
今回は、上三川町石田に所在する「権現林古墳」です。
古来より「東谷十塚」とも呼ばれる「東谷古墳群」とは、宇都宮市東谷町と上三川町石田町にまたがる形で存在しています。この中で、現存する古墳の中ではおそらく、上三川町側に所在する唯一の古墳ではないかと思われるのがこの権現林古墳です。
笹塚古墳の南東400mほどの田川東岸の標高77.5mの台地上にあり、規模は直径約20m、高さ3mほどの円墳です。
この周囲より盛り上がったように見える場所が権現林古墳ではないかと思われるのですが、実はあまり自信がありません。
『上三川町史』には当時の権現林古墳の写真が掲載されているのですが、古墳の墳丘は林の中に写されています。しかし、この高まりの周囲には樹木が存在せず、篠竹に覆われています。
また同書によると、この古墳は碗を伏せたような形状で、かつて盗掘が行われた痕跡なのか、墳頂部とその南側に大きなくぼみが存在するようです。しかし、当日はこの場所にたどり着いたのが夕方暗くなるギリギリの時間帯であったこともあり、またこの高まりに篠竹がびっしりと生い茂っていて高まりに登ってみることもできず、全体の形状を捉えることもできず、2箇所に存在するという墳丘上のくぼみも未確認のままです。
調査報告書に掲載されている分布図の古墳の位置関係からしても、この高まりは記されている位置とは少々ずれている気がするので、ひょっとしたら古墳ではないかも?
高まりの周囲の林の中には一応道らしき道があって、念のためにこの道の周辺も散策してはみたのですが、古墳らしき高まりは確認できず、この場所が権現林古墳ではないかと想定して掲載しました。
冬になって下草が枯れたら、もう一度行ってみようかな。。。
「権現林」とは、かつてのこの地の小字名でもあるそうです。
普段は人が立ち入るような場所でないようですが、平地林の中には一応農道らしき道があり、そこには赤沢川という小さな川が流れていてそのまわりに塚や祠があります。
仏や菩薩が現れた場所であるという伝説も残されているそうなので、もし夜に訪れたら、ちょっと恐ろしいかもしれません。
うん。もう一度、昼間に来てみよう。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
上三川町文化財研究会編集委員会『上三川町の地名調査』
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- 2021/06/29(火) 23:53:27|
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今回も上三川町の下蒲生地区に所在する古墳。前回に引き続き「Ⅱ支群」に属する古墳の特集です。
まず最初の画像は「下蒲生4号墳」です。
この古墳はよくわからない点が多いのですが、昭和54年(1979)に上三川町により発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』にはこの古墳について、
下蒲生4号墳(下蒲生蒲生原)は、蒲生神社境内にあり、参道半ばにある鳥居の両側にある円墳である。小丘で、径4メートル弱、高さ0.5メートルを計る。 と書かれています。
まず、「参道半ばにある」という記述ですが、現在の古墳らしき高まりは参道半ばではなく、参道の入り口のあたりに存在します。ひょっとしたら、町史の書かれた40年前には今よりもずっと長く参道が伸びており、現在の塚の場所が参道半ばの鳥居だったのでしょうか。
さらに「鳥居の両側にある円墳」という記述も気になります。「両側」ということは古墳は2基あったのか?と思われますが、現在残されている高まりは1基のみです。
現在見られる参道を直線上に伸ばすと、現在の高まりは参道の東側にあたると想定されますので、ひょっとしたらかつては西側にもう1基存在したのかもしれませんが、西側は舗装された道路となっていますので、もうすでに消滅してしまったのかもしれません。。。

墳丘頂部に建てられ石碑の様子です。
これが古墳であれば、かなり良好に残されている印象です。
古墳なのかな。。。?

墳丘裾に建てられた「勝善神」と刻まれた石碑。

さて、蒲生神社の社殿の西南にもう1基、「下蒲生5号墳」が所在するはずです。きちんと参拝してから見学しようということで、蒲生神社に向かいます。
画像は鳥居と参道の様子です。
町史にある「参道半ばにある鳥居」とは最初はここかな?と思いましたが、鳥居の両側に古墳らしき高まりはまったく見られません。。。

社殿の様子です。
この神社の主祭神は大己貴命、配神は豊城入彦命・事代主命で、上古に蒲生稻置が奉祀したと伝えられています。明治期に村社に加列。現在の社殿は平成9年に改築されたものであるそうです。
この西南に下蒲生5号墳が所在します。
早速見てみましょう。

下蒲生5号墳です。
とてもきれいな高まりです。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』には「墳丘南側は若干変形しているが、径約6メートル、高さ1メートルを計る」とあり、この規模は現在もあまり変わっていないように見受けられます。

塚の周囲に周溝らしき堀がきれいに周回しているのですが印象的です。

墳丘頂部には、江戸期のものと思われる庚申塔が1基、建てられています。

社殿の北東にも塚状の高まりが見られ、境内社として稲荷神社・星宮神社・須賀神社が祀られています。
ここは古墳じゃないんだよね、きっと。。。

蒲生神社の東方、現在の新4号国道の西側に所在したといわれているのが「おしじる塚古墳」です。
墳丘径約15m、高さ約3mほどの円墳であったといわれていますが、昭和47~48年頃に破壊され、消滅しています。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
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- 2021/02/10(水) 23:07:48|
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今回は、上三川町の下蒲生地区に所在する古墳の特集です。
下蒲生地区は田川左岸(東岸)の低台地で、周囲が低地で田川の氾濫原をなしている中で、わずかに高い自然堤防状を呈しています。古墳の多くはこの低台地の南部に集中しており、南から「Ⅰ支群」、「Ⅱ支群」、「Ⅲ支群」と便宜上三つの支群に分けられています。
今回は、このうちの「Ⅰ支群」にあたる古墳を取り上げます。

画像が「下蒲生1号墳」です。
何年か前まではこの場所は鬱蒼としたヤブで、その藪の中の小さな高まりに祠が祀られている、という状況でした。近年になって草木が刈られて墳丘がはっきりと観察できるようになりました。

昭和54年(1979)に上三川町により発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』では、一辺約9m、高さ約1.5mの「方墳ではないか」としています。
墳丘頂部には浅間神社の祠が祀られています。

北西から見た下蒲生1号墳。
実際には「一辺約9m、高さ約1.5m」よりも少々小さく見えます。

神社は「富士山小御嶽神社」というようです。
塚は富士塚か御嶽塚ということになるのかな?
発掘調査が行われているわけではないようなので、果たしてこの塚が古墳であるかどうかはわかりません。。。

「下蒲生2号墳」は、画像の藪の中に存在するはずです。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』によると、直径約6m、高さ約1mの円墳が、「1号墳のほぼ東方100メートル余の平地縁部にある。」と書かれています。
意を決して、藪の中に突撃してみました!(#`n´)ノ
画像は、うっすらと高まっているらしき場所を撮影したものですが、これが古墳の痕跡であるかはわかりません。(違うと思う。)結論として、直径約6m、高さ約1mの古墳らしき高まりは見られませんでした。
この2号墳について、近くにお住いの地元の方にお聞きしてみたのですが、少年時代にいつも林の中で遊んでいて、塚らしきものがあったように思うとのこと。さらには、その塚についてお婆ちゃんから何か言い伝えのような話を聞いた記憶があるが、どんな話であったかは思い出せない、ということでした。
おそらく、お話をお聞きしたのは50代ぐらいの方だったと思うので、塚を見たというのは昭和40年代後半から50年代にかけてのあたりかと思われます。
ま、藪の中だったので見落としたかもしれませんし、真相は不明ですね。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
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- 2021/02/08(月) 23:41:31|
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画像は、上三川町五分一に所在する「御前塚古墳」です。
三村・五分一地区にもいくつかの古墳の伝承は見られるようですが、そのほとんどは消滅しており、現存する唯一の古墳ということになります。
台地の下の低地にある古墳で、墳丘の大半は墓地として改変されているものの、田園の中にぽっかりとその姿を浮かべています。

西から見た御前塚古墳です。
この角度から見ると、ひょっとしたら右が前方部、左が後円部という前方後円墳だったのではないかとも妄想してしまいますが、墳頂部から墳裾まで大きく改変されていて、元の形状はもはやよくわかりません。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』では、截頭円錐形状を呈すると推測しており、墳丘の規模は直径30m以上、高さ3〜4mとしています。

この塚にはある伝説があって、往時に村人たちが塚にきて何々をお貸しくださいと頼むと、希望する品々が必ず翌朝には用意されていたそうです。
現代は豊かになって村人たちの懐具合もよくなったので、お願いするものもなく、貸し出しも休業しているそうです。
休業中かぁ。。。

北から見た御前塚古墳です。
こちらから見ると、まだかなり高さが残されているのがわかります。
主体部や外表施設は不明とされているようですが、果たしてこの塚は古墳なのでしょうか。。。

もう一つとても気になるのが、御前塚古墳の北方数十メートルというかなり至近距離に存在するもう1基の塚です。
こちらも現在は墓地として利用されているようですが、道路がS時にカーブして塚を避けている形状からして、かなり古くからある塚ではないかとも思われます。
ひょっとしたら、御前塚古墳を主墳として古墳群が展開されていたのでは?などと妄想してしまいますが、『上三川町の古墳Ⅰ』に掲載されている「古墳一覧」の表には古墳としては登録されていないようです。

塚はこんな感じ。
う〜ん。古墳ではないかもしれませんが。。。
真相は不明です。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
民話美寿々会「しらさぎ」『しらさぎの里「上三川のおはなし」』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話、続編』
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- 2021/02/06(土) 23:24:44|
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画像は、上三川町東蓼沼に所在する「星の宮神社」です。
大化二年(646)の創立とされ、盾部速川前公が磐裂命・根裂命・経津主命を郷土の氏神・守護神として奉祀したといわれる古社です。
この神社の周辺にはかつて「おさん塚」と呼ばれる大きな塚が存在したといわれています。
古墳時代末期に創立されたというこの神社のすぐ目の前にあったという塚が古墳であった可能性はないのかよと、いつもの妄想が止まらなくなってしまい、上郷地区の古墳を見学した跡にこの星宮神社まで足を伸ばしてみました。

まずは参拝ということで、画像は二の鳥居です。
「おさん塚」はかつての地名で、通りがかりの地元のおばあちゃんに場所をお聞きして、「星宮神社の目の前のなんにもないところだよ」と二つ返事で教えていただいて、「ホントになんにもないよ?」と念を押されました。笑。
上三川のおばあちゃん、いい人です。。。

星宮神社拝殿と境内の様子。

塚の跡地はだいたいこのあたり?
おそらく、空き地となっているこの地点か、隣接する民家のあたりではないかと思われますが、正確な跡地まではわかりません。
「おさん塚」の名称の由来はわからなかったのですが、往時には高さ4メートルほどの大きな塚があり、ここから上郷方向に古い堤防があったそうです。塚には多くな榎が立ち、船を結んだところだったといわれています。
地元の人にはこの塚は「ハンノキ山」と呼ばれており、薪採取や兵隊ごっこの場所だったそうです。
残念ながら塚の痕跡はまったくなし。塚が消滅したのは学術的な調査が行われるようになる以前で、出土品の伝承も見つからず、古墳であったか否か、塚の性格まではわかりませんでした。。。

この地には、平将門にまつわる有名な伝説が伝えられています。
敗戦により平将門の家来(四天王)が女や子供を連れ、上総国より鬼怒川を船で上がってきたものの、ちょうど東蓼沼のあたりで船が沈没して岸に登ってきたそうです。
画像の、「銅沼(どうぬま)」と呼ばれる三角形をした田んぼがこの場所なのだそうですが、ピンポイントに上陸した正確な場所まで伝えられているところがすごいですよね。。。
実は、祟りの伝説で知られる、東京大手町の「将門塚」に手がつけられている!ということで、将門塚がとても気になっていたのですが、ひょんなことから平将門にまつわる伝説に触れることになってびっくりしました。。。

東蓼沼の「上総堂墓地」です。もとの満福寺の跡地ですが、満福寺は鬼怒川の洪水により現在地に移されています。
上陸した平将門の家来たちはこの地に土着しており、持参した仏像を安置するために堂宇を建立してこれを上総堂(かっつぁどう)と呼び、一族のよりどころとしたそうです。

ここが現在の上総堂(かっつぁどう)です。
さてさて、ここで世の中に文句。笑。
栃木県は、他県と比べて説明板が少ない気がします(数えたわけではなく、あくまで私の印象ですが)。
訪れた当日、地元の方に道をお聞きした際に、平将門にまつわる伝説をお教えいただきました。
「きっと、地元の人の間では知らない人はいないような有名な伝説なんですよね?」とお聞きしたら、「年配者は知らない人はいないかもしれないが、若い人はどうだろうねえ?」というお答え。
前々回の「ネズミ観音」も然りこの上総堂も然り。
知る人ぞ知る地元では有名な伝承地なのだし、地元の人のためにも観光で訪れた人のためにも、説明板が設置されていて詳しい解説があったらいいのになあといつも感じてしまいます。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
上三川町文化財研究会編集委員会『上三川町の地名調査』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話』
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- 2021/02/04(木) 22:00:55|
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前回に引き続き、今回も上三川町で見かけた塚をテーマに、今回は源頼家にまつわる伝承の残る、「勝善神」の塚を取り上げようと思います。
上郷地区に広がる田園の真ん中を流れる江川の堤防にかかる塚田橋のほとりに、「勝善神」と刻まれた供養の碑が建っています。
ここにはある伝説が残されています。
平安時代末期のお話ですが、欧州で起こった反乱を平定するため、源頼家の一行が当地にさしかかった際に、長い旅の疲れからか愛馬が病に倒れてしまいました。頼家は近くに陣幕を張り、愛馬の回復を祈りますが、その甲斐なく愛馬は数日間の闘病の末に死んでしまいました。
そこで頼家は近くに塚を築き、馬をねんごろに葬り、供養のために一本の 松を植えて別れを惜しみました。
頼家は愛馬を失った悲しみから代わりの馬には乗らず、篭に乗って発っていったといわれており、その場所は今でも「お篭立ち」といわれているそうです。
その後、塚の付近では濃厚に働いた馬が次々と病に倒れ、あるいは足を折り、また死んでしまうといった不幸が続き、地元の人たちは大変驚きました。これは亡くなった馬の祟りではないかということになり、地主が鎮魂のための石碑を建てて供養したところ、それ以来ウソのように不幸な事故は起こらなくなったそうです。
頼家が陣を張ったという「幕内」の地に食事に使った杉の箸を挿しておいたところ、根がついて枝の下がった大木となり、この杉は明治の始め頃まで立っていたそうです。

塚の横には舗装道路が造られており、この道路は周囲よりも高くなった江川の土手に向かっています。
したがって、道路が塚よりも高く盛られてしまっている状況ですが、以前はここが塚状に周囲の田畑よりも高くなっていたのではないかと妄想できます。
かつては田園の中の塚であったことが偲ばれます。
この塚の下に、頼家の愛馬が眠っているのでしょうか。。。

勝善神の石碑の背面の様子です。
頼家の愛馬の伝承について刻まれています。

江川にかかる「塚田橋」です。
「塚田」の名称が気になるところですが、やはり由来は頼家の伝承となるのでしょうか。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話、続編』
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- 2021/02/03(水) 00:10:37|
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栃木県は圧倒的に農業に特化した県だと思っていますが、上三川町内をブラブラと散策していても、日産自動車の工場の広大な敷地以外はほとんどが農地なのではないかと感じるくらい田んぼや畑が多いです。
主要道路以外は信号に引っかかることもほとんどありませんし、坂道もあまりありませんので(関東平野は基本的に平らですからね)、自転車でも楽に長距離を移動することができます。
そんな中、田んぼや畑の中にポツリと塚が残されている、という光景を数多く見かけました。
もちろん、そのすべてが古墳跡であるわけではありませんが、塚の多くにはお堂や祠が祀られていたり、石碑が建てられていたりと様々で、なかなか興味深いわけです。笑。
というわけで、画像は県道下岡本上三川線を走っていて上郷の田園の中で見かけた塚です。
「むむ!古墳跡では?」と、お参りしてから何枚か写真を撮りました。
後日、この塚について調べてみたわけですが、実はかなり知られた塚で、塚にまつわる伝説が残されていることを知りました。

むかしむかし、馬になりたいと願うネズミがいたそうです。
ある夜、夢の中にお地蔵様が現れてねずみにこう言いました。「35日間休まずに私に世の中のことを教えてくれたら、お前の願いを叶えてあげよう。」そこでねずみは、毎日お供え物を運んでは、お地蔵様に世の中の出来事を教えました。
ところが、いよいよ願いが叶うという当日、ねずみは嬉しさのあまり興奮してしまい、通りがかりの女の子のお菓子を奪い、お地蔵様に備えて「早く馬にしてください」と頼みました。お地蔵様は「今すぐ馬にしてあげよう」とおっしゃったそうです。
馬になったと思い込んだネズミが喜んで小川をのぞきこむと、驚いたことに、顔はたしかに馬なのですが、体はいままで通りのねずみのままでした。
ねずみは恥ずかしさのあまり身体を隠したくなり、お地蔵様の後ろの石を掘り続けてとうとう死んでしまいました。
哀れに思ったお地蔵様は死んだねずみの姿を馬頭観音に変えて、お地蔵様とともに人々や馬の幸せを守るようになったそうです。。。
なんと!このお話は、『まんが日本昔ばなし』で「ネズミ観音さま」のタイトルででアニメ化されています。
市原悦子さんと常田富士男さんが声を使い分けて、独特の語りで一人何役もこなすという、とても個性的で独自の世界観を持つ、深みのあるアニメでした。(歳がばれますね。。。)

塚上の様子です。
お堂が祀られており、周囲には多くの石碑が建てられています。
あまり高さはないようですし、少なくとも古墳跡ではないのかな?という印象。。。

ちゃんとお参りしてから、お堂の中も撮らせていただきました。
死んだねずみは馬頭観音に変えられたそうですが、どの石塔なんだろう。。。

塚の東側に石碑が建てられている様子。
馬に関係する石碑が多いです。
トラクターとかが出てくる以前は馬が頑張っていたんですね、きっと。。。

塚の西側の様子。
こちら側には馬頭観世音の石塔が建てられているようです。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
上三川町教育委員会『かみのかわ歴史百話』
民話美寿々会「しらさぎ」『しらさぎの里「上三川のおはなし」』
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- 2021/01/31(日) 20:40:55|
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今回は、上郷古墳群中Ⅴ支群に分類される古墳です。
最初の画像は、「上郷9号古墳」です。
『栃木県遺跡地図』には「山王古墳群1号墳」の名称で掲載されており、また「山王愛宕山古墳」とも呼ばれている古墳です。
ここは、わずかに隆起する南北に長い台地の縁辺部に所在する古墳で、地形を巧みに利用して築造されており、下から見上げて壮大に感じられるように緩い傾斜の墳裾が長くひかれているようです。
古墳の南側は道路により削られていますが、この道路拡張時の事前確認調査で周湟が確認されているようです。
墳丘の直径は約30m、高さは約3mの円墳です。

南からみたところ。
道路から石段を上がると鳥居があり、墳頂部には愛宕神社の小祠が祀られています。
埋葬施設の詳細は不明であるようです。

石段を上ってみました。
南側が道路と石段により削られている以外は、円墳の形状が大きく崩れることもなくキレイに残されているのがとても印象的です。
頭上で「バサバサバサーッ」と鳥が羽ばたいていってぶったまげました。笑。

墳頂部の様子。
「愛宕神社」の石碑と祠が見られます。

北西から見た墳丘の様子。
やはり、ほとんど崩れがなくキレイに弧を描いており、かなり良好な状態で残されています。

9号古墳から、竹藪の中を北へ30mほど進むと、10号古墳の小さな墳丘が見えてきます。
『栃木県遺跡地図』には「山王古墳群2号墳」の名称で掲載されています。
南北径約9m、高さ約1mという小円墳で、葺石が散見します。
墳丘の東側の裾部は少々削られているようですが、それ以外は良好に残されている印象で、盗掘の跡なども見当たらないようです。

9号古墳の南方約100mほどに位置するのが「上郷10号古墳」です。
林の中にポコっと古墳が盛り上がっている姿を見つけて、「あったあった~」って感じで嬉しくなりました。笑。

11号古墳の墳丘の様子。
南側の裾部が若干削られていて、9号古墳と比べると多少の変形を受けているかなという印象ですが、それでもかなり良好に残存する古墳です。
墳丘の推定径は約21m、高さ約3mの円墳です。

墳頂部には小さな石の祠が祀られています。
表面には河原石が見られ、これは葺石ではないかと想定されているようです。
消滅した「17号古墳」が所在したのはだいたいこのあたり。
直径約20m、高さ約3mほどの墳丘が存在したようですが、大正初期に削平されたといわれています。。。

基本的には、消滅した古墳は追いかけずに、残存する古墳のみを見学したいなと考えていますが、でもやっぱり跡地が分かっている場合は気になってしまって、見にいってしまったりしています。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』の分布図を参考に、消滅した18号古墳の跡地の前を通りがかってみましたが、古墳が群集する台地から坂を下りた低地に位置していて、「あれ?こんな低地に本当に古墳があったかな?」という感じ。
ちょうど、古墳の跡地としてプロットされている場所にある個人宅の旦那さんに立ち話にお付き合いいただいちゃったのですが、やはり「ここに古墳があったなんて話は聞いたことがないな〜?」という感じ。
ここじゃないんじゃないかな???

実は、10号墳からさらに奥に進んだところで、若干の高まりに祠が祀られている場所んたどり着きました。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』によると、18号古墳は「10号墳の東北方に接近するように台地縁部を占める円墳」ということなので、実は低地の民家の場所ではなく、ここが跡地なのではないか?と妄想しましたが、真相は不明。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
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- 2021/01/30(土) 20:46:45|
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今回は、上郷古墳群中Ⅳ支群に分類される古墳です。
この支群に大きな古墳は存在しないようですが、狭い範囲に3基の円墳が残存しています。
この残存する3基は、『栃木県遺跡地図』では「橋本古墳群」の名称で登録されています。
最初の古墳は「上郷6号古墳」を東から見たところです。
『栃木県遺跡地図』では「橋本古墳群2号墳」と掲載されている古墳です。
昭和54年(1979)に発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』では「南北6.5m、東西5.8m、高さ2m弱の小形の円墳」とあり、掲載されている写真と比較すると、やはり当時と比べて墳丘は小さくなっているように見えます。

ちょっっと角度を変えて南から見た6号古墳です。
墓地の一角に残されているという状況ですが、夏の間に生えた雑草を根っこごと引き抜くと、どんどん覆土が流失して古墳が小さくなってしまうんですよね。
なんとかしたいですよねー。。。

墳丘上には、石室の石材なのか葺石なのか、河原石が見られます。

続いて、「上郷7号古墳」です。
通り沿いの餃子屋さんの背後に残されています。
先ほどの6号古墳の南方60mほどと、かなり近距離にある古墳です。
『栃木県遺跡地図』には「橋本古墳群1号墳」の名称で掲載されており、地元では「千武塚」と呼ばれているそうです。

南東から見た7号古墳です。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』によると、規模は推定径約16m、高さは2m弱ということですが、掲載されていると比べるとやはり小さくなっている印象です。

南西から見たところ。
整地される際に土が盛られていて、それで小さく見える部分もあるかもしれませんね。。。

墳頂部の様子です。
「鳥獣供養塔」と刻まれた、わりと真新しい石碑が建てられています。

ななななんと。
7号古墳の南西2~30mのあたりにもう1基小さな塚があり、塚上に小さな石の祠が祀られています。
これが古墳跡であるか否かは不明ですが(古墳じゃないかもね)、とても気になる存在です。。。

墓地の入口の「馬力神」の石碑の奥に、「8号古墳」が見えます。
近寄ってみましょう。

南から見た上郷8号古墳。
『栃木県遺跡地図』には「橋本古墳群3号墳」として掲載されています。
6号古墳の東方20mほどの距離にあり、3基の古墳はかなり至近距離に密集しています。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』によると、規模は推定径約12m、高さは約2mで、円墳であるとされています。

墳頂部に祀られている地蔵尊です。
ん?首が付け替えられているのかな?と帰宅してから気がつきましたが、詳細はわからず。

北西から見た8号古墳。
<参考文献>
栃木県教育委員会『栃木県遺跡地図』
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
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- 2021/01/28(木) 19:26:33|
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今回は、上郷古墳群中Ⅲ支群に分類される古墳です。
この支群は、多くの古墳が群集する古墳群であったと考えられているようですが、残念ながらほどんどの古墳は消滅しているようです。
最初の古墳は「上郷5号古墳」。
道路の突き当たりが古墳の所在地であるはずでしたが、すでに古墳は見当たりません。。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』には、Ⅲ支群中唯一残存する古墳として、推定径20m、高さ1.5mの円墳と記されています。また、『上三川町の古墳Ⅰ』に掲載されている「一覧表」にも湮滅とは書かれていないのですが、『上三川町の古墳Ⅰ』の発行は平成12年ですので、おそらくこれ以降に破壊されて消滅してしまったのでしょうか。。。

5号古墳推定地のすぐ南側には鳥居があり、祠が祀られています。
墳丘上に祀られていた祠が移されたのかな?なーんて妄想をしながら通り過ぎましたが、跡で調べても特にそういう記録も見当たらず、真相はわかりません。
発掘調査も行われることなく、破壊されてしまったのでしょうか。。。

さらに道路を挟んだ向かい側にも、築山の上に祠が祀られています。
もはや怪しんでいたらきりがないですけどね。笑。。。

道路の向かいの民家の入り口には、上三川町の指定文化財・天然記念物である「上郷のヒイラギ」が保存されています。

説明板と標柱。
上三川町指定文化財 天然記念物
ヒイラギ
昭和五十一年四月二十日指定
樹高 六・二メートル
胸高周囲 二・五七メートル
枝張り 東西八・二メートル 南北六・七メートル
推定樹齢 二百五十年
この木は門の両側に植えられたもののう
ち、東側の大きい方です。
幹の下部は空洞になり、枯枝もかなりあ
りますが、今でも元気でよい香の花をつけ
ます。
ヒイラギはモクセイ科の常緑高木で、ど
ちらかというと、本州の南に多く、栃木県
の黒羽あたりが自主の北限に近いです。し
かし、、庭木としては東北地方にもみられ、
奇妙なことに本県には全国的に見ても巨木
が多いのです。
昭和五十八年三月 上三川町教育委員会

画像は「上郷13号古墳」の跡地とされる場所。
5号古墳の西方約260メートルに所在したとされる古墳で、直径15〜16m、高さは3mほどあったといわれています。
現在は上水道の施設となっており、古墳らしき痕跡は見られません。

上水道の施設の東側に馬頭観世音の石塔が残されているのですが、この石塔はかつては13号墳の墳頂に建てられていたものであるといわれています。
唯一残る、13号墳の痕跡です。。。

14号古墳の跡地とされる地点。
草が生い茂ったあたりが跡地と想定される場所です。
ひょっとしたら古墳の基底部は残されているかもしれませんが、詳細は不明です。。。

画像は「上郷15号古墳」です。
別名「橋本古墳」とも呼ばれている古墳です。
「おいおい〜、こりゃ残っているじゃないかよおぉ〜」と感動。笑。
古墳はかなり削られて墳丘上も畑地となっていおり、なだらかに削られてもはや墳丘と地面の境目がわからなくなっているのですが、それでもわずかに古墳の高まりを見ることができます。

近寄ってみたところ。
推定径28mの円墳とされており、墳丘部からは埴輪片や土師器の破片が採集されているそうです。

16号古墳の跡地の様子。
道路が交差する角地で、直径約15m、高さ約3mの円墳で、墳頂部には庚申さまの小祠が祀られていたそうですが、昭和40年頃に古墳は消滅。
庭先に石材に使用された河原石が残っているらしいのですが、これはどこにあるのかわからず、庚申さまの現在の所在地もわかりませんでした。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
現地説明板
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- 2021/01/27(水) 18:16:34|
- 上三川町の古墳・塚
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