
画像は、栃木市西方町金崎に所在する「山伏塚」です。
この塚は、周辺地域を散策中に偶然に見つけた塚なのですが、その後に図書館で調べても記述のある文献は見つからず、何もわかりませんでした。
そこで現地取材を敢行!
その結果、ようやく塚の由来や名称がわかってきました。

この塚は、その昔にこの地で亡くなった山伏を埋葬した場所であるという言い伝えが残されており、地元では「山伏塚」と呼ばれているそうです。
ちなみに『栃木市遺跡分布地図』によると、栃木市木野地町に同じく「山伏塚」という名称の塚があり、こちらは栃木市の遺跡として登録されていますが、この金崎の山伏塚は登録はされていないようです。
見た目が残土の山に見えちゃうのかな?。。。

近寄ってみました。
塚上には石の祠が祀られており、土地の所有者によって祀られているそうです。
この土地で農耕を営んでおられる地元の方によると、やはり過去には祟りの言い伝えなどもあり、塚には手をつけないようにしているとおっしゃっていました。
最近、祠が倒れていたこともあって直したそう。。。
地元の人によって大切に祀られている様子がわかりますが、長い間、地元で伝えられてきた伝承が若い世代に伝わらなくなってきているのかな?とも感じます。
おそらくは、現在の栃木市内でもかつては多くの修験者 (山伏) が厳しい山岳仏教の修行に励み、中には命を落とした山伏も少なくなかったのではないかと思われます。
人知れず存在する小さな塚ではありますが、当時を語る歴史遺産としてとても興味深いです。。。

塚上の祠の様子。
とりあえずは、古墳を流用したようなことはないのかな、と感じます。。。

塚のある田んぼの区画の隅には馬頭観世音の石塔が建てられています。
なので、最初は馬捨て場だった場所かな?とも思いましたが、山伏塚だったのですよね。
今回は突撃取材でわかったことのみで、参考文献はありません。
これからさらに何かが判明すればこっそり書き足すことにして、とりあえず今回はこの辺で。。。
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- 2023/05/12(金) 19:53:50|
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前回に引き続き旧西方町の塚、ということで、今回は西方町金崎に所在する庚申塚を取り上げます。
この塚は、東武日光線の車窓から見ることができるので、もう何年も前から存在には気がついていました。
が、図書館で調べてから見に行こう!と考えていたものの、記述のある文献も見つからないし、『栃木市遺跡分布地図』にも記載されていないしで、塚の性格もわからないままなんとなく放置になっていました。
私のよくあるパターンですね。。。
それが、最近になってひょんなことからこの塚が「庚申塚」であることがわかったので、詳細がわかった際にはこっそりと書き足すとして、とりあえずわかったことだけ書いておくことにしました。(とはいえ、これが庚申塚である以外は何もわかっていないのですが。。。)

前回取り上げた金崎所在の庚申塚と比べるとこちらの塚は盛り土が残っているので、より塚らしき景観という感じです。
立地的に古墳である可能性は感じませんが、個人的に好きな感じ。。。

塚の様子。
う〜ん、冬に来るべきだったな。
東武線の窓から見た時は雑草はなかったのでね。。。

塚上の石祠の様子。
この祠は更新様ということになりますかね。。。
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- 2023/05/10(水) 22:58:57|
- 栃木市の古墳・塚
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ここ最近は、栃木市内の、旧西方町の古墳を取り上げてきましたが、実は古墳を散策する中で、偶然に出会った塚も数多く存在します。
今回は、西方町金井に所在する「庚申塚」を紹介しようと思います。
この塚は『栃木市遺跡分布地図』には掲載されていないのですが、旧西方村の『文化財調査票』には「庚申塚」として記載されています。
現在の塚は平らに整地され、また塚の周囲も方形に成形されていますが、『文化財調査票』に掲載されている写真は円形を呈する塚が土で盛られており、さながら古墳を思わせる風貌です。(キレイに整備されたほうがいいに決まっているのですが、整備されていない土盛りの塚がいいと思ってしまう私の感覚はいったいなんなんでしょう。。。)

正面から見たところ。
まだ若干の高さは残されています。

これが、整備前の庚申塚の姿です。
古墳みたいでしょ。
うん、こっちが好きだな。。。笑。

塚上には今もかわらず、多くの石造物が建てられています。
左は庚申塔で、標準六手の青面金剛像です。
周辺地域の5戸で庚申の日に祀っていたそうです。
真ん中は馬頭観世音の石塔、右は正体不明の石祠です。
それにしても、周辺にはこの庚申塚以外にも多くの塚が存在するのですが、この庚申塚だけが『文化財調査票』に掲載されているのはどうしてなんだろう。。。

塚の整備後に建てられた「柴南 庚申塔」の石碑です。
平成25年建立と刻まれていますので、塚もこの時期に整備されたものと思われます。

同じく塚上にある石祠です。

奥にある墓地の方が大きくて、こちらの方が古墳っぽく見えてしまいます。笑。
<参考文献>
西方町教育委員会『西方村 文化財調査票 金井・本郷・金崎編』
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- 2023/05/09(火) 23:26:08|
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今回は、栃木市西方町真名子に所在する「北峰古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群も、稲荷山古墳群同等に以前に一度、偵察には訪れていたものの、季節が夏の真っ只中であったこともあり藪が深く、また蜘蛛の巣やスズメバチ等の虫の恐怖にも負けて、あっさりと断念していました。
それが、前々回に取り上げた「稲荷山古墳群」の散策中、8号墳の横で何気なく振り返って南側をみた際に北峰古墳群の1基が視界に入ってびっくり!
稲荷山古墳群と同じように丘陵上の樹木が伐採されたのか、饅頭型の墳丘が丸見えになっています。
「こりゃもう行くしかないでしょ!」ということで、北峰古墳群にも突撃です!

至近距離から見た4号墳です。
当日見学した順番に、4号墳→3号墳→2号墳→1号墳の順に紹介しますが、とりあえず4号墳はこれで間違いはないかな、と。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模は径11m、高さ1.4mで、円墳とされています。

これが、私にとって疑惑の「3号墳」です。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の分布図上の位置関係からすると3号墳は4号墳の北西方向にあるはずなのですが、この高まりは4号墳の西方にあり、またほかの3基に比べて墳丘が小際こともあり、ひょっとしたら古墳ではないのかも?とも思えます。
ただし、3号墳は『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模も「径6m、高さ1.7m」と小さいので、これが3号墳なのかもしれないな?とも思えますし、今のところ真相は不明です。

塚上の大木の根の形状からすると、まず最初に塚があって、その塚を覆うように根が生えているように感じられます。
少なくとも残土の山ではなさそうかな?とは感じます。
まあ、古墳であったとしても、この根の張り方からすると埋葬施設はかなりやられてしまっている予感がしますよね。
発掘調査が行われてみないとよくわかりません。。。

暫定「北峰2号墳」です。
先ほどの小さな塚が3号墳でなければ、これが3号墳である可能性も考えられます。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の2号墳の規模は「径13m、高さ1.6m」ということなので、規模的にはこれが3号墳で間違っていないようにも感じますが、分布図に記されている位置関係からすると、ちょっと微妙かも。。。

同じく暫定北峰2号墳を南西から見たところ。

墳丘上から見下ろしたところ。
大きな崩れはなく、かなり良好に残されているように感じます。。。

暫定「北峰1号墳」です。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の1号墳の規模は「径7.5m、高さ1.5m」ということですが、実際に見学した印象としてはもう少し大きいかな?とも感じます。
暫定3号墳が古墳でなければ、これは2号墳ということになりますので、当然ながらこの西側にもう1基、古墳が存在するということになりますが、、、

角度を変えて暫定1号墳の様子です。
もしこの古墳が1号墳ではなく2号墳である場合、このさらに奥にもう1基あるということになります。
もう少し歩いて確認しておこうということで、一度は西に向かって歩き始めたのですが、その道すがら、「きゅうっ」という何かの動物らしき鳴き声が。。。
そしてその直後、バカラッバカラッバカラッ、、、という音を立てて、かなりデカい図体をした鹿が3頭、私の目の前を駆け抜けていきました。(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
もうさ、こんなに至近距離で野生の鹿を見たのなんて初めてかもしれないんだけど、さすがに「ヤ バ イ、、、」と感じてダッシュで逃げました。
とはいっても、いい歳こいて若い頃みたいな全力疾走は不可能だし、転んで怪我でもしたら終了だし、慎重に早足に逃げたわけですが。。。
これまでも栃木市内のいろいろな場所で地元の人に、「イノシシやタヌキなどの野生動物には気をつけろよ?」と忠告されてきましたが、これまでは運よく一度も遭遇しませんでしたし、藪の中もガシガシ攻め込んできちゃったわけなのですが、暖かくなってきたこともあるのか、もう少し慎重にならないと危険ですな、こりゃ。。。
ちなみに、この山を降りた後に、目の前の畑の中を野ウサギがテテテテッと走り抜けていくのも見ました。
野生のウサギってのも今回初めて見ましたが、もう栃木県恐るべし、という感じです。。。
ちなみに鹿も野ウサギも写真はありません。
首にカメラをかけているんだから咄嗟に撮影しなきゃね、と後になって、思いましたが、
かなりビビってたしなぁ。。。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
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- 2023/05/08(月) 19:09:21|
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今回は、栃木市西方町真名子に所在する「経塚古墳群」の探訪の記録です。
栃木市の遺跡番号3731番に登録されている古墳で、画像の丘陵の突き出た先端に2基の古墳が残されています。
さっそく見学しましょう。

これが経塚古墳群です。
かなりの至近距離に2基の古墳が並んでおり、左手前が1号墳、右奥が2号墳です。
この塚は、古くから「経塚」として知られていてこの地域の小字名にもなっています。
旧西方村の『文化財調査票』にも古墳ではなく「塚」として記載されているのですが、最新の『栃木市遺跡分布地図』には古墳として登録されてい流ようです。
『真名子旧伝、、、、』にはこの塚について「屋島にて討死にせし人の菩提のため、石に大般若経と法華経を書きて埋め、庵の前に二つ塚を築きしなり。此の塚を今に「経塚」と申し伝えるなり」と書かれています。
実際に、塚からはお経を書いた小さな石が出てきたという伝承も残されているようですし、古墳ではなく塚なのではないか?とも考えられます。(もちろん元々あった古墳を流用して経塚とした可能性もあるかもしれませんが。。。)

こちらが「経塚1号墳」です。
最新の『栃木市遺跡分布地図』には「径8.1m、高さ1.1m」の「円墳」として記載されています。

「経塚2号墳」です。
最新の『栃木市遺跡分布地図』には「径7.4m、高さ1.5m」の「円墳」として記載されています。
学術的な調査は行われていないようなので、実際に古墳であるか塚であるかの判断は今後の調査の進展を待たなければなりませんね。

塚のある台地の縁辺部に穴が空いていて、板で塞がれていて、ソワソワしてしまいました。(なぜ?)
ななななによこれ?と気になりましたが、これは鹿沼土を採集した名残なんだそうです。
このまま掘り続けると崩れてしまう、ということで掘られないように塞いでしまったそうなのです。。。

内部の様子。
確かに、横穴墓とか横穴式石室といった類ではなさそうでした。
う〜ん、鹿沼土か。。。
<参考文献>
西方町教育委員会『文化財調査票 真名子編』
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
小松義邦『真名子の伝説と地名の旅』
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- 2023/05/07(日) 19:05:39|
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今回は、栃木市西方町真名子に所在する「二子塚1号墳」の探訪の記録です。
二子塚1号墳は、栃木県の遺跡番号3747-1番に登録されています。
「二子塚」の名称からすると前方後円墳を連想したくなるところですが、『栃木市遺跡分布地図』にはこの古墳について「円墳、墳頂削平、無袖横穴式石室、南西へ開口、西方村遺跡台帳「白山古墳」と同一、他3基位置不詳」とあり、『西方町史』には「5基以上の古墳群であったとされるが、現状では丘陵は宅地造成などにより大きく削られ、横穴式石室の石材の一部が露出する1基(1号墳)が認められるのみである。1号墳の横穴式石室は埋め戻されているが、開口していた時の観察によれば側壁に割石を用いられており、横穴式石室の存在から六世紀後半に築造された古墳群と考えられる。」と書かれています。
つまり、現存するのは二子塚1号墳1基のみで、墳形は前方後円墳ではなく円墳。そして、現在は位置がわからなくなってしまったものの、かつてはさらに3基から4基以上の古墳が存在した、ということのようです。
画像の丘陵斜面が古墳の所在地となるようです。
さっそく見学しましょう。

この古墳に関しては色々とわからないことも多かったのですが、土地の所有者の旦那さまに色々とお話を聞くことができました。
古墳の所在地はかつては、白山神社の境内地となっていて、画像の石段の場所が参道の入り口となっていたそうです。
たしかに、『西方町文化財調査票』にも「白山古墳」という名称で記載されており、『栃木市遺跡分布地図』でも「白山古墳と同一」と書かれています。
旧参道入り口には今も、覆屋の中に庚申塔が建てられています。
ちなみに『西方村 文化財調査票 真名子編』には131番に、「白山・二子塚古墳と庚申」と古墳と庚申塔とがセットで書かれています。

庚申塔には右側に「奉○○庚申供養同行八人」、また左側に「享保元丙申十一月吉日」と刻まれています。

庚申塔を過ぎて左に曲がると、旧参道は古墳に向かって伸びていきます。
『西方村 文化財調査票 真名子編』の「埋蔵文化財包蔵地調査カード」には、白山古墳以外の古墳について「神社の前から後方に4基現存」とあり、参道の途中、左に1基あったことが書かれています。
この古墳は周囲30m、高さ2mで、塚上に祠が祀られていたようです。
画像の左側は台地ごと削られて整地されており、宅地化が行われています。
当然ながら古墳の痕跡は認められませんが、かなり大きな古墳が存在したようです。

ここが二子塚1号墳と思われる地点です。
まだ古墳らしき高まりが残されており、横穴式石室があったとされる位置は若干ながら窪みが残されています。
旦那様曰く、境内には防空壕のような穴が空いていて子供の頃はよくそこで遊んだものだが、神社がなくなったときに穴も埋められてしまった、ということです。
おそらくこの、旦那様が防空壕だと認識していた穴が横穴式石室であったものと思われます。
『西方村 文化財調査票 真名子編』の「埋蔵文化財包蔵地調査カード」には
(1)地形 山の斜面、白山神社庭先の横穴
(2)規模 入口より奥に到る岩石を組んだ横穴
(3)現況 白山神社参道を登って神社の庭の左、雑草の中
(4)岩を組んだ穴の様子は其なれど中には何もない、天井は3枚
(5) 入口高さ70cm、巾55cm、中は奥行3.70mの岩
2m入った処で高さ1m、巾1m70cm
と記されています。
この調査カードの「文献」の欄には、『真名子旧伝夢物語』によると、火の雨が降ると云う説があったので里人が大石を運んで、石穴を造って上に土をかけて領主を入れ、外にも石穴を造って里人が入った、ということが記されているそうです。
当然ながら、遺構は古墳時代に造られた横穴式石室で間違いはないと思われますので、そのまま史実であるとは考えられませんが、どういう出来事があって書かれたものなのか、とても興味深いです。。。

墳丘を北側から見下ろしたところ。
この角度から見ると、古墳らしき形状を見ることができます。。。

神社に使われていた石組みと思われる残骸が散らばっていました。
横穴式石室とは関係はないかも。。。

『西方村 文化財調査票 真名子編』の「埋蔵文化財包蔵地調査カード」には、参道の途中の左の1基のほか、神社の後方に3基あったことが書かれています。
画像は、そのうちの1基ではないかと思われれる、1号墳の北側(北東側?)に存在する古墳らしき高まりです。
3基のうちの最大の古墳は、高さ4m、周囲60mもあり、その北と西に各1基あったそうですが、どの古墳に該当するかは不明で、もちろん自然地形である可能性も考えられますが、古墳なのではないかな、、、と感じます。

高まりの背後は削られて断崖絶壁でした。
周辺は台地ごと削られて地形が変わってしまっているので、古墳群の全体像まではわかりませんが、現状は、わずかに削り残された丘陵上に1号墳と正体不明の高まりが残されている、という状況でしょうか。。。
正確な分布図が残されているわけでもありませんし、きちんと学術的な調査が行われるといいですよね。。。

敷地内には、土の中から出てきたという巨石があちこちに残されています。
石室の石材である可能性も感じられます。

こちらも、お庭に置かれている土の中から出てきたという石です。。。

土地の所有者の旦那様には、お茶までいただいた挙句、二子塚について詳しく書かれているという、地元の郷土史家によって書かれた『真名子の地名と伝説の旅』という書籍までも拝見させていただきました。
お世話になりまして、ありがとうございました。
この書籍には二子塚古墳群のみならず、「稲荷山古墳群」や「経塚古墳」やといった周辺地域にある古墳に関しても詳細が書かれています。
この書籍、私的には図書館でのコピーではなく、なんとか現物を入手したいなと考えましたが、なんと!著者の小松義邦氏のご自宅をお尋ねして、小松さんご本人から直接購入することができました。。。+。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

小松義邦氏は、『真名子の地名と伝説の旅』の続編とも言える『西方の地名と伝説の旅』を出版されるというタイミングで、本日5月5日の下野新聞でも取り上げられています。
小松義邦氏はなんと現在89歳だそうで、5年前から地元の西方地区の歴史や古文書を取り上げた書籍を毎年刊行しているのだそうです。
私の周りでは、断捨離とか言い始めている人も少なくない中、意志さえあれば年齢に関係なくなんでもできる!と見せていただいたというか、エネルギーをわけていただいた気がします。。。
旧西方町の歴史や伝説に興味のある方は必見です!
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
西方町史編さん委員会『西方町史』
小松義邦『真名子の伝説と地名の旅』
西方町教育委員会『西方村 文化財調査票 真名子編』
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- 2023/05/05(金) 17:20:56|
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今回も、栃木市西方町真名子に所在する「稲荷山古墳群」の探訪の記録、その5ということで今回が最終回となります。
画像は、「稲荷山1号墳」を南東から見たところです。
この1号墳は、平成21年に測量と試掘調査が行われており、規模は直径23m、高さ2.5mの円墳で、墳丘南及び西側から幅3〜4m、現地表からの深さ1.0〜1.4mの周溝が確認されています。
墳丘の東側が大きく抉られてはいるものの、比較的良好に残されているようです。

西側から見た1号墳です。
こちら側からの景観は旧状をよく保っています。

墳丘東側には、「稲荷神社跡」と刻まれた小さな石碑が建てられていました。
墳丘東側の削平は、おそらくはこの稲荷神社の造営によるものかと思われますが、神社はすでに存在しないようです。
「稲荷山」は、稲荷を「とうか」と読み、それが「とうかん」と訛り、「とうかんやま」となったといわれています。
ただし、かつては古墳群北側の工場敷地にも2基の古墳があったという記録が残されており、残存する8基と合わせて10基の古墳が存在したとされています。
『真名子の地名と伝説の旅』の著書、小松義邦氏は同書の中で、「(前略)十基の古墳を十墓(とおはか)と呼び、それが「とおはかやま」→「とうかんやま」になったのではないか」とも記述しており、とても興味深いです。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
西方町史編さん委員会『西方町史』
小松義邦『真名子の伝説と地名の旅』
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- 2023/05/03(水) 19:45:08|
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今回も、栃木市西方町真名子に所在する「稲荷山古墳群」の探訪の記録、その4となります。
主墳と思われる1号墳の西側に、2号墳・3号墳・4号墳と3基の円墳が並んで築造されており、今回はその3基の円墳を取り上げます。
まずは「稲荷山2号墳」を南西から見たところです。
おそらくは、丘陵上の樹木の伐採の際に入った重機やダンプの跡なのか、2号墳の西の裾部にはタイヤ痕がついてしまっています。。。

同じく2号墳。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模は、径12m、高さ2.4mです。

途中で気がついたのですが、2号墳〜4号墳の墳頂部に赤と黒の杭が刺さっているのはなんなんだろう。。。
三角点ではないと思いますが、どこも墳頂部に刺さっているんだよね。
埋葬施設まで達していないだろうな。。。

こちらは3号墳。
低墳丘であるためか、撮影した写真では少々わかりにくいですね。。。

同じく3号墳。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模は、径10m、高さ1.5mです。

ほらね。
3号墳にも杭が刺さっています。
一説には山林の境界線を示す境界杭らしいのですが、そうなのかな。。。

こちらは4号墳。
『栃木市遺跡分布地図』に記載の規模は、径15m、高さ3mです。

4号墳の墳丘も、ベッコリと抉れた様子が確認できます。
盗掘の跡なのか、石室が崩落して窪んだのか真相はわかりませんが、ボーリングにより石室の存在が確認されていて、横穴式石室の存在が想定されているようです。

4号墳には、刺さっている杭ともう1本、刺さっていない杭が放置されていました。
そんなに長いものではないようですし、天井石まで達するようなこともなさそうなのかな。。。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
西方町史編さん委員会『西方町史』
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- 2023/05/01(月) 20:14:24|
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今回も、栃木市西方町真名子に所在する「稲荷山古墳群」の探訪の記録、その3となります。
今回は、丘陵東側の斜面に並んで築造されてい稲荷山5号墳と6号墳を取り上げます!
最初の画像は「稲荷山5号墳」です。
斜面にある古墳はやっぱり下から見上げないとね!ということで、まずは見上げてみました。笑。

これは南から見たところ。
『栃木市遺跡分布地図』による5号墳の現状の規模は径18m、高さ3.6mの円墳です。

西から見た5号墳です。
栃木市の古墳は、たとえば巨大前方後円墳などは多くはありませんが、古墳群が古墳群のまま残っているところが多く、なかなか見応えがあります。
ただし、山間部に造られた古墳が多いので、山を登らなければなりませんね。。。

6号墳は径15m、高さ3.5mの円墳です。
この古墳は、5号墳よりもさらに急な斜面に構築されていて、平面規模の割に斜面下方からの高さを有しているという状況です。

見下ろしてみたところ。

5号墳の墳丘上から見下ろした6号墳です。
かなり良好に残されているようでした。
次回に続きます。。。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
西方町史編さん委員会『西方町史』
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- 2023/04/30(日) 19:24:08|
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今回も、栃木市西方町真名子に所在する「稲荷山古墳群」の探訪の記録、その2となります。
前回お伝えしたように、何年か前までは鬱蒼とした森だったこの稲荷山古墳群なのですが、最近、偶然に通りかかった際に、樹木や下草の伐採により古墳が丸見えになっているのを発見!
すぐに、後日の晴れた日に見学に向かいました。笑。
丘陵の東側の県道を北に向かって走っていたことから、最も南にある8号墳が最初に視界に入り、見学した当日も、まず最初に8号墳から7号墳、6号墳と、付けられた番号とは逆向きに見学して行くこととなりました。
なので、今回は見学した順番に紹介しようと思います。
最初の画像は、南西から見た「稲荷山7号墳」です。

『栃木市遺跡分布地図』によると、古墳の残存する規模は径17m、高さ2.7mで、円墳とされています。
この古墳群、どの古墳もかなり良好に残されているのかな?とは感じましたが、やはりそれなりに盗掘は受けているようで、、、

東から撮影した7号墳の墳丘ですが、石室に沿うようにざっくりと抉られている様子がわかります。

墳丘頂部から見たところ。
抉られた窪みに落ち葉が溜まっているのでわかりやすいですね。。。

比較的密集して存在する1号墳から7号墳までの7基と前回紹介した8号墳とは若干の距離があり、8号墳のみが南東側に少々離れた場所に存在します。
残存する8基の古墳は比較的高さが残されていて、はっきりと古墳であると認識できる状況ですが、この7号墳と8号墳の間あたりに、ひょっとしたら低墳丘な古墳なのではないか?とも妄想できる地膨れのような高まりが複数箇所、存在します。
まずはその一箇所。
この高まりは、『西方町史』に掲載されている分布図にも記されていますので、もっとも怪しい高まりかも。。。笑。

これも、高さはあまりありませんが、形状ははっきりと円形を呈しています。
もちろん自然地形である可能性も十分に考えられますが、怪しいぜ。。。

これは4号墳と7号墳の間にある高まり。
う〜ん、怪しい。。。

これは7号墳の東にある高まり。
夏を越えればまた草が生い茂ってしまう可能性も大ですし、見学するなら今でしょ、という感じかな。。。
「稲荷山古墳群」、次回に続きます。
<参考文献>
栃木市教育委員会事務局 文化課『栃木市遺跡分布地図』
西方町史編さん委員会『西方町史』
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- 2023/04/28(金) 22:16:30|
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