
今回紹介するのは、日光市倉ヶ崎に所在する塚です。
この周辺はとにかく塚が多くて、何基もの塚が密集しているような場所もあり、なかなか興味をそそる地域です。
旧今市市も含めて日光市内には古墳は存在しないということですので、中世以降の塚が多いのかなとは思いますが、中には古墳が残っていたりしないのかなと期待もしてしまいます。笑。
ここは、墓地内に2基の塚が並んでいます。
行き (宇都宮から日光に向かう際) にこの塚を見かけて、一日散策した帰りに同じ道を走っていて、塚のすぐ横に畑仕事中の人がいるのに気がついたので、車を停めて話しかけてみました。

お話をお聞きできたのは、塚の向かいのお宅の奥様でした。
奥様によると、ここは昔、馬捨て場だったと言い伝えられているそうです。

南側の塚の様子です。
こちらの塚には特に石碑などは見られません。
古墳ではないのかもしれないな、と感じますが、根拠なし。。。

北側の塚の様子。
栃木県内を散策していると、勝善碑や馬頭観世音碑といった馬に関する石塔類がかなり多く見られます。
農家で馬がたくさん飼われていて、農作業に従事する馬が大切にされていたのかなと感じます。
こちらの塚には、古い墓石や五輪塔などが多く建てられているのですが、最後は時間の余裕がなくなってしまって、石塔になんと刻まれているのかゆっくり見ることができませんでした。。。
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- 2023/06/22(木) 23:29:09|
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画像は、日光市轟に所在する「宗俊塚」を北から見たところです。
旧轟村の東端、道路南側の草むらの中にある塚で、直径約3m、高さ約1.2mほどの小さな六部塚です。
宗俊(轟早進)の子孫が宗俊の罪滅しのために六十六ヶ国を廻国して、喜捨(寺社や僧侶に寄付をすること)を受けたお金で塚を築き碑を建立したといわれています。
このために「宗俊塚」と呼ばれ、石碑には「正徳四庚申二月吉日」と刻まれていたそうですが、現在は風化が進み、この文字は判読できません。
また、塚上にはかつては大松があったそうですが、これも残念ながらすでに痕跡は残されていないようです。

宗俊は、三兄弟の次男で本名を弥兵衛といい、隣家の養子となり、後に宗俊と改名しました。
幼少の頃から身体が敏捷で剛胆、義侠心に富御武術を好みんだそうです。
七、八歳の頃、村外れの館坂あたりで遊んでいたとき、通りかかった武士に土下座をしなかったと大変叱られたことから、威張り散らす武士を極度に嫌い、武士たちに虐げられる農民を助けたいと考えるようになったということです。
十三歳の夏、通りがかりの武士に清水の所在を尋ねられ、弥兵衛は梅ヶ沢の泉に案内しました。武士は、腰の刀が邪魔で水が飲めぬから刀を持って控えておれと刀を差し出し、四つん這いになって水を飲みました。
弥兵衛は幼い頃に散々痛みつけられた武士のことを思い出すと、力いっぱい武士を蹴飛ばし、泉へ突き落とすと刀を奪って逃げてしまいました。
またある日、横暴な振る舞いの多い船生村の代官を懲らしめようと、田の検分に出た代官にわざとそ知らぬふりをして土下座をしないで見ていました。
怒った代官は家来に命じて槍を突きつけさせます。
身構えた早進は槍を奪い取り、組みつこうとする家来たちを田んぼの中に投げつけ、奪い取った槍をへし折って代官に投げつけ、振り返り載せずに立ち去ってしまったそうです。
彼はむやみに悪事を働いたわけではなく、悪徳な地主や商人を狙い、奪った品はいつも近所の貧乏人に与え、いつも子分を戒めて、正直者や貧困者を困らせるようなことはさせなかったといわれ、義賊として名を馳せたといわれています。

石碑には「正徳四庚申二月吉日」と刻まれていたそうですが、現在は風化が進み、この文字は判読できません。
<参考文献>
丹羽佳岐『おくのほそ道 奥州古道』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/06/07(水) 19:35:32|
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今回は、日光市倉ケ崎松原に所在したとされる「権現塚」の探訪の記録です。
この塚の散策にあたっては、削平されていることを知らずに塚を探してかなりウロウロと徘徊してしまったのですが、地元の方にお聞きして正確な跡地を突き止めることができました。
塚は、現在のスバルの会社の敷地を整地する際に壊されてしまったそうで、ほんの10から20年前までは高さ2〜3mほどの塚が残されていたそうです。
地元では、戊辰戦争の戦死者を埋葬した塚であるという伝承が伝わっているそうですが、塚の削平の際の発掘調査の報告書等は、少なくとも図書館では見つけることができず、学術的な調査が行われたのか否かは不明です。
少なくとも古墳である可能性はあまり感じませんが、戊辰戦争の戦死者を埋葬した塚であるなら人骨が残されていたりしそうだし、なにか遺物が出土しなかったのかとても興味深いですよね。。。
画像が権現塚の跡地の様子です。。。

ちょっと角度を変えて見たところ。
「今でも少し高くなっていて、塚の跡が残っているからすぐにわかるよ」とお聞きした場所がここで、確かに現在もわずかな地膨れが残されていました。
塚には、享保十三年(1728)の日月・三猿の柱型庚申塔が建っていたそうでなのですが、どこかに移されたのだろうかとさらに探してみたのですが、、、

跡地から数十メートルほど西側のスバルの敷地の隅に移設されていました。
この場所も塚状に若干小高くなっているように感じます。笑。
<参考文献>
丹羽佳岐『おくのほそ道 奥州古道』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/06/06(火) 23:04:37|
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今回は、日光市手岡に所在する「五輪塚」を取り上げようと思います。
この塚は、旧今市市内となる、県道149号線(小来川文挟石那田線)の道沿いの手岡公民館北東に所在します。
方形を呈する大きな塚で、頂部には大きな五輪塔が安置されています。
『今市市史』によると、旧今市市内には古墳は存在しないということになっていますので、この塚も古墳ではないのかな?とは感じますが、塚にまつわる多くの伝承が残されており、また周辺にも複数の塚が存在するという状況はなかなか興味深いです。

天正年間に壬生義雄に攻められて猪倉城は落城しました。
城主である鹿沼右衛門は、多気山城の芳賀氏を頼り落ちる途中で、手岡付近で板橋将監により捕らえられ、討死したといわれています。
戦いが終わって、村人たちが戦死者を哀れんで遺骸を葬った塚があちこちに残されており、その中の1基であるこの「五輪塚」が鹿沼右衛門の墓であり、その供養のために建立されたのが五輪塔であると伝えられています。

西から見たところ。
道路側は多少削られているのかな?という印象です。
画像ではわかりにくいかもしれませんが、方形を呈する形状がおわかりでしょうか。。。

塚上には覆屋が建てられており、五輪塔やその他の石造物が置かれています。

五輪塔はとても大きくて立派なものです。
背後に回り込んで撮影しましたが、五輪塔は覆屋の奥にあってなぜか雨ざらしという、、、笑。

五輪塚の道路を挟んだ南方にもう1基、塚が所在します。
『今市史談 第3号』の4ページにある「手岡の文化財」の「伝・鹿沼右衛門の墓」に書かれている「村人たちが戦死者を哀れんで遺骸を葬った塚が今もそちこちにあり、、、」という内の1基がこの塚であると考えられます。

実はこの五輪塚の見学は、前回取り上げた正体不明塚の土地の所有者の奥様にお聞きした情報がきっかけになりました。
奥様は生まれがこの手岡で、若い頃に人に案内されて古墳だという塚を見たことがあるそうなのです。
この古墳を案内してくれたという人は『今市の歴史』の著者である佐藤治由氏で、さらには同書に古墳に関する記述があったはず、ともお聞きしました。
手岡にはかつて「長者が池」という地元ではかなり知られた池があり、そのすぐ近くに古墳らしき塚があり、佐藤治由氏の案内の下で見学したということなのですが、調べてみると長者が池は現在はゴルフ場の敷地となってしまっています。
したがって、古墳もゴルフ場に取り込まれてしまった可能性が高く、またそもそも正確な位置もわからないので、現在どうなっているのかは確かめようもありません。
その後、色々調べてから、あらためて後日に出直して手岡周辺を散策したところ、この五輪塚と向かいの塚を見つけた、ということになります。
ひょっとしたら奥様からお聞きした古墳というのはこの五輪塚なのかもしれませんし、はたまたまったく別の塚なのかもしれませんし、真相はわかりません。
『今市の歴史』も図書館で探して読んでみたのですが、古墳に関するという記述も見当たリませんでした。
この地域に存在する塚ということになるとやはり古墳ではなく、合戦の戦死者を埋葬した塚なのではないか?とも妄想してしまいます。
塚の頂部には、バラバラになった五輪塔の残骸が転がっていました。
<参考文献>
今市史談会『今市史談 復刊第3号』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/06/01(木) 01:57:44|
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画像は、日光市土沢に所在する「正体不明の謎の塚」です。
ここ、最初に通った時には「あ、塚がある」と存在に気が付きながらも、その時は夕方暗かったこともあって、Googleマップに位置を記したのみで素通りしました。
その後、旧今市市の図書館で調べてみたりもしたのですが、塚の性格についてはよくわからないままでした。
最近になってこの塚の横を通った際に土地の所有者の奥様?らしき人影を発見!
もはや直接お聞きしてみるしかない!ということで、近くに車を停めてお伺いしました。
実は塚は2基あったのですが、画像は路上から最初に確認した1基です。
小円墳、という規模の高まりで、直径は10m弱、高さは約1.5mというところでしょうか。
塚上には祠や石碑などは存在せず、表面観察のみではいったいなんの塚なのかさっぱりわかりません。。。

東側の林の中に残存する1基です。
西側の塚よりは若干小さな印象で、直径は5〜6m、高さは1mといったところでしょうか。。。
この2基の塚について、土地の所有者の奥様にお話をお伺いしましたが、奥様もこの塚がなんなのかずっと気になっていて自分なりに調べてみたのだそうです(奥様以外の家族は塚にまったく興味がないと嘆いておられました。笑。。。ま、それが普通かもしれませんよね。。。( _ _ )..........o
しかし、塚の由来については何もわからず、周辺にお住まいの古老の方に聞いてみても誰も知らなかったそうです。

というわけで、塚については何もわかっていないに等しい状況ではありますが、アップしておかないと何年も放置しかねないし、なるべくタイムリーに掲載したいし、何かわかった際にはこっそり書き換えることにして掲載しておきます。
奥様には近くの石塔の場所にも案内していただきまして、画像はその様子です。
奥様の腕が写っています。笑。
ホント、楽しい時間をありがとうございました。
ちなみに奥様には、旧今市市内に所在したという古墳ではないかという塚の情報もお聞きしておりまして、次回はその探訪の記録をお届けします。。。
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- 2023/05/27(土) 19:38:55|
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今回は、日光市猪倉に所在する正体不明の謎の塚です。
前回紹介した「犬塚」を探しているときに、車で駆けつけてまで場所をお教えいただいた地元の方が、「こういう古墳みたいな塚はもう一箇所知ってるけど、案内しようか?」とおっしゃっていただきまして、、、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきました。(お教えいただかなければ塚の存在に気が付かなかったと思うし、ホントに感謝です。涙)
画像の道路左側の雑木林の中に塚は所在します。。。

「犬塚」と同じ日光市猪倉地内にあり、犬塚から車でほんの2〜3分ほとの近距離にある塚です。
塚は新里街道沿いにあるのですが、ちょうど旧道と新道とが枝分かれした旧道沿いにあるのでこれまで気がつかなかったのですね。。。
自然地形ではなく、明らかに人工的に盛土された塚である印象ですが、はっきりと方形を呈する形状からすると、古墳ではなくもっと後世に造られた宗教的な塚なのかな?とも感じます。
前々回に取り上げた9基の塚群ともかなり近い位置にありますが、塚の性格的にはまったく別ではないかと感じさせます。。。

塚上には特に祠や石碑などもなく、表面観察だけでは何の塚かはわかりません。
地元の図書館で調べた限りではまだ塚の性格までは判明せず、今のところ詳細はわからないのですが、なるべくタイムリーに掲載したいし、何かわかった際にはこっそり書き換えるつもりで掲載しました。
ちなみに右側の人は私ではなく、案内していただいたという地元の方なのですが、人が写っている方が塚の規模もわかりやすいし、ということで掲載しちゃいました。

塚上から見下ろしたところ。
かなり高さが残されていますし、ほとんど崩れていないんじゃないかな。。。
微妙に角張っているのがわかるでしょうか。。。

「塚は昔は2箇所にあって、向こうの墓地の手前にも1基あったんだけど、気がついたらいつの間にか無くなっちゃったんだよなあ、、、」とおっしゃっていたあたりに微妙な高まりがあったので、撮影しておいたという1枚。
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- 2023/05/26(金) 18:20:19|
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画像は、日光市猪倉に所在する「犬塚」を西から見たところです。
この塚は、通り掛かりに偶然見つけたのではなく、前回取り上げた塚群について図書館で調べていてその存在を知りました。
正確な塚の所在地がわからず、近隣にて地元の人に場所をお聞きして、塚を探してウロウロしていたのですが、なんと道をお聞きした方が心配して軽トラで駆けつけてくれて、場所まで案件していただきました!(しかもその後、未発見の塚の場所までも案内していただいたりして、ホントになんとお礼を言っていいのかわからないのですが、心の底から感謝です。)
撮影した日が、ちょうど田んぼに水を入れて始めた時期で、逆さ富士ならぬ「逆さ犬塚」という感じで、いい写真が撮れました。笑。

戦国時代、この地方では日光山勢、宇都宮氏、鹿沼の壬生氏などの勢力争いが繰り広げられていたそうです。
ときに天正年間、徳雪斎は鹿沼城の支配権を手中に収めるため、鹿沼坂田山の城主である甥の壬生上総介綱雄を暗殺してしまいます。
壬生氏を攻略して我がものにしようという企みでしたが、逆に綱雄の?男上総介義雄に討ち滅ぼされてしまいます。
この時、猪倉城主の鹿沼右衛門は徳雪斎のほうに味方をして鹿沼城を乗っ取り、宇都宮氏と連合して勢力を拡大しようとします。
義雄は、徳雪斎を倒した勢いをかって猪倉城を攻めようと、壬生氏と同盟を結ぶ板倉城主板倉将監親棟に頼み、板倉城を攻めます。
板倉勢に囲まれて危機に瀕した鹿沼右衛門は、宇都宮の出城田気城の芳賀氏の助けを求めようとしますが、幾重にも囲まれた城から抜け出す手段がありません。
そこで、自分の愛犬の首に密書を結び、田気城に走らせますが、愛犬は敵の手中に落ちて殺され、城は落ちてしまったそうです。
村人は勇敢な犬を憐み、戦いが終わった後に小さな塚を築いて手厚く葬ったといいます。

塚の土地の所有者の方には、色々とお話をお聞かせいただいた上で塚を見学させていただきました。
伝承については、親から伝え聞いてはいるものの詳しい内容までは知らない、ということでした。
所有していた、伝説について書かれた書籍のコピーをお渡しできたのですが、すごく喜んでいただいたのが嬉しかったです。
多くの塚を廻り歩く中、こうした伝説が若い世代に伝わり難くなっているのではないかな?とも感じられますし、この『古墳なう』にて少しでも記録を残せればいいかなと思います。
あちこちで、色々な方にお世話になりながら古墳廻りを続けていますが、楽しい時間がずっと続けばいいですね。。。
。
次回も、旧今市市の塚を続けます。
<参考文献>
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
渡辺武雄『聞き覚え いまいちの伝統と昔話』
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- 2023/05/25(木) 20:46:29|
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今回は、日光市猪倉にて見かけた「謎の塚群」を取り上げたいと思います。
日光市は、旧今市市も含めて古墳は存在しないと理解していましたので、これまでほとんど深追いしていませんでした。
ただし、日光方面に出かけた際に、街道沿いに明らかに人工的に盛られたと思われる塚が存在するのを何度も目にしており、塚の横を通り過ぎるたびに気になって、Googleマップに位置を記したりしていました。
だんだんと記した塚の数が増えてきたこともあり、また塚の由来を知りたくなってきたこともあり、今年になって日光市内の図書館で調べてみました。
古墳に関しては、やはり現状は存在しないということではありますが、塚に関しては多少わかってきたこともあるので、ここで一度、見に行った塚を整理しておこうと思いました。(アップしておかないと、何年も放置しちゃうしね。笑。)
というわけで、まず最初は日光市猪倉で見つけた正体不明の塚群です。
この塚群は、車で移動中に偶然に発見しました。
最初にここを通過したのが真冬で下草が枯れていたこともあり、南基もの塚が密集してボコボコと盛り上がっているのを見かけた時は「まさか古墳群?」とびっくりしました。
あらためて写真を撮りに行ったのはわりと最近です。(真冬に撮っておけばよかったとちょっと後悔。。。)
図書館で、この塚に関する記述のある文献を探しましたが、この周辺にある塚の記録は色々と見つかったのですが、この塚群の記述はなかなか見当たりません。
仕方がないので、写真を撮りに再訪した際に、地元の人に聞き取り調査を敢行しました。(´д`)┌
画像の林の中に、8基もの塚がはっきりと残されています。
旧今市市や現在の日光市の遺跡分布地図は実はまだ見たことがなくて(あるかないかわからないのが実情ですが)、名称や「××号塚」みたいな番号はわかりません。
なので、当日撮影した順に紹介します。

1基目。
もっとも道路沿いにあり、最初に視界に入った塚です。
この、道路沿いにある最初の塚だけは東西に細長い感じで、たとえば道路の敷設工事により崩されてしまったのか、それとも単なる残土の山なのかよくわかりません。

1基目を南から見たところ。

2基目。
1基目より奥(東)にあるかなり小さな塚で、古墳という感じはしないかも。。。

さらに奥の3基目。
中くらいの塚です。
塚の大きさはまちまちな感じで、やはり古墳群ではなく塚群なのかなあと感じます。
左奥に一番大きな塚が見えています。かなり密集した様子がわかると思います。


さらに奥の4基目。
中くらいの塚です。
右奥に、1基目の塚が見えています。

もっとも東にある5基目。
中くらいの塚です。
この塚は、塚上にあった木が根こそぎ倒れていて、頂部に穴が空いています。
内部になにか見当たらないかと期待しましたが、雑草でよくわかリませんでした。。。

6基目。
これも現状径6~7mほどの中くらいの塚です。

この7番目の塚がもっとも大きくて高さもあり、まるで古墳のようです。
路上からも最も目を引く塚ですね。。。
現状の直径は8~10mほどでしょうか。

8基目は最も北にある塚で、中くらいの大きさ。
雑草が多くて、全体像のわからない状況でした。
さて、この塚群について、道路を挟んだ西側のお宅のおばあちゃんに話をお聞きできました。
おばあちゃんが若い頃、歳の近い友人がいて、その友人の叔父さんが地元の名士という感じの人で、教師をしていたそうですが(イメージ的には明治後半か大正生まれ、という感じじゃないかな。。。)、その叔父さんから当時に聞いた話ということで、戊辰戦争の兵士が福島方面に向かう途中で力尽き、亡くなった人たちを埋葬するために地元の人が築いた塚だと伝わっているそうです。
この周辺地域では、戊辰戦争にまつわる塚が数多く残されているようですし、史実である可能性は高そうですよね。
また東側の民家のご主人にお聞きしたところでは、近くにあった猪倉城に関係する合戦の際に亡くなった兵士が埋葬されているという伝承があるそうです。
ちなみに、『故里百話 今市の懐旧』という書籍の「首塚」という項に「下猪倉に笹の丸という猪倉城の出城があり、近くの犬塚橋の辺りに二つの土盛りの塚がある。里民は首塚と云い伝えている。」とあり、また『郷土史 猪倉町・木和田島町・大沢町』にも同様の記述が見られます。
犬塚橋の南東という記述からして、この塚群のことを指しているのではないか?とも感じるのですが、塚は8基あり、「二つの土盛り」という記述には合いません。
このあたりの真相解明は今後の宿題ですね。。。

ここまでの8基は道路の東側に密集していましたが、最後の1基は道路を挟んだ西側にあります。
塚上には祠が祀られています。
これはすごく古墳ぽいよね。笑。
この塚群、今のところ学術的な調査の記録は見つかっていませんが、少なくとも塚の名称ぐらいはあるんじゃないかな?と思うのですが、黒れは詳細がわかったら追記しようと思っています。
伝承の通り、少なくとも古墳ではなく、後世に築造された塚なのかな?と感じますね。。。
それにしても。。。
風呂に入ろうとして扉を開けたら窓に何かくっついていて、よくみたら巨大なスズメバチでした。
ぶうううんと大きな音で飛び始めたので、慌てて扉を閉めました。
素っ裸じゃスズメバチとは戦えないよね。
風呂場には毎年何かが侵入してくるのですが(昨年はムカデとなめくじ)、いまだに慣れない毎日。。。
<参考文献>
福田分次『郷土史 猪倉町・木和田島町・大沢町』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/05/22(月) 19:37:35|
- 日光市の塚
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