
昨日は、大田原市の「上侍塚古墳」の現地説明会に行ってきました。
令和5年度の第二回になりますね。
私の1番の興味は、水戸黄門様が埋め戻したという、遺物を納めた松の箱がどこからどんな状態で出てくるのだろう?というところですが、今回はいよいよ後方部墳頂を掘っている!ということをお聞きしていましたので、この日を楽しみにしていました。

これは昨日の上侍塚古墳。
墳丘の美しさは変わらずですね。

墳丘東側のくびれ部のあたりでの発掘の様子。
画像の左が前方部、右が後方部となります。
ここは、くびれ部の形状を確かめるために調査されているそうです。
墳丘は前方部が二段、後方部が三段に築造されていますが、今回は前方部の側面の状況がさらにわかりやすくなっていました。

通常は、すべての段に葺石が存在することが多いのですが、前方部の下段には葺石は置かれず、上段にのみ葺かれていたことが確認されています。
なにか意図があったのかもしれないし、ひょっとしたら単なる手抜きだったのかもしれないし、真相はわかりませんがとても興味深いですよね。。。

こちらは後方部先端の東側の裾のあたり。
3段目の葺石は裾のほうになるとなくなるそうなのですが、ここでは葺石が大量に確認されています。これは本来の位置にあるものではなく、流れ落ちたものであるそうです。
今回の調査では残念ながら墳丘の正確な裾部は確認されなかったようですので、古墳の全長は114メートルのまま、ということになります!

こちらは後方部先端の西側の裾のあたり。
こちらも正確な墳丘裾部はか確認されていないようです。
ちなみに下に見えるのは本来の位置ではなく転落した葺石で、これからこの石を外してその下の調査を進めた結果、全長114mという数字が正しいものか、それとも変わってくるのかわかるかもしれない、ということです。

こちらは墳丘西側のくびれ部の様子です。
前回よりさらに発掘が進見ました。
やはり、こちら側も墳丘下段には葺石がなく、関東ローム層を削り出した面のままで古墳が完成していた、ということになるそうです。
多くの古墳ではくびれ部からすぐに濠が始まるわけですが、この古墳はくびれ部から一旦平らな部分があって、少し離れた場所でもう一段下がり、そこから周溝になるという特色があるそうです。

西側のくびれ部の様子。
前方部から後方部にかけてのラインが確認されています。
後方部の幅が58mで、くびれ部の幅は24mとなり、くびれ部がかなり細い形状の前方後方墳ということになるようです。。。

墳頂部の様子です。
この日はさ、特に墳頂部では風が強くて震えるほど寒くかったし、解説の声もはっきりと聞こえなかったのですが、とりあえずは水戸光圀公が埋め戻したという松の箱は出てこなかったようです。
江戸時代の発掘坑は確認されているようですし、これからさらに掘り進めれば色々わかってくると思われますが、それは来年度以降のお楽しみですね。

来年度からはお隣の上侍塚北古墳の発掘も始まるそうですよね。
上侍塚北古墳は大田原市が、上侍塚古墳は栃木県埋蔵文化財センターが発掘を行うということで、ひょっとしたら同時に発掘が進むわけ?みたいな状況も楽しみですよね。。。笑。
それにしてもさ。あっという間に真冬になっちゃったよ、という感じで寒くて仕方がないけど、これから葉が落ちて古墳巡りのシーズンになるわけですよね。
どこに行こうかな。。。
<参考文献>
公益財団法人とちぎ未来づくり財団『上侍塚古墳 R5第2回現地説明会資料』
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- 2023/11/12(日) 15:20:17|
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昨日は、大田原市湯津上に所在する「上侍塚古墳」の現地説明会に行ってきました。
これまでも、調査のたびに行われた現地説明会に足繁く通ってきましたが、今回はSNSはOK!ということをお聞きして、見学の様子を掲載しておくことにしました。
この上侍塚古墳は、下侍塚古墳とともに国の史跡に指定されている前方後方墳で、全長114メートルと、栃木県内の前方後方墳では足利市の「藤本観音山古墳」に次ぐ2番目に大きな古墳で、この地域に集中する6基の前方後方墳の中ではもっとも大きな古墳です。
最初の写真は発掘調査が始まる前の上侍塚古墳で、西から見たところです。
右が前方部、左が後方部という状況ですが、噂に違わぬ美しき墳丘ですね。。。

後方部の北西角のあたり。
説明版と石碑が建てられています。
この古墳はなんと!元禄5年(1692)に日本で最初の学術的発掘調査が行われた古墳として知られています。
儒学者の佐々介三郎宗淳(この人が助さんらしい)と小口村名主の大金重貞が、徳川光圀の命により上侍塚、下侍塚両古墳を調査しており、この記録は『湯津神村車塚御修理』に掲載されています。
この調査は、笠石神社に祀られている「那須国造碑」の碑主が誰であるかを確認するための調査でしたが、残念ながらこれが明らかになる遺物は出土しませんでした。
しかし、このときに出土した鏡や管玉、壺といった多くの遺物は記録に治められ、松板の箱に収められて再び墓中に埋め戻されたといわれています。
日本初の発掘調査、ということは当然ながら前例がないわけなので、当時の調査に関わった方々の苦労が偲ばれますが、あの水戸黄門さまが発掘調査を命じたというあたりからしてワクワクするような経緯ですし、埋め戻されたという松の箱がどんな状態でどこから出土するのか、興味は尽きませんよね。。。

墳丘上で、前方部から後方部を見たところです。
この上侍塚古墳の北800メートルほどにある「下侍塚古墳」は、日本一美しい前方後方墳だといわれています。
これは、森浩一氏が著書の中で、「下侍塚古墳が日本で一番美しい古墳」として紹介したことによると思われます。
実際に見学してみてもほとんど崩れのない墳丘の曲線は確かに美しく、これは上侍塚古墳も同様で、地元の人に大切に保存されてきたことがわかります。
つまり、現状の墳丘は段差のないなだらかな斜面となっているわけですが、近年の地中レーダー調査の結果、なんと前方部は2段に、後方部は3段に作られていることがわかりました。
私は長い間、なだらかな曲線が築造当時の姿であると思い込んでいましたが、実際にはかなりエモい形状だったわけですよね!!!
黄門さまが墳丘を保護する意図で土を盛ったのか、江戸時代には墳丘上に土が堆積してすでになだらかになっていたのか真相はわかりませんが、これには一番びっくりしたかも。。。

後方部から前方部を見たところ。
光圀は、墳丘の盛土が崩れるのを防ぐため松を植えたといわれています。
この保存対策の姿勢は今日の文化財保護のお手本とされ、地元の保存会の活動につながっています。
これには、初めて見学に来たときに「なるほど〜」と思いましたが、文献では松の木は墳丘上ではなく墳丘の周囲に植えたことが書かれているそうです。
つまり、現在墳丘上にある松は、その後に松ぼっくりが墳丘上に落ちて育ったものではないか?ということになります。
これまで私は、墳丘上のすべての松が、江戸時代の調査後に植えられたものとばかり思い込んでいたので、ちょっとびっくり。

「こも巻き」は、冬ごもりする害虫をわらでできた「こも」に誘い込んで駆除する目的で、毎年、霜降の日に行われています。
ネットのニュースではいつも「下侍塚」のこも巻きの様子が取り上げられているようですが、この「上侍塚」でもこも巻きは行われているようです。
写真は2011年10月24日のものです。
こも巻きやっていないかな?と思って行ってみたのですが、終わってしまったあとだったのかも。。。

これは今日の現説の様子です。
古墳が造られた当時のまま残っていた葺石や転落した葺石が確認されており、また墳丘の盛土も確認されています。

古墳の基底部は地山を削って造られてい絵うことがわかったそうです。
「古墳時代の地表面」という札から下は地面を削って整形されていて、札より上は土を盛って造られています。
また、墳丘の傾斜は下っていくにつれて緩やかになっていくこともわかっています。

後方部西側、くびれ部付近の葺石の様子です。

このへんは葺石がよく残っていますよね。

これは、前回の発掘の様子です。
後方部の3段築成の様子がわかりますよね。

かなり特徴的な土器片ですよね。
タコの足みたい?笑。
2列に並んだ「円形浮文(えんけいふもん)」と呼ばれるもので、壺の口の縁に付けられた装飾です。
1列のものは下野市の烏ケ森遺跡や芳賀町の谷近台遺跡で出土しているそうですが、2列のものは県内初だそうです。
奈良県桜井市の3世紀の築造とされる「ホケノ山古墳」で2列の出土があるそうなのですが、それが100年ほど経過した4世紀築造の「上侍塚古墳」で出土したことはとても興味深いですよね。。。

こちらもかなり特徴的な土師器片です。

こちらは今回公開された土器片です。
発掘はまだまだ続くようなので、次回の現地説明会も楽しみにしようと思います。
<参考文献>
公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター 現地説明会資料『上・下侍塚古墳』
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- 2023/09/24(日) 00:26:38|
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今回は、大田原市湯津上に所在する「富士山古塚群」に探訪の記録です。
酢屋古墳群や下赤坂古墳群が所在する丘陵の西側の山林内にあり、道路沿いに並ぶ複数基の塚を見ることが出来ます。
『大田原市遺跡分布地図によると、「中世」に築造された「十三塚」であるとされており、どうやら古墳ではないようです。
確かに、塚が直線的に並んでいる様子は十三塚を想定することが出来ますが、残されているのは4〜5基といったところでしょうか。。。

残存する塚のうち最も大きな1基。
十三塚であるとすれば、この塚が13基並ぶ中央にあったのかな?と妄想してしまいます。
良好に残されていますね。。。

両脇には小さな塚が並びます。

これも意外と大きな1基。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
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- 2022/05/18(水) 22:22:00|
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今回は、大田原市佐良士に所在する「佐良士上の原古塚」の探訪の記録です。
この塚は、かつては「無名塚群」という名称で登録されていましたが、現在は「佐良士上の原古塚」という名称で、大田原市の遺跡番号413番、栃木県の遺跡番号1189番に登録されており、『大田原市遺跡分布地図』の分布図にも1基のみが記されています。
かつての「塚群」という名称から妄想すると、例えば以前は複数基の塚が存在したものの、現在は削平されて1基になっちゃった、みたいなことかな?というところですが、まずは見学してみないとわかりませんからね。
さっそく、散策してみましょう。

光丸山奥之院に向かう、長い参道を歩きます。
『大田原市遺跡分布地図』の分布図に記されている位置から判断すると、この参道途中の西側(左側)にあるはずなのですが、参道からは見当たりません。
さらに進みます。。。

結局、塚は見つからないまま光丸山奥之院に到着してしまいました。笑。
画像に見える通り、この奥之院のお堂自体も大きな塚の上に築かれています。
どうやら想像するに、かつての「無名塚群」の「群」は、この塚も含んでの名称だったのかも知れません。
この奥之院の土台は、つかではないという判断なのでしょうかね。。。
古墳じゃないのかな。。。

この塚状地形については『那須文化研究 第10号』の「湯津上村南部の遺跡」の項に記述が見られ、「中央丘陵の南端部に立地する光丸山奥の院近くには、径10m内外の低平な円墳状の1基存在する。奥の院自体も方形を呈した土盛り上に立地しているのも興味深いものである。ある種の信仰に伴って盛土が築かれる場合もあるので、それらが古墳であるという確証はないが、一つの興味深い遺跡として取り上げておきたい。」と書かれています。
確かに、古墳の可能性も考えたくなるようなかなり大きなマウンドですし、周辺地域の古墳の分布状況からしても、古墳の可能性は考えてしまいますよね。

塚の上から見下ろしてみたところ。
古墳であったなら上部はかなり削られていると考えられますが、それでもかなり高さが残されているのがわかります。

さて、肝心の古塚を探さなければ!ということで、参道を引き返して、『大田原市遺跡分布地図』の分布図に記されているあたりを藪の中に突入しました。笑。
ようやく見つけた、画像が「佐良士上の原古塚」です。

塚上の様子。
特に盗掘の跡なども見られない、綺麗なマウンドです。

ここから南西方向の箒川左岸の奥沢面上には「中嶋古墳群」なる古墳群も存在したそうです。(『栃木県文化財地図』や『大田原市遺跡分布地図』には記載はありませんが。)
周辺には多くの古墳が分布する中、那珂川と箒川の合流地点の台地上に立地するということで、古墳じゃないのかよ?と疑いたくなりますが、『大田原市遺跡分布地図』には「古塚」とあり、時代は「中世?」とはてなマークがつけられています。
学術的な調査は行われていないようなので、まだ真相はわからないというところなのでしょうか。
というわけで、今回は気になる塚群の探訪の記録でした。。。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
長谷川操「湯津上村南部の遺跡」『那須文化研究 第10号』
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- 2022/05/16(月) 23:21:48|
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画像は、那須郡那須町に所在する「下城古墳」を北西から見たところです。
元々は前方後円墳の後円部であるといわれていますが、現在はわずかな高まりが残されており、墳丘上には地蔵菩薩が建ちます。
那須町誌編さん委員会より発行された『那須町誌 前編』には、この下城古墳について次のように記されています。
伊王野下城の古墳は、石地蔵尊の載る地膨れである。前方後円墳の後円部が残り、その上が塔地になっているものとみられる。この地の明治の地租改正時の切絵図の地形が、前方後円墳を思わせるものであり、前方部が失われ、後円部の北を国道294号線により切られ、南東部を町堀の尻に切られた結果の現況とみる訳である。
素人目に、人為的に盛られた塚かもしれないな?とは思えますが、はたして本当に前方後円墳であったのか、またその規模や形状については詳細は不明です。

少々角度を変えて、北から見たところです。
墳丘上にはかなり多くの石塔が建てられています。
現在残された形状は三角形であるようです。。。

東から見たところ。
こちら側には用水路が造られていて、深く掘られています。

ちなみに、那須町内でその存在を確認できたのは、「舟戸古墳群」のほかに「唐木田古墳」、「竹ノ花古墳」、「下城古墳」の3基のみでした。
那須町のHPにはほかに、「上新田古墳群」という名称の古墳群が記載されているのですが、こちらはまったく詳細がわからず、所在地も特定できませんでした。。。

最も気になったのが、この石垣に使われた河原石です。
ひょっとしたら古墳が壊された際に出土した石室の石材なのではないか?と妄想したいところです。
石材に使用されて長い間土中に埋もれていた河原石はなんとなく見分けられる気がしていて、この石垣の河原石はそんな気がするのですよね。。。

北向きじぞう
寒い寒い冬の日、那須野が原を北へ北へと歩く人たちがいました。
「おっとう、寒いよう、腹が減ったよぅ・・・」
寒さとひもじさでみんなとても辛そうです。
その年は富士山が爆発し、天候は不順で、関東周辺でもお米も
野菜も全くとれなかったのです。多くの人々が住みなれた土地を
離れて、少しでも暮らしていけそうなところへ逃れていきました。
この家族も、米どころの出羽の米沢へ行けばきっと仕事も見つか
るだろうと思い、ひたすら歩いてきたのです。夕方頃、ひとつ
の村にさしかかりました。
「もうし、お尋ねいたしますが、このあたりは何というところで
しょうか」呼びとめられた男は答えました。
「伊王野っていうところだよ。ずいぶんやつれていつようだが、
どこへ行くんだね」
「はい、わしらぁ江戸近くの百姓でしたが、不作つづきでどうに
もならず、故郷を出てまいりました。これからヨネザワへ行こう
と思っています。ヨネザワへは、どう行けば良いのでしょう」
そういって男が指をさしたのは、伊王野の村人が ”ヨネサワ” と
呼んでいる長源寺の前から続く沢でした。
男は、子連れ夫婦が尋ねた出羽の米沢と伊王野のヨネサワを間違
えて教えてしまったのです。
子連れの夫婦は、男の話に元気を取り戻し、何度もお礼を言い
ながら、教えられた道に消えていきました。そのうしろ姿を男は
心配そうに見つめていました。
翌朝、降り積もった雪の中にうずくまり、子供を抱きかかえた
ままこごえ死んでいた子連れの夫婦が見つけられました。村人た
ちは悲しみ、その遺体を “シャカド山” に運び、塚をつくって手
厚く葬ってやりました。いつしかこの塚は「ガキ塚」と呼ばれる
ようになり、村人たちは土手の上に「ガキ塚」に向けてお地蔵様
を建てました。
お地蔵様は、今でも北側にある「ガキ塚」を、見つめて立って
います。それが「北向きじぞう」です。
「那須町の昔ばなし」より
この地蔵菩薩は、高さ170センチメートル、台石を含めると
約3メートルになる。背面には正徳五年(1715)の建立とあ
り、当時の専称寺の住職名、発起人等が刻まれている。
この時代は大きな災害があり、宝永四年(1707)には富士
山が爆発している。社会的にも不安で、米価は高騰し人々の生活
は荒廃していた。このような時代背景を持つ、この悲しい民話と
地蔵菩薩は同時に地域の里人の優しい心を伝えるものでもある。
「シャカド山」とは釈迦堂山であり、この地蔵菩薩の北方に位置
し、「ガキ塚」もあったといわれている。
なお、この地蔵菩薩が建つ地は城城古墳と呼ばれ、前方後円墳
であったという。その大部分が失われ、残った後円部のみが残り、
現在の形となっている。
那須町教育委員会
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
現地説明板
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- 2022/04/23(土) 19:00:43|
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正式名称を「竹ノ花古墳」と称するこの古墳は、那須郡那須町大字芦野小字下芦野に所在します。
学術的な調査が行われていないことから断定はされていないものの前方後円墳であるといわれており、もし前方後円墳であれば、栃木県内で最も北にある前方後円墳ということになります。
画像はこの竹ノ花古墳を北東からみたところです。
那須歴史探訪館でお聞きした情報では、「唐木田古墳や刑部天郭の南、竹ノ花遺跡の西麓緩斜面突端に墓地があり、その西端に前方後円墳の後円部とみられる部分が現存する。すぐ西隣は畑地になっているので、いつしか前方部が削取られたものとみられる。現存部径は6mほどである。標高250mほどであり、すぐ北にある渓流との比高2mほどである。」ということです。
このわずかな高まりは後円部?というよりは、実見した印象では左手前が前方部、右奥が後円部と感じられましたが、真相は謎です。

同じく、ちょっと角度を変えてみた竹ノ花古墳です。
やはり、後円部というよりは前方部の先端っぽく見えます。。。

後円部上ということになるでしょうか。
私の印象では前方部上ですね。笑。
墓地として使用されています。

西側の先端部分です。
私の印象としては後円部かな。。。
古墳であるとすれば、基底部は残されているようですが、墓地として転用されていることから改変はいちじるしく、築造当時の形状は妄想できません。
ただし、離れたところから目を細めてみると、あ、確かに前方後円墳かな?とも思えるのですけどね。。。

那須町の古墳については、遺跡地図がない(というか、あるのかないのかもよくわからなかった)ので、古墳の正確な所在地を把握するのもなかなかに大変でした。
所在地については、那須歴史探訪館にて色々と情報をいただきまして、やっとこさ行き着くことができました。(その節はありがとうございました。
那須町内に残存する古墳については、学術的な調査は行われていないことから塚の性格はわかりません。
今後の調査の進展により、実態が解明されることを期待したいです。。。
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
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- 2022/04/22(金) 19:40:22|
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今回は、那須郡那須町に所在する「唐木田古墳」の探訪記録です。
唐木田古墳は、大字芦野字若林の山地裾、西南向き斜面の竹林内に残存しています。芦野氏旧墳墓に隣接しており、標高は250m、平地からの比高は10mを測ります。
古墳は西南きで傾斜面にあり、規模は、前面の径11.0m、背面は最小で8.0m、高さは前面で4.0m、中心部で1.75m、傾斜の上方で1.30mです。
画像の竹林内に古墳は存在します。

画像は、唐木田古墳を北東からみたところです。
学術的な調査が行割れていないことから詳細はわかりませんが、その形状から方墳であると考えられているそうです。
う〜ん、、、現地で見学した印象としては円墳っぽかったけど、もう少し良くみてくればよかったかな。。。

南東から見た唐木田古墳です。
那須町文化協会のHPによると、持統天皇元年(686)、3年、4年に「以投化新羅人居下野」と、大陸からの渡来人を下野国に住まわせたという記録があり、この地域もその比定地と考えられているそうです。
古墳の名称でもある「唐木田」も「唐来た」で、ひょっとしたらこの古墳も、渡来人の墳墓であるのかもしれません。。。

古墳は那須町の記念物/史跡に指定されているのですが、那須町では遺跡分布地図が発行されていないために古墳の正確な位置をなかなか知ることができず、探すのに苦労しました。。。
もしこの唐木田古墳が古墳であると確認されれば、関東地方最北端のものであるという貴重な古墳です。
今後の調査の進展がとても楽しみですね。。。
<参考文献>
那須町誌編さん委員会『那須町誌 前編』
那須町文化協会HP『那須町の文化遺産』
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- 2022/04/21(木) 19:43:54|
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今回は、大田原市南金丸の那須神社(金丸八幡宮)の探訪の記録です。
この神社の境内には「金丸塚」と呼ばれる古墳が存在します。
まずは早速参拝しましょう!

那須神社の一の鳥居。
樹齢450年ともいわれる杉並木が立ち並んでいます。
この神社は、人皇第十六代仁徳天皇の御代、下野国造奈良別命が国家鎮護のために本地清浄の地を選び、金瓊(金の玉)を埋めて塚を築き、祠を建てて天照皇大神・日本武尊・春日大神を祀ったのがはじまりです。
のちの延暦年中(782〜806)、征夷大将軍坂上田村麿東夷征討の時、森の中の古塚に小祠があったことから、ここに応神天皇を勧請して金丸八幡宮と号し奉り戦勝を祈ったといわれています。
主祭神は応神天皇、配神は別雷命、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、須佐之男命、火産霊神、武甕槌命、高麗神で、4世紀頃の創建という古社です。
古墳時代には既に存在したという、歴史ある神社ですね。。。

二の鳥居。
「金丸原」という地名は古くは「おうがはら」と呼ばれていたそうです。
金丸・奥沢・鹿畑の3地域にまたがる「原」という意味で明治末期まで使用されていましたが、明治45年(1912)に陸軍第14師団(宇都宮)の演習場がおうがはらに置かれると、「金丸原演習場」と名付けられ、一帯も「金丸原」と称されるようになったそうです。
塚の名前が正確には埋められたという金瓊(金の玉)が)、塚の名称になったわけですね。。。

国の重要文化財(建造物)に指定されている手水舟。
寛永19年(1642)、黒羽藩主の大関高増が、氏神である那須神社に所願成就のために奉納したものです。
高さ77cm、幅157cm、奥行90cmで、耐久性に優れた芦野石が用いられています。

那須神社の楼門は、寛永19年(1642)に黒羽藩主大関高増によって造営されたもので、国の重要文化財(建造物)に指定されています。
昭和56年(1981)の解体修理の際に、部材墨書から、楼門の造営に日光の大工が関わっていたことが判明しているそうです。
また、この神社の境内は「おくのほそ道の風景地」として国の名勝としても指定されています。

那須神社本殿も、黒羽藩主大関高増(1611〜1646)により寛永18年から19年(1641〜1642)に造営されたもので、国の重要文化財(建造物)に指定されています。
中世の形式や技法の継承による古い要素と、桃山建築の粋が発揮された新しい要素が共存した、中世から近世への転換期に位置づけられる重要な本殿建築です。

これが「金丸塚古墳」です。
本殿の背後、北側に存在します。
平成29年(2017)に発刊された『大田原市遺跡分布地図』によると、金丸塚は大田原市の遺跡番号232番、栃木県の遺跡番号605番の「古墳」として登録されており、その形状から方墳ではないかと考えられているようです。
古墳が集中する那珂川流域から距離があり、また周辺に古墳の存在が極めて少な立地的な状況と残存する塚の形状からすると、塚は古墳ではなく何らかの宗教的な意図を持って造られた「塚」なのでは?とも考えたくなりますが、那須神社の由緒からすると、塚は古墳時代にはすでに存在していたようです。
金丸塚が古墳であるのか塚であるのか、このあたりは今後の調査の進展を待つしかなさそうですね。。。

角度を変えてみたところ。
画像では少々わかりにくいですが、方形の形状が見えるでしょうか。

この角度から見ると、墳丘の形状に沿って植え込みがあることから方形の形状が確認しやすいですね。
御朱印をいただけたらなあと考えているので、チャンスがあればもう一度訪れたい神社です。
<参考文献>
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
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- 2021/10/28(木) 21:14:56|
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今回紹介するのは、大田原市南金丸に所在する「箱塚」です。
大田原市の遺跡番号236番、栃木県の遺跡番号9057番に登録されている塚で、『大田原市遺跡分布地図』には「中世の塚?」と書かれていることから、どうやら塚の性格自体は分かっていないようです。

訪れた日は草ぼうぼうで、残念ながら塚の形状までははっきりと見ることができなかったのですが、塚には金丸地区活性化議会による説明板が設置されており、この塚にまつわる古くからの言い伝えについても書かれていました。
【箱塚】
この塚の辺りで那須氏の一族が装束を改めて、
金丸八幡宮に参拝したと伝えられています。
「装束塚」とも称され、かつては毎月、塚の前におい
て祭礼が行われていたと伝わっています。那須与一
が屋島の合戦の後に那須へ戻り、金丸八幡宮に詣で
た際に生姜を奉納したと言われています。これにち
なみ、現在も那須神社の秋の例大祭の時には、生姜
売りの露店が出て、お土産として親しまれています。
<参考文献>
大田原市教育委員会『大田原市遺跡分布地図』
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- 2021/10/26(火) 23:58:05|
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今回は、大田原市紫塚1丁目に所在する「経塚稲荷神社」の探訪の記録です。
大田原市内の古墳の多くは旧湯津上村周辺の那珂川流域に集中しており、現在の市街地周辺にはあまり古墳は存在しないようです。そんな中、この稲荷神社の境内にはなんと、経塚が存在するということを知りました。
古墳とは無関係の経塚ではありますが、参拝とともに塚の見学に訪れました。
さっそくまずは参拝しましょう!

画像は参道横に建てられていた『神社の由来』碑です。
次のように刻まれています。
神社の由来
経塚稲荷神社(旧無格神社)・主祭神 倉稲魂神
境内神社(祭神、神孤の霊)・例祭 二月ニの午
寛永五年(一六二八年)の頃大田原備前の守晴清は
法華経一〇〇〇部を蔵して居たが、同公逝去の
後、破損した経巻を寛永一〇年(一六三三年)
酉年三月此処に埋め高く塚を築いて経塚と
唱え、小祠を建立し稲荷神社を勧請した。
当時六人(善兵衛・吉右衛門・七右衛門・幸助・
左八・伊八)が世話取りとなって経塚稲荷神社
大明神と崇敬し例祭を執行したと伝えられている。
明治維新に際して経塚稲荷神社と改称し現在に
至っている。
経塚稲荷神社と改称後、商売繁盛・家内安全・
家運繁栄の神社として、旧大田原の商店主や地区の
有志の人が世話人となり、大田原神社宮司が祭主と
なって四月第一土曜日例大祭として行っている。
神社は国道四〇〇号線沿いで、大田原指定名木百選の
「ひがん桜」も見事であり、杉木立が神域を護っている。

画像が、経塚稲荷神社社殿です。
この社殿の背後(北西側)に経塚が残存します。

これが経塚です。
南西から見たところです。。。
経巻を埋めて高く塚を築いたのは、大田原晴清没後の寛永10年(1633)、そしてその後に稲荷神社を勧請したということですから、神社よりも先に塚が存在したということになりますよね。
もともとあった古墳を流用した可能性はないのかな。。。ないか。。。

東から見た経塚の様子。

塚上に祀られた祠と石碑の様子です。
最寄りのJR宇都宮線西那須野駅から歩くと少々かかりそうですが、関東自動車バスで稲荷前下車、約5~6分ほどでしょうか?4月上旬に訪れると、「大田原の名木」に選定されているヒガンザクラが満開に咲き乱れるそうです。
春先がお薦めですね!
<参考文献>
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
現地由来碑
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- 2021/10/24(日) 23:20:08|
- 那須町・大田原市の古墳・塚
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