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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」

「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」1

 今回は、「鵜の木一丁目横穴墓群」です。
 以前に一度、取り上げたことがある横穴墓ですが、
 その後再訪して新しいカメラで写真を撮ったから、という浅~い理由でもう一度更新することにしました。

 まず最初の画像は、大田区鵜の木1丁目の「河原坂」を南西から見上げたところ。
 現在の鵜の木2~3丁目付近が多摩川の河川敷であったために「河原」の地名があり、この河原に出る坂道であることから「河原坂」と呼ばれるようになったといわれています。現在は切り通しとな理緩やかな坂道ですが、以前は道幅の狭い急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは難儀をしたといわれています。

 この由来ある坂道を上がった、区立公園として整備された敷地内の斜面が「鵜の木一丁目横穴墓群」の所在地です。


「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」2

 大田区立鵜の木松山公園の入り口。
 ちゃんと「埋蔵文化財保存箇所」の看板が立てられています。。。


「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」5

 画像が、「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」。
 入口のところに大田区による説明板が設置されており、閉塞石が展示されています。

 説明板には次のように書かれています。

鵜の木一丁目横穴墓群について
 多摩川流域の横穴墓は、古墳時代(六世紀末)から奈良時代(八世紀前半)にかけて、台地斜面に横穴を掘って造られた地域の有力者のお墓です。大田区周辺の台地斜面では、鵜の木台地をはじめとして、いままでにおよそ260基の横穴墓が発見されています。
 鵜の木一丁目横穴墓群は、「区立鵜の木松山公園」の東斜面標高約12mの地点に、七世紀後半から八世紀前半にかけて構築されました。昭和61年(1986)の公園造成の際に2基が、平成17~19年(2005~2007)の公園整備で4号~7号墓が発掘調査されています。
 なかでも6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓であることから、発掘当時の姿で保存しています。

6号横穴墓について
 6号墓は、墓道と羨門および墓室からなり、全長11.3mと長大です。
 墓道は切り通し状で、被葬者を墓室へ運び、墓前祭を行う場所で5.9mあります。
 泥岩製切石の羨門は、高さ1m、幅0.7mあり、3段積の切石で閉じられていました。
 墓室は徳利を半分に割った形で、全長5.4mです。被葬者は墓室奥に、礫敷きの棺台に3体埋葬されていました。3体は、20歳前後2体と30歳以上1体です。うち1体は、20歳前後の女性と判明しています。
 3体の被葬者が追葬されていることから、6号墓は、有力者の家族墓と考えられます。
 6号墓は、その形態と付近の横穴墓の年代から、奈良時代前後(いまから1300年前頃)に造られたと考えられます。



「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」3

 横穴の内部に入ることは出来ませんが、横穴墓内部は照明が取り付けられており、横穴に近寄ると自動的に明かりが灯されて、透明な樹脂板越しに内部を観察することが出来ます。


「鵜の木一丁目横穴墓群 六号墓」4

 画像が、横穴墓内部の様子です。

 保存・公開の方法としては、世田谷区の「等々力渓谷横穴墓」や三鷹市の「出山横穴墓群」に似ていますが、東京はこのパターンなのでしょうか?「殿山横穴墓群」などは今後、どうなるんだろう。。。

 川崎や横浜では、コンクリートで塞がれて内部の見学はできないものの、横穴の位置がわかるように斜面に表示されている、というパターンをよく見かけますが、あれは現状保存されているわけですよね?「久本横穴墓群」や「熊ヶ谷横穴墓群」などがそんな感じだと思いますが。。。
 「市ケ尾横穴古墳群」なんかは、1基だけじゃなくて複数の横穴がそのまま整備されて保存されていることに感動しましたが、ガラスが濁って内部が見えなくなってしまったり、照明器具の老朽化によりやはり中が見えなくなったり、経年劣化による問題も出てきますからね。
 難しいです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2020/03/17(火) 23:37:58|
  2. 大田区/鵜の木・久が原古墳群
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「光明寺横穴墓群(體空碑)」

「光明寺横穴墓群」1

 画像は、大田区鵜の木1丁目にある「光明寺」です。
 過去に「光明寺荒塚古墳」や「弁天山」を取り上げたことのあるお寺ですが、『東京都遺跡地図』をよく見ると、このお寺の境内には高塚古墳だけではなく、「光明寺横穴墓群」という名称の横穴墓が登録されています。大田区の遺跡番号89番の横穴墓です。

 この光明寺境内には、かつてこの敷地内から発見された横穴墓から出土した遺骸のための供養塔であるといわれる「體空碑」という石碑があり、次のような碑文が刻まれているそうです。

 體空碑銘并序
維寛政六年三月十八日武州鵜木光明寺修池北崖穿木根入五尺
餘得古洞以石爲戸開西窺之可縦丈二横九尺中有死骸一頭瞳子
不壊爪甲不楽北首西面安臥如有神明誌不存時代不可得而知也
嗟夫以爲臥則釈氏唁之倣躰則禅定力之依自非具道徳戒行者焉
能如之蓋持法師之徒也住持進譽師頗異之遂奏 官封之如故既


 これではなにがなんだかさっぱりわかりませんが(笑)。
 要するにこの碑文には、寛政6年(1794)にこの敷地内から横穴が発見されたことが書かれており、「縦丈二横九尺」の規模と「以石為戸」という構造から横穴墓だったのではないかと考えられているようです。横穴内部からはかなり遺存状況が良好な人骨が出土しており、当時はこれを禅定者の入定穴であると想定して、體空法印と諡号して碑が建てられたようです。
 江戸期におけるこの周辺地域の横穴墓発見の例は多く、同じ鵜の木1丁目にある「増明院」には、当寺中興の際に仏前の供養の器と五股鉾が出土したという記録が供養塔の碑文に残されており、この碑文も横穴墓からの出土遺物を記録したものと考えられており、また、太田南畝の『半日閑話』15巻には、文化13年(1816)に池上本門寺での葬式の際に穴を掘ったところ石棺にあたり、出土した古骨5つを改葬したことが書かれており、これも横穴墓よりの人骨の出土の記録であると考えられています。


「光明寺横穴墓群」2

 実はこの體空碑、以前は御影堂の裏手に建てられていたそうですが、環状8号線の工事に伴う発掘調査の際に取り払われてしまったそうなのです。光明寺で住職にお聞きしたところでは、この石碑を祀るための敷地はすでに用意されているということなので、いずれはどこかに祀られて公開されるのではないかと思われます。
 が、訪れた日に見学することは出来ませんでしたので、體空碑の画像は無しなのです。面目ない。。。

 横穴墓がどこにあったか、正確な跡地はわかりません。
 このあたりかでしょうか。。。


「ぬめり坂の庚申塔と道標」1

 ちょっとおまけ。

 画像は、南久が原1丁目25番と2丁目30番の間の分かれ道の間の三角地にある「ぬめり坂の庚申塔と道標」です。
 ぬめり坂ってなんなんだよ〜とは誰しもが感じるところかと思いますが、『大森区史』には「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋となった。以来、その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁盛したという。」と、この坂の伝承について記されています。


「ぬめり坂の庚申塔と道標」2

 かれこれ30年ほど前の話ですが、確か環八で最後まで開通せずに残っていたのがこのあたりだったように思うのですが、北方から環八を走ってくると、いつもこの場所だけ数百メートルほどを細い道の迂回路を抜けていた記憶が蘇ります。
 発掘調査もやっていましたしね。
 もう開通できそうなのに、立ち退かない家主がいるのかなあと、何も知らない当時は思っていました。

 庚申塔の横ではなく、もう一本西側の道だったような気もするのですが、もうよく思い出せません。。。

<参考文献>
池上悟「古墳関連碑文考」『史誌 第28号』
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区史編さん委員会『大田の史話 その2』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』


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  1. 2020/03/16(月) 19:09:19|
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「増明院内横穴墓」

増明院内横穴墓1

 画像は、大田区鵜の木1丁目の「増明院」を東から見たところです。
 真言宗智山派、山号は青林山、寺号は金剛寺、旧本寺は高畑宝幢院であるこのお寺の境内には、かつて横穴墓が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には、「増明院内横穴墓」の名称で大田区の遺跡番号32番に登録されています。

増明院内横穴墓2

 寺伝によると、徳川家康の江戸入府の頃は修験者の住む寮であったそうですが、その後この付近を知行した青山因幡守が開基となり創建したと伝えらています。
 そして、境内には享保12年(1727)に建てられた供養塔があり、増明院中興の際の刻銘が刻まれています。
 画像がその供養塔で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはこの供養塔について、

 「供養塔 境内にあり。碑文の末に、享保12年とあり。其文の大略は元禄12年の頃映俊と云僧此地に来りすみ、宝永年中に至りて再興のことを企て、山を 鑿ち地を掘りしに、供養の器と五股鉾を土中より得たり。其さまいと古雅にて、後世冶工の手になりしものとも見えず。思ふに此地の道場は古きことにて、戦国の頃兵火のためにやきのこりしもの、土中に埋もれしならんと云ことを彫りたり是等のことをもて見れば、御入国以前より修験のるいおりし寮なることしらるべきなり。」

 と書かれています。


増明院内横穴墓3

 画像がその供養塔です。
 鵜の木、久が原周辺は横穴墓が集中して存在する地域ですので、この供養塔の碑文も横穴墓の考古学上の出土遺物の記録として考えられているようです。


増明院内横穴墓4
 
 増明院でお聞きしましたが、横穴墓は、画像の裏門の奥の大きな木の下あたりに開口していたそうです。
 危険であることから現在は埋め戻されている、ということですので、横穴は地中に残存しているのかもしれません。。。

<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/03/15(日) 18:57:18|
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「鵜の木一丁目15番古墳」

「鵜の木一丁目15番古墳」

 画像は、大田区鵜の木1丁目に所在する「鵜の木一丁目15番古墳」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号157番の古墳(円墳)として登録されています。
 
 この古墳は、東京都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の分布調査で存在が確認されています。古墳の残存部分は南北径17m、東西径10mで、周囲を道路や民家により切られているものの円墳であると推定されています。発掘調査等は行われていないようなので埋葬施設や出土品等についてなどの詳細はまったくわかりませんが、比較的良い状態で残されているようです。住所がそのまま古墳の名称に使われているという、東京都内では珍しい古墳ですね。


「鵜の木一丁目15番古墳」

 画像は、西から見た「鵜の木一丁目15番古墳」です。墳丘上に祀られている熊野社を見ることができます。古墳はかなり高さが残されているようにも見えますが、元の地面の高さがわからないので何ともいえないところです。
 

「鵜の木一丁目15番古墳」

 墳丘上のようすです。埴輪片が落ちていたり、また埋葬施設が露出しているようなことはないものかと観察してみましたが、敷地内に無断で入るわけにもいかず、確認することは出来ませんでした。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2015/12/03(木) 23:43:22|
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「三島塚古墳1号墳」+「三島塚古墳2号墳」

「三島塚古墳」

 「三島塚古墳」は大田区鵜の木1丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号158番の”古墳”として登録されています。

 現在は宅地化されて墳丘の存在しないこの「三島塚古墳」は大正時代末年に墳丘が削平されており、この際に出土した人物形埴輪(女子)の頭部、耳環、直刀は近くの「増明院」に保管されているそうです。その後、この古墳の正確な位置はわからなくなっていたようですが、平成5年(1993)の共同住宅建設工事中に埴輪片が発見されたことにより発掘調査が行われ、なんと2基の古墳の周溝が検出されています。
 1号墳は確認部分がわずかであったため形状が不明であるものの、確認部分はくびれ部の一部である可能性が考えられており、墳形は前方後円墳か帆立貝形古墳ではないかと想定されています。「三島塚古墳」とはこの1号墳であるようです。また、隣接して検出された2号墳は直径約25mほどの円墳であると推定されています。1号墳は出土した埴輪片から6世紀の古墳時代中期の、また2号墳は出土した五領期の壺形土器により、6世紀の古墳時代後期に属する古墳であると考えられているようです。

 画像は大田区鵜の木1丁目の「三島塚古墳」周辺のようす。この右側あたりが古墳の跡地となりますが、舌状台地の一番高い位置に古墳が存在したことがわかると思います。
 画像の左側、坂道を下ったところにはこの「三島塚古墳」の 遺物が保管されている「増明院」があり、またここから100mほど北西には遺跡番号157番の「鵜の木一丁目15番古墳」が、南東には「光明寺荒塚古墳」が現存しています。

<参考文献>
太田区立郷土博物館『大昔の大田区 原始・古代の遺跡ガイドブック』
太田区教育委員会『大田区の埋蔵文化財 第14集』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2015/12/02(水) 11:50:02|
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