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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「港区No.26遺跡(西向観音山古墳)」

港区「西向観音山古墳」1

 今回は、港区芝公園4丁目の芝増上寺境内に所在したとされる「西向観音山古墳」の探訪の記録です。

 実は、この場所を散策してからかなり時間が経過してしまっていました。
 撮影した画像の日付を確認すると、なんと2013年の8月でした。
 こういうの、よくあるんですよね、実は。。。
 『古墳なう』の「なう」は看板に偽りじゃんかよ〜と反省しつつ、見学した当時の記憶を掘り起こしながら紹介しようと思います。
 
 かつて芝増上寺本堂の背後(北側)には高さ28m程の小山があり、この頂部にあった小堂に等身大の石造観音像が立てられていたことからこの小山は「観音山」と呼ばれていました。また、この観音像が西を向いていたことから「西向観音」と呼ばれ、この小山は「西向観音山古墳」と呼ばれていたそうです。『東京都遺跡地図』には「隠滅」の青いマークで記されていますが、港区の遺跡番号26番の古墳として登録されています。

 画像は、この西向観音山古墳の跡地周辺を、西北西側の上空から見たところです。


港区「西向観音山古墳」8
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1179077&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された西向観音山古墳所在地の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 画像の中央に見えるのが西向観音山古墳で、円形というより方形らしき形状の墳丘が見られます。

 ちなみにこの地点を古地図で確認すると、明治14年のフランス式彩色地図ではかなり大きな塚状の高まりが確認できますし、明治17年の『五千分一東京図』に描かれている等高線を見ると、円墳ではなく前方後円墳の残骸なのではないかとも思えるような、南側に前方部らしき高まりが伸びた不思議な形状が見られます。
 1枚目のは東京タワーの展望台から撮影したものですが、もしもこの古墳が円墳、もしくは方墳であるとすれば、画像左側に墓地のあたりが墳丘であったと思われますが、前方後円墳と仮定するならば、墓地のあたりが後円部で、右側に伸びた駐車場のあたりが前方部だったのではないかと考えられます。


港区「西向観音山古墳」2

 画像は、昭和33年に発刊された『郷土史東京』に掲載されている、往時の西向観音山古墳です。
 昭和27年(1952)の秋に、南側から撮影されたというものです。

 この観音山は、大正12年(1923)の関東大震災の後に一部が取り崩されており、戦後はかなり荒れ果てていたといわれています。確かに、墳丘上に植栽が施されている昭和22年の空中写真と比べると、昭和27年の写真に見える墳丘の状態は荒れているようにも見えます。

 この古墳について、昭和2年に発刊された『上代の東京と其周囲』に記述が見られます。
 この書籍には、鳥居龍蔵氏により大正5年(1916)に行われた東京都内にある古墳の巡回調査の記録が記載されているのですが、この際に鳥居氏は芝丸山古墳とともにこの西向観音山古墳も訪れており、次のように記されています。

 (前略)それから尚ほ其の丸山と云はれる瓢箪形の古墳の下の處で貝殻の存在を調査し、それから尚ほ丘陵の上に登つて行つて、西向き觀音の頂上に登つた。此の上にも一つの古墳が殘つて居る。其の古墳は丸塚であつて、私は其の古墳の周圍に埴輪圓筒の立つて居るのを發見したから、それを掘出した。此の西向き觀音のある所は、一つの高い丘である。此の上に登ると、一面に品川旧字は灣を見晴らすのであつて、非常に眺望の宜い丘である。
 此の丘の下に增上寺が設けられて居る。此の增上寺のある土地と西向き觀音の丘陵と尚ほ埴輪の出た所の古墳一小群の所在地とは、多少離れて居るけれども、其の間には昔は尚ほ古墳が點々存在して居つたものと思はれる。これは增上寺を初めて建てた當時に、其の境内になる所の丘陵を崩した爲め、其の丘陵と共に其處に存在して居つた古墳も無くなつたのであらうと思ふ。兎に角此等を綜合して見ても、芝の公園の丘陵は、原史時代の古墳群をなして居る所であつて、昔の荒墓と稱すべき所である。扨て此處に出た埴輪及び其の埴輪人形の風俗、それから古墳から出た所の遺物等の上から見ると、埴輪を其の周囲に立てた所の古墳であつて、相當古いものであると見られるのである。(『上代の東京と其周囲』64~65ページ)



港区「西向観音山古墳」3

 観音山の跡地を南から見たところです。
 地上で観察すると、これが古墳の名残であるのかは不明であるものの、跡地周辺がわずかに小高くなっている様子が見られます。画像の左手前を前方部、右奥を後円部と仮定すると、道路が右にカーブするあたりがくびれ部ではないかなどと妄想してしまうのですが、何ともいえませんね。
 もし西向観音山古墳が前方後円墳であれば、南方に隣接して存在する「芝丸山古墳」の同程度の規模はあるのではないかとも思われ、長軸100m以上の大きな古墳ではなかったかと妄想してしまいますが、いかがでしょうか。。。


港区「西向観音山古墳」4

 さて、画像は、増上寺境内の現在の「西向観音像」です。
 現在は、立派なお堂に祀られています。
 この観音像には言い伝えが残されており、どの方向に向けても一夜のうちに西に向いてしまうことから「西向観音」と呼ばれることになったようです。また、この観音像はかつては奥州街道の一里塚の像であるとも言い伝えられているようです。少なくとも江戸時代以前には古墳は存在していたようです。
 現地説明版には「西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともにその間を通る街道を見下ろす形をとっていました。(後略)」とあり、この観音山について書かれています。


港区「西向観音山古墳」5

 昭和33年に発行された『郷土史東京』にもこの古墳についての記述が見られ、別所光一氏著「芝西向観音山古墳にあつた古墳」の中でこの古墳の埋葬施設についてふれられています。

 坂田諸遠著『野辺廼夕露』自筆草稿本は、全部十三冊あつて、別に音韻順の索引が一冊ついている。かつて筆者が記憶にとどめた芝増上寺境内古墳の記事はその第五冊の終りに書かれているのが発見された。最初には芝丸山古墳の記事と見取図があり、あとの方に西向観音古墳について次のような記事が出ていた。「一小堂あり同境内最高の岡なり。石像の一仏西向といへり……これは明治二十五年(一八九二)寺中普譜の為に穿して五尺或は幅三尺乃至二尺の平石一枚を得たり 又同形長三尺幅尺余の板石をも掘出せり 古墳石棺の側西の位置にあり 石室浜石にして他より運送せしものなるは明也 丸山を古墳なりとせば西向も亦古墳なるべしといへり 二墳共にいつの世いづれの人の古墳なりや知るに所由なし」と、このように述べている。もつとも、この西向観音山古墳の記事だけは初遠の実地見学ではなく、後藤という人から聞いた話をノートしたのであつた。同書の他の墓碑などの記述からくらべると、この記述は粗略なものだが、いずれにしろこの記事によって、ここから発掘されたものが長い板石と短い板石からなつていることから考えて、おそらく組合式石棺の一部、あるいはそれに類似の石槨の一部……であつたのではあるまいかと思われる。この点、丸山古墳周辺に点在する数基の小円墳が、内部の壁として丸石を積み、天井に数枚の石を置いたのとは、西向観音古墳からは丸石の出土が無かつたことからみて対照的である。(『郷土史東京』16~17ページ)

 実は、現地を訪れて最も気になったのが、西向観音のお堂の北側に建てられている、画像に見える大きな石です。
 『郷土史東京』の記事にあるように、西向観音山古墳からは組合式石棺の一部、あるいはそれに類似の石槨の一部と考えられる長い板石と短い板石が発掘されたといわれていますが、まさか、その出土した石材の一部が西向観音と一緒に移されてこの場所に祀られているのでは?と妄想したくなる、とても気になる存在です。
 この石については、この増上寺や、港区の郷土資料館などで尋ねてみたりもしたのですが、今のところ詳細は不明なままです。う~ん、石室材ではないかと思うんだけどな~。

 観音山の南方に残存する「芝丸山古墳」をかつて調査したという坪井正五郎氏もこの観音山を古墳であると考えていたようですし、周囲から鳥居龍造により円筒埴輪が掘り出されていることや、組合式石棺の一部と思われる「浜石」が掘り出されていることから推測すると、この「観音山」が古墳であった可能性はかなり高いのかもしれません。


港区「西向観音山古墳」6

 画像は、荒川区東尾久6丁目にある「下尾久石尊」です。
 この石尊様は房州石であると考えられており、古墳の石材の一部である可能性が指摘されているものです。
 西向観音に建てられている石とそっくりだと思いませんか。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-242.html

港区「西向観音山古墳」7

 西向観音像です。
 高さ七尺余のこの観音像は元弘の年に作られたといわれており、また北条時頼が諸国巡りでこの地に泊まった際にこの像を作り、辻堂を建てたともいわれています。

<参考文献>
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周囲』
別所光一「芝西向観音山にあつた古墳」『郷土史東京 第三巻 第二号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/04/17(金) 21:32:59|
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「港区№33遺跡」

「港区№33遺跡」

 「港区№33遺跡」は、港区麻布台1丁目に所在する古墳(円墳)ではないかと考えられている遺跡です。『東京都遺跡地図』には、港区の遺跡番号33番の「古墳?」として登録されています。

 江戸時代のこの周辺は大名屋敷が建ち並び、古墳らしきマウンドの周辺は「出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡」として港区の遺跡番号32番に登録されています。この遺跡の一角で昭和57年度に行われた発掘調査では、旧石器時代から古墳時代までの遺物が出土しており、この地で原始・古代から人びとが活動していたことが判明しています。そしてその後、平成26年(2014)には、古墳の位置や残存状況の確認と保護、保存のためのデータ取得のための、掘削を伴わない地中レーダー探査が行われており、古墳と、その周囲に築造された周溝が残存する可能性が確認されています。(まぎらわしいですが、古墳であると断定したわけでもないようです)
 古墳は麻布郵便局の建物の裏手にあり、立ち入りが許される場所ではないことから遠方からの撮影となりました。今後の発掘調査により古墳であることが確認されて、見学会が行われる日を待つしかなさそうですね。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』
港区教育委員会『港区埋蔵文化財調査年報 12』


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  1. 2018/01/14(日) 23:15:39|
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「一本松」

「一本松」

 画像は、港区元麻布1丁目に所在する「一本松」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、この一本松にまつわる多くの伝承が残されており、また古墳ではないかという説もある、とても興味深い塚です。

 慶長5年(1600)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県関ヶ原町)において徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍を打ち破ったとされる戦いが「関ヶ原合戦」ですが、これに先立つ同年8月23日、徳川方の東軍による岐阜城(岐阜市)への攻撃が行われます。この時の城主は一代の英雄、織田信長を祖父に持つ織田秀信でしたが、圧倒的な兵力の東軍により岐阜城はわずか1日で陥落。この際、徳川方の諸大名はその戦功を証明するため、討ち取った敵の首級を徳川家康のいる江戸城に送り、この首級を埋葬したといわれているのが「麻布の首塚」です。
 一説には「麻布の一本松」がこの首塚ではないかとされており、また古代の古墳ではないかとする説もあるようで、昭和16年(1941)に東京市麻布區より発行された『麻布區史』の894ページには「一本松 一本松町二十九 幹圍一・七米樹高十二米あり、大きな松ではないが、地名の起源をなした名松として有名である。尤も現存木は何代目かに當り、數十年前の植繼ぎに係るものである。(中略)松のあるところは曾て古墳であつたと云ふ説もあるが、現在では既に其の徴證を認めることが出来ない。ただ土地の概況からは古墳のありそうなところと見受けられる。」と、この一本松が古墳である可能性について示唆しており、また同書の903ページには首塚について「首塚 一本松增上寺隱居屋敷の邊で、關ヶ原役に岐阜より到着せる多數の首級を埋めた處である。」と書かれています。
 また、昭和35年(1960)に東京都港区より発行された『港区史 上巻』には、216ページに「スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年首を埋めたという首塚があり、戦争前まで家が建たなかつた。」とあり、また218ぺ-ジには、「このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。」とも書かれており、また別のページではこの塚の所在地について「麻布西町6番地辺」と特定しています。これらの情報からすると、首塚は一本松とは別の場所に存在したのではないかと考えられますが、学術的な調査が行われていない現状では、真相はまったくわからないようです。


「一本松」

 現在の一本松もわずかに塚状に小高くなっているようですが、古墳と思えるような痕跡は特に残されていないようです。『港区史 上巻』217ぺ-ジには「名の起りは現在も植え継がれている町中央の一本松より来ているが、この松については源経基に関する伝説があり、また、むかし松之宮様という京都から下つた人がここで亡くなり、衣冠と遺体を埋め印に植えたものであるという説もある。この説では、その供の小野某が、そばに如意輪観音の木像を安置して草堂を結んでいたが、いつのころか、そばの長伝寺へその観音は移されたとし、一本松というのは、この松の葉が一葉だからとも云つている。」と、この一本松の伝承について書かれています。


「一本松」

 塚上には「一本松の由來」と刻まれた石碑が立てられており、この碑には「江戸砂子によれば天慶二年西紀九三九年ごろ六孫源経基平将門を征服しての帰途此所に來り民家に宿す 宿の主粟餃を柏の葉に盛りさゝぐ翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う 注 古樹は明治九辰年焼失に付き植継 昭和二十年四月又焼失に付き植継」と、この一本松の伝説について刻まれています。
 ほかにこの一本松には小野篁が植えたという説、徳川家康が植えたという説、嫉妬深い女房が呪詛のために植えたという説、秋月邸の羽衣の松という説、古来一葉の松だったという説、氷川神社の御神木という説など、かなり多くの言い伝えが残されているようです。

 『東京都遺跡地図』には同じ台地上の南西側、有栖川宮記念公園内に2基の古墳が登録されているようですし、『都心部の遺跡』では古地図の検証により、現在のドイツ連邦共和国大使館の敷地内に所在する古墳の可能性が考えられる塚の存在を指摘しています。『麻布區史』にも書かれているように、立地的にはこの一本松が古墳である可能性は十分に考えられるのではないかと思いますが、残念ながら真相はわかりません。。。

<参考文献>
東京市麻布區『麻布區史』
東京都港区役所『港区史 上巻』
俵元昭『港区史跡散歩』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/01/13(土) 21:16:19|
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「亀塚」―東京都指定史跡―

「亀塚」―東京都指定史跡―
 「亀塚」は、港区三田4丁目の亀塚公園内に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には、港区の遺跡番号57番に登録されている古墳で、塚を含む遺跡範囲のすべてが「亀塚遺跡」として東京都の史跡として指定されています。

 画像は「亀塚」を西から見たところです。この亀塚と、塚が所在する亀塚公園は、江戸時代初頭には済海寺の境内にあり、正保4年(1647)には出羽国上山城主土岐家に境内に南側が分け与えられ、亀塚も土岐家下屋敷の拝領地となっています。亀塚伝説も土岐家に語り継がれ、享保4年(1719年)に土岐氏が自ら亀山碑を建てて、伝説の概要と亀塚の由来を記しました。17世紀後半から18世紀前半の地誌類にもこの亀塚について数多くの記述が見られることから、この頃には塚の存在はかなり知られていたようです。また『新編武蔵風土記稿』には「亀塚町」や「亀塚橋」などの地名が登場しており、その名称がかなり知られていたことがわかります。


「亀塚」―東京都指定史跡―

 この塚の頂部には上野国沼田城主土岐頼熙により寛延3年(1750)に建てられた「亀山碑」が現存します。幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、碑文には、平安時代に書かれた『更級日記』に見える「竹芝寺」の伝承地であることや、「亀塚の山頂にある酒壷から出てきた亀を神として祀っていたが、ある風雨の夜に酒壷が石と化した」という言い伝えについて、また太田道灌が斥候を置き、「河図」と呼ばれた場所であることが刻まれています。『更級日記』は平安時代中頃に書かれた回想録で、都の皇女と武蔵国出身の兵士である武蔵竹柴が夫婦となり住み着き(ようするに駆け落ちですな)、後にそこに竹芝寺が建てられたことが書かれています。


「亀塚」―東京都指定史跡―

 画像は塚の頂部のようすです。中央に見えるのが亀山碑で、港区教育委員会による説明板が建てられています。

 この亀塚が古墳ではないかと考えたのは、坪井正五郎氏ではないかといわれています。坪井氏は明治35年(1902)10月11日、当時華頂宮邸に所在していた亀塚の調査を行っています。当時の塚の高さは三間、裾の直径十間ほどの高まりで掘り崩された北側の土の様子から塚全体が人工的な盛り土であるとしています。
 坪井氏は亀塚の名称の由来について、塚から出てきた亀を土器の「瓶(かめ)」と読み、塚から土器が出土したのではないかと考えました。そして酒壺が石に化した言い伝えは、暴風雨によって塚上の土器が移動して土中の石槨の一部が露出したものではないかとしたようです。この坪井氏の説により亀塚は古墳であるという見方が定説となり、鳥居龍蔵氏は昭和2年(1927)に発行した『上代の東京と其周囲』では亀塚を古墳として取り上げています。
 その後、昭和45年(1970)から翌年にかけて港区教育委員会による調査が行われています。この調査によると、塚の規模は直径37.5m、高さ4.3mであり、古墳の可能性が高いと考えられたものの、埋葬施設や周溝が発見されなかったことから、古墳と断定するにはいたらなかったようです。
 ただし、この調査を行った慶応義塾大学教授の清水潤三氏は、昭和45年に作成された測量図の塚の北側に突出する高まりが見られることから、これが前方後円墳の前方部か帆立貝式古墳の造り出し部ではないかと想定し、亀塚の名称は古墳の形状からきたものではないかと考えたようです。
 現在の塚の北側は済海寺との境の塀があり、その向こうは墓地であることから、この説を証明することが不可能であるのは残念なところです。。。


「亀塚」―東京都指定史跡―

 江戸時代に土岐家の屋敷だったこの地は明治以後に華頂官邸となり、さらに内大臣の官邸となった後、廃墟となりました。戦後しばらくの間は一面の空き地となり、皇室林野局の所管でしたが後に亀塚公園として整備され、周囲は宅地となって現在に至っています。
 亀塚は、地中レーダー探査による詳細内容等確認調査を含む最新の調査が平成15年(2003)から平成19年にかけて行われています。この調査では、やはり埋葬施設や周溝の有無、塚の築造年代はわからなかったようですが、少なくとも確実に弥生時代以降に築造された構築物であること、また江戸時代以降に築造された可能性はかなり低いこと、また亀塚が古墳である可能性は従来に比して高まったとされています。
 現状としては、古墳として築造された後、築造当初とは異なった目的のために中世以降に塚として再利用された、というのが真相に一番近い結論かもしれません。


「亀塚」―東京都指定史跡―

 画像は、亀塚と同じ港区三田4丁目に所在する「亀塚稲荷神社」です。
 江戸時代には亀塚上にあり、酒壺の下に棲んでいた霊亀が化したとされる石を祀っているそうです。『港区史』によると、それは亀の形をした石であるといわれています。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』
東京都港区役所『港区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
港区教育委員会『港区埋蔵文化財調査年報 4』


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  1. 2018/01/12(金) 23:42:57|
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「港区№61遺跡」

「港区№61遺跡」

 「港区№61遺跡」は、港区三田3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、港区の遺跡番号61番の古墳として登録されています。

 この古墳について記述の見られる文献は限られており、詳細のわからない古墳です。昭和57~59年(1982~1984)に東京都教育委員会により実施された、東京都心部遺跡分布調査団による調査の際にこの古墳は把握されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』では「湮滅」とあるものの、「1965年頃、工事中に石棺が出土したとの話がある。」との伝承が記されています。おそらくは、この伝承が確認されたことにより、『東京都遺跡地図』に登録されたものと思われます。そして、この古墳についての記述は『都心部の遺跡』以外には見つけることが出来ず、これ以上の詳細はわかりませんでした。
 『都心部の遺跡』では古墳の所在地を「港区三田3-7」としており、同書と、その後に発行された『東京都遺跡地図』の分布図でもこの古墳の所在地は三田3丁目7番地内に記されています。画像は、この古墳の跡地とされる周辺を南から見たところです。この場所は「亀塚」の所在する段丘から一段下がった崖下にあたり、古墳築造の場所としてはいかにも不適当な印象ですが、本当にこの場所に古墳が存在したのでしょうか。。。


「港区№61遺跡」

 画像は、南東から見た港区№61遺跡の跡地周辺です。右上の階段を上ったところが、前期古墳ではないかとされる「亀塚」が所在する亀塚公園で、港区№61遺跡の跡地として登録されている地点は左下のマンションのあたりとなります。
 この一帯は、江戸時代には複数回の崖崩れが起こっているようですので、かつては段丘は海のある東側に張り出しており、その縁辺部に古墳が築造された、ということかもしれませんが、このあたりの真相は不明です。


「港区№61遺跡」

 古墳の跡地とされる地点の崖の上のようすです。更地のままおかれている感じが気になるところですが、発掘調査等は行われているのでしょうか。
 亀塚の所在地の北側の聖坂をややくだった道路の反対側の現在の普連土学園フレンド学園の校舎が建っているあたり、もとの松平氏邸内にも小規模な円墳と考えられる墳丘が存在したという伝承が残されているようです。この小円墳と港区№61遺跡、さらには前回紹介した「豊後森藩久留島家・丹波亀山藩松平家屋敷跡遺跡」から埴輪片が出土していることを考えると、亀塚を中心にその周辺には複数の古墳が存在しており、古墳群を形成していた可能性も考えられるかもしれません。港区内では、芝の丸山古墳群が、幕府の庇護を受けた増上寺の境内に所在したことにより比較的よく保存されたのに対して、亀塚周辺は東海道の街道筋にあたることから旧態を留めていないという状況もあるようですが、真相は今後の発掘調査の進展を待つよりほかはなさそうです。。。


「三田台公園」

 この近辺での見どころはやはり「三田台公園」でしょうか。港区内で唯一の遺跡公園です。
 亀塚古墳が保存されている亀塚公園と同様に、華頂宮邸の旧庭園だったところで、この公園の東側崖下に隣接する「伊皿子貝塚遺跡」では、昭和53年から1年半余りをかけて大規模な遺跡発掘調査が行われており、350平方メートルの貝層のほかに、縄文時代後期の竪穴式住居跡1軒や弥生時代の方形周溝墓2基、古墳時代後期の竪穴式住居跡2軒、平安時代の竪穴式住居跡1軒、江戸時代の土杭8基などが折り重なるように発見されています。
 三田台公園内には、復元された竪穴式住居跡や貝塚から直接剥ぎ取られて剥離保存された貝層断面などが展示されており、いつでも見学できるようになっています。


「三田台公園」

「三田台公園」

 人物埴輪や土偶が説明板を持ってお出迎え。


「三田台公園」

 敷地内に再現された竪穴式住居跡のレプリカです。


「三田台公園」

 園内に復元された竪穴式住居のようすです。コンクリート造りなのが残念なところですが、萱で葺いた復元住居は多くが火事になっているようですし、仕方がないところかもしれませんね。施設に取り付けられたボタンを押すと伊皿子貝塚遺跡の説明が流れてくる仕組みになっています。


「三田台公園」

 竪穴式住居の内部のようす。こういう、レプリカ内部に当時の暮らしが再現されているのはよく見かける気がしますが、暗くなってから来るとちょっと怖かったりします。。。


「三田台公園」

 伊皿子貝塚遺跡の貝層断面が剥離保存されています。
 この伊皿子貝塚遺跡からの出土品は、田町駅近くの港郷土資料館でも見ることが出来ます。亀塚や三田台公園を訪れるならばチェックしておきたいところです。。。

<参考文献>
東京都港区教育委員会・東京都港区文化財調査委員会『港区の文化財 第7集 三田と芝 その1』
俵元昭『港区史跡散歩』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
港区教育委員会『港区埋蔵文化財調査年報 4』


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  1. 2018/01/11(木) 23:51:26|
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