
今回は、久しぶりに現地説明会の見学の記録です。
先日、14日の日曜日に、山梨県中央市の二子塚古墳の現地説明会が行われました。
前日も当日も雨予報という中、説明会が行われると信じて前乗りしたのですが、当日はなんとか土砂降りにはならず、無事に説明会が行われました。

じゃん!
これが発掘された二子塚古墳の全貌です。
右手前が前方部、左奥が後方部といういう状況です。。。
曽根丘陵上にあるこの古墳は山梨県内二例目となる「前方後方墳」で、全長は約50mと県内で最大規模の古墳です。
令和二年度の試掘調査では古墳ではなく住居の存在が確認され、令和四年から調査が行われましたが、その結果古墳の周溝の一部が検出。翌令和五年に調査範囲が拡大されて古墳全体が発掘されたそうです。

これまで山梨県内では、4世紀前半の築造とされる「小平沢古墳」が唯一の前方後方墳であるとされてきましたが、今回の発見により、甲府周辺とはまた別の有力者が当時のこの地を支配していた可能性が推測されます。
墳丘の現状は1mほどの高さが残るのみであったそうですが、直線距離で2kmほどの隣の丘陵上にある「小平沢古墳(全長45m)」の高さが7mほどであり、この二子塚古墳も同じ程度の高さがあったと想定されているそうです。

旧豊富村の村誌にはこの二子塚古墳の記述が見られ、「地元では「小玉塚」や「二玉塚」という名称で呼ばれているが、これは王塚古墳のことを「玉塚」と呼んでいた時に呼応してつけられた名称らしい。宇山平古墳群の中の一つで、形態は不明。墳丘は削平されて、現状は畑地である。」とあるようです。
今回発見された古墳は厳密には二子塚古墳とされていた位置とは若干のズレはあるようですが、古墳の形態が前方後方墳で、高まりが二つであることを示す名称から、この古墳が二子塚古墳であると考えられています。
ちなみに説明会当日に地元の女性が話しておられたのですが、子供の頃(50年ほど前?昭和の後期)にはまだ若干の墳丘が残っており、さらには二子塚古墳と王塚古墳の間にも1基の高まりが残っていて、大きな穴の中に入ることができたそうです!!!
これは、消滅した「No.66古墳」のことなのか、はたまた未確認の古墳なのか不明ですが、興味深いお話です。。。

説明会には中央市の市長も挨拶に訪れていました。
やはりこの古墳の発見は注目されているようです。
古墳がどういう形で残されるかはまだ不明ということでしたが、良い形で残るといいなと思います。

古墳は「超」がつく見晴らしの良い場所に築造されていて、墳丘の上からは甲府盆地を見下ろすことができます。
いったいどんな権力者が埋葬されているのでしょうか。。。

古墳の下からは、弥生時代の住居跡が3軒、土坑1基、古墳時代の住居跡が7軒、時期不明の土坑19基が発見されています。
古墳時代の住居跡が4世紀中頃であることから、古墳はそれ以降に築造されたと推定されています。

説明会終了後、集合場所である中央市の豊富庁舎豊富支所に戻ると、出土品が公開されていました。
私は素人ですので土器の破片を見ても何が何だかわからないのですが、埴輪片だけは多少見分けがつくようになってきたかも。
真ん中が埴輪ですよね。。。

同じく出土品です。

お昼はほうとうを食べてきました。
量多すぎてもう必死です。笑。
アレですね。
甲州街道の高尾からさらに先へ一般道で走りたいを思っていたのですが、今回ようやく実現しました。
あいにくの雨であまり散策はできませんでしたが、いずれ一里塚散策をしたいと思っています。
もちろん山梨の古墳散策もしたいのですが、なかなか時間の余裕がなく、今後の宿題ですね。。。
<参考文献>
中央市教育委員会生涯教育課『二子塚古墳見学会資料』
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- 2023/05/15(月) 18:18:23|
- 山梨県の古墳・塚
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