
前回に引き続き、今回は三王山古墳群の磯部支群の最終回。
最初の画像は「三王山古墳群3号古墳」です。
この古墳、この3月まで発掘調査が行われていました。
これまで、平成元年度に2号墳と3号墳の一部が南河内町史編さん事業により調査が行われていて、2号墳と3号墳の周溝は互いに重ならず、3号墳の周溝を部分的に埋めて2号墳の周溝を掘ったことがわかっていました。
その後、3号墳の形状や規模、東側に隣接する2号墳との新旧関係を再度確認するために、令和3年度からこの3月まで継続して発掘調査が行われていました。
ここまでの調査の結果、3号墳は周溝の幅が1〜2m、深さ1m 前後、周溝底面から墳丘頂の高さ1.6m、墳丘の規模が15m程の方墳であることが判明しています。
ただし、周囲に周溝は存在するものの墳丘の覆土が積み上げられている形跡はなかったそうで、つまりは方形周溝墓?と呼ぶべきか古墳と呼ぶべきか、素人の私にはわかりませんが、磯部支群の南端にならぶ3基は、3号墳→2号墳→1号墳の順に築造されたことがわかっているそうです。

これ、3号墳の周溝の様子です。
この3号墳も前方後方墳で、前方後方墳が3基並んでいるという可能性も考えられていたそうですが、結果は方墳であるということで、周溝も直線的です。

今回の調査でも2基の古墳の周溝は重複せず、3号墳の周溝を埋め戻して2号墳の周溝を掘ったことが再確認されています。これにより、2号墳よりも3号墳が古く、3号墳の周溝が埋まっていない時期に2号墳を築造したことが再確認されました。
それにしても、何年も前に最初に見学した際、この3号墳はちゃんと高まりがあるように見えましたが、盛り土が積み上げられていないというお話にはちょっとびっくりでした。。。

もう1基。
4号墳の所在地とされるあたりの様子です。
『南河内町史 史料編1 考古』や『下野市遺跡分布図』の分布図からすると、道路の左側の高まりが残存する古墳か?というところなのですが、こちらは未調査であるため、本当に古墳であるかどうか真相はわからず。

4号墳を近くで見るとこんな感じ。
『下野市遺跡分布図』では直径11.5m、高さ0.6mの円墳ということですが、真相やいかに。。。
ちなみに、このさらに奥の藪の中に5号墳と6号墳があるはずです。
古墳は残されているような気はしますが、こちらは突入しませんでした。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/31(金) 20:22:04|
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前回に引き続き、今回も三王山古墳群の磯部支群。
画像は、下野市谷地賀に所在する「三王山古墳群2号古墳 (三王山南塚2号) 」です。
画像は南から見たところで、左手前が前方部、右奥が後方部という状況です。
2号墳の現状の規模は全長43m、後方部幅25m、後方部高さ3.4m、前方部幅7.5m、前方部高さ1.2mで、前回に取り上げた、同じく前方後方墳である2号墳と2基が東西に並んで築造されていて、2基ともに前方部を南南西に向けています。
後方部に比べて非常に低い前方部を持ち、出土した土器の特徴などから4世紀初めに造られた、県内最古級の古墳であることがわかっています。

こちらは北東から見た2号墳。
左が前方部、右が後方部という状況です。

後方部の北端は道路によって削平されています。
この、削られた古墳の形状を呈した土留め、意外と頻繁に見かけますよね。。。
発掘調査により後方部の北東コーナーが確認されており、古墳の全長は約48.5mであることがわかっています。

2号墳の東側に、下野市教育委員会による説明板が設置されています。
三王山南塚古墳(1・2号墳)
田川の東、南北に伸びる台地上に残る古墳群の南端部、三王山南塚
古墳は、道路をはさんで東側を1号墳、西側を2号墳と呼ぶいずれも
四世紀代、古墳時代前期に造られた前方後方墳である。
1号墳は墳丘全長約46m、後方部幅約26m、前方部幅約20m
2号墳は全長約50m、後方部幅約29m、前方部幅約20mであり、
いずれも周溝が巡らされている。
特に2号墳は前方部が撥型に広がった極めて珍しい造りで、現在の
ところ県内で最古の古墳の一つに指定されている。
埋葬施設は残念ながら破壊を受けており確認出来ず、副葬品等につ
いても不明ではあるが、周溝の調査から壺形土器等が多数出土して
いる。
平成四年三月 下野市教育委員会

前方部から後方部を見たところ。
全体的には形状がよく残されている印象ですが、後方部はかなり激しく盗掘が行われているようでした。。。

後方部上はこ〜んな感じ。
ざっくりと抉られて窪んでいます。
発掘調査において埋葬施設が検出されなかったことは残念ですよね。。。

後方部から前方部を見たところ。
撥型に広がった形状を見ることができます。

主要古墳には、旧南河内町によるこの標柱が建てられていたようですが、どこも朽ち果てていて、古墳の傍らに立てかけられているという光景をよく目にします。
木製の立て札や標柱はやはりちょっと耐久性に欠けますし、いたしかたないですな。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/29(水) 22:19:25|
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今回から、下野市に所在する「三王山古墳群」を取り上げようと思います。
三王山古墳群は田川と鬼怒川によって形成された三王山台地上に位置しており、舌状台地の南端から北に2km、幅500mの幅に広がっており、古墳の総数は60基を超える大規模な古墳群であったと考えられています。
古墳群は南から「磯部支群」、「朝日観音支群」、「車塚支群」、「愛宕神社支群」、「三王山支群」、「志部支群」の6つの支群に分けられており、さらに西に「星宮神社古墳群」も隣接しています。
私は以前に一度訪れて古墳群全体を見学したことがあるのですが、この時は真夏だったせいか磯部支群が草ボウボウで、しかも雨が降り出してしまったこともあり、じっくりと見学することはあきらめて車での「偵察」に切り替えました。
せっかく偵察したのだからすぐに再訪すればいいのにそのまま何年も経ってしまうところが私のイカンところなのですが、昨年あたりから発掘調査が続けられていることや、草が刈られて見学しやすくなっているのに気がついていて、ようやく今年に入って見学に向かいました。。。
まずは最も南にある「磯部支群(三王山南古墳群」からということで、今回は「三王山古墳群1号墳(三王山南塚1号古墳)」です。

西から見たところ。
左手前が前方部。右奥が後方部ですな。
『南河内町史 史料編1 考古』によると、規模は全長45m,後方部幅28m・後方部高さ4m,前方部幅17m・前方部高さ2mで、同じく前方後方墳である2号墳と2基が東西に並んで築造されていて、2基ともに前方部を南西に向けています。

北西から見たところ。
右が前方部、左が後方部という状況です。

前方部から後方部を見たところです。
古墳の形状は、全体的にはよく残されているように感じられるのですが、後方部がかなりざっくりと削られているのがわかるでしょうか。
ちょっと近寄ってみましょう。。。

前方部上の様子です。
ベッコリ凹んでいてちょっと痛々しいです。

並んで所在する2号墳は、前方部が三味線の撥のようにやや広がりを持つ撥型を呈しており、これは全国的にも類例が極めて少なく、しかも初期の古墳に限られているそうです。
しかし、この1号墳は2号墳と比べて前方部が高く発達しており、撥型の広がりは見られません。
2基の前方後方墳は「2号墳」→「1号墳」の順に築造されたと想定されているようです。
栃木県は前方後方墳がかなり多く築造された地域なのですが、とても興味深いですね。。。
以下、次回の「三王山古墳群2号古墳 (三王山南塚2号) 」に続く。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/26(日) 20:16:13|
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画像は、下野市国分寺に所在する「山王塚古墳」です。
全長は90mと推定される前方後円墳で、下野市の遺跡番号377番に登録されている古墳です。
6世紀末から7世紀小島の築造と推定されています。

右手前が後円部で、左奥が前方部という状況です。
当日は土地の所有者の方に声をかけて見学しました。
古墳についてお聞きしたのですが、「山王塚」の名称からしてどこかに山王さまが祀られているものと思い込んでいましたが、「いや、なにも祀られていませんよ」というお返事。笑。
墳丘上はかなり草ボウボウだったこともあり、無理して登りませんでした。。。

全長は90mほどで、二段に築造された大型の前方後円墳であったとされていますが、墳丘は全体が満遍なく削平されて小さくなっているような印象です。
埴輪や葺石は見られないものの巨大な横穴式石室が確認されています。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
しもつけ歴文カード『山王塚古墳』
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- 2023/03/19(日) 20:13:47|
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画像は、下野市国分寺に所在する「丸塚古墳」です。
栃木県の史跡として指定されているこの古墳は、下野市内でも古くから知られた存在で、畑の中にポッカリと浮かぶ、お椀を伏せたように半円を描く大きな墳丘は一際目立ちます。
早速近寄ってみましょう!

墳丘南東側裾部に、「史跡丸塚古墳」と刻まれた石碑と、下野市教育委員会による説明板が設置されています。
件指定史跡 丸塚古墳
丸塚古墳は、7世紀のはじめごろに築造された、
栃木県を代表する大型円墳です。墳丘は、2段に
つくられ、墳丘の第一段の平坦面(基壇)の幅が
広いのが特徴です。
墳丘の大きさは、墳丘第一段の直径が66m、
第二段の直径が42m、墳丘第一段目からの高さ
が約6.5mあります。
この古墳の埋葬施設は、横穴式石室で、墳丘の
南面に開口しています。遺体を納めた玄室は、凝
灰岩の大きな一枚岩を切り組んだ技法で構築され
ています。また玄門は、この一枚岩の中心をくり
ぬいて造られており、優れた石材の加工技術がう
かがえます。
平成18年度に実施した発掘調査では、石室の
床面付近から約70点のガラス小玉が出土しました。
下野市教育委員会

墳丘は「丸塚」の名にふさわしく、キレイに残されていますよね。
この古墳は、いわゆる「下野型古墳」と呼ばれるこの地域特有の形状を呈する古墳です。
下野型古墳の特徴として、の一つ目は、墳丘1段目の基壇面がかなり広く造られており、見た目は2段目だけが墳丘のように見え、かつては古墳の大きさをこの2段目のみが全長として測られていたそうですが、現在は基段面を含めたサイズが古墳の全長として測られています。
これ、私的には「手抜きでしょ、、、」と思っているんですが、古墳を築造する材料が足りなかったかもしれないし、人手が足りなかったかもしれないし、昔は昔で色々あったんだろうなあと思います。。。
3枚目の画像は墳丘の2段目ということになりますな。。。
ちなみに、基壇面の低くなりすぎた箇所には若干の盛土がされているそうなので、やはり木断面も墳丘の一部なのだと思います。
そして二つ目は、石室に巨大な大谷石の凝灰石の切石が用いられており、前方後円墳に限ると、石室が後円部ではなく前方部に造られています。

開口する石室の様子。
柵で覆われていて中に入ることはできませんが、中を観察することはできるようです。

石室は、一枚岩の凝灰岩を5枚使用して構築されています。
切り出した場所はわかっていないようですが、一体どうやってこんな巨石をここまで運んだのかとても興味深いです。

天井石です。

墳頂部から見下ろしたところ。
かなり高さが残されているわけですが、墳頂部には大きな撹乱はなく、築造当時の状況に近いと考えられているようです。
ちなみに墳頂平坦面の中央に直径30cmほどの穴が掘られていて、人頭大の礫が3〜5個詰められていたそうで、何の目的があったのかとっても不思議です。

北西から見た丸塚古墳です。
やっぱり、畑の中に残された古墳は見学しやすいし、良い眺めです。
藪の中の古墳ときたらホントにもう。。。

説明板に掲載されていた丸塚古墳の墳丘測量図です。
黄色い部分が基壇面ということになりますね。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/17(金) 22:41:39|
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画像は、下野市国分寺に所在する「小田坂9号墳」です。
この9号墳は下野市の遺跡番号399番に登録されています。
昭和16年の『紀元 千六百年記念古墳調査』にも記載が認められ、「国分寺村第40、41、77、78、79号墳」のうちの1基にあたるとされています。
『下野市遺跡分布図』では「消滅」とされている古墳ですが、民家の敷地内の角にわずかながら高まりが残されており、これが古墳の残存部分ではないかと感じたので、掲載しておこうという企画です。笑。

南から見たところ。
もちろん、お庭の築山とか、単なる残土の山である可能性も考えられますし、古墳かどうかはアレですが。。。
一応、分布図に記された位置とは一致しています。

高まりの様子。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/15(水) 00:51:23|
- 下野市の古墳・塚
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画像は、下野市国分寺に所在する「小田坂6号墳」です。
小田坂古墳群は1号墳から9号墳まで9基の古墳で構成されていますが、実際に散策してみて見学できたのは4基のみでした。
特にこの6号墳の周辺には複数の古墳が密集していたようですが、4号墳、5号墳、7号墳、8号墳はすでに消滅しており、確認できるのは6号墳と9号墳の2基でした。

この6号墳は下野市の遺跡番号396番に登録されています。
昭和16年の『紀元 千六百年記念古墳調査』にも記載が認められ、「国分寺村第40、41、77、78、79号墳」のうちの1基にあたるとされています。
『下野市遺跡分布図』には規模、径約8m、高さ約1mと書かれていますが、現状はさらに小さくなっているようにも感じられます。。。

周辺には、葺石か石室の石材と思しき河原石が散乱していました。

すぐ横に太陽光パネルが接近しており、いずれ人知れず消滅してしまいそうな古墳です。
せめてしっかりと調査が行われるといいのですが。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/13(月) 19:00:58|
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画像は、下野市国分寺に所在する「小田坂3号墳」と思われる高まりです。
下野市教育委員会より発行された『下野市遺跡分布図』によると、下野市の遺跡番号391番の古墳として登録されていますが、径約7m、高さ約1mとかなり小さな高まりで、同書には1号墳と同様に「東側にある小田坂用水堀跡掘削時の掘り上げ土の可能性がある。」と書かれています。

南西から見たところ。
同じように、用水堀跡掘削時の掘り上げ土ではないかと疑われている1号墳は、用水堀から多少離れた位置にありましたが、この3号墳は用水堀に隣接している状況で、確かに古墳ではないという可能性も感じます。。。

堀がきれいに残されていて、実際に見学した際には「まさか城址?」とも感じました。
いったいなんの遺構なんだろうと思っていましたが、用水堀だったのですね。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/12(日) 18:44:28|
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画像は、下野市国分寺に所在する「小田坂1号墳」を北から見たところです。
下野市の遺跡番号388番に登録されている古墳で、規模は東西約10m、南北約12mの不整形を呈しており、高さは約1.5mです。
東側を道路により、また北側も畑地により削られているのかな?という印象ですが、古墳であるかどうかは微妙で、『下野市遺跡分布図』には「西側にある小田坂用水堀跡掘削時の掘り上げ土あるいは自然地形の可能性もある。」と書かれています。

南東から見たところ。
立地的には思川左岸の台地縁辺部にあたり、周囲には古墳が密集しているという状況ではありますが、古墳であるかどうかは微妙で、『下野市遺跡分布図』には「西側にある小田坂用水堀跡掘削時の掘り上げ土あるいは自然地形の可能性もある。」と書かれています。

西から見上げたところ。
「××古墳群」という古墳群の名称の付け方が謎なのですが、単に字名をつけているだけなのかな???
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/11(土) 23:18:15|
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画像は、下野市川中子に所在する「熊野塚古墳」です。
下野市の遺跡番号354番に登録されている古墳で、昭和16年の『紀元 千六百年記念古墳調査』には「国分寺村第37号墳」として掲載されています。

北西から見たところ。
周囲の地形からすると、本当に古墳かな?とも思えます。
わずかな高まりの上には氏神様の祠が祀られています。

規模は径約6m、高さは1.5mで、円墳であるとされています。

もちろんちゃんと参拝してきました。
下野市の古墳の写真もかなり溜まっているし、しばらくは下野市の古墳を取り上げようかなと覆っています。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/03/08(水) 23:41:53|
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