
大田区千鳥1丁目付近に所在したとされるのが「大塚古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号86番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳については、『人類学雑誌 第47巻 第1号』に掲載された中根君郎著「再び東京府下久ヶ原の遺跡に就いて」に記述を見ることが出来ます。同書には「此の地點は最もわかりやすい、と云ふのは目標となる大塚圓墳が此の丘陵の屈折するその突端に築かれてゐるから。」とあり、「俗稱大塚圓墳は工事の爲、一部分を切り取られたが、その古墳築土の表面に葺石の如きものを認め得る。」とも書かれています。「大塚」という名称の通りこの古墳はかなり目立つ存在であったようですが、葺石が存在したというのは気になるところです。
画像は、『東京都遺跡地図』に記されている「大塚古墳」の推定地周辺のようすです。画像の公園か、画像の左側にある集合住宅のあたりが古墳の跡地にあたるようですが、正確な古墳の跡地は特定できませんでした。公園の隅に不可解なマウンドが見られるのですが、まさかこれが古墳の残骸であるとも考え難く、他に古墳であると思われる痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
中根君郎「再び東京府下久ヶ原の遺跡に就いて」『人類学雑誌 第47巻 第1号』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/19(月) 11:53:25|
- 大田区/鵜の木久が原古墳群
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大田区久が原6丁目付近に所在したとされるのが「スリバチ山古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号83番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳については、『人類学雑誌 第47巻 第1号』に掲載された中根君郎著「再び東京府下久ヶ原の遺跡に就いて」に記述が見られ、「埴輪圓筒の破片もスリバチ山圓墳の近傍に零細な破片を折々採集したが、報告すべきものもない。が、ここに甚だ細小な破片であるが埴輪土偶の面部の一部分をスリバチ山で採集した。柿の種狀の目と、二本の直線で表現した夫々の眉毛は疑ひもなく土偶であつた。久ヶ原の埴輪の多くがそうである様に之も質は硬く黄褐色である。スリバチ山圓墳も現今では既に見られなくなつた時、一片の之は良き追憶のしるしとなつた。」と書かれています。当時すでに古墳は消滅していたようですが、埴輪片の出土について記されており、古墳が存在したことについては間違いないようです。同書には、「久ヶ原の埴輪の多くがそうである様に…」と、このスリバチ山古墳以外にも複数の古墳が存在したかのような記述も見られます。久が原の台地上において『東京都遺跡地図』に登録されている古墳は「スリバチ山古墳」と「大塚古墳」の2基となっていますが、他にも多くの未確認の古墳が存在していたのでしょうか。
周辺は宅地化が進み、古墳の痕跡を見ることは出来ません。『東京都遺跡地図』によると、画像の右側あたりが古墳の跡地となるようですが、正確な跡地はわからなくなっているようです。。。
<参考文献>
中根君郎「再び東京府下久ヶ原の遺跡に就いて」『人類学雑誌 第47巻 第1号』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/18(日) 23:35:14|
- 大田区/鵜の木久が原古墳群
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画像は、東から見た鵜の木一丁目横穴墓群六号墓です。
この鵜の木一丁目横穴墓群は「区立鵜の木松山公園」の東斜面標高約12mの地点に、7世紀後半から8世紀前半かけて構築されたそうです。なかでもこの6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓であることから、発掘当時の姿で保存されているそうです。

墓室は全長11.3mあるそうです。きれいに保存公開されていて、見学しやすかったです。
- 2012/07/16(月) 07:27:55|
- 大田区/鵜の木久が原古墳群
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