
今回は、大田原市湯津上に所在する「富士山古塚群」に探訪の記録です。
酢屋古墳群や下赤坂古墳群が所在する丘陵の西側の山林内にあり、道路沿いに並ぶ複数基の塚を見ることが出来ます。
『大田原市遺跡分布地図によると、「中世」に築造された「十三塚」であるとされており、どうやら古墳ではないようです。
確かに、塚が直線的に並んでいる様子は十三塚を想定することが出来ますが、残されているのは4〜5基といったところでしょうか。。。

残存する塚のうち最も大きな1基。
十三塚であるとすれば、この塚が13基並ぶ中央にあったのかな?と妄想してしまいます。
良好に残されていますね。。。

両脇には小さな塚が並びます。

これも意外と大きな1基。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
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- 2022/05/18(水) 22:22:00|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、大田原市佐良士に所在する「佐良士上の原古塚」の探訪の記録です。
この塚は、かつては「無名塚群」という名称で登録されていましたが、現在は「佐良士上の原古塚」という名称で、大田原市の遺跡番号413番、栃木県の遺跡番号1189番に登録されており、『大田原市遺跡分布地図』の分布図にも1基のみが記されています。
かつての「塚群」という名称から妄想すると、例えば以前は複数基の塚が存在したものの、現在は削平されて1基になっちゃった、みたいなことかな?というところですが、まずは見学してみないとわかりませんからね。
さっそく、散策してみましょう。

光丸山奥之院に向かう、長い参道を歩きます。
『大田原市遺跡分布地図』の分布図に記されている位置から判断すると、この参道途中の西側(左側)にあるはずなのですが、参道からは見当たりません。
さらに進みます。。。

結局、塚は見つからないまま光丸山奥之院に到着してしまいました。笑。
画像に見える通り、この奥之院のお堂自体も大きな塚の上に築かれています。
どうやら想像するに、かつての「無名塚群」の「群」は、この塚も含んでの名称だったのかも知れません。
この奥之院の土台は、つかではないという判断なのでしょうかね。。。
古墳じゃないのかな。。。

この塚状地形については『那須文化研究 第10号』の「湯津上村南部の遺跡」の項に記述が見られ、「中央丘陵の南端部に立地する光丸山奥の院近くには、径10m内外の低平な円墳状の1基存在する。奥の院自体も方形を呈した土盛り上に立地しているのも興味深いものである。ある種の信仰に伴って盛土が築かれる場合もあるので、それらが古墳であるという確証はないが、一つの興味深い遺跡として取り上げておきたい。」と書かれています。
確かに、古墳の可能性も考えたくなるようなかなり大きなマウンドですし、周辺地域の古墳の分布状況からしても、古墳の可能性は考えてしまいますよね。

塚の上から見下ろしてみたところ。
古墳であったなら上部はかなり削られていると考えられますが、それでもかなり高さが残されているのがわかります。

さて、肝心の古塚を探さなければ!ということで、参道を引き返して、『大田原市遺跡分布地図』の分布図に記されているあたりを藪の中に突入しました。笑。
ようやく見つけた、画像が「佐良士上の原古塚」です。

塚上の様子。
特に盗掘の跡なども見られない、綺麗なマウンドです。

ここから南西方向の箒川左岸の奥沢面上には「中嶋古墳群」なる古墳群も存在したそうです。(『栃木県文化財地図』や『大田原市遺跡分布地図』には記載はありませんが。)
周辺には多くの古墳が分布する中、那珂川と箒川の合流地点の台地上に立地するということで、古墳じゃないのかよ?と疑いたくなりますが、『大田原市遺跡分布地図』には「古塚」とあり、時代は「中世?」とはてなマークがつけられています。
学術的な調査は行われていないようなので、まだ真相はわからないというところなのでしょうか。
というわけで、今回は気になる塚群の探訪の記録でした。。。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
長谷川操「湯津上村南部の遺跡」『那須文化研究 第10号』
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- 2022/05/16(月) 23:21:48|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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画像は、那須郡那須町に所在する「下城古墳」を北西から見たところです。
元々は前方後円墳の後円部であるといわれていますが、現在はわずかな高まりが残されており、墳丘上には地蔵菩薩が建ちます。
那須町誌編さん委員会より発行された『那須町誌 前編』には、この下城古墳について次のように記されています。
伊王野下城の古墳は、石地蔵尊の載る地膨れである。前方後円墳の後円部が残り、その上が塔地になっているものとみられる。この地の明治の地租改正時の切絵図の地形が、前方後円墳を思わせるものであり、前方部が失われ、後円部の北を国道294号線により切られ、南東部を町堀の尻に切られた結果の現況とみる訳である。
素人目に、人為的に盛られた塚かもしれないな?とは思えますが、はたして本当に前方後円墳であったのか、またその規模や形状については詳細は不明です。

少々角度を変えて、北から見たところです。
墳丘上にはかなり多くの石塔が建てられています。
現在残された形状は三角形であるようです。。。

東から見たところ。
こちら側には用水路が造られていて、深く掘られています。

ちなみに、那須町内でその存在を確認できたのは、「舟戸古墳群」のほかに「唐木田古墳」、「竹ノ花古墳」、「下城古墳」の3基のみでした。
那須町のHPにはほかに、「上新田古墳群」という名称の古墳群が記載されているのですが、こちらはまったく詳細がわからず、所在地も特定できませんでした。。。

最も気になったのが、この石垣に使われた河原石です。
ひょっとしたら古墳が壊された際に出土した石室の石材なのではないか?と妄想したいところです。
石材に使用されて長い間土中に埋もれていた河原石はなんとなく見分けられる気がしていて、この石垣の河原石はそんな気がするのですよね。。。

北向きじぞう
寒い寒い冬の日、那須野が原を北へ北へと歩く人たちがいました。
「おっとう、寒いよう、腹が減ったよぅ・・・」
寒さとひもじさでみんなとても辛そうです。
その年は富士山が爆発し、天候は不順で、関東周辺でもお米も
野菜も全くとれなかったのです。多くの人々が住みなれた土地を
離れて、少しでも暮らしていけそうなところへ逃れていきました。
この家族も、米どころの出羽の米沢へ行けばきっと仕事も見つか
るだろうと思い、ひたすら歩いてきたのです。夕方頃、ひとつ
の村にさしかかりました。
「もうし、お尋ねいたしますが、このあたりは何というところで
しょうか」呼びとめられた男は答えました。
「伊王野っていうところだよ。ずいぶんやつれていつようだが、
どこへ行くんだね」
「はい、わしらぁ江戸近くの百姓でしたが、不作つづきでどうに
もならず、故郷を出てまいりました。これからヨネザワへ行こう
と思っています。ヨネザワへは、どう行けば良いのでしょう」
そういって男が指をさしたのは、伊王野の村人が ”ヨネサワ” と
呼んでいる長源寺の前から続く沢でした。
男は、子連れ夫婦が尋ねた出羽の米沢と伊王野のヨネサワを間違
えて教えてしまったのです。
子連れの夫婦は、男の話に元気を取り戻し、何度もお礼を言い
ながら、教えられた道に消えていきました。そのうしろ姿を男は
心配そうに見つめていました。
翌朝、降り積もった雪の中にうずくまり、子供を抱きかかえた
ままこごえ死んでいた子連れの夫婦が見つけられました。村人た
ちは悲しみ、その遺体を “シャカド山” に運び、塚をつくって手
厚く葬ってやりました。いつしかこの塚は「ガキ塚」と呼ばれる
ようになり、村人たちは土手の上に「ガキ塚」に向けてお地蔵様
を建てました。
お地蔵様は、今でも北側にある「ガキ塚」を、見つめて立って
います。それが「北向きじぞう」です。
「那須町の昔ばなし」より
この地蔵菩薩は、高さ170センチメートル、台石を含めると
約3メートルになる。背面には正徳五年(1715)の建立とあ
り、当時の専称寺の住職名、発起人等が刻まれている。
この時代は大きな災害があり、宝永四年(1707)には富士
山が爆発している。社会的にも不安で、米価は高騰し人々の生活
は荒廃していた。このような時代背景を持つ、この悲しい民話と
地蔵菩薩は同時に地域の里人の優しい心を伝えるものでもある。
「シャカド山」とは釈迦堂山であり、この地蔵菩薩の北方に位置
し、「ガキ塚」もあったといわれている。
なお、この地蔵菩薩が建つ地は城城古墳と呼ばれ、前方後円墳
であったという。その大部分が失われ、残った後円部のみが残り、
現在の形となっている。
那須町教育委員会
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
現地説明板
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- 2022/04/23(土) 19:00:43|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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正式名称を「竹ノ花古墳」と称するこの古墳は、那須郡那須町大字芦野小字下芦野に所在します。
学術的な調査が行われていないことから断定はされていないものの前方後円墳であるといわれており、もし前方後円墳であれば、栃木県内で最も北にある前方後円墳ということになります。
画像はこの竹ノ花古墳を北東からみたところです。
那須歴史探訪館でお聞きした情報では、「唐木田古墳や刑部天郭の南、竹ノ花遺跡の西麓緩斜面突端に墓地があり、その西端に前方後円墳の後円部とみられる部分が現存する。すぐ西隣は畑地になっているので、いつしか前方部が削取られたものとみられる。現存部径は6mほどである。標高250mほどであり、すぐ北にある渓流との比高2mほどである。」ということです。
このわずかな高まりは後円部?というよりは、実見した印象では左手前が前方部、右奥が後円部と感じられましたが、真相は謎です。

同じく、ちょっと角度を変えてみた竹ノ花古墳です。
やはり、後円部というよりは前方部の先端っぽく見えます。。。

後円部上ということになるでしょうか。
私の印象では前方部上ですね。笑。
墓地として使用されています。

西側の先端部分です。
私の印象としては後円部かな。。。
古墳であるとすれば、基底部は残されているようですが、墓地として転用されていることから改変はいちじるしく、築造当時の形状は妄想できません。
ただし、離れたところから目を細めてみると、あ、確かに前方後円墳かな?とも思えるのですけどね。。。

那須町の古墳については、遺跡地図がない(というか、あるのかないのかもよくわからなかった)ので、古墳の正確な所在地を把握するのもなかなかに大変でした。
所在地については、那須歴史探訪館にて色々と情報をいただきまして、やっとこさ行き着くことができました。(その節はありがとうございました。
那須町内に残存する古墳については、学術的な調査は行われていないことから塚の性格はわかりません。
今後の調査の進展により、実態が解明されることを期待したいです。。。
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
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- 2022/04/22(金) 19:40:22|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、那須郡那須町に所在する「唐木田古墳」の探訪記録です。
唐木田古墳は、大字芦野字若林の山地裾、西南向き斜面の竹林内に残存しています。芦野氏旧墳墓に隣接しており、標高は250m、平地からの比高は10mを測ります。
古墳は西南きで傾斜面にあり、規模は、前面の径11.0m、背面は最小で8.0m、高さは前面で4.0m、中心部で1.75m、傾斜の上方で1.30mです。
画像の竹林内に古墳は存在します。

画像は、唐木田古墳を北東からみたところです。
学術的な調査が行割れていないことから詳細はわかりませんが、その形状から方墳であると考えられているそうです。
う〜ん、、、現地で見学した印象としては円墳っぽかったけど、もう少し良くみてくればよかったかな。。。

南東から見た唐木田古墳です。
那須町文化協会のHPによると、持統天皇元年(686)、3年、4年に「以投化新羅人居下野」と、大陸からの渡来人を下野国に住まわせたという記録があり、この地域もその比定地と考えられているそうです。
古墳の名称でもある「唐木田」も「唐来た」で、ひょっとしたらこの古墳も、渡来人の墳墓であるのかもしれません。。。

古墳は那須町の記念物/史跡に指定されているのですが、那須町では遺跡分布地図が発行されていないために古墳の正確な位置をなかなか知ることができず、探すのに苦労しました。。。
もしこの唐木田古墳が古墳であると確認されれば、関東地方最北端のものであるという貴重な古墳です。
今後の調査の進展がとても楽しみですね。。。
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
那須町文化協会HP『那須町の文化遺産』
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- 2022/04/21(木) 19:43:54|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、大田原市南金丸の那須神社(金丸八幡宮)の探訪の記録です。
この神社の境内には「金丸塚」と呼ばれる古墳が存在します。
まずは早速参拝しましょう!

那須神社の一の鳥居。
樹齢450年ともいわれる杉並木が立ち並んでいます。
この神社は、人皇第十六代仁徳天皇の御代、下野国造奈良別命が国家鎮護のために本地清浄の地を選び、金瓊(金の玉)を埋めて塚を築き、祠を建てて天照皇大神・日本武尊・春日大神を祀ったのがはじまりです。
のちの延暦年中(782〜806)、征夷大将軍坂上田村麿東夷征討の時、森の中の古塚に小祠があったことから、ここに応神天皇を勧請して金丸八幡宮と号し奉り戦勝を祈ったといわれています。
主祭神は応神天皇、配神は別雷命、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、須佐之男命、火産霊神、武甕槌命、高麗神で、4世紀頃の創建という古社です。
古墳時代には既に存在したという、歴史ある神社ですね。。。

二の鳥居。
「金丸原」という地名は古くは「おうがはら」と呼ばれていたそうです。
金丸・奥沢・鹿畑の3地域にまたがる「原」という意味で明治末期まで使用されていましたが、明治45年(1912)に陸軍第14師団(宇都宮)の演習場がおうがはらに置かれると、「金丸原演習場」と名付けられ、一帯も「金丸原」と称されるようになったそうです。
塚の名前が正確には埋められたという金瓊(金の玉)が)、塚の名称になったわけですね。。。

国の重要文化財(建造物)に指定されている手水舟。
寛永19年(1642)、黒羽藩主の大関高増が、氏神である那須神社に所願成就のために奉納したものです。
高さ77cm、幅157cm、奥行90cmで、耐久性に優れた芦野石が用いられています。

那須神社の楼門は、寛永19年(1642)に黒羽藩主大関高増によって造営されたもので、国の重要文化財(建造物)に指定されています。
昭和56年(1981)の解体修理の際に、部材墨書から、楼門の造営に日光の大工が関わっていたことが判明しているそうです。
また、この神社の境内は「おくのほそ道の風景地」として国の名勝としても指定されています。

那須神社本殿も、黒羽藩主大関高増(1611〜1646)により寛永18年から19年(1641〜1642)に造営されたもので、国の重要文化財(建造物)に指定されています。
中世の形式や技法の継承による古い要素と、桃山建築の粋が発揮された新しい要素が共存した、中世から近世への転換期に位置づけられる重要な本殿建築です。

これが「金丸塚古墳」です。
本殿の背後、北側に存在します。
平成29年(2017)に発刊された『大田原市遺跡分布地図』によると、金丸塚は大田原市の遺跡番号232番、栃木県の遺跡番号605番の「古墳」として登録されており、その形状から方墳ではないかと考えられているようです。
古墳が集中する那珂川流域から距離があり、また周辺に古墳の存在が極めて少な立地的な状況と残存する塚の形状からすると、塚は古墳ではなく何らかの宗教的な意図を持って造られた「塚」なのでは?とも考えたくなりますが、那須神社の由緒からすると、塚は古墳時代にはすでに存在していたようです。
金丸塚が古墳であるのか塚であるのか、このあたりは今後の調査の進展を待つしかなさそうですね。。。

角度を変えてみたところ。
画像では少々わかりにくいですが、方形の形状が見えるでしょうか。

この角度から見ると、墳丘の形状に沿って植え込みがあることから方形の形状が確認しやすいですね。
御朱印をいただけたらなあと考えているので、チャンスがあればもう一度訪れたい神社です。
<参考文献>
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
現地説明板
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- 2021/10/28(木) 21:14:56|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回紹介するのは、大田原市南金丸に所在する「箱塚」です。
大田原市の遺跡番号236番、栃木県の遺跡番号9057番に登録されている塚で、『大田原市遺跡分布地図』には「中世の塚?」と書かれていることから、どうやら塚の性格自体は分かっていないようです。

訪れた日は草ぼうぼうで、残念ながら塚の形状までははっきりと見ることができなかったのですが、塚には金丸地区活性化議会による説明板が設置されており、この塚にまつわる古くからの言い伝えについても書かれていました。
【箱塚】
この塚の辺りで那須氏の一族が装束を改めて、
金丸八幡宮に参拝したと伝えられています。
「装束塚」とも称され、かつては毎月、塚の前におい
て祭礼が行われていたと伝わっています。那須与一
が屋島の合戦の後に那須へ戻り、金丸八幡宮に詣で
た際に生姜を奉納したと言われています。これにち
なみ、現在も那須神社の秋の例大祭の時には、生姜
売りの露店が出て、お土産として親しまれています。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
現地説明板
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- 2021/10/26(火) 23:58:05|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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今回は、大田原市紫塚1丁目に所在する「経塚稲荷神社」の探訪の記録です。
大田原市内の古墳の多くは旧湯津上村周辺の那珂川流域に集中しており、現在の市街地周辺にはあまり古墳は存在しないようです。そんな中、この稲荷神社の境内にはなんと、経塚が存在するということを知りました。
古墳とは無関係の経塚ではありますが、参拝とともに塚の見学に訪れました。
さっそくまずは参拝しましょう!

画像は参道横に建てられていた『神社の由来』碑です。
次のように刻まれています。
神社の由来
経塚稲荷神社(旧無格神社)・主祭神 倉稲魂神
境内神社(祭神、神孤の霊)・例祭 二月ニの午
寛永五年(一六二八年)の頃大田原備前の守晴清は
法華経一〇〇〇部を蔵して居たが、同公逝去の
後、破損した経巻を寛永一〇年(一六三三年)
酉年三月此処に埋め高く塚を築いて経塚と
唱え、小祠を建立し稲荷神社を勧請した。
当時六人(善兵衛・吉右衛門・七右衛門・幸助・
左八・伊八)が世話取りとなって経塚稲荷神社
大明神と崇敬し例祭を執行したと伝えられている。
明治維新に際して経塚稲荷神社と改称し現在に
至っている。
経塚稲荷神社と改称後、商売繁盛・家内安全・
家運繁栄の神社として、旧大田原の商店主や地区の
有志の人が世話人となり、大田原神社宮司が祭主と
なって四月第一土曜日例大祭として行っている。
神社は国道四〇〇号線沿いで、大田原指定名木百選の
「ひがん桜」も見事であり、杉木立が神域を護っている。

画像が、経塚稲荷神社社殿です。
この社殿の背後(北西側)に経塚が残存します。

これが経塚です。
南西から見たところです。。。
経巻を埋めて高く塚を築いたのは、大田原晴清没後の寛永10年(1633)、そしてその後に稲荷神社を勧請したということですから、神社よりも先に塚が存在したということになりますよね。
もともとあった古墳を流用した可能性はないのかな。。。ないか。。。

東から見た経塚の様子。

塚上に祀られた祠と石碑の様子です。
最寄りのJR宇都宮線西那須野駅から歩くと少々かかりそうですが、関東自動車バスで稲荷前下車、約5~6分ほどでしょうか?4月上旬に訪れると、「大田原の名木」に選定されているヒガンザクラが満開に咲き乱れるそうです。
春先がお薦めですね!
<参考文献>
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
現地由来碑
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- 2021/10/24(日) 23:20:08|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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「中野内大塚古墳」は、大田原市中野内に所在する古墳です。
大田原市の遺跡番号48番、栃木県の遺跡番号322番に登録されており、田原市の記念物(史跡)として指定されています。
画像は、この中野内大塚古墳を南から見たところです。
墳形については諸説あるようですが、平成29年(2017)に発刊された『大田原市遺跡分布地図』には、備考欄に「前方後円墳?」と書かれています。
この説が正しければ、おそらくは画像の左が前方部、右が後円部という前方後円墳で、現状見られる形状からすると帆立貝型前方後円墳ではないかとも想定されますが、学術的な調査が行われていないことから真相はわかりません。。。

北東側の遠方から見た中野内大塚古墳です。
古墳は、松葉川右岸の丘陵上に築造されており、周辺が農地としてひらかれた中で丘陵上にボコッと古墳が存在する姿はかなり目立ちます。

墳丘前には「史跡 大塚古墳」の標柱と大田原市教育委員会による説明板が設置されています。
説明板には次のように書かれていました。
大田原市指定記念物(史跡)
大塚古墳
昭和48年12月14日指定
所在地 大田原市中野内
所有者 個人
□1基 □古墳時代
基底が破壊されているため正確な数字は得られませんが、
一片約28m、高さ約4.5mで、二段築成と見られます。南
側は低い傾斜地となっています。
大関増業編述の「創垂可継」(県指定文化財)所収の「封
域郷村詩」には、豊城入彦命の孫、彦狭島王の衣と髪を桜田
村の民が祀って、塚を築き王塚と称したと記されています。ま
た、九尾の狐の伝説に付会した形で、尾塚とも言われています。
なお、周辺の畑地からは、打製石器や縄文土器片が表面
採取されています。
説明板には墳形についてはふれられず、前方後円墳とは書かれていないようですね。。。

東から見た後円部の様子です。
車がないと、訪れるにはちょっと厳しい場所ではありますが、車で向かえば古墳の目の前まで車で乗り入れるのも可能ですし、古墳の東側に路駐もできますので、とても見学しやすいですね。。。

古墳の南側には県道34号黒磯黒羽線が東西に走ります。
古墳所在地の区画の角には「土地改良記念碑」と「馬頭観音」の石碑が建てられており、車で向かうのであればこれが目印となるかも。
道路からも、この段丘上に二段築成の大きな墳丘を見ることができます。。。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
大田原市教育委員会『大田原市文化財保存活用地域計画』
現地説明板
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- 2021/10/22(金) 23:45:11|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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画像は、大田原市大豆田に所在する「愛宕山古墳」です。
大田原市の遺跡番号244番、栃木県の遺跡番号712番に登録されている古墳で、大田原市教育委員会より平成29年(2017)に発刊された『大田原市遺跡分布地図』では墳形は「円墳」とされていますが、学術的な調査が行われていないことから(多分)、詳細は不明です。
画像の木立となった地点が古墳の所在地であると思われます。
さっそく近寄ってみましょう。

南から見た愛宕山古墳です。
墳丘の西側は道路によって若干削られているようです。
その道路が古墳を避けるように若干孤を描いているところは、古墳らしい見慣れた光景ですね。。。笑。
今になって思えば、「愛宕山」という名称からして墳頂部には祠が祀られていたのではないか、とも思えるのですが、墳丘上はかなりの藪となっていて見通しも悪く、根性なしは突撃することなく、深追いしませんでした。。。(´・ω・`)ショボーン

葺石が葺かれていたのかなあという印象ですが、真相は不明。
旧湯津上村から那珂川町にかけて、那珂川右岸には相当あったと思いますね、古墳。。。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
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- 2021/10/20(水) 20:33:54|
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