
いやはや、降りましたね、大雪。
今日は特別編ということで、雪の野毛大塚古墳です。。。

4年前に、同じように大雪が降ったときには、府中の熊野神社古墳を見にいったのですが。
次に大雪が降ったら、必ず野毛大塚を撮りにいこうとずっと待っていたのです。。。

純白に染まった前方後円墳の背後に澄み渡る青空!
そんなのを思い描いてました。笑。

今日を逃したら、チャンスは一生来ないぜ、と。

足跡ひとつないピカピカの墳丘を目指したんですけどね。
ちゃんと先客がいるんですわ、これが。。。

埴輪の復元の予定はないみたいですね、今のところ。。。

さよなら。
また来るから。
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- 2018/01/24(水) 00:03:27|
- 世田谷区/野毛古墳群
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野毛大塚古墳シリーズ最終回は、復元された埴輪が取り払われてさっぱりしてしまった野毛大塚古墳の最新画像です。
復元された埴輪は有田焼で、バブルの時代に3000万円ほどをかけて復元したと聞いた記憶があるのですが、子供達が飛んだり跳ねたりして遊び回っている公園内で、埴輪は激しく破損していました。これからあらためて復元が行われるのかどうか楽しみに待ちたいところですね。
野毛大塚古墳は、武蔵国で最初に葺石が葺かれた古墳であるといわれており、古墳の表面はすべて多摩川の自然石を使用した葺石で覆われていたといわれています。これを機にテニスコート側や道路側の墳丘も整備して、葺石の復元も願いたいところです。(無茶ですね。笑。)
大正の頃には、この野毛大塚古墳の墳丘上から遠く品川の海まで見渡すことが出来たそうです。なかなかこう、現代は見通しの良くない時代なのかも知れませんね。。。
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- 2018/01/09(火) 23:30:35|
- 世田谷区/野毛古墳群
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野毛大塚古墳の所在する、世田谷区野毛1丁目の玉川野毛町公園では毎年10月に「野毛古墳まつり」が開催されています。世田谷区学芸員の先生の古墳解説があり、野毛古墳群を実際に散策しての古墳群解説ありと、なかなか中身の濃いお祭りです。
画像は、「第8回野毛古墳まつり」が行われた平成27年10月18日の野毛大塚古墳です。古墳の横に見えるマスコットは、東急電鉄のキャラクターの「のるるん」が見えます。当日は多くの子供達が、このキャラクターの中で遊んでいました。

野毛大塚古墳や、周辺古墳から出土した遺物が展示されています。
画像は、復元された「甲冑」です。野毛大塚古墳の中央の棺にのみおさめられていたもので、鉄の板と帯を革でつなぎ合わせて作られているそうです。鉄製の甲冑は当時の王の権力を示す最も重要なもので、当時の最高権力者である倭の大王から配布されたと考えられています。

画像は、野毛大塚古墳から出土した円筒埴輪と柵形埴輪です。

毎回必ず行われているのが「野毛大塚古墳と古墳群解説」です。世田谷区学芸員の寺田先生による解説はいつも充実した内容で、古墳好きには必聴ですね。皆さんいつも真剣に聞き入っています。。。

「野毛古墳群散策」では、「等々力渓谷横穴墓群」や「御岳山古墳」、「狐塚古墳」等を、やはり学芸員の先生による解説を聞きながら散策します。通常は立ち入ることの出来ない御岳山古墳の墳丘も、この日は見学が許されます。画像は、平成24年(2012)の第5回野毛古墳まつりにて撮影した、御岳山古墳の墳頂部のようすです。

「古代体験コーナー」では、子供達が楽しそうに土器作りに励んでいます。

毎年少しずつ盛り上がっているように感じますが、今年はどうなるのか楽しみですね。。。
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- 2018/01/08(月) 23:24:47|
- 世田谷区/野毛古墳群
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「野毛大塚古墳」は、世田谷区野毛1丁目の玉川野毛町公園内に所在する、5世紀に築造された帆立貝式前方後円墳です。閑静な住宅街に保存されているこの古墳は全長82メートルを誇る、都内でも有数の規模を誇ります。墳頂部には第1~第4主体部と呼ばれる四つの埋葬施設が確認されています。

平成元年(1989)から平成4年(1992)にかけて発掘が行われた第1、第3、第4主体部からの出土品は世田谷区教育委員会が所蔵しており、平成28年(2016)に重要文化財に指定されています。そして、大半が東京都国立博物館に所蔵されているという、明治30年(1897)に第2主体部である箱形石棺から出土した副葬品が、新たに平成29年(2017)に重要文化財に指定されています。これらの出土品が、平成29年7月11日から9月10日にかけて、東京都国立博物館平成館の企画展示室にて公開されていました。


写真上は「滑石製模造品」です。木器や鉄器、土器などの器物を滑石という柔らかい石材で模造したもので、水の祭祀にかかわるこの滑石製模造品は出土例が少なく、貴重であるようです。
写真下は「滑石製下駄」で、木製の下駄を模造したものです。槽で清められた水を汚さないようにするため、祭祀の執行者が木製下駄を履いたのではないかといわれているそうです。


写真上は「滑石製皿」です。皿形の木器などの容器がモデルだそうです。
写真下は「滑石製坩」です。滑石製皿とともに、祭祀の際に、神に捧げる飲食物を入れるための容器を模造したと考えられています。

画像は「滑石製鎌」と「滑石製斧」です。祭祀の際に、これらの農具を使って、豊作を願ったのでしょうか。。。

画像はちょっとわかり難いですが、左から「碧玉管玉」、「ガラス小玉」、「瑪瑙勾玉」が写っています。すべて、首飾り等として身に着けるための装身具の滑石製の模造品です。

画像は、滑石製刀子がずらりと並んでいます。代表的とされる20種類が展示されていました。野毛大塚古墳の第2主体部からは232点以上も出土しており、一つの埋葬施設からの出土量としては東日本で最多です。


画像上が「鉄刀残欠」下が「鉄剣残欠」です。東京都国立博物館には鉄刀が6本、鉄剣が3本残っているそうです。甲冑や大量の武器は、近畿地方の百舌・古市古墳群に代表されるヤマト王権との深いつながりが、入手の背景にあったと考えられているそうです。。。

画像は「円筒埴輪残欠」です。野毛大塚古墳は、円筒埴輪、朝顔形埴輪、鰭形円筒埴輪が墳丘の各テラスを巡っていました。前方部には家型埴輪、壺形埴輪、水鳥形埴輪が、造出部には柵形埴輪が取り囲み、内部には鳥形埴輪や家型埴輪が置かれていたそうです。

国立博物館は、展示品は見やすいし解説は読みやすいし、いつもあっというまに時間が過ぎてしまいます。展示品の高さとか角度とかデザインとか、すべてが計算されているのですよね、きっと。特に、平成館は私にとっては見どころが満載で、いつも時間が足りなくなってしまいます。
以下、「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」その4に続く。。。
<参考文献>
東京国立博物館『特集 新指定 重要文化財 野毛大塚古墳ー世田谷の中期古墳ー』
世田谷区立郷土資料館『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』
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- 2018/01/07(日) 00:56:28|
- 世田谷区/野毛古墳群
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野毛大塚古墳の出土品は、平成28年に国の重要文化財として一括指定されました。世田谷区世田谷1丁目の世田谷区郷土資料館では、平成28年10月25日(火)から12月4日(日)にかけて特別展、「国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展」が行われ、初公開となる資料も含む150点あまりの出土品が公開されています。
私は、この特別展には平日の朝方に訪れました。時間が早かったせいか見学に訪れる人の数は少なく、ほぼ貸し切り状態でゆっくりと見学することができました。

築造途中の、野毛大塚古墳のミニチュア模型が置かれていました。
帆立貝形という墳形は、百舌鳥・ 古市古墳群の超大型古墳の周辺に造営された中小古墳に採用された形状で、この墳形は、大型前方後円墳の被葬者に次ぐ地位の人物のさらにその下に位置する人物が埋葬される古墳に採用される形態なのだそうです。野毛大塚古墳の被葬者と畿内政権との密接な関係を窺わせる墳形です。。。

野毛大塚古墳出土の埴輪で、二つとも円筒埴輪です。これはどちらもよく見る形状ですね。

同じく野毛大塚古墳出土の埴輪です。左から朝顔形円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、柵形埴輪です。
柵形埴輪は、畿内を中心に見られる特殊な埴輪で、上端に山形突起をもつ柵形埴輪の特徴が、畿内周辺に多く出土している囲形埴輪の特徴と一致しており、またその出土位置がほぼ造出の周辺に限定されることなど、多く共通点のあることがわかっているそうです。
画像は、第1主体部から出土した内行花文鏡です。直径11.5cmで、棺内の被葬者の肩部付近と思われる場所の右側に、鏡面を内側に向けた状況で置かれていたそうです。
埋葬施設は、すでに発見されていた組合せ式の箱形石棺である第2主体部とは別に、中央部に第1主体部(粘土槨、割竹形木棺)、その北西側に第3主体部(箱形木棺)、さらにその北西に第4主体部(木棺)と、計4基の存在が明らかになっています。

同じく、第1主体部から出土した鉄刀・鉄剣・鉄槍です。
第1主体部には刀剣類17点、第3主体部には33点が副葬されており、第2主体部の9点、第4主体部の2点と合わせて計61点の鉄製武器の出土は、これまでに知られる関東の古墳の中でも類を見 ない豊富さです。盗掘が行われずに残されていたことも貴重ですね。

第3主体部より出土した鉄刀・鉄剣です。
以下、「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」その3に続く。。。
<参考文献>
世田谷区立郷土資料館『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』
世田谷区郷土資料館『資料館だより No.65』
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- 2018/01/04(木) 23:43:10|
- 世田谷区/野毛古墳群
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新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
画像は、世田谷区野毛に所在する「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号127番に登録されている古墳です。
この古墳は、多摩川の下流域左岸の武蔵野段丘上に所在する古墳で、現在も玉川野毛町公園の一角に保存されています。全長82mという全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部が付設されています。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mで、後円部の高さは10mです。5世紀初頭に築造されたと推測されるこの古墳の墳丘は3段に構築されており、全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされていました。(実はこの画像は何年か前のもので、復元された円筒埴輪が古墳の周囲を巡っていましたが、現在はこの円筒埴輪は撤去されて存在しません。)
この古墳は古くから知られていたと考えられ、江戸時代後期の地誌である『新編武蔵風土記稿』には「東大塚」の名称で取り上げられており、
東大塚 字原ニアリ、小山ノゴトク丸石ニテ築アゲ、高二丈許ナリ、此邊ヲスベテ古壘ノ跡ト云傳ル所ナリ、サレバ村民等ヲリトシテハ、布目瓦ノ如クナルモノ、瀬戸物ノカケ、又ハ何モノトモワカネド、ウズ巻ノカタアル土器ナド、掘出セシコトモアリシト、此所スベテ臺ノ上ナレバ、多磨川ヲ眼下ニ見下シ、又塚ノ上ヨリ望バ、品川沖ノ海原ヲカケ、遥ニ安房上総ニ及ベルサマ、絶景ノ地ナリ、ハタ要害ニモナルベキ所ナレバ、土人ノ古壘跡トイヒ傳ルモサモアルベシ、サレドソノ事實ハ詳ナルコトヲ知ベカラズ、
と書かれています。
同書の「小山ノゴトク丸石ニテ築アゲ」とは、当時まだ墳丘が葺石で覆われていたようすが、また「布目瓦ノ如クナルモノ」は埴輪のようすが書かれているとされ、、また「ウズ巻ノカタアル土器ナド」とは縄文土器が示されていると考えられているようです。また、「土人ノ古壘跡トイヒ」と、この大塚古墳を古代の墳墓ではなく、砦などの古壘であると考えられていたあたりは、とても興味深い記述です。

画像は、西側から見た野毛大塚古墳の後円部のようすです。古墳の西側には、「都史跡 野毛大塚古墳」と刻まれた石碑と、東京都教育委員会による説明板が設置されており、説明板には次のように書かれています。
東京都指定史跡
野毛大塚古墳
所在地:世田谷区野毛一ー三十六
指 定:昭和五十年二月六日
野毛大塚古墳は全長八二メートル、後円部の高
さ一〇メートルの帆立貝式の前方後円墳で、前方
部に近接して小さな造出部が付設されている。墳
丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠
を含めた全長は一〇四メートルである。三段に構
築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪
がそれぞれの段にめぐらされている。
後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に
粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、
北西側に二基の箱形木棺が納められている。割竹
形木棺からは甲冑,刀剣,鉄鏃などの武器・武具類,
鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛など
が、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造
品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣、鉄鏃、
鉄鎌、石製模造品、玉類などがそれぞれ出土して
いる。
野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表
する五世紀前半に築造された古墳である。出土し
た多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳
が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。
平成5年3月31日建設
東京都教育委員会
その後、明治30年(1897)5月頃、好奇心に駆られた地元の3人の青年が墳頂部を掘り起したことにより、野毛大塚古墳は一躍世間の注目を浴びることとなります。
地元下野毛の青年が古墳を掘り起こしたところ、その青年が奇妙な死に方をし、たたりにあったと言う噂が広がりました。また、一人の青年は血を吐いて死に、もう一人は狂ってしまったそうです。死んだ青年の弔いに立ち会った者までが、頭痛を訴えて寝込んでしまったそうです。
次の朝、新村の世話役で名主の兵衛が、思い当たることがあって大塚へ行ってみると、狂った青年がそこで汚れた手を合わせて何かさかんに唱えていたそうです。近づいてみると、塚から血のような朱がべっとりににじんでいるではありませんか!「ばちあたりめ、塚を掘ったな!」と新兵衛が言うと、青年は正気に戻って「おらだけでない、死んだ平吉も掘ったんだ」と答えました。「盗んだものをもとに戻したのに赤い血が吹き出て、土をかけてもかけても、止まらない。だからお祈りしていたんだ」と言ったそうです。新兵衛が塚の穴を土で固めると、赤い血は止りました。しかし、青年は血を吐いて死んでしまったそうです。
騒ぎが収まった頃、村人たちは祟りを恐れて古墳の頂に祠を建てて鳥居を作り、「吾妻神社」を祀りました。その後、日露戦争のころにはこの神社は靈驗あらたかな弾よけの神様として評判となり、盛況を呈したそうです。
画像は、野毛大塚古墳の墳頂部のようすです。現在は、整備が行われたことにより、埋葬施設の位置や出土した遺物のようすがわかるようになっています。

前方部と造出部のようすです。
昭和6年(1931)には、当時の目黒蒲田電鉄が大塚を中心としたゴルフ場を開設。野毛大塚古墳はゴルフ場の築山となっていたようです。昭和10年(1935)に発刊された『武蔵野』には、後藤澄氏著「等々力ゴルフ場内の古墳」という野毛大塚古墳に関する論文が掲載されており、この中で「コースの邪魔になりますから取り潰す筈で御座いましたが、請負つた者に病人が出たり亡くなつたりされまして工事をやりかけてそのまゝにしてあります。」と、昭和の時代に存在した祟りの伝説について記されています。
その後、戦争の激化に伴い、ゴルフ場は廃止。戦中から戦後にかけては畑地転用され、古墳の墳丘は八段もの段々畑となってイモが植えられていたといわれています。墳丘を覆っていた葺石はこの時期に取り払われてしまったようです。

画像は、世田谷区郷土資料館に展示されている、組合せ式の箱形石棺のレプリカです。明治時代に地元の青年たちにより掘り起されたのがこの石棺ですが、墳頂部の中央ではなく東側に位置するこの主体部が掘り起されたということは、この時期には主体部の一部が露出していたのではないかと考えられます。
古墳は、墳丘の復元整備に伴う発掘調査が平成元年から4年間かけて実施されています。埋葬施設は、この組合せ式の箱形石棺(第2主体部)のほかに、中央部にほぼ主軸と重なり合う形で粘土槨と割竹形木棺による第1主体部が、それに平行する形でその北西側に箱形木棺による第3主体部が、さらにその北西に隣接して木棺による第4主体部が確認され、合せて4基の存在が明らかとなっています。特に第1、第3主体部から出土した武器武具類は、関東全域においても群を抜く豊富なもので、こうした大量の武器武具類を副葬品とするのは、百舌鳥・古市古墳群を中心とする畿内政権が造営した古墳の特徴であるとされています。
「野毛大塚古墳(西岡8号墳)」その2に続く。。。
<参考文献>
世田谷区立郷土資料館『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』
世田谷区郷土資料館『資料館だより No.65』
野毛郷土史編集委員会『野毛の昔話 明治後期~大正初期』
現地説明版
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- 2018/01/01(月) 00:00:00|
- 世田谷区/野毛古墳群
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画像は、世田谷区上野毛にある「稲荷丸古墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号251番の古墳として登録されています。
この古墳は、武蔵野段丘の国分寺崖線の縁辺部に所在します。この周辺は「上野毛稲荷塚古墳」や「野毛大塚古墳」、「御岳山古墳」といった多くの古墳が残されていて「野毛古墳群」を形成しています。この古墳群の西端に位置するのがこの稲荷丸古墳ということになるようです。

墳頂部にはかつては祠が祀られており、そのために石段が設けられています。墳頂部の規模は、南北約14m、東西約10mと広い平坦面となっていて、かなり削平されているようです。径20m前後の円墳と考えられていて、築造時期は遺物などがないためわからないようです。
以前、現地に設置されていた立て札には「北稲荷丸古墳」と刻まれていたのですが、これは最近「稲荷丸古墳」と修正されたようです。また、墳丘上にも「稲荷丸古墳」と刻まれた石碑が建てられたようです。

「稲荷丸古墳」の裏面のようす。「この地は隣接する遺跡(稲荷丸北遺跡)の発掘調査により竪穴内点在貝塚を含むなど縄文時代の前期後半の竪穴式住居も見つかり都内では珍しい諸磯期の集落址が確認されている」と刻まれています。
この古墳は五島美術館の庭園の築山として利用されているため、墳丘の周囲を石仏、灯籠、井戸の石組みといった石造物がめぐっています。一時期は、庭園の工事のために見学することが出来なかったようですが、平成25年(2013)の4月6日より公開されていて、庭園のみなら300円で入場することが出来ます。古墳以外にもなかなか見応えのある庭園です。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会・稲荷丸北遺跡第3次調査会『稲荷丸北遺跡Ⅲ』
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- 2017/12/30(土) 01:17:58|
- 世田谷区/野毛古墳群
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画像は、世田谷区上野毛2丁目のにある「稲荷丸塚古墳」を北から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号220番の遺跡として登録されています。
『東京都遺跡地図』によると、古墳の規模は径8m、高さ2mとされており、「中世か近世の塚」とされているようですが、『世田谷区埋蔵文化財調査年報』などに掲載されている野毛古墳群の周辺地図などの最近の資料では、「稲荷丸塚古墳」という名称で掲載されています。『野毛古墳まつり』の際に、世田谷区の学芸員の先生にお聞きしてみたところでは、この稲荷丸塚は古墳という扱いで良いのではないかというお話でした。
後の大田区立郷土博物館の館長である西岡秀雄氏は1930年代に荏原台古墳群の調査を行っており、かなり詳細に古墳の分布状況を報告していますが、この稲荷丸塚古墳は把握されなかったようです。当時確認された古墳は(塚も含まれていますが)「西岡第××号古墳」と命名されていましたが、この古墳にはこの名称は付けられていません。この古墳が所在する「上野毛自然公園」はかつては庭園だったようですから、五島美術館の敷地内に所在する「稲荷丸古墳」と同様に、さすがの西岡氏も確認することが出来なかったのかもしれません。
古墳は現在も、国分寺崖線上の上野毛自然公園内に現状保存されており、いつでも見学することができます。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/29(金) 01:05:49|
- 世田谷区/野毛古墳群
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「上野毛稲荷塚古墳」は、世田谷区上野毛2丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号115番の古墳(前方後円墳)として登録されています。
この古墳は多摩川に面した国分寺崖線上に立地しています。この周辺では5世紀を中心とする南武蔵の首長墳が連続して築造されており、多摩川に向かって突き出るような形で連続して存在する舌状台地上に、点々と古墳が造られています。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』の上野毛村の項には「四ツ塚 村ノ東ヨリノ北ノ方、道ノ傍ニ塚四アリ。高サ何レモ三尺バカリナリ。モシ古墳ニヤ。其事蹟ヲ伝ヘザレバ詳ニセズ。人誤テ此塚ヘ手ヲフルレバ大ニ祟アリト云。此地ノ字ヲ四ツ塚トイヘリ。」とあり、この上野毛稲荷塚古墳(西岡5号墳)も含めて、周辺にかつて存在したと考えられる多くの古墳について記されています。
また、その後の1930年代に行われた、西岡秀雄氏による荏原台古墳群の分布調査の際にこの古墳は把握されており、この上野毛稲荷塚古墳は「西岡5号墳」の名称で広告されています。この調査結果が掲載されている『考古学雑誌』には次のように紹介されています。
第五號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字上野毛
新地名 東京市世田谷區玉川上野毛町田中氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 原形を保ち立派な稲荷祠が其の墳上にある。未發掘と聞くも詳細不明である。高さ約五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309ページ)
画像が、現在の上野毛稲荷塚古墳のようすです。この古墳は、平成7年(1995)に第1次調査が実施されており、この調査により主体部が粘土槨であることが判明し、墳形については前方後円墳の可能性が指摘されています。規模は、墳丘長20数メートル、高さ3mと推定され、この調査後に上野毛稲荷塚古墳と名称が変更されています。さらに平成21年(2009)2月~3月にかけて第2次調査が行われており、主体部には粘土槨、割竹形木棺が採用されていることが確認されています。築造は4世紀後半と推定されているようです。
墳形は円墳の可能性が残るものの、現時点では前方後円墳と考えられており、後円部の直径は21mとされています。葺石や埴輪の痕跡はなく、野毛大塚古墳以前に築造されたと推定されています。

1930年代の分布調査時に確認されていた、墳丘上にあったとされる「稲荷祠」は墳丘の裾のあたりに移されているようです。現在も地元の人に丁寧に祀られているようすが伺えます。
この古墳は平成9年4月に世田谷区に寄付されているそうですが、普段は入口の扉が施錠されていて敷地内を見学することは出来ません。このあたりは防犯上の都合もあり、なかなか難しいようです。
入口付近に、世田谷区教育委員会による説明板が設置されています。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
世田谷区教育委員会『1995年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会『2008年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
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- 2017/12/28(木) 23:33:27|
- 世田谷区/野毛古墳群
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「スクモ塚(西岡6号)」は、世田谷区野毛3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号128番の古墳(円墳)として登録されています。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「字小金沢ニアリ。大塚ヨリハ北ノ方ナリ。是モソノ故ヲ詳ニセズ。」と記載されており、この古墳は江戸時代にはすでに知られていたようです。
その後、1930年代には当時大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により荏原台古墳群の分布調査が行われており、当時の記録によるとこのスクモ塚は「西岡6号墳」の名称で次のように紹介されています。
第六號古墳(俗稱)『狐塚』
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字下野毛字大原
新地名 東京市世田谷區玉川野毛町渡邊熊次郎氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 畑中にあり封土の周圍多少崩壊し、土器片の露出散落を見るも未發掘のものである。貝殻が表面にあつたとも云ふ。高さ約二米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309~310ページ)
その後、この古墳の正確な跡地はわからなくなっていたようですが、平成23年(2011)5月~6月にかけて行われた発掘調査により周溝が検出され、正確な古墳の跡地が確認されています。周溝外周径は約34m、墳丘径は約20mと推定されており、埴輪片の他、土師器、須恵器、縄文土器、石器などが出土しています。
画像は、野毛古墳まつりで公開されていた、発掘調査により出土したスクモ塚古墳の埴輪片です。古墳の築造は、6世紀後半と考えられているようです。

発掘調査報告書と照らし合わせてみて、じゃあこの地点は古墳の残存部分ではないのか!と独りで気持ちを高ぶらせた場所がこの謎の三角地帯です。(笑)。いや、あくまで墳丘は削平されて存在しないわけなのですが、この場所にも墳丘がかかっていたと思われますので、一応「跡地」ということで。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『2011年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
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- 2017/12/27(水) 20:29:54|
- 世田谷区/野毛古墳群
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