新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
- 2023/01/01(日) 00:35:20|
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画像は、宇都宮市上戸祭町2丁目所在の「高龗(たかお)神社」です。
主祭神は高龗神というこの神社は旧村社で、創始年代は不詳とされています。昭和16年8月に無格社湯殿神社を境内社として合祀。他に水神社、八坂神社を祀っています。
この神社の境内には「妙吉塚」と呼ばれる高塚が存在します。

じゃん!これが妙吉塚です。
栃木県の遺跡番号2263番、宇都宮市の遺跡番号124番に登録されており、中世の塚であるとされています。
規模は直径約12m、高さ約3mの円墳状の塚で、塚の頂部には宝篋印塔が安置されています。

塚の頂部、宝篋印塔の様子です。
笠の上の相輪が欠けているものの、塔の基礎・塔身・笠はほぼ完全な状態で残されています。
基礎部の南面には「大工国行」、北面には「大工賢阿」、西面には「至徳四丁卯八月七日 聖金剛仏子妙吉(言?)」と刻まれています。
至徳四丁卯(しとくひめとう)とは北朝の年号で西暦1387年のことで、金剛仏子(こんごうぶっし)とは密教で、灌頂・受戒を遂げて金剛号を受けた僧侶のことだそうです。
問題になっているのが「妙吉」の文字で、見方によっては「妙吉」とも読めるものの「妙言」と刻まれているようでもあります。
妙吉であれば、室町時代に京都の天龍寺を開いた高僧夢窓礎石の弟子で、足利直義(尊氏の弟)の信任をえて高師直と対立して京都を逃れた僧侶ということになるようです。
不確かな伝承ではあるものの、京都を逃れた妙吉は、黒羽町の雲巌寺などを訪ね歩き、すでに老齢であったことから宇都宮の地で生涯を終えたといい、妙吉塚は妙吉の墓であると伝えています。
しかし、妙吉ではなく「妙言」であれば、如何なる人物であるのかまったく不明となります。
ただ一つ間違いないのは、妙吉、妙言のいずれであってもこの塚は墳墓ではなく、四徳四年(1387)に築かれた供養塚である、ということです。。。

ちょっと角度を変えて、南側の路上から見た妙吉塚です。
見た目は古墳ぽいのですが、古墳ではないのですね。。。

塚の西側を走る道路が、塚を避けるように弧を描いているのが印象的です。
古墳、アルアルですよね。

妙吉塚の東側には、「妙吉安産子育高地蔵尊」と呼ばれる地蔵尊を納めた地蔵堂があります。
背後に見えているのが妙吉塚です。。。

お地蔵様です。
私には子供はいませんけどね。
でもやっぱりちゃんと参拝するわけです。。。

そして、塚の裾に建つ「高地蔵大菩薩供養塔」の石碑。
伝承によると、かつてこの戸祭村に神殿の四郎と呼ばれた大男が住んでいました。
四郎は自分の背丈を後世に残そうとして一丈(約3メートル)の石柱を建て、その前には座った時の高さを示す五尺(約1.5メートル)の石塔を置いたそうです。
<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
宇都宮市教育委員会『宇都宮の旧跡』
塙静夫『うつのみやの歴史再発見』
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- 2022/06/15(水) 22:51:27|
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今回は、鹿沼市上殿町に所在する「大門宿古墳」のの探訪の記録です。
鹿沼市の遺跡番号134番、栃木県の遺跡番号3056番に登録されている塚です。

北西から見た「大門宿古墳」です。
塚は、個人の敷地内に残されていますが、北側は道路により若干削られて石垣で土留めされています。
「大門宿古墳」の名称の通り、かつては古墳ではないかと考えられており、平成23年に発刊された『鹿沼市遺跡分布地図』には、「古墳時代の古墳」として登録されていますが、備考欄には「近世の塚の可能性あり」とも書かれています。
その後、令和2年に発行された『酒野谷原塚』に掲載されている「酒野谷原塚 周辺遺跡一覧表」では種別が「塚」と変更されており、「現況では一辺12m、高さ3.1m の方形で、古墳の可能性も考えられたが、調査の結果塚の可能性が濃厚になった。かつて、塚からは土師質土器、経石の出土が伝えられている。」と書かれています。
これらの文献からすると、どうやら古墳ではなく、塚である可能性が高そうです。。。

南西から見たところ。
土地の所有者の奥様にお話をお聞きできたのですが、この塚は地元では「和尚塚」と呼ばれているそうです。
塚の名称は、「大門宿古墳」ではなく「和尚塚古墳」が適当なのではないかとも思いますが、鹿沼市内の塚の名称には、ほとんど地名がつけられているようですし、そういうことなんですよね、きっと。。。
かつて、塚を掘ってみたところ、何も出土しなかったという言い伝えがあるそうで、土地の所有者の奥様も、古墳ではなく塚なのではないか?とおっしゃっていました。
経石の出土の伝承と塚の名称からして、塚は「経塚」なのでは?と妄想したくなりますが、今のところ真相はわかりません。。。

土地の所有者にお願いして、塚の上に登らせていただきました。
キレイに草が刈られていて、塚上にはおいなりさんの祠が祀られていました。。。

塚上の祠の様子です。
楽しく見学させていただきました。
ありがとうございました。
<参考文献>
鹿沼市教育委員会『鹿沼市遺跡分布地図』
栃木県教育委員会『酒野谷原塚 一安全な川づくり事業費(補助)一級河川大声川に伴う発掘調査ー』
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- 2021/08/22(日) 18:47:51|
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東武日光線新鹿沼駅から西に向かって移動中、偶然にも田んぼの中に塚らしき光景を見つけました。
今回は、この鹿沼市酒野谷に所在する無名の塚を紹介します。

北側から近寄ってみました。
道路は、田んぼの中に土を盛って造られていて、かなりの高低差があります。
元々この場所にあった塚が、あとから造られた道路に取り込まれてしまったのか、はたまた別の場所から移設された塚なのか、真相はわかりません。
帰宅後に『鹿沼市遺跡分布地図』で確認してみましたが、この塚は登録されていないようです。。。

南から見たところ。
塚の上には神さまが祀られているようなので、早速、お詣りします。

西から見た塚の様子です。
人工的に盛られた塚である気がしますが、正体不明です。。。

塚の上の祠のようす。
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- 2021/08/21(土) 23:49:38|
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「酒野谷原塚」は、鹿沼市酒野谷にかつて所在した塚です。
鹿沼市の遺跡番号262番、栃木県の遺跡番号2991番に登録されている塚です。
実は、真の酒野谷原塚は、もうすでに消滅しています。
かつては、この場所の南方の大芦川沿岸の微高地に隅丸方形状の塚があり、令和元年8月から10月にかけて発掘調査も行われました。
しかし、関東・東北地方に甚大な被害もたらした台風19号により、鹿沼市内でも各所で堤防決壊や河川氾濫が起こり、調査現場でも大芦側は新堤防際まで増水。調査区も完全に水没して、確認出来ない状態となりました。
調査区までの通路である旧堤防も完全に流失。調査途中で遺構は失われてしまい、塚の構築時期等は明確に出来なくなったそうです。
異常気象による記録的豪雨は、浸水被害や土砂崩れ等をもたらしており、大きな社会問題となっています。
こうした災害により塚や古墳が流されて消失したという事例は初めて知りましたが、人的被害が出なかったことは本当に不幸中の幸いだと思います。。。
画像は酒野谷原塚の様子です。

かつては、地元の人たちの間では巨大な榎の大木がある水天宮様として知られ、年に一回、酒野谷集落の総鎮守落合神社の神主により祭祀が行われていたそうです。
明治時代にはすでに塚の上には大木が存在しており、塚を壊したら罰が当たると言い伝えられており、地元の人々により定期的に塚の清掃が行われていました。
塚についての伝承・文献はなく、塚の構築時期についてはわからないようですが、長い間、水難の神様として信仰されてきました。
遺構は災害により消失。塚の構築時期等は明確にされませんでしたが、塚の構築状況・平面形・石堤・文献などから、江戸時代の前半の早い時期に構築された可能性が考えられているようです。

塚状の祠の様子です。
この現在の塚を「酒野谷原塚」と呼んで良いものかどうかは実はよくわからないのですが。笑。
河川沿いの堤防上に作られた高まりの上に(というよりは堤防の一部という感じですが)小さな石祠が祀られており、石段を登って参拝することができます。
かつての酒野谷原塚上にあった水天宮さまがこの祠であると思われます。。。
<参考文献>
鹿沼市教育委員会『鹿沼市遺跡分布地図』
栃木県教育委員会『酒野谷原塚 一安全な川づくり事業費(補助)一級河川大声川に伴う発掘調査ー』
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- 2021/08/16(月) 22:44:31|
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今回は、鹿沼市中粟野に所在する「中粟野板名塚」の探訪の記録です。
画像は、中粟野板名塚を北から見たところです。
この塚は、栃木県の遺跡番号2929番、鹿沼市の遺跡番号350番に登録されている塚で、粟野川左岸の沖積台地上の畑地内に所在します。

平成23年(2011)に鹿沼市教育委員会により発刊された『鹿沼市遺跡分布地図』によると、規模は東西径6m、南北径13m、高さ2mで、中世の塚であるということですが、塚の性格まではわかりませんでした。。。

塚には石段が設けられており、塚上には祠が祀られているようです。

塚上の様子です。
小さな石祠が祀られていました。

塚の南方50メートルほどにある稲荷神社を参拝しました。

社殿の周囲が小高くなっていて、ここも塚の跡なのかな?と思えるような地形です。

社殿建築により削られた塚の残骸、という印象ですが、真相は不明です。

<参考文献>
鹿沼市教育委員会『鹿沼市遺跡分布地図』
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- 2021/08/14(土) 23:07:46|
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画像は、鹿沼市西鹿沼町に所在する「塚越塚」です。
栃木県の遺跡番号2929番、鹿沼市の遺跡番号168番に登録されている塚です。
かなり大きな塚で、路上からでも見学することができます。この塚は個人の敷地内に存在しますが、
ちなみにこの地域の小字名は「塚越」で、この塚が地名の由来であると思われます。。。

北西から見た塚越塚です。
実際に現地で見学すると、遺存状態は良く、かなり大きく感じられます。
平成23年に鹿沼市教育委員会により発刊された『鹿沼市遺跡分布地図』には、規模について「径6m、高さ1.5m」と書かれているのですが、『酒野谷原塚』に掲載されている「酒野谷原塚 周辺遺跡一覧表」には「径6m、高さ約4m」と書かれており、こちらが実際の塚の規模に近いように思います。
近世の塚とされているようですが、塚の性格については不明で、発掘調査も行われていないようです。
<参考文献>
鹿沼市教育委員会『鹿沼市遺跡分布地図』
栃木県教育委員会『酒野谷原塚 一安全な川づくり事業費(補助)一級河川大声川に伴う発掘調査ー』
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- 2021/08/08(日) 20:22:28|
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今回も、栃木県鹿沼市に所在する塚を紹介します。
場所は、東武日光線北鹿沼駅から東に300~400mほど、鹿沼市玉田町の山野井肉店というお肉屋さんの目の前に「こうけ塚」と刻まれた石碑が建てられています。

この塚は「公卿塚」ともいわれ、藤原藤房の塚との伝説が残されています。
かつては土で盛られた塚が存在したようなのですが、残念ながら削平されて消滅しています。
残存当時は塚の中が空洞のような音がしたといわれており、これは、ひょっとしたら石室が設けられた古墳だったのでは?とも想定したくなるような興味深い言い伝えです。
また、刀や鎧などが出土したという伝承もあるようですが、これらの出土品も散逸してしまって、残されていないようです。
旧今市市や日光市には古墳は存在しないようなので、この塚が古墳であれば、黒川流域で最も北にある古墳、ということになると思われますが、塚が消滅してしまった今、残念ながら真相を知ることはできないようです。。。

鳥居が建てられており、境内には石祠や記念碑があります。
<参考文献>
鹿沼史談会『鹿沼さとめぐり』
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- 2021/08/07(土) 23:03:54|
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今回も、栃木県鹿沼市に所在する塚を紹介します。
場所は鹿沼市見野の城宝寺近く、県道板荷玉田線から北東に50~60メートルほど入ったあたりに、複数の塚が密集して存在する場所があります。
『鹿沼市遺跡分布地図』にも登録されていない塚なのですが、この地域は古くから「御山塚(おやまづか)」と呼ばれるところです。
あるんですよねー。人知れず、こうした塚群が。。。
早速、近寄ってみましょう。

こ~んな感じで、大小さまざまな塚が密集しています。
この場所だけでも5~6基の塚が確認できますが、かつては周辺の畑にも数基の古い塚があったものの、戦後の耕地整備のために取り壊されてしまったといわれています。
塚の由来は明らかではなく、また学術的な調査は行われていないため、塚の性格はわかりません。

西側の、一番大きな塚の様子。
絵的には、この塚が一番古墳っぽいかも。笑。
塚の頂部には祠が祀られています。

東側の、塚が密集する場所です。
やはり祠が祀られています。

仏様が祀られている場所。
やはり、わずかながら塚状に盛り上がっています。

これも小さな塚。
高さ50Cmほどの塚状には庚申供養塔が建てられています。
<参考文献>
鹿沼史談会『鹿沼さとめぐり』
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- 2021/08/05(木) 20:13:57|
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今回は、鹿沼市中粟野に所在する「中粟野板名塚」の探訪の記録です。
中粟野板名塚は、栃木県の遺跡番号8332番、鹿沼市の遺跡番号350番に登録されており、黒川左岸の沖積台地上の、田園の中の小さな墓地内に残存します。
画像は、南から見た中粟野板名塚です。
平成23年発刊の『鹿沼市遺跡分布地図』によると、塚は中世の築造と考えられており、規模は東西径6m、南北径13m、高さ2mとされています。
ちなみにこの周辺は縄文時代の集落跡で、「中粟野板名」として登録されており、耕地整理の際には石囲い炉が確認され、打製石斧が出土しているようですが、塚自体の発掘の記録は見つからず、塚の性格まではわかりませんでした。。。

南西から見た中粟野板名塚の様子です。
青々とした稲穂の中に浮かぶ塚の写真が撮りたくて真夏に訪れましたが、墓地内に所在する塚ということで、周囲はしっかりと整備されており、藪になっていなくてよかった。。。
<参考文献>
鹿沼市教育委員会『鹿沼市遺跡分布地図』
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- 2021/08/04(水) 17:37:31|
- 鹿沼市の古墳・塚
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