
画像は、世田谷区松原1丁目に所在する「神道扶桑教」本部(大教庁)を南から見たところです。この神道扶桑教の教会内には、「松原のお富士さん」と呼ばれる富士塚が所在します。

鳥居をくぐって、南から見た境内のようす。
左に見えるのが本殿で、右に富士塚が見えます。
この神道扶桑教は、江戸時代に庶民の間でブームとなった富士講の流れをくむ宗教団体で、明治15年(1882)に明治天皇の勅裁により国家公認の教派神道の一派となり、昭和27年(1952)に包括宗教法人となっています。
当初は、芝区神明町(現在の港区浜松町)に華頂宮旧邸を移築して本殿風に改修し、そこに富士塚を造って教会としましたが、その後、世田谷区松原の現在地に移設。当時、富士塚もこの地に移設されており、高さは約10メートルもある大きなもので、地元では「松原のお富士さん」として知られた存在であったようです。
しかしその後、昭和20年(1945)5月の東京大空襲によりすべて焼失。平成29年(2017)7月9日に、平成の富士塚として復興開山されています。

画像が平成の富士塚「松原のお富士さん」です。
現地の説明板には次のように書かれています。
松原のお富士さん
神道扶桑教富士塚 松原富士遺構
神道扶桑教の起源は元亀三年(一五七二)富士道開祖藤原東覚角行師が
戦国乱世の荒廃した世を救うため「天地平安 萬人安福」を真願として
富士道を開かれたことに遡ります。角行師が御神威を篭めて謹製奉願した
ご神鏡は富士講により代々受け継がれ此処、扶桑教太祠に奉斎されています。
江戸時代には全国各地に多くの富士講が組織され富士山への登拝修行が行われ
ました。明治時代に入り初代管長宍野半が多数に分立していた富士講を統合し
「富士山 日本」を意味する「扶桑」を教団名として明治十五年(一八八二)に
明治天皇の勅裁を賜り「神道扶桑教」を特立いたしました。
当初、扶桑教富士塚は芝神明町(現港区浜松町)に建立されました。
その後、太祠の移転とともに大正八年(一九一九)この地に移設。高さ約10mほどの
立派な富士塚でしたが昭和二十年(一九四五)五月二十五日の東京第三次大空襲に
より羅災し本殿他境内建物が全焼したため、現在は富士山内外八海八大龍神宮
を合わせ斎っています。
廻りに建つ石碑は芝神明町より移設したものです。
神道扶桑教 全国富士講睦

正面から見た松原富士。
表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれており、祠が祀られています。

ちゃんと胎内も設けられています。
う〜ん。いつもながら横穴式石室にしか見えない。。。

境内には、芝神明町から移設されたという多くの石造物が残されています。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/10/09(水) 02:25:17|
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画像は、世田谷区大蔵3丁目の大蔵団地内に所在する「石井土塚」を北西から見たところです。
この塚は、『東京都遺跡地図』では世田谷区の遺跡番号245番の「時代不明の塚」としながらも「方墳』とも書かれています。また、昭和63年(1988)に東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』には「石井戸塚」の名称で掲載されているようですが、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では「石井土塚」という名称で掲載されています。ちなみにこの地域は、町名にはなっていないものの「石井戸」(石井と井戸をかけて石井戸)という地名で呼ばれており、また石井戸は「石井土」とも書かれているようなので、どちらが正しい塚の名称なのかは何ともいえません。学術的な調査の記録は見当らず、発掘調査は行われていないようですので、塚の性格や出土品の存在などの詳細もわかりませんでした。

塚は石垣により方形に改変されており、この形状からは方墳であるようにも見うけられますが、南側に残されている塚の残土のようすからは、円形の塚であった可能性も考えられるのかもしれません。
『大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告』にはこの塚について「塚の祭り 大蔵団地の中の妙法寺領のところに塚があり、そこに妙法寺住職の玉田顯壽氏が大正7年2月9日に「石井神社舊地」と刻んだ石碑を建立した。一昨年よりその祭りを行うようになり、その際には経を唱え、子供達に甘酒を配り、石井戸囃子を奏じた。以後、何年か間隔をあけて行う予定だという。」とのみ書かれており、塚の性格についてはふれられていません。
この塚の周辺には「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」、「大蔵古墳群」などが所在しており、またこの塚の築造された立地的に考えても、この塚は古墳ではないのかなと考えてしまいますが、古墳であるある可能性はないのでしょうか。。。

墳丘上のようすです。『東京都遺跡地図』には塚の規模について「径5m、高さ1.5m」と書かれています。
画像は4~5年前のものですが、塚は今も健在であるようです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区民俗調査団『大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/20(水) 22:56:43|
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「星野塚」は、世田谷区桜上水2丁目に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号243番の"中世の塚”として登録されています。
この塚に関しては、記述のある文献が見つからず、詳細はわかりませんでした。『東京都遺跡地図』には赤い色の残存マークが記されており、径1.3m、高さ0.9mと規模についても記されているのですが、現地は周辺地域の宅地化が進み、塚が残されているようすはありません。
塚のご近所に長く暮らす古老の男性にお話を聞くことが出来たのですが、かつては、画像の城南信用金庫の裏側あたりに塚があり、頂部には祠が祀られていたそうですが、今から50年ぐらい前には塚は崩されて消滅してしまった、ということでした。
個人の邸宅内に、なんらかの塚の痕跡が残されているということは考えられれると思うのですが、路上から見渡した限りでは何も発見できず、残念ながら詳細のわからなかった塚です。もしまた訪れる機会があって何か発見できたら、あらためて更新しようと思います。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/19(火) 21:42:49|
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画像は、世田谷区船橋1丁目に所在する「船橋観音堂塚」を北から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号185番として登録されている、中世から近世に築造されたとされている塚です。
この「船橋観音堂塚」と、塚の所在する「船橋観音堂」について、世田谷区教育委員会より発行された『せたがや社寺と史跡』には次のように書かれています。
船橋観音堂は、宮坂の常徳院旧跡と伝えられる船橋の通称「穴山」または「御林」とも呼ばれている地点の南、百米余りの所にある。
創建年代は不明であるが、常徳院が宮坂へ移された以後の建立と考えられる。慶安4年(1651)・寛文5年(1665)の頃、鈴木半右衛門家の先祖が所有地116坪余りを寄進し、一族及び同志代々の霊塋守護、供養のため建立したものである。隣地境内に200坪余りの共同墓地がある。
此の鈴木家は、延宝年代(1673~1680)頃より享保14年(1729)まで3代にわたり、船橋村知行の徳川家旗本山本氏領5ケ村の宰領名主となっていた記録がある。鈴木家には正徳6年(1716)、宝暦8年(1758)などの堂宇に関する古文書及び現在に至るまでの書類が保存されている。現在のお堂は昭和11年に改築したもので建坪9坪、木造瓦葺入母屋造りである。
本尊は聖観世音菩薩座像で檜皮葺屋根の高雅な御堂造りの厨子の中に安置されている。厨子は間口奥行とも3尺、高さ約6尺。両扉には木造くりぬきの16の菊、五七の桐の吉良家の紋章が一対ずつ刻してある。
『世田谷城名残常盤記』によれば、足利氏時代の世田谷城主吉良氏寄進の仏像ではないか、また天文4年(1535)吉良頼康の時、その家臣内海掃部・鈴木藤三郎などは吉良氏側近の婦女子のため無実の罪を蒙り、横死したが後に無実とわかり尉霊の措置が取られたと伝えられているので、この観音堂もこの事件に起因するのではないかとも云われている。
堂の前、南側に老樹に固まれた古塚がある。高さ2m余り、頂に観世音石仏像を安置しているが、何か古事蹟を秘めているもののようである。塚の麓には鈴木・内海家及び一族の墓地がある。寛永・承応年代のものそれぞれ一基、その他慶安・延宝・元禄など古いものがある。
お堂は境内共同墓地使用者の保有するもので、宗派は限定できないが、古くからの使用維持者は曹洞宗常徳院の檀下である。
秋10月頃には、お十夜講が毎年おこなわれていたが、昭和17年頃から中絶されている。(『せたがや社寺と史跡』30~31ページ) 世田谷の住宅街にこんなに大きな塚が残されているとはちょっとびっくりですが、塚自体は墓地化が進んでいて全体の形状は少しわかり難くなっています。『東京都遺跡地図』によると、塚の規模は直径8m、高さ2mで、中世から近世の塚であると記載されていますので、どうやら古墳とは無関係であるようですね。。。

画像は墳頂部のようすです。「観世音石仏像」が祀られています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『せたがや社寺と史跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/18(月) 22:54:13|
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「西岡3号墳」は、世田谷区等々力3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号132番の古墳(円墳)として登録されています。
1930年代には、後に大田区立郷土博物館の館長を努めることになる西岡秀雄氏による荏原台古墳群の分布調査が行われており、この調査により「西岡4号墳」と命名されています。『考古学雑誌 第26巻 第5号』には当時の調査結果が記されており、次のように書かれていました。
第四號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字等々力字上原
新地名 東京市世田谷區玉川等々力町三丁目杉田吉之助氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 畑中にあるが、生垣を以つて圍ひ、封土上部には稲荷祠があり、未發掘と聞くも詳細不明である。高さ約二•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309ページ) 昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には、この塚の高さは1.5mと記載されていることから、昭和に入って塚はさらに小さくなっていたものの、何らかの痕跡(または伝承)が残されていたのかもしれません。同書には「塚の可能性も推定される」と書かれていましたが、『東京都遺跡地図情報』ではこの塚は「古墳(円墳)」とされています。
実は、私が初めて「古墳群」を詳細に巡ってみたのが大田区田園調布から世田谷区野毛にかけて存在する荏原台古墳群で、この4号墳周辺も散策しました。最初に歩いてみた8~9年程前(?)には、古墳の跡地とされる画像の道路の右側あたりに祠が祀られているのを見た記憶があるのですが、再度訪れた時(といっても3年程前)にはすでに見当らなくなっていました。『考古学雑誌』には、墳丘上部に稲荷祠が祀られていたことが記載されていることから、この祠の所在が気になるところなのですが、当時の記憶が朧げなうえに当時の写真も消失してしまっており、今となっては確認することは出来ません。
見学して廻ったときにすぐに記事を書いて更新しておけばよかったのですが、探検して歩くことのほうが楽しくなってしまっていたので仕方がないですね。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2017/12/17(日) 23:58:16|
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「西岡3号墳」は、世田谷区等々力3丁目に所在したとされる塚です。
古くは1930年代に、後に大田区立郷土博物館の館長を努めることになる西岡秀雄氏による荏原台古墳群の分布調査が行われており、当時古墳ではないかと考えられていたこの塚は「西岡3号墳」と命名されています。『考古学雑誌 第26巻 第5号』には当時の調査結果が記されており、次のように書かれていました。
第三號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字等々力字上原
新地名 東京市世田谷區玉川等々力町三丁目杉田吉之助氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 畑中にあり、現在殆ど消失せんとしつつあるが、封土上部に石祠及び植込みあり。以前直刀其の他を出したと聞いたが詳細不明である。高さ約一米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309ページ)
同書の記録では、直刀その他を出土したという伝承があるようなのですが、『東京都遺跡地図』ではこの西岡3号墳は、世田谷区の遺跡番号131番の「中世の塚」として登録されているようです。

画像は、塚の跡地ではないかと想定した地点に、石碑が建てられているそれらしき植込みが存在したことから取り上げてみました。わずかな地膨れ程度の高まりが見られることから、怪しい!と思える場所ですが、実は真相はわかりません。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には、この塚の「副葬品」の項に「鉄鏃、仏像」と書かれており、この仏像の存在が、3号墳が塚ではないかという根拠となっているのではないかと思われますが、学術的な調査の記録は見つけることは出来ませんでした。『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で以前公開されていた「遺跡一覧」の「遺跡の概要」の項には、この塚の高さは1mと記載されています。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2017/12/16(土) 23:53:33|
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画像は、世田谷区深沢5丁目にある「千部塚」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号212番の”中世から近世の塚”として登録されています。
『東京都遺跡地図』にはこの塚の規模について径3m、高さ1mと掲載されていますが、塚は東側を道路等に、また北側も宅地により削平されており、原型は大きく損なわれているようです。
「千部塚」という名称からして何か伝承や由来が残されているのではないかと調べてみたのですが、情報は非常に少なく、詳細は分かりませんでした。ちなみに神奈川県相模原市には同名の「千部塚」があり、大塔宮護良親王の三十三回忌に法華経千部を修し、供養塔を建立した場所であると伝えられているようですので、この深沢の「千部塚」にも何か宗教的ないわれがあるのかもしれません。

もう少し近くで見るとこんな感じです。近所のご主人との立ち話によるとこの周辺は昭和の初め頃までは一面に田園が広がっていたそうで、その中にぽつりとこの塚が所在したそうです。周辺には「鎧塚」、「侍塚(侍の首塚)」といった複数の塚が周辺に存在したようですが、所在はわからず、また現在の日体大の校庭あたりにも無名の塚があったといわれているようですが、こちらも所在がわからなくなっているようです。さらにこの周辺の「将軍塚」という塚は現存しているようなのですが、これも残念ながらどこにあるのかわかりませんでした。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区民俗調査団『深沢 世田谷区民俗調査第11次報告』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/12/07(月) 03:23:52|
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「栗原塚」は、世田谷区代田3丁目に所在する塚です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号204番の塚として登録されています。
この栗原塚は、「代田広場」という世田谷区立の公園内に残されています。かつてマウンドが存在したのかどうか不明ですが、現在は公園内の築山のような中に石碑が立てられており、碑には「狐塚之霊?」と刻まれています。
かつてのこの敷地は「栗原稲荷神社」という広い境内の神社が祀られていました。180坪余りの社有地と墓地があり、150mもある参道が鳥居の前から東に向って延びていたそうです。この神社にはある言い伝えが残されており、世田谷区生活文化部文化課より発行されている『ふるさと世田谷を語る』には次のように書かれています。
(前略)今ではその大半の土地には住宅が建っていて、神社は公園の片隅に祀られているのです。
この公園の中央には高さ一メートルほどの「狐塚の碑」と書かれた碑が建てられています。これは、昔この辺りが雑木林やスギ、マツ、ヒノキ、キリ、ウメなどの林、竹やぶなどの多かった所で、キツネ、タヌキ、イタチ、ノウサギなどが住みついていた場所であることと関係あるのです。
これら小動物の中で、キツネは稲荷信仰の神使として稲荷神社では大切に祀られていましたが、その一方で悪さをしたりする動物でもありました。
明治五年頃、この栗原では、病気になったり、不慮の事故にあったりする人が続出しました。行者にみてもらったところ、これはキツネに取りつかれたためだということになりました。そして行者の祈祷によって、人間に取りついたキツネの魂を引き離して、稲荷神社の境内に封じ込めたのです。狐塚の霊碑は、キツネの霊魂を祀った石碑なのでした。
今でも地域の有志の人々によって、建碑の明治三十二年三月六日に因んだ毎年三月六日には、交代で供物を捧げ、お参りしているということです。(『ふるさと世田谷を語る』54~55ページ)

実は私は20年以上も昔、狐に憑かれた人を見たという話を母から聞いたことがあります。それはかなり恐ろしい話で、鳥肌を立てながらその話を聞くとともに、そんなことが実際にあるんだなあと思っていました。「狐憑き」の話は全国各地に見られるようですが、母の話では、狐に憑かれた人は後ろから強く顔を引っ張られたように異様に吊り上がった目で、膝から下を折り曲げて膝で歩きながら「コーンコーン」を鳴きながら室内を徘徊したそうです。これが欧米であれば人に取り憑くのは悪魔(サタン?)となるのでしょうが、日本ではなぜ狐なのでしょうか。
画像は、塚上に立てられている石碑です。一部が欠損しており判読し難い状況ですが、「狐塚の霊碑」と刻まれています。『東京都遺跡地図』には栗原塚は近世の塚であるとされていますのでどうやら古墳ではないようです。。。
<参考文献>
世田谷区生活文化部文化課『ふるさと世田谷を語る』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/04/30(木) 00:25:42|
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「あたご山横穴墓」は、世田谷区奥沢1・7丁目に所在したとされる横穴墓です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号120番に登録されている横穴墓です。
この横穴墓について、『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』に次のように書かれています。
⑧横穴墳(よこあなふん)奥沢1-27
奥沢台地から吞川に下るあたりは湿地でした。昭和3年(1928)ごろ、この湿地や田や畑を埋立てるため、奥沢台地の東の斜面を切りくずしていました。その時、その斜面に50cm位の穴があきました。工事をする人と地主の和田さんが穴の中に入ったところ中には石をしきつめてあり、二体の人骨が発見されました。それがいつの時代のものかはっきりとはわかりません。現在は元の場所より5m離れたあたりに瓶に人骨をおさめて埋めてあります。(『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』7ページ)
画像が「横穴墳」の石柱です。ゴミ収集の場所になってしまっているのは残念なところですが、今生きている人の生活を考えるとこれも仕方のないところなのでしょうか。。。
<参考文献>
玉川石標を守る会『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/04/28(火) 01:01:22|
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「愛宕塚」は、世田谷区奥沢1丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には未登録の古墳です。
この古墳について、『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』に次のように書かれています。
⑨愛宕塚(あたごづか)奥沢1-27
奥沢台地の東南にあり、その下は涌水がありたんぼや畑が広がっていて、その向こうに吞川があります。村の人びとはこのこんもりと高くなったところを愛宕山と呼んでいました。塚の上にはツゲ、ツバキ、ヒイラギなどの大木が茂っていました。この塚の下から横穴墳の人骨が出たことなどから、古墳であろうと思われますが今では人家が建てられているので調べようがありません。塚の高さは奥沢台地で一番高いところでした。(『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』7~8ページ)
この『てくたくぶっく』とは、「てくてく歩いて拓本をとろう」という意味なのだそうで、世田谷区各地の名所・旧跡には拓本をとるための石柱が立てられており、「玉川の郷土を知る会」より地域ごとに全5巻発行されたA6版の小冊子には石柱の場所が記された地図や、解説が書かれています。一ヶ所1ページごとに拓本を取るページがあり、1冊すべての拓本をとると記念品がもらえるそうです。この愛宕塚のような言い伝えでのみ残されている消滅古墳がこういう形で取り上げられているのはなかなか良い企画だと思います。
画像が「愛宕塚」の石柱です。この石柱はてくたくぶっくに書かれているように奥沢台地の一番高いあたりにあり、かなり近い位置に古墳が所在したように思いますが、正確な古墳の跡地まではわかりませんでした。。。
<参考文献>
玉川石標を守る会『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』
- 2015/04/27(月) 00:19:40|
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