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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「稲荷塚古墳」ー世田谷区指定史跡ー

「稲荷塚古墳」1

 「稲荷塚古墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在する古墳です。

 砧中学校古墳群より低位の南側に広がる立川段丘上に、6世紀頃から展開する喜多見古墳群中の1期で、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されており、現在は「世田谷区立稲荷塚古墳緑地」という史跡公園内に保存、公開されています。

 画像はこの、稲荷塚古墳緑地を西から見たところです。


「稲荷塚古墳」2

 画像の、円形の植え込みの中に古墳が保存されています。

 最初にこの古墳を訪れた時に設置されていた説明板には、次のように解説されていました。

世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日

 この古墳は直径約十三メートル、高さ約二、
五メートルの円墳で、周囲に幅約二、五メー
トルの周溝がめぐっている。
 長さ六メートルの横穴式石室は、凝灰岩切石
で羽子板形に築造されている。調査は昭和三
十四年と昭和五十五年に行われ、石室内から
圭頭大刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、
土師器、須恵器が出土している。出土品は、
昭和六十年二月十九日に区文化財に指定され、
世田谷区立郷土資料資料館に展示されている。
 古墳時代後期七世紀の砧地域の有力な族長
墓と考えられる。
    昭和六十一年十一月
           世田谷区教育委員会




「稲荷塚古墳」3

 そして、最近建て替えられたらしき新しい説明板の解説は次のような感じ。

世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日

 この古墳は、直径約十三メートル、高さ約二、五メー
トルの円墳で、周囲に幅約二、五メートルの周溝がめ
ぐっています。
 埋葬施設は横穴式石室で、長さは六メートル、凝灰
岩切石を積み上げて羽子板状につくられています。発
掘調査は、昭和三十四年と昭和五十五年に行われ、石室内か
ら圭頭大刀、直刀、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器
が出土しています。出土品は、昭和六十年二月十九日
に区文化財(考古学資料)に指定され、区立郷土
資料資料館に展示されています。
 古墳時代後期七世紀初めころの有力な族長墓と考え
られています。
    昭和六十一年十一月
               世田谷区教育委員会


 解説文がまったく同じではなく、ほーんのちょっとだけ変わっているところが面白いです。。。


「稲荷塚古墳」4

 植え込みの中に保存されている墳丘の様子です。
 葺石があったと推定されているようです。
 喜多見古墳群中、唯一横穴式石室が確認されている古墳ですが、喜多見古墳群中に多く見られる埴輪は、この古墳からは確認されていないようです。


「稲荷塚古墳」5

 画像は、世田谷区立郷土資料館にて展示されている「稲荷塚古墳」の墳丘の模型です。
 こうして見るとわかりやすいですね。


「稲荷塚古墳」6

 稲荷塚古墳からの出土品は、やはり世田谷区立郷土資料館で見ることができます。
 画像は、玄室の奥壁に沿って出土した「圭頭大刀」です。


「稲荷塚古墳」7

 土師器。


「稲荷塚古墳」8

 左から、耳環、練玉、ガラス小玉。
 別にわざわざ書かなくても、画像の中に書いてありますわな。。。


「稲荷塚古墳」9

 鉄鏃、鉄製刀子です。


 どうも、今のところ緊急事態宣言が解除される空気ではないようですね。。。

 このブログを見て古墳に興味を持つ人がいたらいいなあとか、見学の際に迷わず行けるようにこの『古墳なう』が役立てばいいなあとか気楽なことを思っていましたが、そもそも出歩くこともままならない世の中になるなんて、ほんの数ヶ月前までは想像もしませんでした(もっともわたしは昨年末にぶっ倒れて入院していましたし、生きているだけでマシかもしれませんが)。
 いずれ収束して元の生活に戻るというよりは、これをきっかけに世の中が色々と変わっていくのではないか?と思えてならないのですが、変化についていかなくてはいけませんね。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/04/30(木) 23:40:56|
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「天神塚古墳」

「天神塚古墳」1

 画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「須賀神社」を東からみたところです。
 この神社の社殿の土台となっている高まりは古墳であるといわれており、『東京都遺跡地図』には「天神塚古墳」の名称で、世田谷区の遺跡番号24番の古墳として登録されています。

 神社の境内には世田谷区教育委員会による説明板が設置されていますが、これは区の指定無形民俗文化財である「須賀神社の湯花神事」の説明板で、古墳については特に何も書かれていないようです。

世田谷区指定無形民俗文化財
 須賀神社の湯花神事
伝承地 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号     須賀神社
保持者 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号 宗教法人須賀神社
指 定 昭和六十二年三月二十五日

 須賀神社は、承応年間(一六五二~一六五四)に喜多
見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まり
といわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。
 湯花神事(湯立)は、例大祭の八月二日に執り行われ
る。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周
りに振りかける行事である。この湯がかかると一年間病
気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めている。
 湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によ
って占いや託宣を行うのが本来の形であり、神意を問う
ことであった。
 素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり、
都内でも数少ない行事となった。
   平成十三年七月
                世田谷区教育委員会



「天神塚古墳」2

 南西から見た天神塚古墳の様子です。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「前(第六天塚)ノ続ニアリ。高サ五尺許。塚上ニ天神・牛頭大王ノ小祠ヲ二ツタツ。東向。」と書かれています。

 同書が書かれた当時は祠が祀られており、高さは約1.5mということですので、現在よりは高さが残されていたようです。

「天神塚古墳」3

 南側から見た天神塚古墳。
 現在は、墳頂に須賀神社の社殿が建ち、墳丘の東側と南側は階段、西側は石垣、北側は石垣と道路により崩されています。古墳は神社の基壇のような状況になってしまっているので、知らなければ古墳であるとはわからないかもしれません。

 でもね、こう、ちょっと目を細めてみると、古墳が好きな人ならね。
 ちゃんと古墳に見えるんです。笑。


「天神塚古墳」4

 北西から見た天神塚古墳。


「天神塚古墳」5

 墳丘上の様子です。
 推定径約16~17m、残存墳丘の高さは1m前後で、円墳と推定されています。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/04/29(水) 19:24:44|
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「第六天塚古墳」ー世田谷区指定史跡ー

「第六天塚古墳」1

 画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「第六天塚古墳」を北西から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されています。

 喜多見古墳群中最も保存状態が良いとされている古墳で、墳丘は竹藪となっています。
 北側に世田谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

世田谷区指定史跡(古墳)
第六天塚古墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目三番
指 定 昭和五十七年三月二十三日
古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。
昭和五十五年(一九八〇)と昭和五十六年(一九八一)
の世田谷区教育委員会による。墳丘及び周溝の調査
によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認され
た。
これにより本古墳は、直径二十八・六メートル高さ
二•七メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅六•八~
七•四メートル下端幅五•二~六•七メートル深さ五十
八十センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有
し、これらを含めた古墳の直径は三十二~三十三メ
ートルとなることが判明した。またこの調査の際に、
多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は、墳頂下六十~七十センチの位置に、長
さ四メートル幅一•一~一•四メートルの範囲で礫の
存在が確認されていることから、傑標ないし礫床で
あると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿 」による
と、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が
生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中
世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の
塚として再利用されていたことも考えられる。
   昭和五十九年三月
  世田谷区教育委員会



「第六天塚古墳」2

 西から見た第六天塚古墳です。
 近世のこの土地は喜多見村字陣屋と呼ばれ、江戸時代初期に喜多見若侠守の陣屋(屋敷)の一隅として築山に用いられてきたと伝えられています。
 『四神地名録』には「華林院の傍に古墳と覚しき岳有り。しるしの松一本有りて、至而の老樹也。風土記郡のうちに墳有る事を記せり。若し是らの墳にゃ、穿て見度もの也。」とあり、『新編武蔵風土記稿』の喜多見村の項には、「第六天塚 字天神森ニアリ、則慶元寺ノ前ナリ、松ノ大樹アリ、塚ハ高サ八尺許。」と書かれています。
 大正年間に朽ちて伐採されたという松の大樹は樹齢数百年の大木であったようですが、これは墳丘の北側にあったようです。よく見ておけばよかったですね。。。
 画像の手前の道路にあたる、墳丘の西側には「あぜっぽり」と称する幅3~4m前後の空堀があって、戦後にそこを埋め立てて瓦礫を2m以上の厚さで入れて、周りの土地より少し高くして、現在の区道となったようです。
 平成5年(1993)にはこの区道で発掘調査が行われ、墳丘西側は大きく削られており、本来の墳丘は最大約7m西側まで存在していたことがわかっているようです。


「第六天塚古墳」3

 南西から見た第六天塚古墳。
 主体部は、ボーリング調査により、東西に主軸を持つ礫槨ないし礫床の存在が想定されています。


「第六天塚古墳」4

 墳頂部の様子。
 稲荷を祀るという木製の祠が現存します。これは、もともとは北西の墳端近くにあったものを移動したものだそうですが、少々朽ち果てた印象です。祠を移した際に、墳頂平坦部をならしたりすることはなかったようです。


「第六天塚古墳」5

 墳丘には思わせぶりな河原石が見られます。
 まだまだ不明な点も多い第六天塚古墳ですが、今後の調査の進展が楽しみでもあります。

 いつか、お天気の良い日に現地説明会とかあったらいいですよね。
 解説をゆっくり聞いて、石室を見学したりして。
 コロナ騒ぎが早く収まったらいいですね。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『1993年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』


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  1. 2020/04/28(火) 18:00:36|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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「かなくそやま」

「かなくそやま」

 画像は、世田谷区喜多見7丁目にあるを東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号260番の「塚(円墳)」として登録されています。

 「かなくそやま」という衝撃的なネーミングに魅かれて見学に行ってみたわけですが、まずこの「かなくそ」とはなにか調べてみたところ、金属を製錬する際に、溶融した金属から分離して出てきたカスのことを指すようです。実際にこの土地の祖先は鍛治を何代もやり、江戸時代の初め頃には喜多見藩の下で刀鍛治をやっていたという伝承もあるそうで、そのかなくそを穴を掘っては積み、塚になったそうです。

 この「かなくそやま」は、1980年の「喜多見古墳群」の調査準備中に発見されました。表面観察や実測調査、聞取調査の結果、下記のように報告されています。

 「かなくそやまは、①近世の鉄滓の集積した塚で、鍛治師の信仰の場でもあった。②古墳を利用してかなくそも積まれた。の2つの可能性が考えられるが古墳の積極的な証拠のない点では、②の可能性が強い。
 喜多見氏の鍛治に伴う遺構として地域史の上でも重要であり、また区内唯一の鉄滓遺跡である。(『喜多見古墳群Ⅰ』19ページ)


 墳頂部には祠があり、豊川稲荷の内宮と明治神宮の内宮が収められているそうです。『東京都遺跡地図』のインターネット公開版では、”径6m、高さ1.5mの近世の塚(円墳)”とされています。 

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群Ⅰ』

  1. 2015/02/28(土) 01:17:03|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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「宮之原1号墳」

「宮之原1号墳」

 画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる「宮之原1号墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号315番の古墳(円墳)として登録されています。

 この古墳も、前回紹介した陣屋支群に属する古墳同様に墳丘がすでに失われており、土地区画整理事業に伴う発掘調査により発見された古墳です。外径は32.8m、墳丘規模は26.2mで、埋葬施設は横穴式石室が推定されています。
 古墳の周辺はすでに宅地化されており、痕跡は何も残されていないようです。

 南東には慶元寺古墳群や陣屋古墳群のほか、「稲荷塚古墳(世田谷区指定史跡)」や「第六天塚古墳(世田谷区指定史跡)」、「天神塚古墳」等、多くの古墳が存在していますが、この「宮之原1号墳」は北西に少し離れたところにポツリと存在します。この古墳の存在が明らかになったことにより、広い地域に古墳群が形成されていたのではないかと考えられています。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・喜多見陣屋遺跡第20次調査会『喜多見古墳群Ⅴ 慶元寺3号墳』
世田谷区教育委員会『1998年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』

  1. 2015/02/27(金) 02:05:50|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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「喜多見古墳群 -陣屋支群-」

 世田谷区喜多見地区は、野川の南岸に広がる立川段丘の先端部にあたります。この周辺は古くから稲荷塚、第六天塚といった後期古墳が群集することで知られていましたが、近年の発掘調査により先土器時代から弥生、古墳時代の集落跡のほか、それまで伝承のみで実態がわからなかった喜多見氏陣屋跡なども確認されるなど、世田谷区内でも最も遺跡密度の高い地域となっています。
 喜多見古墳群はこれまでの調査で、陣屋支群で13基、慶元寺支群で7基、他に「稲荷塚」、「天神塚」、「第六天塚」、「宮之原1号墳」と、合わせて24基の古墳が確認されています。このうち、陣屋支群はその多くは墳丘が削平されていたために存在が知られていなかったものの、発掘調査により周溝が検出されたことで確認された古墳です。現在1~16号墳が報告されていますが、(ただし、1、8、10号墳は存在しないことがわかっています)ほとんどは宅地化され、古墳の痕跡を見ることは出来ません。


陣屋2号墳+16号墳

 画像は、狛江市から世田谷区に抜ける「水道道路」の喜多見3丁目周辺を東から見たところです。

 画像の左奥あたりに所在したのが「陣屋2号墳」で、発掘調査により周溝が検出されています。外周径約22.4m、内周径約17mのブリッジ付円墳で、周溝全域からかなり多くの埴輪片と土器片が出土しており、この円筒埴輪からこの古墳の築造は6世紀後半と考えられています。
 また、画像の左手前あたりに所在したのが「陣屋16号墳」です。外周径約13.5m、墳丘径約11mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明ですが、この古墳からも埴輪片が出土しています。


陣屋3号墳

 画像の畑地のあたりが「陣屋3号墳」です。
 この古墳は、規模や周溝については不明ですが、埋葬施設については玄室に川原石積、羨門部に泥岩切石を使用した、川原石・切石併用横穴式石室であるとされています。鉄蔟が出土しているようです。


陣屋4号墳

 画像の畑地のあたりが「陣屋4号墳」です。
 この古墳は、外周径約22m、墳丘径約14mの規模で、埋葬施設やブリッジの有無、埴輪や葺石については不明です。須恵器が出土しているようです。


陣屋5号墳+12号墳

 画像の畑地内に所在するのが「陣屋5号墳」と「同12号墳」です。
 陣屋5号墳は、外周径約24m、墳丘径約18.5mの規模で、かつては前方後円墳ではないかと考えられていましたが、現在は円墳であることがわかっています。周溝からは円筒埴輪片、土師器片、須恵器片が出土しており、6世紀後半の築造と推定されています。また、陣屋12号墳は、切石積横穴式石室を持つ、墳丘径約8mの円墳とされています。
 5号墳の所在地は集合住宅のあたりで痕跡は何も残されていませんが、12号墳に関しては畑地となっていることもあり、まだ地中に周溝が残されているのかもしれませんね。


陣屋6号墳

 画像が「陣屋6号墳」の所在地です。この古墳も周溝のみが検出されています。規模は、外周径約24m、墳丘径約18.5mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明です。この6号墳の周溝の覆土からは埴輪棺が検出されています。6世紀前半の築造と推定されています。


陣屋7号墳

 この「稲荷大明神」が祀られている周辺が「陣屋7号墳」の所在地です。
 画像の、鳥居と祠の後ろ側がうっすらと盛り上がっているように見えますので、墳丘がかろうじて残されているのかもしれませんが、この古墳は未発掘であるため詳細はわかりません。この土地を所有するご主人に聞いたところでは、周辺では陣屋遺跡の発掘が行われているもののこの古墳の発掘に関しては全く覚えがないそうで、古墳の存在すら知らないとのことでした。後日調べてみたところでは、どの古墳分布図を見ても7号墳の位置ははっきりと示されているものの発掘に関する記録は見つからず、比較的新しいと思われる『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』の「喜多見古墳群一覧表」でも7号墳の項には”円墳?”と書かれているのみで、規模や周溝、埋葬施設や遺物等すべて不明となっているようです。

 土地の所有者に許可をいただき、撮影させていただきました。ありがとうございました。


陣屋9号墳

 画像の、道路の右手あたりが「陣屋9号墳」の所在地です。外周径約24.5m、墳丘径約18mの円墳とされています。この古墳に関しては周溝墓の可能性も指摘されているようで、3世紀後半の築造と推定されています。


陣屋11号墳

 画像が「陣屋11号墳」の所在地です。この古墳からは横穴式石室の玄室部分が検出されています。半地下に構築された玄室の奥壁と側壁は泥岩の切石が使用されており、床面には小礫が敷かれています。外周径約20,5m、墳丘径約15.5mの円墳で、石室の形態から7世紀初頭の築造と推定されています。


陣屋13号墳

 画像が「陣屋13号墳」の所在地です。外周径約18.9m、墳丘径約13.9mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明です。覆土上層から土師器片、須恵器片が出土しており、この覆土の状況や出土土器から5世紀前半の築造と推定されています。


陣屋14号墳

 画像の、道路の左手あたりが「陣屋14号墳」の所在地です。外周径約44m、墳丘径約30mのブリッジ付円墳とされており、埋葬施設は切石積横穴式石室とされています。覆土から6~7世紀の築造と推定されています。


陣屋15号墳

 画像の、道路の右側あたりが「陣屋15号墳」の所在地です。周溝の一部のみの調査に限られているため埋葬施設やブリッジについては不明で、埴輪も出土していないようです。外周径約16.4m、墳丘径約11.2mの円墳とされており、覆土から6世紀前半の築造と推定されています。

<参考文献>
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1988』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1989』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1990』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1991』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1992』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1993』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1994』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 2009』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅳ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』

  1. 2015/02/25(水) 00:50:39|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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「慶元寺古墳群1号墳」

「慶元寺古墳群1号墳」

 「喜多見古墳群」が所在する「喜多見陣屋遺跡」は、多摩川中流域左岸の立川段丘上の和泉面上に立地しています。北西役1.3kmには「狛江古墳群」の岩戸支群が、また武蔵野段丘面には「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」、「大蔵古墳群」が、またその段丘崖には大くの横穴墓も分布しています。

 「慶元寺古墳群1号墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる、すでに消滅した古墳です。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号28-1番の古墳として登録されています。
 この古墳からは、削平したといわれる大正年間に直刀が3口出土していましたが、その後、正確な位置はわからなくなっていました。周辺からは埴輪片が採集されていることからおおよその位置は推定されていたようですが、その後の発掘調査により周溝が検出され、把握されています。
 規模は、外周で径約22m、内周で径約13mの円墳であると推定されていますが、墳丘の東側にくびれ部と思われる箇所が確認されており、造出し部の存在も考えられているようです。葺石には12×20cm程の河原石が使用されており、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪が検出されています。

 画像の道路の左側、集合住宅のあたりが古墳の所在地ですが、痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』
世田谷区教育委員会 世田谷区遺跡調査会『慶元寺1号墳•陣屋前遺跡 奥沢台遺跡他』

  1. 2015/02/24(火) 01:30:54|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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「慶元寺古墳群2号墳」

「慶元寺古墳群2号墳」

 「慶元寺古墳群2号墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる、言い伝えにのみ残されている古墳です。『東京都遺跡地図』には、消滅した古墳として世田谷区の遺跡番号28-2番に登録されています。

 この古墳は、慶元寺墓地の北東角に位置していたとも伝えられており、墓地内からは埴輪片が採集されています。恐らく、画像の畑地と慶元寺の墓地との境のあたりが古墳の推定地とされているようなのですが、遠目に見る限りでは古墳の痕跡を見ることは出来ません。形状は円墳と推定されているようですが、正確な跡地はわからなくなっているようです。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』

  1. 2015/02/23(月) 00:59:47|
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「慶元寺古墳群3号墳」

「慶元寺古墳群3号墳」

 画像は、世田谷区喜多見4丁目にある「慶元寺古墳群3号墳」を南西から見たところです。慶元寺の境内、本堂の南に位置する、世田谷区の遺跡番号28-3番にあたる古墳です。

 この古墳は慶元寺の築山として利用されており、ツツジ、ツバキ、ウメなどの樹木が植えられています。墳丘の現状は北東にやや張り出した楕円形をしており、直径は15~17m、高さは1.2~1.3mを測ります。周溝が確認されており、本来の墳丘は13.5m前後の円墳と考えられています。周溝覆土からは埴輪、土師器、須恵器など、多くの遺物が出土しています。


「慶元寺古墳群3号墳」

 墳頂東部には泥岩が露出しているとのことなのですが、これは確認できませんでした。

 この3号墳の北東25mには4号墳、北29mに5号墳、北北西39mに6号墳が所在しています。墳丘が残存する古墳のうち、4号墳~6号墳は通常非公開となっている日本庭園内にあるために見学は困難ですが、この3号墳は慶元寺境内に所在しており、いつでも見学する事ができます。周辺には喜多見稲荷塚、第六天塚、天神塚のほか陣屋1~16号墳が報告されており、喜多見古墳群を形成しています。
 

「慶元寺古墳群3号墳」

 画像のように、墳丘の南東側は一部、薬師堂により削平されています。埋葬施設の発掘調査はされていないようですが、1980年にボーリング探査が行われていて、西に入り口を向けた長さ4~5mの横穴式石室の存在が考えられているようです。このあたりは今後の調査が楽しみです。


「慶元寺古墳群3号墳」

 北側には「慈光観音菩薩像」が立てられています。参道の方から向かってくるとこの地点が墳丘であると勘違いしてしまいそうですが、墳丘の高まりが拡張されているそうなので、注意が必要ですね。
 ちなみに第二次大戦中にはこの下には防空壕が掘られていたそうです。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』

  1. 2015/02/20(金) 01:06:46|
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「慶元寺古墳群4号墳」

「慶元寺古墳群4号墳」

 画像は、世田谷区喜多見4丁目にある「慶元寺古墳群4号墳」を北から見たところです。慶元寺の境内、本堂裏の東に位置する、世田谷区の遺跡番号28-4番にあたる古墳です。

 この古墳は日本庭園の一部となっているので、墳頂部周辺には木々が植えられているほか北側にも大木が立っています。庭園を造る以前は6号墳と繋がっていたのを飛び石と道を造る際に削平したそうなので、かなり改変されているのではないかと思われます。現状は北辺7m、南北7m、高さ1mの不整形な三角形を呈していて、規模10mの円墳と推定されています。墳丘の封土が流された際に露出した小刀が採集されたことがあるそうで、またそれ以前に円筒埴輪片も採集されています。

 4号墳~6号墳の3基は日本庭園内に残されていますが、この庭園は通常非公開で見学することは出来ません。お正月の三ヶ日と彼岸中日にのみ公開されているようです。
 一昨年には「喜多見古墳物語」なるイベントで公開していたそうですが、その後は行われていないようです。

<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ 1981』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』

  1. 2015/02/19(木) 01:02:30|
  2. 世田谷区/喜多見古墳群
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