
「稲荷塚古墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在する古墳です。
砧中学校古墳群より低位の南側に広がる立川段丘上に、6世紀頃から展開する喜多見古墳群中の1期で、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されており、現在は「世田谷区立稲荷塚古墳緑地」という史跡公園内に保存、公開されています。
画像はこの、稲荷塚古墳緑地を西から見たところです。

画像の、円形の植え込みの中に古墳が保存されています。
最初にこの古墳を訪れた時に設置されていた説明板には、次のように解説されていました。
世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日
この古墳は直径約十三メートル、高さ約二、
五メートルの円墳で、周囲に幅約二、五メー
トルの周溝がめぐっている。
長さ六メートルの横穴式石室は、凝灰岩切石
で羽子板形に築造されている。調査は昭和三
十四年と昭和五十五年に行われ、石室内から
圭頭大刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、
土師器、須恵器が出土している。出土品は、
昭和六十年二月十九日に区文化財に指定され、
世田谷区立郷土資料資料館に展示されている。
古墳時代後期七世紀の砧地域の有力な族長
墓と考えられる。
昭和六十一年十一月
世田谷区教育委員会

そして、最近建て替えられたらしき新しい説明板の解説は次のような感じ。
世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日
この古墳は、直径約十三メートル、高さ約二、五メー
トルの円墳で、周囲に幅約二、五メートルの周溝がめ
ぐっています。
埋葬施設は横穴式石室で、長さは六メートル、凝灰
岩切石を積み上げて羽子板状につくられています。発
掘調査は、昭和三十四年と昭和五十五年に行われ、石室内か
ら圭頭大刀、直刀、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器
が出土しています。出土品は、昭和六十年二月十九日
に区文化財(考古学資料)に指定され、区立郷土
資料資料館に展示されています。
古墳時代後期七世紀初めころの有力な族長墓と考え
られています。
昭和六十一年十一月
世田谷区教育委員会
解説文がまったく同じではなく、ほーんのちょっとだけ変わっているところが面白いです。。。

植え込みの中に保存されている墳丘の様子です。
葺石があったと推定されているようです。
喜多見古墳群中、唯一横穴式石室が確認されている古墳ですが、喜多見古墳群中に多く見られる埴輪は、この古墳からは確認されていないようです。

画像は、世田谷区立郷土資料館にて展示されている「稲荷塚古墳」の墳丘の模型です。
こうして見るとわかりやすいですね。

稲荷塚古墳からの出土品は、やはり世田谷区立郷土資料館で見ることができます。
画像は、玄室の奥壁に沿って出土した「圭頭大刀」です。

土師器。

左から、耳環、練玉、ガラス小玉。
別にわざわざ書かなくても、画像の中に書いてありますわな。。。

鉄鏃、鉄製刀子です。
どうも、今のところ緊急事態宣言が解除される空気ではないようですね。。。
このブログを見て古墳に興味を持つ人がいたらいいなあとか、見学の際に迷わず行けるようにこの『古墳なう』が役立てばいいなあとか気楽なことを思っていましたが、そもそも出歩くこともままならない世の中になるなんて、ほんの数ヶ月前までは想像もしませんでした(もっともわたしは昨年末にぶっ倒れて入院していましたし、生きているだけでマシかもしれませんが)。
いずれ収束して元の生活に戻るというよりは、これをきっかけに世の中が色々と変わっていくのではないか?と思えてならないのですが、変化についていかなくてはいけませんね。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/04/30(木) 23:40:56|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「須賀神社」を東からみたところです。
この神社の社殿の土台となっている高まりは古墳であるといわれており、『東京都遺跡地図』には「天神塚古墳」の名称で、世田谷区の遺跡番号24番の古墳として登録されています。
神社の境内には世田谷区教育委員会による説明板が設置されていますが、これは区の指定無形民俗文化財である「須賀神社の湯花神事」の説明板で、古墳については特に何も書かれていないようです。
世田谷区指定無形民俗文化財
須賀神社の湯花神事
伝承地 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号 須賀神社
保持者 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号 宗教法人須賀神社
指 定 昭和六十二年三月二十五日
須賀神社は、承応年間(一六五二~一六五四)に喜多
見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まり
といわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。
湯花神事(湯立)は、例大祭の八月二日に執り行われ
る。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周
りに振りかける行事である。この湯がかかると一年間病
気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めている。
湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によ
って占いや託宣を行うのが本来の形であり、神意を問う
ことであった。
素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり、
都内でも数少ない行事となった。
平成十三年七月
世田谷区教育委員会
南西から見た天神塚古墳の様子です。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「前(第六天塚)ノ続ニアリ。高サ五尺許。塚上ニ天神・牛頭大王ノ小祠ヲ二ツタツ。東向。」と書かれています。
同書が書かれた当時は祠が祀られており、高さは約1.5mということですので、現在よりは高さが残されていたようです。

南側から見た天神塚古墳。
現在は、墳頂に須賀神社の社殿が建ち、墳丘の東側と南側は階段、西側は石垣、北側は石垣と道路により崩されています。古墳は神社の基壇のような状況になってしまっているので、知らなければ古墳であるとはわからないかもしれません。
でもね、こう、ちょっと目を細めてみると、古墳が好きな人ならね。
ちゃんと古墳に見えるんです。笑。

北西から見た天神塚古墳。

墳丘上の様子です。
推定径約16~17m、残存墳丘の高さは1m前後で、円墳と推定されています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/04/29(水) 19:24:44|
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画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「第六天塚古墳」を北西から見たところです。
『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されています。
喜多見古墳群中最も保存状態が良いとされている古墳で、墳丘は竹藪となっています。
北側に世田谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
世田谷区指定史跡(古墳)
第六天塚古墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目三番
指 定 昭和五十七年三月二十三日
古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。
昭和五十五年(一九八〇)と昭和五十六年(一九八一)
の世田谷区教育委員会による。墳丘及び周溝の調査
によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認され
た。
これにより本古墳は、直径二十八・六メートル高さ
二•七メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅六•八~
七•四メートル下端幅五•二~六•七メートル深さ五十
八十センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有
し、これらを含めた古墳の直径は三十二~三十三メ
ートルとなることが判明した。またこの調査の際に、
多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は、墳頂下六十~七十センチの位置に、長
さ四メートル幅一•一~一•四メートルの範囲で礫の
存在が確認されていることから、傑標ないし礫床で
あると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿 」による
と、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が
生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中
世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の
塚として再利用されていたことも考えられる。
昭和五十九年三月
世田谷区教育委員会

西から見た第六天塚古墳です。
近世のこの土地は喜多見村字陣屋と呼ばれ、江戸時代初期に喜多見若侠守の陣屋(屋敷)の一隅として築山に用いられてきたと伝えられています。
『四神地名録』には「華林院の傍に古墳と覚しき岳有り。しるしの松一本有りて、至而の老樹也。風土記郡のうちに墳有る事を記せり。若し是らの墳にゃ、穿て見度もの也。」とあり、『新編武蔵風土記稿』の喜多見村の項には、「第六天塚 字天神森ニアリ、則慶元寺ノ前ナリ、松ノ大樹アリ、塚ハ高サ八尺許。」と書かれています。
大正年間に朽ちて伐採されたという松の大樹は樹齢数百年の大木であったようですが、これは墳丘の北側にあったようです。よく見ておけばよかったですね。。。
画像の手前の道路にあたる、墳丘の西側には「あぜっぽり」と称する幅3~4m前後の空堀があって、戦後にそこを埋め立てて瓦礫を2m以上の厚さで入れて、周りの土地より少し高くして、現在の区道となったようです。
平成5年(1993)にはこの区道で発掘調査が行われ、墳丘西側は大きく削られており、本来の墳丘は最大約7m西側まで存在していたことがわかっているようです。

南西から見た第六天塚古墳。
主体部は、ボーリング調査により、東西に主軸を持つ礫槨ないし礫床の存在が想定されています。

墳頂部の様子。
稲荷を祀るという木製の祠が現存します。これは、もともとは北西の墳端近くにあったものを移動したものだそうですが、少々朽ち果てた印象です。祠を移した際に、墳頂平坦部をならしたりすることはなかったようです。

墳丘には思わせぶりな河原石が見られます。
まだまだ不明な点も多い第六天塚古墳ですが、今後の調査の進展が楽しみでもあります。
いつか、お天気の良い日に現地説明会とかあったらいいですよね。
解説をゆっくり聞いて、石室を見学したりして。
コロナ騒ぎが早く収まったらいいですね。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『1993年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
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- 2020/04/28(火) 18:00:36|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見7丁目にあるを東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号260番の「塚(円墳)」として登録されています。
「かなくそやま」という衝撃的なネーミングに魅かれて見学に行ってみたわけですが、まずこの「かなくそ」とはなにか調べてみたところ、金属を製錬する際に、溶融した金属から分離して出てきたカスのことを指すようです。実際にこの土地の祖先は鍛治を何代もやり、江戸時代の初め頃には喜多見藩の下で刀鍛治をやっていたという伝承もあるそうで、そのかなくそを穴を掘っては積み、塚になったそうです。
この「かなくそやま」は、1980年の「喜多見古墳群」の調査準備中に発見されました。表面観察や実測調査、聞取調査の結果、下記のように報告されています。
「かなくそやまは、①近世の鉄滓の集積した塚で、鍛治師の信仰の場でもあった。②古墳を利用してかなくそも積まれた。の2つの可能性が考えられるが古墳の積極的な証拠のない点では、②の可能性が強い。
喜多見氏の鍛治に伴う遺構として地域史の上でも重要であり、また区内唯一の鉄滓遺跡である。(『喜多見古墳群Ⅰ』19ページ)
墳頂部には祠があり、豊川稲荷の内宮と明治神宮の内宮が収められているそうです。『東京都遺跡地図』のインターネット公開版では、”径6m、高さ1.5mの近世の塚(円墳)”とされています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群Ⅰ』
- 2015/02/28(土) 01:17:03|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる「宮之原1号墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号315番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳も、前回紹介した陣屋支群に属する古墳同様に墳丘がすでに失われており、土地区画整理事業に伴う発掘調査により発見された古墳です。外径は32.8m、墳丘規模は26.2mで、埋葬施設は横穴式石室が推定されています。
古墳の周辺はすでに宅地化されており、痕跡は何も残されていないようです。
南東には慶元寺古墳群や陣屋古墳群のほか、「稲荷塚古墳(世田谷区指定史跡)」や「第六天塚古墳(世田谷区指定史跡)」、「天神塚古墳」等、多くの古墳が存在していますが、この「宮之原1号墳」は北西に少し離れたところにポツリと存在します。この古墳の存在が明らかになったことにより、広い地域に古墳群が形成されていたのではないかと考えられています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・喜多見陣屋遺跡第20次調査会『喜多見古墳群Ⅴ 慶元寺3号墳』
世田谷区教育委員会『1998年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
- 2015/02/27(金) 02:05:50|
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