは四十一丁目のもの。
この道標は57本建てられたと記録されているそうですが、残存するのはわずか10本で、このうち最も遠くにあるのが、この四十一丁目のものです。
私が見学したのは四ヶ所のみですので、6ヶ所は見落としたわけです。。。

途中で見かけた塚。
『鹿沼市遺跡分布地図』にも掲載されてないやつです。
畑と畑の境にあり、フェンスが塚を避けてここだけ弧を描いています。
何基か石塔が建てられているのが見えますが、近寄れませんでした。。。

同じく途中で見かけた塚。
これは単なる残土の山かも。。。
<参考文献>
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
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- 2022/08/06(土) 23:30:38|
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西東京市内の庚申塔シリーズ、いよいよ今回が最終回です!

まずは、柳沢2丁目19番地に所在する青面金剛庚申塔です。
元々は、青梅街道に面した旧上保谷100番地に立っていたそうですが、青梅街道の拡張により昭和45年(1970)2月に現在地の小祠に安置され、柳沢睦会(商店街)の管理のもと初牛祭りが盛大に行われているそうです。

お堂の扉は施錠されていたため、隙間から必死で中を覗きました。笑。
当日は見落としてしまったのですが、祠の中にはもう1基、小青面金剛像が付置されていたそうです。。。

画像は、柳沢1丁目5番地に所在する庚申塔です。

庚申塔は、現在の伏見稲荷通り沿いの小さなお堂の中に安置されています。
この場所はあまり目立たないので、通りを歩いていると気が付かずに通り過ぎてしまいそうです。
(実際に私は一度通り過ぎて周囲を一周。裏側からお堂を見つけました。笑。)

庚申塔は、現在の伏見稲荷通り沿いの小さなお堂の中に安置されています。
上柳沢一帯で庚申信仰が盛んであった江戸時代に、個人「頓覚清心信士」を供養したという、類例の少ない塔碑です。

画像は、保谷町3丁目8番地に所在の青面金剛庚申塔です。
市道353号線に拡張した旧道と富士街道(道者街道)との交差点の西北隅に安置されています。
ちなみに個人的には、やっぱり庚申塔はこうした分かれ道にあって欲しいですよね。
恋愛で二股はいかんですが、庚申塔は二股に限ります(おやじ)。。。

お堂の内部の様子。
右側が庚申塔で、左側は大乗妙典供養塔です。
庚申塔の造立は宝永六年七月吉日で、邪鬼と三猿を踏む三面の青面金剛立像です。



中町3丁目1番地に所在する面金剛庚申塔です。
開発が進み、閑静な住宅街となった地域の一角に、静かに祀られています。

旧保谷市域では、上柳沢の庚申塔と並び立つ秀逸な庚申塔であるとされています。
下手に弓と矢を持つ像容が特色です。。。

西東京市の庚申塔シリーズ、最後は、泉町2丁目3番地に所在する青面金剛庚申像です。
現在の「榎ノ木通り」と「関道」が交差する北方、如意輪寺の旧山門から南下する道と、上宿から東南に向かう旧道が鋭角に交差する北側に、小祠の中に安置されています。
ここは江戸時代には高札場とされていた場所であり、上保谷村の中心であったそうです。

二鶏三猿を刻んだ台石の上にうずくまる邪鬼を踏まえたという青面金剛の全身像で、造立年次と作者が伴っている数少ない例であるそうです。
この日の探訪は「路傍の庚申塔」をテーマに行いました。
古墳が存在しない西東京市をじっくり巡ることができたのは、私にとっては大きな楽しみでしたが、例えば向台町6丁目の持宝院など、お寺に移されたような庚申塔を廻らなかったのは今後の課題かも。。。
色々な場所の庚申塔を散策しましたので、いずれまた機会を見て、紹介できればと思っています。。。
<参考文献>
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 一』
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 二』
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- 2020/07/05(日) 23:10:56|
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画像は、西原町5丁目1番地の庚申塔です。
庚申塔の様子。講中35人による造塔で、寛延2年(1749)に造立の笠付型の青面金剛像です。
所沢街道が拡張され、庚申塔が道端にかかることから近所に住む並木氏の浄財をもって塔を少し移動して、祠を建てて改修されたそうです。

ここは、六角地蔵尊の建つ六道の分かれ道で、所沢街道と前沢道の分岐点に建立されました。
庚申塔の左右側面にそれぞれ、ところざわ・ちちぶ道、まえざわみちと道標が刻まれています。

画像は、西原町2丁目5番地に所在の「石幢六角地蔵尊」です。
この地蔵は、江戸時代の安永八年(1779)に田無村地蔵信仰講中43名によって建立されたもので、当時すでにこの場所が六本の分かれ道であったことから、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の苦界)を救済するといわれる地蔵を路傍に建立し、道の各方面に地蔵一体ずつ彫刻して、その脚部に保谷、南沢、前沢、所沢、小川、江戸みちの道しるべが刻まれています。

この地蔵については、西東京市の郷土資料室で存在をお聞きして見学に立ち寄りました。
当初は、所沢街道をはさんだ向い側に当初建立されたそうですが、移動されたことにより正面の向きを180度変えたため、今では道しるべとして刻まれている地名が全て逆向きになってしまっているという状況であるそうです。笑。
庚申塔ではありませんが、面白いエピソードなので取り上げてみました。

綺麗なお花がたくさん生けられています。

画像は、田無町2丁目22番に所在する柳沢庚申塔です。
西東京市の文化財第28号に指定されている庚申塔で、青梅街道と所沢街道の追分に建立された庚申塔です。
追分は江戸時代の早い時期に開けた所で、柳沢宿と呼ばれ、人家が比較的多く街並みを形成していたそうです。
『西東京市Web』によると、この庚申塔は昭和40年(1965)頃に所沢街道拡幅のため移設され、その後さらに平成18年(2006)に現所在地に移設されています。建立当時に比較的近い場所となっているようです。

西東京市教育委員会による説明板には次のように書かれています。
西東京市指定文化財第二十八号
柳沢庚申塔
享保八年(一七二三)建立
慶長十一年(一六〇六)の江戸城の大改修以来、城の壁材で
ある石炭を運ぶ道として青梅街道がひらかれました。青梅街道
の成立とともにその人馬継立てを行う宿として、田無村柳沢宿
は発展しました。
享保八年(一七二三)この付近の住民二十三人によって庚申
講が組織され、来世安楽を祈願してこの庚申塔が建立されまし
た。
庚申塔の型式は、梵字をはじめニ鶏、三猿、青面金剛、邪鬼
が揃えられた代表的な角柱塔で、この宿の経済的な繁栄を誇示
するかのように大形です。
当時の田無村は交通の要路にあり、青梅道と所沢道などの分
岐点(現田丸屋商店の角)は田丸屋旅館もあり、田無を印象づ
ける著名地点でした。ここに庚申塔を建て、道しるべの役目を
持たせたもので、この地域ではとても古いものです。
昭和六十三年九月
西東京市教育委員会



画像は「柳沢庚申塔」の東方、所沢街道と富士街道の分かれ道にある「弘法大師標柱」です。
庚申塔ではありませんが、この景観が私はたまらなく好きだったりしますので、おまけです。。。

原位置から移動されてお寺や神社、郷土資料館等に集められた石造物も少なくありませんが、こうして舗装された歩道の一角にボコッと残されているような庚申塔やお地蔵様もたくさん目にしました。その度にむしろ、東京という街の懐の深さを感じさせられます。。。
私は海外に行ったことはありませんが、海外はどうなんだろう。。。

<参考文献>
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』
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- 2020/07/02(木) 19:52:33|
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前回から引き続き「西東京市内の庚申塔」、今回はその3です。

画像は、田無町4丁目19番に所在する庚申塔です。
青梅街道と府中道が交差する、現在の「田無町5丁目交差点」の南東角に所在します。

ビルの一角に庚申塔を祀るための空間が造られており、お堂の中に安置されています。

お堂の内部の様子です。
かなり風化と破損が激しく、銘文は読めないようですが、青面金剛が邪鬼を踏まえた、六臂(腕)の合掌型忿怒像で、田無の講中によって建立されたものと考えられているようです。
道しるべも兼ねた庚申塔で、右側面に「ふちうみち」と刻まれているそうです。

8ヶ所目。
画像は、田無町4丁目1番に所在する庚申塔です。
青梅街道に東京街道が交差する「橋場」の交差点に造塔されている笠付庚申塔で、人の背丈ほどもあるかなり大きな庚申塔です。

お堂の内部の様子です。
左が庚申塔で、右側にはお地蔵様と思われる石造物が祀られています。
お洋服を着せられていて、地元の人に大切に祀られている様子がうかがえますが、肝心の庚申塔の様子がよくわかりませんでした。笑。

青面金剛は一面六臂、合掌型で邪鬼を踏まえています。三猿を刻む庚申塔は田無周辺でも非常に多く、この庚申塔も下部には三猿を浮き彫りにしているそうです。

右側のお地蔵様です。
ダウンジャケットを着せられていて、その下にはシャツも着用しているようです。
訪れたのは2月で、季節的に真冬でしたし、仕方がないですかね。。。



9ヶ所目は、芝久保町4丁目12番に所在する「北芝久保庚申塔」です。
青梅街道沿いの「中国ラーメン揚州商人」というラーメン屋さんの西側に所在します。
ちなみに、ここが青梅街道であるという認識が今までなかったのですが、自転車で走ってみて初めて知りました。。。
西東京市の文化財第6号に指定されている庚申塔で、延宝2年(1674)北芝久保地区に入植した農民18人の庚申講中によって建立されたものです。

庚申塔の様子です。
お堂の前に西東京市教育委員会に取る説明板が設置されており、次のように書かれています。
西東京市指定文化財第六号
北芝久保庚申塔
延享二年(一六七四)建立
この庚申塔は、延享二年(一六七四)に北芝久保に入植した
出百姓十八名によって建立されました。この庚申塔は、新田の
はずれの標識でもあり、開拓のモニュメントでもありました。
多摩地域全体を見わたしても、とくに初期に建立されたものに
あたります。
碑面は、中央に「為奉造立菩薩也」の文字が刻まれ、その下
に三猿の浮彫りがあるだけで、青面金剛のない古い作風を伝え
ており、日天・月天・剣先形など神道の信仰が残されています。
また三猿は、庚申の申(さる)から発展したもので、そのレ
リーフは、他の庚申塔と比較し、とくに大きく美しいものです。
三猿の上方に陰刻されている雄・雌の鶏は、古くは「暁を告げ、
悪魔を退散させる鳥」という民間信仰でしたが、次第に「庚申
の暁は、鶏が鳴くまで語り明かす」という意味のものとなりま
した。
昭和四十二年二月
西東京市教育委員会 次回に続く。。。
<参考文献>
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第2集』
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- 2020/07/01(水) 19:47:15|
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前回に引き続き、今回も「西東京市内の庚申塔」、その2です。

画像は、向台町4丁目13番地に所在する庚申塔です。
一応、当日自転車で巡った順番通りに紹介していますが、この日はかなり朝早く出発したので、この場所でまだ午前10時頃と順調です。しかも、折りたたみ式でなく口径の大きな自転車で来ていますので、スピードが出ることもあって絶好調です。笑。

この庚申塔は、現在の向台中央通りと市役所通りが交差する「市民公園前」交差点のやや北東寄りに安置されています。
旧田無市内には13基の庚申塔があり、年代不明のものを除くと元禄までの江戸前期のものが4基、中期が8基で、後期のものはないそうです。
この庚申塔は寛保3年ですので、江戸中期の造塔ということになるようです。

庚申塔は、笠付型(85×38×24)の青面金剛像です。



5ヶ所目。
芝久保町1丁目13番に所在する庚申塔です。
なんと!この庚申塔は銭湯の敷地内に所在するのですが、銭湯の名称はなんと「庚申湯」!
庚申塔が名称の由来となっているのです!
これまで「庚申荘」等、アパートの名称では見たことがありますが、「庚申湯」はちょっと感動ですよね。笑。
しかも!すでに画像の右端にちらりと見えていますが、この庚申塔は塚の上に祀られています。
この塚に出会えたことで、この日は勝ったも同然!

塚の様子です。
あとで調べてみたところでは、この場所は南側からなだらかなスロープが石神井川まで続く丘であったそうで、路面の高さまで切り崩して更地にしたために庚申塔だけがそのまま残ったということのようです。
まあ経緯はどうあれ、西東京市内では数少ない「庚申塚」ということになります。

庚申塔の様子です。
地元の人に大切に祀られている様子がうかがえます。
笠付型の青面金剛像で「宝永三丙戌歳九月吉日」と刻まれています。
私が上京した頃の東京にはまだお風呂のないアパートがたくさんあり、銭湯にはとってもお世話になりました。
ひとっ風呂浴びていきたい気持ちもありましたが、まだ午前中。
あきめて、次の場所へ向かいます。



田無町6丁目1番に所在する「南芝久保庚申塔」です。
旧田無市の府中道沿い、現在のシチズン時計本社ビルの南側に所在する庚申塔でで、昭和57年には西東京市の文化財第十七号として指定されています。

庚申塔の様子です。
お堂の横には西東京市による説明板が設置されており、次のように書かれています。
西東京市指定文化財第十七号
南芝久保庚申塔
延亨二年(一七四五)建立
この庚申塔は、延享二年(一七四五)に田無村南芝久保の三
十八人講中によって建立されました。
破風形笠の上に宝珠を戴き、正面には六臂(六本の腕)の青
面金剛像が両脚下に二匹の邪鬼を踏まえ、瑞雲、日輪、月輪、
雌雄の鶏などを配し、六臂には、弓、矢、宝剣、矛、輪宝を持
っています。
この庚申塔の特徴は、左の第一手で俗に「ショケラ」と呼ば
れる女人の髪の毛を握っていることですが、これが何者である
のか、定説はありません。また、このような像がある庚申塔は、
この地域ではほかに例がありません。
功臣信仰は、中国の道教にある「庚申(かのえさる)の夜、
眠っていると三尸(三匹)の虫が人の体から抜け出して昇天し、
天帝にその人の行いを報告し、天帝は罪過を判定してその人の
寿命を縮める」という話が、仏教や神道と結びついたものです。
青面金剛が本尊になったのは、仏教の陀羅尼経大青面金剛呪
法に虫除けの法があるということと結びついたものと言われて
います。また「かのえさる」のサルと神道の猿田彦神が結びつ
き、三猿に発展し、庚申塔に描かれるようになりました。
猿田彦は、道案内の神で、道を守り、旅人の安全を守るとい
う信仰があります。
昭和五十七年四月
西東京市教育委員会掲示以下、次号に続く。。。
<参考文献>
多田治昭『田無市の庚申塔』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』
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- 2020/06/29(月) 19:32:12|
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