
今回は、以前にも一度取り上げたことのある、小山市横倉字戸館所在の「横倉戸館古墳群」の再訪の記録です。
この古墳のすぐ横には「新4号国道」というバイパスが走っているので、たまーにこの古墳の横を車で通ることがあるわけですが、ま、バイパスだし、かなりの速度で走り抜けちゃっているものの、宇都宮から東京に向かう上り車線を走る際にはこの古墳が道路からチロッと見えるので、昼間はやっぱり気になっちゃったりしてます。笑。
先日ここを通る際、草が刈られて古墳の形状がキレイにみえているのを発見!
カメラを所持していたこともあって、そりゃあもう寄り道して見に行ったわけなのです。

以前は少々荒れ果てた印象もあったのですが、草が刈られてみると墳丘はかなり良好に残されていてびっくり。
ま、まさか、壊されて家が建っちゃうなんてことはないよね。。。
古墳の詳細は、前回の記事を読んでみてくださいね。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1605.html(2022年12月30日号「横倉戸館古墳群7号墳」)

当然ながらこれから暖かくなるわけで、また草ボウボウになってしまう可能性もあるかもしれないし、じっくり見学するには今がチャンスかもしれないですね。。。

墳頂部に祀られた祠。
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- 2023/03/23(木) 22:02:53|
- 小山市・野木町の古墳・塚
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小山市の中里地区に所在したとされる幻の古墳群である「寒川古墳群」、今回はいよいよ最終回ということで、「藤塚古墳」の探訪の記録です。
古墳の周囲は木々に覆われていて古墳の全貌を捉えることは難しかったのですが、画像が現在の藤塚古墳の様子です。
小山市より昭和56年に発行された『小山市史 史料編・原始古代』によるとこの古墳は、全長50m・前方部幅22.6m・後円部径22m・くびれ部幅18m・高さ2mの前方後円墳とされています。

実際に現地で見学したところでは、前方後円墳であるならかなり改変されている印象で、果たして本当に古墳なのかどうかも素人目には判断がつかない感じ。
周辺の地形も、古墳時代とはかなり状況が変わっていると思われ、立地的にも古墳か否かの判断が難しいと思います。

墳丘は浅間神社の土台となっていて、墳丘全体が境内という状況。
鳥居の建っている南端が前方部の先端ということになると思いますが、う〜ん。本当に前方後円墳なのかなぁ。。。

石塔が倒れたままになっていました。
壊された石室の石材が散乱しているとか、葺石がゴロゴロ転がっているとかそういうこともなく、古墳としての状況証拠に乏しい感じ。。。

墳丘上には真新しい社殿が建てられていました。
実は以前に訪れた時には社殿がなくなっていて基礎部だけが残されていましたので、この数年の間に建て替えられたのだと思いますが、この神社は『栃木県神社誌』にも記述はなく、いろいろわからないことが多かったです。。。
昭和16年(1941)の『紀元二千六百年記念古墳調査』の調査記録には「前方ハ参道トシテ削平セラル頂上ニ浅間神社奉祀」と記載されており、戦前にはもう少し前方後円墳らしい形状が残されていたのかもしれません。。。

これが以前に撮影した富士塚古墳の全景です。
この時期は周囲が伐採されていて墳丘全体が見渡せたのですが、それで、私的に本当に古墳かなぁ、みたいな印象になってしまったのですが、調査がしっかり行われるといいですよね。
というわけで、今回で寒川古墳群は終了。
まだまだ栃木県内の古墳は続きます!
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/25(水) 20:32:06|
- 小山市・野木町の古墳・塚
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前回に引き続き、今回も小山市の中里地区に所在したとされる幻の古墳群、「寒川古墳群」のその5。
今回は「寒川古墳」と「宮ノ前古墳」という2基の古墳の探訪の記録です。
この2基が学術的に寒川古墳群に属するのかどうかは実はよくわからないのですが、毘沙門山古墳の前に設置されている案内板にはこの寒川古墳も古墳群の1基として寒川古墳が紹介されているし、寒川古墳群の項で取り上げることにしました。
名前も寒川古墳だし。。。笑。
田んぼの中にぽこっと浮島のように浮かぶ古墳で、道路から古墳まで畦道で繋がっています。
意味なくモーゼの十戒を思い出しました。海の水が割れて渡れるようになるやつね。。。

小山市教育委員会発行の『小山市遺跡分布図・地名表』によると、小山市の遺跡番号11番に登録されています。
周囲が耕作により削られて方墳のようにも見えるのですが円墳であるとされ、規模は径17×16m、高さ2mです。

墳頂部の様子です。
氏神様の祠が祀られていて、若干削られているのかな?とも感じますが、古墳は良好に残されている印象です。

祠です。

南西から見たところ。
うん。いい眺めだ。笑。

こちらが「宮ノ前古墳」です。
寒川古墳のすぐ隣に隣接しているのですが、寒川古墳が小山市の遺跡番号11番に登録されているのに対して、この宮ノ前古墳は『小山市遺跡分布図・地名表』には記載されていないようです。
ひょっとしたら、調査により古墳ではないことがわかったとかそういうことなのかもしれませんが、真相は不明。
宮ノ前古墳という名称以外、古墳としての詳細もわかりませんでした。。。

最近の写真は、かなり要塞化してしまっていて古墳に見えませんが、ちょっと前まではもう少し古墳らしい景観でした。
ちなみにこちらは4年前の写真です。。。

西から見た宮ノ前古墳。
この古墳について何かわかったら追記します。。。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/23(月) 22:01:35|
- 小山市・野木町の古墳・塚
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出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=209757&isDetail=true) 前回に引き続き、今回も小山市の中里地区に所在したとされる幻の古墳群、「寒川古墳群」のその4です。
まずは小山市の遺跡番号23番に登録されている「観音山古墳」を紹介します。
この古墳も、多くの消滅した古墳と同様に区画整理事業により破壊されたといわれています。
小山市教育委員会より発行された『小山市遺跡分布図・地名表』によると、規模は不明ながらも前方後円墳であったとされ、形象埴輪1片、円筒埴輪63片、土師器16片が採集されています。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年10月13日に米軍により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。位置関係を把握しやすいように、比較的目立つ存在である「毘沙門山古墳」と「鶴巻山古墳」を画像に含めた形で周囲を切り取りました。
『小山市遺跡分布図・地名表』の分布図に記されている位置から判断すると、右下に見える木立が観音山古墳であると思われます。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年5月30日に国土地理院により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。やはり周辺を切り取っています。
昭和22年の写真では木立が見られ、まだ古墳は残されていたのかな?と思えますが、ここでは木々は伐採され、古墳が残存するのかどうかはわかりません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1012935&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和49年12月31日に国土地理院により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。やはりわかりやすいように周囲を切り取っています。
この時代になると空中写真もかなり鮮明になってくるのですが、古墳の様子はわかりません。
台形っぽい変な形の地形のあたりが観音山古墳の跡地であると思われますが、残存するのかどうかはよくわかりません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=140488&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和55年5月23日に国土地理院により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。わかりやすいように周囲を切り取っています。
耕地整理が行われて地形が変わってしまっていますが、観音山古墳の跡地と思われるあたりに何らかの影が見えます。
まさかまだ観音山古墳は残されているのでは?

ジャン!
これが観音山古墳跡地周辺の現在の様子です。
なんと!驚いたことに、田んぼの一角に塚状の高まりが存在しています。
まさか、観音山古墳は残存するのでしょうか?(写真は2019年のもので、最近の写真も存在するもののかなり草ボウボウだったので、あえて4年前の写真を選びました。。。)

角度を変えて。
過去の空中写真に見られる観音塚の木立の位置とこの塚状地形がぴったりと一致するかどうかは、もう少し検証が必要ですが、かなり近接することは間違いありません。
もう少し詳細がわかってから掲載しようと思っていましたが、最近になってこの観音山古墳や鶴巻山古墳の調査報告書が存在しないということを知りまして、それならわからないまま掲載しちゃおうかな、という気になったわけです。笑。
これが観音塚古墳の残存する墳丘なのか、それとも一度は削平されたものの、残土を盛り上げて塚を築いたということなのか、まったく関係のない塚で偶然の一致なのか真相はわかりませんが、少なくとも観音山古墳の痕跡である可能性は高そうです。

地元の方から、ここが観音塚だよ?みたいなお話をお聞きしましたし、馬捨て場であったともお聞きしました。
あらためて4年前の写真を確認すると、確かに塚上には馬頭観世音・馬力神・勝善神などの石塔がずらりと立ち並んでいます。
「観音塚」の名称はおそらくはそういうことなのだと思われますし、おそらくは古墳の墳丘上、もしくは裾部にこれらの石塔が建てられていたのではないでしょうか。。。

塚上には、まさか石室の天井石か何かに使われた石材では?とも思えるような巨石が置かれています。
う〜〜〜む、怪しいぜ。。。

最近見に行った時は草ボウボウだったのですが、4年前は塚上に土器片や埴輪片らしき遺物がゴロゴロ転がっていました。
この感じなら、これが残存する墳丘というよりは、一度削平されてから残土が盛られてこの塚が造られたのではないか、、、そんな印象を持ちました。もちろん真相は不明。。。

さらにこ〜んな感じ。。。
行われた調査の結果から、この古墳群は小山市域最古と恩われる鶴巻山古墳→茶臼塚古墳→毘沙門山古墳→三味線塚古墳→観音塚古墳の順に、一定の間隔をおいて5世紀から7世紀まで築かれた、寒川の地をおさめた歴代の首長の墓群と想定されているそうです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=209757&isDetail=true) さて、今度は毘沙門山古墳の東側に所在したといわれる「沼田古墳」と「茶臼塚東古墳」を検証しましょう。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年10月13日に米軍により撮影された空中写真です。
左の円形の影が「毘沙門山古墳」で、その右側、東側に沼田古墳と茶臼塚東古墳の痕跡が見られます。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年5月30日に国土地理院により撮影された空中写真です。やはり周辺を切り取っています。
茶臼塚東古墳はまだ残されているようですが、沼田古墳はあるのかないのかよくわかりません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1012935&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和49年12月31日に国土地理院により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。やはりわかりやすいように周囲を切り取っています。
かなり空中写真も鮮明になってきましたが、茶臼塚東古墳の小さな墳丘はまだ残されているようです。
沼田古墳は、勝手な想像をすると若干の地膨れ程度に膨らんでいるようにも感じますが、あるのかないのかよくわかりません。。。笑。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=140488&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和55年5月23日に国土地理院により撮影された寒川古墳群周辺の空中写真です。わかりやすいように周囲を切り取っています。
耕地整理が行われて地形が変わってしまっていましたが、なんと!茶臼塚東古墳の小さな墳丘は半分ほどになってまだ残されているようです。
沼田古墳は完全に消滅してしまいましたね。。。

というわけで、沼田古墳の跡緒周辺の様子。
古墳の痕跡は何も残っていません。。。

こちらは茶臼塚東古墳の跡地周辺の様子。
やはり古墳の痕跡はまったく見られません。
ま、仕方がないですよね。。。

ひとつ、おまけです。。。
前々回に、消滅した「茶臼塚古墳」のクロップマークを紹介しましたが、他にも現代のGoogleマップで、クロップマークらしき怪しい影が見られる場所があります。
画像の、毘沙門山古墳の南東側に円形の影が2つ3つ見られますが、古墳の跡ではないのかな。。。

影の見える場所を見に行ってみましたが、まったく痕跡なし。
見たければやっぱり雑草が生え始まる時期か、田植えをしてから稲が育ち始めた時期か、そんな感じかな。。。
もしこの一帯で発掘調査を行えば、古墳の周溝がゴロゴロ出てくるんでしょうね。多分。
くはぁ〜、、、見てえ。。。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/22(日) 21:30:44|
- 小山市・野木町の古墳・塚
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前回に引き続き、小山市の中里地区に所在したとされる幻の古墳群、「寒川古墳群」を紹介します。
今回はその第3回ということで、現存する「毘沙門山古墳」の周辺の古墳についてです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=209757&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年10月13日に米軍により撮影された三味線塚古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
墳丘はすでにかなり変形しているようですが、まだ古墳の形状は残されており、周囲には周溝の痕跡も見られます。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年5月30日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。やはり跡地周辺を切り取っています。
昭和22年の写真はかなり立体的に見えますが、この写真は平面的に見えますよね。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1012935&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和49年12月31日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。やはりわかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
三味線塚古績は、墳丘の一部は明治期に削平され、昭和46年に小学校改築のために土取りされてしまい、調査が行われた昭和51年には、水田の避をたどることによりかろうじてその境形を復原できるという状態であったようです。
ちなみに最近、ある学芸員の方が「若い頃にこの古墳を見に行ったことがあって、墳丘はすでになくなっていたけど古墳の形をした畦道が残っていたんだよね〜」とおっしゃっていました。
見たかった〜〜〜。笑。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=140488&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和55年5月23日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
耕地整理が行われて地形が変わってしまっており、古墳も跡形もなく消滅しています。

これが三味線塚古墳跡地の現代の様子。
残念ながらもはや跡形もありませんな。。。
調査の結果、三味線塚古墳は全長55mの前方後円境であることがわかっています。
2列の埴輪列が確認されており、遺物は円筒纏翰・馬形埴輪(3個体分)で、6世紀中葉の築造と考えられています。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417896&isDetail=true)
画像は、昭和36年(1961)5月30日に国土地理院により撮影された、三味線塚古墳の北方のとある地点の空中写真です。
こりゃあ、帆立貝方前方後円墳の痕跡じゃないか?と思える形状の影がはっきりと写っています。
墳丘のみならず、周溝すらもはっきりと写っているように感じられますが、いかがでしょうか。
空中写真を深掘りすれば、キリがないくらいこうした痕跡が見つかるのですが、この消滅した古墳群を復元する遊び、楽しいんですよね。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年10月13日に米軍により撮影された毘沙門山古墳の南方150メートルほどの地点の様子です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
「鶴巻山古墳」、「鶴巻山北古墳」、「鶴巻山東古墳」という3基の古墳が密集していた地域です。
鶴巻山古墳は周溝の様子まではっきりと写っています。
鶴巻山北古墳は、はたしてこの位置が正解なのかよくわからず、ひょっとしたら「?」の位置にある影が鶴巻山北古墳なのかな?
鶴巻山東古墳も、どちらが正解かよくわかりません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年5月30日に国土地理院により撮影された毘沙門山古墳の南方150メートルほどの地点の様子です。やはり跡地周辺を切り取っています。
「?」の上のやつが鶴巻山北古墳なんじゃないかな。わかんないけど。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1012935&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和49年12月31日に国土地理院により撮影された毘沙門山古墳の南方150メートルほどの地点の様子です。やはり跡地周辺を切り取っています。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=140488&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和55年5月23日に国土地理院により撮影された毘沙門山古墳の南方150メートルほどの地点の様子です。やはり跡地周辺を切り取っています。
ここで耕地整理が行われて地形が変わってしまって跡形もなくなってしまうわけですが、鶴巻山古墳はうっすらと痕跡が残されています。
前回に紹介した、浮かび上がったクロップマークであると思いますが、南北にのびる道路が鶴巻山古墳を真っ二つにぶった斬ったわけですよね。

鶴巻山古墳の跡地周辺の現代の様子です。
この古墳は、毘沙門山古墳の南方約180mの水田中に位置しており、発掘調査の結果、径53mの2段築成の大型円墳であり、ほぼ全面に葺石をもつ事が判明しています。
内部主体は削平されていたようですが、周湟から出土した土器により5世紀代の築造であると推定されています。

ちょっと気になった光景。。。
鶴巻山古墳跡地を流れる水路の横の畦道に河原石が集中している場所があります。
ひょっとしたら鶴巻山古墳の残された石材なのでは?と感じていますが、真相は不明。
いや、ホントに石材じゃないかな?と思うのですが、農地にある古墳でたまーに見るんですよね。こういう光景。。。

鶴巻山北古墳の跡地周辺の様子。
やはり古墳の痕跡はまったく見られません。

空中写真の「?」の位置が鶴巻山北古墳であるならば、跡地はこのあたりかな、と。
奥に毘沙門山古墳が見えています。。。

鶴巻山東古墳の跡地周辺の様子です。
画像の左側が跡地であると思われます。
道路が弧を描いているのが古墳の跡地らしき印象ですが、真相はわかりません。
「寒川古墳群」シリーズ、まだまだ続きます!!!
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
小山市教育委員会『横塚山三味線塚古墳発掘調査報告書』
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- 2023/01/21(土) 19:39:43|
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前回に引き続き、今回も、小山市の中里地区所在の幻の古墳群、「寒川古墳群」のその2です。
今回は、現存する「毘沙門山古墳」の周辺にかつて点在したといわれる、消滅した古墳を検証しようと思います。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=742556&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された、毘沙門山古墳の北方周辺の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
ひときわ目立つのは「茶臼塚古墳」で、かなり変形しているもののまだ前方後円墳としての形状は残されており、周囲には周溝の痕跡も見られます。
茶臼塚古墳の周囲には、当時まだ残存する「茶臼塚西古墳」や「毘沙門山西古墳」が確認できますし、毘沙門山古墳の東にも「前田古墳」や「町田稲荷塚古墳」の姿も見られます。
前田古墳の南西には、これも無名ながらも古墳ではないのか?と思われる影も見られ、なかなか興味深いです。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=417893&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年5月30日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。やはり跡地周辺を切り取っています。
時代とともにカメラの性能が上がったのか、写真の輪郭がはっきりしてきますよね。。。
最初の写真から14年が経過して、茶臼塚西古墳は形状がはっきりしなくなってしまいました。
前方後円墳である茶臼塚古墳は、墳丘と周溝の痕跡ははっきりと確認できるのですが、すでに高さは残されていないのかもとも思えます。
毘沙門山西古墳や前田古墳、町田稲荷塚古墳はまだその姿を確認できるようです。
前田古墳南西の無名古墳はうっすらと痕跡は確認できるものの、はっきりしません。。。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1012935&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和49年12月31日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
ここでカラーになるのですね。笑。
茶臼塚古墳のほか、毘沙門山西古墳、前田古墳、町田稲荷塚古墳はまだ残されているようです。
茶臼塚古績は、明治33年にはすでに境丘の大部分が削平されてしまったそうですが、その際に出土したと伝えられるだ竜鏡1面と刀子2口は保存されています。
調査の結果、部分的ではあるものの埴輪列が確認され、古墳の規模は全長80mの前方後円績であることが確認されています。
円筒埴輪・朝顔形埴輪・ 人物埴輪片・土師器等が出土しており、築造は6世紀後半と考えられています。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=140488&isDetail=true)
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和55年5月23日に国土地理院により撮影された三味線塚古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
耕地整理が行われて、地形が変わってしまったのがこの時期です。
残念ながら、現存する毘沙門山古墳と町田古墳以外の古墳はすべて消滅してしまいました。
しかーし!茶臼塚古墳の跡地のあたりをよ~く見ていただきたいのですが、なんとなく後円部とその周囲の円形の形状がうっすらと確認できる気がしませんか?
これ、茶臼塚古墳が残存する昭和20年代や30年代の空中写真と比較しても、位置はぴったりと重なっているのです。

拡大してみました。
画質が荒いのでちょっとわかりにくいでしょうか?
ちょっと目を細めて薄目にしてみると浮き上がってくるかもしれません。笑。
私的に、これは間違いなく茶臼塚古墳の後円部の痕跡だぜ!と確信しまして、現代のGoogleマップも確認してみたところ、、、

こちらは現代のGoogleマップです。
なんと驚いたことに、稲が刈り取られた地面にまったく同じ形状の影が見られます。
もはや10年以上前になりますが、埼玉県行田市の「さきたま古墳群」を見学した際に、併設する博物館で『ガイドブックさきたま』という冊子を購入しました。
その5ページに「航空写真に写った堀の形」という記事があり、古墳群中の「稲荷山古墳」の昭和43年の空中写真が掲載されています。
当時、稲荷山古墳はすでに前方部が削平されて消滅していたのですが、写真にはなくなった前方部やその周囲に二重に巡る湟、また周辺の小円墳に至るまで、はっきりと痕跡が写されているのです。
これは、地中の土質や水分の違いによって米や麦の育成のようすが違ってしまうために起こる現象で、クロップマークと呼ばれているそうです。
ちなみにこの記事を読んでから、私はもうすっかり空中写真を眺めるのが日常になってしまったかも。笑。
なかなかみられる現象ではありませんが、この茶臼塚古墳に現れるとは!
しかも昭和55年と現代の写真の両方に現れたクロップマークを見られるとは、びっくりです。
田植えが始まる前で、雑草が生えてくるような春頃ならば、ひょっとしたら生で確認できるかもしれないですし、今年の春頃もう一度行ってみようかな。。。

ここは、茶臼塚古墳の跡地の現代の様子。
中央の道路の右側が前方部、左側が後円部となります。
当然ながら古墳の痕跡は何も残されていないようです。

画像は、後円部の円形の影が浮き上がっていた地点の様子です。
残念ながら円形の影はみられませんね。笑。

ところ変わって、画像は茶臼塚西古墳の跡地周辺の現状です。
古墳は、径20m、高さ2mの円墳であるといわれ、円筒埴輪片や形象埴輪片のほか、土師器や末木の破片も採集されています。
古墳の痕跡はまったく残されていないのですが、画像の中央に小さな石塔らしき影がみえますよね?
気になってあぜ道を歩いてみました。

石塔はこれでした。
う~ん、、、残念。笑。
馬頭観音かなにかかと期待してしまったぜ。。。

町田稲荷塚古墳跡地周辺の様子です。
長径7.5m、短径4.7m、高さ1.3mの不整形の墳丘であったようですが、朔平される以前はかなり大きかったといわれています。墳丘切断の際に刀子が二振、出土しているそうです。
残念ながらまったく痕跡を見ることはできません。。。

毘沙門山西古墳はこのあたり。
やはり痕跡は見られません。。。

こちらが、毘沙門山古墳とともに現存する「町田古墳」の様子です。
かなり墓地化が進んでいるようです。

南西から見たところ。
都市帝国に似てるな。。。

北西から見たところ。
まだ若干の高さは残されていますね。。。

墳丘上の様子です。
残念ながら、毘沙門山古墳と町田古墳以外は消滅してしまったとされる寒川古墳群ですが、クロップマークを発見することができたのは大収穫でした。笑。
次回、「寒川古墳群その3」でも、消滅した古墳の検証を続けます。。。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
小 山市教育委員会『千駄塚浅間遺跡発掘調査報告書』
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- 2023/01/20(金) 20:35:59|
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今回から、「小山市内にかつて存在した幻の古墳群!」をテーマに寒川古墳群を取り上げようと思います。
寒川古漬群は、小山市の南西部、巴波川と与良川との間に広がる低地の方約1kmの範囲に広がる古墳群で、かつては前方後円墳 2 基と円墳 9 基で構成された、かなり大規模な古墳群であったといわれています。
しかし、残念ながら開墾や圃場整備のためにほとんどの古墳は削平され、現在は栃木県指定史跡である毘沙門山古墳と前田古墳の2基を残すだけとなっています。
ただし、圃場整備に先行して、昭和51年度に小山市教育委員会が行った三味線塚古墳、昭和52年度に栃木県教育委員が行った茶臼塚古墳・町田稲荷塚古墳・毘沙門山古墳、昭和53年に小山市教育委員会が行った鶴巻山古墳と、5基の発掘調査が実施されており、記録が残されています。
画像は、残存する「毘沙門山古墳」です。
昭和32年8月27日に栃木県の史跡として指定されています。

ほとんどの古墳が消滅してしまった中で、この古墳だけよく壊されずに残されたものだと思います。
かなり良好に残されていますし、まだ見学していないという古墳ファンにはお薦めな感じ。。。
画像は南から見た毘沙門山古墳です。
こちら側の墳丘裾部が若干崩されているようですが、南東に面する前方後円墳であったということですので、おそらくは前方部が削平された痕跡なのだと考えられます。。。

同じような角度からですが、春の写真です。
ちょうど水田に水が張られた時期ですね。
むう、いい眺めだぜ。。。
水面に浮かぶ浮島の如き毘沙門山古墳です。

墳丘北側に設置された説明板には次のように書かれていました。
栃木県指定 史跡
毘沙門山古墳
所有者 増山 徹
昭和32年8月27日指定
この古墳は帆立貝式の前方後円墳で、墳丘
は南東に面している。前方部と後円部の南側
から南西部の裾部が削平されているが他の部
分は原形をほぼ保っている。古墳の正確な規
模は不明であるが、周湟確認調査によると推
定全長41.2m、後円部径34m、高さ5.18mで
周湟幅は約1.2mである。この時の調査で周湟
内から壺形、甕形、高杯形の土師器や円筒埴
輪片が出土しており、これらの出土遺物から
築造時期は5世紀後半と考えられる。
小山市教育委員会

説明板の横に設置されていた「寒川古墳群」の看板。
残存する「寒川古墳」や「藤塚古墳」も寒川古墳群に属するように書かれているようですね。ふむふむ。
小山市の南西部、巴波川と与良川との間に広がる中里・鏡の地区には、方約1キロメートルの範囲にかつては5基の前方後円墳と7基の円墳が、5世紀末から6世紀に造営され群在し、寒川古墳群とよばれた。
いずれも標高20メートル程の沖積地に立地している為、農耕適地として開墾や圃場整備が進められる中でつぎつぎと削平され、現在は県指定史跡毘沙門山古墳(全長41メートルの前方後円墳)を残すだけとなっている。(5世紀代にはすでにこの地域を握った首長層が居住し、この勢力は後期古墳にも持続したと考えられる、この旺盛な力があればこそ大化の改新の後、この地を中心に「寒川郡」が下野国の一部として成立したことが理解されています。)

墳丘裾部には「史跡 毘沙門山古墳」の石碑が建てられています。
またその横に石段が設けられており、墳頂部に登ることができます。

2段目の石段。
それにしても、数ある大型前方後円墳もバカバカぶっ壊して農地にしてしまったわけで、色々と事情はあったのかもしれませんが、残念なことをしたものだと思います。
食糧の足りない戦時中ならともかく、戦後ですからね。。。

墳頂部の様子です。
氏神様の祠が祀られています。
「毘沙門山古墳」というぐらいですから毘沙門天の祠であると思われますが、このへんはちゃんと確認していません。。。
次回、寒川古墳群 その2に続く。。。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/19(木) 23:37:50|
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今回は、小山市塚崎に所在する「塚崎古墳群」の最終回。
最初の画像は「塚崎古墳群7号墳」です。
個人の民家の敷地内に残存しており、『小山市遺跡分布図・地名表』に記載の規模は「直径50m、高さ2m」です。
え?50m?とちょっとびっくりですが、実際に古墳を見学した印象は径20mから30mといったところでしょうか。
直径50mは誤りかもしれません。。。
昭和20年頃に石槨が出土しており、直刀が大谷南小学校に保管されていたそうですが、この行方はわからなくなっているようです。

同じく7号墳。
お尋ねしてみたものの不在だったので、敷地の外からのみの撮影となりました。

画像は「塚崎11号墳」です。
この古墳も個人の民家の敷地内に存在しますが、こちらは土地の所有者に許可を得て見学させていただきました。(せっかく見学させていただいたのに掲載しないまま4年も経ってしまいました。すみません。。。)
『小山市遺跡分布図・地名表』には規模「直径20m、高さ1m」の円墳とあり、「しいがしの大木が墳頂部に存する。」と書かれています。

とても整備が行き届いたお庭で、墳頂部には覆屋があり氏神様の祠が祀られています。

こちらは「塚崎12号墳」です。
『小山市遺跡分布図・地名表』には規模「直径15m、高さ1m」の円墳とあり、「氏神あり」と書かれていますが、この祠は確認しませんでした。。。

12号墳の北西に隣接して微妙な高まりが。
う〜ん、こりゃ古墳じゃないかな。
怪しいけど。。。

もう一ヶ所。
湮滅したとされる「13号墳」の跡地であるという民家の敷地に謎のカエルのオブジェが!
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/08(日) 22:10:00|
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今回は、小山市塚崎に所在する「塚崎古墳群」の第二回。
8号墳から10号墳までの3基を紹介します。
画像の旧道の分かれ道の間に馬頭観世音の石塔が2基、建てられています。
この背後の、雑木林となっている三角地に8号墳から10号墳までの3基の古墳が残存します。
かなりの藪なので、最初に夏に訪れた際には突入するのを断念してしまいました。
今回のは最近再訪して撮影した写真ですが、やはり藪への突入は冬がお薦めですね。笑。

馬頭観世音の石塔は道標も兼ねたものでした。
寛政七年の石塔には「右 結城 下妻 山川 下館」と刻まれているのが見えます。

まず最初の写真は「塚崎古墳群9号墳」です。
『小山市遺跡分布図・地名表』によると、径20m、高さ1.5mの円墳です。
ボーリング探査が行われており、墳頂した1メートルの位置に横穴式石室の存在が確認されています。

何度も盗掘が行われたのか、墳丘はわりとボコボコです。

9号墳の北側に、小さな塚状の高まりが存在します。
最初はこれが8号墳かなとも思いましたが、高まりのすぐ横に大きく掘られた穴が存在します。
比較的最近に掘られたゴミ穴か何かではないか?とも感じますし、古墳ではなく残土の山なのかも。。。

大穴がこれ。

大穴からさらに北側に8号墳と思われる塚状地形が。
こちらが8号墳ではないかと感じますが、真相は不明。
『小山市遺跡分布図・地名表』には、8号墳の規模は「径20m、高さ1m」と書かれていますが、ゴミ穴の塚もこの塚も同程度のかなり小さな高まりです。。。

さらに道路を隔てた北側にも気になる高まりを発見。
う〜ん。これは古墳ではないかもしれませんね。。。

10号墳ではないかと思われる高まり。
『小山市遺跡分布図・地名表』によると、径20m、高さ1mの円墳とされています。
この古墳もボーリング探査が行われており、墳頂した1メートルの位置に横穴式石室の存在が確認されているそうです。

10号墳の北側にもう一箇所、小さな塚状地形が存在します。
自然地形ではなく人工的に盛られた塚なのではないかと感じますが、古墳であるか否かは不明です。

塚の頂部にはコンクリートの破片が散乱しています。
例えば祠が祀られていたとか、なにか理由がありそうですが、古墳じゃないのかな。。。
次回、「塚崎古墳群」の最終回です。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/07(土) 23:51:36|
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今回から、小山市塚崎に所在する「塚崎古墳群」を取り上げようと思います。
塚崎古墳群は、大川とその支流が合流する付近から集落が途切れる南端にかけた台地上に存在します。
昭和15年(1940)に行われた古墳の分布調査記録によると、この古墳群は20基からなっていたそうですが、その大半は開墾などにより消滅して現在は9基が残存するのみです。

画像は、「塚崎古墳群1号墳」です。
個人の民家の敷地内に残存する古墳で、小山市教育委員会より昭和53年に発行された『小山市遺跡分布図・地名表』には、規模「直径50m、高さ1.7m」と書かれているようですが、この「50m」というのはおそらく誤りで、20mから30mというところではないでしょうか。。。

墳頂部には、氏神様が祀られているようですが、残念ながら参拝することはできませんでした。
古墳群中、3基の古墳から直刀が一振ずつ発見されているといわれていますが、その古墳名や遺物の所在についてはわからなくなっているようです。

こちらは「塚崎古墳群2号墳」。
『小山市遺跡分布図・地名表』には、規模「直径20m、高さ1.5m」と書かれています。
墳丘西側は削平されているようです。

以前にこの古墳群を見学した際、地元の農家の人と立ち話をしました。
「このへんは、えーっぱい塚があんだよ。んだから塚崎っつうんさ?」とお聞きして、私も「なるほど~」とか言って、のんびりと楽しくお話をしました。
それが今回は、「この数年、トトラクターの盗難が相次いでいるから、よそ者が歩いていると疑われるから気をつけたほうがいいぞ?」とお聞きしました。
いや、私が疑われたわけではなく、心ある忠告をいただいたと解釈していますが、年々物価は上がり、収入は上がらないという中、これから日本も治安が悪くなるのかなと思える寂しいエピソードですよね。。。

墳頂部に板が2枚置かれています。
これはきっと、石室が開口していてそれを塞ぐための板だな(ニヤリ)と感じて、土地の所有者の方にお尋ねしましたが、「いや、深い意味はない、、、」というお返事(笑)。
すぐに妄想してしまいます。。。

「塚崎古墳群3号墳」です。
『小山市遺跡分布図・地名表』には、規模「直径15m、高さ1m」と書かれています。

3号墳を南から見たところ。
この古墳群は比較的規模の小さい群集墳で巨大古墳は存在しませんが、それでも9基が現存するというのは、貴重な古墳群ですね。。。

4号墳は消滅しているということなのですが、跡地の周辺に気になる祠が。
古墳と何か関係があるのかな。。。
<参考文献>
小山市『小山市史 史料編・原始 古代』
小山市教育委員会『小山市遺跡分布図・地名表』
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- 2023/01/06(金) 22:05:03|
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