
ぐんま古墳カードその12。
第一弾の最終回である今回は、太田市龍舞町に所在する「塚廻古墳群4号墳」です。
昭和51年度に行われた土地改良事業に伴う発掘調査の際に偶然に水田下から発見された7基の古墳のうちの1基で、調査後にその重要性から群馬県の史跡として指定され、古墳公園として整備されて保存、公開されています。

これが「塚廻り古墳群第4号古墳」で、北から見たところです。
カード化された古墳は大型の前方後円墳が多いようなのですが、この古墳は小型の帆立貝式古墳で、墳丘の全長は22.5m、円丘部の直径17.7m、造り出し部は幅8.7m、長さ4.8m、周囲には幅4.5mの堀を持っています。

南西から見た塚廻古墳群4号墳。
この小さな帆立貝式古墳がたった12枚しかない「ぐんま古墳カード」の仲間入りをしたのは理由があります。
この第4号古墳の墳丘部には、円筒埴輪のほか、家形埴輪、楯形埴輪、大刀など多くの埴輪が配置されていました。特に造り出し部には円筒埴輪のほか、馬や人物などの形象埴輪が配置されていました。西端には四体の女子像が配置され、その東部には椅子に座った男子、ひざまづく男子など七体の男子像が配置され、その北部には飾り馬と馬子が配置されていました。
これらの埴輪は表情も豊かで造形が非常に優れており、また出土位置もほぼ明確であり、この第4号古墳出土の埴輪類を含め「上野塚廻り古墳群出土埴輪」として国の重要文化財に指定されています。
つまり、埴輪配列は築造されたときのまま、正確に復元されているということになるわけです。ちなみに埴輪は、群馬県立歴史博物館や群馬県埋蔵文化財調査センターに保管・展示されているそうです。

第4号墳の造り出し部の様子です。
群馬県は、関東有数の古墳県として知られていますが、実は日本一のハニワ県でもあるそうです。巨大古墳のみならず、中小のかなり多くの古墳にも埴輪が立て巡らされています。
埴輪を持つ古墳が多いということは当然ながら埴輪の生産数も多くなってくるわけで、藤岡市や太田市では埴輪窯跡が数多く見つかっているようですし、埼玉県本庄市周辺で生産された埴輪も上毛野地域入ってきているようです。
実際に、群馬県内では各地域の郷土資料館に素晴らしい埴輪が展示されていますし、数多くの埴輪を生産する中で、技術的にも芸術的にも飛び抜けてくるような埴輪職人が少なからず存在したのかもしれませんね。。。
いや、才能以前に、数をこなすということはとっても大事ですねー。。。

墳丘上の家形埴輪と楯形埴輪です。
広がる田園風景の中に存在するこの史跡公園がとても安らぎます。
好きだなー。。。

これが「塚廻り古墳群第4号古墳」のぐんま古墳カードです!
とりあえず、第1弾で発行された12箇所の古墳はこれで終了です。
次回、すぐに第2弾に移行しないで、他県の古墳に寄り道しようかなあ。
迷うなあ。。。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈上巻〉』
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- 2020/10/17(土) 23:53:59|
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ぐんま古墳カード、その11。
今回は、太田市内ケ島町に所在する「太田天神山古墳」です。
ここまでカード化された古墳の中でもっとも大きな古墳、そして東日本でももっとも大きな古墳です。
別名男体山とも呼ばれるこの太田天神山古墳の規模は、墳丘長が210m、後円部直径120m、後円部の高さ16.8m、前方部前端幅126m、同高さ12mという、巨大前方後円墳です。
これほど大きな古墳が市街地にあると、全貌を捉える写真を撮ることはなかなか難しいのですが、この古墳の南側に東武鉄道の線路を渡る大きな陸橋があり、そこから古墳の全貌を捉えることができました。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶ ヤッタ~!
古墳時代の群馬県が豊かな土地であったことを知ることができる、素晴らしい古墳です!

墳丘南側のくびれ部のあたりには鳥居が建てられており、その横には太田市教育委員会による説明板が設置されています。
周囲には二重の周堀が巡らされ、墓域は長さ364m、幅288mに及びます。
墳丘は三段築造で、表面には渡良瀬川系の河原石による葺石が存在します。

くびれ部にある神社。
訪れた日にご近所にお住まいの旦那さまにお聞きしたのですが、戦時中に行われた米軍機による空襲の際、太田市街地を狙って落とされた爆弾が強い風に流されて、天神山古墳の周辺にまで到達したそうです。
墳丘上が少々ボコボコしているのはこの爆弾によるものかもしれないそうですが、戦争をすると(特に負けると)遺跡や文化財もみんな壊されてしまうし、やっぱり戦争はいかんですよ。。。

後円部から前方部を見たところです。
太田天神山古墳の被葬者は後円部の中心部の直下に埋葬されているといわれ、かつては後円部頂部から前方部に向かって下ったあたりに大きな石棺の破片が見られたのですが、これは江戸時代に掘り出された石棺が転げ落ちたもので、現在は保護のために埋められているそうです。
元文三年1783に作成された絵図によると、長さが3メートル近い長持形石棺で、これは5世紀の畿内の最有力前方後円墳に限って採用された石棺形式で、ヤマト王権の有力者層の石棺であるとされています。

右奥が前方部、左手前が後円部です。

太田天神山古墳のぐんま古墳カードは、太田市世良田町の「新田荘歴史資料館」にて配布されています。
新田荘遺跡を構成する、隣接する「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財をはじめとして、古墳や埴輪などの資料も保管、展示されています。

撮影が禁止だったことから内部の写真はありませんが、古墳時代の展示も多く見られました。
資料館前には「新田義貞公之像」が建てられています。

「長楽寺遺跡」からは、発掘調査により古墳時代の住居跡30軒のほか、古墳5基が確認されています。
このうち1号墳は直径約18メートルの円墳で、墳丘が失われていたために高さは不明ですが、全周する周溝と遺骸が埋葬された石槨が検出されています。
新田荘歴史資料館の建物の前に、石槨の原位置が記されています。

これが「太田天神山古墳」のぐんま古墳カード!
この巨大古墳の内堀が宅地化されずに残されているのが素晴らしいですが、後円部の先端が前橋館林線の道路によって削られているのは残念なところですね。
道路、少しぐらいカーブしていてもいいじゃん?とも思いますが、地元で暮らしたらそうもいかないですよね。きっと。。。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈上巻〉』
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- 2020/10/16(金) 19:17:21|
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ぐんま古墳カード、その10。
今回は、前橋市西大室町に所在する「前二子古墳」です。
画像は北西から見た前二子古墳です。
左奥が前方部、右点前が後円部という状況です。
この一帯は「大室公園」という広大な史跡公園として整備されており、公園内には「前二子古墳」、「中二子古墳」、「後二子古墳」、「小二子古墳」があり、国の史跡として指定されています。
このうち、前二子古墳は古墳群中最初に造られた前方後円墳で、墳丘長93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると全長148mという、かなり大型の前方後円墳です。

上毛野国の先祖とされる豊城入彦命の墓ではないかと古くから言い伝えられており、この伝承の存在により古墳は大切に保存されてきたようです。明治11年(1878)3月に村人により石室が開かれた際には多くの副葬品が発見され、記録に残されています。
その後、昭和60年ごろから大室公園の大規模な整備のための動きが始動し、平成4年からこの前二子古墳の発掘調査が実施されることとなります。

最初にこの古墳を訪れた10年ほど前の写真。
古墳の上半身は青々と草が生えているのに対して、下半身は草が刈られて茶色く枯れた色となっているという独特なツートーンカラーとなっています。なぜかこの風貌が個性的に思えて、頭にインプットされていました。
カード収集のために今年の夏に訪れた際に、「あれ?こんな古墳だったかな?」と違和感を感じたのですが、草の刈り取り状況の違いだったのですね。。。

石室内部も公開されており、見学することができます。
かなり細くて長い石室です。

石室はベンガラで赤く塗られており、複数の副葬品が復元的に並べてあります。
発掘調査により、石室奥部の壁面の二カ所に差し込まれている鉤状の鉄製品が発見されており、さらに四カ所で鉤状の鉄製品が差し込まれている痕跡が発見されています。これは、高崎の「綿貫観音山古墳」や「八幡観音塚古墳」、さらには奈良県の「藤ノ木古墳」でも見つかっているそうです。
遺体の上に天蓋を吊るすか、周りに幔幕状の布を吊り下げて巡らすためのフックであった可能性が指摘されています。

これが「前二子古墳」のぐんま古墳カードです!
やはり、草が刈り取られている箇所と刈り取られていない箇所があるのか?と思われるのですが、ツートーンカラーで下半分が刈り取られている風貌が好きだな〜?個人的には。。。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈上巻〉』
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- 2020/10/14(水) 23:53:37|
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ぐんま古墳カード、その9。
今回は、前橋市総社町に所在する「蛇穴山古墳」です。
「総社古墳群」の中で最も後期である7世紀末に築かれた古墳で、発掘調査により一辺が約40メートルの方墳であることがわかっています。宝塔山古墳に続いて築造されたこの蛇穴山古墳は、宝塔山古墳と比べるとかなり小型化していますが、同時期に造られた古墳の中ではかなり大きい部類に入る古墳です。

南から見た蛇穴山古墳。
横穴式石室が開口しています。
ちなみに、真冬に訪れた時には墳丘上の草がきれいに刈られていて、古墳の形状をはっきりと見ることができたのですが、やはり真夏は草ボウボウですね。
雑草の生命力は凄まじいですからね。。。

『史跡 蛇穴山古墳』と刻まれた石柱と、解説文が刻まれた石碑が設置されています。
説明文は次のように書かれています。
史跡 蛇穴山古墳
一辺の長さ約四〇mの方墳であ
る。埋葬主体部は横穴式石室であ
るが、羨道を欠き、玄門と玄室と
からなる特殊な形をとっている。
玄門の前には、羨道の痕跡ともみ
られる構造とハの字形にひらく前
庭がある。石室は天井、奥壁、左
右壁ともにみごとに加工した各一
枚の巨石で構成されている。天井
石、奥壁などの縁はL字形に切り
込んで壁の石と組み合わせている。
精巧な細工をほどこした玄門とと
もに、当時の石材加工技術の優秀
さを物語っている。石室の規模は
玄室長(西)三m、同幅二・六m
同高さ一・八mである。
隣接する宝塔山古墳とともに、
県内古墳の最終末期に造られたも
ので、八世紀初頭の頃に位置づけ
られよう。

蛇穴山のみならず、「蛇塚」等々、蛇にまつわる名称を持つ古墳もこれまで少なからず見てきましたが、この古墳の名称の由来は、他の古墳とは少々異なるようです。
この古墳の横穴式石室は近世に弁天様の祠として再利用されており、その際に奥壁の中心に古代インドのサンスクリット文字で弁天のイニシャルが刻まれており、これが蛇のように見えることから「蛇穴山」と呼ばれるようになったそうです。(実はこの話は、撮影した石碑の説明文を帰宅してから読んで知ったので、不覚にも石室内では奥壁をあまりよく観察しませんでした。残念。。。)

石室内の様子です。
羨道が省略されていますので、すぐに玄室へと入ることとなります。
牛伏砂岩製の大きな切石が中央に見られますが、これは棺を安置するための棺台と考えられています。
この「蛇穴山古墳」を同じ時間帯に男性二人で見学しされていた方々がいて、どうやら私と同様にカード収集のために古墳を巡られていたようなのですが、この蛇穴山古墳の後、総社歴史資料館→三津屋古墳→南下E号古墳→埋蔵文化財調査センター→井出二子山古墳→八幡塚古墳→かみつけの里博物館→観音塚古墳→観音塚考古資料館→簗瀬二子塚古墳→安中市学習の森ふるさと学習館まで、す~~~っと同じコースを同じタイミングで巡っていて、すべての場所ですれ違いました。
「効率よく巡ろうと考えれば自然とこのコースを組みますよね?」という感じですごく親近感を持ちました。笑。
思えばメール交換ぐらいしておけばよかったのに、私はいい年こいてシャイでそういうのが全然ダメなんですね〜。。。

これが、「蛇穴山古墳」のぐんま古墳カードです!
蛇穴山古墳のカードを配布しているのが古墳のすぐ隣にある「総社歴史資料館」ですので、古墳と2ショットで写真を撮ってそのまま資料館にいけば、すぐにカードをいただけます。
このカードを見るまで、古墳に桜が植えられているのは知りませんでしたが、次に来る機会があるなら桜の開花の時期ですね、これは。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈上巻〉』
前橋市教育委員会事務局文化財保護課『東国の雄 総社古墳群』
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- 2020/10/12(月) 23:59:21|
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ぐんま古墳カード、その6。
今回は、吉岡町に所在する「三津屋古墳」です。
この古墳は、全国的にも極めて希少であるとされる(正)八角形墳です。
かつてのこの古墳は南下りの高まりが認められるという状況で、古墳の可能性も考えられるものの断定できるほどでもなかったようです。
その後、平成5年に行われた発掘調査の結果、この高まりは自然地形ではなく古墳であることが判明、また墳丘表面に施されている葺石が通常のものと大きく異なり、正八角系を呈するものであることがわかってきたそうです。

墳丘は二段築成で周溝を持っています。
規模は墳丘対角間で23.8m、残存する高さは4.5mで、八角系の一辺の大きさは、下段で約9m、上段で約6mを有します。墳丘の企画設計にあたっては唐尺が使用されたことが推測されています。
石室は破壊されていたようですが、奥壁石や側壁根石の抜き取り状況から、一部切石を用いた自然石乱石積の横穴式石室であったことが推測されています。残念ながら副葬品は何も発見できなかったようです。

ああ。なんと美しい八角形墳。
復元されているとはいえ、惚れ惚れしますね。
古墳は、7世紀後半の築造と推定されています。
大和の八角形墳は7世紀中頃前後から8世紀初めにかけての歴代の天皇の古墳であることから、この時期は天皇の古墳のみが八角形を採用されたことが指摘されています。
この吉岡町の八角形墳である三津屋古墳の被葬者がどんな人物であったのか、とても興味深いところですが、まだ正しい解釈はわからない、というのが真相であるようです。

古墳の内部は見学施設として整備されており、石室根石状況や土層断面が発掘調査時のまま展示されています。

「三津屋古墳」のカードが配布されているのは、となり町の渋川市北橘町に所在する「群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館」にて配布されています。
ここも、群馬県内の各市町村の郷土資料館同様、見所がたくさんです。

画像は、「甲(よろい)を着た古墳人と3人の被災者」と称して公開されていたレプリカです。
甲を着た古墳人は身長164cmの40代の男性で、膝立ちの状態で上半身が前方左側へ倒れ込んだと考えられています。頭蓋骨の形質分析や歯根のストロンチウム同位体比分析から、近畿から北九州古墳人の渡来系統で、西からの移住者である可能性が考えれているそうです。
また、筋肉を動かす時に骨に残された筋付着部の発達度の観察から、馬に乗ることが多かったのではないかと推定されているそうです。
いや、ホントに、調査や分析によりそんなことまでわかるのかと心底驚きですよね。。。

これが、「三津屋古墳」のぐんま古墳カードです。
まだ芝が張られていない、おそらくは整備直後の撮影でしょうか。
八角形の形状がキレイにわかる、上空からの写真が素晴らしいです。。。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
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- 2020/10/10(土) 23:03:20|
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ぐんま古墳カード、その6。
今回は、藤岡市上落合に所在する「七輿山古墳」です。
この七輿山古墳は、全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の高さは16mという、三段築成の巨大前方後円墳です。
全長146mという実際の規模以上に、体感的には太田市の「天神山古墳」とさほど変わらないのではないかというくらいに、壮大に感じられる古墳です。
同じ白石古墳群には、墳丘長約140メートルという「白石稲荷山古墳」が存在しますが、こちらは5世紀前半の前方後円墳で、6世紀前半に造られたとされるこの七輿山古墳とは時期的に開きがあります。つまり七輿山古墳はこの地域に突如として突出した規模を持って築造された古墳といえます。
ちなみに、名古屋市の「断夫山古墳」は、同じ時期に同じように突如として築造された前方後円墳で、こちらは継体天皇に娘を嫁がせた尾張氏の本拠地ということになるようです。七輿山古墳の存在も、これまでの流れに抗して新しく政権を奪取した継体天皇の政治的な基盤がこの群馬にもあった、ということを物語っている可能性も考えられているようです。。。

この七輿山古墳は、以前にこの『古墳なう』で一度取り上げています。
この時に、桜の咲き乱れる墳丘の写真をたっぷりと紹介していますし、今回は周辺施設の様子を取り上げておこうと思います。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-989.html(2019年05月08日号 「七輿山古墳」)

古墳の北側には「七輿の門」が整備されています。
広い駐車場も整備されており、便益施設にはトイレや展示室も備えられています。
古墳の整備、という点では群馬県は関東では最も先進的かもしれませんね。。。

展示室内部の様子です。
藤岡市内の文化財の紹介や、七輿山古墳以外の主要古墳の説明板も設置されており、また白石丘陵公園の散策のためのガイダンスも行われています。

展示室内の説明板です。
白石古墳群は主要古墳以外にも多くの古墳が残存しており、じっくりと散策すると1日では廻りきれないくらいです。
もし次回、ぐんま古墳カードの第3弾が造られるとしたら、藤岡市では皇子塚古墳でしょうか?
それとも喜蔵塚古墳かな? ワクo(^o^)oワク

画像は、七輿山古墳に隣接する「ドライブイン七輿」です。
レトロ自販機の聖地と呼ばれている場所で、古墳見学の際には是非とも立ち寄ってほしいスポットです。笑。

うどんやトースト、ハンバーガーといった、昭和40年代から50年代に開発された食品自動調理販売機が所狭しと並んでいます。今となってはこれらの自販機は絶滅寸前と言われていますが、確かに最近はあまり見かけなくなってしまいましたね。
私は、太田や伊勢崎あたりで何度か見かけて、似た感じの店に立ち寄りました。
群馬県内で比較的多く見かける気がしますが、気のせいかな。。。

私は今回は店内では食せず、「ななこしラーメン」なる生麺タイプのインスタントラーメンを購入しました。鶏ガラ仕込のしょうゆ味で、なかなかのお味です。
ていうか、「ドライブインななこし」名義のラーメンの存在に感動ですね。。。

「七輿山古墳」のぐんま古墳カードです。
桜が咲き乱れる七輿山の写真が使われていて、「やっぱり!」と嬉しくなりました。笑。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
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- 2020/10/07(水) 23:46:26|
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ぐんま古墳カード、その6。
今回は、藤岡市上落合に所在する「伊勢塚古墳」です。
この古墳は、国指定史跡である七輿山古墳、県指定史跡である皇子塚古墳、国指定史跡白石稲荷山古墳などとともに白石古墳群を形成しているうちの1基で、七輿山古墳の北400mほどの平坦地に位置しています。
墳丘は、当初は円墳であると考えられていましたが、直径27.2メートル、高さ6メートルの不正八角形墳と考えられており、出土した円筒埴輪、人物埴輪、盾形埴輪などの遺物から6世紀後半に築造されたと推定されています。

八角形墳とされる石積みの角の部分を明瞭に見ることができます。

南向きに開口する横穴式石室。
話が脱線しますが、私がこの古墳を訪れるのは4回目です(ホント、何回来んねん)。
最初は一人で、二度目は知人と連れ立って、二度とも車で来ていましたので、古墳の南にあったコンビニの駐車場に停めて古墳を見学。そのあとコンビニでジュースを買って一服しました。
三度目は自転車で白石古墳群を散策していて、やはりこのコンビニで一服しました。
あの頃はタバコをバカスカ吸って美味かったな。。。
コンビニはなくなっちゃってました。
当然ながら駐車場にも車は止められませんので、少々ウロウロしてから狭い道路に路駐して、記念撮影(カードをもらうためのヤツ)だけして慌てて古墳を離れました。
去年の春に七輿山古墳や白石稲荷山古墳の桜を撮りに来たときはあったのにな、コンビニ。
いつも休憩していた場所が廃墟みたいになっていたので、ちょっと寂しい気持ちになりました。。。

この古墳が素晴らしいのは、石室の石積みなのです!
さっそく石室内に入ってみましょう。

石室内部の様子です。
この古墳の石室の石積みは、ところどころにやや大型の自然石を配して、周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白模様にしているという独特な技法で、「模様積み」と呼ばれています。
藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られる特徴的な構造で、これらの古墳は6世紀後半に出現して、7世紀代まで継続して造られているそうです。
その中でも、特にこの伊勢塚古墳の石室は素晴らしいのです。。。

古墳時代から現代まで、何度も大地震に見舞われていると思われますが、石室はびくともしていませんね。
天井石も巨大なものです。

石室から外に出た瞬間は、目が眩みますよね。。。

石室内部を見学したのは実は二度目の見学のときでした。
訪れた日にちょうど群馬県のスタッフの方々が調査を行なっており、わざわざ調査の手を休めて内部を見学させていただきました(ありがとうございました)。
調査が行われている傍ら子供達が古墳に登って遊んでいたりして、素晴らすぎる光景です。笑。

「伊勢塚古墳」のぐんま古墳カードです。
古墳の墳丘ではなく、石室内部の写真がカード化されていたら面白いなと思っていましたが、やっぱり墳丘の写真でした。そりゃそうですよね。笑。
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
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- 2020/10/05(月) 23:03:44|
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ぐんま古墳カード、その5。
今回は、高崎市綿貫町に所在する「綿貫観音山古墳」です。
カード化された古墳は群馬県内ではどこも著名な古墳ばかりですが、この綿貫観音山古墳も地域を代表する前方後円墳です。
昭和43年(1966)に行われた発掘調査の際には、なんと盗掘されていない全く手付かずの横穴式石室が発見されており、他にあまり例を見ないほどの充実した副葬品が確認されています。
古墳自体が昭和48年に国の史跡として指定されているほか、綿貫観音山古墳の出土品も国指定文化財となっており、今年の7月18日(土)~9月6日(日)にかけては高崎市の群馬県立歴史博物館で「綿貫観音山古墳のすべて」という企画展が開催されていましたので、見学に訪れた方も多かったのではないかと思います。
墳丘は2段築成で、全長は97メートルの前方後円墳です。
後円部に対して前方部が若干大きく、また葺石は存在しないようです。
6世紀後半の築造と推定されています。。。

古墳は駐車場が完備されています。
右側がトイレでその背後に駐車場。左はスタッフの方の詰所です。
古墳の石室は基本的には施錠されているのですが、常駐しているスタッフの方に鍵を開けていただいて内部の見学とともに解説も聞くことができます。

画像が、開口した綿貫観音山古墳の横穴式石室です。
カード収集のために訪れた今年の夏は、新型コロナウイルス感染拡大防止ということで、残念ながら古墳の解説及び石室見学は休止されていました。
ただし、入り口の外から覗くことはできるということで、スタッフの方が石室内の照明をつけてくださいました。

石室内部の様子です。
入り口からでもはっきりと内部を見ることはできます。
この綿貫観音山古墳が造られる直前、榛名山が空前の大噴火を起こしたそうです。現在の渋川市付近では、噴出した軽石の厚さが2メートルにも達しているそうです。
観音山古墳の豪族も、この凄まじい光景を目の当たりにした可能性が高いと想定されるわけですが、なんと豪族は、榛名山から利根川に流れ出した角閃石安山岩を石室の壁石材に使って横穴式石室を造っているのです!
玄室の長さは約8.3メートル、奥の幅は約3.9メートルと長大なもので、壁に積まれた角閃石安山岩は四角い形に加工して積み上げられています。
次々と先進的なことにチャレンジする、意欲的な豪族だったのかもしれませんね。。。

以前に、石室内部を見学した時の写真です。
この石室内から、金銀で飾られた武具や馬具などの副葬品3,346点が無傷で発見されているそうですから、すごいですね。

天井石です。
この巨石は、同じ高崎市内の吉井町の牛伏砂岩の石を6つ使っているそうです。ここに運んでくるのも大変な作業だったと想像しますが、石室を組み上げるのはさらに大変だったと思います。
壁石は榛名山の火山岩が使われているそうです。

晴れた日の綿貫観音山古墳。
南から見たところで、左奥が前方部。右手前が後円部です。

初めて見学に訪れた、秋の終わりころの写真。
北西から見たところで、右手前が前方部。左奥が後円部です。
朝、早かったこともあってか、墳丘とその周辺の芝が紅葉のように赤く染まって幻想的でした。

「綿貫観音山古墳のすべて」という企画展を見学に行きました。
群馬県立歴史博物館はいつも入場者が多い気がしますし、スタッフや会場の雰囲気も活気があって、いつ来てもいい感じです。

私はここにくると、埴輪ばっかりに見とれてしまいます。。。
出土した「獣帯鏡」は、百済武寧王陵で出土したものと同じタイプで、また「銅製水瓶」は中国北朝の北斉の様式に類似しており、綿貫観音山古墳の被葬者は、中国や朝鮮半島と直接的な関係を持つ豪族であったと考えられています。

観音山古墳の埴輪で中心的な位置を占めるのは人物埴輪や馬などの動物埴輪であるそうです。これらは古墳時代の途中から新たに加わった種類で、支配者である王の世界を表すためのものであると考えられています。
観音山古墳の埴輪は、人物埴輪も馬形埴輪もとても大きなものです。

この観音山古墳築造のころ、全国的には古墳への埴輪樹立は廃れようとしていたそうです。近畿地方では埴輪を持ち古墳はわずかで、内容的にも貧弱であるそうです。しかし、観音山古墳の埴輪群は絶頂の真っ盛りで、これは関東地方の古墳に共通した特徴であるようです。。。
観音山古墳の豪族は、埴輪を通じてどんな主張をしたかったのでしょうか。。。

太刀。

綿貫観音山古墳のぐんま古墳カードです。
観音山古墳のぐんま古墳カードは、群馬県立歴史博物館ではなく、高崎市の歴史民俗資料館で配布されています。が、歴史民俗資料館についてはまたいずれ。。。
<参考文献>
群馬県立歴史博物館『綿貫観音山古墳ガイドブック』
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
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- 2020/10/04(日) 23:20:54|
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ぐんま古墳カード、その4。
今回は、高崎市山名町に所在する「山上古墳」です。
全国的にもかなり希少な、被葬者の名や葬送制度が推定できるという古墳で、隣接する「山上碑」とともに国特別史跡に指定されています。
画像は、南から見た「山上古墳」です。
直径約14メートル、高さ約5メートルの円墳です。
南に向かって奥行き7.4mの横穴式石室が開口しています。
今回は先を急ぐので(カードのコンプリートが目標だし)石室内をじっくり見学することはしませんでしたが、地元で産出した凝灰岩の切石で丁寧に仕上げられた見事な石室です。。。

実は数えてみたところ、カード化された24ヶ所の古墳のうち19ヶ所はすでに一度は訪れたことのある古墳でした。
カード化されるくらいですから、さすがに知られた古墳ばかりなんですね。
したがって、道に迷ってしまうようなことはほとんどありませんでしたが、この山上古墳は山間の高台の頂上近くに単独で築造された古墳で、かなり急な階段を延々と徒歩で登らなければなりません。
古墳カードを入手するためには、もう一度古墳の前まで行って写真を撮らなければなりませんが、残念ながら訪れたのは真夏。。。
画像は、古墳に向かう階段の途中で見上げてみたところです。
落ち着いてから見てみると、階段を登りきった頂上に山ノ上古墳の墳丘がち〜さくみえるのですが、当日はそんな余裕もなく、もはや心臓が止まりそうになりながら階段を登りました。。。笑。

画像は石室内部の様子。前回訪れた時の画像です。
この後、奥まで進んでいって恐ろしい目にあい、泣きながら出てくるハメになります。。。

古墳の西側にあるこの建物の中に「山ノ上碑」が保存されています。
ちなみに同じ高崎市内には、山ノ上碑と同様に先祖供養のために建てられたとされる「金井沢碑」や「多胡碑」も同様に保存、公開されています。
古墳のみならず、石碑にスポットをあてて巡ってみるのもまた一興かもしれません。

山ノ上碑です。
碑文には以下のように刻まれています。
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川巨児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧
これだけではさっぱりわかりませんが、現代語に訳すと、
「辛巳年(西暦681年)10月3日に記す。ヤマト王権が設定した佐野三家の管掌者に任命された健守命の子孫の黒売刀自が、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣と結ばれて生んだ児の長利僧が、亡き母である黒売刀自のためにこれを記した。放光寺の僧。」
ということになるようです。
日本の古墳には墓誌や墓碑が存在しないため、その古墳が誰の墓であるかがわからないわけですが、この山ノ上古墳はそれがわかっている!ということになります。素晴らしいですね〜。。。
ただし、これまでは、山ノ上古墳は黒売刀自のために、その息子である長利僧により681年頃に築造されたと考えられてきたのですが、近年では山ノ上古墳は7世紀前半から中頃の築造で、山上碑が建てられた681年よりも数十年古いのではないかと考えられています。もともと黒売刀自の親の墓として造られた後に、黒売刀自が追葬されたというのが真相であるのかもしれません。。。

「山上古墳」の古墳カードは吉井町の「多胡碑記念館」で配られているのですが、不覚にも記念館の写真を撮るのを忘れちゃったので、多胡碑記念館の敷地内をパチリ。
移築、公開されている2基の古墳を見学することができます。
左に見える片山1号墳は、元々は直径32.6m、周溝を含めると直径約50mを測る円墳で、墳頂中心より南に寄った位置から8.8mを測る長大な粘土槨が確認されています。墳丘そのものではなく、この粘土槨が移築されているようです。

南高原1号古墳は直径17mを測る円墳で、低い基壇を有する2段築成を呈しています。
南側から見ると開口する石室を見学することができ、また北側から見ると、葺石に覆われた墳丘を見ることができるという工夫がされています。

「山上古墳」のぐんま古墳カードも無事にゲット!
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
現地説明板
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- 2020/10/02(金) 23:33:17|
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ぐんま古墳カード その3。
今回は、高崎市八幡町に所在する「観音塚古墳」です。
この古墳は、現状の墳丘長が105メートルという大型前方後円墳です。
前方部の幅や高さが後円部を凌ぐという前方後円墳末期の特徴が見られ、前方部は4段、後円部は3段の構造であると考えられています。墳丘の周囲では周堀が確認されているようですが、二重であるのか一重であるのかはわかっていないようです。
築造は6世紀末から7世紀初めと推定されています。。。

後円部南に開口するのが、両袖式の横穴式石室です。
米軍による本土空襲が激しさを増してきた、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)3月、地元の人たちはこの観音塚古墳の大墳丘が防空壕の設置の格好の場所であると考え、後円部の横から掘削を始めたところ、未盗掘の巨大な横穴式石室に突き当たります。石室入口の閉塞構造を取り除くと、この地域一帯を支配していた大王が埋葬された当時のままの、豪華な副葬品が現れました。この大発見に遭遇した地元の人たちは、かけら一片までをすべて取り上げて丁寧に保管していたそうです。
この多量の副葬品は一括して国重要文化財に指定されており、銅承台付蓋碗や刀装具、透彫のある杏葉などは、日本の後期古墳出土品の中でも名品として知られているそうです。
考古学が成熟する以前の古墳の出土品はその多くが散逸していると思われる中、命を守るための防空壕の必要性が迫る中でのこのエピソードは、群馬の県民性を物語る素敵なエピソードだと思います。。。

通常は、観音塚考古資料館で懐中電灯をお借りして石室内部を見学できることができるのですが、今は新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、一時的に中止となっているようです。

ここからは、以前に来訪した時の古い写真です。
奥側の天井石が最大のもので、縦約4.7メートル、横約3.5メートル、厚さは約1.5メートルで、重さは30トンと推定されています。そして、石材の総重量は400トンを優に超えると考えられています。

石室内部から入口方向を見たところです。
石室内で地震に遭遇して万一天井石が崩れ落ちたらきっと痛いですよねえ。。。(いやきっと死ぬだろ)。。。

後円部から前方部を見たところ。
雑談ですけどね。
カードの配布が8月スタートなのはおそらく、子供達の夏休みに合わせてのことだと思うのですが、実際に古墳を巡っているのは大人たちではないかとも思えるし。
近年の夏の暑さはハンパじゃないし、何より古墳の見学は木の葉が落ちる冬が望ましいし、配布開始を冬にするとか、いい方法があればいいなあ。。。

前方部から後円部を見たところです。

この八幡台地においては3基の大型前方後円墳が確認されており、平塚古墳→八幡二子塚古墳→観音塚古墳の順に築造されたと推定されています。
そして、この3基の前方後円墳のちょうど真ん中あたりに「観音塚考古資料館」があります。
観音塚古墳の出土品はここで見ることができます。
もちろん古墳カードもここで引き換え。
ちなみにここに来るのは4回目。
群馬県民でもないのに、ヒマなんでしょうかね、私は。。。

資料館の敷地内には「八幡遺跡20号墳」が移築されて復元されています。八幡団地造成に伴い調査が行われた23基の古墳のうちの1基で、直径約12メートルの円墳であるそうです。

さ。これが「観音塚古墳」のぐんま古墳カードです!
やっぱり石室がピックアップされています。
墳丘全体を捉える写真を撮るのはちょっと難しいですしね。
いい感じです!
<参考文献>
上毛新聞社『群馬の古墳物語〈下巻〉』
現地説明板
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- 2020/10/01(木) 04:21:02|
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