
画像は、下野市国分寺に所在する「花見ヶ丘古墳」と思われる古墳らしき高まりです。
というのは、この古墳の所在地は敷地内に入ることができず、遠方からの観察にとどまりました。
同じ敷地内には「調練場4号墳」呼ばれる古墳も存在するようなのですが、『下野市遺跡分布図』には花見ヶ丘古墳の規模が「径約20m、高さ約3m」とあるのに対して、調練場4号墳の規模が「径約10m、高さ約数10cm」と書かれていることから、おそらくこれが花見ヶ丘古墳であろうと判断しました。
墳丘は冬でも草ボウボウだったので、実際にどのくらいの高さがあるのかはわかりませんが、少なくとの数10cmということはないであろうと思われます。。。

こちらは北西から見たところ。
敷地内に勝手に入るわけにもいきませんし、なかなかもどかしいです。
今行っても、真夏じゃさらにヤブでしょうしね〜。。。
<参考文献>
国分寺町『国分寺町史 通史編』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/24(月) 01:04:59|
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今回は下野市国分寺に所在する「花見ヶ丘5号墳」です。
前回取り上げた「花見ヶ丘3号墳」の南に隣接する古墳で、『国分寺町史 通史編』によると、この古墳も西面する前方後円墳で、後円部はすでに削られているものの、全長は26mほどと推定されています。
つまりは、残存するのは前方部で、画像の右側に後円部が存在した、ということになるようです。

墳丘裾部にはブスッと電信柱が刺されていました。。。
かつて存在した後円部には河原石積横穴式石室が構築されていた可能性が高く、墳丘周囲には形象埴輪、円筒埴輪が建てられていたようですが、葺石は存在しないようです。
3号墳と5号墳はともに西面する前方後円墳であり、葺石がなく円筒埴輪や形象埴輪を伴っていることから、古墳時代後期である6世紀中頃に3号墳とあい前後して築造されたと考えられています。

墳丘には穴が空いていて、開口する横穴式石室か!と心踊りましたが、これは違うようですね。。。
<参考文献>
国分寺町『国分寺町史 通史編』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/16(日) 23:28:57|
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今回は、下野市国分寺に所在する「花見ヶ丘3号墳」です。
まずこの古墳名の「花見ヶ丘」というのは、以前取り上げた「小田坂××号墳」なども含めて単純に字名で、「花見ヶ丘古墳群」というわけではないようなのですね。。。
『国分寺町史 通史編』には、この地区に分布する小型古墳の群れを「国分古墳群ともいうべきだ」と書かれているのですが、学術的にどうなのかはよくわかりません。。。
古墳は全長28.5mの前方後円墳で、画像の左が前方部、右が後円部となるようです。

最初に訪れた時は、ロクに調べもせずに立ち寄ってしまったこともあり、古墳の位置がまったくわからずに諦めて帰ってしまったのですが、昨年に蓮華寺の「蛇骨経塚」を見学した際に、古墳の所在地の近くに舗装もされていない農道があることに気がついて歩いてみました。
そこでこの3号墳を発見!写真に収めたというわけですが、古墳のすぐ奥には民家もあるし、どうも個人の敷地に入り込んでいるのではないか?という気もして、すぐに立ち去りました。
散々散策した後で疲れてしまっていたので気力もなく(笑)、無理をしなかったのですが、帰宅後に町史を読んで確認すると、画像の反対側にはなんと!半地下式で無袖型の河原石積横穴式石室が開口していたのだそうです。。。。゚(゚´Д`゚)゚。
石室を見学できる古墳が多くはないですし、これはあらためて訪れたい今後の宿題です。。。

「花見ヶ丘3号墳」の跡地周辺の様子です。
正確な場所はわからなかったのですが、正体不明の土塁のごとき高まりがあり、気になる存在です。
<参考文献>
国分寺町『国分寺町史 通史編』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/15(土) 21:41:48|
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今回は、下野市細谷に所在する「星宮神社古墳」の探訪の記録です。
画像は、星宮神社古墳を(星宮神社を)南から見たところです。
古墳は、墳丘南側を東西に走る国道352号線によりかなり削られており、路上からだとその断面を見るような状況です。
さらには墳丘頂部は星宮神社の社殿の造営によりかなり削られており、また周囲も長方形に整形されていることから、元が古墳であったことは少々わかりにくくなっているように感じますが、それでも高さはそれなりに残されているようだし、ま、古墳が好きな人ならわかるよねっ。笑。。。

ちょっと角度を変えてみました。
古墳は、昭和57年に行われた発掘調査により周溝や石室が検出されており、直径約50mの円墳であることがわかっています。
直径50mってかなりデカいけど、元々は高さもかなりあったのでしょうね、多分。。。

神社の境内となった墳丘上はかなり広く、大きな古墳であったことがわかります。

このあたりで横穴式石室が確認されているはず。
古墳は円墳とされていますが、円墳であるとすると、横穴式石室が墳丘の裾部に設けられていることになってしまい、現状では円墳であると断定はされていないようです。
確かに、現地で見学してみても、すみっこのほうの変な位置に石室があるんだな?と感じます。
ひょっとしたら円墳ではなかった可能性も考えたくなってしまいますよね。
例えば前方後円墳とか。。。

横穴式石室の位置には「星の宮神社古墳発掘記念碑」なる石碑が建てられており、「この碑は、今から千四百年前頃、この細谷地区を治めていた豪族の奥津城の天井石である。」と刻まれています。

下野市の栃木県埋蔵文化財センターに、この星の宮神社古墳の石室の模型が公開されていました。
無袖式単室構造の横穴式石室であり、両側壁は河原石を小口積みにして10段から12段が持ち送り状に積んであったそうです。
玄室の長さは7.1m、高さは1.5mと、かなり大きな石室であったようです。

これは春の写真。
なかなかの桜古墳ですよね。。。
<参考文献>
栃木県教育委員会『星の宮神社古墳・米山古墳』
石橋町『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/10(月) 17:37:42|
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さてさて、前回に引き続き下野市細谷に所在する「上台北原古墳群ということで、今回は4号墳の探訪の記録です。
この古墳は散策してみたものの、正直どこにあるのかよくわかりませんでした。
土地の所有者のおばあちゃんにもお聞きしたのですが、「古墳なんかないよ?」みたいな感じです。。。
4号墳は、旧石橋町の遺跡番号は77番、現在の下野市の遺跡番号では320番に登録されており、円墳とされています。
『下野市遺跡分布図』の分布図に正確な位置が記されているのでこれを頼りに訪れましたが、分布図に記されたあたりにはわずかながらの若干の高まりが残るのみです。
画像がこの高まりの様子ですが、果たしてこれが残存する古墳であるのかよくわかりません。
ちなみにこの4号墳は『紀元二千六百年記念古墳調査』でも存在は把握されており、「姿村第二十五号」にあたります。
『下野市遺跡分布図』に掲載の規模は、径10m、高さ約1.5mとされています

これは、『下野市遺跡分布図』に記された位置とは若干ズレた場所に存在する高まり。
こちらの方がよっぽど古墳らしい印象はありますが、やはり古墳であるのかどうか、やはり確信を持てる状況ではありませんでした。
どちらかが古墳であるならば、やはりこちらかな?という印象ですが、自信なし。。。
<参考文献>
石橋町『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/06(木) 21:27:11|
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画像は、下野市細谷に所在する「上台北原古墳群3号墳」です。
この古墳は旧石橋町の遺跡番号76番、現在の下野市の遺跡番号319番に登録されており、円墳とされています。
規模は、昭和59年発行の『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』、『下野市遺跡分布図』ともに径10m、高さ約1.5mとされていますが、実際に見学した印象はかなりなだらかな感じで、1.5mもの高さはないようにも感じます。
墳頂部には小祠が祀られています。

北から見たところ。
この古墳へは、1号墳のある北側から林の中を歩いて到達しました。
訪れたのは何年か前ですが、この時は分布図を持っていなくて、勘で歩いてほぼ偶然に古墳に到達しました。
ホント、ちゃんと準備していかないとダメだよね。
『下野市遺跡分布図』の分布図には正確な位置が記されているので、これを参考に訪れるといいかも。。。

墳頂部の様子です。
かつて建てられていた鳥居が崩壊したのか、残骸となった石材が。。。
<参考文献>
石橋町『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/04(火) 23:34:07|
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前回は下野市下長田にあるお蕎麦屋さんを紹介しましたし、周辺の古墳も紹介しなきゃね!ということで、今回から下野市細谷に所在する上台北原古墳群を取り上げようと思います。
画像は上台北原古墳群1号墳で、地元では「青年塚古墳」と呼ばれている古墳です。
旧石橋町の遺跡番号74番、現在の下野市の遺跡番号317番に登録されており、円墳とされています。
昭和59年発行の『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』には規模、南北21m、東西24m、高さ約3mと書かれていますが、『下野市遺跡分布図』には、現存径約20m、高さ1.5mと書かれていますので、少しずつ周囲を削られて小さくなっているのかもしれません。。。

真冬の1号墳です。
いつの季節もびっしりと草ボウボウで、残念ながら古墳に登れる状況ではありません。
草ボウボウなおかげで、実際の規模よりも大きく見えているかもしれませんな。笑。
ちなみに2号墳は消滅しており、写真はありません。
次回、3号墳に続きます。。。
<参考文献>
石橋町『石橋町史 第一巻 史料編 (上)』
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
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- 2023/07/02(日) 23:59:38|
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前回に引き続き、今回は三王山古墳群の磯部支群の最終回。
最初の画像は「三王山古墳群3号古墳」です。
この古墳、この3月まで発掘調査が行われていました。
これまで、平成元年度に2号墳と3号墳の一部が南河内町史編さん事業により調査が行われていて、2号墳と3号墳の周溝は互いに重ならず、3号墳の周溝を部分的に埋めて2号墳の周溝を掘ったことがわかっていました。
その後、3号墳の形状や規模、東側に隣接する2号墳との新旧関係を再度確認するために、令和3年度からこの3月まで継続して発掘調査が行われていました。
ここまでの調査の結果、3号墳は周溝の幅が1〜2m、深さ1m 前後、周溝底面から墳丘頂の高さ1.6m、墳丘の規模が15m程の方墳であることが判明しています。
ただし、周囲に周溝は存在するものの墳丘の覆土が積み上げられている形跡はなかったそうで、つまりは方形周溝墓?と呼ぶべきか古墳と呼ぶべきか、素人の私にはわかりませんが、磯部支群の南端にならぶ3基は、3号墳→2号墳→1号墳の順に築造されたことがわかっているそうです。

これ、3号墳の周溝の様子です。
この3号墳も前方後方墳で、前方後方墳が3基並んでいるという可能性も考えられていたそうですが、結果は方墳であるということで、周溝も直線的です。

今回の調査でも2基の古墳の周溝は重複せず、3号墳の周溝を埋め戻して2号墳の周溝を掘ったことが再確認されています。これにより、2号墳よりも3号墳が古く、3号墳の周溝が埋まっていない時期に2号墳を築造したことが再確認されました。
それにしても、何年も前に最初に見学した際、この3号墳はちゃんと高まりがあるように見えましたが、盛り土が積み上げられていないというお話にはちょっとびっくりでした。。。

もう1基。
4号墳の所在地とされるあたりの様子です。
『南河内町史 史料編1 考古』や『下野市遺跡分布図』の分布図からすると、道路の左側の高まりが残存する古墳か?というところなのですが、こちらは未調査であるため、本当に古墳であるかどうか真相はわからず。

4号墳を近くで見るとこんな感じ。
『下野市遺跡分布図』では直径11.5m、高さ0.6mの円墳ということですが、真相やいかに。。。
ちなみに、このさらに奥の藪の中に5号墳と6号墳があるはずです。
古墳は残されているような気はしますが、こちらは突入しませんでした。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/31(金) 20:22:04|
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前回に引き続き、今回も三王山古墳群の磯部支群。
画像は、下野市谷地賀に所在する「三王山古墳群2号古墳 (三王山南塚2号) 」です。
画像は南から見たところで、左手前が前方部、右奥が後方部という状況です。
2号墳の現状の規模は全長43m、後方部幅25m、後方部高さ3.4m、前方部幅7.5m、前方部高さ1.2mで、前回に取り上げた、同じく前方後方墳である2号墳と2基が東西に並んで築造されていて、2基ともに前方部を南南西に向けています。
後方部に比べて非常に低い前方部を持ち、出土した土器の特徴などから4世紀初めに造られた、県内最古級の古墳であることがわかっています。

こちらは北東から見た2号墳。
左が前方部、右が後方部という状況です。

後方部の北端は道路によって削平されています。
この、削られた古墳の形状を呈した土留め、意外と頻繁に見かけますよね。。。
発掘調査により後方部の北東コーナーが確認されており、古墳の全長は約48.5mであることがわかっています。

2号墳の東側に、下野市教育委員会による説明板が設置されています。
三王山南塚古墳(1・2号墳)
田川の東、南北に伸びる台地上に残る古墳群の南端部、三王山南塚
古墳は、道路をはさんで東側を1号墳、西側を2号墳と呼ぶいずれも
四世紀代、古墳時代前期に造られた前方後方墳である。
1号墳は墳丘全長約46m、後方部幅約26m、前方部幅約20m
2号墳は全長約50m、後方部幅約29m、前方部幅約20mであり、
いずれも周溝が巡らされている。
特に2号墳は前方部が撥型に広がった極めて珍しい造りで、現在の
ところ県内で最古の古墳の一つに指定されている。
埋葬施設は残念ながら破壊を受けており確認出来ず、副葬品等につ
いても不明ではあるが、周溝の調査から壺形土器等が多数出土して
いる。
平成四年三月 下野市教育委員会

前方部から後方部を見たところ。
全体的には形状がよく残されている印象ですが、後方部はかなり激しく盗掘が行われているようでした。。。

後方部上はこ〜んな感じ。
ざっくりと抉られて窪んでいます。
発掘調査において埋葬施設が検出されなかったことは残念ですよね。。。

後方部から前方部を見たところ。
撥型に広がった形状を見ることができます。

主要古墳には、旧南河内町によるこの標柱が建てられていたようですが、どこも朽ち果てていて、古墳の傍らに立てかけられているという光景をよく目にします。
木製の立て札や標柱はやはりちょっと耐久性に欠けますし、いたしかたないですな。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/29(水) 22:19:25|
- 下野市の古墳・塚
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今回から、下野市に所在する「三王山古墳群」を取り上げようと思います。
三王山古墳群は田川と鬼怒川によって形成された三王山台地上に位置しており、舌状台地の南端から北に2km、幅500mの幅に広がっており、古墳の総数は60基を超える大規模な古墳群であったと考えられています。
古墳群は南から「磯部支群」、「朝日観音支群」、「車塚支群」、「愛宕神社支群」、「三王山支群」、「志部支群」の6つの支群に分けられており、さらに西に「星宮神社古墳群」も隣接しています。
私は以前に一度訪れて古墳群全体を見学したことがあるのですが、この時は真夏だったせいか磯部支群が草ボウボウで、しかも雨が降り出してしまったこともあり、じっくりと見学することはあきらめて車での「偵察」に切り替えました。
せっかく偵察したのだからすぐに再訪すればいいのにそのまま何年も経ってしまうところが私のイカンところなのですが、昨年あたりから発掘調査が続けられていることや、草が刈られて見学しやすくなっているのに気がついていて、ようやく今年に入って見学に向かいました。。。
まずは最も南にある「磯部支群(三王山南古墳群」からということで、今回は「三王山古墳群1号墳(三王山南塚1号古墳)」です。

西から見たところ。
左手前が前方部。右奥が後方部ですな。
『南河内町史 史料編1 考古』によると、規模は全長45m,後方部幅28m・後方部高さ4m,前方部幅17m・前方部高さ2mで、同じく前方後方墳である2号墳と2基が東西に並んで築造されていて、2基ともに前方部を南西に向けています。

北西から見たところ。
右が前方部、左が後方部という状況です。

前方部から後方部を見たところです。
古墳の形状は、全体的にはよく残されているように感じられるのですが、後方部がかなりざっくりと削られているのがわかるでしょうか。
ちょっと近寄ってみましょう。。。

前方部上の様子です。
ベッコリ凹んでいてちょっと痛々しいです。

並んで所在する2号墳は、前方部が三味線の撥のようにやや広がりを持つ撥型を呈しており、これは全国的にも類例が極めて少なく、しかも初期の古墳に限られているそうです。
しかし、この1号墳は2号墳と比べて前方部が高く発達しており、撥型の広がりは見られません。
2基の前方後方墳は「2号墳」→「1号墳」の順に築造されたと想定されているようです。
栃木県は前方後方墳がかなり多く築造された地域なのですが、とても興味深いですね。。。
以下、次回の「三王山古墳群2号古墳 (三王山南塚2号) 」に続く。。。
<参考文献>
下野市教育委員会『下野市遺跡分布図』
南河内町『南河内町史 史料編1 考古』
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- 2023/03/26(日) 20:16:13|
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